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司馬遼太郎 Part12
http://2chb.net/r/history/1516287702/ 【凡例】
★小説・紀行では物語の場所もしくは旅の場所を示す(余談のときは、項目を示す)。評論文では、項目を示す。
▽作品に出てくる語句・文章
▼作品には出てこないが、背景を理解するために必要だと思われる語句
【注意】
このスレッドでは、司馬作品を忠実かつリアルに画像化しているため、エログロ画像が含まれています。
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【注意】
多くのユーザーの方々が、現在進行中の司馬作品一作に集中して、注釈を加えたり、議論をなさっておられます。
他の司馬作品に関して議論ないしおしゃべりをなさりたい方は以下のスレッドへお引越しをお願い申し上げます。
■■司馬遼太郎症候群について語るvol.3
http://mint.2ch.net/test/read.cgi/history/1365866256/ 司馬遼太郎の家康過少評価は異常
http://mint.2ch.net/test/read.cgi/history/1331922006/ 少しペースを上げないと、筆者が死ぬまでに終了しない。
最後の作品は、『街道をゆく』の「熊野・古座街道」になる予定。
第19章 退去(つづき) 〔一〕黒田清隆(つづき) ――故郷に帰られますか。 と黒田は問いたかったが、水面の魚をすかし見ることに熱中している西郷に問うことは、なにやら憚られるものがあった。維新第一等の功労者が、官職をすてて栄華の都府をあとにして故郷の山林に隠れようとしているのである。 黒田が何を問い、どう諫めようとも、自分の吐く息が生ぐさすぎるような気がして、物を言う気力も失せてしまったのである。 西郷はこのあと、何度か網を打った。黒田はそれを葦のあいだから眺めていただけで、結局はすべての思いを一礼に籠めて立ち去らざるを得なかった。
★日本橋小網町 ▽10月24日朝 黒田清隆は、西郷が辞表を提出して姿をくらましたということを知ると、西郷の寓居へすっ飛んで行った。 黒田は大久保の有力な働き手として征韓論つぶしに活躍したと書かれているが、この小説では特に何もしていない。
▽田中与助 前スレ〔930〕で「本章に登場する「田中」という下僕は、与助か市助のいずれかであろうか?」と述べたが、田中与助であった。 伊集院生まれの気のいい青年で、黒田が世話をして西郷の身辺の世話をさせていた。
黒田の反征韓論は、外征によって北海道開拓の予算が削られることを危惧してのことであった。
★向島 ▽独不適時情 独り時情に適せず 豈聴歓笑声 豈に観笑の声を聴かんや 雪羞論戦略 恥をすすぎ戦略を論じ 忘義唱和平 義を忘れ和平を唱う 秦檜多遺類 秦檜の遺類多く 武公難再生 武公再生し難し 正邪今那定 正邪いずれにか定めん 後世必知清 後世必ず清きを知らん
明治維新の功労者・西郷隆盛が、新政府の欧州追随姿勢に不満をもち、明治6年に陸軍大将の身で下野したとき、
>>15 の詩をつくった。
彼はひそかに岳飛の心境だったらしい。
▽秦檜 〈1090-1155〉 北宋の官吏であったが靖康の変で金に連行された。金で太宗が死に、熙宗の代となって淮水までの領土を確保し、それ以上の南進はとらないという方針変更があり、捕虜の秦檜も許されて南宋に戻った。 秦檜は金の意図を南宋の高宗に伝え、宰相となって和平論を推し進め、主戦論を採る岳飛を捕らえ、無実の罪で告発して獄死させてしまった。そのうえで、1142年に、淮河を国教として北を金、南を南宋が支配する状況を固定化し、金に銀・絹を贈るという条件で和平を実現した(紹興の和)。和平後も長く宋の宰相の地位に留まり、1155年に没した。
秦檜夫婦は、縛られてひざまずく像を中国・杭州にある岳王廟の中に作られ、棒で殴られたり、常につばを吐きかけられるので、乾く間もなかった。
西郷は、
>>15 の詩で、大久保を秦檜に仮託している。
▽岳飛 〈1103-1142〉
中国南宋の武将。字は鵬挙。相川湯陰(河南省湯陰県)出身。南宋を攻撃する金に対して幾度となく勝利を収めたが、岳飛らの勢力が拡大することを恐れた宰相・秦檜に謀殺された。
岳飛は後代、救国の英雄として称えられた。現代でも中国の歴史上の英雄といえば、まず岳飛の名前が挙がるほどである。
▽熊吉 西郷から日本橋小網町の屋敷の売却を委任されていた。 太政官は旧大名邸や旧旗本邸を、高官たちにタダ同然の値段で払い下げていた。西郷は小網町の屋敷を近畿財務局から250円で譲り受けたので、熊吉にその値段で買い手と交渉させた。 しかし、買い手は何かの間違えであろうと疑い、以後、熊吉を信用しなくなった。
▽越後屋の女中 女中という言葉は、元来、宮中貴族に使える女性への敬語であった。転じて、家事を手伝う女性の意味になった。
▽栃の老樹
トチノキ。司馬さんは「橡」と書かれることが多い。フランス語名「マロニエ:marronnier」として知られている。
サルトルの「嘔吐」で、主人公アントワーヌ・ロカンタンは、公園のベンチに座って目の前のマロニエの木の根を見た時、激しい吐き気に襲われ、それが“ものがそこにあるということ”が起こすものだと気づく。つまり、この吐き気は“実存に対する反応”だったのだ。
▽小舟
自分の原風景のなかにある川舟の情景を検索してみたが、思うようなものがない。
川舟がゆく水路の両岸はコンクリート護岸があってはならない。二艘の川舟がやっと離合できる程度の川幅で、周囲はすべて田圃というのが望ましい。棹を突くたびに、岸の蛙があわただしく水へ落ちこむ。
>>13 これで姓が不明なのは、市助だけになったな。
▽津田梅子
元治元年(1864年)- 昭和4年(1929年)
津田仙(旧幕臣・東京府士族)の次女として、江戸の牛込南御徒町(現在の東京都新宿区南町)に生まれた。
明治4年(1871年)、仙は明治政府の事業である北海道開拓使の嘱託となり、津田家は麻布へ移る。
開拓使次官の黒田清隆は女子教育にも関心を持っていた人物で、仙は黒田が企画した女子留学生に梅子を応募させ、同年、岩倉使節団に随行して渡米。5人のうち最年少の満6歳であった。11月に横浜を出港し、サンフランシスコを経て、同年12月にワシントンへ到着。
アメリカではジョージタウンで日本弁務館書記で画家のチャールズ・ランマン夫妻の家に預けられる。
▽津田塾大学
日本の英語教育・女子教育の先駆者である津田梅子が設立した女子英学塾を前身とする。東京都小平市津田町2-1-1に本部を置く日本の私立大学である。1948年に設置された。
女子差別撤廃条約批准、男女雇用機会均等法の設立時、津田塾大学卒業生の活躍がめざましく、一流大企業の重役、官公庁の女性職員の出身校が一貫して津田塾大学であり「津田マフィア」という言葉で呼ばれた。
学則に「キリスト教精神に基づく教育」を行うことが記載されており、礼拝が毎週行われ、キリスト教関連の科目が開講されるなどの宗教色が強い、キリスト教主義学校であるが、参加は学生の意思にまかされている。
▽内村鑑三
万延2年(1861年)- 昭和5年。前スレ〔80〕で述べた。
福音主義信仰と時事社会批判に基づく日本独自のいわゆる無教会主義を唱えた。
本章では、黒田清隆の追悼文を書いたことが述べられている。
▽川漁
「魚が逃ぐっ」
西郷が、下野にあたって黒田にいった言葉というのは、これだけである。
黒田はさっそく本所小網町の西郷邸をたずねたが留守であったので篠原邸へ出向いた。だが立錐の余地もない来客が内外を埋めつくしており、懇談することができなかった。 隆盛は小牧新次郎という護衛の従者を連れ、政府に辞表を奉呈したのち、編笠で顔をかくし、隅田川から小舟に乗り上流の小梅村にある元庄内藩の米問屋であった越後屋喜左衛門の別荘へ身を隠した。彼はそこで魚釣りと詩をつくる閑居の数日を過ごしたが、越後屋と懇意な黒田が訪ねていったので、二十八日に東京を離れ鹿児島へ帰っていった。
明治元年9月27日に、北越出征軍の総指揮官として、荘内入りした西郷隆盛は、帰順した荘内藩からの城受領を部下の黒田清隆に任せた。米問屋の越後屋も庄内。西郷、黒田、越後屋のつながりは、このときにできあがったのかもしれない。
第19章 退去 〔二〕西郷従道 「俺や、帰っど」 と、言ったきり、西郷はしばらく黙った。 従道もいうべき言葉がない。従道が西郷の敵方にまわり、もっとも戦闘的な謀将のひとりとして征韓論を潰してしまった以上、この敗れた兄に対していまさら何をどう言っていいかわからない。 西郷はべつに機嫌を悪くしている様子はなかったが、しかし沈黙し、沈黙は十五分ばかり続いた。 そのあと西郷がいった言葉というのは、意訳すると、 「自分は詐略を用いなかった。いっさい用いなかった」 ということを、ひどく小むずかしい漢文脈の言葉でいった。 別れは、それだけである。
従道も黒田清隆と同様に10月21日の売茶亭の大久保派の作戦会議に呼ばれたという叙述があるだけで、実際に征韓論つぶしのためにいかなる働きをしたのかが、『翔ぶが如く』には書かれていない。 黒田の場合と同様に、この兄との別れのシーンも、いまひとつピンとこない。
★岩倉邸 ▽幇〈ぱん〉 中国で経済的活動を中心とする互助的な団体。省外や海外などの異郷にあって同業・同郷・同族によって組織される。また秘密結社を指す場合もある。宋代に始まり、厳格な規約のもとに強い団結力と排他的性格をもつ。 黒田が征韓論では味方であった岩倉に、政敵であるはずの西郷の居所を明かさなかったことを指摘して、薩摩人集団が幇に似ていると司馬さんは述べられている。
★向島
▽小梅村
前スレ〔666〕に現在はない小梅村について書いておいたが、確認のためにもう一度いう。
ざっくり言うと、墨田川を挟んで浅草の東岸のあたりだ。
▽西郷の外政論 ロシア対策を基軸に据えた西郷の日韓清三国同盟に関しては、従道も基本的に同意見だった。 問題は韓国と清国の了解を得て、満州に対ロシア基地を築くべき時期であった。 反征韓論者の多くは、時期尚早論であった。
▽左宗棠〈1812年 - 1885年〉
士大夫の家系で、曾祖父・祖父・父は地元の教師だった。左宗棠は道光12年(1832年)に科挙で挙人の資格を得たが、進士には合格出来ず3回も落第したため、官僚への道を諦めて湖南で家塾の師となり、歴史や地理の研究に没頭していた。
自らを清末の諸葛亮と称していたため、大抵は変人扱いされていた。太平天国の乱の鎮圧に活躍し、洋務派官僚としても有名。中国では「清代最後の大黒柱」と非常に高い評価を受けている。
▽曾国藩〈1811年 - 1872年〉
1851年に太平天国の乱が勃発し清の正規軍である八旗が鎮圧にあたったが連戦連敗であった。長年うちに八旗は貴族化し弱体化していたのである。このため清国政府は各地の郷紳たちに郷勇と呼ばれる臨時の軍隊の徴募を命じた。
命を受けた曽国藩は複数の団練(地方有力者が自主的に組織した自衛のための民兵組織)をまとめ郷勇を組織させた。これが後の湘軍であり、湘軍が最終的に太平天国軍を破った。
▼郷勇 郷勇は兵乱終息とともに解散するのが原則であり、曾国藩は1864年に湘軍を解散したが、淮軍はひきつづき清朝の軍事的支柱として維持され李鴻章の権勢を保障した。湘軍も左宗棠など湘軍出身の大官僚によって実質上継承されていたが、日清戦争においてまず淮軍が壊滅し、ついで湘軍系も馬脚を現したことによって、非正規の郷勇が正規軍を代行する時期は終わった。 しかし袁世凱や段祺瑞が体現するように、淮軍は直接間接にのちの北洋軍閥につながり、湘軍系や各地の郷勇もまた近代中国における大小の地方軍閥の先駆となったのである。
▼洋務運動 アロー戦争に敗北した1860年から、日清戦争に敗北する1894年までの34年間にわたって行われた清朝の近代化を進めた運動。 アロー戦争の敗北後、列強の侵略と国内の農民反乱を防ぐには、西洋にならった産業の育成や、軍制の改革が必要であると考える漢人官僚が多くなった。漢人官僚の中心は、太平天国鎮圧の主力となった曽国藩とその部下であった左宗棠・李鴻章などであった。
▽左宗棠の福州船政局 彼らは上海など各地に近代的な造船や武器の製造工場を設立したり、陸海軍学校、外国語学習のための学校などを建設した。 李鴻章(淮軍)による上海の江南製造局(銃砲・弾薬と汽船製造)と南京の金陵機器局(大砲と火薬)、左宗棠(湘軍)による福州船政局(造船所)、崇厚(満州貴族)による天津機器局(火薬と砲弾)の四つが洋務運動での四大工場とされる。
洋務運動の理念は、中国の伝統的な文化や制度を本体とし、西洋の機械文明の技術だけを取り入れようという「中体西用」であったので、根本的な改革には至らず、政権を維持するためだけのうわべの改革に終わった。 その時期はちょうど日本の明治維新の時期と同じであり、近代化運動として両者が対比される。日本は統一国家の形成に成功したが、清では有力漢人官僚の私的な勢力である軍閥の形成が進み、結局崩壊した。軍閥は中華民国成立後も独立政権として各地に残存し、近代中国の統一国家の形成を阻害した。
また、洋務運動が行われていた1870〜80年代は、清朝が周辺諸国に有していた宗主権を、次々と放棄していった時期であった。 1871年、最初の対等な条約として日清修好条規を締結したものの、琉球帰属問題では74年の日本の台湾出兵により、事実上琉球を放棄した。また翌75年の江華島事件による日本の朝鮮侵出により、朝鮮に対する宗主権を脅かされることとなった。 また、ベトナムでは1858年のナポレオン3世のインドシナ出兵以来フランスが侵出し、1884年にベトナムを保護国化した。清はそれに抗議したが同年の清仏戦争で敗れて、天津条約(1885)を締結してフランスによるベトナム保護国化を認めた。
それでも清朝は命脈を保っており、ヨーロッパ各国は清朝を「眠れる獅子」と見て、洋務運動の成果を見守っていた。しかし、朝鮮問題から勃発した1894年の日清戦争は、清国の一方的な敗北に終わった。それによって列強は清朝の国力を見限り、98〜99年に一斉に露骨な分割競争を展開する。 その間、戊戌の変法という改革も頓挫し、外国の侵略に対する中国民衆の抵抗として起こった義和団の乱が鎮圧され、その約10年後に清朝は滅亡することとなる(1911年:辛亥革命)。
_____ /ノ ヽ \ / /・\ /・\ \ ご冥福をお祈りします |  ̄ ̄  ̄ ̄ | | (_人_)、 | | \ | | \ \_| /
▽イリ事件
イリ(伊犂)は現在の中国領新疆ウイグル自治区伊寧市。この地のイスラーム教徒が反乱を起こすと、ロシアが介入し出兵、事実上の占領下に置いた。ロシアは中央アジアの南方から勢力を伸ばしてきたイギリスが新疆方面に侵出することに対抗しようとしていた。
清朝はロシアに抗議し撤退を要求したがロシアは動かなかったため、1875年から左宗棠が指揮して作戦を展開し78年までに清領を回復した。1881年にイリ条約が成立、イリ地方は清朝領として確定した。
イリ事件は、1870〜80年代の清領の辺境における列強の侵出の一つである。他にチベットや雲南地方にはイギリスが迫り、清朝が宗主権を持っていたベトナムにはフランスが、朝鮮には日本がそれぞれ迫っていた。 左宗棠は、清仏戦争では光緒10年8月から翌11年(1885年)4月まで、欽差大臣として福建省沿岸の防衛を任命された。同年9月、72歳で福州で病死。
▽対露軟弱方針の朝廷
司馬さんの叙述だと、イリ事件は存在せず、左宗棠による新疆の清領回復もなかったように読めるので、注意してください。
ここでいう「対露軟弱方針」とは、イリ事件の前年(1874年)におきた海防・塞防論争における李鴻章の考えのことです。
ヤクブ・ベクの乱〔
>>47 のイスラーム教徒の反乱のこと〕を契機に南下したロシアに対して、左宗棠は直ちに新疆遠征の準備に取り掛かりました。しかし李鴻章がこれに反発、同治13年(1874年)に海防・塞防論争が起こりました。
左宗棠はロシアに対する陸上の備えの重要性を主張する塞防派の代表格であり、イギリスに対するために海軍を重視する海防派の代表格である李鴻章とは政治的に対立関係にありました。
新疆に関しても、弱体化した支配を立てなおそうとする左宗棠と、海軍に集中するために防衛の難しい新疆をロシアに割譲しようとする李鴻章との間では意見の相違があったのです。
論争は翌光緒元年(1875年)、軍機大臣文祥が賛成したため海防・塞防どちらも行う方針で決定され、欽差大臣に任命された左宗棠はヤクブ・ベクの乱により清の支配力が弱体化した新疆の軍務を担当し、新疆東部における清の数少ない拠点ハミで屯田持久策を採り、出兵を整えました。その後の展開は、
>>47 に書いてあるとおりです。
北方水滸伝では、本賽の養生所の三人の医者のひとりにすぎなかった文祥が、清朝の軍機大臣にまで出世したのか。
司馬遼太郎には「イリ十日記」という紀行があるが、このときまでにはイリ事件の勉強はしたんだろうな。
左宗棠を中心に、洋務運動時代=列強の侵略が露骨になった時代(1870〜80年代)の清国について長々と書いておりますが、眼目は、左宗棠が西郷隆盛を称賛する言葉を述べたというところです。 この挿話は、西南戦争のずっと後に、西郷従道が耳にします。ずっと後のことなのに、西郷従道が向島から小梅村に向かう途次で、司馬さんが勝手に考えています。明治6年の従道は、左宗棠の言葉を知るはずがないのです。
小梅村に向かう道中で、従道が考えたことだったら、まだ許せるのにな。 無理やり感が強い。
「街道をゆく」を書き始めてからの司馬さんは、時空を超越する技を覚えた。 マルセル・プルーストの技よりも、すごい技かもしれない。
しかし、“人間発電所”ブルーノ・サンマルチノの技には勝てない。
そんなブルーノ・サンマルチノも、電気ウナギには勝てない。
ブルーノ・マーズの“ブルーノ”は、ブルーノ・サンマルチノに似ていたことから幼少時代に付けられたあだ名だと言われているが、 ブルーノ・サンマルチノの顔とブルーノ・マーズの顔のどこが似ているのかサッパリわからない。
>>49 いちおう左宗棠は「新疆省を鎮定した」とは書いてあるよ。
その直後に、「武力解決を主張したが朝廷に容れられなかった」と書かれているから、わけがわかんなくなるわけで。
>>49 李鴻章が対露軟弱方針というわけではなく、四方を列強の軍に囲まれて、対ロシアを優先するか、対英国を優先するかの争いだよね。
春先、ドアノブに触れると、電気が飛んで指先が痛い。 俺もついに“人間発電所”。
それ、もういいからc(`・ω´・ c)っ≡つ ババババ
▽池上四郎 明治6年の征韓論は、おもにロシア対策であり、西郷隆盛は清国、韓国と連携してロシアに対抗しようとしたと考えられる。その証拠として、池上四郎を通して鈞差大臣の左宗棠に連絡をつけていた。 後日、弟の西郷従道は左宗棠から「惜しいかな、日本は西郷を容れることなく、その壮図を空しくさせ、しかも彼を殺してしまった。その損耗は清国におけるアヘンの害どころではない」といわれたという話は有名である。
西郷が旧庄内藩士酒井玄蕃〔前スレ934〕に語ったという内容を紹介する。
西郷は、米国公使レジェンドルから、ロシアと英国の戦争が近いと知らされていた。明治8年のイリ事件のことである〔
>>47 〕。
「英・魯の際に近く事起こり申すべきと、此の頃亜国(アメリカ)公使の極内の心付けもこれにあり」
西郷は、英国とロシアの対立を利用して、ロシアと戦争することを考えていたのである。英国と同盟するためには、英仏に北海道を貸し与えるくらいの策略を持っていた。これらの流れで、朝鮮との戦争を考えていた節がある。
この章では、左宗棠の談話を引用して、西郷隆盛が先覚者であったように書かれている。 筆者には、西郷の外政論は、失業した士族50万人の名誉と収入を守るための苦肉の策であったようにしか思えないのだが。
▽しかぶっ 薩摩弁で、オシッコを漏らすことである。
▽框〈かまち〉
床の端に渡す横木。
西郷の小梅村の隠れ家を訪ねてきたもうひとりの人物、高島鞆之助のことが蛇足的に述べられている。
▽高島鞆之助 前スレ〔890〕で述べた。天皇の側近団のひとりとして山岡鉄太郎、島義勇、吉井友実とともに紹介されていたあたりを思い出してみてくれたまえ。
高島は大久保の命で、従道が小梅村を訪ねた翌朝、西郷の動静を探りにきた。
第19章 退去 〔三〕西郷隆盛 西郷は、十月二十八日、東京を発つ。ついにかれは生涯かれの詩にいう「京華名利」の都府に帰ることはなかった。 西郷が同時代人にも後代のひとびとにも形容しがたいほどの詩的感情をもって敬愛されたのは、新政府における最高の栄爵につつまれつつ、それを捨てて孤影東京を去るというこのあたりの情景にあるであろう。 征韓論はこの時期の日本の現実からいっても、端的にいって愚論でしかない。しかしその論において、かれはこの時期の全国五十万の士族の不満と動揺というものを集約し、その解決を兼ねて既に樺太まできているロシアの東漸運動を、最終ぎりぎりの時期において未然に防ごうとした。 そのことが、かれにおける先王であり先師でもあった島津斉彬の遺志でもあり、かつ、幕末において路傍に斃れた無数の志士の怨念を果たす道であるとも考えていた。
▽我家松籟洗塵縁 我が家の松籟塵縁を洗い 満耳清風身欲僊 満耳の清風に身僊ならむと欲す 謬作京華名利客 誤って京華名利の客となり 斯已声不聴三年 この声聴かざることすでに三年
自分の家の松風の音が塵の浮世の縁を洗い去り 清らかな風が耳いっぱい吹き入って すがすがしい気持ちになり 何時の間にか仙人になってしまいそうな気がする。 思えば、自分はあやまって都の出て 名誉利益を追う旅の客となり この松風の声を耳傾けて聞かなくなって早3年になる。
徳澤園の階段の上のい壁に架かる揮毫は西郷隆盛のものである。
この揮毫は明治6年西郷47歳のとき、征韓論に破れ10月28日帰郷の途につき、11月10日鹿児島に着いた。まさにその日に作られた田園生活吟詠の第一声である。
▽清潔の徒 西郷は救いがたいほどの清潔の徒であり、濁流を見て水の濁りを嘆くという詩人気質があった。 この点で、西郷の先師である島津斉彬と異なっていた。
筆者も幼少期に勧善懲悪ドラマを見過ぎたせいで、西郷と同じです。 悪いことをすると、悪い宇宙人と戦っていたゴジラに申し訳ないという気持ちになります。
「例の性分」 といったふうに西郷の年少のころからの同志である大久保が、愛憎の血を泡だたせつつ罵るのはそのあたりであろう。 詩的行動者が大衆の喝采をうけ、踏みとどまって実務という泥をかぶらざるをえない職人的現実主義者が奸物という汚名を蒙らざるを得ないことを、大久保はよく知っていた。
★日本橋小網町 ▽小梅村 西郷は向島小梅村に5日間いて、10月27日の午後、越後屋の寮を出た。
▽10月24日付太政官文書 陸軍大将以外の辞表を受理した。
▽10月28日朝 品川から船に乗るために日本橋小網町の家敷を出た。 従者は竹内矢太郎ひとりであった。 竹内矢太郎は、市助と同じ薩摩谷山出身。Part11〔267〕Part12〔340〕
▽種子田定一 西郷の近所に住む老婆から、西郷の風貌を質問された薩摩人。 どのような人物かは、わからない。 架空の人物かもしれないが、鹿児島県薩摩郡さつま町に「柏原種子田」という地名はあるし、神風連の乱で殺害された熊本鎮台司令長官種田政明は「種子田」政明と表記されることがあるので、実在した人物かもしれない。 ただし、「種子田」政明が定一を名乗ったことはない。
司馬遼太郎の本名が福田定一なので、オリキャラくさいな。
第19章 退去 〔四〕桐野利秋 「おきよ、おきよ」 と、鞍の上から大声で呼ばわった。門内に入らないどころか、馬から降りようともしない。 「いるか、おきよ」 と呼ばわるうち、女が何事かと思って転ぶようにして出てきた。 桐野は馬上から、 「俺はゆえあってこのたび官を辞めて帰国する。あるいは今生では再び会えぬかもしれぬが、身のふり方は勝手にせよ。これは形見と有金である」 というなり、短刀一口と財布を投げ、投げるや馬首をめぐらして颯々と去ってしまった。
しかし鶴田浩二や高倉健が桐野利秋を演じることは絶対にありえない。 幕末の暗殺者のイメージと西郷を自害へ追いやった人物として、いまいち人気がない桐野。
「翔ぶが如く」で司馬さんは颯爽とした桐野の一面を強調されるが、俺は桐野が登場するたびに早く消えろと思ってしまう。 無学な桐野に親近感はもてないな。
>>85 >「おきよ、おきよ」
「おきよ」の名前を二度呼んでいるのか、寝ていたおきよを起こしているのか、前に読んだときも悩んだ。
★有馬藤太 ▽有馬純雄 第4章「情念」の中村楼騒動で中心人物として登場した。Part11〔385-387〕で述べた。 有馬純雄は、明治政府に出仕して弾正台や司法省官吏を務めた。明治六年の政変で西郷隆盛が下野したときに辞職し、銀座煉瓦街で代言人の看板を立てる。 明治10年の西南戦争に際しては、大阪で有志を募り挙兵して、その功で西郷軍に加わろうとしたが、警察に仲間が摘発されて失敗し、有馬も1年ほど拘束された。
▽畷〈なわて〉
1.田の中の細道。あぜ道。
2.まっすぐな長い道。
京の四条の店先で有馬の喧嘩を中村半次郎が見ていたというのであるから、ここでは2の意味である。
※酒呑畷古戦場跡(本章とは無関係であるが、畷のイメージにぴったりなので掲げた)
有馬藤太と近藤勇の関係については、短編集『余話として』の「有馬藤太のこと」で詳しくやる。
有馬純雄(藤太)は司法省出仕の時に、西郷の辞職に遭遇した。
有馬も辞職し鹿児島へ帰ろうとしたが、西郷の意向もあり東京に残って代言人となった〔
>>90 〕。
西郷の辞職を契機として、近衛軍士官他の大量の辞職者が続発する。結果的に、当時の政府首脳である参議の半数と軍人・官僚約600人が職を辞した。 その一人めとして有馬純雄が取り上げられている。
★湯島切通坂
▽切通坂
桐野は湯島切通坂にあった元大名屋敷に住んでいた。その大名とは家康の四天王の一人榊原康政の榊原家である。明治維新で桐野利秋の所有となり、後に西郷隆盛とともに利秋が鹿児島に帰るとき、岩崎弥太郎の所有となった。
戦後、最高裁判所の司法研修所となった(昭和46年)。ただし現在の司法研修所は埼玉県和光市にある。
▽榊原家 榊原家が越後高田藩15万石を治めたのは、寛保元年(1741年)からである。 姫路藩主榊原政岑は、吉原での乱行を咎められ、将軍徳川吉宗から隠居を命じられたため、長男の政純が家督を継ぎ、姫路藩から高田藩に国替えを命じられた。父に対する懲罰と、幼少の藩主では西国の要である姫路藩主は務まらないとしての転封である。
▽死生命有り、富貴天に在り。 桐野が好んだ名言。出典は『論語』。 生きるも死ぬも天命で決まったことだから人の力ではどうにもならない。 また、富を得られるかどうかも運次第である。だから上手く行かなくても悩んでも仕方ない。ただし、どうせ天が決めるのだからといって努力を怠っていいわけではない。天は努力を怠る者に成功を与えない。...
