
戦争がもたらした性的な後遺症の一つに同性愛がある。
妻帯者は終戦と同時に、性的にも正常に戻ったが、若者のなかには復員してからもその習性から抜け切れず、男娼に堕ちる者が続出した。
金沢大学の高志隆が「異常性欲の精神病理」と題して報告した例も、その一つである(『大塚薬報』第二十七号)。
Oは戦時中、中国に住んでいた。14歳(昭和19年)の時学徒動員で航空隊の整備員として駆り出され、その班長だったY兵曹の思い者となった。
「Yさんは毎晩のように私の寝床に忍び込んできて、私はマスタベーションの相手をさせられました。
Yさんの愛撫は猛烈なもので、抱擁された時など息が止まりそうで、接吻の時などヒゲが痛くてなさけない気持ちでしたが、一ヵ月も経たぬうちに愛撫を期待するようになり、夜になるのが待ち遠しくて、昼間、便所でこっそりやることもありました。
・・・・・・いつしか他の兵隊も私に求愛し、毎晩違った兵隊がきてかわいがってくれました。終戦になるまでの一年間、ほとんど毎晩、多い時には日に二回やりました」
Oの告白によると、兵隊たちの同性愛は機械的な相互手淫がほとんど、したがって彼に人格変換(女性化)が起きることはなかった。それが生じたのは、復員後のことである。
復員後、ある印刷所に就職したOは、六歳年上のKがすばらしいペニスの持ち主であることを知った。
泊まりの夜、彼に思慕の情を打ち明けたところ応じてくれた。その告白以来、気持ちがすっかり女性化したという。
だがKはまもなく結婚し、Oを相手にしなくなった。失意のある日、彼は公園で一人の同性愛者に出会った。その出会いが、のちに彼に男娼を志願させることになった。
「公園の便所に入ったところ、五十年配の男の人から、“にいさん、にいさん、ここに面白いことが書いてある。来てごらん”と声をかけられました。私は同性愛者だと直感しました。
私の直感は誤らず、入るや否な私を抱きすくめて“私はあなたが好きだ。今までに二回会った。あなたの顔が忘れられない”といって接吻してきました。
それから私を裸にして、私のペニスを自分の頬にあてがい、感嘆の叫びを上げて大きさをほめました。
私は名状し難い快美感と幸福感に漂うていました。それから手なれた手つきで股間性交のテクニックを教えてくれました」
この男の仲介で、Oは120〜30人の男と関係した。そして、もはや男には戻れないと自覚し、昭和24年の秋には男娼を志すまでになったのであった。
なおOは、印刷所をやめてから進駐軍のボーイになった。
その直後、ある下士官から求愛され、鶏姦した。この下士官は“おかま”という日本語を、ちゃんと知っていたそうである。
『昭和性相史』下川耿史
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