◎正当な理由による書き込みの削除について: 生島英之とみられる方へ:
【非思量】石の上で瞑想すると何が見えてくるのか3【瞑想】 [無断転載禁止]©2ch.net YouTube動画>22本 ->画像>7枚
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【注意事項】
1.瞑想・座禅経験者以外の書込み禁止
2.凡夫の書込み禁止^^
3.自分の瞑想体験から意見を述べること
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前スレ
非思量】石の上で瞑想すると何が見えてくるのか2【瞑想】
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1471071690/ 「自我への執着」が、心の悩み、人生問題をとめどなく再生産している根本原因
「思いは本当の自分ではない」と知る“無我”の体験、これが仏教の伝え
心の悩みをつくっているのは、対象に対する“執着”で、その執着を捨てれば、
心静かに生活できる
物への執着は比較的、落ちやすいものです。
しかし、経験的にも、心の現象に対する執着(我執)は、
なかなか絶ちがたいものです。
真宗では、この我執を「自力の心」と呼んで、
この我執との闘いに勝利することを仏道の中心に据えています。
仏教は、この我執を断つことで、悩みのない平和な生活、
すなわち涅槃(執着のない心境世界)に入ると教えています。
1.思いの通りにならないことを「苦」といいます。
2.その苦の原因は、思いに対する「執着」です。
3.思いに執着するのは、「思いは自分」という誤解があるからです。
4.その誤解が解けることを「さとり」といいます。
5.さとれば、思いに対する執着がなくなります。
6.執着がなくなれば、苦がなくなります。
7.苦がなくなると、心配・不安・恐怖がなくなります。
8.心配・不安・恐怖のない生活を「極楽」といいます。
我執があるなんて普通は気がつかない^^
というか・・
ほとんどの人が気がついていない^^
もっと言えば・・
我執から苦が生じるなんて知る由もない^^
無明
仏教では十二因縁の根源に無明をおく。すべての苦は、無明(迷い)を
原因とする煩悩から発生し、智慧によって無明を破ることにより消滅すると説く。
我というものが存在するという見解(我見)が無明である。
無常であるものを常住と見るが、それが失われると苦しみを生じる。
すべての苦しみはこの無明を原因として発生すると説く。
この苦しみを消滅する方法は、初期経典には定型文句として四諦、八正道である
と説かれている。この四諦、八正道を知らないことも無明である。
『スッタニパータ』などの最初期の韻文経典では、無我はさかんに説かれる。
それらによれば、「無我」は我執の否定を意味し、そのように、あらゆるものが
我ではない(諸法無我)と観察し、これを智慧によって理解すると、
清浄(しょうじょう)で平安な涅槃の理想に到達できるとする。
諸法無我
我々人間は、しらずしらずの間に私自身の現存在を通じて、
そこに幼い時から成長して現在にいたるまで肉体や精神の
成長変化を認めながら、そこに「私」と呼ぶ実体的「我」を想定し、
成長変化してきた私そのものをつかまえて、私は私であると考える。
しかし、諸法無我はそれこそ我執であるとして退け、変化をその変化のままに、
変化そのものこそ私なのだと説くのである。
この意味で、諸法無我は、自己としてそこにあるのではなく、
つねに一切の力の中に「関係そのもの」として生かされてあるという、
縁起の事実を生きぬくことを教えるものである。
一切のものには我としてとらえられるものはないという考え方を
徹底して自己について深め、目に見えるもの見えないものを含めて
一切の縁起によって生かされてある現実を生きることを教えている。
このような共々に生かされて生きているという自覚の中にこそ、
他者に対する慈悲の働きがありうるとする。
無常・苦・無我は仏教の教えの中でも重要です。
四諦聖の実践で得られる「悟り」とは、「無常・苦・無我」を悟ることです。
いわば、無常・苦・無我は悟りの内容そのものになってきます。
少し正確にいえば、無常・苦・無我を悟ったから「悟り」ともいえます。
うわっ^^
「(自分などの)人に我がない」ことを「人無我(にんむが)」、
「物事に我がない」ことを「法無我(ほうむが)」といって、区別しています。
そしてそれらをすべてひっくるめて、「すべての存在が無我である」ことを
「諸法無我(しょほうむが)」といいます。
「(自分などの)人に我がない」と言葉で言われても・・
理解できるものではなく・・・
言葉による悟りなんて・・
できるはずもない^^
では・・どうすればいいのか・・^^
それは簡単である^^
体験するだけでいいのである^^
瞑想により体験すればいいだけ^^
ただそれだけ^^
神がウンコを創ったといって批判するのは人間(自分)からの視点、
自我でしかないのです。
でもね・・・^^
普通の人では・・無利といわざるを得ない^^
しかし・・短時間でその境地にいくことができる^^
物理的にね^^
Aから見ての悪魔はBから見た天使である事もある。
この相対性をまずは理解することです。
二元論、二項対立の相対的世界で、普通にものを認識し理解する能力を知恵とよび、
常に有無、善悪、是非など対立概念で分類し分析し区別して判断(分別)するので
差別知といわれ、判断の基準の中心には“我”が存在している。
まさしくこれ^^
知恵(ちえ)=分別知(ふんべつち)=凡夫(おまえら)の知恵=差別知
智慧(ちえ)=無分別智(むふんべつち)=仏(菩薩)の智慧=無差別智
これなんだよな^^
無分別智
相対的な主観・客観の分別を離れた真実の智慧。
識別・弁別する分別智に対して、それを超えた絶対的な智慧をいう。
そして・・
大乗仏教においては、般若経・龍樹・中観派等によって、
認識対象・認識内容の「空性」「無自性」が強調され、世俗諦(分別智)ではなく、
真諦(無分別智)としての正覚を目指す本来の仏教、釈迦への回帰が主張される一方、
各種の大乗仏教経典によって具現化・広大化された諸仏や、複雑化・詳細化された
縁起観・自然観などを通じた観想によって、正覚に至ろうとする各種の行法も発達した。
互いに対・差異となる事象・概念に依存し、相互に限定し合う格好で
相対的・差異的に成り立っており、どちらか一方が欠けると、もう一方も成り立たなくなる。
このように、あらゆる事象・概念は、それ自体として自立的・実体的・固定的に存在・成立している
わけではなく、全ては「無自性」(無我・空)であり、「仮名(けみょう)」「仮説・仮設(けせつ)」
に過ぎない。こうした事象的・概念的な「相互依存性(相依性)・相互限定性・相対性」に焦点を当てた発想が、
ナーガールジュナに始まる中観派が専ら主張するところの「縁起」である。
龍樹は、存在という現象も含めて、あらゆる現象はそれぞれの因果関係の上に成り立っていることを論証している。
この因果関係を釈迦は「縁起」として説明している。(龍樹は、釈迦が縁起を説いたことを『中論』の最初の帰敬偈において、賛嘆している)
さらに、因果関係によって現象が現れているのであるから、それ自身で存在するという「独立した不変の実体」(=自性)はないことを明かしている。
これによって、すべての存在は無自性であり、「空」であると論証しているのである。
龍樹の「空」はこのことから「無自性空」とも呼ばれる。
しかし、空である現象を人間がどう認識し理解して考えるかについては、
直接的に知覚するということだけではなく、概念や言語を使用することが考えられる。
龍樹は、人間が空である外界を認識する際に使う「言葉」に関しても、仮に施設したものであるとする。
龍樹は、人間が空である外界を認識する際に使う「言葉」に関しても、
仮に施設したものであるとする。
あー龍樹ちゃんはこんなこと言ってたのか・・^^
「言葉は仮に施設したものである(キリッ」
三性
@物事を宗教的倫理の立場から区別する三つの性質。
善と悪と無記(善でも悪でもないもの)。
A唯識学派・華厳宗などで説く,この世の存在の三つの在り方。
実体がないものを実在であると思い込む遍計所執性へんげしよしゆうしよう
事物が縁によって生まれたものであると知る依他起性えたきしよう
完成された真の存在としての円成実性えんじようじつしよう
この三性をも空とする三無性と併せて説かれる。
三性
このような識の転変によって、存在の様態をどのように見ているかに、3つあるとする。
@遍計所執性(へんげしょしゅうしょう)構想された存在 凡夫(おまいらの日常の認識。
A依他起性(えたきしょう) 相対的存在、他に依存する存在
B円成実性(えんじょうじっしょう)絶対的存在、完成された存在
このような見方は唯識を待つまでもなく大乗仏教の基本であり、その原型が既に般若経に説かれている。
遍計所執性とは、阿頼耶識・末那識・六識によってつくり出された対象に相当して、
存在せず、空である
空性の「無分別の智・不二の智」により、分別・戯論・煩悩が止滅される働き
そういえば・・
昔みたいに苦がなくなってるな^^
なぜだろう^^
「空ぅうううううううううううう」
なんちゃって^^
おまいらって・・
ほんとうに・・
くだらん^^
またまた寝る^^
けど・・
スレの内容って覚えているもんだな^^
このままスレを消化していくと・・
本当に悟る日がくるかもしれん^^
どうしよう^^
てへ^^
縁起・・無自性・・空観・・
から無我へと・・
瞑想の結果こうなる^^
空観により・・無分別の智が生じ・・分別・戯論・煩悩が止滅される・・
すべての苦は、無明(迷い)を原因とする煩悩から発生し、
智慧によって無明を破ることにより消滅すると説く。
「無我」は我執の否定を意味し、そのように、あらゆるものが
我ではない(諸法無我)と観察し、これを智慧によって理解すると、
清浄(しょうじょう)で平安な涅槃の理想に到達できるとする。
無分別智によってになるんだよな^^
相対的な主観・客観の分別を離れた真実の智慧。
識別・弁別する分別智に対して、それを超えた絶対的な智慧をいう。
二元論、二項対立の相対的世界で、普通にものを認識し理解する能力を知恵とよび、
常に有無、善悪、是非など対立概念で分類し分析し区別して判断(分別)するので
差別知といわれ、判断の基準の中心には“我”が存在している。
判断(分別)するので差別知といわれ、判断の基準の中心には“我”が存在している。
世俗諦(分別智)ではなく、真諦(無分別智)としての正覚を目指す本来の仏教
真諦(無分別智)としての正覚
無分別智としての正覚^^
空性とは、一切の存在・事象を実体として見るとらわれを離れ、
主客二分による分別は虚妄であることを知り、無分別を理解して、
また、縁起関係にあるあらゆる相対・対立をも超えた「不二絶対」を
明らかに知見していくことが重要であり、空性はいわゆる
「無分別の智・不二の智」のことであります。
是の諸の識転変して 分別たり所分別たり
此に由りて彼は皆無し 故に一切唯識のみなり
依他起の自性の 分別は縁に生ぜらる
円成実は彼が於(うえ)に 常に前のを遠離せる性なり
故に此は依他と 異にも非ず不異にも非ず
無常等の性の如し 此を見ずして彼をみるものには非ず
無得なり不思議なり 是れ出世間の智なり
二の麤重(そじゅう)を捨するが故に 便ち転依を証得す
此は即ち無漏界なり 不思議なり善なり常なり
安楽なり解脱身なり 大牟尼なるを法と名づく
この識の転変は分別である。それによって分別されたものは存在しない。それ故、
この一切は唯だ識のみのものである。
依他起性は分別であり、(それは)縁によって生じるのである。円成実性は、それ(依他起性)
が、常に前(遍計所執性)を離れていることそのことである。
この故にこそ、それ(円成実性)は依他起性と別ではないし、別でないのでもない。(この関
係は)無常性(と無常なる事物)等のようにいわれるべきである。これ(円成実性)が見られ
ないとき、それ(依他起性)は見られない。
これは無心であり、無所得[ 対象を見ない・主観と対象との分別が無い ] である。それはま
た、出世間智である。転依である。二種[ 所知障と煩悩障との二種の仏道の障害 ] の祖重
[ 煩悩の種子 ] を断じたが故に
これこそが無漏界であり、不可思議であり、善であり、永遠である。これは楽であり、解脱身
である。これが大牟尼の法と謂われるものである。
対象や自我への執着が落ち、言語的な枠組も非実体化されるとき、
遍計所執の世界が円成実性の世界に転じる
円成実性《えんじょうじっしょう》
依他起性をそのまま依他起性として正覚して(空性(縁起空)・無自性の正覚)、
遍計所執性(虚妄分別)を離れること。
言葉でいうのは簡単・・
それを瞑想で体験しないと・・
真に理解したことにはならない(キリッ
今週の瞑想は・・
空観瞑想に入るとするかなっと^^
このままおいら・・・
どこに行ってしまうのだろうか・・^^まる
え〜〜と^^
つまり・・・
相性とうやつですね^^
けど・・・
実を言うとですね^^
もうすでに「空」の体験してるんですよ^^
秘密ですけどね^^
当然・・石の上の瞑想で^^
うわぁあああああああああああああああああああああああああ
ということで・・
寝る^^
俺は寝むった...。寝むり続けた...。
そして宇宙すらをも超えて無限の世界を駆け巡り、
因縁果 ◆d........oから、因縁果 Outside of one(アウトサイド オブ ワン)へと昇華したのだ!
「因縁果 Outside of one 孤高なるネラーの戦い」
前回のあらすじ。
ひょんなことから寝むりたくなって寝た因縁果。
に、ひょんなことからOutside of oneに昇華したとかほざいているどっかのなんか。
さて!こられから一体全体何がはじまるんだぁぁ!!!
ルール違反だったみたいなんで去ります。笑
さーせん。
煩悩即菩提かー^^
煩悩=我執 菩提=慈悲のこころ
すなわち・・
我執がなくなれば慈悲のこころが現れる・・
当然だよな^^
つまり・・
「無分別の智により、分別・煩悩が止滅される時・・
慈悲のこころが現れる」・・
それは・・
仏性と言われるものかもしれないな^^
86.