▽綾小路貞利 桐野のサーベル拵えの軍刀を打った山城鍛冶。 司馬さんは刀工の名前を根気よく引用されるが、覚えきれないし、実物の日本刀を見たこともないので、どうでもいいといやあどうでもいい。
うちには錆びた道中脇差ならあったぞ。どうせ鈍らだろうが。
★太政官正院 ▽10月24日朝 西郷は辞表を提出するについて桐野に相談したわけではないので、桐野がその事実を知ったのは翌24日であった。 桐野も誰にも相談することなく、太政官正院に赴いて辞表を書いた。
▽文久2年 西郷は大久保に手紙を書いて、長州系の浪士と付き合いのある中村半次郎(桐野)に長州の動向を探索させようと言っている。 文久2年当時、西郷は徳之島さらに沖永良部島への遠島処分を受けていたはずだが、司馬さんは、西郷が遠島中も中央の動静に気を配り、様々な差配をしていたことにしたいようである。実際には、何もできないと思うが、ご苦労なことである。 なお、西郷が遠島を解かれ鹿児島に帰ったのは、元治元年(1864年)2月28日である。
時系列で書かれた小説やドラマであれば、遠島中の西郷を中央政治の動向にからませるのは理解できなくはない。 遠島中の西郷だけを描いても、読者・視聴者には退屈であろうからな。 しかし、司馬さんのように時間・空間を自由に選んで書くスタイルで、西郷を中央政治にからませる必要はないと思う。
▽西郷の桐野観 西郷が征韓軍の大将に桐野を推していたのは、桐野へのお世辞のような気がする。 篠原国幹が近衛兵の統括者であったのに対して、桐野は陸軍裁判所の長官という閑職にあった。 桐野自身は篠原に嫉妬してはいなかっただろうが、この点について西郷は桐野に気を遣っていたと思う。
西郷は遣韓大使として韓都で死ぬつもりであった。 現実に征韓をすれば日本がまずいことになるという認識では、反征韓派と同じであったかもしれない。 しかし、特権を奪われた士族の不満という国内問題について、これを鎮静化するのも日本政府の重要課題であった。 その不平士族が征韓派であった。「噴火山上で昼寝をしているようなものだ」という西郷の苦悩は、この間の機微を物がったっている。
西郷は桐野ひとりに対して、征韓論が敗れれば一緒に郷里に帰ろうと言ったという。 東京は篠原冬一郎に任せておけばよいとも。 征韓論の巨頭であった桐野を郷里へ連れ帰ることで、征韓論を鎮静化させようとしていたとさえいえるのではないか。
出世欲や野心の強い人物の考えていたことは、後世の我々に理解しやすい。 思考が直線的なのだ。おそらく現実社会でそういう人物に接してみると、嫌な奴に違いない。 西郷はどちらかというと普通の人物だ。普通の人物だからこそ、逆方向からの二つの圧力の板ばさみになったときは悩む。 後世は悩みの断片を拾い集めて、先人の考えたことを再構成しなくてはならないから、普通の人物の考えたことは理解しにくくなる。
まあな。悩みは人間の内部にあるもので、文章や言葉にして表に出すときは、悩みの部分は伏せられるからな。
西郷が桐野を高く評価していたというのも、実は表に出た部分。 心の中では、桐野への評価はそれほどでもなかったかもしれない。 とくに熊本鎮台長官から陸軍裁判所長官への左遷は重要。 秀吉の征韓軍の二人の大将は、ともに肥後の大名だった。後方の補給基地は、肥前の名護屋であった。 桐野を熊本に置いておくのはまずいと考えたのは、誰なんだろうな。
▽藤田東湖 世上一般十に七八は小人なれば、能く小人の情を察し、其長所を取り之を小職に用ひ、其材藝を壺さしむる也。小人程才藝有りて用便なれば、用ひざればならぬもの也。去りとて長官に居ゑ重職を授くれば、必ず邦家を覆すものゆゑ、決して上には立てられぬものぞ。
▽面晤 面会すること。会って話すこと。面談。 「晤」には、互いに向かいあう、面と向かって話しあう、悟る、ぴんと思い当たる、等の意味がある。
桐野と西郷の思想の共通点は、次の西郷の言葉に代表される。 「正道を踏み、国を以って斃るるの精神無くば、外国交際は全かるべからず。たとひ国をもって斃るるとも、正道を践み、義を尽すは政府の本務也。政府の本務を堕しなば、商法支配所と申すものにて、さらに政府にはあらざる也」
▽服膺 心にとどめて忘れないこと。 「膺」は胸。「服」には、身につける、帯びる、の意味があり、「服膺」で胸(心)にとどめるの意味になる。
▽仮題「征韓論の顛末」 「桐陰仙譚」のこと。 明治7年の台湾出兵ののち、石川県士族石川九郎・中村俊次郎が桐野を訪ね、明治六年政変および台湾出兵の内情について質問したときの応答「桐陰仙譚」が、新聞『日本』及び『西南記伝』上巻に残っている。 日本の当時の政情の説明においてすら事実誤認が多く、各国の情勢判断もひどく粗大で、桐野はとうてい一国の運命を委ねることのできる男ではなかった。
倒幕維新の達成には、桐野のような男の力も必要であったが、新政権を成立させるためには、桐野は無益なばかりか有害ですらあった。
新政府の要人を手形の記載事項の分類にたとえると、 必要的記載事項……大久保利通 有益的記載事項……木戸孝允 無益的記載事項……西郷隆盛 有害的記載事項……桐野利秋
桐野はチャンバラ活劇の人であって、政論の人じゃないからな。 戊辰戦争で死んでいれば、土方歳三クラスのヒーローになれたかもしれないのに、10年長生きしたばっかりに嫌われ者になった。
バカは思いっきりバカじゃないと人気者になれない。 中途半端なバカは嫌われる。バカに陸軍少将という高い身分が加わると、なおさら。
>>117 おまい、半次郎に芋を盗まれたからって、それは言い過ぎ。
実像とはほど遠い誤ったイメージを持たれた敗者は多い。桐野利秋などは、その典型だろう。 今日に至るまで、桐野が誤解されている第一の原因は、「人斬り半次郎」という異名を世間から賜ったことにほかならない。これにより、志士や軍人というよりも殺し屋という印象が強くなり、さらに出自が低く、さして学問も修めていなかったことから、野蛮な男と目された。 その極め付きとして、「西郷隆盛を西南戦争に駆り立て、死に追い込んだ男」という評価が定着したわけである。
▼同時代人による桐野評
◇高島鞆之助〔
>>71 〕
「竹を割ったような正直で剥き出しな性質」「男らしく潔白で豪放」「さっぱりした快濶な男」
◇佐土原藩の富田通信(みちのぶ)
「功に奢らず謙遜なる人」「至って勇猛にして敵ならば鬼を挫く勢いでありながら、また至って愛情深き人」
◇肝付兼行 「実に磊落な淡泊な性質の人で、何人に対しても障壁を設けることをしなかった。上下貴賤の差別なしに誰が来ても同じ部屋に通し、遠慮なしに話をするのが常だった」 ◇西郷隆盛 「彼をして学問の造詣あらしめば、到底吾々の及ぶ所にあらず」
>>116 土方歳三がヒーローになったのは、司馬の『燃えよ剣』からだよ。
それ以前の映画、あるいは、それ以後もだが、ヒーローは近藤勇で、土方は冷血漢の扱いだった。
近藤をヒーローにするために、新撰組の都合の悪いところは、すべて土方が裏でこそこそやっていたことにされていた。
西郷の無瑕性を強調するために、桐野は土方歳三と同じように、泥をかぶっているわけだな。
無瑕性という言葉を見ると、刑訴の違法収集証拠排除法則を思い出すな。
征韓論争も西南の役も、「西欧近代国家を見てしまった新帰朝組と、それを見たことのないドメスティックな人々の争い」の一行で片付くんだけどな。こんな長い小説を書かなくても。
★別府晋介 ▽陸軍少佐 part11〔655-657〕に書いた。この小説は登場人物が多数なため、一度登場しても、次に出てくるまで長いお休みがある。 重複は避けたいが、ポイントだけは、再登場のたびに記しておく。 弘化4年(1847年)、鹿児島郡吉野村実方で別府十郎の第二子として生まれる。母方の従兄の桐野利秋とは実の兄弟以上に仲が良かった。
明治2年、鹿児島常備隊がつくられたとき、大隊の小隊長となった。明治4年、西郷隆盛が廃藩置県に備えて兵を率いて上京したとき、小隊を率いて従い、御親兵に編入され、次いで近衛陸軍大尉に任ぜられた。
明治5年、征韓論に関連して西郷が満洲・朝鮮偵察を命じた際には、北村長兵衛・河村洋与とともに外務大丞・花房義質の随員という形で釜山に赴き、韓服を着て韓帽を戴き、変装して2ヶ月近く朝鮮内地を偵察した。
※晋介は左。右は桐野。
※『田原坂』では石橋正次。
晋介は天性無欲なうえに平等思想をもち、たとえば部下に対し、俸給さえ平等にした。かれは部下の士官や下士官の俸給を自分の俸給とコミにして平等に分配するのである。
晋介は西南戦争のときに官軍が民家を銃撃するのをみて、 「これが官である。虐政を事としている。われらは国家のために百政を改革して人民を水火のなかより救うがために戦うのだ」 と、自分の部下に演説した。
西郷党の性格は、外部からの印象としては、「かれらは封建制を復活しようとしている」というものであった。 しかし西郷の思想のなかには本質の部分に民権思想が濃厚であり、単なる不平家にすぎない者の多かったのちの自由民権運動者よりも確かなものがあった。
▽大塩平八郎 寛政5年(1793年)- 天保8年(1837年)。江戸時代後期の儒学者。 大塩家は代々、大坂東町奉行組与力であり、平八郎は初代の大塩六兵衛成一から数えて8代目にあたる。大坂天満の生まれ。 学問は陽明学をほぼ独学で学び、知行合一、致良知、万物一体の仁を信じて隠居後は学業に専念し、与力在任時に自宅に開いていた私塾・洗心洞で子弟を指導した。
天保の大飢饉は、全国的には天保4年(1833年)秋から同5年夏にかけてと天保7年(1836年)秋から同8年夏にかけてが特にひどかった。 蜂起の前年の天保7年(1836年)秋、米価高などの影響で同年8月に甲斐国で発生した「天保騒動(郡内騒動)」、三河国挙母藩の「加茂一揆」などの大騒動が各地で発生し、奥羽地方で10万人の死者が出る中、大塩は9月にはすでに、飢饉に伴って生じるであろう打ちこわしの鎮圧のためと称して、与力同心の門人に砲術を中心とする軍事訓練を開始していた。
跡部良弼に対する献策が却下された後、天保8年(1837年)2月に入って、蔵書を処分するなどして私財をなげうった救済活動を行うが、もはや武装蜂起によって奉行らを討ち、豪商を焼き討ちして灸をすえる以外に根本的解決は望めないと考えた。
天保8年2月19日(1837年)に大塩は門人、民衆と共に蜂起する(大塩平八郎の乱)。しかし、同心の門人数人の密告によって事前に大坂町奉行所の知るところとなったこともあって、蜂起当日に鎮圧された。
大塩平八郎は、西郷隆盛が尊敬する人物として、その名が挙がっている。 大塩のように自らを犠牲にして人民の側に立った人物は、明治・大正の民権家や社会主義者にもいない。
★竹橋兵営
▽近衛兵司令部
明治6年当時は近衛歩兵連隊であり、近衛師団と改称されたのは明治24年である。なお、明治24年には鎮台も師団と改称されている。
地下鉄「九段下駅」「竹橋駅」から徒歩10分、北の丸公園内にある東京国立近代美術館工芸館は、もともと近衛師団の司令部庁舎として使われていた建物である。
ただし完成したのは、明治43年(1910)。関東大震災や第二次大戦をくぐりぬけ、ほぼ完全な姿をとどめている。
明治11年当時の近衛司令部の写真があった。
しかし明治7年当時の錦絵の建物とは違う。
別府晋介が歩いた司令部は、この錦絵の方かもしれない。
大坂の陣の大坂方の牢人には親近感が持てるのだが、同じく敗軍の将で非業の最期を遂げた西南の役の桐野や別府には親しみが湧かないんだわな。 理由の一つは、後者は時代が近すぎてリアルな人間として立ち現れるからだと思う。真田や後藤は大昔の人なので浪漫をたっぷり注入できるのに対して、写真まで残っている明治の人には浪漫注入量が制限されてくる。
もうひとつの理由は、大坂の陣の牢人は幼児期に知った。筆者は立川文庫の時代の人間ではないが、筆者が幼少期に読んだ漫画や小説の作者が子供の頃に立川文庫の愛読者たちであった(司馬遼太郎もそのうちのひとり)。 幼少期に知ったヒーローには、幼馴染に再会するようななつかしさがあって、大人になっても応援したくなる気持ちに変化はない。 これに対して、桐野や別府の名は20歳前後に『翔ぶが如く』を読んで知った。大人になって短い間知人であった人々と違いがないんだわ。生きていようが死んでいようが、別にどっちでもいい。
>>139 >写真まで残っている明治の人には浪漫注入量が制限されてくる。
同感。写真を見なければ、桐野や別府を好きになっていたかもしれない。
この二人、人相が悪い。
>>140 幼馴染はくだらない大人になっていることもあるが、幼少期に知ったヒーローは、いつでもヒーローだもんな。
>>139 征韓論争の参議たちは、高校日本史で散々覚えさせられた馴染みのある名前というのもあるな。
彼らが一挙に退場して、薩軍のなじみのない将校たちの名前が大量に出てくると、各将校の個性の差別化ができなくて、つまらなくなってくるというのもある。
▽三南地方
朝鮮の南部地域である慶尚道・全羅道・忠清道の三道のことを指した言葉である。 古くから朝鮮半島を代表する穀倉地帯として知られている。別府晋介は明治5年、北村長兵衛中佐とともに、朝鮮の実情を主として三南地方を中心に実地調査した。
▽文治主義 李朝国家の政治システムは、中国歴代の制度に由来するもので、頂点に絶対権力者としての王をいただき、その下に文官・武官の両官僚群が合議で政務をとり行う高麗朝の儒教的な官僚体制を踏襲したものだった。ただ、文治主義と中央集権制が極度に徹底されていた点に大きな特徴があった。 官僚には文官(文班)と武官(武班)があり、合わせて両班(ヤンバン)と呼ばれた。しかし李朝は極端な文治主義をとっており、武官は文官に対してはるかに劣位な状態におかれていた。全軍の指揮権を司る責任機関の長にも、地域方面軍の指揮将官たちにも高級文官が就任し、その他の高位の武官職もことごとく高級文官によって兼任されていた。
李朝国家では軍事を司る要職のほとんどが文官によって占められており、武官には事実上政府要人への道が閉ざされていた。そして儒教的な文治主義の立場から、外国との間に生じる諸問題の解決は、可能な限り政治的な外交によって処理することがよしとされ、国土の防衛は宗主国である中国に頼る方向で考える傾向を強めた。 そのため、軍人の間の不満は慢性化していたが、軍事クーデターに対しては徹底した予防措置がとられた。わずかでも不穏な動きがあれば、そのたびに軍人を弾圧し、未然の鎮圧が周到に行われた。
こうした極端な文官独裁の文治主義政治によって軍事が軽視され続けた結果、無残なばかりの軍部弱体化を招来させてしまったのである。 兵役は常民階級に課せられていたが、賄賂による兵役のがれが広がり、また兵農分離がうまく進行しなかった。しかも財政難のために志願兵を集めることもままならず、兵員確保にこと欠く状態が長らく続き、兵力は急速に下降線をたどっていった。 そして19世紀に入った頃には、もはや外国の脅威に対して有効な抵抗をする力をまるでもたず、宗主国の中国に頼るしかない国家となっていたのである。
Part11〔657〕に書いたように、晋介は帰朝の後、桐野利秋邸を訪れるや、門外より「鶏林八道を蹂躙するは、我二三箇中隊にして足れり」と叫んだと云われる。この後、少佐に昇進した。 先に『翔ぶが如く』では、桐野の言葉のように書かれていたが、実は別府晋介の言葉であった。このことも、以前どこかで述べた。
★湯島切通坂
▽幸吉
桐野の邸が湯島切通坂にある旧榊原家であることは、既述した〔
>>95 〕。
幸吉は桐野の下僕で、薩摩国吉野村の百姓の次男坊である。
幸吉は西南戦争で桐野と死を倶にする。
「俺も帰りもす」 晋介がいうと、桐野は軽く、しかも無言でうなずいた。かれらはこれだけでその運命を決めた。 自己の生死に関するような重大な運命の決定はごく軽い調子で決めるのが、薩摩人の伝統的なダンディズムというものであった。 「晋介どん、黙々力を蓄えて天の時を待つ。こいしかなかど。天の時が来ねば俺は百姓で朽ちる」
親に食わせてもらっている学生なら、この薩摩人のダンディズムをかっこいいと思うかもしれないな。 妻子を養っている大人なら、何の共感ももてないだろう。 「かっこつけんな、阿呆」になると思うね。
桐野は第二維新を10年後にやる、というか世間が第二維新を渇望し西郷に期待を寄せると言っている。
★おきよ ▽清子 奥並継は実在の人物だから、その妻清子も実在したと思うが、調べてみると奥の妻の名は千賀子である。 創作でもかまわないと思うのだが、他人の妻を元愛人と書くからには、相当な根拠はあるのではなかろうか。 それ以上のことは、調べてみたが分からなかった。
伊藤痴遊の文章に「妾の居付かぬ桐野利秋」がある。ここでの桐野の妾は、お秋になっている。
半次郎が桐野利秋になり、身分も陸軍少将となって、湯島にあった旗本の家を買い取って住んでいたが、来客が非常に多いため、妾を抱えて酒食の世話をさせていた。 ところが、この妾が長く居付かない。早いので一晩、三晩はもっても四晩とはもたないと云う。あるとき、お秋と云う妾が来たが、このお秋だけは逃げ出すことなく、桐野と仲むつまじく暮らしている。
桐野が戦死した後、お秋が桐野の秘密を語ったので、妾が長居しなかった理由が明らかになった。 文久から慶応にかけての京阪時代に桐野は数え切れないくらいの人殺しをやった。そして、桐野が殺した男たちが毎夜、桐野の枕元に座っており、それに桐野がうなされるのを見て、妾たちが震え上がって出て行くのだ。 ただ、このお秋だけは気性の勝った女性だったらしく、出て行くことはしなかった。
▽奥並継〈なみつぐ〉
文政7年(1824年) - 明治27年(1894年)
明治維新のとき44歳であるが、司馬さんは書生としている。ずいぶん老けた書生ですことw
豊前国宇佐村(現大分県宇佐市)の藤波氏に生まれ、宇佐神宮詞官漆島姓の奥氏の養嗣子なる。
文久3年(1863年)、飄然して京都に出遊して憂国の志士と交わり、国事疾走の生活が始まる。ちょうど三条実美卿らの七卿落ちとなり、勤王攘夷党の蹉跌をみるや憤慨し、直ちに宇佐に帰り、豊前国・豊後国の志士らと語らい勤王倒幕の先鞭をつけんとしてならず、弟・時枝重明と共に日田の獄舎に投じられ、3年を経て即位の大赦により出獄した。
明治3年、神祇少史に任られ、神祇権大史に遷り、陸軍省(佐賀の乱、台湾出兵に従軍)、東京府、開拓使官吏(屯田兵の長として西南戦争に参加、開拓使廃止まで開拓事業推進に従事)、大蔵省(開拓会計残務整理委員)、修史局四等編修官(北海道史及びアイヌ研究の著書をまとめる)を歴任し、正七位に叙せられ、明治19年に官吏を勇退する。
この奥並継が桐野が払い下げた清子を妻としたと司馬さんは述べられる。奥並継の年齢からすると、ウソくさい話である。
また、奥の妻が千賀子であることは〔
>>155 〕で述べた。
司馬さんは、「おきよ」あるいは「おちよ」と書いているよ。 「おちよ」だったら千賀子と音が似ている。
末弘厳太郎の妹・松枝が小学1年の頃に、奥清子という美しいお婆さんを見たと司馬さんは書かれているが、これもあやしい。 奥並継と千賀子の長女は、大審院判事・末弘厳石に嫁ぎ、法学者・末弘厳太郎と那賀(池田克夫人)の母となる。 つまり、末弘厳太郎の妹は、松枝ではなく那賀である。厳太郎と那賀にとって千賀子(清子)は母方の祖母である。
▽末弘厳太郎〈いずたろう〉
明治21年 - 昭和26年:東京大学名誉教授。正三位勲一等瑞宝章。研究対象は、民法、労働法、法社会学。
末弘は、ドイツ民法学全盛の時代の日本の民法学説を概念法学であるとして徹底的に批判し、民法学の転回をもたらした革命児である。
しかし、司馬遼太郎の文章によると、桐野利秋に弄ばれ奥並継に払い下げられた妾の孫ということになる。
なお、末弘厳太郎の妻・冬子は、菊池大麓の三女で、鳩山秀夫(鳩山一郎の弟、我妻栄の恩師)の妻・千代子の姉である。
話をややこしくして申し訳ないがが、鳩山秀夫の妻が「おちよ」なんだな〔
>>161 〕。
▽野分〈のわき〉 台風の古称。二百十日の頃、野の草を吹き分ける強い風。 秋から初冬にかけて吹き荒ぶ台風。秋の季語。 「二百十日」も「野分」も、夏目漱石の小説の題名になっている。
第19章 退去 〔五〕篠原国幹 ――桐野はあれで人心を得ている。 と、かつて西郷は弟の従道にそういったが、しかし陸軍部内で人心を得ているという点では桐野以上の存在がいた。 陸軍少将篠原国幹である。 桐野と篠原とは、ひょっとすると比較しがたいかもしれないが、表面的にはいかにも対照的であった。 篠原国幹は藩校造士館でぬきんでた秀才であった。さらに、桐野が郷士身分の出身であるのにひきかえ、篠原は父が記録奉行をつとめたほどの門地の出身であることである。挙措、品がよく、かれが座敷にすわれば一座が自然にしずまるといわれた。
▽篠原国幹 前スレ〔363-364〕で述べた。天保7年(1837年)- 明治10年。 少年時代に藩校・造士館に入って和漢学を修め、ついで藩校の句読師となり、長じてからも和漢の典籍を読むことを好んだ。 剣術ははじめ薬丸兼義に薬丸自顕流を、次いで和田源太兵衛に常陸流を学ぶ。江戸に出て練兵館で神道無念流を学んだ。また馬術・鎗術・弓術も極め、文武両道を兼ねていた。
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|| || 天皇陛下 ∧_∧ みんなで一緒に読んで。 || \ (゚Д゚,,) ||________⊂⊂ | ∧ ∧ ∧ ∧ ∧ ∧ | ̄ ̄ ̄ ̄| ( ∧ ∧ ( ∧ ∧ ( ∧ ∧ | | 〜(_( ∧ ∧ __( ∧ ∧__( ∧ ∧ ̄ ̄ ̄ 〜(_( ∧ ∧_( ∧ ∧_( ∧ ∧ は〜い、先生。「天皇かいか」 〜(_( ,,)〜(_( ,,)〜(_( ,,) 〜(___ノ 〜(___ノ 〜(___ノ
人 (__) (__) (`・ω・´) ∬ 階も陛も草書にすれば似たようなものではないか .ノ^ y ´~ フ━● ヽ,,ノ==l ̄ / l | """~""""""~"""~"""~"
▽造士館
薩摩藩第八代藩主・島津重豪は安永2年(1773年)、鹿児島城二ノ丸御門前に約3,400坪の敷地を確保し、儒教の聖堂である「宣成殿」、講堂・学寮・文庫などを建設した。これが「造士館」の始まりである。
初代館長には重豪気に入りの学者であった山本正誼が任命された。モデルになったのは江戸幕府の湯島聖堂(昌平坂学問所)である。隣接する4,139坪の敷地には弓道場・剣道や柔術などの道場が設けられ、こちらは初め「稽古所」、翌年「演武館」と命名された。
※旧制第七高等学校造士館
▽黒門口の戦い
慶応4年(1868年)5月15日、篠原国幹は上野の彰義隊との戦いでは黒門口を担当した。西郷隆盛は撤退命令を下したが、これを全く聞かずに攻め陥とし武勇を轟かせた。
篠原は極端に無口で、征韓論についてもどのような考えを持っているのか、誰も知らなかった。 桐野が篠原に質すと、反対はしなかった。 しかし篠原自ら征韓論をぶつことがなかったため、大久保利通でさえ篠原は反征韓派だと思っていた。
▽種田政明 天保8年(1837年)- 明治9年。Part11〔423-424〕で述べた。「ダンナワイケナイ ワタシハテキズ」の人。 明治6年11月、陸軍少将となった。東京鎮台司令長官を経て、明治9年9月、熊本鎮台司令長官に就任した。 陸軍薩摩閥の中では大将の西郷隆盛に次ぎ、同じく少将の桐野利秋、篠原国幹と並ぶ人物であった。桐野等と異なり官僚としての力量もあり、明治六年政変で西郷等が下野した後は必然的に陸軍薩摩閥を束ねる地位にあった。
反征韓派の種田政明は、「桐野など、むしろ去ったほうがよい。篠原さえいれば兵隊は鎮静する」と楽観していた。
▽飮馬麹]果何日 馬を 麹]に飮(みづかふ)は 果はたして何れの日ぞ 一朝事去壯圖差 一朝 事 去りて 壯圖(さうと)差(たが)ふ 此闥N解英雄恨 此の閨iかん)誰か解せん 英雄の恨 袖手春風詠落花 手を袖にして 春風 落花を詠ず
故郷に帰った篠原国幹は、失意と日本の将来を憂え、日々悶々としていたが、この詩はその頃に詠んだものである。
篠原は大久保が自分を説得することを考えると、それを受けることが煩わしく、(このさい、姿を隠すよりない)と、意を決した。
★竹橋兵営 ▽10月25日 西郷と桐野の辞職を知ったある若い大尉の行動は、ドラマ『田原坂』で使われていた。 桐野も別府も篠原も全員竹橋兵営に集合して、近衛の帽子を投げ捨てていたようだった。
▽黒田清隆 黒田は大久保に命ぜられて、篠原を慰留するよう説得に赴いた。 「了介どん、うぜらしか」 「政府革命之時節、到来歟」
★赤坂仮御所
▽10月25日夕刻
既述したところであるが、明治6年5月5日の宮城火災から、明治21年の明治宮殿完成までの15年間、赤坂の元紀州藩屋敷跡に明治天皇の仮御所が置かれていた。
大久保はこの赤坂仮御所に大量辞職が続いていた近衛将校団を召集し、天皇の権威を利用して辞職を思いとどめさせようとした。
▽徳大寺実則〈さねつね〉
天保10年(1840年)- 大正8年
尊皇攘夷派の公卿として活躍し、1862年(文久2年)国事御用掛、翌年議奏となったが、1863年(文久3年)に起こった八月十八日の政変に関与し謹慎となった。
1871年宮内省に入り、侍従長・宮内卿と兼任に至った。1891年内大臣兼侍従長となり、明治天皇の側近として天皇が崩御するまで補佐した。明治天皇の政治関与には強く反対し、元田永孚らが侍補制度を定めて天皇親政運動を行った折にはその阻止に動いた。
▽軍人勅諭 明治15年1月4日に明治天皇が陸海軍の軍人に下賜した勅諭である。正式には『陸海軍軍人に賜はりたる敕諭』という。西周が起草、福地源一郎・井上毅・山縣有朋によって加筆修正されたとされる。 下賜当時、西南戦争・竹橋事件・自由民権運動などの社会情勢により、設立間もない軍部に動揺が広がっていたため、これを抑え、精神的支柱を確立する意図で起草されたものされ、明治11年10月に陸軍卿山縣有朋が全陸軍将兵に印刷配布した軍人訓誡が元になっている。
▽10月29日 ふたたび天皇が近衛の佐官以上を召した。参列した者は、140人ばかりいた。 しかし肝心の近衛司令長官篠原国幹の姿は見えなかった。 篠原ら近衛士官たちが、再三にわたって天皇みずからが慰撫したにもかかわらずそれを無視し官爵を蹴って東京を去ったというのは、黒田のいうように政論の対立というだけで、不忠の誹りを受けることはなく、天皇の権威はまだこれに介入できなかった。
第20章 陸軍卿 〔一〕山県有朋 「予は征韓論が起こったとき、東京にいなかった」 と、三十六歳の陸軍卿山県有朋はいう。 山県は保身については狡猾なほどに鋭敏な感覚があるが、かれがもし東京にいれば深刻な苦痛を味わったに違いない。 かれは幕末以来、長州人ながらも西郷を敬愛する気持ちが厚く、さらに山城屋事件という彼にとって致命的な汚職容疑で官外に追放されるところを、西郷によってからくも救われた。山県は、西郷から私恩を受けた。
西郷のあとを追って辞めてゆく薩摩系の近衛将校たちは、山城屋事件のときに山県を罵り、 「貪官汚吏の山県を殺す」 とまで息まき、ようやく西郷になだめられた。近衛将校たちは東京を去るについて、行きがけの駄賃で山県を斬るという危険も十分に予測できた。
▽徴兵制 板垣退助……義勇兵制で足りる。陸地が国境の西欧では互いに大軍を養って相警戒しあう必要があるが、四囲が海である日本で大軍を養う必要はない。 西郷隆盛……士族兵 長州……奇兵隊の精強という体験があるため、国民皆兵制以外の制度を考えていなかった。
しかし、山県の構想した鎮台制も、外征目的の軍備ではなかった。 「内は以て草賊を鎮圧し、外は以て対峙の勢を張る」
★熊本 ▽チンダイ この言葉は兵隊の同義語であったが、痛烈な蔑称でもあった。 / ̄ ̄^ヽ l l ____ _ ,--、l ノ . /_ノ ヽ、_\ ,--、_ノ:: `ー':: 、ミー---‐,,l o゚((●)) ((●))゚o プギャアアアアアアアアアアアアアア チンダイ ,/ ::: i ̄ ̄ | . /::::::⌒(__人__)⌒::::: \ / l::: l::: ll | |r┬-| | (⌒) l l . l !:: |::: l | | | | | ノ ~.レ-r┐、 | l l |:: l: l . | | | | | ノ__ | .| | | | l . } l:::::,r----- l. \ `ー'´ ./ 〈 ̄ `-Lλ_レレ ヽ :l:::: ト:;;;;;;;;;/-/__........... /  ̄`ー‐---‐‐´
「長州奇兵隊をみよ」 「奇兵隊と申せば、百姓・町人が主力とはいえ、義勇兵制度だったではありませんか」
「戊辰のとき、東北諸藩の武士は奇兵隊と戦うのを嫌がったそうですな」 「百姓に首を授けるのは恥辱だ」
★名古屋
▽瘧〈おこり〉
間欠的に発熱し、悪感や震えを発する病気。主にマラリアの一種、三日熱をさした。
隔日また周期的に「起こる」が語源である。
※マラリアはハマダラ蚊によって感染する。
★箱根 ▽10月25日 東京の変報を携えた陸軍大輔西郷従道の使者とは、静岡ですれちがった。 使者は早駕籠で山県を追いかけた。山県とは箱根の山中で会った。 手紙の日付は、10月19日であった。天皇が三条実美を見舞う前日である。
★麹町富士見町
▽山県邸
前スレ〔258〕に書いた。
現在は三番町共用会議所になっている旧山縣有朋邸は、明治18年に建築された。
▽「長の陸軍」 西郷南洲の征韓論にやぶれて、廟堂と陸軍大将の冠を挫けて故山に隠棲した際、薩州出身の武人ほとんどが西郷と進退を共にした。 薩摩が陸軍において勢を失ふべき運命はこの時にきまった。然れども大山巌、野津道貫、高島鞆之助、黒田清隆、川上操六等ありて漸く長に桔抗し、明治18年内閣制度実施より日清戦争後に至るまで陸軍大臣の椅子は薩人によって独占せられ山県といえどもこれを如何ともできなかった。
ところが、黒田清隆、川上操六、大寺安純等が相次いで逝き、このあとには野津道貫を失ひ、高島鞆之助は失脚して枢密院に葬らると共に陸軍より全然その存在を忘れらた。薩の陸軍の勢力は歳と共に衰退し、山県の第二次内閣より陸軍の実権はすべて長に帰して薩人は長人に仰ぐようになった。
薩の陸軍に取って最も大なる打撃は黒田、野津、高島よりも川上操六の死であった。参謀本部の設置に関しては山県の力が大きいが、これを今日の如く完全なる作戦計室の府にしたのは川上で、日清戦争の根本計画は殆んど彼の頭脳より出でたものだった。
司馬さんはもう少し『坂の上の雲』を読んだほうがいい。
▽三浦梧楼
前スレ〔775〕で述べた。前回の登場では、山城屋和助事件への関与を疑われていた。
弘化3年(1847年)- 大正15年
明治7年には陸軍省第3局長として台湾出兵に反対。明治9年、萩の乱の鎮定に赴き、翌年の西南戦争では第三旅団長として各地を転戦、城山を陥落させた。明治11年に陸軍中将となり、西部監軍部長。
長州出身ながら藩閥政治に反対する立場をとり、また山縣有朋とは奇兵隊時代から不仲であったこともあり、谷干城・鳥尾小弥太・曾我祐準らとともに反主流派を形成し、月曜会の中心人物として山縣有朋・大山巌らと対立した。
本章の三浦梧楼は、帰京した山県邸に集まった一人として登場している。まだ仲はよかったようだ。 薩摩系の将校が大量辞職したことにより、ポストに空きができたことで気分は高揚し、山県に軽口をたたいている。
▽木戸孝允 翌朝、麹町富士見町の山県邸へ木戸さんが訪ねてきた。 「西郷と、近衛のことで来たのです。これでは国が亡びる。……昨夜は眠れなかった」 木戸さんは、あいかわらず不眠症の様子である。
▽正院 明治4年の廃藩置県後に発布された太政官職制の最高機関である。 それまでの太政官を正院、左院、右院の三つに分け、左右両院の上に立つ。政務を執る正院は従来の太政官に相当し、太政大臣、納言、参議、枢密正権大少史等で構成される。 その後、明治6年に、その権限はさらに強まり、天皇輔弼の責任が明確にされた。明治8年に左右両院が廃止されたが、正院は引き続き存置される。明治10年廃止。
