急性虫垂炎(盲腸)は症状によって虫垂の切除手術が行われます。近年は手術痕が目立たないこと、体への負担が少ないことなどを理由に、全身麻酔をかけて腹腔鏡手術を行う事例が多いのですが、隔絶された環境下で手術を行えるのが自分自身だけだったことから、自ら開腹手術を行ったという医師が存在しています。自分自身を手術したのは開業医のレオニード・ロゴゾフ氏。ロゴゾフ氏はソビエト連邦が1960年から1962年にかけて行った第6次南極遠征のメンバーで、唯一の医師でした。
1961年4月29日の朝、ロゴゾフ氏は微熱と共に全身の脱力と吐き気、そして右下腹部に痛みを感じました。ロゴゾフ氏の症状は彼が急性虫垂炎を患ったことを示していました。痛みを感じました。ロゴゾフ氏の症状は急性虫垂炎を示唆するもので、本来は医師に診てもらうべきところでしたが、ロゴゾフ氏が滞在していた ノボラザレフスカヤ基地には飛行機はなく、仮にあったとしても吹雪のために他の基地へ移動することは不可能だったとみられます。そして、基地にいる医師はロゴゾフ氏自身のみでした。
ロゴゾフ氏はこのときのことを「私は急性虫垂炎を患ったようだ。だけど私は病気について誰にも言わず笑っていることにする。仲間たちを怖がらせる意味はないし、彼らが私を助けられるわけでもない。私が得られる医療は歯科医の椅子ぐらいにしかないだろう」と記しています。
ロゴゾフ氏は患部を冷やしたり 抗生物質を摂取したりしましたが効果は薄く、熱は高くなり、吐き気も頻繁に襲うようになりました。その晩の様子をロゴゾフ氏は日記にこう記しています。「昨夜は一睡もできなかった。悪魔のような痛みだ!吹雪が私の魂にムチを打ち、私はジャッカルのように嘆いた。症状は悪化し、一つの最悪な考えが私を支配した。つまり、私は自分自身を手術しなければならないということだ。これはまったく不可能に思える。しかし諦めるわけにはいかない」
ロゴゾフ氏には自分自身を手術する以外に選択肢はありませんでした。手術は5月1日午前2時から行われました。執刀そのものはあお向けに寝そべったロゴゾフ氏自身が行い、アシスタントとして、機械エンジニアのジノヴィー・テプリンスキー氏が鏡を持って手術部位に光を当て、気象学者のアレクサンドル・アルテミエフ氏が手術道具を手渡す係をしました。また、基地のウラジスラフ・ゲルボヴィッチ隊長が不測の事態に備えて待機しました。
https://twitter.com/CrazyinRussia/status/1321186068201410561?s=20
手術開始から30分ほど経過したとき、ロゴゾフ氏は目まいと脱力を感じたため少し休憩しました。1時間45分の手術の末、彼は虫垂炎の除去に成功し腹腔に抗生物質を投与して傷口を縫いました。
ロゴゾフ氏は手術の様子をこう語っています。「私は素手で手術しました。鏡はありましたが左右逆に映るし、鏡自体が邪魔で患部がとても見にくかったので、ほぼ手探りで手術しました。ひどく出血しましたが落ちつくように自分に言い聞かせました。虫垂炎とは違う場所を傷付けてしまって縫うことにもなりました。手術しながらどんどん弱っていきましたが、頭はグルグル回っていました。虫垂炎にたどり着いたとき黒いシミが見えました。後1日でも遅かったら破裂していたことでしょう。後は虫垂炎を切除するだけなのに、心臓は止まりそうで手はゴムのようでうまく動かせませんでした。気が付いたら私は手術を成功させていました。」
手術を成功させたおかげで、ロゴゾフ氏の体調はみるみるうちに回復。術後5日で平熱に戻ったロゴゾフ氏は、その2日後に抜糸。手術から2週間後には通常業務に戻りました。
医師が南極の基地で自分自身を手術したというニュースは国の指導層にも高く評価され、1961年6月23日にロゴゾフ氏は 労働赤旗勲章を授与されました。後年、ロゴゾフ氏は多くの賞や勲章を打診されましたが全て断り、「みんなと同じように働いて、みんなと同じように生きてゆく」と発言しました。
1962年10月に南極遠征からレニングラード(現・サンクトペテルブルグ)に戻ったロゴゾフ氏は、大学院に3年通い、食道がんに関する論文を執筆。その後、1966年から2000年まで外科医として活躍し、2000年9月21日、肺がんの手術を受けた後、合併症で亡くなりました。