我執がなくなれば慈悲の心が現われる、か。
そんなことはない。
今日のありがたいお言葉^^
「人間が「煩悩」( 雨や露 ) を生じさせなければ
苦悩(発芽)は起こらない^^」
又云く、(浄土論に)「正道の大慈悲は出世の善根より生ず」とのたまえり。
この二句は「荘厳性功徳成就」と名づく。乃至。性はこれ本の義なり。
言うこころはこれ浄土は、法性に随順して、法本に乖かず、事、
『華厳経』の宝王如来の性起の義に同じ。
また言うこころは、積習して性を成ず。法蔵菩薩を指す。諸の波羅蜜を集めて、
積習して成ぜるところなり。また性と言うは、これ聖種性なり。
「正道の大慈悲は出世の善根より生ず」
ふむふむ^^
ゆえに・・
慈悲のこころが現れないならば・・
すなわち仏性が現れないならば・・
まだまだ「修行がたりん」と・・
こうなる^^
そこが悟ったかそうでないかの・・
判断基準になるかもしれん^^
法蔵菩薩の悟った平等性智(無分別智)、「(八地以上の位たる真如)平等の法身」の
悟りだということです
う〜〜ん
なんかしらんけど・・
法蔵菩薩が夢にでてきた^^
法蔵菩薩ちゃ〜〜〜〜〜ん^^
いっしょにあそぼ^^
これは無心であり、無所得[ 対象を見ない・主観と対象との分別が無い ] である。それはま
た、出世間智である。転依である。二種[ 所知障と煩悩障との二種の仏道の障害 ] の祖重
[ 煩悩の種子 ] を断じたが故に
凡夫(おまえら)のそれは,個人の経験などによって色づけられた
主観と対象としての事物との主客相対の上に成り立ち,
対象を区別し分析する認識判断であるから,事物の正しいありのままの姿の
認識ではなく,主観によって組み立てられた差別相対の虚構の認識にすぎない
つまり・・
おまえらの思考は・・
妄分別ないし虚妄分別となる^^
おまいらの妄分別に対し
おいらのは・・
主客の対立を超えた真理を見る智慧(無分別智)となる^^.
おまえら・・
主観によって組み立てられた差別相対の虚構の認識
おいら・・
事物の正しいありのままの姿の認識
へへー^^
今日のありがたいお言葉
「自分、自分の物」という考え方(区別)に固執することが「苦悩」につながる^^
苦しみというのは精神の痛みである・・
痛みは体のどこが悪いのか教えてくれる・・
苦しみは・精神が正常でない事を教えてくれる^^
ほんとうに・・ありがたい^^
ふと・・
道を歩きながら気がついたんだけど・・
「思考っていらないんじゃね^^」・と^^
「全智でみると思考はいらない」^^
とこうなる^^
思考は迷いであり・・
迷いの無い人は思考しない^^
我執がなくなったのか・・
またまた煩悩・執着がなくなったのか・・^^
それとも分別がなくなったのか・・
無分別で見ているからなのか・・^^
我々が日常的に行っている分別的思考を止めるのが坐禅であり、
それはそのまま、従来の「分別の外」である「不思量」「非思量」を開く。
そして、その不思量・非思量を拈来して行われる坐禅中は、
無常としての事実のままになる。いわば、その状態で観察したり
見破ったりすることが、眼睛や正法眼蔵を意味するのである。
これに近い・・^^
石の上の瞑想で「非思量」をしていたら・・
日常生活でも「非思量」になっていたでござる^^
つまり・・
「非思量」で観察したり見破ったりすることが、
眼睛や正法眼蔵を意味するのである。
「非思量」で観察したり・・
う〜〜ん
「無分別智」だなこれ^^
我執・煩悩がなくなれば・・
そうなるかもしれん^^
我々が日常的に行っている分別的思考を止めるのが坐禅であり・・
いいこというね^^
「非思量」を開く。
そして、その不思量・非思量を拈来して行われる坐禅中は、
無常としての事実のままになる。いわば、その状態で観察したり
見破ったりすることが、眼睛や正法眼蔵を意味するのである。
あれ^^
いつもやってる瞑想じゃん^^
よくみたら^^
どっしゃぁああああああああああああああああああああああああああああ^^
思考は我執・煩悩から生じる・・
思考を超越しなければあかん^^
どうすればよいのか・・^^
認識活動が現象をまったく感知しないようになれば、
「ただ識別のみ」という真理のなかに安定する。
なぜなら、もし認識対象が存在しなければ、それを認識することも、
またないからである。
それは心が無となり、感知が無となったのである。
それは、世間を超越した認識であり、煩悩障(自己に対する執着)・
所知障(外界のものに対する執着)の二種の障害を根絶することによって、
阿頼耶識が変化を起こす(転識得智=てんじきとくち)。
これがすなわち、汚れを離れた領域であり、思考を超越し、善であり、
永続的であり、歓喜に満ちている。それを得たものは解脱身であり、
仏陀の法と呼ばれるものである(大円鏡智=だいえんきょうち)。
転識得智これがすなわち、汚れを離れた領域であり、思考を超越し、善であり、
永続的であり、歓喜に満ちている。それを得たものは解脱身であり、
仏陀の法と呼ばれるものである(大円鏡智=だいえんきょうち)。
うわっ^^
転識得智だよな^^
五識(眼耳鼻舌身)→成所作智
意識 →妙観察智
末那識 →平等性智
阿頼耶識 →大円鏡智
大円鏡智は、鏡が一切の事象をありのままに分け隔てなく映し出すように、
一切をあるがままに受け入れ、分別をしない智恵である。(阿如来)
この「智恵」の表現がおかしいんだよな^^
「智恵」じゃないんだよな^^
大乗仏教では、「論書」(アビダルマ)に表現されているような分析的議論に
明け暮れる説一切有部を中心とする部派仏教を批判する形で、『般若経』や
龍樹・中観派によって、分別的な知恵を超えた無分別の智慧が
釈迦の悟りの境地として賞揚され、普及された。
このスレ読んでるおまいら(凡夫)のほうが悟りそうだ^^
よっしゃぁああああああああああああああああああああああああ^^
いっとくが・・
おいらは常に・・
「非思量」である^^
分別的な知恵を超えた無分別の智慧が
釈迦の悟りの境地
主観と対象との分別がない・・^^
どういうことか・・・^^
無分別とは非思量である^^
ということで・・
瞑想にいく^^
「道元様の表現で言えば、思量が分別的であるのに対し、
無分別の悟り状態、ほとけ状態を非思量といいます。」
やはり・・
道元ちゃんも同じこと言っていたか・・^^
思考するとそこには対象が現れるんだよな・・
そこから「虚妄分別」がはじまる・・^^
仏教にとって分別とは、認識主体と認識対象を分け、認識主体を
「我れ」として固執(我執)し、認識対象を「我がもの」として
固執(我所執)することである。
この分別によって、自己中心的な固執が生まれ、それによって苦悩が生まれる
そのとおり^^
仏教では「煩悩は分別によって生まれ、分別は戯論
(言葉によって固執の世界を虚構すること)によって生まれる」と説かれる
またまたそのとおり^^
ということで・・
またまた無分別・非思量瞑想にいくか^^
ん?
これ以上悟ってどうする・・^^
禅の修行で非思量の状態を保っていると、この意識の存在が問題であり、
この意識が邪魔なる存在であることがはっきりしてきます。
ん?
>>107 まさにこれ^^
つまり・・・
1年も石の上で非思量の瞑想してると・・・
日常生活でも非非思量でいられる^^
非思量状態が長く続くと・・
こうなる^^
107 :
因縁果 ◆d........o
2016/09/16(金) 18:28:58.55 ID:U9nRif63
ふと・・
道を歩きながら気がついたんだけど・・
「思考っていらないんじゃね^^」・と^^
・・・で
「思考せず・・なにで判断するんだ」となる^^
まあ、宗教2chも、まことのじいさんしかいないんだけどね(笑)
知障とは、一切の所知に対しての知の活動を阻害す
る不染汚無知である。それ(所知障)を断じるとき、所知の一切のあり方について執着も
なく妨げもない知が働き、そこで一切智者性が獲得される
所知障がある私達は現量で認識が出来ず、比量によって、
推量して考えるしかありません。
ところが、仏様になると一切の所知障が断滅されるので、
一切を現量で認識が出来るようになります。
おい因縁果
お前今日オウムスレに来てこんなカキコしたか?
16 名前:神も仏も名無しさん[sage] 投稿日:2016/09/18(日) 13:39:43.17 ID:xFCVMqpe [2/3]
連呼による気づきの教えをやってるオウム脳がいますな^^
息を吸おう→一人を連呼しよう
息を吐こう→誰も彼もを連呼しよう
まさに息を吐くようにウソを吐き、連呼して心を喜ばせ、麻原がごみ、
オウムの教義がごみ、麻原信者(オウム脳)がごみであると
気づかせてくれる、証明してくれる
17 名前:神も仏も名無しさん[sage] 投稿日:2016/09/18(日) 14:09:01.64 ID:LdKZbGyo [2/3]
>>16 連呼はお念仏^^
つまり・・
非思量状態が長く続くと・・
一切を現量で認識が出来るようになる^^
これが答えだな^^
>>169 IPが違ってるし・・
その時間は当然瞑想中^^
つまり・・
おいらではない^^
最近のオウムスレ読む気がしない^^
おうそうか、返事ありがとう
お前の文体を真似て成り済ましてるやつがいるってことだな
他の人のことをごみだとか・・
そういう発想は持ち合わせていない・・
ちなみに・・
人の悪口だとか・・ぐちとか・・
ここ何十年言ったことが無い・・
しかしだ^^
このスレ読んでるおまいら(凡夫)は別扱い^^
なぜ人の悪口を言わないか・・^^
すべて自分に返ってくることわかってんだよな^^
そこだけは・・すでに悟ってる^^
人の悪口言わないで・・
直接本人に意見してると言ったほうが正確かな^^
そうか、それはたいしたものだ
他人に成り済まして嘘ばかり吐いてる奴は心当たりあるんで
こんなことだろうとは思ってた
本人も自分では気づかないことがあるからね^^
そこは言ってあげたほうが本人のためになる^^
五蓋の浄化は解脱するために不可欠な要素として、初禅から第四禅に達し、「三明」を通じ
て解脱し阿羅漢となることと深く関わっている
「五蓋の除去」→「四禅」を修め「三明」等によって解脱^^
五蓋・・
貪欲(とんよく) - 渇望・欲望
瞋恚(しんに) - 悪意・憎しみ
惛沈睡眠(こんちんすいみん) - 倦怠・眠気
掉挙悪作(じょうこおさ) - 心の浮動・後悔
疑(ぎ) - 疑い
え〜と^^
最近水風呂が冷たくなってきまして・・
瞑想状態に入るには程よい季節となってきました^^
「初禅に入るには「五蓋の除去」が必要不可欠だ(キリッ^^」
とのことですが・・
わたくしめは・・「五蓋の除去」を水風呂で行って
いるので・・すんなりと初禅に入れるわけでして〜
なんの問題もないかと・・・思われます^^
水風呂に入ると〜〜^^
五蓋なんて〜〜〜^^
吹っ飛びますからぁああああああああああああああああああああああああああ^^
・・てなことで^^
いつもどうりのことしてきます^^
スマホは、字が小さくて、まことの文面は
目に入らんのう
つらいのうww
つらいのうww
比丘たちよ,私は初禅に依りて諸々の煩悩が滅尽されることを説く。
比丘たちよ,私は第二禅に依りて諸々の煩悩が滅尽されることを説く。
比丘たちよ,私は第三禅に依りて諸々の煩悩が滅尽されることを説く。
比丘たちよ,私は第四禅に依りて諸々の煩悩が滅尽されることを説く。
比斤たちよ,私は空無辺処に依りて諸々の煩悩が滅尽きれることを説く。
比丘たちよ,私は識無辺処に依りて諸々の煩悩が滅尽きれることを説く。
比丘たちよ,私は無所有処に依りて諸々の煩悩が滅尽されることを説く。
比丘たちよ,私は非想非非想処に依りて諸々の煩悩が滅尽されることを説く。
道元ちゃんも「弁道話」の中で「坐禅は仏法の正門である。」と言っている^^
坐禅中には雑念を追う事は禁止されている。考えることも禁止される。
このため分別意識や知性の中心である大脳前頭葉の活動は休止(沈静化)している。
坐禅中は大脳新皮質の活動は沈静化し、主として無意識脳である脳幹と大脳辺縁系が
活動していること
坐禅中は主として無意識脳である脳幹と大脳辺縁系が活動しているが大脳前頭葉の活動(分別意識)は
沈静化している
我々の日常生活では主として大脳新皮質の分別智(分別意識)を使っている。
これに対し禅の悟りに於いては脳幹などの下層脳を活性化した無分別智を
使っている点である。 坐禅修行によって下層脳から上層脳(大脳新皮質)までの
全脳が活性化され健康になっている時経験できる
ふむふむ^^
鈴木大拙博士は言う、
「悟りの端的は無分別の分別である。普通の論理では分別だけで無分別を見ない。悟りでは無分別を見る。
そしてその無分別のうちに分別を入れる。分別が無分別と別ではなく一つになる。
ここに悟りの論理が建立される。」
ふむふむ^^
無分別の分別かー^^
悟りと無分別智は関係してると思ったんだが・・
博士はその上をいってたか・・・^^
うわぁああああああああああああああああああああああああああ^^
・・ということで・・
「無分別の分別である」を考えながら寝る^^
ぎやぁああああああああああああああああああああああああああ^^
うわぁあああああああああああああああああああああああ^^
非思量である^^
ぐーぐー^^
ニルヴィカルパ・サマディー^^
(無分別三昧)かー^^
結局行き着くところは・・
ニルヴィカルパ・サマディー(無分別三昧)になるが・・
やり方しらん^^
ニルヴィカルパ・サマディー(無分別三昧)が・・
あるというだけ・・
勉強になったかな^^
○三輪身(天上界)
サヴィカルパ・サマディー〔分別〕
ニルヴィカルパ・サマディー〔無分別、プラジュニャー〕
サハジャ・ニルヴィカルパ・サマディー〔如来如去〕
アサンプラギャティ・サマディー〔無念無想、無種子〕
思考を投げ捨てろかー^^
言われなくても・・
ちょうど最近思ってたところ^^
107 :
因縁果 ◆d........o
2016/09/16(金) 18:28:58.55 ID:U9nRif63
ふと・・
道を歩きながら気がついたんだけど・・
「思考っていらないんじゃね^^」・と^^
思考を投げ捨て・・
一切を現量で観る・・^^
すなわち・・
無分別の智で観ろと・・^^