▼左院 明治初期の立法府。明治5年4月「立国憲議」を出し、国憲の制定計画を示し、さらに同年5月には「下議院ヲ設ルノ議」を出し、一種の議会制度の構想を示した。明治8年の元老院設置にともない廃止された。 江藤新平は、明治4年8月から明治5年4月まで、左院副議長を務めている。
▼右院 各省庁の政策の連絡調整を担う行政機関。各省の長官である卿と次官である大輔で構成されている。右院の決定事項は正院の裁決事項として位置づけられるなど、正院に比してその権限は弱かった。事務次官会議のようなもの。
▼近代日本の官制 ◇三職制:慶応3年12月9日 - 慶応4年閏4月21日 総裁・議定・参与の三職 徴士・貢士の制度 五箇条の御誓文
◇政体書:慶応4年閏4月21日 - 明治2年7月8日 太政官の権力を立法・行法・司法の三権に分け、それぞれ議政官・行政官・刑法官に担当させる。 明治2年2月24日、太政官を東京に移した。
◇二官六省制:版籍奉還から廃藩置県まで 二官 神祇官・太政官 →左大臣・右大臣 →大納言 →参議 六省 大蔵省・兵部省・宮内省・刑部省・外務省・民部省 ※政体書の内容が進歩的であったため、神祇官を太政官の上位におく祭政一致の原則で保守回帰した。
◇三院制:廃藩置県から大阪会議まで〔
>>206-208 〕
◇明治8年官制:明治8年4月14日 - 明治18年12月22日
▽山県有朋 軍人を辞めて文官になり、正院へやってもらいたいと木戸に談じ込む。 伊藤博文が参議兼工部卿となったことを知り、自分も参議になりたい旨を木戸に伝えた。
▽大村益次郎 西郷の乱を予言した人物として神格化されている。まあ、好きだからいいけど。 明治2年9月4日、元長州藩士の団伸二郎、同じく神代直人ら8人の刺客に襲われる。 死亡したのは、同年11月5日。享年46。
▽西園寺公望
西園寺は、大村益次郎を私淑していて、大村が暗殺された日に、大村と会う約束していたが、道で友人とばったりあって、そのまま祇園に遊びに行き、大村のところに行かなかった。それで難を逃れたそうだが、運のいい男だと思う。
「足利尊氏のごとき者が声望に乗じて九州で乱を起こす」という大村の言葉を聞いたのが西園寺公望です。
▽宇治火薬庫
大村卿は西国での士族の反乱を警戒し、大阪に大阪造兵司(後の大阪砲兵工廠)、兵學寮(後の陸軍士官學校)を設置するなど近代軍制建設を指導します。
8月13日、大村卿は軍事施設、及び建設予定地の視察のため京阪方面に出張、伏見練兵場の検閲、宇治の火薬庫予定地を検分し、20日、大阪城内の施設、天保山の海軍基地を検分、9月5日、京都に戻った際、元長州藩士等に襲撃され重傷を負い、11月5日、大阪において死去してしまいます。
▽大阪陸海軍練兵所
〔
>>216 〕で建設予定であった「大阪城内の施設、天保山の海軍基地」のこと。
大村在世当時の練兵場は、まだ伏見にあった。伏見区深草大亀谷万帖敷町。
▽船越衛
天保11年(1840年)- 大正2年(1913年)
父は広島藩の財務官僚として名高かった船越昌隆。広島藩校学問所(現修道中学校・修道高等学校)で学び後に教授となる。
大村益次郎の死後は山縣有朋と結んで兵制改革にあたり(後に船越の長男・光之丞は山縣の娘婿となる)、明治3年に兵部大丞となるが、兵部省改組により陸軍省に移籍する。
ところが、陸軍大丞兼会計局長の時に山城屋事件に連座して退官に追い込まれて軍人生命は終わりを告げる。その後、明治7年に戸籍権頭を務め、内務省成立後は内務官僚としての道を歩んだ。
船越は大村から四斤山砲をたくさん作って大阪に貯えておけと命ぜられたが、たくさん作る前に山城屋事件に連座して軍人生命が終わっていた。 / ̄| . 人 | |. (__) 船越! | |. (__) 終わったな! ,― \( ・∀・) | ___) | ノ | ___) |)_) | ___) | ヽ__)_/
山県はこれはかれの生涯の特徴だが、およそ他人を批評したり、他の勢力について非難がましいことを口にしたことがない。
大久保ら日本国を外から見る経験を持った者たちは世界における日本像をけし粒のように小さいと思っているが、内国にいた連中はいまなお戦国期の豪傑たちと同様、日本六十余州こそ天下という感覚から抜けきらずにいる。
▽けし粒
芥子の果実が熟すと植物体は枯死し、熟した果実の天頂に穴があき、径 0.5mm に満たない微細な種子が飛び出す。非常に細かい物を「ケシ粒のような〜」と表現するのは、これが由来である。
※あんパンの上に乗せられたツブツブが芥子粒である。
芥子は「けし」とも読むし「からし」とも読む。 芥子という表記は本来カラシナを指す言葉であるが、ケシの種子とカラシナの種子がよく似ていることから、室町時代中期に誤用されて定着したものであるとされる。バカが日本語を豊かにしている例である。
カラシナの種子はからし(和からし)の原料となりオリエンタルマスタードとも呼ばれる。 マスタード(洋からし)の原料として利用されるシロガラシは、同じアブラナ科の別種である。
「君は陸軍卿としてまた陸軍中将として、篠原をあくまでも踏みとどまらせることはできないのか」 出来るものではなかった。政府といい、陸軍といっても、薩長の寄合所帯にすぎず、陸軍卿山県有朋の力は篠原にとても行きとどかず、篠原はあくまで西郷に属している。 「これは政府ではない」 木戸は悲鳴をあげるように言った。
>>191 司馬さんのように山県有朋が大嫌いな人は、山県が東京から逃げていたと考えるのだろうな。
しかし、近衛崩れが起こるような状況になれば、地方の鎮台や分営でも同様の辞職騒ぎが起こるかもしれないし、官に属さない不平士族の乱が地方から狼煙を上げる可能性もある。現に翌年には佐賀の乱を起きるわけだ。
それらに備えて出来たばかりの鎮台の視察を陸軍卿が行うのは当然ともいえるよね。
熊本鎮台が襲われたと言われても、実際に熊本鎮台を見たことがなければ、具体的なイメージがわかない。 対策もピンボケのものになる。陸軍卿は現地視察をしておかなければならないね。
高校生の頃に司馬作品を読んだときは、山県有朋の悪口を書いてあるところは痛快だったけどな。 山県は権力者だったし、顔も好きじゃなかったから。 歳を取って読み直すと、山県のことなら何でも悪く書けばいい態度が鼻について嫌だな。 いまでも別に山県が好きなわけじゃないけど、何でも色眼鏡で見るというのは良くない。
しかし『田原坂』の有川博は山縣有朋に見えなかったな。
もっとブサイクかつ頬の肉の削げ落ちた役者がやらないとダメだ。
>>225 大久保が天皇の権威を使い、木戸と山県が額を寄せ合うようにして篠原を慰留させる手立てを考えているシーンを読んで、篠原国幹ってどれほどの人物なんだろうと期待したよな。
しばらくすると、司馬さんによってボロクソに言われ出します。
>>219 連座辞職仲間に山県有朋がいたために、船越と山県は親戚になって、最終的には船越衛は勝ち組になったよ(・∀・)ニヤニヤ
>>222 むかしから不思議に思っていたのだが、アンパンの上のツブツブは芥子の原料なのに、ちっとも辛くないんだよね。
辛みをつけるためにケシの実を載せているじゃなくて、「こしあん」と「つぶあん」を見分けるために載せている。
「こしあん」の上に載っているのが、ケシの実。
「つぶあん」の上にはゴマが載っている。
>>168 「二百十日」と「野分」は、文庫で一冊にまとめれているな。
「二百十日」は会話しかでてこない変な小説だったけど、「野分」は良かったな。
内容はまったく覚えていないが、それを読んだ時間を思い出すと気分がいいから、きっと面白い小説だったんだわ。
第20章 陸軍卿 〔二〕鳥尾小弥太 山県にとってこの日の木戸家への訪問は欲と二人連れであった。 やがて近衛都督についての用件が不調におわったとき、鳥尾小弥太が、 「では、私は陸軍を辞めます」 と、木戸に噛みつくように言った。この二十代の陸軍少将はもともと圭角の多い男である上に、まだ年若く、感情が先に立った。火の粉をかぶろうとしない木戸に腹を立てたのである。 鳥尾が辞職について山県より先に発言したことは、山県にとって思う壺だった。山県は自分が先にそれを言いだすことは木戸に肚を見すかされるようでまずいと思っていた。
★文民統制 ▼civilian control of the military 木戸のいう「軍人たる者はポリチックに喙を容れてはいけない」は、欧米の文民統制と同じ。 政治・政事という言葉は幕末期以来しきりに使われたが、古義における政治とは、天に仕えて民を牧するという皇帝や王の職分というニュアンスがあって、政治活動・政治状況といった風に使われる場合、どこか即しないという言語感覚が木戸にあって、わざと外来語をそのまま使っていた。
▼日本国憲法66条2項 「内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない」 自衛の為の軍隊の保持が想定されたことにより、いわゆる芦田修正によって導入された。 現職の自衛官は文民ではないが、退官した自衛官は文民にあたる。
★鳥尾小弥太
▽鳥尾小弥太
弘化4年(1848年)- 明治38年。Part12〔259-260〕に書いた。
鳥尾が陸軍少将に任命されたのは24歳のとき。現在26歳。
鳥尾小弥太は戊辰戦争後に和歌山藩に招聘され、同藩の軍制改革に戊営副都督次席として参与している。
この経験が基礎となって、薩摩藩出身の実力者たちが廃藩置県に慎重な姿勢を見せていた状況に対する危機感に駆られ、野村靖とともに山縣に対して廃藩置県の即時断行を提議した。
明治14年政変は、開拓使官有物払下げ事件を契機に、これを糾弾した大隈重信が失脚した事件として有名であるが、失脚したのは、大隈重信ばかりではない。 陸軍部内の反主流派である鳥尾小弥太・三浦梧楼・谷干城・曾我祐準も払下げ反対の建白書を上奏し、結局、反主流派は陸軍を追われ、鳥尾も統計院長に左遷されている。
▽中村宇右衛門敬義 萩城下川島村で長州藩士。鳥尾小弥太の父。 小弥太ははじめ中村百太郎あるいは鳳輔と称しており、諱は照光、のち敬高。 乱暴者なので、親から勘当され、自ら鳥尾と名を改めた。
▽鳥尾隊 鳥尾が長州の壮丁20人をかき集めて組織した諸隊のひとつ。 鳥尾は健武隊参謀としても、戊辰戦争に参加している。
明治20年以降の鳥尾は、国教確立と反欧化主義を唱えて国家主義・国粋主義の興隆に努めた。 晩年は一切の職を辞し、仏教を信奉する参禅生活に入った。明治38年、静岡県熱海の別邸にて肺患のため死去した。享年58。
▽乃木希典 明治4年、23歳でいきなり陸軍少佐になる。洋式軍隊の教育は、2ヵ月しか受けていない。 乃木の栄達は、従兄の御堀耕助(太田市之進)が、死の直前に山県と黒田に頼んでいたからである。 現在は名古屋鎮台勤務、目下金沢分営に出張中。
乃木希典は、この時代の士官が、士官の制服を着せ辞令さえ出せば誰でも士官になれた例として挙げられている。
近衛の前身は御親兵であるため、薩長土肥以外の四藩以外の兵はいない。 その中でも、薩摩が最も多かった。警察も海軍も、薩摩が握っている。 山県は、大量辞職した薩摩系士官の補充は、すべて長州人で行おうと考えていた。
▽近衛都督 明治5年2月に近衛条例が制定され、親兵が近衛と改称された。各地の鎮台が陸軍卿の権内におかれた政府軍であるのとちがい、近衛の総指揮官である近衛都督は天皇に直隷した。また近衛兵は壮兵つまり職業兵制をとることになった。 西郷隆盛の辞任により、近衛都督は空席になった。近衛軍の動揺を抑えるために、山県と鳥尾は木戸孝允を後任の近衛都督に就けようと考えた。
★木戸邸 ▽千代田区九段北2-2-1 現在は九段中等教育学校が建っている。このことはPart12〔653〕で述べた。 山県と鳥尾は、木戸邸を訪ねた。
近衛都督は、お断りします ハハ (゚ω゚) / \ ((⊂ ) ノ\つ)) (_⌒ヽ ヽ ヘ | εニ三 ノノ J
軍人はポリチックに関与してはならない〔
>>237 〕。
これは参議の兼任を求めている山県にとっては都合の悪い論であった。
留守内閣では、江藤新平が司法卿と参議を兼任し、大隈重信が大蔵総裁と参議を兼任していた。
明治6年政変後、伊藤博文が工部卿と参議を兼任している〔
>>213 〕。
文民統制の原則を木戸が持ち出さねば、山県陸軍卿が参議を兼任してもおかしいことではなかった。
▽明治六年政変 論争に敗れた征韓派の参議たちは一斉に下野した。西郷隆盛・板垣退助・後藤象二郎・副島種臣・江藤新平の5人である。 受験日本史の頻出事項。後藤象二郎に変えて大木喬任がひっかけで出題されることが多い。 大木喬任が含まれている肢は×です。
「私も、辞めます」 と、山県が言った。 (また例のくせがはじまったな) 木戸はうんざりした。
谷沢永一『人間性を象徴する政治の力学』(全集第35巻) 【一】立場と人格と意識のにおい 「ちなみに明治維新は無数の異分子の参加によって成立した革命であったが、生き残って権力の座についた大久保一個の意識ではこれは厳密な意味での革命ではなく、徳川政権が太政官政権に移行しただけのものであるというにおいがあった。 つまりは将軍が天皇に変わっただけのことであり、だから旧幕時代の官僚用語どおりに〈御評定〉などとこの人物はいう」
▽服部之総〈しそう〉
明治34年 - 昭和31年。マルクス主義歴史学・歴史哲学・現代史。
島根県那賀郡旭村(現・浜田市)出身。
浄土宗正蓮寺に生れる。旧制浜田中学、第三高等学校卒業。1925年、東京帝国大学文学部社会学科卒業。大学在学中に志賀義雄、大宅壮一らと東大新人会で活躍。
昭和3年、三・一五事件の共産党弾圧の際、検挙されるが釈放され、唯物史観の立場で維新を論じた「明治維新史」を刊行。昭和7年刊行開始の「日本資本主義発達史講座」において講座派の代表的論客となる。
司馬遼太郎は一貫して概念のもてあそびに、いささかの興味をも示さない。歴史の真実に近づく道は、その時期に生きたさまざまな人物の個別な視座にたちかえる想像力である。
つい安易な大上段の構えをとって、明治維新は革命ではなく政権の移行であったと高みから見おろして定義すると、その途端に大久保利通も西郷隆盛も、単純なあやつり人形に化してしまう。
歴史の波動にただよう一人ひとりの人物の限られた意識には、過去と現在しか与えられていない。かれらは未来から当時の自分を振り返り見る特権をもたない。 したがって意識と認定と模索と発想は、すべて試行錯誤のための断片にすぎない。
▽陣僧 主に室町時代、軍陣に同道して、戦死者の供養をはじめ文書作成や敵方への使者を務めた僧。
いつの世でも観察者であるなら、結論をひねり出しては自己満足を楽しめよう。しかし渦中の当事者にあっては、傍観者的な結論は不要であるのみならず、次に打つべき手を考えるには、有害な手かせ足かせとなる。 行動する者は、概念を必要としない。
本稿の木戸孝允が、観察者の立場で、進歩的な思想を披歴するあたりは、陣僧に似たものがあるな。 西郷隆盛の征韓論も、しかり。自国の置かれた地位・立場をわきまえないと、すぐれた政策も愚策にしかならない。
>>232 アンパンの上のツブツブはカラシの実ではなくてケシの実だから、辛くないのではありませんか?
>>233 さんも、
>>232 に釣られていませんか?
>>247 西郷辞任の後は近衛都督はしばらく空席になっていたが、結局、陸軍卿の山県が近衛都督を兼任することになる。
本章にも書かれている通り、西郷の前の近衛都督も山県だった。
『謎の円盤UFO』を観て思ったのだが、UFOと戦うためには、エロい躰のねえさんにエロいコスチュームを着せなければならないのか?
【二】革命ではない政権交代 ついでながら明治の大官の多くはじつに醜悪なもので、決して革命政府の官僚といえるようなものではなく、たとえば役所へ通うとき、書生と称する草履取りを連れている者が多かった。 政権を握った成功者は威張りかえった。だがもしそれだけであったなら、日本の近代化はいつまでも実現できなかったであろう。歴史の奇妙さはこの点をめぐって顕現するのだが、このじつに醜悪な明治の大官たちは、醜悪のままで同時に併行して、日本の国家形成を最も効果的に推進した。
▽「革命」の二義 1.易姓革命……孟子らの儒教に基づく五行思想から王朝の交代を説明した理論。天は己に成り代わって王朝に地上を治めさせるが、徳を失った現在の王朝に天が見切りをつけたとき、革命が起きる。革命とは、天命を革めるの意味。 2.レボリューションの訳語
明治の初期は、革命とは「易姓革命」の意義に用いられるのが一般であった。これによると、明治維新は政権の交代という認識になる。 しかし、外圧によって変革へのエネルギーが生じた明治維新には、歴史の段階を縦に上に昇るという意味合いが内在していた。これを表現する語彙は、当時の日本にはなかった。
▽「哲学辞彙」〈じい〉 哲学者のオナニーではない。明治14年に帝国大学が編纂刊行した哲学辞書。 この辞書は、レボリューションにふたつの訳語を付けた。革命と顛覆がそれである。 「按ズルニ、国ヲ興ス、之ヲ革命ト謂ヒ、国ヲ亡ボス、之ヲ顛覆ト謂フ」
明治維新は徳川政権を転覆したにとどまり(政権交代)、新たに国を興すという今後の課題にすぎなかった。 明治4年あたりまでの混沌とした状況を見ていると、まさにそのとおりだった。
前半生が極度の艱難にみちていた革命家は、かろうじて革命が一応の成就をみると、人間が変わったよいうに権勢欲のかたまりとなる。 明治維新においても、貪官?吏の集団が簇生した。 しかし彼らは醜悪さを保持しつつも、同時に新たな国家形成に邁進した。
革命家のもうひとつ類型は、清廉潔癖を保持しつつ、永久革命を目指して内外に惨禍をひきおこすタイプである。 西郷隆盛はこちらのタイプに近かった。
▽リゴリズム〈rigorism〉 道徳的厳格主義のこと。何事も道徳的善悪の判断で考えようとする杓子定規な考えの持ち主をリゴリストとも言います。 近代哲学でいえばカントがそうでした。 日本でも明治の20年代に儒教教育が国民に徹底して教え込まれた結果、道徳的にうるさい厳格な父親がたくさん現れ、その子供たちの世代は恐ろしい父親の目を逃れようと必死でした。
政治を道徳で律するリゴリズムは、結果としては木を見て森を見ざるの幣におちいる。
▽高橋亀吉
全集50巻の『ひとびとの跫音』の谷沢永一による解説「清冽で温柔な感情移入の極致」にも登場した。Part8〔959〕参照。
明治24年 - 昭和52年。経済評論家・経済史研究者。
石橋湛山と並ぶ日本の民間エコノミストの草分け的存在である。山口県徳山村(現・周南市)に、船大工の長男として生まれる。
家業の衰退から高等小学校卒業後に大阪の袋物問屋に丁稚奉公へ出るが、1年で辞めて朝鮮へ渡航。
日本人居留民相手の営業や販売、貿易実務・電信局の請負などに従事した。
高橋亀吉は、日本が近代経済の本格的発達の基礎を築きえたのは、明治18年頃である『日本近代経済の育成』で述べている。
【三】革命の結果がもたらすもの 革命というのは元来、支配・被支配階級のいかんをとわず、遠い将来は知らず、さしあたっての勘定からいえば失う利益のほうが大きい。 革命はかならず国力および生活水準の全国的に大幅な低下をもたらす。明治維新もまたいささかも例外でなく、武士階級にのみ焦点を絞ってみても、維新で政府のやったことといえば士族を山野に棄てただけのことであった。
・士族:既得権を奪われる ・農民:租税負担が重くなる。徴兵令により若い働き手を奪われる。
▽阿片戦争 1800年頃になると日本周辺に西洋列強の船が現れ始める。幕府は異国船打ち払い令を出すが(1825年)、1840年のアヘン戦争で清朝が負けたことが大きな原因で打ち払い令に代わって薪水給与令を出した(1842年)。 モリソン号事件(1837年)において外国船を攻撃したことで清朝のようになることを当時の幕府は予測したわけであるから、アヘン戦争の結果は大きな衝撃だったのである。アヘン戦争により東洋よりも西洋の軍事力が圧倒的に優位だと幕府は悟った。
なお、天保の薪水給与令(1842年)の前に、文化の薪水給与令(1806年)というのがある。 しかし、この法令は、翌年の文化露寇を受けてロシア船打払令が出され、わずか1年で撤回された。
なお、大村益次郎が西郷の乱にそなえて「四斤山砲をたくさん作って大阪に貯えておけ」と命じた部下は、『翔ぶが如く』では船越衛になっているが〔
>>219 〕、『花神』では山田顕義だった。
司馬さんは、もう少し『花神』を読んだほうがいい(・∀・)
【四】外交と内政の融合と混交 外交が常にただの外交におわることなく、かならず悪霊のような魔術性をもち、国内問題にむかって強烈な呪術力を発揮するという点で、日本はきわめて特異であり、世界の政治地理的分野のなかで特別な国であるとして見なければ、征韓論というものはわからない。
▽遣韓大使 西郷は自分が遣韓大使として韓都にゆくことにより、あたかも幕末の日本でそれが起こったように、韓国でも在野世論が沸騰し、国論の形成によって李朝が亡びると考えていた。 しかし谷沢永一は、李朝の場合、在野世論が沸騰する基盤もなければ、政権が変質する可能性も絶無であったに違いないと述べている。
革命を成功させた指導者は、フランス革命においてもロシア革命においても例外なく、革命を他国に輸出したがる。それは覇権の拡張を意味し、制圧による属国化をもたらすことも例外がない。
ただし、西郷の場合、理想主義的な「革命の輸出」ではない〔
>>271 〕。西郷の発想は、国内問題の現実判断を基礎にした外交論であった。
【五】政治を基底で動かすもの 征韓論は外交でもなく軍事でもなく、一挙にもっとも根の深い政治問題と化した。 政治がもし論理のみで動くものであるとすれば、人類の歴史ははるかに輝けるものであったろうと思われる。しかし政治においては論理という機械の作動する部分は不幸なことに僅かでしかない。 それよりも利害で動くということは大いにあるであろうが、維新早々の日本国家の運営者たちは、政商の利益を代表していない。 かれらはむしろ感情で動いた。感情が政治を動かす部分は、論理や利害よりも遥かに大きいといえるかもしれない。
政治が感情で動くことの例証として、江藤新平と大久保利通が相互に憎悪しあっていたことが述べられている。
西郷はその才略や機鋒を、鈍重な肉質の外被で包みこんで露さないことを心掛けていた。政治は才略よりも人格であるという考え方をとったのである。 それゆえに西郷は結局は敗れる。通常の次元で評価するなら、もとより西郷は敗者であった。しかし敗者であるゆえに、かえって西郷は偉大であった。それは果たしてなにゆえであろうか。
司馬遼太郎『声明と木遣と演歌』 『この国のかたち』〈第6巻〉の随想集に収載されている。そこでやる。
粕谷一希『編集者としての春と秋に』 昭和33年から35年にかけて、私は中央公論社の出版部に籍があった。そこには、現在、紀行作家として活躍中の宮脇俊三氏や直木賞作家綱淵謙定氏など、多士済々の連中がトグロを巻いていて、皆、若かった。
▽粕谷一希〈昭和5年 - 平成26年〉
日本の評論家、編集者、出版事業家。保守派の編集者として多くの書き手を送り出し、戦後日本の論壇に保守主義、現実主義の潮流を築いた。
東京雑司が谷に生まれる。東京府立第五中学校、一高を経て、東京大学法学部を卒業。昭和30年、中央公論社に入社。
▽宮脇俊三〈しゅんぞう〉
大正15年 - 平成15年。日本の編集者、紀行作家。元中央公論社常務取締役。
鉄道での旅を中心とした作品を数多く発表した。父は陸軍大佐で、後に衆議院議員となった宮脇長吉。娘に作家の宮脇灯子がいる。
埼玉県川越市で7人兄弟の末子(三男)として生まれる。東京府青山師範学校附属小学校、旧制成蹊高等学校卒業後の昭和20年、東京帝国大学理学部地質学科に入学。昭和26年、中央公論社に入社。
▽綱淵謙錠 全集50巻に『綱淵謙錠氏のこと』という随筆が収載されていて、本スレPart10〔456-〕で詳しくやっている。参照せよ。 大正13年 - 平成8年。樺太出身の小説家。
▽谷崎潤一郎〈明治19年 - 昭和40年〉
初期は耽美主義の一派とされ、過剰なほどの女性愛やマゾヒズムなどのスキャンダラスな文脈で語られることが少なくないが、その作風や題材、文体・表現は生涯にわたって様々に変遷した。
漢語や雅語から俗語や方言までを使いこなす端麗な文章と、作品ごとにがらりと変わる巧みな語り口が特徴。『痴人の愛』『春琴抄』『細雪』など、情痴や時代風俗などのテーマを扱う通俗性と、文体や形式における芸術性を高いレベルで融和させた純文学の秀作によって世評高く、「文豪」と称された。
▽谷崎潤一郎全集 「谷崎潤一郎全集」は、これまで中央公論社から谷崎の生前に一度、没後に二度、合計三回編纂され刊行されている。以下はそのリスト。 「谷崎潤一郎全集」全三十巻(昭和32年12月〜昭和34年7月、中央公論社) 「谷崎潤一郎全集」全二十八巻(昭和41年11月〜昭和45年7月、中央公論社) 「谷崎潤一郎全集」全三十巻(昭和56年5月〜昭和58年11月、中央公論社) 綱淵謙錠が担当したのは、昭和30年代に刊行されたいわゆる「自選全集」。
▽尾崎士郎〈明治31年 - 昭和39年〉 愛知県幡豆郡横須賀村(現西尾市)生まれ。早稲田大学政治科在学中に社会主義運動にかかわり、大学を中退し、大逆事件真相解明の目的で売文社に拠る。同社を本拠に活動していた高畠素之を追って国家社会主義に身を投じる。 大正10年に時事新報の懸賞小説で、大逆事件を取材した『獄中より』が第二席で入選し、以後本格的に小説家として身を立てる様になる。昭和8年から都新聞に『人生劇場』を連載し、文芸懇話会賞を受賞。これが大ベストセラーとなって以後20年以上も執筆し続ける大長編となる。
早くに右傾し、軍国主義鼓吹の小説や著作を多く書いたため、戦後公職追放となるが、以後は文壇から距離を置き、実業家などとのつきあいが多かった。川端康成とは関東大震災の翌年(大正12年)に出会って以来からの変わらぬ親友であった。
川端康成を通じて伊豆湯ヶ島温泉で知り合った梶井基次郎とは、馬込文士村において、妻の宇野千代を巡って関係が険悪となり、その後尾崎と千代は離婚した。
夫婦の仲はすでにぎくしゃくしていたが、宇野に好意を寄せる梶井とそれを憎からず思う宇野との親しい関係に対してわだかまりを感じていた尾崎は、友人宅で開かれたパーティで偶然居合わせた梶井の態度が気に入らず、梶井の顔に火のついた煙草を叩きつけるという事件を起こしてしまったのである。
▼宇野千代〈明治30年 - 平成8年〉
小説家、随筆家。多才で知られ、編集者、着物デザイナー、実業家の顔も持った。作家の尾崎士郎、梶井基次郎、画家の東郷青児、北原武夫など、多くの著名人との恋愛・結婚遍歴を持ち、その波乱に富んだ生涯はさまざまな作品の中で描かれている。
山口県玖珂郡(現・岩国市)出身。実家は酒造業を営む裕福な家だが、父親は生涯生業に就いたことはなく、博打好きだった。千代が幼いころに母親がなくなり、父親は千代と12歳しか違わない若い娘と再婚。千代は実母と思って育ち、大変慕っていた。この継母が「おはん」のモデルとされる。
▽中山義秀〈ぎしゅう〉
明治33年 - 昭和44年。日本の小説家。昭和13年、『厚物咲』で第7回芥川賞受賞。
福島県西白河郡大屋村(現白河市)生まれ。旧制安積中学(現福島県立安積高等学校)、早稲田大学文学部英文科卒業。
戦後は『新剣豪伝』『信夫の鷹』などの時代小説を書き、昭和39年、明智光秀を描いた『咲庵』で野間文芸賞を受賞した。
みかんを入れている網袋に石鹸を入れて水道の蛇口に吊るしておくんだ。
手を洗うとき、すごく泡立ちがよくて、汚れがおちるよ。
>>300 は吊るし方がおかしい。
正統派は、これだ。
▽子母澤寛〈明治25年 - 昭和43年〉
小説家。北海道厚田郡厚田村(現・石狩市)出身。
祖父の梅谷十次郎(通称斉藤鉄太郎)は、幕府から切り米20俵の家禄を受けていた御家人で彰義隊に参加し、箱館戦争に敗れて捕虜となったが釈放され、札幌へ移り開墾に従事するが成功せず、札幌から10里ほど離れた石狩の漁村・厚田で漁場を持った。
新聞記者をするかたわらで、旧幕臣の聞き書きをまとめ、昭和3年『新選組始末記』を出す。その後、『新選組遺聞』『新選組物語』の「新選組三部作」を出版し、その後の作家ら(司馬遼太郎・池波正太郎など)に引用される。
ずいぶん長くなったが、尾崎士郎、中山義秀、子母澤寛は、当時、綱淵謙錠が通っていた作家である。
▽子母沢寛全集 中央公論社版は全10巻で、昭和37年10月から翌年8月に刊行された。 綱淵謙錠は、「子母沢寛全集の次は、司馬遼太郎全集を出すべきだ」と、ある会議の席上、発言したそうだ。
▽昭和36年1月 綱淵謙錠と粕谷一希は、新編集長笹原金次郎の許、両次長として「中央公論」編集部に移った。 「風流夢譚」事件に対応する補強策であった。
▽風流夢譚事件〔嶋中事件〕 昭和36年2月1日に日本で起こった右翼による言論抑圧を目的としたテロ事件。 昭和35年11月上旬に雑誌『中央公論』に発表された深沢七郎の小説「風流夢譚」の中には、皇太子・皇太子妃が斬首される記述や、天皇・皇后の首のない胴体が登場したり、昭憲皇太后が野卑な言葉を語ったり面罵されたりする記述などがあった。 これを「不敬」であるとして右翼の抗議活動がすぐに起こったが、加熱する批判と擁護論争の中で、右翼団体大日本愛国党に所属していた少年Kが、中央公論社の社長嶋中鵬二宅に侵入して起こした殺傷事件。
この事件に関して第38回国会参議院で当局の警備の手落ちを指摘して緊急質問したのが西郷吉之助議員です。マジ。
西郷吉之助議員は、西郷隆盛と糸子の間に生まれた嫡男・寅太郎の三男。つまり、隆盛の孫。
右翼は「風流夢譚」のなかの皇族が処刑され冒涜される描写に憤慨したけど、「左慾」(サヨク)という皮肉を込めた漢字表記からも伺えるように、深沢は60年安保に見られた左翼運動で安易に語られた「革命」もパロディとしているんだよね。 小説の内容は、革命を煽動したり賛美したりするのではなく、むしろその愚かさと恐怖を書いたのであり、右翼が怒ったような内容ではなかった〔「よみがえる45年前の記憶 『風流夢譚』事件が私に教えた『言論の自由』より大切なもの インタビュー粕谷一希」〕。
深沢七郎は『楢山節考』も良かったな。 当時42歳の深沢の処女作である。
映画『楢山節考』の話だけど、左とん平は、「清川虹子のおっぱいは意外と張りがあった」とインタビューで答えていた。
▽笹原金次郎〈大正9年 - 平成16年〉 山形県出身。早稲田大学政経学部卒。昭和23年中央公論社入社。昭和36-41年『中央公論』編集長、取締役編集局長をへて退任。
▽当時連載中の司馬作品 週刊コウロン……「上方武士道」 小説中央公論……「新選組血風録」 週刊文春……「燃えよ剣」
▽空海の風景 中央公論の昭和48年1月号から、途中「長安から北京へ」のための休載を挟んで、昭和50年9月号まで掲載された。 連載開始時は笹原編集長であったが、その後は粕谷一希が編集長を務めた。 粕谷によると「空海の風景」は、司馬遼太郎の青春への追想だそうである。
芳賀徹『司馬さんと駒場』 司馬さんは、式典の日には忙中を上京、みごとな記念講演をして下さった。「アジア諸国との対比において見た日本社会の性格」という、まさに教養学科三十周年にふさわしい、中国・朝鮮・日本、そして貨幣と儒教と製鉄技術と役人道の問題をおおう、遠大で大胆で、しかも個人的見聞と見識とに裏打ちされた名講義であった。
▽芳賀徹〈昭和6年 - 〉
東京府生まれだが、本籍は山形県。父は中世日本史を専攻した歴史学者芳賀幸四郎で、父が左翼活動で東京高等師範学校を退学になった直後に生まれている。
昭和28年、東京大学教養学部教養学科フランス分科第一期生として卒業、続いて大学院比較文学比較文化専修課程第一期生。島田謹二に比較文学を学ぶ。
▽昭和56年 東大教養学部教養学科創設三十周年記念式典で司馬遼太郎が記念講演をした経緯が述べられている。
▽T・S・エリオット〈Thomas Stearns Eliot:1888年 - 1965年〉
イギリスの詩人、劇作家で文芸批評家である。
昭和56年には故人なんだが、ふざけすぎているぞ、東大教授。
▽トインビー〈Arnold Joseph Toynbee:1889年 - 1975年〉
イギリスの歴史学者。
トインビーも昭和56年には故人なんだが、どういうつもりなんじゃ、東大教授?