https://gigazine.net/news/20201031-operate-appendix-himself/
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account)
1961年4月29日の朝、ロゴゾフ氏は微熱と共に全身の脱力と吐き気、そして右下腹部に痛みを感じました。ロゴゾフ氏の症状は彼が急性虫垂炎を患ったことを示していました。痛みを感じました。ロゴゾフ氏の症状は急性虫垂炎を示唆するもので、本来は医師に診てもらうべきところでしたが、ロゴゾフ氏が滞在していた ノボラザレフスカヤ基地には飛行機はなく、仮にあったとしても吹雪のために他の基地へ移動することは不可能だったとみられます。そして、基地にいる医師はロゴゾフ氏自身のみでした。
ロゴゾフ氏はこのときのことを「私は急性虫垂炎を患ったようだ。だけど私は病気について誰にも言わず笑っていることにする。仲間たちを怖がらせる意味はないし、彼らが私を助けられるわけでもない。私が得られる医療は歯科医の椅子ぐらいにしかないだろう」と記しています。
ロゴゾフ氏は患部を冷やしたり 抗生物質を摂取したりしましたが効果は薄く、熱は高くなり、吐き気も頻繁に襲うようになりました。その晩の様子をロゴゾフ氏は日記にこう記しています。「昨夜は一睡もできなかった。悪魔のような痛みだ!吹雪が私の魂にムチを打ち、私はジャッカルのように嘆いた。症状は悪化し、一つの最悪な考えが私を支配した。つまり、私は自分自身を手術しなければならないということだ。これはまったく不可能に思える。しかし諦めるわけにはいかない」
ロゴゾフ氏には自分自身を手術する以外に選択肢はありませんでした。手術は5月1日午前2時から行われました。執刀そのものはあお向けに寝そべったロゴゾフ氏自身が行い、アシスタントとして、機械エンジニアのジノヴィー・テプリンスキー氏が鏡を持って手術部位に光を当て、気象学者のアレクサンドル・アルテミエフ氏が手術道具を手渡す係をしました。また、基地のウラジスラフ・ゲルボヴィッチ隊長が不測の事態に備えて待機しました。
https://twitter.com/CrazyinRussia/status/1321186068201410561?s=20
手術開始から30分ほど経過したとき、ロゴゾフ氏は目まいと脱力を感じたため少し休憩しました。1時間45分の手術の末、彼は虫垂炎の除去に成功し腹腔に抗生物質を投与して傷口を縫いました。
ロゴゾフ氏は手術の様子をこう語っています。「私は素手で手術しました。鏡はありましたが左右逆に映るし、鏡自体が邪魔で患部がとても見にくかったので、ほぼ手探りで手術しました。ひどく出血しましたが落ちつくように自分に言い聞かせました。虫垂炎とは違う場所を傷付けてしまって縫うことにもなりました。手術しながらどんどん弱っていきましたが、頭はグルグル回っていました。虫垂炎にたどり着いたとき黒いシミが見えました。後1日でも遅かったら破裂していたことでしょう。後は虫垂炎を切除するだけなのに、心臓は止まりそうで手はゴムのようでうまく動かせませんでした。気が付いたら私は手術を成功させていました。」
手術を成功させたおかげで、ロゴゾフ氏の体調はみるみるうちに回復。術後5日で平熱に戻ったロゴゾフ氏は、その2日後に抜糸。手術から2週間後には通常業務に戻りました。
医師が南極の基地で自分自身を手術したというニュースは国の指導層にも高く評価され、1961年6月23日にロゴゾフ氏は 労働赤旗勲章を授与されました。後年、ロゴゾフ氏は多くの賞や勲章を打診されましたが全て断り、「みんなと同じように働いて、みんなと同じように生きてゆく」と発言しました。
1962年10月に南極遠征からレニングラード(現・サンクトペテルブルグ)に戻ったロゴゾフ氏は、大学院に3年通い、食道がんに関する論文を執筆。その後、1966年から2000年まで外科医として活躍し、2000年9月21日、肺がんの手術を受けた後、合併症で亡くなりました。
https://gigazine.net/news/20201031-operate-appendix-himself/
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account)