それがすなわち・・
非思量でいることなんだな^^
思考を捨てることが・・
悟りに繋がるなんて・・
だれも思わないだろう・・^^
しかし・・
思考があるがために・・
人は悟れない・・
思考があるがために・・
人は悟れない・・
これが真実であろうな^^
思慮、考察を静止し、落ち着いて、心を一点に集中し、思慮、考察が皆無で、
精神統一より生じる喜びと安らぎのある「第二瞑想」に入ってすごす。
思慮と考察を辞めることによって、心の内部で平静になり、心の一点の集中があり、
思慮と考察を離れた心の安定三昧から生まれる喜びと安楽を得て「第二禅」にはいる
第二禅に近いのかな・・^^
ありとあらゆる感受作用は・・・ありとあらゆる表象作用は・・・
ありとあらゆる形成作用は・・・ありとあらゆる識別作用、
すなわち過去・現在・未来の、内であろうと外であろうと、
粗大であろうと微細であろうと、下劣であろうと美妙であろうと、
遠くのあろうと近くにあろうと、すべての識別作用は――
『これはわがものではない。これはわれではない。
これはわが我(アートマン)ではない』と、
このように如実に正しい叡智によって観察すべきである
教えを聞いたすぐれた弟子は、物質的なかたちを厭うて離れ、
感受作用を厭うて離れ、表象作用、もろもろの形成作用、
識別作用を厭うて離れる。厭うて離れるから、貪りから離れる。
貪りから離れるから、解脱する
つまり・・
湧き上がる思考作用はわれではないと・・^^
いとう 【厭う】
@いやに思う。いやに思って避ける。
むさ‐ぼ・る【貪る】
1 飽きることなくほしがる。また、際限なくある行為を続ける。
うわっ^^
おまえら・・でてきた^^
思考・分別から離れると・・
無分別の智慧か出てくる・・
それは思考ではなく・・
陳那の定義でいえば、現量は概念作用を伴わず、対象そのものの個別相(自相)を
認識するものである。そのような、直接知覚によって得られた知識が正しいか
どうかを判断する規範が現量であり、仏のさとりはそこにあるから、
もっとも重要であるとする。
とりあえず・・
思考作用の執着・貪りを厭わなければあかん^^
すでにおいらはそうなってるが・・^^
・・・ということで・・^^
いつもどうりのことをしてくる^^
初転法輪は、1.中道 2.八聖道(八正道)3.四聖諦 4.五蘊無我、からなっている。
1.中道 2.八聖道(八正道)3.四聖諦を極めてからの・・
4.五蘊無我なんだよな^^
1.中道 2.八聖道(八正道)3.四聖諦を極めないと・・
4.五蘊無我の境地には到れない^^
五蘊(ごうん)とは色(かたちあるもの、身体)、受(知覚作用)、
想(表象作用)、行(形成作用)、識(識別作用)の五つ
知覚作用(受)、表象作用(想)、形成作用(行)、識別作用(識)は我でない^^
知覚作用(受)、表象作用(想)、形成作用(行)、識別作用(識)・・
これらは自分の思い通りにはならず、すべて無常で、苦である
「修行僧らよ、このように観察し、教えを学ぶ聖なる弟子は、
いろ・かたちあるものを厭い離れ、知覚作用(受)を厭い離れ、
表象作用(想)を厭い離れ、形成作用(行)を厭い離れ、
識別作用(識)を厭い離れる。厭い離れたとき、貪りを離れる。
貪りを離れるから、解脱する。解脱したとき「わたくしは解脱した」と知る。
ブッダは人間存在を(色)、(受)、(想)、(行)、(識)の5要素(五蘊)に分析する。
これらの5要素はたえず変化しており、自分の思う通りにはならない・・
我はそこには存在しない。我的実体や霊魂のようなものは無いにもかかわらず
、人はそれがあると考え、それに執着する。そのため私たちには苦が生じる。
それをありのままに正しい智恵によって捉え、我という考えに執着しなければ
解脱できる
う〜〜ん^^
言ってることは簡単明瞭なんだよな^^
それを体験理解することがかなり難しい^^
@知覚作用(受)
A表象作用(想)
B形成作用(行)
C識別作用(識)
これらを厭い(いやに思う)離れたとき、貪り(飽きることなくほしがること)
を離れる。
貪りを離れるから、解脱する。
これらをありのままに正しい智恵によって捉え、我という考えに執着しなければ
解脱できる
この考え方から・・
1・空無辺処
2・識無辺処
3・無所有処
4・非想非非想処
5・滅尽定
がでてきたんだろうな^^
1・空無辺処
2・識無辺処
3・無所有処
4・非想非非想処
5・滅尽定
これらの境地になれるのは・・
やはり・・瞑想・座禅しかないか・・・^^
こう考えていくと・・
唯識の識が智慧にかわるというのも・・
自然の流れかな・・という気がする^^
@知覚作用(受)
A表象作用(想)
B形成作用(行)
C識別作用(識)
これらををありのままに正しい智恵によって捉え・・
つまり・・
唯識の識が智慧にかわる・・ということだな^^
第八阿頼耶識・・貯蔵意識─大円鏡智(だいえんきょうち)
↓ ↑
第七末那識・・・自我意識─平等性智(びょうどうしょうち)
↓
・・・・・・・・・・顕在意識・・・・・・・・・・
↓
第六意識・・思考意識 ─妙観察智(みょうかんざつち)
↓
五識・・感覚─(目・耳・鼻・舌・身─成所作智(じょうしょさち)
↓
これか・・
ついでにこれ^^
非想非非想処
「識別するのでもなく、識別しないのでもない、という境」
というほどの意味である。無所有処では、「識別作用は消えた」
というかたちでまだかすかに残存していた識別作用そのものが、
ここでは完全に消え去る、つまり、識別する、しないがまったく
意味をなさないほどにまで心のはたらきが完全に停止する、
ということなのであろう。
これも感情や思考の停止を目指す瞑想で得られる境地である。
識別作用が消えると智慧が現れるんじゃないのかな^^
心のはたらきが完全に停止する・・
これもしっくりこない^^
非思量でいると・・
ときどき思いが浮かんでくるけど・・
ブッダちゃんは・・
「それをありのままに正しい智恵によって捉え、我という考えに執着しなければ
解脱できる 」
と言ってるようだが^^
「ときどき思いが浮かんでくるけど・・」
これが曲者なんだよね^^
その道を極めると・・
その思いも浮かんでこなくなるだろうね^^
まさに・・
非想非非想処 ^^
この「ときどき思いが浮かんでくるけど・・」
これを滅しようとしてるんだが・・^^
あと半年はかかりそうだ^^
非思量状態でときどき浮かんでくる思いを・・
ブッダちゃんは「それをありのままに正しい智恵によって捉えろ」
と言ってるが・・
おいらは滅したいんだよね^^
ブッダちゃん・・なんとかならないかな^^
なんちゃって^^
非思量状態でときどき浮かんでくる思い・・
これ我執・煩悩くさいんだよね^^
くっさぁあ嗚呼ああ嗚呼あああああああああああああああああああああああああ^^
思量を超えた実相を思量するところの「非思量」こそが、「正思惟」である
195 :
因縁果 ◆d........o
2016/09/20(火) 19:26:59.46 ID:UaX695hV
鈴木大拙博士は言う、
「悟りの端的は無分別の分別である。普通の論理では分別だけで無分別を見ない。悟りでは無分別を見る。
そしてその無分別のうちに分別を入れる。分別が無分別と別ではなく一つになる。
ここに悟りの論理が建立される。」
うむ〜〜^^
(薬山大師が座禅していると)
弟子「兀兀地思量什麼」(座禅していて何を考えているのですか)
薬山「思量不思量底」(無分別の処を分別している)
弟子「不思量底如何思量」(無分別の処をいかに分別するのですか)
薬山「非思量」(無分別の分別)
うむ〜〜^^
思い浮かぶ思考は我ではなく煩悩・執着つまり・・我執^^
つまり・・
知覚作用(受)、表象作用(想)、形成作用(行)、識別作用(識)・・
これらは自分の思い通りにはならず、すべて無常で、苦である
思い浮かぶ思考は捨て去る・・
常に非思量でいる・・^^
思い浮かぶ思考は滅する・・
これが正解^^
智慧で観察するのではなく・・滅する^^
不立文字
論理的な思考を手放した体験にこそ本質があり、
文字にすることはできないから(不立文字)
ということで・・^^
いつもどうりのことしてくる^^
・・おまえらが「非思量だぁぁあああああああああ」
なんて言っても・・
ただ「ボケー」としてるだけだもんな^^
う〜〜〜ん^^
非思量を考える時・・
無分別の分別・八正道・不立文字とか・・
だいたい考えることは同じ・・
これらの言葉がでてくる^^
意識は「無自性空」であるからして執着すんな^^
・・となる^^
ブッダの道によってすべては無常である、と言う人々が、
論難をもって存在(もの)に愛着していることは奇異である。
おまいら・・のことだな^^
業と煩悩とが滅すれば、解脱がある。業と煩悩とは、分析的思考(分別)から起こる。
それら分析的思考は、戯論(想定された論議)から起こる。
しかし、戯論は空性(空であること)において滅せられる。
ふむふむ^^
あらゆる存在(一切法)は、縁起によって成立しており不変の独自性はもたない
(無自性空)
分別をはたらかせることによって、行為と煩悩が生まれる。それらは世界を<空なるもの>と見ることによって、
滅することができる。<分別>を否定し、ことばによる思考・判断に惑わされることなく、
一切を<空>とみるものの見方、これこそが智慧の完成である
ふむふむ^^
分別をはたらかせることによって、行為と煩悩が生まれるか^^
やっぱり・・
ここにいきつくな^^
「思量を超えた実相を思量するところの「非思量」こそが、「正思惟」である」
からの・・
「悟りの端的は無分別の分別である。」
うわぁああああああああああああ^^
また出てきやがった^^
こうなると・・
悟りとは無分別智(知られるものと知るものとの対立を超越した絶対知)で
で観ることであり・・常に非思量でいることである^^
今の段階ではここまでだな^^
苦しみ悩みのすべては「受・想・行・識」の中で生まれる
@知覚作用(受)
A表象作用(想)
B形成作用(行)
C識別作用(識)
ブッダは人間存在を(色)、(受)、(想)、(行)、(識)の5要素(五蘊)に分析する。
これらの5要素はたえず変化しており、自分の思う通りにはならない・・
我はそこには存在しない。我的実体や霊魂のようなものは無いにもかかわらず
、人はそれがあると考え、それに執着する。そのため私たちには苦が生じる。
それをありのままに正しい智恵によって捉え、我という考えに執着しなければ
解脱できる
「修行僧らよ、このように観察し、教えを学ぶ聖なる弟子は、
いろ・かたちあるものを厭い離れ、知覚作用(受)を厭い離れ、
表象作用(想)を厭い離れ、形成作用(行)を厭い離れ、
識別作用(識)を厭い離れる。厭い離れたとき、貪りを離れる。
貪りを離れるから、解脱する。解脱したとき「わたくしは解脱した」と知る。
あらゆる存在(一切法)は、縁起によって成立しており不変の独自性はもたない
(無自性空)
分別をはたらかせることによって、行為と煩悩が生まれる。それらは世界を<空なるもの>と
見ることによって、滅することができる。分別を否定し、ことばによる思考・判断に惑わされる
ことなく、一切を<空>とみるものの見方、これこそが智慧の完成である
意識は「無自性空」である・・
ということで・・^^
またまたいつもどうりのことしてくる^^
15頌
根本識に依止す。五識は縁に随て現ず。
或ときは倶なり或ときは倶ならず。濤波の水に依るが如し。
16頌
意識は常に現起す。無想天に生まれたると。
及び無心の二定と,睡眠と悶絶をば除く。
17頌
是の諸の識は転変して,分別たり所分別たり。
此に由りて彼皆無し,故に一切唯識なり。
唯だ識のみであることに、識が住さないかぎり、その間は二取[ 主観と対象との分別への固
執 ] の随眠[ 煩悩の種子 ] は止滅しない。
識が所縁[ 対象 ] を得ることが正に無くなったとき、唯だ識のみ、ということに住したのであ
る。所取[ 対象 ] が無いとき、それを取ること[ 対象を認識する主観 ] が無いからである。
これは無心であり、無所得[ 対象を見ない・主観と対象との分別が無い ] である。それはま
た、出世間智である。転依である。二種[ 所知障と煩悩障との二種の仏道の障害 ] の祖重
[ 煩悩の種子 ] を断じたが故に。
これこそが無漏界であり、不可思議であり、善であり、永遠である。これは楽であり、解脱身
である。これが大牟尼の法と謂われるものである。
う〜〜ん^^
世親ちゃんの「唯識三十頌」でもこの流れがきてる^^
所取[ 対象 ] が無いとき、それを取ること[ 対象を認識する主観 ] が無い
これは無心であり、無所得[ 対象を見ない・主観と対象との分別が無い ] である
二種[ 所知障と煩悩障との二種の仏道の障害 ] の祖重[ 煩悩の種子 ] を断じたが故に
これこそが無漏界であり、不可思議であり、善であり、永遠である。これは楽であり、
解脱身である。
・・とこうなる^^
すなわち・・
無分別智における非思量状態が解脱身であると・・^^
う〜ん^^
人それぞれ受け取り方があるからね^^
体験だけがそれは真実かを示してくれる^^
ただそれだけの話^^
それは真実かとか解釈が間違っているとかどうでもいい^^
それはすぐに明らかになる^^
しかし・・
これ・・普通に生きてるとわからないことばかりだな^^
仏教に縁がないと^^
心配するな、お前も縁がない、あるのはお前の自己陶酔だけ。
・・ということで・・
仏教に縁があったことに感謝して^^
寝る^^
これまでの流れからして・・
「解脱すると・・対象がなくなる」
こうなるんだよな^^
「対象がなくなる」・・
う〜〜ん^^
すばらしい^^
無心であると・・いいたいとこだが^^
流れからして「非思量である」とこうなる^^
なぜ「対象がなくなる」状態になったのか・・
それは・・つまり・・
所知障と煩悩障を断じたからである^^
つまり・・
煩悩を滅すると主観と対象との分別がなくなり・・
無心になると・・
これが解脱身であると^^
「対象・・分別がなくなる」・・
といわれてもな・・・^^
簡単に言えば・・
煩悩がなくなると・・
「対象がなくなる」・・
対象がなくなれば・・
当然慈悲の心が現れる・・
すなわち・・
仏性が現れると・・^^
ん?