▽ケネス・クラーク〈Kenneth McKenzie Clark:1903年 - 1983年〉
英国の美術史家。
筆者は、この時代の外国の学者には昏い。申し訳ない。
▽国際関係論 国際社会において生起するさまざまな事象についての分析を行う研究領域である。 政治学の一分野と考えられることが多い。 国際関係論でもっとも大きな部分を占めるのが戦争の原因・過程と影響に関する研究である。 戦争・紛争以外の領域でも、様々な側面から国家の行動を説明しようとする試みが続けられている。その中でも、代表的なものはウォルツによる勢力均衡論である。突出した勢力を持つ国が現れるとそれに対抗する連合体が形成される傾向があるという仮説。
▽文化人類学 人間の生活様式全体(生活や活動)の具体的なありかたを研究する人類学の一分野。 人間について「文化」という概念を中心に、経験的な調査法(=インタビューと参与観察)を動員して、〈他者〉と〈他者がおりなす社会〉を観察し、そのことを具体的に考察する。 文化人類学の名称はアメリカにおいて用いられ、イギリスおよび多くのヨーロッパ諸国では「社会人類学」の名称が用いられてきた。他のヨーロッパ諸国や日本においては民族学(英語圏での Ethnology、ドイツ語圏での Ethnologie)の名称も用いられている。
▽江藤淳〈昭和7年 - 平成11年〉
戦後日本の著名な文芸評論家で、小林秀雄の死後は文芸批評の第一人者とも評された。
「心身の不自由が進み、病苦が堪え難し。去る六月十日、脳梗塞の発作に遭いし以来の江藤淳は、形骸に過ぎず、自ら処決して形骸を断ずる所以なり。乞う、諸君よ、これを諒とせられよ。平成十一年七月二十一日 江藤淳」という遺書を残して自殺した。
▽島田謹二〈明治34年 - 平成5年〉
日本の比較文学者・英米文学者。芳賀徹の恩師。
廣瀬武夫とアリアズナの恋の顛末は、東京大学の著名な教授である島田謹二氏が初めて詳細に研究し、1960年代に著している。日本で彼は 「比較文学の父」 と呼ばれている。
島田謹二は 『ロシアにおける廣瀬武夫』 という研究論文 (モノグラフ) を書き上げた。この労作をもとに、司馬遼太郎が、長編小説 『坂の上の雲』 の一節でこれら二人の若者たちの愛の物語を鮮やかに描写している。
国際関係論だの文化人類学だの総合文化研究科などというような鵺のような“すきま学問”の話は興味ない。 伝統文化を重んじる我々としては、法学部とか経済学部のようなスキっとした学問が好みである。
大蔵省を財務省というようなくだらん名称に変えるから、文書改竄などをしよる。
【図表】主要登場人物のおもな経歴(明治元年〜六年) 以下の人物が載せられている。 三条実美、島津久光、岩倉具視、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允、板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、大隈重信 副島種臣、大木喬任、前原一誠、伊藤博文、山県有朋、井上馨、黒田清隆、西郷従道、大山巌、桐野利秋、川路利良、勝安芳
五箇条の御誓文に加筆したという理由で、受験日本史ではかなりの重要人物である福岡孝弟は、この小説では活躍していません。 どうなさってますか?
▼福岡孝弟
明治維新では、後藤や板垣らと共に徴士参与として新政府に出仕。越前藩の由利公正とともに五箇条の御誓文を起草した。
明治4年、王政復古の功を賞されて賞典禄400石を授けられる。議事体裁取調所御用係を経て藩の少参事、権大参事。政府内では土佐閥の一人として、司法大輔に任ぜられた。
司法大輔時代の明治5年、司法卿の江藤新平と共同で、法律で妾を持つことを禁止すべきとの建白書を提出する。しかし、蓄妾は旧来の慣習であったため、建白はいつしか立ち消えとなって採用されることはなかった。
その後、元老院議官、文部卿、参議、枢密顧問官、宮中顧問官などの要職を歴任した。明治17年、子爵を授けられる。
大正8年(1919年)3月7日、薨去。享年85。
しぶとく生き延びられていたようですが、二度と歴史の表舞台には顕われなかったようですね。 五箇条の御誓文のところで頻出なんですが、こんな人物を受験日本史で覚えなければならないのですか? 日本史教科書から福岡孝弟の名前は、削除してはどうでしょうか?
昨年の12月19日に『翔ぶが如く』を始めて、2,331レスも費やして、やっと35巻が終わっただけだぞ。 まだ3巻もあるぞ。 全集を全部終える前に、画像君の寿命が尽きてしまわないか、心配になってきた。
>>263 引き続き、西郷従道→山県有朋→鳥尾小弥太となり、その後は皇族が都督を務めるようになる。
>>328 五箇条の御誓文や政体書は、受験日本史や憲法史の上では重視されるけど、実際の影響力から考えれば、まあ糞のようなものだね。
田布施システムの創作者・発信者一覧表 ・大室近祐 通称田布施の和田喜八郎と呼ばれる詐話師 ・鹿島昇 極左弁護士 同和問題にも取り組む極左弁護士 新国民社を設立し、陰謀論を出版 ・太田竜 鹿島昇の新国民社を引き継いだ極左 元日本革命的共産主義者同盟委員長 ・鬼塚英昭 大分の部落民で竹細工職人 鹿島昇の本に影響を受け陰謀論を 在日コリアンの会社から出版 ・リチャード輿水 在日コリアンの会社から陰謀論を出版 ・朴甲東 鬼塚や輿水が陰謀論を出版してる成甲書房を設立 朝鮮共産党機関紙「解放日報」元記者 ・犬丸勝子 日本共和党の極左 ・松重正 陰謀論で親韓 ・松重楊江 陰謀論 ・松重 名前は不明だが鹿島の本に影響を受けている 日韓親善協会、日中親善協会会員でもある共産党員
続き ・原田伊織 左翼 小説形式のブログで長州を貶める内容を発信 出版のソースに史料・文献が少なく司馬遼太郎などの 小説をソースにしている ・ツイートTVの老夫婦 共産党支持者 わざわざ山口県にまで出向き 地域を撮影しYouTubeで発信してる陰謀論者 動画の出だしに必ず「はぁい」と不気味な声で言う 会津プロパガンダ同様、極左だらけで歴史家がいない に加えて部落、朝鮮人、親韓が絡んでるが特徴的
悪いひとたちがやって来て
みんなを殺した
理由なんて簡単さ
そこに弱いひとたちがいたから
女達は犯され
老人と子供は燃やされた
悪いひとたちはその土地に
家を建てて子供を生んだ
そして街ができ
悪いひとたちの子孫は増え続けた
朝鮮進駐軍 関東大震災 日本人10万人大虐殺
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★ポリス ▽自由と権利 FreedomやLibertyの翻訳語としての「自由」は、福沢諭吉によって作られた。福沢の『西洋事情』には、FreedomあるいはLibertyは決して我儘放蕩を意味しないとわざわざ断っている。 福沢は欧米において世界を臣従させるような大文明が興った基礎には、自由と権利があるという。
▽「ポリスが国家をつくる」 川路利良は、警察こそ文明の基礎だという。 ただし、川路は、警保の職の目的は「全国人民の安寧を護り、政府高官の独善を許さないところにある」としているから、彼の思想には国権の管理下において人民の自由と権利を護りたいという気分があった。
司馬さんは川路〈利良〉を「としなが」と読むことに固執されている。 川路がパリのホテルの宿帳にローマ字で「としなが」と署名したことが根拠になっている。 しかし、当時は別の漢字で「としなが」と名乗っていたのであろう。 その後〈利良〉と改名したのであるから、「としよし」でよい。
「良」を人名として用いる場合、「なが」と読む例が皆無というわけではない。 「利良=としなが」説も、完璧に葬り去られるべき見解じゃないよ。
▼川路の官歴 明治4年秋、西郷の招きで東京府大属となり、同年に権典事、典事に累進。翌明治5年5月、邏卒総長に就任した。 同年8月、警保助・大警視となる。同年9月、司法省の西欧視察団8人の一員として欧州各国の警察を視察する。 帰国は明治6年夏。現在は同年11月。
とても簡単な稼ぐことができるホームページ 念のためにのせておきます 検索してみよう『立木のボボトイテテレ』 2Q3
書いた司馬遼太郎が悪いのか 司馬遼太郎を信じるヤツがバカなのか まあ、どっちもバカで悪いんだろうが 司馬は世良と乃木将軍の子孫に詫び あれは創作だと一筆書くべきだったよな
久光の浜町屋敷 日本橋浜町。人形町の東、墨田川畔にある。
【諫早作次郎】 慶応元年11月29日、四境戦争(第二次長州征伐)に対応する諸兵の部署を定められた。 膺懲隊は山代(玖珂郡本郷村)へ配置替えになった。 かわって干城隊の分隊(隊長諫早作次郎 のち衝撃隊)と徳地宰判の狙撃兵そのほか諸兵が入った。 この隊はのち、芸州口の戦(小瀬川口)に出陣している。
【伊藤退三】 越後北蒲原郡水原(すいばら)出身。 水原町は、平成16年、合併により阿賀野市の一部になる。
鉋屑を近年とんと見ていない。 死ぬまでにもう一度鉋屑を見てみたい。
明治3年11月
両国中村楼で前原一誠・佐々木男也 vs 山縣有朋・三浦梧楼
中村楼は本所区元町(現墨田区両国1丁目)の隅田川沿いにあった。
『翔ぶが如く』は江華島事件を数行で済ませているところがいただけないな。 江華島事件に続く日朝修好条規によって朝鮮は開国したのであるから、 実質は遣韓論であるところの西郷の征韓論は、太政官が実現したことになる。 ここを端折るというのはよくない。
あえて省いたのかもしれんよ。 征台の役につづく北京談判で大久保が成功し、日朝修好条規(明治9年)では黒田清隆が成功した。 詳しく書いていると西郷が木偶に見えてしまう。
太田黒伴雄が神官を務めた新開太神宮(通称:お伊勢さん)は、熊本城の西南約5qの地点にある(熊本市南区内田町)。
文安元年(1444年)、伊勢神宮を熱心に信仰していた太田黒孫七郎が、天照大神の託宣を受け、翌年に伊勢神宮を当地に勧請し創建した。 天正年間(1573年 - 1592年)、佐々成政により社殿が焼かれた。 その後、加藤清正により再興され崇拝を受け、細川家の代になり、手厚い保護を受けた。 幕末の思想家林桜園はこの宮を深く崇敬し、宮部鼎蔵をはじめ桜園の門下生も同様に信仰を注いだ。 敬神党の首領である太田黒伴雄が、祠官太田黒伊勢守に入婿し神主として奉職した。 神風連の変の挙兵の宇気比が行われた社でもある。
明治4年、肥後国には熊本県と八代県が設置された。 熊本県はその後白川県と改められ、明治6年、白川県と八代県が合併して白川県となった。 明治9年2月、再び熊本県に改名され、現在の熊本県が誕生した。
【千島・樺太交換条約】 明治8年5月7日に日本とロシア帝国との間で国境を確定するためにサンクトペテルブルクで署名され、 同年8月22日に東京にて批准され締約された条約。 スツレモーホフとの協議は延々と続いたが、榎本武揚は粘りに粘り、 ついに樺太を放棄する代わりに、カムチャツカ半島まで延びる千島列島全島の譲渡を勝ち取った。
安岡良亮(享年51)
太田黒伴雄(享年41)
司馬さんは、太田黒伴雄は、明治9年の時点で43歳と書いておられるな。
数え歳で計算する習慣が抜けきらないんだろうな。 2歳年長で書かれることが多い。
太田黒伴雄は、幕末の頃は大野家の養子で、大野鉄兵衛と称していた。
加屋霽堅 上野堅吾……国学 斎藤求三郎……洋学 富永守国……勤王運動家 石原運四郎……陽明学 阿部景器……人柄のよさ
【秋月の乱】 明治9年10月24日に熊本県で起こった神風連の乱に呼応して、旧秋月藩の士族宮崎車之助(しゃのすけ)ら約400名によって起こされた反乱である。
益田静方(しずかた)1850−1876 明治時代の士族。嘉永3年生まれ。筑前秋月藩士の子。 明治9年秋月の乱に加わり、捕らえられて今村百八郎らとともに同年12月3日処刑された。27歳。
前原は、健康がよほど思わしくない。先月五日に目方をはかってみたところ、以前より一貫八百匁も減っているのである。 心労としか言えないようであった。後日、前原がその日記に、 ――全身震動、頭浮クガ如ク、翔ブガ如ク と、自分の症状を書いている。
【大楽源太郎の蜂起】 明治3年、多くの門下生が奇兵隊脱隊騒動を起こすと、首謀者の嫌疑を受け藩庁から出頭を命ぜられる。 ここに至りついに山口より脱走し、豊後姫島に潜伏した後、豊後鶴崎において河上彦斎と語らって二卿事件を企てるも失敗。 さらに久留米に走って応変隊を頼るが、新政府からの追及を受けた同隊隊士の川島澄之助らの手によって、翌4年に斬殺された。
古田十郎 神風連幹部。 大島邦秀中佐は熊本鎮台砲兵営に所属していたが、明治9年10月24日の神風連の乱において、熊本城の大兵営に駆けつけ、防戦したのちに戦死した。 名に負う剣客であったという大島は、駆けつけた南坂で神風連の【古田十郎】、青木暦太と対峙し、善戦しているところを太田黒伴雄に胸を刀で貫かれた。
種田政明の写真はない。
妾の小勝の写真はあった。
墓は甲府の瑞泉寺にある。
司馬さんは、安岡良亮邸襲撃班のリーダーを吉岡義節としているが、 吉村義節(ぎせつ)の誤りである。
安岡良亮邸襲撃部隊……吉村義節班 【被害者】 安岡良亮 →3日後に死去 小関敬直……旧小倉藩士、熊本県参事 →明治10年3月病院で死去 仁尾惟茂……一等警部(県警指揮者) 村上新九郎……六等警部 →現場で死去、愛敬元吉の両眼を抉り取る 坂口静樹……一等巡査 →現場で死去
神風連第二隊……砲兵第六大隊襲撃 週番士官:坂谷敬一砲兵砲兵少尉
神風連第三隊……歩兵第13連隊襲撃 週番士官:福原豊功歩兵大尉(司馬は福原豊助としているが誤り)
熊本鎮台逆転劇の英雄 参謀児玉源太郎少佐 歩兵第13連隊第3大隊大隊長小川又一 歩兵第13連隊連隊長与倉知実中佐
神風連の乱の当日に熊本にいた児玉源太郎。 おなじく熊本鎮台に属しながら小倉営所に常駐する第14連隊連隊長だった乃木希典。 いつもツイている児玉と、いつもツイていない乃木。
国名を聴いただけでほんわかした気分になれるのは、ホンジュラス。
歴代熊本鎮台司令長官 明治4年:桐野利秋少将 明治6年4月:谷干城少将 明治7年:野津鎮雄 明治9年6月:種田政明 明治9年:谷干城……参謀長:樺山資紀
【豊前豊津】 豊前の豊津陣屋は、明治2年に小笠原忠忱によって築かれた。 慶長2年(1866)第二次長州征伐で敗れた小倉藩は小倉城に自ら火を放ち退去した。 慶長3年(1867)に長州藩と和睦した小倉藩は香春に移り、後に豊津に陣屋を築き豊津藩となったが、明治4年廃藩置県により廃城となった。 『翔ぶが如く』にちょくちょく登場する豊津士族とは、旧小倉藩士のことだと思えば、ほぼ間違いない。
【秋月藩】 福岡藩の支藩。元和9年(1623年)黒田長政の三男・長興が福岡藩より5万石を分知され立藩した。 藩庁は秋月陣屋(福岡県朝倉市)。無城大名ではあるが城主格が与えられていた。
香春町(かわらまち)
福岡県田川郡香春町。豊津の西方約10qに位置する。その西南に田川市がある。
なお、豊津は福岡県京都郡みやこ町豊津。
>>385 旧小倉藩といえば、戦闘的佐幕藩だろう。
こんな連中を信頼した旧秋月藩士が阿呆。
歩兵第十四連隊(小倉)連隊長 明治8年12月まで:山田頴太郎少佐……前原一誠の実弟 その後:乃木希典少佐……連隊長心得
福原和勝(1846−1877) 長府藩士村上通虎の三男として生まれた。幼名は百合勝。 後に同藩士・福原俊親の養子となって福原俊行を名乗り、後に和勝と改めた。若年ながら武芸に秀で、藩主・毛利元周の護衛等も務めた。 元治元年(1863年)から始まる下関戦争では藩内の青年を組織、翌年の英米仏蘭連合艦隊の攻撃では、上陸した幕府軍の陸戦隊と死闘を繰り広げた。 佐賀の乱では佐賀征討総督幕僚参謀として参戦。
御堀耕助=太田市之進(司馬さんはいつも太田市之允とされる)
太田市之進から御堀耕助に改名したのは慶応元年(1865年)。 長州藩士・太田要蔵の長男として萩に生まれる。18歳で江戸の斎藤弥九郎道場に入門し塾頭を務める。帰藩後、世子毛利定広の小姓となる。 元治元年(1864年)7月の禁門の変に参加するも破れて帰藩。 四カ国連合艦隊との戦闘に参加後、山田顕義・品川弥二郎らと御楯隊を結成し総督となる。 同年12月(1865年1月)、高杉晋作が決起すると(功山寺挙兵)、これに呼応して御楯隊を率いて俗論党と戦い、呑水、赤村の戦いなどで活躍した。 慶応3年(1867年)、参政となる。同年8月、柏村数馬と共に京都に赴き、薩摩藩の小松清廉・西郷隆盛・大久保利通らと倒幕の実施計画について会談した。
杉民治(みんじ) 吉田松陰の実兄。 『花燃ゆ』では原田泰造が演じたらしいが、まったく記憶に残っていない。
歩兵第十四連隊(小倉)連隊長時代の乃木希典も元へ、実弟の玉木正誼が訪ねて、前原一誠への加担を勧めている。 乃木はその情報を種田政明と山縣有朋に通報している。 つまり実弟を売ったことになる。
乃木自身が前原一誠の乱への加担を疑われたので、実弟を売らざるを得ない窮地に立たされたのかもしれんな。
東光寺(萩市)
山口県萩市にある黄檗宗の寺院。毛利家の菩提寺。
吉田松陰誕生地近くの萩市大字椿東字椎原にあり、元禄4年(1691年)長州藩3代藩主毛利吉就が建立した。
熊本の神風連につづいて秋月も蜂起したとの報を受けると、前原一誠は26日、山田穎太郎、佐世一清(両者とも前原の弟)、奥平謙輔、横山俊彦など主な同志を東光寺に集め、「国体を挽回するはこの時にあり」と告げて蹶起の趣意書を作った。
乃木希典と玉木正誼が別離の宴のつもりで酒をくみかわした鎮海楼は、現在でも同名の割烹旅館がある。 明治9年当時の店が続いているものかどうかは筆者にはわからないが、おそらく無関係。
希典と正誼が上がったのは、遊郭である大坂屋の対帆楼だと思う。
対帆楼はのちに鎮海楼と名前を変えた。
関口隆吉
天保7年(1836年)江戸本所相生町に幕臣関口隆船の次男として生まれる。関口家は今川一族の関口氏広の子孫。
嘉永元年(1848年)斎藤弥九郎の練兵館に入門する。当時の塾頭は兄弟子となる桂小五郎であった。
このときの桂小五郎とのコネクションで、山口県令に任命されたものと思われる。
諏訪好和大尉 広島鎮台山口営所の大隊長 前原軍との萩における市街戦は、明治9年10月31日。
佐藤信寛 島根県令。曾孫に佐藤市郎(海軍軍人)、岸信介、佐藤栄作らがいる。
宇龍浦
前原一誠が捕縛された場所
明治9年12月3日に山口裁判所・萩臨時裁判所(裁判所長・岩村通俊)にて弁明の機会を与えられぬまま関係者の判決が言い渡された。 首謀者とされた前原一誠と奥平謙輔および横山俊彦、佐世一清(前原実弟)、山田頴太郎(前原実弟)、有福旬允、小倉信一、河野義一は即日斬首された。
斗南藩領
明治3年4月16日に正式に移住命令が下り、先発役人が下北半島の田名部(むつ市東部)に到着したのは5月2日だったという。
☆今戸 東京都台東区にある地名。浅草の北西、墨田川沿岸。 永岡久茂の寓居があった。
☆草倉銅山
新潟県東蒲原郡阿賀町鹿瀬町角神にある草倉銅山は明治に入って古河鉱業の創立者古河市兵衛によって経営された。
明治末期になると産出量は減少し、大正3年休山になると多くの鉱夫が足尾銅山へと移っていった。
最盛期は6,000人の人々が暮らしたという。福島県喜多方の西方約30qの地点。
木戸孝允は、草倉銅山の経営を任せることを餌にして、永岡久茂を太政官に誘った。
☆新富町
東京都中央区。東京駅からみると、東南に京橋→銀座→新富町となる。
有楽町線では銀座一丁目の次の駅。
☆日本橋小網町
西郷隆盛の東京における屋敷があった地名として幾たびも登場した。
今回は永岡久茂の書生井口慎三郎が千葉県庁襲撃のための移動手段として船宿に舟をチャーターした地名として登場する。
☆登戸(のぶと)
永岡らが千葉県庁襲撃のための上陸予定地としていた湊。
千葉市中央区登戸。現在は沿海の埋立により海岸から約1q離れた町になっている。
JR総武線千葉駅のすぐそば。
【思案橋事件】
最初の被害者は、警部補寺本義久(30歳 / 三重県士族)。
斬ったのは井口慎次郎(司馬は井口慎三郎としている)。
【伊勢暴動】 明治9年12月に三重県飯野郡(現在の三重県松阪市)に端を発し、愛知県・岐阜県・堺県まで拡大した地租改正反対一揆。 受刑者は50,773人に上り、当時最大規模の騒擾事件となった。 指導者は森田源之助。
☆ 大橋一蔵清贇(せいえん / 1848−1889)
明治9年前原一誠らがおこした萩の乱に呼応して反乱をくわだてたが失敗して自首。
特赦ののち明治15年新潟県弥彦村に私学明訓校を設立。
北越殖民社をおこし、北海道開拓事業にもつくした。明治22年2月13日死去。
☆ 野村忍介(おしすけ)
弘化3年(1846年)折田清太夫の第二子として薩摩国鹿児島郡鹿児島近在西田村(のちの鹿児島市常盤町)に生まれる。
戊辰戦争のときは、城下四番小隊(隊長は川村純義、監軍は永山弥一郎)の分隊長として鳥羽・伏見の戦いに参戦した。
次いで東山道軍が大垣、池上、内藤新宿を経て白河に進撃すると、これに続き四番小隊の小隊長として有数の激戦であった白河攻防戦で戦い、白河城陥落後は棚倉に転戦した。
会津若松城に進撃する際は、川村指揮の下で十六橋の戦いに勇戦、後に会津若松城包囲戦に参戦し軍功を挙げた。
明治4年、藩が御親兵を派遣した際、西郷隆盛に従って上京し近衛陸軍大尉に任じられたが、この航海中錯乱した者に斬りつけられ、鼻に刀傷を負った。このため「ハナ」というあだ名がついたとされる。
後に伊予大洲県に判事として派遣されるが、明治5年にこの職を辞し、鹿児島へ帰郷した。
https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-c2-df/qqs499aqk/folder/228323/11/15321811/img_3_m?1515840196 日本テレビ年末時代劇スペシャル『田原坂』(1987年)では、福本清三が演じた。
もうひとりの鹿児島の警察幹部は中島建之で、こちらは加納竜が演じた。代表曲は「エロスの海」。
司馬さんが「にんすけ」とルビを振っていたので、ずっとそれで覚えていた。
☆ 日当山温泉
鹿児島県霧島市隼人町内。
大阪府庁舎
西区江之子島
大日向清緝(きよつぐ)一等警部……大阪府警察課長 福原元資警部……旧与力
明治9年8月21日 - 宮崎県が鹿児島県に合併され、宮崎県庁は支庁へ格下げされた。 明治16年5月9日 - 日向国のうち志布志郷・松山郷・大崎郷を除いた地域をもって再置県が認められ分県が成立した。 なお、同日に富山県・佐賀県も再置されている。
木戸孝允 明治7年5月……台湾出兵に抗議して参議を辞職 明治8年8月……大阪会議 →参議に復職 明治9年3月……元老院が骨抜きにされたことに抗議して参議辞職 明治9年10月……萩の乱 →前原一誠を極刑に処す
明治9年3月に参議は辞めたが、内閣顧問という職で太政官に留まっているがな。
林友幸 幕末は林半七の名で登場する。 文政6年(1823)生まれなので、明治9年の時点では53歳。
征矢(そや) 雁股・鏑矢などに対し、鋭い鏃をつけた戦闘に用いる矢のこと
内務少輔林友幸は、大山に丸めこまれてしまいました。
村田新八と高橋新吉の件は、のちに伏線回収があるが、沼間守一は放置されたままだな。 明治8年7月に河野敏鎌の推薦で元老院権大書記官となっているから、宮崎八郎の件で絡めることもできただろうに。
沼間守一は明治10年の西南戦争に際し「義勇兵募集演説会」を開いているから、 登場するとすれば、それが最後の機会だな。
黒岡季備(すえよし) 嘉永5年(1852)生まれ。明治4年、清の上海に派遣されて中国語をまなぶ。 明治7年、台湾出兵の際、西郷従道に随行。ついで事態収拾のため北京に派遣された全権大久保利通の随員となる。 清との和議成立後、台湾で事業をおこした。明治18年10月14日死去。34歳。薩摩出身。
「男子の顔色は、灑々楽々としていなければならない」(大久保利通) 灑落=さっぱりしてこだわらないさまのこと
宮内報告 警視庁職員の鹿児島県士族宮内盛高ら数人の帰郷報告によって、太政官は鹿児島暴動の鎮圧計画に入った。 宮内の帰郷は明治9年12月27日、帰京は翌年1月4日である。
桐野利秋の出身地吉野村
合併前の鹿児島市地図
中原尚雄は、明治6年の政変で下野した警視庁組のひとりで、征台の役に従軍していたんだな。 だったらそのとき出せよ。
田中直哉
評論新聞社に潜りこんだ警視庁の密偵となっている。
田中直哉については、次のような書物が市販されている。
"鹿児島士族がこぞって西南戦争に臨んだわけではない。
親族、親兄弟が敵味方に分かれる事態を避けるために、西郷の決起を阻止しようと動いたのが、川内平佐の郷士・田中直哉であった。
田中は、戦前、浄土真宗解禁を実現し、戦後は民権論者として県会議員を務めた鹿児島の誇るべき俊英である。"
☆ 加治木常樹
西南戦争では西郷隆盛にしたがい、捕らえられて懲役1年。
のち挙兵の真相が誤伝されていることを憂い「西南血涙史」をかく。
明治15年平岡浩太郎らと大陸経営を画策し朝鮮にわたるが時機を逸し、のち福岡県警察部につとめた。
☆ 小根占
平成17年に佐多町と合併して南大隅町という味もそっけもない糞つまらん町名に変わっている。
島津氏よりも出自が古い武家の名門の名称は、平成のバカのおかげで消えてしまった。
薩摩の小松氏は、禰寝氏から出ている。
なお、小根占村と呼ばれていたのは昭和16年までで、それ以降は根占町。
☆ 雄川
河川付近の町名は根占川北・根占川南となっているのに、地図で見ると川そのものは雄川となっている。
なお、司馬さんは小根占川(麓川)と書かれている。本文もカッコ内も両方間違い。
麓川は錦江町に河口がある。
上流にある雄川の滝
☆ 松山信吾 西郷が最後の遊猟をしていた大隅の根占の郷士松山信吾は、私学校徒に捕えられることなく、うまく三邦丸に乗り込み、東京警視庁にもどった。
☆ 加世田景国 嘉永元年(1848)生まれ。野村忍介の実弟。 戊辰戦争で各地に転戦する。明治10年西南戦争がおこると、西郷軍にくわわって重傷を負い、同年3月27日陣中で死去。 30歳。本姓は折田。
>>438 そもそも雄川は、「大隅有数の大きな川」じゃないしw
エジプト人にOgawa Riverと言ったら、「小川」のジョークだと思われるレベル。
雄川の滝は、昨年のNHK大河ドラマ「西郷どん」のオープニングで使用され、一気に人気に火が付いた鹿児島の観光スポットだな。
☆ 疝気 漢方用語。下腹部の痛みの総称。胃炎、胆嚢炎あるいは胆石、腸炎、腰痛などが原因となることが多い。
☆ 谷口登太 中原尚雄は旧知の谷口登太に「自分は刺し違えてでも西郷を止める」といったと言われる。 中原尚雄が郷里伊集院で余生を送って臨終の間際、地元青年団が駆けつけて中原尚雄に視察か刺殺かを問うたところ視察と明言したという。
中原尚雄は根津甚八がドンピシャのはまり役だったな。
>>444 谷口登太は、それとはまったく反対の事実を述べているな。
中原尚雄は西郷を暗殺すると言ったと死ぬまで言っていたそうだ。
戦後の裁判において、谷口は「中原尚雄は刺し違えてでも西郷を止める(説得する)と言った」と口供した。 そのため釈放後鹿児島で温かく迎えられることはなかった。 かつての戦友たちから冷遇されるのがたまらなくなり、裁判とは反対のことを言い出したのではないかな。
谷口登太は貧乏人で、学問もなく、性根もすわっていない。 私学校でも裁判所でも、都合のいいように言い包められたのだろうよ。
☆ 高城七之丞 「タカギ」ではなく「タキ」と読む。 弘化4年(1847)生まれ。鹿児島に退隠した西郷隆盛らの動向を内偵していた政府の密偵を捕らえ西南戦争の発端をつくる。 西郷軍三番大隊三番小隊長として熊本城攻めに参加。明治10年9月24日城山で戦死。31歳。
>>448 見てきたように谷口登太の人格を断定的に規定してはならない。
私学校側は太政官憎しの先入主をもって谷口の言葉を聴く、太政官側も戦後の取調べであるから私学校憎しの感情で谷口の言葉を聴く。
感情が過熱していると、同じ言葉が正反対の意味に解釈されることはある。
俺は嫁と姑の喧嘩を二代にわたって60年間見続けてきたから、そのことがよくわかる。
世良の「奥羽皆敵」の手紙は会津による工作だった!! 会津藩より世良修蔵の偽手紙をこしらえて 大山格之助へ遣わす途中、仙台人が この手紙を見たところ、仙台を滅ぼすとの 文字があった。仙台は藩を挙げて怒り どうせ滅ぼされるなら、会津に与して滅ぼうと ついに世良を殺して、奥羽諸藩と連合したのである。 世良の暗殺は、仙台藩が一向に本気で 会津攻めを行おうとしないことに 立腹した世良が、秋田に転戦していた 同役参謀大山格之助にあてた書簡に 「奥羽皆敵と見て」と書いたことを 仙台人が知り、怒って殺害したというのが通説 (『仙台戊辰史』など)である。 だが、この大村書簡によると 明治元年九月の時点で仙台藩は「世良書簡は偽造だった」と認めていた。大村は、仙台藩の 嘘(偽造を会津の手によるものとした) とみて、憤慨したものらしい。 大村益次郎研究家 山本栄一郎
☆ 草牟田陸軍火薬庫(そうむた)
明治10年1月、明治政府は武器弾薬を輸送船へと積み込もうと試みたが、私学校生徒が激怒する。
1月29日の夜に火薬庫の1棟を襲撃の上破壊して弾薬6万発を強奪。残った火薬庫も翌日に襲撃した。
刺客問題(真偽はさておき刺客と誤解される懼れは太政官に予測可能)といい、弾薬撤収問題といい、 太政官が薩摩私学校を挑発した事実に間違いはないな。 西南戦争を始めたのは太政官の方だ。
☆ 汾陽光輝(かわみなみ)
草牟田火薬庫を襲撃した私学校党のリーダー。
日テレ「田原坂」では鈴木ヤスシ。
https:// 芸能人の子供まとめ.net/wp-content/uploads/2019/01/WS002463-300x283.jpg
鈴木ヤスシの画像やりなおし
草牟田火薬庫襲撃シーンに石井富子が出ていたね。 汾陽光輝の親族みたいな感じだったけど、そうなの?
石井富子さんの役は村田三介の妻・佐和子。 村田三介は植木の戦い乃木希典少佐の軍旗を奪った小隊長。
石井富子は時代劇には欠かせない名脇役だったな。
特撮にも頻出「電磁戦隊メガレンジャー」より
>>444 「自分は刺し違えてでも……」は、命懸けで説得するという意味の幕末の常套句だよ。
この言い回しが
>>450 が言うように、私学校側および太政官側で理解が異なったのだろうな。
翔ぶが如くとまったく関係ないが、ひさしぶりに武原英子を見たので貼っておく。
当時、保健室の先生にしたい女優No.1と呼ばれた。そんなのないけど。
>>459 西郷暗殺は私学校側が捏造した可能性が強い。
1月29日に草牟田火薬庫事件が起きている。
翌日、篠原以下が高城家に会合して、その対策に苦慮する。
東京獅子は西郷暗殺団であるとすれば戦の大義名分ができる。
谷口登太が中原尚雄からメンバーの氏名・止宿先を聞き出すのは、その後のことだ。
☆ 菅野覚兵衛
天保13年(1842)土佐藩の庄屋千屋民五郎の三男として和食(わじき)に生まれる。
はじめ千屋寅之助の名で登場するが、いつから菅野姓になるのかは不明。
勝海舟の紹介で海軍省に入省し海軍少佐となる。
西南戦争勃発直前に海軍造船所次長として鹿児島県に赴任し、その発端となった『弾薬掠奪事件』に係わったため海軍の中での立場は不遇に終わる。
この事件では私学校徒らの襲撃・略奪を防ぐため弾薬を水に浸すなどの処置をし事態の収拾に奔走した。
まもなく造船所を閉鎖、官職を離れ同地を去り、のち明治17年(1884年)に辞職。
警視庁帰郷組が暗殺団であったのか否かに興味はゆきがちですが、
西郷以下の私学校党を叛乱に追い込んだのは、政府の挑発に乗って火薬庫を襲撃した事件です。
西郷暗殺云々は私学校党が叛乱するための大義名分にすぎません。
つまり、いちばんの阿呆は汾陽光輝(
>>454 )。
とはいうものの「田原坂」で最高に愉快なシーンは、火薬庫襲撃シーンなんだわな。 鈴木ヤスシの汾陽光輝の姿が痛快。
母国での二度目の賜暇を終えたアーネスト・サトウは、横浜へは立ち寄らず、 上海から長崎を経て鹿児島へ直行した。鹿児島上陸は2月2日。 ウィリアム・ウィリスをためである。なんというタイミングの良さ。
☆ 高須
根占の北方にある鹿屋市の字。
西郷は高須から海路で鹿児島に向かう予定でいたが、あいにく海上が荒れていた。 やむなく陸路をとった。垂水・加治木を経て鹿児島庁下に入ったのは、2月3日夜である。
☆ 大洲鉄然
浄土真宗本願寺派の僧。念仏停止が解禁されたので鹿児島に布教に来ていた。
中原尚雄らが逮捕された際、太政官の密偵と勘違いされ、ともに私学校党に逮捕された。
大洲鉄然は長州の勤王僧月性の弟子。
中原逮捕は西郷の鹿児島帰郷と同日の2月3日。 この日から凄惨な拷問が始まる。
>>450 谷口登太は幕末の志士活動を経ていないから、「刺し違えてでも止める」=命懸けで説得する
という幕末に流行した常套句を知らなかったと思う。所詮薩摩の芋。しかも城下に住いのない田舎者。
谷口が中原はマジで西郷を刺すつもりと勘違いしたんだろうな。
☆ 野村綱 弘化2年(1845)、砲術家野村好酔の子として鹿児島天神馬場に生まれる。 西南戦争勃発直前の明治10年2月、内務卿大久保利通の命により密偵として鹿児島に帰県したものの、県当局に拘束され、西郷隆盛暗殺計画への大久保の関与を匂わせる口供書を取られることになった。 明治27年3月、非職満期となり退官。宮崎の江平に移り、同月実施の第3回衆議院議員総選挙に宮崎県第一区から立候補したが次点で落選した。
☆ 岩元基(はじめ)
密偵野村綱が鹿児島城下に潜入しようとした迎陽丸に乗り合わせ、野村から助けを求められたという場面で登場する。
野村綱の取り調べ調書に出てくるのだそうだ。
http://www5d.biglobe.ne.jp/ ~iamarock/iwamoto/familyhistory/album/motoi2.jpg
向井覚著『建築家・岩元禄』相模書房p34の写真
2月17日早朝に野村綱の口供書が大山綱良により西郷隆盛にもたらされる。 西郷は刺客問題は川路の先走りで大久保の関与せざるところと考えていた。 ところが、野村綱の口供により弾薬撤去問題が大久保の直接の命であることを知るに及ぶ。 西郷の心が開戦におおいに傾くのは、このときからである。
☆ 鹿児島異人館
日本初の洋式紡績工場である鹿児島紡績所の技術指導にあたったイギリス人技師の宿舎で、慶応3(1867)年に建てられた。
現在はウィリアム・ウィリスの公舎になっている。
ウィリスは薩英戦争(文久3年)を軍艦アーガス号の甲板から眺めた。
2月3日
西郷 :小根占から武の自宅に帰る。中原尚雄逮捕。
サトウ:桜島観光
2月5日 西郷が開戦を決意した日とされている。 菊次郎の記憶に、この日西郷が桐野あるいは篠原にむかって 「そいじゃ、おいの躰をおはんらにあげもっそう」と言うのが聞こえたという。
ここはおまえの日記帳じゃないぞ。 チラシの裏にでも書いて桶。
2月6日(雨)
西郷 :私学校大講堂において開戦の評定(寄合)を行う。
サトウ:苗代川観光
開戦が決定されたとたんに、西郷・桐野・篠原は愚物に描かれます。
2月7日 西郷 :作戦会議 サトウ:苗代川から鹿児島庁下へ帰る
☆ 川村純義
天保7年(1836年)川村与十郎の長男として生まれる。家格は御小姓組で最下級の藩士であった。
妻の春子は椎原国幹の娘であり、椎原国幹の妹は西郷隆盛の母糸子であった。川村は西郷から実弟のように可愛がられたという。
川村は海軍の実質的指導者として諸事を取り仕切り、海軍創始期を担った。
西南戦争後、参議・海軍卿に就任し、海軍整備を継続したが、山縣有朋と異なり政治の世界とは一線を画した。
太政官制のもとでは枢要な地位を占めたが、内閣制度への移行と同時にその座を追われた。
☆ 中井弘
天保9年(1839年)鹿児島城下に藩士横山休左衛門の長子として生まれる。元服後、横山休之進。
鹿鳴館の名付け親である。
岩倉具視と大久保利通が囲碁をやっていた際に碁盤を転覆させたり、樺山資紀を公衆の面前で大声で叱責したり、宴席にて明治天皇の御前で西村茂樹をビール瓶で殴打するなど、奇行が多かった。
井上馨の妻の武子新田俊純の娘は、はじめ中井の妻であった。
>>462 鹿児島の異変を太政官が知ったのは2月3日だが、これを知らせたのが菅野覚兵衛というのは意外だった。
2月9日 川村純義を乗せた高雄丸、錦江湾に到着。 艦長は伊東祐之。
>>341 去年のNHK大河もトシヨシだったな。
良=ナガと読む例が他にないからな。
乱暴者でも、生きた時代が張飛や呂布ぐらい遥か昔なら好きになれるが、 百数十年の近さだと、辺見十郎太のようなキャラは好きになれないな。
客を殺して肉饅頭にしてしまうおばさんは好きになれるの?
☆ 樺山資綱 樺山資之=樺山三円は間違いないようだが、資之と資綱が同一人物であるかどうかは不明。 樺山資之は、「木戸孝允日記」明治7年2月27日付、黒田清隆あて書簡に登場します。 樺山資之と申仁、屡拙宅へ来訪之よし。 折柄留守中なとに而、面会も不得仕。 元司法省出仕之樺山(註:資綱)とは相違候哉。 自然御承知に御座候へは、是又御示奉願候。 というものです。 木戸は、自宅をしばしば訪問する樺山資之なる人物が何者かわからず、黒田に、かつて司法省に務めた樺山資綱とは別人なのかと質問しています。
西南の役の本質を最も鋭く捉えていたのは、ハリー・パークスだな。 パークスの書簡を読んだ。脱帽した。
パークスが書簡を送った相手であるダービー外相は、第15代ダービー伯爵エドワード・スタンリーである。 オークスとダービーの創設者として高名なダービー伯爵は、第12代。
馬が走ってく 馬が走ってく でっかい鼻の孔おっぴろげて 馬が走ってく ?
パークスと比較すると勝海舟の頓珍漢ぶりには呆れかえる。 政府の発表した政府軍優勢報道を大本営発表のごとく「あれはウソ」と言い切っている。
まあバカは放っておけばいいけど、西南戦争に関する勝の談話は『氷川清話』には載っていない。 アーネスト・サトウの日記に書かれている。 広瀬靖子訳「西南戦争雑抄」上・下(『日本歴史』第二六一・二六三号 / 一九七〇年)
サトウ日記の西南戦争関連は、萩原延寿の訳で単行本化されているな。 萩原延寿『遠い崖――アーネスト・サトウ日記抄一三−西南戦争』(朝日新聞社 / 二〇〇一年)
☆ 渋谷彦助 鹿児島県一等属。 坂本龍馬が筑前太宰府で三条実美に謁見できたのは薩摩の渋谷彦助の斡旋があったからですし、ここ太宰府で長州藩士小田村素太郎(楫取素彦)と知合いになってもおります。 どうも筑前太宰府ではすでに薩長和解の素地ができていたようです。
海老原穆の逮捕は、川路書簡の中で1行触れられただけだな。
>>500 樺山三円と樺山資綱が同一人物なのか否かを考え始めると、夜も眠れなくなるな。
木戸さんは樺山三円と樺山資綱が同一人物なのか否かを考えすぎてノイローゼになったのかもしれん。
☆ 山縣有朋 この頃になると、風格すら感じさせる山縣。 桐野・篠原はただの地五郎。 山縣の敵ではないな。
☆ 蓑田長僖(49歳) 鹿児島県庁第六課(会計課)課員 明治21年に日本運輸会社(現在の日本通運)は暫定役員として蓑田長僖を選出している。 同一人物であろうか?
☆ 鎌田政直(51歳)
鹿児島県庁第六課(会計課)課員
なお、第六課の課長は渋谷彦助(
>>510 )。
私学校党蹶起の軍資金の提供は、島津久光の内命によるものだろうな。
軍資金を提供されたにもかかわらず、西郷が大山に対して冷淡な態度だったのは、 西郷は私学校のニセたちに乗せられただけでなく、久光にも乗せられたという思いがあったのだろう。
【部隊編成】 一番大隊 篠原国幹 西郷小兵衛 二番大隊 村田新八 松永清之丞 三番大隊 永山弥一郎 辺見十郎太 四番大隊 桐野利秋 堀新次郎 五番大隊 池上四郎 河野主一郎 独立大隊 別府晋介 独立第一大隊 越山休蔵 鮫島敬輔 独立第二大隊 児玉強之助 坂元敬介
☆ 松永清之丞
明治10年1月29日、鹿児島市草牟田の火薬庫から、政府が弾薬を運び出します。
当夜、汾陽光輝家(
>>454 )で松永清之丞と堀新次郎が、火薬庫からの武器搬出を計画し、実行。
これが西南戦争に繋がります。
☆ 堀新次郎 明治後、伊地知貞馨となる堀次郎と混同しないように。
☆ 2月14日(旧暦正月2日)
伊敷村玉江練兵場……閲兵式
※旧45聯隊の兵舎と練兵場
☆ 淵辺群平 天保11年(1840年)、鹿児島高麗町で生まれる。諱名は高照、通称は直右衛門、後に群平という。 戊辰戦争では、山崎の戦いで重傷を負った。 次いで、参謀・黒田清隆のもとで監軍として軍議に参画し、北陸に出征した。 長岡城攻略の際は、刀が鋸の様になるまで自ら敵を斬ったという。 明治10年、谷口登太が内偵した中原尚雄の西郷隆盛刺殺計画を聞いた高木七之丞邸の会合に出席していた淵辺はこれに憤激し、私学校本校で行われた大評議でも出兵に賛成した。出陣に際しては薩軍本営附護衛隊長となって、西郷を護衛しながら熊本に赴き、本営の軍議に参画した。
☆ 仁礼景通 西南の役の最後に城山で捕縛されて銃殺された薩軍副官の仁礼景通ほか鹿児島城下に仁礼姓は多い。 仁礼景範と名が似ているが、親族ではなさそうである。
☆ 2月14日 別府晋介の独立大隊(郷士軍)は、2月14日に加治木に集結し、横川→大口→水俣というコースを辿った。
☆ 2月15日 一番大隊(篠原国幹隊)は、市来→川内→阿久根→米ノ津(出水市)…海路…佐敷(現在の芦北町の中心部と佐敷川流域)という西回りルートを辿った。 二番大隊(村田新八隊)は、別府晋介隊と同じく東回りコース。
☆ 武の自宅
屋敷は明治2年薩摩藩の重臣二階堂氏から譲り受けたもので、敷地約3600u、高縁の御殿づくりで部屋数も多く、庭には大きな松の木もあったという。
西南戦争で焼失したが、明治13年に西郷従道が再建した。いま屋敷跡は公園になっており、当時の井戸が残っている。
☆ 西郷松子 安政4年(1857)前後の生まれ、昭和18年3月6日没。父は有馬糺右衛門、母は大山巌の姉・国。 明治6年11月、西郷家の四男・西郷小兵衛と結婚し、西郷家に入る。小兵衛25歳、松15歳か16歳。いとこ婚。 名はマスであったが、西郷の次弟・吉二郎の先妻の旧名と同姓同名(有馬マス)であったため、呼び名をマツ(松子)と変えた。
☆ 西郷糸子
西郷隆盛の妻。
元治2年(1865年)、西郷隆盛と結婚する。隆盛は3回目、糸子は再婚。
隆盛との間に寅太郎・午次郎・酉三の子どもを産む。
また、隆盛の奄美大島における島妻である愛加那との子である菊次郎・菊を引き取り養育した。
☆ 西郷寅太郎
明治17年に吉井友実や勝海舟等の働き掛けが功を奏し、明治天皇の思召しからポツダム陸軍士官学校留学を命ぜられ、13年もの間ドイツで学び、その間プロイセン陸軍少尉となる。
明治35年父隆盛の維新の功により侯爵を授かり華族に列せられ、貴族院議員に就任する。
☆ 市来四郎 幕末は島津斉彬側近として琉球を通じての貿易を模索。明治以後は島津久光の側近となる。
☆ 加治木
2010年、同じ姶良郡の蒲生町・姶良町と合併して姶良市となった。
加治木という地名は、船の舵を置いておいたら、そこから芽が出て木が生えたという「柁の木伝説」に由来する。
ここから「柁木」「柁城」と呼ばれるようになり、やがて「加治木」になった。
平安時代頃からこの地域を支配していたのは、大蔵氏の一族とされる加治木氏であった。
蒲生に本拠を置く蒲生氏、帖佐に本拠を置く平山氏などとともに、互いに同盟したり対立したりしながら、島津氏との勢力争いを繰り広げていた。
☆ 横川宿
2005年、国分市および姶良郡内5町と合併して霧島市となる。
平成の合併はむかつくわ。 わしは今でも昭和の地図帳を愛用している。
☆ 佐土原
宮崎県の中南部に存在していた宮崎郡の町。2006年、宮崎市に編入され消滅した。
江戸時代は島津氏の佐土原藩三万石の城下町であった。
☆ 東目街道 薩摩藩時代、現鹿児島県霧島市福山町を基点として、都城を経由し高城町の月山日和城を通り、高岡町に通ずる往還道として作られた「東目街道」は、薩摩藩西目街道に対して同藩東側を通るため「東目街道」と称されました。
☆ 栗野村
鹿児島県北東部、姶良郡に属していた。
平成17年吉松町と合併して湧水町が発足。同日栗野町廃止。
☆ 加久藤越え
熊本県と宮崎県の県境に加久藤峠という急峻な峠道がある。人吉からえびの高原に抜ける飫肥街道。
☆ 吉田温泉
宮崎県えびの市大字昌明寺にある「吉田温泉 鹿の湯」を訪問しました。
鹿の湯という名前の通り、傷ついた鹿がこちらの温泉に浸かって傷を癒したという言い伝えが残っています。
☆ 2月20日
西郷は積雪の加久藤越えを山駕籠に乗って肥後へ越えた。
桐野利秋が「熊本城は、この青竹(いらさぼう)で一叩きでごわす」と言ったのは、この時。
☆ 人吉藩
藩主家の相良氏は鎌倉時代初頭の建久4年(1193年)、この地の地頭に任ぜられた。
その後戦国大名に成長し、江戸時代に入っても領主として存続し明治維新を迎えた極めて稀な藩の一つである。
明治4年に廃藩置県により人吉県となったのち、八代県、白川県を経て熊本県に編入された。
☆ 永国寺
熊本県人吉市土手町にある曹洞宗の寺院。寺に伝わる幽霊の掛け軸から、幽霊寺の異名で知られる。
創建は応永15年(1408年)とも17年(1410年)ともいう。一径永就和尚を勧請開山とし、実底超真和尚が開山。
相良氏第9代相良前続(さきつぐ)の開基になり、相良氏代々の崇敬を受けた。
人吉における西郷の宿舎。
この先鋒の別府晋介隊は、小川、宇土を経て、熊本城から7q手前の川尻で宿営している。 ☆ 小川……2005年、宇土郡三角町・不知火町および下益城郡松橋町・豊野町と合併し宇城市小川町となった。 ☆ 宇土……小西行長の城下町である。中世から交通の要地であり、豪族たちがその支配をめぐって争いを続けてきた。 ☆ 川尻……旧飽託郡川尻町。1940年熊本市に合併。 いずれも八代の北方。
☆ 池辺吉十郎
天保9(1838) 年生まれ。幕長戦争の小倉の役(1866)に戦功あり、京都詰公用人、熊本藩少参事を歴任、帰郷して郷党の青少年を教育し学校党の勢力を養成した。
明治9年の神風連の乱では学校党の軽挙を抑えたが、翌10年薩摩西郷軍が蜂起して熊本に至るや、学校党を主力に同志700名余の熊本隊を率いて西郷軍に応じた。
寺田、立山に奮戦したが戦況利あらず、銃創を被り、10月政府軍に捕縛され、同月26日長崎で斬刑に処された。
明治時代の政論家池辺三山はその子息である。
※池辺三山
大阪朝日新聞、東京朝日新聞の主筆を歴任。朝日新聞隆盛の礎を築いたひとり。
二葉亭四迷や夏目漱石を入社させ、長編小説を新聞連載に尽力した。
☆ 佐々友房
嘉永7年(1854年)、現在の熊本市内坪井町に肥後熊本藩士佐々陸助の二男として生まれた。
戦国武将佐々成政の子孫という。
明治12年1月に出獄すると、熊本市高田原相撲町に同心学舎を設立した。
後に同心学校と改め、明治15年2月に濟々黌と改称する。現在の熊本県立済々黌高等学校である。
巨人軍元監督川上哲治氏は一般に熊本濟々黌出身とされているが、在学したのは僅か3ヵ月である。
☆ 球磨川下り
人吉から八代。
西郷のこの挙は、自分のかつての朋友たちを批判の広場に引きずり出し、勢いのおもむくところ、衆人の監視のなかで首を刎ねることになるかもしれない結末を、容易に想像させる。 西郷の人柄からいば勝った光景もまたうとましかった。 むろん、負けるとは夢にも思っていなかった。
どうしようもない地五郎だな。 ふつうに負けるだろうw
西郷の国民的人気と比較すると、谷干城の知名度の低さは気の毒になってくる。 西郷の人気は、力士の人気と同レベルのものだろう。 人気者の敵になってしまった谷干城の可哀そうなことよ。
☆ 谷干城
天保8年(1837年)、儒学者谷景井(萬七)の四男として土佐国高岡郡窪川(現在の高知県高岡郡四万十町)に生まれた。
幕末期は谷守部の名で知られる。戊辰戦争が始まると板垣と共に藩兵を率いて出動した。
熊本鎮台司令長官であった西南戦争において、熊本城攻防戦を指揮したことで知られる。
明治44年に没する。
☆ 樺山資紀中佐
明治5年より南清に出張、台湾出兵に従軍。
西南戦争では熊本鎮台司令長官・谷干城少将の下、同鎮台参謀長として熊本城を死守する。
その後警視総監兼陸軍少将に昇進するが、海軍へ転じ、明治16年に海軍大輔、同19年には海軍次官となる。
☆ 与倉知実中佐(
>>381 )
歩兵第13連隊連隊長。神風連の乱後も留任。
薩摩藩出身。
明治9年10月24日の神風連の乱では、自宅を中垣景澄ら8人の襲撃を受けるが、妻・鶴子の機転で馬丁を装ってその場を脱出した。
その後は大兵営の歩兵第13連隊を率いて鎮圧をはかった。
しかし、明治10年の西南戦争「段山(だにやま)の戦い」で被弾した。同じ日、鶴子は女子を熊本城で出産したが、与倉は翌日死去した。
☆ 川上操六少佐
薩摩藩士川上伝左衛門親徳の三男として生まれ、鳥羽・伏見の戦い・戊辰戦争に薩摩藩10番隊小頭として従軍する。
明治10年に始まった西南戦争では歩兵第13連隊長心得として従軍し功を立てる。
明治28年3月には征清総督府参謀長に任命される。日清戦争では、それまで川上が推し進めた軍の近代化が功を奏した。
その功により8月に勲一等旭日大綬章・功二級金鵄勲章を賜り、子爵を授けられる。
☆ 大迫尚敏(なおはる)大尉
薩摩藩士・大迫新蔵の長男として生まれる。造士館生徒として学び、薩摩藩5番組として薩英戦争に従軍する。
明治10年西南戦争に出征し、熊本城篭城戦に参加。2月27日、草場学校制圧の指揮を取り、顔面を負傷する。
明治37年2月に始まった日露戦争では、戦況が芳しくない旅順要塞攻略の為、8月に第7師団の動員が決まった。乃木希典大将の指揮する第3軍に組入れられ、二〇三高地の攻撃に当たった。その後も奉天会戦に参戦し明治39年3月に帰国する。
☆ 富岡敬明(よしあき)
肥前小城(おぎ)藩士神代次兵衛利温の次男として生まれる。
明治9年11月に熊本県権令となる。権令在任中に西南戦争に遭遇し、熊本城で司令長官谷干城少将、参謀長樺山資紀中佐・同副長児玉源太郎中佐等と54日間の籠城戦を耐え抜いた。
熊本鎮台司令長官谷干城少将は、1月28日に小倉第14連隊の連隊長乃木希典に、一個中隊を長崎に移すよう命じた。
谷干城少将は、2月14日(別府晋介の先鋒が加治木を出発した日)に、小倉と福岡(小倉連隊の分屯所)の兵力をすべて熊本籠城にまわすべく処置した。 山縣は、空になった小倉の留守を、広島鎮台に二個中隊に命じた。
☆ 招魂祭 2月12日13日の両日、熊本城内で神風連ノ乱で戦死した鎮台兵の招魂祭が興行された。
>>567 乃木が長崎へ一個中隊を派遣したのは2月6日。
乃木の隷下の小倉14連隊は、小倉に二個大隊、福岡に一個大隊が分屯していた。
乃木は福岡大隊から一個中隊を引き抜き長崎へ派遣した。
谷は、この時期は、薩軍が長崎の艦船を奪取して東上すると考えていたんだな。
☆ 2月13日 熊本から小倉の乃木へ非常警備態勢の電報。 乃木は小倉の第一大隊から引き抜いた二個中隊を久留米に急行させる。 同二個中隊は16日に久留米到着。
☆ 2月15日
籠城のための工事と米の買入れを始める。
☆ 2月17日 薩軍が米ノ津湊に現れたとの情報を、熊本鎮台司令部が得る。 鹿児島県出水市米ノ津町。
☆ 2月18日 谷干城、熊本市中に防衛措置を布く。 ☆ 2月19日 大山県令の専使、富岡権令および樺山参謀長と会談。 この日、政府の征討令が出る。
政府の征討令が出た2月19日、西郷は加久藤越え(
>>542 )手前の吉田温泉昌明寺宿に投宿していた(
>>543 )。
熊本城の結構の堅牢さは、その独特の石垣の力学構造の例をあげてよく説かれるが、地震には脆かった。
☆ 熊本城炎上
2月19日午前、突如、熊本城の天守閣から火の手が―。
それは、西郷隆盛率いる薩軍が熊本に迫る中、熊本鎮台が籠城の準備を進めていた時のことであった。
この火災で、天守閣と本丸御殿は焼失する。
☆ 放火説 薩軍のスパイもしくは薩軍に内応した鎮台兵が放火したとする説。 理論的には可能だとする専門家もいるが、放火だと決定づける明確な証拠は見つかっていない。
☆ 失火説 計画的な自焼火災であれば、兵糧を運び出した上で火をつけるはずである。 火事で兵糧が焼けてしまった上に、兵器も慌てて移動させたとする日記の記述もあることから、自焼説はありえない。
☆ 自焼説 天守閣は敵の攻撃の一番の目印となるため、それを防ぐために事前に燃やしたとする説。 熊本旧城下の9割が焼失しているが、城周辺の建造物は敵である寄せ手に利用されるため、籠城側がこれらを焼くのが兵法の常道である。 そもそも熊本県権令富岡敬明(よしあき)から政府への最初の電報は「本日十一時十分鎮台自焼セリ」であった。 天守閣には籠城戦のために必要不可欠な兵糧が集められていたが、焼けた米が発掘調査で出てこなかった。 つまり、鎮台が兵糧を運び出した上での計画的な火災であったため、炭化米も出てこなかったのである。
記録に残っている火災発生後の弾薬搬出指揮をしたのが児玉源太郎少佐というのがどうもくさい。 天守閣周辺の弾薬も、おそらく事前に搬出していたものと思われる。 事前搬出の指揮をしたのが児玉源太郎少佐。
失火説はないな。 政府の征討令が出た当日というタイミングを考慮すれば、自焼説が妥当であろう。 発掘調査で炭化米が出てこなかったという新事実が重い。
500石の米すべてが焼失した後に、一両日で600石を集めたというのもくさい。 もとからあった500石に加えて、一両日で100石を集めたのであろう。 この観点からも、自焼説が妥当。
☆ 戦力補強 2月19日夕刻、小倉第14連隊第1大隊のうちの左半大隊300人余が入城している。 2月20日、東京警視隊600人が、綿貫吉直少警視に率いられて入城。
☆ 本営 - 宇土櫓 籠城兵総数3,515名。砲26門。
☆ 薩軍
2月19日:別府晋介の独立大隊、益城郡小川宿に宿営(
>>550 ・
>>553 )。
2月20日:別府晋介の独立大隊、熊本平野の旧飽託郡川尻町で後発軍の来着を待つ。
※川尻
熊本市中心部の南方約8kmに位置する川尻地区。早くから海外との交易港として開け、江戸時代には緑川流域の物資の集散地として栄えた。
☆ 政府軍
2月19日:征討令
発令者は太政大臣三条実美。
征討総督は、有栖川宮熾仁親王。戊辰戦争の東征大総督である。皇女和宮の婚約者でもあった。
☆ 威力偵察 川尻の薩軍が宿営している民家に放火するのが目的。 参謀長樺山が薩軍に寝返らないという証のための出動。
二個中隊500人の夜襲部隊。
指揮官は大迫尚敏(なおはる)大尉(
>>565 )。
中隊長隔岡大尉。
中隊長小島大尉 →岡本鋭威軍曹
>>596 隔岡大尉は間違い。正しくは隈岡長道大尉。
明治17年から広島鎮台の歩兵第12連隊の連隊長に補されている。
>>596 小島大尉は、小島政利大尉のこと。
明治24年に熊本第6師団の歩兵第24連隊(福岡連隊)の連隊長に補されている。
☆ 川尻緒戦 薩摩軍の出鼻を一挙に挫くべき樺山参謀長の夜襲の作戦は失敗に終わった。初戦は官軍の敗軍に終わっている。 2月21日 川尻ノ賊営ヲ放火セシメント欲シ、午前第1時大尉隈岡長道、同小島政利ノ2中隊ヲ遣ル。 適適、賊ノ哨兵之ヲ知覚シ、先ツ銃ヲ発ス。我兵彼レノ備アルヲ知リ、且天已ニ明ルヲ以テ、戦ハスシテ退ク。
☆ 2月21日 正午ごろ桐野利秋が川尻に到着。 午後になって村田新八の率いる二番大隊も川尻に到着。 この日、桐野と村田の名前で開戦の命令を出した。
熊本鎮台は防戦どころか、通過にあたっては兵糧や弾薬を出してもてなしてくれるはずであるというつもりで 桐野はこのたびの東京ゆきの旅程を立案していた。 西南戦争の本質を突き詰めれば、地五郎の認識の甘さによって起こった戦いというべきであろうか。
☆ 大慈寺
熊本市南区にある曹洞宗の寺院。JR鹿児島本線川尻駅から徒歩25分。
川尻における別府晋介の宿舎である。
>>603 田舎で4年間百姓をしていた連中と草創期の近代国家の実務をこなしていた連中との認識の差だな。
西郷は八代で川尻の戦況を聞く。 前線からの要請によって川尻に到着したのは、2月21日の夜中である。 宿舎は川尻下町の質屋布屋。
☆ 2月22日 熊本城下に最初に到着したのは、川尻にもっとも遅く着いた池上四郎の五番大隊である。
☆ 熊本城の戦い
永山弥一郎の三番大隊は、この時点では熊本城攻撃に参加していない。
桐野は西郷とともに川尻にいたので、四番大隊を率いていたのは、堀新次郎だと思われる。
☆ 十字火 十字砲火のこと。 機関銃のような自動火器を使用した戦術のひとつで、2つの火器から放たれる火線が交差(Cross)するところから、クロスファイアと呼ばれる。 この戦法は、第一次世界大戦で登場したといわれているが、西南戦争の戦闘報告に既に表れている。
☆ 片山屋敷の戦い
篠原国幹の率いる一番大隊の攻撃は熾烈を極めた。
片山屋敷を守備していた歩兵第13連隊の連隊長与倉知実中佐は(
>>563 )、この戦いの最中に戦死した。