対象がなくなれば・・
おまえらは・・^^
いやいや・・あかん^^
そこは不問にしとこう^^
唯だ識のみであることに、識が住さないかぎり、その間は二取[ 主観と対象との分別への固
執 ] の随眠[ 煩悩の種子 ] は止滅しない。
識が所縁[ 対象 ] を得ることが正に無くなったとき、唯だ識のみ、ということに住したのであ
る。所取[ 対象 ] が無いとき、それを取ること[ 対象を認識する主観 ] が無いからである。
これは無心であり、無所得[ 対象を見ない・主観と対象との分別が無い ] である。それはま
た、出世間智である。転依である。二種[ 所知障と煩悩障との二種の仏道の障害 ] の祖重
[ 煩悩の種子 ] を断じたが故に。
これこそが無漏界であり、不可思議であり、善であり、永遠である。これは楽であり、解脱身
である。これが大牟尼の法と謂われるものである。
世親ちゃんも「唯識三十頌」の最後に・・
煩悩を止滅すれば・・
「対象を見ない・主観と対象との分別が無い」
って言ってる^^
煩悩がなくなれば・・
対象がなくなる・・
どういうことか・・^^
[ 主観と対象との分別への固執 ] の随眠[ 煩悩の種子 ] は止滅しない。
主観と対象との分別への固執は煩悩の種子 ・・
ということは・・
唯だ識のみである・・・^^
そうか::^^
それで「唯識」か^^
識が所縁[ 対象 ] を得ることが正に無くなったとき、唯だ識のみ、
ということに住したのである
これこそが無漏界であり、不可思議であり、善であり、永遠である。これは楽であり、解脱身
である。これが大牟尼の法と謂われるものである。
そうなると・・
やはり・・あの脳科学者の動画を思い出す^^
広範囲に及ぶ脳卒中の発作により、自分の脳の機能―運動、言語、自己認識―が、
1つひとつ活動を停止していくのを観察することになったのです。
この驚くべき物語をお聞きください。
https://www.ted.com/talks/jill_bolte_taylor_s_powerful_stroke_of_insight?language=ja では・・どのようにしたら唯だ識のみに住することができるか?
とうことになる^^
(成唯識論の修行体系)
加行位(加行道)
・四善根(四諦十六行相)
>四尋思
・煖
・頂
>四如実智
・忍
・世第一法
通達位(見道)
・真見道(一心):無分別智
>無間道:種子を断じる
>解脱道:習気を断じる
・相見道:後得智
>三心相見道:主客の空を対象
・無間道
>対象の空
>主体の空
・解脱道
>主客の空
>十六心相見道:四諦を対象
・苦〜道諦(2種)
>法智忍
>法智
>類智忍
>類智
修習位(修道)
・極喜地 (施波羅蜜多)
・離垢地 (戒波羅蜜多)
・発光地 (忍波羅蜜多)
・焔慧地 (精進波羅蜜多)
・極難勝地(定波羅蜜多)
・現前地 (般若波羅蜜多)
・遠行地 (方便波羅蜜多)
・不動地 (願波羅蜜多)
・善慧地 (力波羅蜜多)
・法雲地 (智波羅蜜多
うわぁああああああああああああああああああああああああああああああああああ
「真見道」では、「無分別智」(般若学で言う「等引智」)によって真如を認識し、煩悩を断じます。
「一心真見道」とも呼びます。
主客の空を無概念で直観的に認識した時点で、「唯識に住する」という状態になります。
・極喜地(施波羅蜜多):初めて無漏無分別智を発し、人法二空を証し菩提心を起こす
・離垢地(戒波羅蜜多):清浄な戒を具して、微細な煩悩の垢からも離れる(ここから修道)
・発光地(忍波羅蜜多):優れた定と記憶を成就し、智慧の光を発する
・焔慧地(精進波羅蜜多):三十七菩提分法に安住し、煩悩を焼き尽くす智慧が増大する
・極難勝地(定波羅蜜多):四諦を証する無分別智と、世間の技術・学芸を修する有分別智の二者を具する
・現前地(般若波羅蜜多):十二縁起を観ずる清浄な般若智を生じる
・遠行地(方便波羅蜜多):無相観を修して意識的な計らいの限界まで至り、声聞・独覚の世界を超える
・不動地(願波羅蜜多):無分別智が自然に常に働く(煩悩障が断じられ、以降は無漏智のみ)
・善慧地(力波羅蜜多):自在に言葉を操って説法を行う
・法雲地(智波羅蜜多):一切法を縁ずる大法智を生じ、「金剛喩定」を起こす(残しておいた煩悩を断じる)
「見道」は大きく「真見道」と「相見道」の2段階から構成されます。
「真見道」は無概念の「無分別智」による認識です。
「相見道」はその認識を後で「後得智」によって概念的に認識します。
それを四諦の観察によって行います。
「後得智」は大乗仏教が重視する、利他に必要な智慧です。
さらにどちらも、「無間道」、「解脱道」から構成されます。
ちょつとこれは理解するのに時間かかかる^^
休日にかんがえよっと^^
・・ということで・・寝る^^
だだ^^こう言っただけだが・・とてつもないことになってきた^^
356 :
因縁果 ◆d........o
2016/09/26(月) 19:35:18.56 ID:HF474gGu
唯だ識のみに住する^^
「主客の空を無概念で直観的に認識した時点で、
「唯識に住する」という状態になります。」
これなんだよな・・考えてたこと^
実を言うとですね〜〜〜^^
もう既に体験しちゃってるかもしれないんですよ・・^^
秘密ですけどね・・^^
世親ちゃんには秘密ということで^^
唯識五位(仏道成就の歴程)
(1)資糧位〔しりょうい〕
(2)加行位〔けぎょうい〕
(3)通達位〔つうだつい〕
(4)修習位〔しゅうじゅうい〕
(5)究竟位〔くきょうい〕
唯識でも,因である「修行」があって,はじめて「唯識の悟り」という果がある。
五位のうち資糧位・加行位・通達位・修習位の4つが「因」で,最後の究竟位が「果」。
依他起性とは相対的存在であり、構想ではあるが、物事はさまざまな機縁が
集合して生起したもの(縁起)であるととらえることである。
阿頼耶識をふくむ全ての識の構想ではあるけれども、すでにその識の対象が
無であることが明らかとなれば、識が対象と依存関係にあるこの存在も
また空である。
「所取」の取(対象への執着)と「能取」の取(主観への執着)。
両者とも,その熏習した種子(習気)を随眠という。
これらを止滅(伏滅)しないかぎり,主観と客観に二分化する。
唯識思想は、大きく有相唯識派と無相唯識派の二派に分かれていくことになりました。
その二派は、「能取・主観・主体と所取・客観・客体」の「二取」における「形象・相」が
実在するのか、実在しないのかという点において激しい議論が展開されていきます。
@能取・主観・主体
A所取・客観・客体
「二取」における「形象・相」が実在するのか、実在しないのか・・・^^
我々の認識において・・ものがあれわれるということは・・
ものを分別し認識していることにほかならない^^
なにが現れるのか・・
真実ならざる分別が現れる^^
いかなる状態で現れるのか・・
主観と客観の二つのものとして^^
真実ならざる分別・・実在するのではないという・・
つまり・・主観と客観はない^^
こころは様々に分別するが・・
実際にはそのようにはない^^
すなわち・・「無分別智」によって真如を認識しろと^^
う〜〜ん^^
成唯識論を修行するしか・・道はないな^^
唯識五位(仏道成就の歴程)
(1)資糧位〔しりょうい〕
(2)加行位〔けぎょうい〕
(3)通達位〔つうだつい〕
(4)修習位〔しゅうじゅうい〕
(5)究竟位〔くきょうい〕
きたぁああああああああああああああああああああああああああああああああ
あぁあああああああああああああああああああああああああああああ
遍計所執性とは、阿頼耶識・末那識・六識によってつくり出された対象に相当して、
存在せず、空である
空性の「無分別の智・不二の智」により、分別・戯論・煩悩が止滅される
唯だ識のみであることに、識が住さないかぎり、その間は二取[ 主観と対象との分別への固
執 ] の随眠[ 煩悩の種子 ] は止滅しない。
識が所縁[ 対象 ] を得ることが正に無くなったとき、唯だ識のみ、ということに住したのであ
る。所取[ 対象 ] が無いとき、それを取ること[ 対象を認識する主観 ] が無いからである。
これは無心であり、無所得[ 対象を見ない・主観と対象との分別が無い ] である。それはま
た、出世間智である。転依である。二種[ 所知障と煩悩障との二種の仏道の障害 ] の祖重
[ 煩悩の種子 ] を断じたが故に。
これこそが無漏界であり、不可思議であり、善であり、永遠である。これは楽であり、解脱身
である。これが大牟尼の法と謂われるものである。
識が所縁[ 対象 ] を得る・・・
所取[ 対象 ] が無いとき・・
17頌
是の諸の識は転変して,分別たり所分別たり。
此に由りて彼皆無し,故に一切唯識なり。
彼皆無し,故に一切唯識なり・・・
唯だ識のみに住する^^
煩悩がなくなると・・
対象がなくなる・・
するとどうなるか^^
私はバランスを崩し 壁にもたれました そして腕を見ると
もはや自分の体の境界が 分からなくなっていることに気付きました
自分がどこから始まり どこで終わるのか その境界が分かりませんでした
腕の原子分子が 壁の原子分子と混じり合って 一緒になっているのです
唯一感じ取れるのは エネルギーだけでした ・・
つまり・・
それからすぐに 周囲の大きなエネルギーに魅了されました
もはや 体の境界が分からない私は 自分が大きく広がるように感じました
全てのエネルギーと一体となり それは 素晴らしいものでした・・
つまり・・
全くの静寂になりました 最初 頭の中の静寂に ショックを受けていましたが
それからすぐに 周囲の大きなエネルギーに魅了されました
もはや 体の境界が分からない私は 自分が大きく広がるように感じました
全てのエネルギーと一体となり それは 素晴らしいものでした
つまり・・
この大きくなった自分を 再び小さな体の中に 押し込めるのは無理だろうなと思ったのを覚えています
こうなる^^
唯一感じ取れるのは エネルギーだけでした ・・
ここだよな^^
ポイントは^^
自分がどこから始まり どこで終わるのか その境界が分かりませんでした
腕の原子分子が 壁の原子分子と混じり合って 一緒になっているのです
う〜〜ん^^
ここもポイント^^
全てのエネルギーと一体となり それは 素晴らしいものでした・・
さらに・・
ここもポイント^^
この大きくなった自分を 再び小さな体の中に 押し込めるのは無理だろうなと思った・・
最終的に・・
ここもポイント^^
つまり・・
体験は・・言葉や思考をすんなり超えるんだよな^^
つまり・・
おまいらがいくら考えても体験しなければ真実は
見えてこないということだな^^
ゆえに・・
いつまでも頭で理解しようとしているおまいらは・・
凡夫でしかない^^
ということである^^
やはり・・^^
おまいらはだめだ^^
との結論に到る^^
すばらしい^^
ああすばらしい^^
全てのエネルギーと一体となり それは 素晴らしいものでした・・
これを考察したい^^
対象があるがぎり・・
人は悟りの境地には到達できない^^
う〜〜ん^^
簡単明瞭^^
妄想分別(もうぞうふんべつ)というのは、人は理解した「事実」だけを語る。
理解しなかったことは語れない。…その「理解したこと」を「事実そのもの」だ
と思い込む態度を仏教では「妄想分別」と言い、「無明」という。
「証して分別を離るるを、不戯論と名づけ、実相を究尽す、乃ち不戯論なり」
道元ちゃんより^^
今の人間社会の闇…恐怖心をなくそう\(^-^)/
シーちゃりんの当たり前の毎日に感謝!
http://ameblo.jp/seimeitai130/ 空海ちゃんは滝にうたれて修行した・・
その上をいく^^
三密一味を生起させるため・・
「空観の所取相を諸尊として想起させる・・」
う〜〜ん^^
「空性を理解するその智をできる限り強く思いながら・・
その智自体が諸尊として生起すると信解すべきなのです」
うむ〜〜^^
「空性の見解については初心者の密教行者であっても
最低でも唯識派の見解を修復する必要があり・・
その見解を諸尊として生起させる必要があります」
唯識きたぁあああああああああああああああ^^
唯識かじったので・・
法王の言いたいことはある程度わかる^^
が・・
しかしだ^^
理解できない点もある^^
空性の見解について・・
なぜ・・
諸尊として生起させる必要があるのか・・・^^
動画の最初のほうも・・
なんか違う感がする^^
これはまだ勉強不足ということか・・・^^
大日経をもっと理解するために・・
遣唐使として唐にいかないとあかん^^
たぶん空海ちゃんは・・
「空」をもっと知るために・・唐にいったんやろな^^
だいたいわかる^^
同じ道を辿ると・・^^
そして・・即身成仏があると・・^^
こうなる^^
「空性を理解するその智を諸尊として生起させる必要があり・・」
問題は・・
ダライ・ラマちゃんのこれだよな^^
曼荼羅とは、仏教(特に密教)において聖域、仏の悟りの境地、
世界観などを仏像、シンボル、文字、神々などを用いて
視覚的・象徴的に表したもの。「曼陀羅」と表記することもある。
ふむふむ^^
全ての曼荼羅に共通する点としては、
(1)複数の要素(尊像など)から成り立っていること、
(2)複数の要素が単に並列されているのではなく、
ある法則や意味にしたがって配置されている、ということがあげられる。
密教系の絵画で仏像1体だけを表したものは「曼荼羅」とは呼ばない。
ふむふむ^^
「文字では表現できない悟りの世界を現す」
1200年前に空海ちゃんが唐からもたらしたもの・・
「金剛界曼荼羅」・・
悟りの智慧がどのようなものか・・
その智慧が内面的にどのように働くのかを現している^^
うむー^^
帰ってから見てみるかー^^
ではいつもどうりのことしてくる^^
「タントラ」
8世紀、ブッダグヒヤは大日経の解説書である『大日経広釈』の中で、
タントラを所作、行、ヨーガの3種に分類している。
また、10世紀に成立したと考えられる『智金剛集タントラ』においては
大ヨーガ、両、行、所作、儀軌の5つに分類している。
また、11世紀には後にチベットに訪れたアティーシャが所作、行、儀軌、両、
ヨーガ、大ヨーガ、無上ヨーガ(無上瑜伽タントラ)の7種に分類している。
この分類はインドの経典においては最も一般的なものであるが、他にもさまざまな
分類が乱立しており、学者の間で統一された分類というものはない。
たんとらぁああああああ嗚呼あああああああああああああああたん^^
うわぁあああああああああああああああああああああああ^^
あぁああああああああああああああああああああああああああ^^
マンダラ思考8原則ー2 bU57 0319
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@YouTube
ふむふむ^^ ダライ・ラマちゃんの言葉に「生起」という
言葉が何回もでてくる^^
これが密教の本質なんだな^^
この考え方が根本的に違うんだよね・・^^
おいらと^^
おいらの考え方では・・
他力ではなく・・
必然になる^^(キリッ
ということで・・
密教とは縁がなかった・・^^
ということで^^
人それぞれ考え方があるからな〜^^
これだけは・・しょうがない^^
彼は意を決して全力で瞑想し、カーリーの姿が現れると「精神の剣」で真っ二つ
に切り裂いた。そして遂にニルヴィカルパ・サマーディ(無分別三昧)に入った。
その境地について、彼は自我も無ければ空間も無い絶対無分別の状態、
と主張している。
あらゆる想念・雑念・思いの一番最初の原因は「わたし」という想念である。
「わたし」がなければ想念はない。
「わたし」がなければ世界は存在しない。
すべての想念・思い・思念は第一想念の「わたし」から発生する第二、第三想念である。
もし、想念が起こったならそれは一体だれに起こったのかと尋ねてみなさい。
もし感情が起こったらそれは一体だれに起こったのかを質問しなさい。
それはわたしに起こった。
ではその「わたし」とは誰なのか?