片山屋敷の戦いではなく、「段山(だにやま)の戦い」と呼んだ方がよいようだ。
現在の藤崎八幡宮の位置を基準に考えると地理を誤解してしまうので注意が必要である。
西南戦争当時の藤崎神社は、段山の東南にある藤崎台にあったが、兵火のためにすべて灰燼に帰し、社地は熊本鎮台用地となったため、
現在の井川渕町に移転。明治11年に仮殿を造営、次いで同17年にようやく本殿の造営をみた。
>>610 神風連ノ乱では活劇のような脱出劇で活躍した与倉連隊長。
あっけなく死んだな。
段山の戦いにおける篠原の指揮は、面目躍如たるものがあるな。
もう寝ろよ、ネトウヨwww それとも明日も仕事がないのかwww
☆ 学校党−熊本隊
池辺吉十郎(
>>551 )率いる学校党700名余も、2月22日の熊本城の戦いに参戦している。
池辺は薩軍主力が川尻に達したとき、旧城下の江津学校に同志を集めている。
江津学校については、筆者にもよくわかりません。 熊本県立湧心館高等学校の前身は熊本県立江津高等学校なのですが、これと江津学校の関係は調べてもわかりませんでした。
☆ 有馬源内 宮崎八郎と共に台湾に赴いた?権党の同志。 熊本藩士。東肥新聞社。 宅は熊本城下千反畑(せんだんばた)にあった。
☆ 高田露(あきら)
嘉永7年(1854)肥後国託麻郡春日村(現在の熊本県熊本市西区)で熊本藩士の家に生まれる。
明治7年に台湾出兵に従軍した。帰国後は民権党を結成し、評論新聞記者・近事評論記者として自由民権を主張した。
明治10年に西南戦争が勃発すると、宮崎八郎らとともに協同隊を組織して西郷軍に加わった。
西郷軍の敗北とともに捕えられたが、やがて出獄を許された。
明治35年、第7回衆議院議員総選挙に出馬し当選。当選回数は合計で4回を数えた。
大河ドラマ「翔ぶが如く」の高田露
☆ 保田窪神社
西南戦争熊本協同隊進発の地。
名前ぐらいは正しく呼んであげたいな。 ネットのおかげで、日に2〜3人の名前読み間違いを発見できる。 死ぬまでに全部は無理だろうけど、できる限り読み間違いを是正してゆきたい。
>>167 鰐淵晴子の老後
病を得たり!惣の介 @kimitstokoshiro · 3月18日 返信先: @tebasakitoriri さん 司馬遼太郎氏の著作に「学生運動を熱心にやっていた為に企業から相手にされず やむを得ず実業の世界に入って経営者になった者が結構な人数で居て 運動でやり手と言われた人ほど 会社が危うくなった時 怜悧に人を切る」と言う趣旨の事が書いてありました。 仮にこういう愚策を実行して失敗し(続
☆ 2月21日
宮崎八郎、川尻の薩軍先鋒の別府晋介と会談。
保田窪神社(
>>620 )に熊本協同隊が集結。約40名。
☆ 中根正胤 熊本城に着いた熊本共同隊は、宮崎八郎と中根正胤の二人を篠原の元に派遣するわけです。 まあ、中根さんは、これ以前に別府晋介と会って同盟を約束して帰ったという人物なので、まあ、そういう経緯もあって、代表に選ばれたんでしょうね。 さて、この二人と篠原の会談ということになるわけですが、この篠原さん、薩人の中でも、とびきり無口だったそうですね。 まあ、薩摩というところは、無口でひょうかんな薩摩武士というのを理想的な武士のありかたとして、教育をしてきた国ですから、 まあ、ぼっけもんの典型というのが、この篠原さんだった、というところでしょう。 彼は、ほとんど無口で、宮崎ら二人の言葉を聞いていたようですが、最後に、 「これくらいの城ひとつを落とすのに何の戦策も戦略もいりません。一蹴して過ぎるのみです」 と、かつて別府晋介が言ったのと同じ言葉を吐いたそうです。
☆ 平川惟一(のぶかず)
明治3年、藩命により有馬源内等とともに伏見の屯営(陸軍下士養成所)に入り、明治5年陸軍中尉となる。
明治6年、『征韓論』の破裂により野に下り、熊本県飽田郡百貫村に帰農した。
明治7年、佐賀の乱の後、有馬源内、宮崎八郎等と台湾出兵に志願し従軍するが、負傷して帰国。
明治8年4月、広田尚、宮崎八郎、有馬源内、松山守善、崎村常雄らと植木町に、変則熊本第五番中学校(通称:植木学校)を設立し校長兼舎監を務める。
『民約論』を中心とした様々な授業を行い、自由民権を唱え各地で集会を開き実践するが、急進すぎると県からの補助金を打ち切られ同年10月末で閉校する。
明治9年末、民権党同志の中で薩摩の桐野利秋や篠原国幹とかねて面識のあった有馬源内を通じて情勢を打診。
明治10年、鹿児島県で西郷隆盛の私学校が挙兵すると、植木学校出身者を中心とした民権党の同志と熊本協同隊を結成し、
2月21日に北上してきた薩軍に川尻で合流、四番大隊大隊長の桐野利秋のもとで協同隊を指揮し共に政府軍を相手に戦った。
☆ 野間安親 兄弟(弟は野間富記)で西南戦争に出て真っ先にやられてしまった… クールな批評家でありながら武術も重んじたい気持ちだけはある。 やたら選挙好き。(でも平川ひいき) 自由民権と征韓論をスマートに語ってみたい気持ちだけはある理想家。 理想家というのはいつも気持ちだけは満タンなんだ…
☆ 花岡山
永山弥一郎の三番大隊は、花岡山を占拠した。
前章の最後のところで述べられた熊本城攻撃の詳細が、くりかえし述べられている。
与倉連隊長戦死の場面では、岡本鋭威軍曹(
>>596 )の活躍が目覚ましい。
2月22日午後、西郷がはじめて熊本旧城下に入る。
☆ 白川に架かる現代の代継橋
☆ 西郷が休息した代継宮
本荘村にあった代継宮は、鎮西鎮台の本営や歩兵第23連隊の兵舎用地をへて現在は花畑公園となっている。
現在の代継宮は、熊本市北区龍田にある。
☆ 春竹村
本荘村に南接する春竹村は、現在の地名でいうと熊本市中央区琴平に属する。
信じがたいほどのことだが、薩軍は補給の手当てどころか、この日の夕食をどうするかさえ決めていなかった。 ついでながら攻城の主力であるはずの砲兵は、この日まだ戦場に着いていなかった。
「かあさん、晩御飯まだ?」 「なに食べようかしら。まだ決めていないのよ」
熊本城攻撃に参戦した四番大隊(桐野隊)は800人で、半数以上は22日の夕刻に川尻に到着している。
>>608 >桐野は西郷とともに川尻にいたので、四番大隊を率いていたのは、堀新次郎だと思われる。
間違いです。
遅着した四番大隊の小隊長たち 一番小隊長 堀新次郎 三番小隊長 野村忍介 四番小隊長 川久保十次 五番小隊長 永山休二
マジでイラサボー(青竹)一本で熊本城を落とせると思っていたんだな。 清正を舐めとるな。
レイパー新井浩文に加藤清正役をやらせたNHKは、薩軍以上に清正をなめとる。 デスマスクみたいな顔をしたレイパー役者に、清正をやらせるんじゃねーよ。 あのドラマの頃から新井の目は死んでいた。 清正登場シーンだけ、糞つまらんかった。
で、熊本城が手ごわいので、薩軍は方針変更します(*^-^*)ゞテヘヘ
《強襲続行論》篠原国幹、別府晋介、辺見十郎太 《小倉占拠論》野村忍介、西郷小兵衛、池上四郎 《折衷案》西郷隆盛 23日の熊本城強襲は中止し、熊本城の包囲は継続。 兵力の一部をもって植木に進出し、南下する政府軍に備える。
しかし、山縣有朋の放った6,400名の先発梯団は、2月20日に神戸港を発し、22日には博多港に到着し南下の態勢をとりつつあった。 この時点で、野村忍介の小倉占拠論は、演習用の戦術にすぎなくなっていた。 第一旅団 野津鎮雄 第二旅団 三好重臣
山縣有朋>>>>>>>>>越えられない壁>>>>>>>>>>桐野利秋
結果論としては強襲続行が正しかったのだが、砲兵なしで攻城を続行するというところが大馬鹿。
熊本鎮台は籠城策なのだから、熊本城をスルーして北上すればよかったのにね。
>>647 >>>>>>>>>越えられない壁>>>>>>>>>>西郷隆盛
阿呆!野津・三好の梯団と熊本鎮台に挟撃されるだろう。
諸葛亮なら北上すると見せかけて、熊本鎮台が城外に出て薩軍を追尾する態勢をとったときに、魏延に熊本城を急襲させる。
☆ 大江村九品寺 熊本隊(学校党)の本営。 寺は現存しないのであろうか、地名だけが残っている。
☆ 熊本協同隊 篠原国幹隊とともに40名の熊本協同隊は行動した。 22日の戦闘で野間安親・富記兄弟は戦死。
22日、乃木希典少佐の率いる小倉歩兵第14連隊が、山鹿街道を南下した。 薩軍五番大隊二番小隊長の村田三介は、熊本協同隊の高田露(あきら)を道案内にして、山鹿街道を北上して野戦に転じた。
「第14連隊は、全員強行して入城すべし」
>>571 乃木は福岡大隊から一個中隊を引き抜き長崎へ派遣した。
>>590 2月19日夕刻、小倉第14連隊第1大隊のうちの左半大隊300人余が入城している。
>>573 乃木は小倉の第一大隊から引き抜いた二個中隊を久留米に急行させる。同二個中隊は16日に久留米到着。
まだ熊本城に入城していない部隊が、小倉・福岡・長崎・久留米に分駐していた。
乃木自身も、久留米にいた。
☆ 南関
乃木は河原林雄太少尉とともに21日午後4時に久留米を発ち、21日夜に熊本県南関で吉松少佐の第三大隊に追いついた。
村田三介が第14連隊南下の情報を得たというのは(
>>653 )、この吉松少佐の第三大隊のことである。
乃木が南関に到着したときは、薩軍はいまだ川尻にいる。
玉名郡南関町(まち)。福岡県との県境にある町。
戦略的にいえば乃木希典の第14連隊は面白みのある価値を生じつつあった。 城に入れなければむしろそれをあきらめて城外の遊撃軍として薩軍の背後を脅かしたり牽制することができたはずである。 しかも22日には政府の派遣した先遣軍が二個旅団も博多湾に上陸しているという形勢からみて、長期間続ける必要はなかった。
☆ 高瀬
高瀬は、菊池氏が勢力をふるった南北朝時代から菊池川の水運を利用した港町・商人の町として賑わった。
江戸時代には、藩の五カ町(熊本、八代、川尻、高瀬、高橋)に数えられた。
昔からある酢屋、味噌屋、高瀬飴屋など、商店が立ち並ぶ通りに歴史の重みが残っている。
現在は玉名市高瀬。
☆ 吉松速之助少佐 弘化2年(1845)、高知城下本丁筋の土佐藩士吉松省平の長男に生まれた。 鳥羽・伏見の戦いには藩兵隊長として伏見を守る。その時の速之助の決断が官軍としての土佐藩の以後の行動を決定する。 さらに迅衝隊第八隊長として戊辰戦争に加わり、今市、日光、会津と転戦した。 会津戦争の折、大垣藩兵に捕らえられ凌辱のすえに生晒しにされた神保雪子(神保修理の妻)を見かけて放免を主張したものの、他藩の容喙は受け付けないと拒絶された。その後、密かに雪子の懇願を聞き届けて腰に据えた短刀を与え、その自刃を助けている。
「おまん、名はなんぜよ?名ある武士の妻か。言うたら、夫の恥になるかえ?」
女性は吉松に対し、「せめて自害したいので、短刀を貸してほしい」と依頼します。
吉松はこれを受け入れ、その会津武士道を全うさせたと伝わっています。
この女性が会津藩の重役・神保修理の妻・雪子だったことが分かったのは、吉松の死後のことでした。
凌辱された神保雪子
明治4年、薩長土三藩の献兵によって御親兵が創立されたとき、陸軍大尉、中隊長となる。 明治9年、陸軍少佐に昇進。大隊長となり熊本鎮台福岡分営に屯した。この年に神風連の乱が起きたが、営内を鎮した。 明治10年に西南戦争が勃発すると歩兵第十四聯隊第三大隊を率いて福岡から出撃し、同郷で妻の伯父にあたる谷干城鎮台司令長官が守る熊本城救援を図った。
南関、高瀬、木葉と進んだが、2月22日の植木の戦いで、上官である聯隊長代理乃木希典中佐が軍旗を喪失した。 その翌日、木葉で西郷軍と対峙した。二方向から攻撃されて苦戦に陥った吉松は、乃木に援軍を要請したが、乃木は司令部を離れてわざわざ吉松の元に自ら赴き、「今や我足下に分つべき余兵なし、たといまた之れ有らしむるも、乞ふ代りて之れに当たらん」と断った。 すると吉松は笑って「余力があればのこと。君は全軍を指揮する聯隊長である。ここに長く留まるべきでは無い」と応じた。 乃木が無事に去った後、最前線に踏みとどまった吉松はわずか20余名の部下とともに聯隊主力の退却を支えたが重傷を負い、その夜に息を引き取った。享年33であった。
乃木は第三大隊の二個中隊から、行軍の疲労が残っていない60余名を選び、高瀬を発った。
>>663 かなり前のところを読んでいます。
ネタバレはしないでください。
>>655 南関には北原白秋の生まれた家(母親の実家の石井家)がある。
白秋が育ったのは、福岡県山門郡沖端村(現・柳川市)。
やりなおし
【植木の戦い】2月22日夜。
早朝から熊本城を包囲していた薩軍は、偵察から「植木に政府軍!」の報を受け、午後から
5番大隊・2番小隊(隊長・村田三介)、
4番大隊・9番小隊(隊長・伊東直二)、
4番大隊・5番小隊(隊長・永山休二)の3個小隊を向かわせている。
薩軍3個小隊は、植木の市街に進出すると山鹿・木葉の2方向から政府に挟み撃ちに遭う恐れがあるので、熊本寄りの向坂に布陣した。
☆ 植木町
かつては鹿本郡植木町。2010年(平成22年)熊本市に編入され全域熊本市北区となっている。
町内に西南戦争の最大の激戦地・田原坂がある。また、日本一のスイカの産地として知られる。
☆ 向坂
熊本市北区植木町鐙田向坂。
「向坂」バス停留所
>>668 周作の親父が馬の肛門に片腕を突っ込むところは面白いです。
>>671 小字は、郵便局がないとバス停として名が残るくらいだな。
コンビニの店名やアパート・マンション名として残る場合もあるが、田舎だとそれもない。
がんばれ全国のバス停。
マンションに期待するな。 フランス語のマンション名を付けるのが流行になっている。 向坂荘では、誰も入居せん。
黒岩重吾の奈良時代を描いた小説で、川の上に小屋をつくって、そこでうんこをしている描写があった。 厠の語源は、この川の小屋=川屋なのかどうかが知りたい。
篠原国幹の統率術というのは、薩摩隼人のウィーク・ポイントである「死を恐れるのか?」を連呼するだけなんだな。
ちなみに「植木の戦い」は、実戦経験のない乃木さんの初陣です。
小学校の国語の教科書が、武将・軍人の話で埋め尽くされる日が待ち遠しいです。 乃木さんの植木の戦いなんて、むかしの日本人なら誰でも知っていた。
偏頗するのはよくないけどな。 楠木正成は美化されすぎたために面白くない人物になってしまった。 実物はもっと面白い人物だと思う。
☆ 村田三介
弘化2年(1845)生まれ。明治6年陸軍少佐を辞し、西南戦争では小隊長として西郷軍にくわわる。
熊本県北部の植木で政府軍をやぶり、乃木希典ひきいる第十四連隊の軍旗をうばう。
鍋田で明治10年3月11日戦死。33歳。
篠原国幹に「死を恐れるのか?」に言われるほどの頭脳派。
村田三介のイメージは冷静沈着な頭脳派だよな。
日テレ「田原坂」では村田三介の妻・佐和子役は石井富子さんだったが、イメージに合わない。
俺はずっと汾陽光輝(かわみなみ)役の鈴木ヤスシの妻か姉だと思っていた。
なお村田三介が属する四番大隊の大隊長池上四郎の姓は「いけのうえ」と読む。 「いけがみ」と読んでいる人が多いと思うが。
>>677 トイレ(toilet)のことを厠(かわや)と言いますが、その呼び名には、手水(ちょうず)、手水場(ちょうずば)、便所(べんじょ)、雪隠(せっちん)などがあり、川の流れに落とす川屋(かわや)からカワヤの名が出たとの説も広く知られています。
この他にも、昔から、はばかり、ご不浄(ごふじょう)、遠方(えんぽう)、東司(とうす)、後架(こうか)、高野山(こうやさん)、閑所(かんじょ)、装者所(よそものどころ)など、多くのトイレの呼び名があります。
便所=仏教からきた言葉で、便利な所という意味です。
古代人の便所は水洗式だったことの証左となる歌が、「万葉集」巻十六に出ている。
香塗(こうぬ)れる 塔になよりそ川くまの くそふな喰(は)める 痛き女(め)やっこ
あの人は人糞を食っているフナを食べている汚ならしい女だという相手の女をののしった歌です。
これは、川の上に便所を作っていた証拠と言えます。
世界の便所は、流すか、捨てるか、埋めるの三通りですが、川に流すのは南方系文化、便器を置くのは北方系文化と言われています。
溜桶をいけて便を貯めておくのは、農業用の肥料に使うところからきた日本独自の知恵。
万葉集サイコー。ユーモアをも交えた自然主義文学だな。 古今、新古今ごときと並べて語ってはならない古代の最重要な文化遺産。
>>684 そうだったんですか。ずっと「いけがみ」だと思っていました。
>>687 わたくしは昭和40年代までの日本をこよなく愛する日本人ですが、
子供の頃遊んでいて肥溜めに嵌った屈辱の思い出があります。
肥溜めのことを考えると、あの時代に戻りたいとは思いません。
>>669 加治木常樹の「薩南血涙史」によると、永山休二の小隊が植木に着いたのは、戦いが終わった後の2月23日ですよ。
加治木自身が永山小隊の押五(のちの伍長か)だったので間違いはない。
覚えてしまおう。熊本県北部の市町村。
>>659 明治後は吉松秀枝(ほつえ)少佐。
小説も、そのようになっている。
頭の悪い人って、そんなことも知らないバカじゃありませんよアピールがウザいよね。 「知っていますよ」アピールをした瞬間に、相手にバカだと見透かされているのにね。
乃木希典少佐が60余名の兵とともに植木に到着したのは、熊本城攻撃が終わった2月22日の夕刻。 たたちに第三大隊長吉松秀枝少佐に命じて、植木宿の西南の端に散兵を配置した。 その後、遅れてきた兵を含め200〜300の兵力にはなったようである。
☆ 木葉
玉名郡玉東町木葉(旧木葉村)。
乃木は8q後方の木葉に炊事所を設けていたが、植木の兵の夕食は準備していなかった。
長行軍の上に飯抜き。戦えませんな。
村田三介の小隊は、午後7時、乃木連隊吉松大隊に攻撃を開始する。 村田隊の弾薬が尽きた頃、伊東直二の4番大隊9番小隊が植木に到着した。 薩軍総勢400。 ここで村田小隊は白兵突撃に切り替える。
官軍はまだ一兵も失われていないのに、乃木は「余は勢の持久すべからざるを知り」退却を決意する。
退却先は後方の千本桜。現在の地名は、熊本市北区植木町舞尾。
第14連隊の連隊旗を薩軍に奪われた問題に関しては、発見者である高田露(あきら)、河原林雄太少尉に軍旗の扱いを命じた乃木少佐、河原林少尉を切り殺した薩軍の岩切正九郎押五の三者の証言が食い違っている。 司馬は、高田露の証言が正しいとしている。 乃木は命令を下したのみで、河原林少尉の命令後の行動は知らない。 しかし、おそらく嘘をついている。この嘘が乃木の心痛の種であり、乃木を殉死に追い込んだ動機のひとつであろうかと思われる。 岩切正九郎の証言は、収監中に政府が圧力をかけて偽証させたものであろう。
☆ 河原林雄太少尉
河原林少尉の出身藩である豊前小倉藩(小笠原氏・十五万石)は慶応二年(1866)六月、第二次長州征伐の荒波に飲みこまれます。
その後の講和の結果小倉城を中心とする企救郡を長州藩に奪われ、明治になっても廃藩置県まで国の直轄地になってしまいます。
小笠原家は藩庁を豊津(現在の行橋市)に移し豊津藩と称しますが、藩祖忠真公以来の小倉の地を去った藩士達は佐幕藩の苦労を嫌というほど味わうのです。
河原林少尉は嘉永元年(1848)の生まれですから、第二次長州征伐の時点で数えの19歳、おそらくは若い藩士として苦労を味わったでしょう。
>>701 河原林少尉に連隊旗を背負ったままで、しかもわずか10名の兵で、400忍の薩軍相手に殿軍をやれという乃木の命令には、明らかに矛盾がああるな。
こんなこと長反橋の張飛にしかできない。
司馬も、乃木と河原林少尉の最後の別れは、高田露が見たという本営の民家ではないかと言っているな。
植木の戦いは、2時間余りで終了する。 乃木が退却したのとほぼ同時刻に薩軍も退却している。 薩軍もまた長い行軍で疲労していた。
ドラマや映画では、植木の戦いは昼間に撮影されているが、日没後の戦いである。
☆ 鹿子木
熊本市北区鹿子木町。
薩軍の村田小隊・伊東小隊の退却場所。植木から3q南。
※スシロー熊本鹿子木店のバイト・アルバイト募集情報に貼られたアルバイト役のおねえさん
乃木少佐は午後9時40分に植木から千本桜に退却。 前線の吉松秀枝少佐以下も全員無事に退却している。 取り残されたのは、河原林少尉以下の10人である。
以下は筆者の推測であるが、高田露は乃木が本営としていた民家は「狼藉の跡は見苦しかった」と証言している。 おそらく岩切正九郎ら数名の薩兵は、乃木が本営としていた民家に斬り込んで闘争に及んだはずである。 河原林少尉は乃木を無事に退却させるために、自ら殿を引き受けたと思われる。 その後河原林も民家から脱出するが、追尾してきた岩切正五郎に斬殺された。享年32.
☆ 投刀塚(なたづか)
熊本市北区植木町投刀塚。
河原林雄太少尉の戦死地。
乃木は千本桜で吉松少佐らと落ちあい、田原坂を越えて木葉まで退却した。
鹿子木村まで退却した村田小隊・伊東小隊に、熊本から三小隊の援軍が来着する。 四番大隊六番小隊 小隊長:松下助四郎 四番大隊七番小隊 小隊長:石原市郎右衛門 四番大隊十番小隊 小隊長:橋口成一
>>701 河原林少尉の遺体の背腰に巻かれた軍旗が差されていたというところが、岩切正九郎の偽証だな。
村田三介戦死後、兵站の責任者桂久武が、第14連隊の連隊旗は村田一代の武勇のしるしとして遺族に送った。
ここで村田の妻・佐和子(
>>456 ・
>>457 ・
>>458 )が登場する。
戦後、連隊旗の行方を捜索していた警察に、佐和子は連隊旗を渡してしまった。
捜索当時に乳児をかかえていた佐和子は、拘留されれば哺乳できないと考えたためである。
_ ∩ ( ゚∀゚)彡 おっぱい!おっぱい! ( ⊂彡 | | し ⌒J
>>712 戦力の増強は、植木方面と、さらに北方の山鹿方面だな。
>>691 河原林少尉の遺体の発見者は加治木常樹自身。
その加治木は市ヶ谷監獄に収監されるが、偶然にも岩切正九郎と同牢する。
加治木は岩切の話を聞いて、はじめて自分の発見した遺体が河原林少尉の遺体であることを知った。
数奇な話ですなあ。
【木葉の戦い】(2月23日)
22日夜半、薩軍本営で作戦会議が開かれた(
>>643 )。熊本城攻撃をこのまま継続するかどうかを話しあい、
当初は篠原の強行策継続が決定したが、遅れてきた野村忍助が反対し、西郷小兵衛や池上四郎らも同調し、会議は紛糾してしまう。
桐野は西郷に決を求め、西郷は強行中止を決断。熊本城を包囲する一方、残りは北上して小倉を強襲することが決定する(
>>643 の折衷案を訂正)。
23日に6個小隊が小倉へ向けて出発した。総勢1800名は二手に分かれて植木方面に進出するが、対する乃木の歩兵第14連隊は未だ兵力は完全に集結しておらず、手元には700名ほどしかなかった。
木葉で展開する歩兵第14連隊は8時30分頃より優勢な薩軍と交戦を開始し午後1時頃までは互角に戦っていたが、薩軍右翼の1隊が遠く南回りに回り込んで第14連隊の右翼を脅かした事で連隊は劣勢となる。
それでも夕刻まで持ちこたえた第14連隊は夜陰に乗じての撤退を開始するが、木葉山を大きく迂回してきた薩軍が側面を襲ったことで部隊は総崩れとなり、第14連隊は木葉川を越えて寺田山へと退却する。
この戦いで乃木は第三大隊長であった吉松秀枝少佐など多くの部下を失っている。
司馬さんは、西郷の折衷案を華麗にスルーして、野村忍介の小倉占拠論があたかも22日夜の軍議で決まった内容だというように書かれている。 ちょっと呆れたぞ。
もともと西郷の折衷案なるものは史実にないのではないか?
☆ 国見山〜木葉山
木葉山の南に水田地帯が開けている。
☆ 津森秀実大尉 乃木の第14連隊第3大隊第3中隊長 植木へ将校斥候
☆ 功力栄植大尉 木葉から高瀬への街道に置かれた中隊の中隊長
☆ 七本(ななもと)
熊本市北区植木町轟七本
将校斥候と囮を兼ねた津本大尉の20余名は、七本という集落で、薩軍の松下助四郎小隊・石原市郎右衛門小隊・橋口成一小隊と遭遇する。
津本は木葉まで引き返した。木葉の戦闘は、このようにして始まった。
※七本官軍墓地ー木葉の戦いで戦死した官軍兵士のみが埋葬されているわけではない。
>>725 昨夜のうちに植木に着いた三小隊のうちの石原市郎右衛門小隊は、木葉の戦いには参加していないようである。
上木葉に散兵していた吉松秀枝少佐が射撃を命じたときに最前線にいた薩軍は、いったん境木にまで後退した。
>>725 で松下助四郎小隊・橋口成一小隊と書いているのは、司馬さんがそのように書いているからなのだが、
翌々日の連載では、その二小隊は華麗にスルーされて、園田武一小隊長・平野正介小隊長・国分寿助小隊長に替えられている。
境木に後退したときに、松下助四郎小隊・橋口成一小隊が植木から駆けて追いついたことに変えられている。
驚いた。
☆ 境木
熊本県玉名郡玉東町大字上木葉字境木
>>726 参加しとるわ、あほ。
もう一度、
>>719 の配置図にしたがって整理してみる。
植木から山鹿にむかった3小隊が、神宮司助左衛門小隊・嶺崎半左衛門小隊・石原市郎右衛門小隊。
植木から木葉にむかった3小隊が、園田武一小隊・平野正介小隊・国分寿助小隊。
左翼の植木迂回隊というのが、松下助四郎小隊・橋口成一小隊の2隊。
総勢1,600。
つづいて、山鹿3小隊の木葉への進行経路であるが、眠くなったので、また明日以降に。
>>728 境木は田原坂を下ったところにある。
☆ 金比羅山
山鹿三小隊が木葉村の背面に出現したのは、午後1時であった。 そのうちの石原小隊・嶺崎小隊は、大城寺の上の高地に回った。 そこから眼下に展開している官軍に銃弾の雨を注いだ。
☆ 吉松秀枝少佐の戦死 「援兵の余裕などない。たとえあっても君に分かつべき兵はない。 君がもしここを守らないというなら、私が君に代わって守ろうじゃないか」 「私はただ君のほうに余力があるなら増援してもらいたいと思っただけだ。ここは私が守る。 ……しかし言っておくが、足下はその職が連隊長である。宜しく大局を督すべし。久しく此処に留まるべからず」 享年33。
連隊長が自ら最前線に伝令に走るなど、もはや軍人とはいえないな。 ド素人。
乃木さんの下で戦うということは、死ぬということだ。
長州閥がなければ、乃木の立身出世など有りえなかった。 軍人ではなく文官になってもらいたかった人だな。
援兵の催促に感情的に反応して、最前線に自ら赴く。 器量が小さすぎる。
ブサヨwwwwww 必死だな wwwwww 糞してwwwwww 寝ろやwwwwwwwwwwwwwww
☆ 石貫
熊本県玉名市石貫
乃木は木葉から石貫への退却を決意した。
臆病なので高瀬を素通りして石貫まで退却。
☆ 稲佐
熊本県玉名郡玉東町稲佐
木葉の前線から1q後方。第14連隊の輜重隊が屯していた場所。
乃木はわずか40数人の輜重班(軍人ではなく人夫)に大宮勝武中尉をつけて、全軍の殿軍とした。
☆ 逃げ遅れた乃木連隊長を庇って戦死した人々 大橋伍長 摺沢静夫少尉試補
連隊長みずから人夫40人に殿軍を命じるために前線から1q後方に来たバカ。 しかも前線指揮官の吉松少佐は、乃木が稲佐村に来た時点には既に戦死していた。 おまえは吉松に自分が代わって指揮を執ると大口を叩いていなかったか?
阿呆な連隊長の下、木葉で戦った第14連隊の犠牲者 死者26名 負傷者50名 薩軍の死者 4名
【熊本協同隊】 ☆ 出町学校 2月23日、熊本民権党は熊本城下の出町学校において隊名と隊長を決めた。 熊本市西区出町。
隊長は平川惟一(のぶかず)
29歳で宮崎八郎より2歳年長であるし、100石取りの上士の家であるから、郷士出身の八郎が隊長になるわけがない。
詳しくは
>>629 に書いた。
戦場に女を出入りさせていた八郎が隊長になれるわけがない。
民権家の女癖が悪いのは、現代だけではなかったんですね(´・∀・`)ヘー
☆ お浪
陣営に潜んでくる若い婦人というのは、宮崎八郎が熊本に出てくると常宿としていた高瀬屋という宿屋の娘お浪だったそうです。
「血生臭い戦場にただ一輪、恋の花を咲かせた女性」という美化されたキャッチ・フレーズは勘弁してほしいです。
ただの押しかけ従軍慰安婦です。軍の統制が紊乱するだけです。
「田原坂」では戸川京子。
http://nagomi-web.com/fuhou/fuhou_select/image_fuhou/78togawa_1.bmp 民権家は他に褒めるところがないんだけれど、チンコだけはすごいらしいね。
>>755 「田原坂」のナレーションも確か「血生臭い戦場にただ一輪、恋の花を咲かせた女性」みたいな感じだった。
セックスの際の体液の臭さを、花の香で中和しようとするんだろうな。
☆ 江上アサ 熊本県出身で日本の元祖料理研究家と言われる江上トミを知っていますか? 昔のNHK「今日の料理」や日本テレビ「キユーピー3分クッキング」でお馴染みだった人です。 江上トミの母親アサは熊本県南関の惣庄屋江上安太の娘でした。 荒尾村の宮崎八郎の許婚者でありました。
許婚者がいるにもかかわらず、専用従軍慰安婦(´・∀・`)ヘー しかも許婚者は家格が上の隣村の惣庄屋の娘(´・∀・`)ヘー
高田露(あきら)は、マジでお浪を斬ろうと思っていたらしいな。
☆ 種子島彦之丞 西郷のいる本営の護衛隊長。 津本陽の「抜き、即、斬」の主人公。短篇集『人斬り剣奥儀』 (PHP文芸文庫) 所収。 鹿児島では明治になっても決闘がさかんにおこなわれた。 「抜き、即、斬」は、わずか11歳の稚児種子島彦之丞が仲間の稚児をいじめて殺した20歳の二才相良源左衛門に決闘を挑んだ話。 小さいとはいえ、彦之丞は自顕流の抜きの稽古をつんでいた。いじめっ子に敢然とたち向かう彦之丞の勇気がすばらしい。
☆ 蒲生彦四郎 西郷本営の狙撃隊長。 薩摩琵琶が得意だった。
☆ 森友諒 種子島士族で、西南戦争のときは西郷の護衛兵。 従軍記『戦塵録』を残す。
八郎は一気に書き上げた挙兵趣意書を中根正胤(
>>628 )に読み聞かせた。
【熊本攻城戦】 ☆ 河東祐五郎 種子島西之表士族。西南戦争に17歳で従軍した。 田原坂の戦いの様子を詳細に記録した「丁丑弾雨日記」を著す。 2月27日に伊倉に退いた西郷軍側の河東祐五郎は、寺院に休泊した。 寝るときは、下に麦わらを敷き上に畳をのせてもぐり込んだが、「堅氷指を墜さんばかりの厳冬なれば苦寒肌に?して通宵眠り得ること能はさりき」。
2月22日:12門の四斤山砲は攻城戦に未着
2月23日:永山弥一郎が占拠した花岡山(
>>631 )から砲撃したが射程距離が足りなかった。
その後、20ポンド臼砲4門を鹿児島から運び安己橋に据えて砲撃した。
☆ 讃良清蔵 西南の役最後の戦いである城山において、薩摩軍の讃良清蔵という砲隊半隊長が「西郷先生だけでも何とか生き残って欲しい」と熱望しました。
☆ 岩元平八郎恒成
弘化4年(1847)生まれ。もと近衛砲兵大尉で西南戦争のとき薩摩軍の砲隊長をつとめる。
西郷隆盛にしたがい、城山で明治10年9月24日戦死。31歳。
http://www5d.biglobe.ne.jp/ ~iamarock/iwamoto/familyhistory/album/hei1.jpg
【植木への退却】 23日の木葉の戦いに大勝した後、薩軍は乃木連隊を追撃することなく、驚くべきことだが植木に退却してしまう。 野村の小倉占拠論は、どうなってしまったのだろうか? 薩軍は戦略を立てる参謀なしで戦っている。
戊辰戦争では進撃する先々で味方が増えた。 この体験が薩軍の戦略を甘いものにしてしまったのだろうな。 明治10年においても士族・農民ともに政府に不満をいだいている。 行く先々で味方が増えると思っていたかもしれない。 そもそも熊本鎮台が西郷に刃を向けるなど、薩軍幹部の誰もが予想していなったわけだし。
お祭りの鬼が、子供を追っかけまわしているようなものだよ。 子供を追っ払えば、元の位置に戻ってしまう。 薩兵の強さを過信していたのだろうな。 たしかに強いが、戦略はない。戦略不要なまでに薩兵は強いと過信していた。
戦う気がないのだから、戦略も何もないよ。 戦うことになるかもしれないと予想して、参謀に戦略案を練らせておかなかったのは落度だけどな。
そんなことをしていたら、篠原に「死を恐れるか?」と睨まれる。
【先発旅団】 第一旅団:野津鎮雄少将……東京歩兵第1連隊、大阪歩兵第8連隊 第二旅団:三好重臣少将……参謀長野津道貫大佐、近衛連隊(士族兵) 両旅団とも2,000の兵力。その後、大幅に増員。 2月22日に博多上陸。23日に博多を進発。
☆ 二日市
福岡県筑紫郡にあった町。現在の筑紫野市の中心部にあたる。「博多の奥座敷」と称される二日市温泉がある。
昭和30年:御笠村・筑紫村・山口村・山家村と合併して筑紫野町が発足。
昭和47年:市制施行により筑紫野市となる。
☆ 石貫村川床
乃木の第14連隊は高瀬を経て6q北の石貫村の字川床に辿りついた。
石貫村は現在玉名市石貫。
大河ドラマ「いだてん」の金栗四三の妻・春野スヤは石貫村の出身。乳がでかい。
字川床は、玉名市三ツ川になっている。
☆ 彦坂為一大尉 第一旅団の東京鎮台歩兵第1連隊第3大隊第1中隊の中隊長。 24日午前、乃木の連絡将校である渡辺中尉と久留米近辺で出会う。 3月9日には戦死する。
渡辺中尉から戦況報告を聞いた野津鎮雄少将は、高瀬を奪うことを決意した。 高瀬の会戦は、このようにして初動しはじめた。 なお、野津鎮雄は、明治13年、明治天皇の随行を命ぜられるが、出発前に病に倒れ死去。享年44。
野津は彦坂為一大尉の中隊に、人力車で高瀬への急行軍を命じた。
「西郷を擁し、遠く東京へ乗り込む」などと、地理感覚としても壮大であった彼らの構想は、 熊本城攻めのわずか第一日目の難戦だけでもって、ほとんど忘れられたようになった。 当面の現実――つまり敵という存在――が、彼らの思考を小さくした。 薩軍の思考は、目の前の熊本城にこだわらざるをえず、たとえば熊本城を突き放して遠く小倉方面へゆくという思考もできなくなった。
さらには、政府軍の南下接近という敵状が、かれらの意識を拘束した。 二十二日夜、本営の議論が分裂したために西郷が裁定して決定したのは、一部をもって熊本城を抑え、一部をもって近郊に迫る政府軍を迎撃するということであった。 その地理的感覚は熊本近郊を出ず、思考の狭小化は、救いがたいほどのものになっている。
当初、鹿児島を出るときの私学校の政略は西郷軍が東京に迫ることによって満天下の不平士族だけでなく各地の鎮台までが風をのぞみ、 あらそって軍旅に投じ、ゆくにつれて軍勢は雪だるまのように大きくなり、ついには東京を圧倒するに至るというものであった。 ただ、政略は存在したが、それを実現せしめる戦略を持たなかった。 政略はいわば気体のようなものであり、それを固体化するのが戦略であったが、 桐野・篠原らの感覚では、西郷その人こそそのまま戦略であるとしたむきが強かった。 西郷さえ持ち出せば、その圧倒的人気によって、戦略の機能を十分果たしうると思っていた。
要するに、桐野・篠原らは西郷という世間的価値に、世間以前にまず自分たちがまばゆく眩んでしまったということであろう。 このために常識的な意味での政略も戦略も考えなかった。 そのため、眼前の戦術的対象にすぎない熊本城に捉われてしまったとき、政略も戦略も霧のように消えた。 せっかく木葉を占領しながら、さらに兵を進ませることなく慌てて植木まで撤退させたのも 薩軍がたんなる戦術部隊に堕ちてしまっている証拠であり、 さらには菊池川を渡って高瀬を占領しておくこともせず、結局は政府軍が高瀬を占領してからやっと兵を繰り出すという形になった。
西南戦争を調べていると、薩軍の熊本城への拘泥の理由は、おれたちの頭でも何となくは理解できる。 しかしそれを文章化しようと思うと、プロの物書きにはかなわないなあ。
【山鹿の戦い】 山鹿口における24日間の攻防 西南の役の主な戦場としては田原坂が有名であるが、その田原坂の戦闘と並行して山鹿でも2月26日から3月21日までの24日間、薩軍・官軍の激しい攻防が繰り広げられていた。 南下してきた官軍が田原坂に次ぐ第二のルートとして山鹿から熊本に抜ける豊前街道(小説では山鹿街道)を選んだことは当然であり、そこで行なわれた戦闘が激しかったことは容易に想像できる。
☆ 山鹿
12世紀中頃、山鹿温泉の発見により、温泉町として発展を始める。
中世には菊池氏が地域一帯を支配するが、菊池氏の没落後、めまぐるしく変動する。
江戸時代には参勤交代の道となる「豊前街道」が整備され、熊本藩・人吉藩・薩摩藩がこの道を往来した。
市制施行は昭和29年。「ゴジラ」封切りの年である。
☆ 豊前街道
肥後熊本を起点として北上し、植木・山鹿から南関を経て豊前小倉に至る道を熊本では「豊前街道」と呼んでいます。
近世になってこの街道は参勤交代の道として栄え、大名行列の宿場町として土地固有の産業や文化が育ってきました。
昔から湯のまちであった山鹿は宿場町として栄え、重厚な貫禄が町並みに残っています。
兵力が分散していた乃木の第14連隊のうちの二個中隊の兵力は、木葉で乃木が戦っていた2月23日午後1時に山鹿に到着した。 率いていたのは第14連隊第1大隊の大隊長津下弘少佐。
薩軍は山鹿の第14連隊二個中隊に対応するため、四番大隊から五個小隊(兵力1,000)を、
三番小隊長の野村忍介を臨時の指揮官にして山鹿に進発させた。
道案内は、平川惟一(
>>629 )の熊本協同隊。
戦場に女を連れ込んだ変態宮崎八郎も同行したようである。
「血生臭い戦場にただ一輪、恋の花を咲かせた女性」 爆笑!!!
野村忍介の四番大隊が熊本を出発したのは、23日夜8時。
敗走した乃木が石貫村川床にたどりつこうとしていた頃である(
>>778 )。
23日の夜は豪雨のため植木で一泊した。 24日行軍を再開し、山鹿に到着する。 そのとき津下弘少佐の部隊は、乃木のいる石貫まで退却していた。
2月26日の戦闘は、山鹿口の戦いのうちの「第一次鍋田の戦い」と呼ばれる。 すでに南関を占拠した三好重臣の第二旅団が、第14連隊の津下弘少佐に三個中隊と砲兵を与えて、山鹿に進発させた。 結果は薩軍の圧勝。 政府軍の死者41名。薩軍の死者3名。
鍋田の戦いの解説で、政府軍の指揮官を三浦梧楼少将とするものがやけに目に付く。 三浦梧楼は第三旅団長だろう。まだ九州に到着していないんじゃないの?
【高瀬の会戦】 両軍主力が初の激突。 高瀬は菊池川西岸の街で菊池川を渡る高瀬大橋があり、南関から南下する政府軍にとって、高瀬経由で熊本へ進むルートは、山鹿経由に比べ起伏が緩やかで物資を運ぶには容易であり、高瀬大橋を確保することは必要不可欠であった。 この地を巡って両軍主力は初めて激突することになる。 高瀬の会戦は、2月25日、26日、27日の三日間にわたって行われた。 西南の役の事実上の天王山である。
薩軍主力先鋒は熊本北部へ移動を開始。 24日、4番大隊3番小隊長・野村忍助は5個小隊を率いて山鹿制圧に進軍。 6番大隊長・越山休蔵は3個小隊を率いて植木経由で高瀬東の山部田へ進軍して植木への進路を封鎖。 さらに3番大隊7番小隊長・岩切喜次郎は3個小隊を率いて有明海沿いから小天経由で高瀬へ、 佐々友房ら熊本隊3小隊も吉次峠を越え伊倉へ進み高瀬へ進軍した。
小説の上では退嬰的な薩軍とは対照的に、高瀬の占拠については熊本隊が積極的だったように書かれている。
熊本隊の一番小隊長佐々友房(
>>554 )が高瀬の対岸の伊倉村に本営を設けたのは、2月24日朝である。
☆ 伊倉村
昭和29年に近隣町村と合併して玉名市となる。
☆ 岩切喜次郎 薩軍3番大隊7番小隊長。 25日午後4時、伊倉にいた薩軍・岩切喜次郎隊が高瀬大橋を渡りはじめ乃木隊と戦いが始まる。これが第一次高瀬会戦である。
☆ 小天(おあま)
小天温泉は、熊本県玉名市天水町小天に位置する温泉である。
夏目漱石の小説『草枕』の舞台「那古井温泉」のモデルとして知られる。
明治29年から熊本市の第五高等学校(熊本大学の前身)の英語教師として勤めていた漱石は、
翌年暮れ、当時熊本市街から最も近い温泉であったこの地で正月にかけて数日間保養した。
薩軍岩切喜次郎隊が、小天に進出していた。
【熊本隊】
学校党。藩校時習館出身者。石取りの上士。
明快な反革命党。士農工商の世に戻せという思想。
2月22日、熊本県権令富岡敬明(よしあき)〔
>>566 〕に池辺吉十郎(
>>551 )が出した決起宣言書にその思想が濃厚に表れている。
☆ 高橋長秋 安政5年(1858)生まれ。もと肥後熊本藩士。西南戦争では熊本隊にくわわり政府軍とたたかう。 明治12年同心学舎(現済々黌高)の創立に参加。 その後実業界にはいり、大阪百三十銀行副頭取、肥後銀行頭取などをへて熊本電気を創立した。 昭和4年7月3日死去。72歳。
☆ 時習館
熊本藩第8代藩主細川重賢が宝暦5年(1755)に設立した藩校。
続いて宝暦6年(1756) 重賢は藩の医学校再春館も建てた。
両校とも明治3年に廃校になった。
熊本藩士族の文武両道、質実剛健の気風を育てたとされる。幕末期には横井小楠が時習館に学び塾頭も勤めたが、実学党に鞍替えした。
☆ 同心学舎
佐々友房のところで述べた(
>>554 )。
現在の熊本県立済々黌高等学校である。
☆ 第一高等中学校
明治19年に、日本の近代国家建設のため必要な人材の育成を目的として創設された。
それ以前は大学予備門と呼ばれた。
明治27年以降、第一高等学校に改称された。
現在の東京大学教養学部の前身である。
日本の旧制高校の校風や寮制は、明治19年に第一高等中学校が創設されたとき、
校長の古荘嘉門(ふるしょう かもん)、幹事の高橋長秋(
>>807 )、舎監の守田愿が、
いずれも熊本時習館の出身だったために、時習館の伝統が強く移植されたことによる。
司馬さんが脱線しているところまで詳述しなくていいんじゃないの? はやく戦をやれよ。
☆ 松崎迪(すすむ) / 高島義恭(よしたか)〔
>>635 〕
2月22日の初戦の後、熊本隊から二名の代表者を西郷の元へ挨拶に送った。
松崎迪(すすむ)は副大隊長。高島義恭(よしたか)は軍監である。
それがしは、 西郷吉之助でございまする / ̄ ̄ ̄ ̄~\ < Y三ヽ /\___ / |へミ| (へ___ ヽ/ ノ〜zノ / /| | <_  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\_ノミ)  ̄
___ / ノ '' ⌒\ 今夜、敬神党が抜刀して城内に突入します / ( ● ) (● )\ / :::::⌒ 、_ ゝ⌒:::::\ (⌒) | - | ノ ~.レ-r┐、 \ / ノ__ .| | | | . , ⌒ ´ \  ̄ ´ ! 〈 ̄ `-Lλ_レレ / __ ヽ |  ̄`ー‐---‐‐´ . 〃 ,. --ミ ヽ i |/ハ / ji/  ̄` ヽ | . {{ '
/  ̄ ̄ \ /ノ ヽ__ \ まぁ、なんとなく予想はついてたお。 /(―) (― ) \ 敬神党だと勘違いされてたんだお。 |. (_人_) u | \ `⌒ ´ ,/ / ヽ ./ l ,/ / i (_) (__ ノ l / / ___ ,ノ !、___!、_____つ 池辺吉十郎
>>802 薩人のことを書くと意気込んで執筆を始めたものの、西南の役の薩人には西郷を筆頭に魅力的な人物がいない。
新たなヒーローを求めて肥後人について書こうと思ったが、チンポ八郎にはがっかりしてしまう。
そこで目を付けたのが、佐々友房なんだろうな。
むしろ政府軍の側にヒーローが多い。
歩兵第13連隊の連隊長与倉知実中佐(
>>563 )、
歩兵第14連隊第3大隊大隊長吉松秀枝少佐(
>>736 )等々。
>>817 「はじめに」で描かれた桐野利秋は颯爽としていたのにな。
しかし調べていくうちにバカだとわかったので、西南戦争が始まる頃には野村忍介を中心に書こうかという模索の跡が伺える。
【第一次高瀬会戦】(2/25)
午後4時、小天にいた薩軍・岩切喜次郎隊が(
>>805 )高瀬大橋を渡りはじめ乃木隊と戦いが始まった。
岩切隊は、迫間の乃木隊を圧倒して展開。熊本隊も伊倉(野部田山)から進んで菊池川を渡り、繁根木の乃木隊を攻めた。
乃木隊は後退したが、長谷川好道中佐の4個中隊が駆けつけて対抗。
増援の出現に熊本隊は迂回してこれを攻めようとしたが、察知され撃退されている。
戦闘は日没となって二時間あまりで終了。薩軍はは熊本隊は寺田山、岩切隊は伊倉へ撤退した。
☆ 岩切喜次郎 ネットよりも「翔ぶが如く」の方が詳細なので、小説から引用する。 はじめ近衛陸軍少尉であったが、ほどなく警視庁に転籍した。 明治6年の政変で警視庁を辞職し、鹿児島に帰って区長になった。37歳。 岩切四兄弟:喜之進→善次郎→勇之進→吉蔵
〈政府軍〉1,200
東京鎮台の歩兵第1連隊第3大隊 中隊長彦坂為一大尉(
>>779 ・
>>781 )
木葉で大敗した小倉の歩兵第14連隊の敗残兵
〈肥薩軍〉
岩切隊600
佐々隊300
☆ 高瀬大橋
岩切隊が渡った高瀬大橋。画像はもちろん当時の橋ではない。
☆ 千田の渡し
佐々隊が菊池川の渡河に使った千田の渡し。
画像は昭和41年のものであるから、昭和41年はまだ現役だった。
この手の渡し船は、昭和40年代にはほぼ消滅した。
わたしが戻りたいのは渡し船があった昭和40年代であって、肥溜めのあった昭和40年代ではない。
敗残の乃木連隊は、迫間と繁根木にいたようだ。 ☆ 迫間 玉名市両迫間……高瀬大橋を渡り右にある →岩切隊に撃破される ☆ 繁根木(はねぎ) 玉名市繁根木……高瀬大橋を渡り左にある →佐々隊に撃破される
>>823 乃木隊の渡辺中尉との邂逅場面では中隊長彦坂為一大尉しか登場しなかったが。
高瀬の会戦には、直属上官である大隊長長谷川好道中佐も来ているようだな。
☆ 長谷川好道
長州藩の支藩岩国藩の藩士の子。日露戦争では鴨緑江会戦・遼陽会戦などで善戦した。
明治37年に陸軍大将、同45年に参謀総長、大正5年に朝鮮総督に就任。
三・一独立運動を武力鎮圧した。
政府軍は退却戦術をとった。自軍の長所である射撃戦に徹するためである。 ☆ 立願寺村 玉名市立願寺 ☆ 岩崎原(ばる)玉名市岩崎
戦いたけなわの頃、大阪第8連隊の二個中隊400が南関から高瀬に到着した。 葛原山から射撃を始めた。
佐々友房隊が八幡山を奪取しようと動いたときに、大阪の歩兵第8連隊に阻止され、肥薩軍は退却した。
____ / \ / ─ ─\ / (●) (●) \ 敗けてないじゃん、八連隊 | (__人__) | / ∩ノ ⊃ / ( \ / _ノ | | .\ “ /__| | \ /___ /
八連隊に敗けるようでは、佐々友房にもヒーローの資質はない。
>>827 小説では、翌日の第二次高瀬会戦のところで初めて名前が出てくる。
25日はいまだ南関にいるかのような書き方なんだが。
>>833 第二次高瀬会戦は、前日の面子で戦われている。
桐野・篠原や長谷川好道が登場する大会戦は、2月27日の第三次高瀬会戦。
25日・26日の戦いは前哨戦。 27日の戦闘が兵数・戦死者数からいって高瀬の会戦と呼ぶにふさわしい本戦。
ということで小説の流れとは離れてしまいますが、先に26日の第二次高瀬前哨戦について書きます。 小説の流れは、27日の第三次高瀬会戦の作戦計画について先に書いて、その途中に26日の第二戦を挟むという流れになっています。
【第二次高瀬会戦】(2/26)
26日早朝から政府軍の第2旅団は旅団本営を南関から高瀬の北の石貫まで移動し乃木隊を統合した。
さらに薩軍の展開が手薄とみて攻撃を決定し、約1,600の兵で菊池川を渡河する。
薩軍は川部田の越山休蔵隊(
>>521 ・
>>801 の山部田・ここの川部田はともに玉名市にある地名)、
寺田山の佐々友房隊、伊倉の岩切喜次郎隊が迎え撃った。
迫間から菊池川を渡った乃木隊約500名は、薩軍・越山休蔵隊へ攻め込んだ。 越山隊は乃木隊のほかに知識中隊(近衛歩兵第1連隊第2大隊第2中隊の知識兼治大尉)の攻撃も受けて防ぎきれず、昼頃には木葉へ敗走する。
さらに第2旅団本隊から約1,000の兵が菊池川を渡河する。二手に別れ熊本隊(佐々隊)・岩切隊各隊を攻撃した。 両軍は初め拮抗した戦いを繰り広げたが、越山休蔵隊を駆逐した知識兼治中隊が、熊本隊側面を攻撃しはじめた頃から薩軍は戦線を維持できなくなり、植木・伊倉方面へ撤退した。 本文に書かれている池辺吉十郎の熊本隊主力1,000が吉次越をこえて白木村に達したときの戦況は、以上のようなものである。
乃木隊は越山休蔵隊を追撃して木葉を抜け田原坂まで攻めた。 乃木は田原坂は戦略上重要と考えて、田原坂確保のための増援を第2旅団本営へ要請したが、 司令長官三好重臣少将は撤退命令を発し、乃木隊はやむなく撤退し、他の部隊とさらなる敵の来襲に備えて高瀬の守りを固めた。
三好少将は薩軍主力が後方に控える中で、高瀬〜田原坂までの広い地域に兵を分散させるにはまだ体勢不足と判断したものであろう。 しかし、三好少将のこの判断ミスが、田原坂で壮絶な激戦を呼ぶことになり、征討軍に苦戦を強いることになった。
___ / \ / \ 乃木希典は、やればできる子 / ⌒ ⌒ \ | /// (__人__) /// | . (⌒) (⌒) ./ i\ /i ヽ
>>841 判断ミスは言い過ぎ。
政府軍が少ない兵力で田原坂を占拠していたら、乃木は翌日戦死していたはず。
☆ 白木村
熊本県玉名郡玉東町白木
白木村は田原坂の西、木葉の南に位置する。
池辺吉十郎の熊本隊主力1,000は吉次越をこえたが、政府軍はすでに菊池川以東に進出しており、白木村より西には進軍できなかった。
☆ 寺田山
玉名市に寺田という小字はあるが、寺田山は地図に載っていない。
地図をみると小さな丘陵らしきものはある。
画像に写っている山ではない。寺田のバス停の写真を貼りたかっただけだ。
寺田山は26日の戦闘前は、熊本佐々友房隊が陣地にしていたが、その日の午後には政府軍に奪われた。
>>826 佐々友房隊が政府軍と戦った繁根木(はねぎ)の堤防の画像があった。
おまえは玉名市民でも知らないようなローカルな小字の話をしているのがわかってんのか?