それを自分にたずねて、そのわたしの根源をたどりなさい。
「わたし」の道筋をたどってその痕跡をさかのぼって淵源を見つけなさい
そうすれば、「わたし」は消滅する。
「わたし」と同時に世界も消滅する。
そして真の自己が輝く。
何をするにつけても、一体だれがしているのか?と尋ねなさい。
それは「わたし」である。
ではその「わたし」とは誰なのか?
それを自分にたずねて、その「わたし」という想念、第一想念を逆にたどって、
その根源に至りなさい。
それ以外の瞑想は不要である。
うわぁあああああああああああああああああああああああああああ^^
究極の目標である無分別三昧による「梵」との合一に近づいた。
あと一息で自我意識の停止までに達する
今日はニルヴィカルパ・サマーディ(無分別三昧)について考察した^^
無分別三昧 nirvikalpa-samAdhi は[自他]分別 vikalpa という
心の働きが止(や)んだ三昧であるが、これには二種類あり、
ケーヴァら・ニルヴィカるパ kevala-nirvikalpa[-samAdhi] のほうでは、
三昧中は自分意識が喪失されて真実在 sat (Self) そのものになっているが、
その三昧から出てしまうと真実在 sat (Self) という真理を失うわけではない
ものの、破壊されないで残っている自分意識の働きにより分別作用も出てしまう
。
それに対してサハジャ・ニルヴィカるパ sahaja-nirvikalpa[-samAdhi] のほう
では、自分意識が完全に破壊されてしまっているので、自分意識の復活と
それに伴う分別作用も無く、真実在 sat (Self) の真理から離れることは
決して無い。
睡眠者とケーヴァら・ニルヴィカるパ三昧者の心(自分意識)は死んでは
いないが、前者の場合は忘却を体験しているだけなのに対して、
後者は真実在 sat (Self) の光明を体験しているという違いがある。
また、ケーヴァら・ニルヴィカるパ三昧者は自分意識というロープを
携えて井戸の奥深くまで下りて行ったようなもの で、再びその自分意識と
いうロープを用いて上がって行くことができるのに対し、
サハジャ・ニルヴィカるパ三昧者の心(自分意識)は死んでいるので、
海に流れ込んだ川がもどらないように、個性を完全に喪失して真実在
sat (Self) の至福 Ananda に永遠に融合してしまっている。
また思考回路に嵌って無駄な時間んを過ごしたな今日も。
因縁果 は・・・・。
ラマナマハリシはサマディを
3つの種類に分けています。
自己を完全に
二度と現れることのないまでに消し去った
原初の純粋な自然な状態の中に
努力せず留まっている状態が
サハジャ・ニルヴィカルパ・サマーディ
(これが最高のサマーディ!)
実在を努力とともにとらえているのが
(だから努力をやめるともどってきてしまう)
サヴィカルパ・サマーディ
実在の中に溶け込み、世界に気づかないままとどまるのが
(心(自我)が破壊されないまま。だから本当の意味で解放されていないそう)
ニルヴィカルパ・サマーディ
サマーディに入ろうとするときに起こる恐怖と身体の震えは、わずかな自我意識がいまだに残っているためである。
だが、自我が何の形跡もなく完全に死に絶えるとき、人はただ至福だけが広がる純粋な意識の空間にとどまる。
そして震えも消え去るのである。
サハジャ・ニルヴィカルパ・サマーディ・・か^^
寝る^^
パーリ語経典相応部のある経典では、釈迦が中道をガンガー河に流れる丸太に例えて説いている。
そこでは、釈迦が丸太を比丘(出家修行者)に例え、その流れる丸太が
こちらの岸に流れつかず (六根(六内処)に囚われることなく)
向こう岸に流れつかず (六境(六外処)に囚われることなく)
中流で沈みもせず (悦楽・欲望に囚われることなく)
中州に打ち上げられもせず (自我の妄執に囚われることなく)
人によって持ち去られもせず (社会性・人間関係(付き合い・同情)に囚われることなく)
人でないもの(鬼神)によって持ち去られもせず (神秘主義に囚われることなく)
渦に巻かれることもなく (五感による欲望にまきこまれることなく)
内部から腐敗していくこともない (偽り・欺瞞を隠して生きることがない)
ならば、海(悟り、涅槃)へと到達するであろうと説かれる。
鳳凰吉田さんに素敵な彼女ができますように!高熱を出してくるしんでいたあの子と付き合えますように!
http://dnnjluugl.blog34.fc2.com トータプリは落ちていたガラスの破片を拾い、弟子の眉間に突き立てた。
「それ、ここに意識を集中しろ!」
激痛に励まされ、ラーマクリシュナは必死で真我に瞑想した。
そして、彼はついに、【マーの美しい御姿】を【智慧の剣で切り裂いた!】
たちまち、彼は【無相の絶対実在ブラムハン】に溶け去り、【ニルヴィカルパ サマーディ】(無分別三昧)に入った。
「宇宙は消滅した。
空間それ自体がもはや存在しない。
初めのうちは、想念の影が精神の暗い深みに浮かんでいた。
やがてそれも溶け去り、後には【我(私)の意識の単調な鼓動】だけが残った。
それも止んだ。
【魂はアートマの中に没入した】。
二元論は消えた。
【言葉を超え、想念を超えて】、【『二』なき『一』なるブラムハンに到達した】」
トータプリは驚愕した!
自分が40年かかって到達したところに、この若い弟子は、たった一日で到達したのだ!
ラーマクリシュナは三日間、無分別三昧に没入したままだった。屍のように動かぬ弟子の姿を、グルは茫然と見守った。
トータプリの助けにより、ラーマクリシュナが外界の意識を取り戻すとグルは言った。
「あんたはもう私の弟子じゃない。
優れた友だ!」
宇宙の根本原理ブラフマン(梵)のみが実在であり、
世界は迷妄、錯覚にすぎない、そして自己の本性即ち真我(アートマン)は、
根本においてブラフマンと同一である(梵我一如)という。
真実ならぬものを厳密に識別して、徹底的に捨ててゆく。
相対世界の一切を否定し、放棄したぎりぎりのところで、
行者の意識は三昧の最高状態である無分別三昧(ニルヴィカルパ・サマーディ)
に達し、永遠絶対の実在(サット)・智識(チット)・歓喜(アーナンダ)
であるブラフマンに溶け入る。時間と空間は一つになって、誕生と死、
原因と結果は夢と消え去る。知るもの、知られるものは円満完全な智慧の大海に
流れ入って一味となる。
この三昧に入っている間、その人の肉体と精神とは機能を止め、
生命の試験には全く反応しない。傍の人から見ると、死体と同じである。
無分別三昧を経験した人の意識は、現象の変化にも、苦楽にも、全く反応を
示さなくなり、肉体は21日で枯葉のように朽ち果てると言われている
人類への特別の使命をもって生まれた人は、この目もくらむブラフマンの
高所から日常の意識へと無事に戻ることができる
肉体は21日で枯葉のように朽ち果てると言われている・・
うわぁああああああああああああああああああああああああああああああああああ
ぎゃぁああああああああああああああああああああああああああああああ
おぎゃぁああああああああああああああああああああああああああああああああああ
どこかに書いてあったけど・・
瞑想は死に近づくほど瞑想レベルは高くなると・・^^
真実ならぬものを厳密に識別して、徹底的に捨ててゆく。
相対世界の一切を否定し、放棄したぎりぎりのところで、
行者の意識は三昧の最高状態である無分別三昧・・
これなんだよな・・^^
「真実ならぬものを厳密に識別して、徹底的に捨ててゆく。」
これが鍵なんだよな^^
ヒンドゥー教のブラフマンはアーリア人の妄想だよ
聖書の創造神はユダヤ人の妄想だよ
神の一元論、唯一神信仰はどれもこれも妄想でしかなかったw
人類三千年の妄想が今覆されるwww
ん?
無分別状態が悟りの境地だと理解してるから・・
そのほかのことはどうでもいい^^
無分別状態がこのようになることは・・
理解できるしね^^
と・・いうことで・・
休憩^^
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@YouTube;list=RDOcINTf6t8RE
バカなことを言うなw
無分別や仮死状態などは悟りではないwww
ただのアホか、死に損ないだw
信じられないだろうが、自分の心を坐禅で見ることができる。
それが本来の自己ということになる。
すなわち悟りとは、自分の心を自分自身で見ることを言う。
無分別三昧(ニルヴィカルパ・サマーディ)に到達することこそ、
真言密教の「即身成仏」である^^
下手な瞑想寝るに限る・・
ということで・・^^
またまた寝る^^
ん?
こここぴぺだとぉおおおおおおおお^^
ひどいな〜^^
勉強させて頂いた・・^^
の方が正確やな・・・^^
というより・・
濁川さんのレベルに達した・・
意識の疎通が図れた・・
といっていいかもしれん^^
ところで・・
濁川さんって知らないんだけど・・^^
ネットには宝の山がうずもれている・・
情報量がはんぱない^^
それをどう生かしていくか・・
それもひとつの能力である^^
「濁川さんの記事のコピペやん… 」
どのところいってるのか教えて^^
あと・・記事も^^
みなさん^^
はじめまして^^
濁川さんです^^
なんちゃって^^
まぁみんな考えることは・・
似たようなもの^^
よほどの体験がない限り・・
人の思考を超えることはできない^^
体験だけが思考を超える・・^^
しかし・・
人はそれを概念化することはできない^^
因縁果さん、瞑想について質問してもいいですか?
別スレに相談したんだけどあんまり相手にされなくて…
あらゆる存在(一切法)は、縁起によって成立しており不変の独自性はもたない
(無自性空)
分別をはたらかせることによって、行為と煩悩が生まれる。それらは世界を<空なるもの>と
見ることによって、滅することができる。分別を否定し、ことばによる思考・判断に惑わされる
ことなく、一切を<空>とみるものの見方、これこそが智慧の完成である
すなわち・・
無分別の境地に到るには瞑想するしかないんだよな^^
のりあきちゃんも・・がんばって^^
のりちゃんってだれだか知らんけど^^
おまいらがいるということは・・^^
おいらもいる・・^^
となる^^
でだ・・^^
ここからが根本的な問題となってくる^^
仏教の根本的思想はここから始まる・・^^
・・と^^
すなわち・・
なぜ分別されるのか・・^^
識別作用が生じるのか・・となる^^
それを明らかにするのが・・
すなわち・・
瞑想であると・・・^^
こうなる^^
分別・識別作用が生じるまえの段階・・
にその境地をおく^^
無分別の境地・・・^^
それが真の瞑想の境地である・・^^
となる^^
うむ〜〜^^
うなわち・・・
有・無・・^^
これから空の世界へといっちゃうんだよな・・^^
これが^^
思考すると・・
幻想の世界へいっちゃうんだよな・・^^
これが^^
最近の水風呂は冷たい・・^^
冬に比べれば・・まだまだだが^^
分別のない境地かぁ。
なかなか辿りつけなさそうです。
瞑想して雑念が静まるまでは行くんです。
でもそこからは何の進展もなし…
アドバイスいただけませんか?
心境一如の世界は<主客分離>以前の世界だから、
<主客分離>以降の<分別智(理知脳)>の働きによって分かろうとしても、
充分に理解することはできないと述べている。
<主客分離>以前の世界は下層脳中心の世界である。
下層脳(=脳幹+大脳辺縁系)は無意識の世界で分別智(理知脳)以前の世界と言える。
このため、<主客分離>以前の世界である心境一如の世界は、
<分別智(理知脳)>によっては理解できないと述べていると考えることができる。
調べてみたら・・
これに近い^^
坐禅修行によって下層脳が活性化しストレスが無くなり、
全脳(=上層脳+下層脳)が健康になると、無我・無心になることができるようになる。
特に深い禅定に入った時には、上層脳である大脳新皮質(理知脳)は
<寂滅>とでも表現される休止安静状態になる。
この時、大脳新皮質の働きである分別意識のフィルターの働きが弱まり、影響を受けなくなる。
即ち、自己と外界を区別するフィルター(バリヤー)が消失し、
万物との一体感を感じるようになる。
これが、万物一体(心境一如)の境地だと考えることができる。
これだな^^
坐禅修行によって下層脳が活性化しストレスが無くなり、
全脳(=上層脳+下層脳)が健康になると、無我・無心になることができるようになる。
つまり・・^^
サウナに入って苦を感じる・・
次に水風呂に入って苦からの解脱をはかる・・
これらの修行によって下層脳が活性化しストレスが無くなり、
全脳(=上層脳+下層脳)が健康になると、無我・無心になることができるようになる。
・・ということだな・・・^^
勉強になった^^
ありがとう・・^^
普通の意識状態では大脳連合野での分別意識による記憶や経験・知識など
分別のフィルターがかかる。
分別意識のフィルターがかからない時、脳は主客の境界がなくなったように感じ、
万物一体(心境一如)の「忘我」の状態を経験すると考えられる。
ふむふむ^^
こう考えてみると・・・
おまいらが座禅したって・・
下層脳が活性化したり・・
全脳(=上層脳+下層脳)が健康になる・・
なんてことは・・
あらへん^^
おいらの場合は・・
この水風呂瞑想をしてから・・
健康診断では格段によくなったし^^
全脳(=上層脳+下層脳)も下層脳も活性化して
健康になった^^
と・・いうことだな^^
普通の意識状態では大脳連合野での分別意識による記憶や経験・知識など分別のフィルターがかかる。
分別意識のフィルターがかからない時、脳は主客の境界がなくなったように感じ、万物一体(心境一如)の「忘我」の状態を経験すると考えられる。
仰山慧寂の「妙浄明心」とはこのような心を指していると思われる。これが悟りの境地である無分別智や般若智と言えるのではないだろうか。
ふむふむ^^
白隠は本来の面目(=下層脳優勢の脳)に気づき悟ったのではないだろうか。
ふむふむ^^
下層脳優勢の脳かー^^
これはうすうす感じてた^^
う〜〜ん^^
おまいらも勉強になることがあるんだな^^
驚いた^^
下層脳を活性化し、分別意識を止滅させるための手段として、坐禅(=禅定)を修行する。
これだよな・・・^^
非想非非想処
「識別するのでもなく、識別しないのでもない、という境」
というほどの意味である。無所有処では、「識別作用は消えた」
というかたちでまだかすかに残存していた識別作用そのものが、
ここでは完全に消え去る、つまり、識別する、しないがまったく
意味をなさないほどにまで心のはたらきが完全に停止する、
ということなのであろう。
これも感情や思考の停止を目指す瞑想で得られる境地である。
鈴木大拙博士は言う、
「悟りの端的は無分別の分別である。普通の論理では分別だけで無分別を見ない。悟りでは無分別を見る。
そしてその無分別のうちに分別を入れる。分別が無分別と別ではなく一つになる。
ここに悟りの論理が建立される。」
611.