☆ 児玉強之助(
>>521 )
昨日の岩切喜次郎小隊長に代わって指揮を執る。
郷士隊である独立第二大隊の大隊長。
なお独立第一大隊の大隊長は越山休蔵(
>>837 )。
>>847 大字は知っていて当たり前です。
調べる快感があるのは、小字です。
覚える気持ちがまったくないのは、平成時代に合併してできた市町村です。
【第三次高瀬会戦】(2/27)
☆ 南関(
>>656 )
第一旅団(野津鎮雄少将)・第二旅団(三好重臣少将)の本拠がある(
>>776 )。
朽ちた穂株しかない無愛想な冬田の風景(画像は南関の冬田ではない)
☆ 小岱山
標高501m。小岱山を西に越えれば宮崎八郎の故郷荒尾。
☆ 正勝寺
南関にある真宗寺。
25日夜、野津鎮雄少将と三好重臣少将とが会同して作戦会議を開いた場所。
作戦方針は、高瀬・木葉を抜いて植木を占領すること。
部隊編成は第二旅団を中心に行われた。
司令官:三好重臣少将
第一軍:高瀬→木葉→植木へ進出する主力軍
第二軍:玉名村で右折→川部田→木葉→植木
〈第一軍〉 前駆:乃木希典少佐……第14連隊のうちの4個中隊 中軍:迫田鉄五郎大尉(第3大隊大隊長心得)……東京第一連隊のうちの2個中隊 後軍:大迫大尉・知識兼治大尉……近衛第一連隊のうちの4個中隊
近衛第一連隊の名簿からは大迫大尉の名前を見つけ出せなかった。
熊本城籠城軍のなかに同階級の大迫尚敏(なおはる)大尉がいるが、負傷しているので別人(
>>565 )。
〈第二軍〉
指揮官:長谷川好道中佐(
>>827 )
近衛第一連隊の2個中隊
大阪第八連隊の2個中隊
〈山鹿方面守備隊〉
第14連隊の津下弘少佐は、2月26日に「第一次鍋田の戦い」で薩軍の野村忍介隊(5個小隊)に敗れている(
>>794 ・
>>798 )。
乃木希典の第一軍前駆は、石貫で宿営していた。
2月26日午前4時に高瀬に進出し、第二次高瀬会戦を起きる(
>>837 )。
>>827 長谷川好道中佐は、南関にいたはずだ。
第一連隊第三大隊は、彦坂為一大尉が率いていた。
>>789 「山鹿の戦い」を高瀬の会戦より前に、しかも独立した戦闘と受け取られるような書き方をしたのは失敗だったな。
高瀬の会戦の一環として生起した戦いだからな。
初読のとき電車で地図なしで読んでいたから、山鹿と高瀬はものすごく離れた場所にあると勘違いしていた。 司馬さんの書き方だと、双方の戦いは無関係に起きたような誤解を与えるね。
先に薩軍の勝利をまとめて描いて、後で薩軍の敗北をまとめて描いたんだよ。 勝利の相手はいずれも乃木の第14連隊。 高瀬の第三戦の大敗北の相手は、近衛第1連隊が核になった政府軍の大軍だった。
【三面合撃】
26日夕刻、薩軍幹部が率いる3部隊が熊本を進発した。
中央隊篠原国幹、右翼隊桐野利秋、左翼隊村田新八の率いる選りすぐった精鋭総勢2,800。
3隊長は高瀬の政府軍を三面から攻撃することを打ち合わせ、桐野隊は山鹿経由で高瀬北側より攻め、篠原が植木経由で高瀬の西から、吉次峠から伊倉へ抜ける村田隊は高瀬の南より攻める手はずであった。
高瀬の第2旅団は南関から後続の部隊も到着し、近衛第1連隊や大阪第8連隊を中核として総勢約4,000。
船島(高瀬の北)に旅団本営を進め、薩軍の攻撃に備えていた。
☆ 大窪
26日午後6時に熊本城下の出町を出発した薩軍3隊は、一時間後の大窪村で大休止した。
上記の作戦は、そこで立てられたものである。
現在は熊本市北区大窪。
【山縣有朋】
☆ スナイドル銃
イギリスのエンフィールド造兵廠(RSAF)が、前装式ライフル銃であるエンフィールド銃を改造した後装式小銃である。
日本では蘭語読みで「スナイドル」と呼ばれるが、英語読みでは「スナイダー」で、これは機関部を考案したジェイコブ・スナイダー (Jacob Snider) の名に由来する。
日本陸軍が草創期から三十年式歩兵銃を制式とするまで使用し続けた小銃としても有名である。
☆ ミニエー銃
薩軍が主として用いた銃。
雷管式の前装式ライフル銃である。1849年にフランス陸軍のクロード=エティエンヌ・ミニエー大尉によって開発された。
従来使用されていたゲベール銃の銃身に改修を施す方法で製造された。
スナイドル銃と比較すると15年ほど昔の銃と思えばよい。
☆ 鳥尾小弥太中将
西南戦争では大阪において補給や部隊編成などの後方支援を担当した。
明治10年における日本陸軍の常備兵力……32,000。 そこで士族を徴募して巡査にし、彼らを戦場へ送り込んだ。 その結果、西南戦争を通じての政府軍の総動員数……51,800。 ちなみに西南戦争を通じて政府軍が消費した小銃弾総数……34,893,500発。
〔西南戦争の参軍〕
陸軍卿 山縣有朋
海軍大輔 川村純義
ちなみに明治10年当時の海軍の戦力は、
軍艦11隻、運送船14隻、士卒2,200。
山縣が陸軍の総指揮をするために博多に上陸したのは、2月25日である。
同日、三浦梧楼少将率いる第三旅団も博多に上陸している。
☆ 旅団 師団と連隊の中間にある部隊の単位。旧日本陸軍では、二個あるいは四個の連隊で組織され、歩兵旅団、騎兵旅団、野砲兵旅団、重砲兵旅団などがあった。 戦術単位としては最大の部隊。 西南戦争の時期に作られた新語であるが、所定の地域に駐屯していれば「鎮台」、それが移動中であれば「旅団」という感覚で、厳密に兵数が決まっていたわけではない。
【2月27日】
☆ 近衛師団
明治新政府が樹立された当初、政府は独自の軍隊を保有しておらず、軍事的には薩摩藩、長州藩、土佐藩に依存する脆弱な体制であった。
そのため明治4年、政府は「天皇の警護」を名目に薩長土の3藩から約1万人の献兵を受け、政府直属の軍隊である御親兵を創設し、この軍事力を背景に「廃藩置県」を断行した。
この御親兵は、明治5年に初代近衛都督西郷隆盛を中心とした近衛兵として改組され、「天皇および宮城の守護」という任務が課せられた。
>>722 三好重臣は、玉名村から偵察隊を出して、木葉山に登らせた(>>722 )。 国見山、金毘羅山(>>733 )、木葉山の位置関係。上が北です。 ▲ ▲ 金比羅山 味取 国見山 五両 ▲ 木葉山 境木 田原坂 木葉 植木 三好重臣少将は、菊池川に架かる高瀬大橋を破壊し、堤防に沿って、
東京第一連隊の二個中隊
大阪第八連隊の一個中隊
小倉第14連隊の一部
近衛第一連隊の四個中隊を配置した(
>>855 )。
☆ 向津留(むこうづる)
熊本県玉名市向津留
高瀬と向き合うようにして菊池川の東岸にある村。
篠原国幹隊の先鋒加世田弥八郎小隊がもっとも早く菊池川畔に到着した。
☆ 加世田弥八郎 薩軍一番大隊二番小隊半隊長 薩軍の小隊は帝国陸軍の中隊に相当する。つまり歩兵四個小隊200名の兵力。 そこで「半隊長」という職を設け100名の兵を統率させている。
☆ 迫間(
>>820 )
三好重臣は、高瀬の2q上流にある迫間に砲床を築かせ、同時にそこを総指揮所にした。
三好は最前線で指揮をする豪胆な将であった。
迫間の対岸が川部田(
>>837 )。
☆ 坂元伸太郎(司馬は申太郎とする)
薩軍一番大隊四番小隊長。
川部田から迫間へ渡河しようと試みるが、逆に菊池川東岸に渡河した近衛第一連隊の知識兼治大尉(
>>838 ・
>>839 ・
>>855 )率いる中隊に敗れる。
坂元伸太郎は頭を撃ち抜かれて即死。
☆ 知識兼治大尉 昨日の高瀬第二戦から引き続き大活躍の知識兼治大尉であるが、歴史家・小説家の注目度は低い。 知識大尉は薩軍坂元小隊との戦闘で敵弾が太腿を貫通し、この負傷を契機に菊池川を再び渡河し迫間に退却した。
【桐野右翼隊】
薩軍の右翼隊は27日未明、山鹿から菊池川に沿って南下し、玉名付近の征討軍左翼を攻撃した。
桐野は、山鹿に10小隊を残置して3小隊(兵600)のみ率いて戦った。
平川惟一(
>>629 )の協同隊は桐野隊の嚮導である。
☆ 内田の渡し
熊本県玉名郡菊水町内田。
山鹿市にも上内田・下内田があるが、本文に書かれた高瀬から12qの上流というと、菊水町の内田である。
桐野隊は、内田で菊池川を渡河し、政府軍と激突する。
http://5.travel-way.net/ ~niemon/kumamoto/kikusuimati/dotyu/arch2.jpg
☆ 月田
熊本県玉名市月田
桐野隊は川沿いの道をそのまま南下して高瀬の戦場に向かった。
月田からは東西に山道が拓けていて、そこを進めば石貫村に出て、石貫村から南下すれば政府軍の背後を衝けた。
桐野は、その作戦をとらなかった。
※バス停月田三差路
☆ 青木村
熊本県玉名市青木
戦場になっている迫田のすぐ北。
桐野隊は青木で政府軍の哨戒兵と遭遇する。哨兵は桐野隊の接近を石貫村の参謀長野津道貫大佐に報告した。
☆ 稲荷山 午前10時頃、桐野率いる右翼隊は迂回して石貫にある征討軍の背後連絡線を攻撃した。 この時に第2旅団本営にたまたま居合わせた野津道貫大佐(第1旅団長の野津鎮雄少将の実弟)は旅団幹部と謀って増援を送るとともに、稲荷山の確保を命じた。 この山を占領した征討軍は何度も奪取を試みる薩軍右翼隊を瞰射して退けた。 稲荷山は低丘陵であるが、この地域の要衝であったので、ここをめぐる争奪戦は西南戦争の天王山ともいわれている。
堀新次郎……四番大隊一番小隊小隊長 →敵の背後へ迂回 別府九郎……二番大隊(村田大隊)十番小隊長 重久雄七……二番大隊(村田大隊)三番小隊長
☆ 遥拝宮(ようはいぐう)
玉名大神宮の別名。
菊池川右岸の玉名平野北側にあり、周辺は「元玉名」と呼ばれる。
天照大神、景行天皇、阿蘇の四神、玉依姫とその両親である菊池将監則隆夫妻を祭ってある。
日本書紀には、景行天皇が九州遠征の時に玉杵名の土蜘蛛を討伐した記事がある、社伝によると、その時地元勢力の中尾玉守が天皇軍に味方し、その功績により玉名大神宮の宮司になったと伝えられている。
遥拝宮は乃木希典が守備していたが、桐野は別府九郎隊と重久雄七隊に遥拝宮を挟撃させ、乃木を敗走せしめた。
堀新次郎隊の敗北により、桐野右翼軍は戦術的機能を失い、戦場に漂うだけの存在に堕ちた。
【村田左翼隊】
☆ 吉次越
西郷小兵衛小隊ほか三隊は、吉次越を通って菊池川流域に進出した。
木葉・田原坂・植木との位置関係
☆ 西郷小兵衛
西南戦争に参加して薩軍第一大隊第一小隊長を務める。明治10年2月27日、肥後国高瀬河南の戦いにて官軍の銃弾を受けて戦死した。享年31。
☆ 浅江直之進 一番大隊三番小隊長 諱は真誠。木留で戦没する。享年30。
☆ 相良吉之助 一番大隊六番小隊長 戊辰戦争では九番隊。九番隊は慶応四年五月六日朝に淀方面で有力な幕府軍と遭遇した。 激しい銃撃でたちまち一名が即死、四名が深傷を負わされた。 軍医高木兼寛は、これらの負傷者の応急手当をしながらも、指揮者の監軍「相良吉之助」と野崎平左衛門が少しもめげることなく兵を励まして突撃するのを眼にした。 隊員は銃砲火の中を番兵が追って進撃し、強力な砲台を占領することに成功した。 以上は、吉村昭著「白い航跡」から
これら3小隊は、村田の命により、高瀬大橋から3q下流の大浜津から菊池川を渡った。
☆ 大浜津
玉名市大浜町
☆ 岩崎原(ばる)
25日の高瀬第一戦で、政府軍が退却した地点名として登場した(
>>828 )。
玉名市岩崎
高瀬大橋を渡ると繁根木(はねぎ)の町がある(
>>826 )。
その西隣が岩崎原である。
☆ 観音丘 岩崎原にある小さな丘らしい。 西郷小兵衛ら三小隊は、観音丘を占拠して攻撃拠点にした。
三好重臣は大阪第8連隊のうちの一個大隊を岩崎原方面に向かわせたが、小兵衛らの3小隊は、これを追い散らした。
第8連隊は、繁根木村と永徳寺村を焼き払って、北方の南関街道や葛原山(こうずばる)をめざして逃げた。
葛原山は25日の高瀬第一戦で第8連隊が射撃拠点にした場所である(
>>829 )。位置は
>>864 の地図を参照せよ。
☆ 永徳寺 西郷小兵衛は、熊本城の攻撃に参加したあと、2月27日の高瀬攻略に加わり、相良吉之助、浅江直之進の小隊とともに下流の大浜津へ迂回、渡河して岩崎原の第八連隊を攻撃、西郷は右翼から衝いた。 官軍は繁根木に放火して、立願寺村の葛原山(こうずばる)へ退く。しかし第一連隊や近衛兵が応援に駆けつける。 近衛兵がいる繁根木八幡宮の崖下を潜行して読坂へ出た西郷隊の背後の三池往還に官軍が突出し、西郷隊は退路が断たれた。 2連発の愛用のピストルで応戦中、銃弾が飛来して西郷の左胸に当たる。 永徳寺の堤防に退避、焼け残った民家橋本鶴松方の雨戸を1枚借り受け、桃田・吉次峠を経て、北岡の西郷隆盛の本営に運ぶが、途中で絶命した。
永徳寺村は、高瀬大橋の南を走る鹿児島本線の鉄橋の南、菊池川の川沿いの町である。 被弾した小兵衛をまず永徳寺に退避させたのであって、永徳寺で絶命したのではない。
日テレ『田原坂』では西郷小兵衛の戦死場面を、乃木希典が双眼鏡で見ていた。 史実ではない。
やりたくもない戦に駆り出されて、弟を殺されて、西郷も散々な目に遭っているな。
+ . .. :.... .. .. . + .. . .. . +.. .. :.. __ .. .|: | .|: | .(二二X二二O |: | ..:+ .. ∧∧ |: | /⌒ヽ),_|; |,_,, さようなら 西郷小兵衛 _,_,_,_,,〜(,, );;;;:;:;;;;:::ヽ,、 君のことは忘れない・・・ "" """""""",, ""/; 安らかに眠れ "" ,,, """ ""/:;; "" ,,""""" /;;;::;;
【篠原中央隊】 六個小隊(1,200人)という最大兵力にもかかわらず、ついに菊池川を渡河できなかった。 高瀬大橋を政府軍が破壊することをまったく予想していなかったのが、こいつの阿呆なところ。
午後二時ごろになると、篠原の麾下1,200人が携帯していた銃弾がなくなった。 篠原はそれにより、自隊をまとめ、さっさと戦線を離脱してしまったのである。 この時期は、敵中に入りこんでいる桐野・村田両隊が、もっとも熾んに戦闘しているときだった。 彼らこそ、いい面の皮だった。敵中で置き去りにされてしまった。
________ / \ / \ / /・\ /・\ \ / / \ / \ \ |  ̄ ̄ ̄ ̄  ̄ ̄ ̄ ̄ | | (__人__) | 弾がなくなったので 離脱しま〜す | \ | | ご冥福をお祈りしま〜す \ \ | / \ \_| / 篠原国幹陸軍少将
極端に無口な篠原は、思慮深い人物と勘違いされていたんだろうな。 実態は単なるバカだった。 司馬遼太郎は、「一種の愚人」と酷評している。
村田新八隊……政府軍に勝っていた。 篠原の退却により兵力と砲に余裕ができた政府軍は、村田隊を重囲。 村田隊は篠原隊に遅れること2時間半後の午後4時に伊倉へ退却した。
桐野利秋隊……村田隊よりも退却が遅れた。 あやうく全滅の危機 →山鹿へ退却
☆ 江田
玉名郡和水町江田
桐野隊が菊池川を渡河した地点
戦いの前に渡河した玉名郡菊水町内田(
>>882 )のやや南。
もう一度、熊本県の市町村のお勉強
荒尾市 南関町 和水町(なごみまち) 山鹿市
長洲町 玉名市 玉東町 熊本市北区(植木)
あのな、桐野隊はやっとのことで全滅を免れて敗走しているんだ。 なごんでいる場合じゃない。
☆ 梯団 大兵団の移動などにあたり便宜上数個の部隊に分けた時の各部隊のこと
無口で顔つきだけが知性的なバカには注意しようね。 そんな奴と一緒に戦にゆけば、死んでしまうよ。
【田原坂・吉次越】 ☆ 伊倉軍議 浅江直之進……再び高瀬を攻撃し小倉を占拠する説 →東京へ 篠原国幹……熊本城攻撃に絞り熊本城の武器弾薬と食糧を確保 →東京へ 村田新八……篠原の攻城・野戦二者択一論も現状では空論 →占領地を踏み固め補給を確実にする
☆ 浅江直之進(
>>894 )
近衛陸軍大尉だったが明治6年の政変で辞職。
鹿児島帰郷後は、鹿児島県警察の警部になり、中原尚雄(
>>482 )・高崎親章らを捕縛した。
☆ 2月28日 桐野は山鹿で昨夜の伊倉軍議の顛末を知る。 各大隊長を熊本本営に集め、正午頃、桐野も熊本城下へ到着する。
☆ 坪井の戦い(2月27日)
鎮台側には、司令官の谷干城少将、参謀長の樺山資紀中佐をはじめ、児玉源太郎少佐、川上操六少佐・奥保鞏少佐・小川又次大尉・大迫尚敏大尉など、後年の大物軍人が参加していた。
高瀬第三戦が行われた2月27日に、籠城軍は初めて城門を開き、坪井方面へ威力偵察部隊200を出した。
指揮は大迫尚敏(なおはる)大尉(
>>565 )。
日露戦争では、戦況が芳しくない旅順要塞攻略のため、大迫尚敏中将の第7師団が乃木希典大将の指揮する第3軍に組入れられ、二〇三高地の攻撃に当たった。
☆ 坪井
熊本城のすぐ北東にある。
佐々友房の生まれた町でもある(
>>554 )。
大迫大尉の部隊は草場学校(詳細は不明)の薩軍を挟撃したが、やがて撤退した。
高瀬の会戦に参加しなかった薩軍の二つの大隊は何をしていたのですか?
池上四郎の五番大隊2,000は、熊本城攻囲戦を担当していました。 永山弥一郎の三番大隊1,200は、海上から政府軍が上陸することに備えて、百貫湊(熊本市西区 / 熊本城の真西の海岸)を中心に配置されていました。
西郷が本営としていた神主屋敷で軍議が始まった。 桐野はこの席上で薩軍の兵力不足と弾薬の不足が高瀬の敗因であることを認める。 桐野が鹿児島出発後はじめて述べた現実認識である。 西郷は後に桐野と口をきかなくなるが、桐野に対する悪感情はこの時に芽生えた。 それは桐野に対する憎悪というより、桐野に乗せられてしまった自分に対する嫌悪だったのかもしれない。
篠原の主張する熊本攻城集中論は、高瀬まで政府軍が進出している現在、意味をなさない空論であった。 篠原が今日生きているとすれば、偏差値40程度の天然ボケであるとしか言いようがない。
北上集中論も同様である。 北上経路は既に政府軍に押さえられている。 薩軍全軍で北上すれば、熊本籠城の鎮台兵が薩軍を追尾して挟撃されるだけである。
結局、元の攻城守野という二段構えの方針に戻った。ただし守野といっても防御線は縮まった。 北は桐野が山鹿を守り、北西は篠原と村田が田原坂・吉次越の瞼に拠って、政府軍の内線への侵入を防ぐというものだった。 高瀬の会戦の結果、薩軍は大きく退嬰防禦の方針へ転換した。 このようにして3月1日から3月31日まで、田原坂・吉次峠の激戦が繰り広げられることになる。
これより先の西南戦争は、無意味な殺戮と消耗にすぎません。
西南の役は内乱であって国家間の戦争ではないですが、この段階で戦争終結にもってゆけない戦争指導者は、 兵にとっても庶民にとっても害悪としか言いようがないです。
近代・現代の政治家の戦争の止め方の下手くそさ加減を見ていると、 近現代の人間よりも、中世の人間の方が賢いのではないかと思ってしまうな。
戦の規模が中世と近代では大きく異なるだろう。 戦の規模が大きくなれば、組織で処理せざるを得なくなり、個人の意思が組織の意思に反映できなくなり、手詰まりになってしまうのよ。
世界史の教科書などで「アメリカはこのように考え、ドイツはこのように考えていた」という類の文章を読むと、 具体的にいうと、それはいったい誰が考えていたのですか?と質問したくなるよな。
「政府としてはこのように考えています」という類の発言も同様。 それはいったい誰が?と尋ねたくなる。
>>929 田原坂・吉次峠の戦いと並行して行われた山鹿の戦いは、2月26日から3月21日までの24日間(
>>789 )。
>>909 現代の戦術眼で篠原の行動を観察するから、そのような篠原評価になる。
高瀬の戦いに参加した薩軍の将兵の誰一人として篠原を非難していないところから考えると、
篠原の行動は少なくとも薩軍将兵にとっては常識的な行動だったのだろう。
「死を懼れる者は士に非ず」という倫理が厳然として存在していたのだ。 補給の観念は山縣が西欧から導入した新思想。
明治に導入された新思想は、昭和になると風化したがな。
【高瀬】
戦いが始まると人々は家財を背負ったり荷車に積んで山へ逃げたり、寄辺を頼って遠い里へ避難したりした。
薩軍には護民思想があったが、官軍には皆無だった。
官軍は民家が敵の砦になることを防ぐために、平然と民家に放火した。
知識兼治大尉(
>>880 )の中隊も、川部田から退却するときに民家に放火している。
村田新八隊が菊池川を渡り政府軍に突入したときも、政府軍は繁根木村に放火して退却した。
この火が高瀬の南西部の民家をすべて焼き払い、高瀬の町は灰燼に帰してしまった。
【熊本】
石光真清(まきよ)の自伝『城下の人』に、西南戦争当時の熊本城下の様子が書かれている。
真清は当時10歳で小学校に在学していた。
彼は大胆にも前線指揮所へ行き、村田新八や池上四郎に声をかけてもらっている。
真清の父のつぶやきが印象に残る。
「五十四万石のご城下もこれで終わりだ。あのゴジラが最後の一匹だとは思えない」
【高瀬】 高瀬の会戦は終わったが、避難民は集落が焼野原になったため戻る場所がなかった。 それでも人々は薩兵をさほど恨まず、むしろ薩軍の勝利を願う者が多かった。 薩軍が勝てば年貢は無しになるという期待が一般にはあった。
【山鹿千軒】
☆ 岩野川
菊池川の支流で北から流れてきて山鹿で菊池川と合流する。
岩野川に沿った南北の街道が豊前街道(山鹿街道)である(
>>791 )。現在の国道3号線。
なお菊池川沿いの東西の街道は、西へ行くと南関に通じている。今日の国道443号線である。
山鹿温泉については
>>790 に書いた。
☆ 桜井屋
熊本協同隊の本営が置かれた旅籠。
山鹿は大きな宿場であったので飯盛女(遊女)が多数いた。
そのため山鹿の薩軍兵士の間で淋病と梅毒が瀰漫した。
【阿蘇一揆】 ☆ 戸長 明治時代前期に区・町・村に設置された行政事務の責任者のこと。 明治4年に戸籍法が制定された際に、7・8ヶ村を「区」と呼ばれる単位に編成して戸籍を区単位で管理することとした。 各区にはその責任者として戸長・副戸長が置かれた。
明治5年4月の太政官布告によって、旧来の庄屋・名主などの村役人の呼称を廃止して、戸長・副戸長と呼ぶこととなった。 だが、従来の「区」との関連付けが不十分であったために、同年11月に旧来の郡・町・村の行政区分を廃して「大区小区制」を導入し、 大区に区長、小区に戸長・副戸長を設置することとして、戸長・副戸長は戸籍の管理のみならず、明治政府による行政政策の実施にあたるようになった。
明治11年の郡区町村編制法では、旧来の郡・町・村を復活させ、各町村ごとに民選の戸長を選出することとし、戸長が行政事務を行うための戸長役場も設置されることになった。 戸長はかつての庄屋・名主層などの名望家から選出される場合が多かった。 また、その職掌は戸籍の管理と並んで、地券管理・国税徴税・義務教育・徴兵事務・布告布達の伝達・水利土木厚生等公共事業の施工などに及んだ。 戸長は政府の地方官(旧来の代官)としての側面と旧来の村役人としての性格を並存させており、その矛盾は戸長が自由民権運動の指導者となる形で現れることになった。
明治17年5月、政府は戸長制度の改革を行い、戸長を知事の任命による「官選】に切り替えて、平均5町村500戸に戸長1名を置く制度に変更した。 これによって政府の国策に忠実な行政官を戸長に任命することが可能になったが、一方で戸長の給与を改善して既存の戸長を政府側に取り込む措置も図られた。 明治22年の市制・町村制の導入によって廃止された。
司馬さんは明治10年以前にも官選戸長がいたように書かれているが、一部の地方に留まるか、あるいは誤りではあるまいか。
>>955 で述べたように、官選戸長が法制化されたのは、小説の時期よりも7年後の明治17年である。
☆ 小学校 学制は学校を設立し学校制度を運営する機構として学区制を採用した。 それによると全国を8大学区に分け、さらに各大学を32の中学区、各中学区を210の小学区に分け、それぞれに大学校・中学校・小学校を各1校設けることとした。 小学区は人口約600人を基準とし、ここに小学校1校を設けるものとしている。 小学校の設立・維持には多額の経費を必要とし、学制の実施に当たってこれが重大な問題であった。 ところがそのための国庫補助金がきわめて少額であり、大部分を「民費」により、地方住民の負担であった。
☆ 黒流村
熊本県阿蘇市黒流町
和水町 山鹿市 菊池市 阿蘇市
>>926 >西郷が本営としていた神主屋敷
北岡神社の神官光永大膳宅。
北岡神社は天元2年(979)に京都の祇園社(八坂神社)を勧請して創建された。もとは京都と同じく祇園社と呼ばれ花岡山の上にあった(
>>631 )。
正保4年(1647)現在地に移され(熊本市西区春日)、肥後国府のあった二本木の北に位置することから北岡神社と改名された。
西郷隆盛先生本営碑
西南戦争とほぼ時期を同じくして熊本・大分・長崎の農民は一揆を起こした。これらの農民一揆は巨大な西南戦争の影に隠れてあまり知られてない。 しかし一揆に参加し改定律例で処罰された農民5万人余りという数字は、西郷軍に加わり国事犯に問われた薩軍方兵士4万数千人を上回った。 熊本県内の農民一揆は明治9年末ごろからその兆しが見え、翌年1月下旬には現在の玉名・鹿本・菊池など県北部で高揚した。 これに対し、県は1月23日、集会禁止の布達を出したが、地租改正費や民費の取り扱いに関する疑惑などから戸長・用掛など小区の役人に対する集団交渉がくり返されていた。
この集会禁止の布達に対して、農民は傍聴と称して、なお多人数の集会が後を絶たなかった。 そのため県は1月27日、再び集会禁止令を出した。 これに対抗して農民たちは兎狩りと称してなおも集会を開いていたので、県は2月2日「多人数会合兎狩等致シ候儀当分差扣可申」と兎狩禁止令を発令した。 数度にわたる集会禁止令を乗り越えて農民たちは粘り強く運動を続けた。
民権党が指導した県北部の戸長征伐は、2月下旬、西南戦争開戦前に鎮まった。 民権党の党員が西郷軍に兵士として参加したためである。 ところが、2月下旬から3月にかけて阿蘇郡で大規模な打ちこわしが起こり、同時に上下益城、宇土、八代など県南部で一揆が沸騰、3月下旬から4月にかけて天草で軍夫徴用拒否の一揆が展開された。 明治10年の農民一揆は、最大の士族反乱である西南戦争の状況とかかわりながら展開し、沈静化していった。
☆ 熊本県の郡
玉名郡 鹿本郡 菊池郡 阿蘇郡
宇土郡 下益城郡 上益城郡
天草郡 八代郡
葦北郡 球磨郡
☆ 市原勇次郎
明治10年1月9日小国下城に端を発した阿蘇一揆は、2月末日阿蘇谷にくだり、内牧浄信寺において気勢を上げ、3月1日には坂梨地区に潮の如くおし寄せた。
その数3,000はくだるまいと思われる。赤ン坊をとりのこして外輪山中に逃げた母親もあったくらいだから、その狼敗の程もうかがわれようというもの(古閑の高木ヒサエ談)。
この年、一揆がひとまず鎮まった時、お茶屋新宅の市原勇次郎は、時の県令富岡敬明(よしあき)宛に被害状況を報告した(
>>566 )。
目録の末尾に「右は本年三月一日党民暴挙の節、打ちこわされ侯 概略、前件の通りに御座候 この段お届け仕り候事 明治十年丁丑四月三十日第十一大区三小区坂梨村千四百拾弐番地 士族 市原勇次郎」とある。
徳川期の農村自治 庄屋などの村役人は、給料をもらっていたわけではなく、むしろ持ち出しである場合が多かった。 この点が、明治の戸長との違いである。
【野満長太郎】 ☆ 古閑(こが) 熊本県山鹿市古閑 山鹿市の中心部から2q東。郷士野満長太郎の生まれた土地。
古閑は現在の地名であって、長太郎が生まれた頃は、山鹿白石村といったんだよ。
☆ 野満長太郎
野満長太郎は、沈毅にして胆略があった。
協同隊の幹部として各地を転戦したが、8月17日、薩軍の解体宣言を受けて降伏した。
投獄されたが、二年余にして放免され、爾来郷党の指導者として推重された。
野満安親・富記兄弟のいとこ(
>>630 ・
>>652 )。
☆ 野満安親・富記兄弟(苗字に誤字があったのでやり直し)
野満安親と富記兄弟は、従兄弟長太郎とともに植木学校に学び、自由民権思想の宣揚に尽瘁した。
明治10年2月、薩軍が起つや、一同集まって参戦の是非を協議したが、議論百出する中、死を賭けた野満安親の一声で参戦が決まり協同隊が結成された。
2月22日、熊本城総攻撃が始まると、野満安親・富記の兄弟は、まっさきに城壁に取り付き奮戦。
「我らの死にざまを見よ」と叫ぶと、兄弟互いにその名を連呼しつつ、弾丸雨中の中、壮烈な戦死を遂げた(
>>652 )。
野満安親 野満富記 墓
西南の役が始まる前より、山鹿の地では「戸長征伐」の問題が取沙汰されていた。
戸長は明治政府により徴税官的な役割を担わされており、民集の不満が高まり、戸長を民選にすることを求めて、明治10年1月28日、山鹿の光専寺で一万以上の人民大集会が開かれた。
この翌日は鹿児島私学校が暴発した日であったが(
>>522 )、薩軍の進行とともに、熊本県全域に一種の無政府状態が生れ、山鹿で「民権」政治が行われることになった。
☆ 光専寺
天正6年(1578)創建。熊本城築城の際、余った材木で作られた桜門を構える。
歴史の舞台に度々登場するこのお寺、明治10年の西南の役では薩軍の野戦病院となった。
熊本民権党は他地方の自由民権運動と比べると本物に近い匂いがあった。 そんな彼らですら、薩摩士族が西郷を擁して起ったとなると、農民一揆を半ば置き捨てにして、薩軍に兵士として参加した。 農民の側に立ちつつも、なお士族としての血の騒ぎのほうが強かったのであろう。
高瀬の第三戦が行われた2月27日には、阿蘇一帯で大規模な一揆が起こっている。 もし協同隊が一揆を組織して薩軍と連携していれば、政府軍は窮地に陥ったであろうが、 護民思想の強い薩軍でさえ、百姓はあくまで支配するもので、士族たるものが百姓の力を借りるなどは、 考えただけで身震いするような違和感があった。
桐野右翼隊にいて菊池川を渡り政府軍と戦っていました(
>>881 )。
野満長太郎が山鹿の民政官になることを思いついたのは、高瀬の第三戦が終わって山鹿に引き揚げた後だった。
なお、宮崎八郎は薩軍本営(
>>961 )そばの寄合所で、薩軍との連絡に当たっていた。高瀬の会戦には参加していない。
☆ 淵辺群平
天保11年(1840年)鹿児島高麗町で生まれる。
徳田小藤次邑興が薩摩に伝えた兵学合伝流を伊地知正治から学び、軍略に長じていた。
明治10年3月、鹿児島へ帰り、弾薬をつくり、新兵を募集し、鹿児島の守備を固めるなど後備につとめた。
4月、別府晋介・辺見十郎太とともに新募の2大隊1500名を率いて北上した。
淵辺は神瀬に本営を置き、人吉を経て八代方面へ向かい、政府軍の背面を衝いた別府・辺見を応援したが、薩軍が川尻戦に敗れ熊本城の囲みを解くに及び、人吉に退却した。
4月21日、淵辺は鵬翼隊大隊長となり、戦線を立て直して大野方面で戦った。
5月30日、淵辺は人吉の危急を聞き、河野主一郎とともに救援に赴いたが、政府軍の勢いの止めがたきを見て球磨川に架かる橋を焼き落とそうしたとき、銃撃を受けて重傷を負い、後送された吉田で帰らぬ人となった。享年38。
野満長太郎は、山鹿において、普通選挙により数名の人民総代を選出し自治を行わせた。
☆ 大森惣作 山鹿の造り酒屋の一門。 熊本協同隊とは、明治10年の西南の役の際、西郷軍に呼応して、熊本の保田窪神社で挙兵した集団です。 山鹿の大森惣作が軍資金を出し、植木学校の参加者を中心に、平川惟一・宮崎八郎・山鹿の野満兄弟等によって挙兵した。 彼らは、西郷軍と同じ思想ではなく、ルソーの民約論に基づいた政府の樹立を考えており、最終的には、西郷隆盛とも対決する覚悟をもっていたといわれる。
協同隊の兵数も増えているな。
保田窪神社(
>>620 )で挙兵したときは40余名だったが、山鹿民権政治時代には300〜400に増えている。
占領地域の戸長・副戸長で県費を保管している者があると、協同隊は押しかけていって彼らを斬殺しカネを奪った。
>>974 本物の民権派は人殺しをするから怖いよ。
官職にありつきたくて民権派を装っていた連中のほうが、まだ人間としてまともだよ。
☆ 安藤維 協同隊輜重長。士族。 戦後、九州臨時裁判所で、渡辺戸長ほか三名を斬殺せしむる科(とが)により懲役10年の刑に処せられている。
「人民」という文字には、人殺しのイメージしかない。 国民主権はしっくりするが、人民主権だと「みんなで人殺しになるのか?」というイメージだな。
次スレの冒頭から田原坂をやろうと思っていたのだが、少しペースが遅かった。 あと少し西南戦争が他地域に及ぼした影響について語らねばならない。
次スレ
大河ドラマになった若しくはしてほしい司馬遼太郎作品 Part14
http://2chb.net/r/nhkdrama/1554270531/ 日本史板に立てられなかったので、大河ドラマ板に立てた。
「箱根の坂」で扇谷定正は繰り返し「関東管領」という肩書で書かれているけど、 定正は関東管領になったことはない。 「南総里見八犬伝」の影響かな?
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