分別意識を死滅させるための手段が坐禅か。
坐禅は座るだけのことである。
それでもってして、一定の効果が発生するか。
それは迷信である。
坐禅は迷信の徒がやることである。
今日のありがたいお言葉^^
「雨にうたれて雨を知る」
そのためにも・・・
雨に打たれて瞑想しにいかんとあかん^^
このまえ・・
雨に打たれて瞑想してたら・・
だれかから声をかけられた^^
ひひひー^^
悟りを得るには・・
雨に打たれて瞑想するのが・・
いいかもしれん^^
自我がなければ雨もない^^
雨との同化・・
すなわち・・
無分別の境地である^^
サロメですwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
アタシのブログ読んでねwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
http://blog.goo.ne.jp/mugi411/ 出息入息は、鼻でごく自然に寂(しず)かにせよ。
からだのかたちを整えたら、口を開き息を長く大きく吐き、
体を左右にゆっくり揺り動かす。
兀兀と動かざること、巌のように不動のかたちで坐し、
箇の不思量底を思量せよ。不思量底で、どう思量なのであろう。
思量はない。超出しきっている。ありとあらゆるものは非思量。
人間界の是非、善悪等の思量分別を脱落し、ただ打坐のみである。
不思量に止(とど)まり居る処のみを任運に、そのまま不思量底で
あるところ、本来の相としての非思量に在る。
これが、まさに坐禅の要術である。
道元ちゃん^^ 普 勧 坐 禅 儀
「箇の不思量底を思量せよ。」
つまり・・^^
「悟りの端的は無分別の分別である。普通の論理では分別だけで無分別を見ない。悟りでは無分別を見る。
そしてその無分別のうちに分別を入れる。分別が無分別と別ではなく一つになる。
ここに悟りの論理が建立される。」
これなんだよな^^
「箇の不思量底を思量せよ。」
つまり・・^^
「その無分別のうちに分別を入れる。」
こうゆうことなんだろうな^^
・・ということは・・・^^
道元ちゃんは・・
「本来あらゆるところにまどかに通達していて妙用自在の絶対の真実である。
修行ということで、さとりをことさら求める必要がどうしてあろうか。」
と言いながら・・
「箇の不思量底を思量せよ。」
つまり・・
「悟りの論理を建立せよ」と・・
今夜はですね〜〜^^
「全脳(=上層脳+下層脳)が健康になると、無我・無心になることができるようになる。」
これを調べてみたいんですよ^^
今日もこのことについて考えていたのでね^^
【エハン塾】John C. Lilly 博士と感覚遮断タンク
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@YouTube この動画に行き着いた^^
おもしろい^^
ほんとうにおもしろい^^
庭前柏樹
摘自《無門關》
趙州因僧問:「如何是祖師西來意?」
州云:「庭前柏樹子」
ん?
604 :
因縁果 ◆d........o
2016/10/08(土) 19:05:37.76 ID:Jwd7vyCz
普通の意識状態では大脳連合野での分別意識による記憶や経験・知識など分別のフィルターがかかる。
分別意識のフィルターがかからない時、脳は主客の境界がなくなったように感じ、万物一体(心境一如)の「忘我」の状態を経験すると考えられる。
仰山慧寂の「妙浄明心」とはこのような心を指していると思われる。これが悟りの境地である無分別智や般若智と言えるのではないだろうか。
ん?
非想非非想処
「識別するのでもなく、識別しないのでもない、という境」
というほどの意味である。無所有処では、「識別作用は消えた」
というかたちでまだかすかに残存していた識別作用そのものが、
ここでは完全に消え去る、つまり、識別する、しないがまったく
意味をなさないほどにまで心のはたらきが完全に停止する、
ということなのであろう。
これも感情や思考の停止を目指す瞑想で得られる境地である。
うん?
これらの修行によって下層脳が活性化しストレスが無くなり、
全脳(=上層脳+下層脳)が健康になると、無我・無心になることができるようになる。
ん?
下層脳が活性化しストレスが無くなり、
全脳(=上層脳+下層脳)が健康なるために・・
いつもどうりのことしてくるかー^^
・・・てなことで・・^^
下層脳の活性化・・
全脳(=上層脳+下層脳)の活性化にいってくる^^
水風呂の温度・・
外気温度が冷たくなり・・
瞑想するにはとてもよい環境に
なってきた^^
瞑想する石の前に木があるので・・
庭前柏樹を試してみた^^
当然体の感覚・・思考は・・
抑えられているので・・
空の状態に近い^^
「分別意識のフィルターがかからない時、脳は主客の境界がなくなったように感じ、
万物一体(心境一如)の「忘我」の状態を経験すると考えられる。」
必然的にこのような状態になる^^
つまり・・
サウナ・水風呂で全脳(=上層脳+下層脳)が活性化すると
より下層脳が活性化し、大脳連合野での分別意識による記憶や経験・知識など
分別のフィルターが抑えられ、万物一体(心境一如)の境地がみえてくる^^
・・と^^
第八阿頼耶識・・貯蔵意識→大円鏡智(自然をありのままに映す(見る))
↓ ↑
第七末那識・・・自我意識→平等性智(その自然の中に自分も溶け込む(一体化))
↓
・・・・・・・・無意識(90%)・・・・・・・・・
・・・・・・・顕在意識(10%)・・・・・・・・・
↓
第六意識・・思考意識→妙観察智(その自然の動きを正しく観察すること)
↓
五識・・感覚─(目・耳・鼻・舌・身)→成所作智(その自然の動きに対応して正しく行動すること)
第一眼識・・視覚
第二耳識・・聴覚
第三鼻識・・臭覚
第四舌識・・味覚
第五身識・・触覚
↓
(外界)
この唯識の表にあるように・・
全脳(=上層脳+下層脳)が活性化すると・・
顕在意識(10%)と無意識(90%)が逆転するのでは
ないかと・・・^^
第八阿頼耶識・・貯蔵意識→大円鏡智(自然をありのままに映す(見る))
↓ ↑
第七末那識・・・自我意識→平等性智(その自然の中に自分も溶け込む(一体化))
これが全面的に現れてくるんじゃないかと^^
これは水風呂で抑えられているからな〜〜^^
・・・・・・・顕在意識(10%)・・・・・・・・・
↓
第六意識・・思考意識→妙観察智(その自然の動きを正しく観察すること)
↓
五識・・感覚─(目・耳・鼻・舌・身)→成所作智(その自然の動きに対応して正しく行動すること)
第一眼識・・視覚
第二耳識・・聴覚
第三鼻識・・臭覚
第四舌識・・味覚
第五身識・・触覚
↓
(外界)
すなわち・・^^
顕在意識(10%)=分別の世界
無意識 (90%)=無分別の世界
となる^^
すなわち・・^^
顕在意識=分別の世界が
無意識=無分別の世界に逆転すると・・^^
となる^^
「悟りの端的は無分別の分別である。普通の論理では分別だけで無分別を見ない。悟りでは無分別を見る。
そしてその無分別のうちに分別を入れる。分別が無分別と別ではなく一つになる。
ここに悟りの論理が建立される。」
こうなると・・^^
ん?
「箇の不思量底を思量せよ。」
つまり・・^^
不思量底を思量していることになる^^
つまり・・^^
思考すると間違えをする・・
ということだ^^
脳が造り出している幻想の世界へ・・
ようこそ^^
・・となる^^
そう考えると・・
今の世界が極小の世界である可能性もある・・^^
極小の世界は人の目には見えない・・
ということは・・
今人の目に見えている世界の上の
世界の存在にはこの世界を見ることが
できないかもしれない・・^^
さらにその上の世界があるかもしれん^^
11次元(空間次元が10個、時間次元が1個)の仮説理論かー^^
そう考えると・・
やはり今見ている世界は・・
4次元の幻想の世界となってくるな^^
あまり話すことはないが・・
最近きずいたこと書くかー^^
八正道を実践していると・・
それが善因となり善果となる^^
>>698 7次元は10^-30m以下に丸まってる
八正道から善果の動画が・・
今の状況を表しているので・・
脳裏に浮かぶんだよな・・^^
もう一回あの人に登場してもらわないと・・・
ならん^^
縁起の法則システムの図だ^^
この図が今の状況をそのまま表している^^
当然・・おいらは八正道をして善果か生じる人^^
「業の行為者は存在しない。ただ、行為だけがある。
結果を受ける者も存在しない。ただ、結果だけがある。
単に諸法のみが生起する。これが真理であり、正見である」
清浄道論かー^^
すべてのものは生滅変化するということは^^
どういうことか・・・^^
変化するんだからそこには法則が伴うと・・・
こうなる^^
法則によって絶えず変化してるんだから・・
そこには自我というものはない^^
自我があると錯覚妄想していると・・
変化には法則があるということに気づかない^^
絶えず変化生滅しているものに実体はあるのか・・^^
単に諸法のみが生起する。これが真理であり、正見である・・
となる^^
でだ・・^^
その法則とは何か?
ということになる^^
どのような法則により
人は絶えず変化しているのか・・^^
う〜〜ん^^
おまえらの宿題にしておくかなっと^^
「単に諸法のみが生起する」
う〜〜ん^^
すんばらしい^^
・・ということで^^
自我意識を消し去ってくるかなっと^^
朝の水風呂はやけに冷たかった^^
水風呂で瞑想してたら・・
「あっ・・これ心臓が凍るな^^」
と・・^^
それから外に出て・・
石の上でまたまた瞑想に入る・・^^
体と思考の感覚はない・・・^^
空の状態でそこにはなにもない^^
しばらくすると・・
体温が戻り・・
「あれ?なぜ寒さを感じるのだろう・・」
となる^^
無明→行→識→名色→六処→触→受→愛→取→有→生→老死→
の繰り返し・・・^^
人はこれを一瞬の速さで繰り返してる・・^^
いわゆる・・
生滅変化を一瞬で行っているのである^^
十二縁起
無明→行→識→名色→六処→触→受→愛→取→有→生→老死→
この図はおまえらの変化生滅だった^^
すまん^^
この図だと・・
必然的に苦が生ずる^^
なぜなら・・
無明ではじまっているから・・・^^
・・・ということは・・
「おまえらもたいへんだな^^」
・・となる^^
今日行った水風呂は・・
浅くて水温が冷たくない^^
それでは心臓が凍りつくこともない^^
それでは・・・
悟れない・・覚醒できない^^
・・となる^^
凍りつく冷たさの中においての瞑想が・・
人を覚醒させる^^
・・とは言っても・・
その前の段階のサウナの中での熱さも・・
必要不可欠だが・・^^
でだ・・
そのことが瞑想とどうかかわってくるのか・・^^
それが問題となる^^
個人的見解だと・・
人が何時間も瞑想でかかる時間を・・
15分くらいで達成してしまう・・
という効果があると・・^^
瞑想のレベルは死に近づくほど瞑想レベルが高くなる^^
これらをみると・・
1・空無辺処
2・識無辺処
3・無所有処
4・非想非非想処
5・滅尽定
1.空無辺処
虚空が無限であるという禅定で、空間が無限と感じられる瞑想の境地である。
2.識無辺処
心の識別作用が無限であるという禅定で、意識が無限と感じられる瞑想の境地である。
3.無所有処
いかなるものもそこには存在しない、所有していないという禅定で、なにものも存在しないと感じられる瞑想の境地である。
4.非想非非想処
心の表象が存在するのでもなく、存在しないものでもないという禅定で、想いがあるのでも、想いがないのでもないという瞑想の境地である。
1.空無辺処
対象に対する意識を完全に超え、(対象に)触れるという意識をなくし、
あれこれ定まらずに意識することも止めて、「虚空は無辺である」という
空無辺処に達します
この解釈がぴったりくるな^^
水風呂から石の上で瞑想すると・・
すぐにこの境地になる^^
2.識無辺処
空無辺処を完全に超え、「識は無辺である」という識無辺処に達します。
「物質対象に何にも触れない、触れない」と外に心を向けていた空無辺処から、
逆に心そのものに心を向けて、心自体が、何にも遮られることのない、限りないものだと、
対象に触れず、ほとんど揺れ動きもしない心だけを、ただ味わいます。
「対象に触れず、ほとんど揺れ動きもしない心だけを、ただ味わいます。」
う〜〜ん^^
心も既にないんだが・・^^
風景に同化しちゃってる^^
3・無所有処
識無辺処を完全に超え、「何もない(空)」という無所有処に達します。
心だけ、ということさえ意識しない「何もない」状態の禅定です。
「心だけ、ということさえ意識しない「何もない」状態の禅定です。 」
そうこれこれ^^
「何もない(空)」・・^^
まさにぴったり^^
4.非想非非想処
無所有処を完全に超え、非想非非想処に達します。
何も意識しない心さえなくしてみようと、意識はおろか、意識しようとする
衝動「想」さえ起こさせない、でもそれさえも完全に起こらないのは
心自体が滅することでちょっと不可能で、実際には想が起こるのか
起こらないのか分からないほど微かにして、もちろん意識などは全く
起こらない状態にまで達します。
世俗的に言えば仮死状態のような、意識しようとする衝動さえ起こさないよう
抑えられている禅定が、この、色界禅定を超えた無色界等至の最高の状態です。
「世俗的に言えば仮死状態のような、意識しようとする衝動さえ起こさない」
う〜〜んどうだろうね^^
仮死状態か・・^^
そこまではいっていないだろ・・か^^
水風呂で心臓が凍れば・・^^
この境地見れるかも^^
5.想受滅
想受滅では心の状態に連動して、身体のはたらきもその間ほとんど止まります。
飲食や排泄はもちろん、呼吸さえほぼなく、細胞の活動自体がほぼ完全に
休止します。身体に絶え間なく起こるはずの活動・変化がほとんど起こりません
ので、硬いお地蔵さんのような状態になります。
想受滅まで達せられると、悟りもOK、禅定もOKで、言うことなしになります。
・・ということで・・^^
瞑想する時間が限られているので・・
疑似体験しているわけだが^^
なぜなら・・
ひと言で言うと・・
「この境地にいると心地よい」からである^^
「この境地にいると心地よい」
これだけで1年続けているのだが・・
本当に「至福のひと時」なんだよね^^
理屈じゃないんだよな^^
この境地を知るだけでも意味がある^^
例え疑似体験でもかまわないんだよな^^
難点は・・
永続性が伴わない^^
ということかな^^
時間かけていないからね^^
体温が戻れば普段とそう変わらない^^
一時だけのもの^^
あっ・・^^
これについて考察したかったな・・^^
明日にしよおっと^^
715 :
因縁果 ◆d........o
2016/10/15(土) 05:18:56.22 ID:l/EG5C89
「業の行為者は存在しない。ただ、行為だけがある。
結果を受ける者も存在しない。ただ、結果だけがある。
単に諸法のみが生起する。これが真理であり、正見である」
清浄道論かー^^
現象とは・・^^
単に諸法のみが生起する。^^
すなわち・・
人の行為は・・・
単に諸法のみが生起してるのであって・・
諸法に人の行為が伴っていると・・^^
明日おまえら見て・・
「あっ・・諸法が生起してるな・・」
という感じで観察してみよっと^^
その結果を書いてみるかな^^
人を見ずに法を見よ・・
それが正見である^^
法を見たかったんだが・・
それどこではなかった^^
まぁ・・^^
落ち着いた時にでも観察してみよっと^^
煩悩(悪因)→社会→悪果
八正道(善因)→社会→善果
これは確定してる^^
煩悩を持って社会に関わると周りの人たちに迷惑をかけ・・
悪果しかもたらさない^^
ちみたちの周りにいないかい^^
一人は必ずいるはず^^
確定的に1人はいるんだよな^^
不思議なことに^^
どんな組織でも1人はいる・・
これは必然である^^
三毒
煩悩の根源(人間の諸悪の根源)は、
貪欲(とんよく)
瞋恚(しんに・しんい)
愚痴(ぐち)
の3つとされ、これをあわせて「三毒」(さんどく)と呼ぶ。
三毒の中でも特に痴愚、すなわち物事の正しい道理を知らないこと、
十二因縁の無明が、最も根本的なものである。
「十二因縁の無明が、最も根本的なものである」
すなわち・・
十二縁起
無明→行→識→名色→六処→触→受→愛→取→有→生→老死→
無明が最も根本的な煩悩であると・・^^
煩悩は、我執(自己中心の考え、それにもとづく事物への執着)から生ずる。
この意味で、十二因縁中の「愛」は、ときに煩悩のうちでも根本的なものとされる
(日常語の愛と意味が異なることを注意)。
うん?
無明と愛かー^^
煩悩は我執(自己中心の考え、それにもとづく事物への執着)から生ずる。
う〜〜ん^^
五上分結
修行者を色界・無色界(上分)へと縛り付ける煩悩を、五上分結(ごじょうぶんけつ)と呼ぶ。
1.色貪(しきとん) - 色界に対する欲望・執着
2.無色貪(むしきとん) - 無色界に対する欲望・執着
3.掉挙(じょうこ) - (色界・無色界における)心の浮動
4.慢(まん) - 慢心
5.無明(むみょう) - 根本の無知
この5つを絶つことで、四向四果の最終段階である阿羅漢果へと到達できる
1.欲界(よくかい)
欲望にとらわれたものが住む世界である。
欲界とは、欲のある世界という意味である。
通常のわれわれ人間の住む世界は、この欲界に属する。
普通の意味での地上世界は、欲界に属する。
2.色界(しきかい)
欲望はほとんど超越したが、まだ物質的な形のある世界(色)であり、
形にとらわれたものが住む世界である。
色界とは、欲はほとんどないが、まだ形のある世界という意味である。
色界とは、形あるものの世界のことで、「色」とは形あるものの訳語と
して用いている。この形あるものは、変化し、壊れ、一定の空間を占め
ている世界である。
3.無色界(むしきかい)
欲望も超越し、物質的な形もない世界(無色)であり、
ただ精神作用のみがある世界である。
無色界とは、欲もなくなり、すでに形もない世界という意味である。
無色界とは、形なきものの世界のことで、形はないが精神作用のみが
存在する世界である。
色界とは、形あるものの世界
無色界とは、形なきものの世界のことで、
形はないが精神作用のみが存在する世界
う〜〜ん^^
三毒
「 貪 」むさぼりの心
「 瞋 」怒りの心
「 痴 」おろかでわからずやの心
同じかいの
ストーカー
すごいうるさい すいどう全開開閉連続騒音 いまだやってる
特定されないように 10数回連続を 数回やって 死後階やって また数回・・・
100% 引っ越してきたストーカー ばればれ 郊外にせよ面へら多すぎ
集団ストーカー そこらのネットで扇動された基地外めんへら と 反日 税金泥棒補助金詐欺 DQN擁護の悪徳弁護士・・・
ゴミ屑ゴキブリ人間は死ぬまで既知外
a
卑しいキショイしつこいうざい しね
「お前たちは自分で、どれくらいの数の<煩悩> を自覚することができるか、
よく考えてみよ、自分で自分の<煩悩>をさえ数えることも出来ないで、
とても仏道修行などはおぼつくまい」
鈴木正三(1579〜1655年、曹洞宗の禅僧)
うわっ^^
瞑想後に樽風呂へ入るんだけど・・
ふと気がついたことがある・・^^
この樽風呂は竹口から絶えず勢いよく湯が流れている・・^^
さて・・・^^
何を言いたいのか・・
おわかりいただけたであろうか・・^^
ひと言で言うと・・
「大円鏡智」・・^^
となる^^
外界からの情報が水面に大量に流れてくると・・
泡のように意識が発生し・・
鏡のような水面が波立ち・・
ありのままの姿を映し出さなくなると・・
すなわち・・
鏡であった水面が・・
鏡ではなくなると・・^^
確か・・
唯識三十項でも・・
同じようなこと・・
書いてあったな・・^^
調べてみるか・・^^
「第十五頌」
依止根本識 五識随縁現 或倶或不倶 如濤波依水
(根本識に依止(えじ)す。五識は縁に随って現じ、或るときは倶
(とも)なり。或るときは倶ならず。濤波の水に依るが如し。)
これだな・・^^
「第十五頌」では前五識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識)は
必ず阿頼耶識と一緒に働いている。しかし、前五識は常時働いているの
ではなく、何らかの縁(外部の刺激など)がある時のみ働く。そして両
者の関係は、水(阿頼耶識)と波(前五識)の如くであると説いてい
る。確かに、波は水がなければ発生しないし、波のない静かな水面と
なる時もある。
ふむふむ^^
「述曰。彼の解深密等に説く。広慧は大暴流水に、
若し一浪の生ずる縁が現前することあれば、ただ一浪が転ず。
乃至、若し多浪の生ずる縁が現前すれば、多浪が転ずることあるが如く、
諸識もまた爾なり。暴流の如き阿陀那の故に、乃至、諸識は転ずることを
得等といえり。これは五識を以て濤波に喩う。
本識を暴水に喩う」(『述記』第七本・五十右)
ふむふむ^^
煩悩とは謂く貪と瞋と,癡と慢と疑と悪見とぞ。
随煩悩とは謂く忿と,恨と覆と悩と嫉と慳と,
誑と諂と害と驕と,無慚及び無愧と,
掉挙と昏沈と,不信と併に懈怠と,
放逸と及び失念と,散乱と不正知となり。
不定とは謂く悔と眠と,尋と伺とぞ二に各々二あり。
根本識に依止す。五識は縁に随て現ず。
或ときは倶なり或ときは倶ならず。濤波の水に依るが如し。
煩悩から・・濤波の水に依るが如し。になり・・^^^
基本的に自分が思うのは、10〜30年前頃の教会の 無策な態度が、
今日の教会の問題の原因だと推察する。
その時期は自分が最も教会から離れてた時期なんで、詳細はわからないけど、
今日びの教会信徒の態度は最悪と思う。
無関心、仲間割れ、信徒の間での優劣・階級付けをして差別、徒党を組む、
偏狭な態度…
都内大教会でも、聖堂係は 堂内で気分が悪くなり うずくまっている参加者を
見かけても素通りですよ。
人間としての度量の狭さ、醜さのオンパレードだね。
神父たちの人格は悪くないのだけど、悪しき信徒達は 神父との交流を
セレブ的活動、アクセサリー的なものとしか見なしてない。
もはや、腐りきった信徒を統制・教育できなくなってる教会、
が現状だと思う。
意識は常に現起す。無想天に生まれたると。
及び無心の二定と,睡眠と悶絶をば除く。
是の諸の識は転変して,分別たり所分別たり。
此に由りて彼皆無し,故に一切唯識なり。
一切種識の,是の如く是の如く変ずるに由り。
展転する力を以ての故に,彼彼の分別生ず。
諸の業の習気と,二取の習気と倶なるに由て,
前の異熟既に尽きぬれば,復た余の異熟を生ず。
分別までいくと・・^^
教会か・・・^^
他力か・・^^
他宗教の批判はしない^^
当然である^^
人が集まると・・
煩悩が生じるんだよね^^
これはしょうがないね^^
いやなら行かなければいいだけ^^
どうやら・・・
人は・・
先に目・口・鼻が造られ・・
ずっと後に脳が造られたみたいだ^^
つまり・・
十二縁起
無明→行→識→名色→六処→触→受→愛→取→有→生→老死→
これを示している^^
昨日煩悩について考えたが・・
三毒
煩悩の根源(人間の諸悪の根源)は、
貪欲(とんよく)
瞋恚(しんに・しんい)
愚痴(ぐち)
の3つとされ、これをあわせて「三毒」(さんどく)と呼ぶ。
三毒の中でも特に痴愚、すなわち物事の正しい道理を知らないこと、
十二因縁の無明が、最も根本的なものである。
三毒の中でも特に痴愚、すなわち物事の正しい道理を知らないこと、
十二因縁の無明が、最も根本的なものである。
すなわち・・
脳の起源は無明からはじまると・・
確定した^^
質問者 「何故スピリチュアルを信じても救いがないのですか?」
マハルシ「人間は想念の救いがないと信じてる限り、自分が救わ
れたと信じることができないからです。」
質問者 「ではどうやってその想念を救うのですか?」
マハルシ「それは自分しか自分を救うことはできないと思う自分
を捨て去ることができない自分がいないということに
気が付くことです」
から始まります」
ん?
つまり・・我執を捨てろと・・^^
当然である^^
寝る^^
812 :
因縁果 ◆d........o
2016/10/18(火) 20:07:23.68 ID:PwhsN8CG
外界からの情報が水面に大量に流れてくると・・
泡のように意識が発生し・・
鏡のような水面が波立ち・・
ありのままの姿を映し出さなくなると・・
つまり・・^^
おまえら・・
こんな感じ・・^^
これなんだよな・・^^
結局^^
つまり・・^^
意識は泡であると・・^^
あれ・・^^
あれれれ・・^^
これ見てて気がついたんだけど^^
対象がないな^^
・・ということは・・^^
すべてが心の中で生じることになるのか^^
大円鏡智
あらゆるもののあるがままの真理が、あるがままにそのままくっきりと、
あたかも鏡のように識に映るようになり、そこではもはや何らの分別も生じる
ことなく、無分別の智、不二の智が働くように識が調った境地。
まるで湖面(識)に何ら波風(虚妄分別・煩悩)が立たず、澄み切った鏡の如く
に、その湖面の上に往来し現れる(識される)あらゆる全てのあるがままが、
そのまま(無分別・不二・平等に)くっきりと映し出されているようなイメージ
であると考えます。
ふむふむ^^
樽風呂のイメージ ということで^^
またまた寝る^^
例えば・・
おまいらが3人並ぶとこうなる^^
う〜〜ん^^
凡夫を3人並べてもな〜〜^^
ちがいがわからん^^
竹口は何か?
五識・・感覚─(目・耳・鼻・舌・身)
第一眼識・・視覚
第二耳識・・聴覚
第三鼻識・・臭覚
第四舌識・・味覚
第五身識・・触覚
これだろうな・・・^^
樽は何か・・
う〜〜ん・・
とりあえず・・脳としておくか・・^^
樽の中はどうなっているかというと・・
樽の水面だけ外部からの影響により・・
変化が起きる^^
つまり・・
・・・・・・・顕在意識(10%)・・・・・ 水面
・・・・・・・無意識 (90%)・・・・・・水面下
となる^^
もう一回樽風呂みてみるか・・・^^
泡を意識だと考えると・・^^
常に外部からの刺激により・・
意識が生じ・・波立つと・・・
そうなると・・^^
水面にありのままの姿を映し出せないと・・
物がまともに見れないと・・
こうなる^^
樽全体でみると・・
・・・・・・・顕在意識(10%)・・・・・ 水面
だけがあわただしいとなる^^
つまり・・
あわだだしいことは・・
10%の顕在意識にまかしておけと^^
こうなる^^
問題は水面下の無意識 (90%)だな^^
おまいさんは何してるの?
とこうなる^^
泡というものは時が経つにつれ消え去る^^
意識もそうだ^^
外部からの刺激を受けあわ立ち消え去る・・
そんな意識に何の意味があろうか・・
ということになる^^
つまり・・
禅や仏教はこのような状態になるために修行をしろと・・
つまり・・・
846 :
因縁果 ◆d........o
2016/10/20(木) 20:20:29.89 ID:4g0HCu4v
大円鏡智
あらゆるもののあるがままの真理が、あるがままにそのままくっきりと、
あたかも鏡のように識に映るようになり、そこではもはや何らの分別も生じる
ことなく、無分別の智、不二の智が働くように識が調った境地。
まるで湖面(識)に何ら波風(虚妄分別・煩悩)が立たず、澄み切った鏡の如く
に、その湖面の上に往来し現れる(識される)あらゆる全てのあるがままが、
そのまま(無分別・不二・平等に)くっきりと映し出されているようなイメージ
であると考えます。
これなんだよな^^
お湯がお湯に刺激を受けるとは・・
どういうことか・・
となる^^
第八阿頼耶識・・貯蔵意識→大円鏡智(自然をありのままに映す(見る))
↓ ↑
第七末那識・・・自我意識→平等性智(その自然の中に自分も溶け込む(一体化))
↓
・・・・・・・・無意識(90%)・・・・・・・・・
・・・・・・・顕在意識(10%)・・・・・・・・・
↓
第六意識・・思考意識→妙観察智(その自然の動きを正しく観察すること)
↓
五識・・感覚─(目・耳・鼻・舌・身)→成所作智(その自然の動きに対応して正しく行動すること)
第一眼識・・視覚
第二耳識・・聴覚
第三鼻識・・臭覚
第四舌識・・味覚
第五身識・・触覚
↓
(外界)
第八阿頼耶識・・貯蔵意識→水面下
↓ ↑
第七末那識・・・自我意識→水面
↓
・・・・・・・・無意識(90%)・・・・・・・・・
・・・・・・・顕在意識(10%)・・・・・・・・・
↓
第六意識・・思考意識→泡
↓
五識・・感覚─(目・耳・鼻・舌・身)→竹口
第一眼識・・視覚
第二耳識・・聴覚
第三鼻識・・臭覚
第四舌識・・味覚
第五身識・・触覚
↓
(外界)
う〜〜ん^^
850 :
因縁果 ◆d........o
2016/10/21(金) 20:40:29.60 ID:k/1Y/PjT
例えば・・
おまいらが3人並ぶとこうなる^^
これらには私というものは存在しない^^
あるのは・・^^
第八阿頼耶識・・貯蔵意識→水面
↓ ↑
第七末那識・・・自我意識→波
↓
・・・・・・・・無意識(90%)・・・・・・・・・
・・・・・・・顕在意識(10%)・・・・・・・・・
↓
第六意識・・思考意識→泡
↓
五識・・感覚─(目・耳・鼻・舌・身)→竹口
第一眼識・・視覚
第二耳識・・聴覚
第三鼻識・・臭覚
第四舌識・・味覚
第五身識・・触覚
↓
(外界)
こうかな・・^^
第八阿頼耶識・・貯蔵意識→樽の水
↓ ↑
第七末那識・・・自我意識→水面
↓
・・・・・・・・無意識(90%)・・・・・・・・・
・・・・・・・顕在意識(10%)・・・・・・・・・
↓
第六意識・・思考意識→泡
↓
五識・・感覚─(目・耳・鼻・舌・身)→竹口
第一眼識・・視覚
第二耳識・・聴覚
第三鼻識・・臭覚
第四舌識・・味覚
第五身識・・触覚
↓
(外界)
こうかな^^
第八阿頼耶識・・貯蔵意識→樽の水
↓ ↑
第七末那識・・・自我意識→水面(波)
↓
・・・・・・・・無意識(90%)・・・・・・・・・
・・・・・・・顕在意識(10%)・・・・・・・・・
↓
第六意識・・思考意識→泡
↓
五識・・感覚─(目・耳・鼻・舌・身)→竹口
第一眼識・・視覚
第二耳識・・聴覚
第三鼻識・・臭覚
第四舌識・・味覚
第五身識・・触覚
↓
(外界)
こうだ^^
問題は竹口から流れてくるお湯なんだよな^^
これはなんだ^^
あらゆるもののあるがままの真理が、あるがままにそのままくっきりと、
あたかも鏡のように識に映るようになり、そこではもはや何らの分別も生じる
ことなく、無分別の智、不二の智が働くように識が調った境地。
う〜〜ん^^
その湖面の上に往来し現れる(識される)あらゆる全てのあるがままが、
そのまま(無分別・不二・平等に)くっきりと映し出されている・・
う〜〜ん^^
まるで湖面(識)に何ら波風(虚妄分別・煩悩)が立たず、澄み切った鏡の如く
に、その湖面の上に往来し現れる(識される)あらゆる全てのあるがままが、
そのまま(無分別・不二・平等に)くっきりと映し出されている
六根清浄
六根は人間の認識の根幹である。それが我欲などの執着にまみれていては、
正しい道(八正道)を往くことはかなわない。
そのため執着を断ち、心を清らかな状態にすることを言う
六根清浄(ろっこんしょうじょう)とは、人間に具わった六根を清らかにすること。
六根とは、五感と、それに加え第六感とも言える意識の根幹である
眼根(視覚)
耳根(聴覚)
鼻根(嗅覚)
舌根(味覚)
身根(触覚)
意根(意識)
のことである。
「対象自体」(対象そのもの)と「表象」(心に現れた像)を区別する二元論・・
「識」は常に転ずること暴流の如し・・
無自性で空である・・^^
さてっと・・^^
樽風呂で瞑想してくるかなっと^^
瞑想とは・・^^
澄み切った鏡の如くに、その湖面の上に往来し現れる(識される)
あらゆる全てのあるがままが、そのまま(無分別・不二・平等に)
くっきりと映し出されている状態になることである^^
けど・・
あそこ樽風呂がいくつも並んでいるからな^^
うわぁあああああああああああああああああああああああああ
おまいらが並んでいると・・^^
こうなる^^
案の定・・^^
おまいらいた^^
なにげなく座ってた^^
当然・・^^
水面は虚妄分別・煩悩で波たち・・^^
ものを正確には映していない^^
これではありのままの姿を見ることができない・・^^
これが自然のあり方なのかと・・^^
竹口から流れるお湯は何か?
と言う問題だが・・^^
ここで・・^^
テラヘルツ波か・・^^
・・となる^^
テラヘルツ波は自然界のすべての物質や生命が自分自身で放射している電磁波です。
動物、植物、鉱物等の自然界のすべての物質は原子や分子で構成されて
います。それらの分子や原子は、自然界や宇宙のエネルギーを吸収すること
によって振動しています。
この振動がテラヘルツ波を発生しているのです。自然界のすべての物質が放射
しているテラヘルツ波のエネルギーは微弱ですが、すべての物質の性質を決定し
、宇宙のすべての生命活動をコントロールしていますので、生命光線といわれています。
ふむふむ^^
テラヘルツ波とは、光と電波の両方の性質をもった電磁波です。
ふむふむ^^
ん?
仏教も物理学も量子学も似たようなもの・・^^
どれが掛けても成り立たない^^
とくに量子学あ仏教の正しさを証明してくれる^^
ありがたい^^
ん?
「量子学あ」・・ときたか・・^^
思考すると迷いが生じる^^
仏教も物理学も似た者か。
それは仏教を理解していないことになる。
仏教は対象の問題ではない。
それは、主体の問題、心の問題であるよ。
美しき大宇宙 統一理論への道 ひも理論 1-3
ダウンロード&関連動画>>


@YouTube;list=PLL05mF3xc6OT9GDGeghceJQncC2A6bPsF
これでもみるかなっと^^
地球大進化〜46億年 第2集 地球全球凍結
ダウンロード&関連動画>>



@YouTube
;index=9&list=PLL05mF3xc6OT9GDGeghceJQncC2A6bPsF
つぎこれ^^ 「三性説」とは・・^^
この世における事象・存在のあり方^^
@「遍計所執性(へんげしょしゅうしょう)」
A「依他起性(えたきしょう)」
B「円成実性(えんじょうじっしょう)」
う〜〜ん^^
@「遍計所執性」
認識する側(能取・主観・主体)
↓
認識の対象の側(所取・客観・客体)
↓
思惟・思考による言説概念化
↓
虚妄分別
↓
実在・執着
A「依他起性」
認識する側(能取・主観・主体)
↓↑縁起(仮構)
認識の対象の側(所取・客観・客体)
↓
識が働く
↓
縁起関係によってのみ、あらゆるものは仮に成り立つ
B「円成実性」
認識する側(能取・主観・主体)
↓↑縁起的な分別(虚妄分別したものへの執着)の否定
認識の対象の側(所取・客観・客体)
↓
無分別(諸法実相・真如)
結果・・
空性「無分別の智・不二の智」
↓
分別・戯論・煩悩が止滅
つまり・・・^^
一瞬にして・・
@「遍計所執性」
A「依他起性」
B「円成実性」
から・・
「空」であることを見抜けと・・^^
しかし・・^^
「思惟・思考による言説概念化」
いわゆる先入観ですか・・^^
これが弊害になっているからな・・・^^
ついでに・・
「おまいらが悪い・・」
とこうなる^^
もっと言えば・・
「またおまいらか・・」
とこうなる^^
うわっ^^
この世の「三悪説」になったぞ・・^^
とこうなる^^
この儀式はですね〜〜^^
@体を清め・・
A煩悩を滅し・・
B頭・体を浄化し・・
最終的に瞑想に入る^^
う〜〜ん^^
今日の水風呂は深い瞑想に入れそうだ^^
六根清浄
六根は人間の認識の根幹である。それが我欲などの執着にまみれていては、
正しい道(八正道)を往くことはかなわない。
そのため執着を断ち、心を清らかな状態にすることを言う
六根清浄(ろっこんしょうじょう)とは、人間に具わった六根を清らかにすること。
六根とは、五感と、それに加え第六感とも言える意識の根幹である
眼根(視覚)
耳根(聴覚)
鼻根(嗅覚)
舌根(味覚)
身根(触覚)
意根(意識)
のことである。
最近水風呂に入っていると・・
丸坊主の人を何人か見かける・・^^
気のせいだと思っていたが・・
毎週のように見かける^^
まだ年もそこそこなので・・
頭に毛がなく剃っている・・
う〜〜〜ん^^
そんな人は町ではほとんど見かけない・・^^
下手するとこのスレ読んだに違いない^^
うわっ^^
近いうちにサウナ・水風呂が・・
お坊さんたちの修行の場になる感がする^^
二取随眠
2つの執着を生ずる種子。煩悩の種子。
二取の「取」
「所取」の取(対象への執着)と「能取」の取(主観への執着)。
両者とも,その熏習した種子(習気)を随眠という。
これらを止滅(伏滅)しないかぎり,主観と客観に二分化する。
ふむふむ^^
十八 一切種識の、是の如く是の如く変ずるに由り。展転する力を以ての故に、彼彼の分別生ず。
十九 諸の業の習気と、二取の習気と倶なるに由りて、前の異熟既に尽きぬれば、復た余の異熟を生ず。
二十 彼彼の遍計に由りて、種種の物を遍計す。此の遍計所執の自性は所有無し。
二十一 依他起の自性の分別は縁に生ぜらる。円成実は彼がうえに、常に前のを遠離せる性なり。
二十二 故に此れは依他と、異にも非ず不異にも非ず。無常等の性の如し、此を見ずして彼をみるものに非ず。
二十三 即ち此の三性に依りて、彼の三無性を立つ。故に仏、密意をもって、一切の法は性無しと説きたまふ。
「意識こそは虚妄分別するものである。その性質が分別を具えたものだからである。それは
意識自らの言葉に依る熏習を種子として生じ、またあらゆる表象の言葉に由る熏習を種子
として生じている。それ故に、意識は無限に種々の形相のある虚妄を分別するが故に遍計
と名づく。」
無着(摂大乗論)
「(意識が遍計することは)名・概念を対象として虚妄分別するのであり、概念を依他起性の
上に相(形相・性質)として付託し、相を見て執着し、種々に思考を廻らして言葉として言う、
見る、聞く等の四種の言説を為して、ものが存在しないのに存在と誤認するのである。」
無着(摂大乗論)
無着「摂大乗論」
表象されて名を与えられるものが、そのまま外界に実在するのではない
「1、同一の物に対して様々な異なった認識が生じる。例えば人が見れば清冽な水が流れ、
手を洗い、口をすすぎ、あるいは沐浴するのに適した川であっても、地獄の罪人はそれを火
の川として表象する。・・・・・同じ川を餓鬼は汚物に満ちたものとして表象する。このように同
一の物が見る者の境遇の差別に応じて様々に表象されるということは、表象が外界の実在
に対応することなく、主観的に虚妄分別されたものであることを示すであろう。
2、対象が存在しない場合にも認識が生じることを、我々は現に経験する。例えば、過去に
見たものを今想起する際、この想起の認識は対象が存在しないのに生じているのである。
また瑜伽を修習すれば未だ存在していない未来の物が見えるようになる。・・・・・これらの例
は、認識が必ずしも実在する対象を表象するのではないことを示している。
3、認識は必ず対象と対応関係にあるとすれば、人は倒錯の無い智を得ることを目的として
修行に努める必要は無いことになるであろう。最高の真実を了る倒錯の無い智を得たときに
、人は仏の階位に到達する。ところが認識は必ず対象に対応して生じるものであるならば、
対象があればそれに対応して倒錯の無い智が生ずることになるが故に、宗教的修行は全く
無意味であることになる。
4、瑜伽を行じて自在力を得た菩薩は、自らの意思に従って対象を描出することが出来る。
瑜伽を修得した者は、ある対象を観察しようとすれば、その対象が思いのままに心の中に
映し出されてくる。ただし、このようにして心の中に描出された影像は、外界にその対象物が
対応して実在するわけではない。瑜伽を行じて修習の階梯を進めば、見道の階位に至って
対象の表象を離れた純粋な超世間的な智を得ることが出来る。」
無着ちゃんは「執着がない」ということで・・
この名にしたんだろうね^^
「表象されて名を与えられるものが、そのまま外界に実在するのではない(キリッ 」
無着ちゃんより・・^^
B「円成実性」
認識する側(能取・主観・主体)
↓↑縁起的な分別(虚妄分別したものへの執着)の否定
認識の対象の側(所取・客観・客体)
↓
無分別(諸法実相・真如)
これなんだよな^^
ひと言でいえば・・^^
「無分別智」^^
とこうなる^^
う〜〜ん^^
仏教もよくネタが尽きないな・・^^
とこうなる^^
この調子でいくと・・^^
おいらはどうなってしまうんだ^^
とこうなる^^
その答えは・・当然・・
「知らんがな・・」
となる^^
その結果として・・
「八正道を実践して基礎固めをするかな・・^^」
になる^^
客体とは感覚を通して知ることができるものであり、いわゆる物である。
主体とは感覚を受け取るものであり、意識である。
哲学
客観的実在という用語を、意識から独立して存在している事物を指すために用いている。
これに対して、主観的実在とは、広い意味での意識に依存する事物を意味する。
知覚されている色や音は、それらが意識作用に服している限りにおいて実在する。
この他にも、とりわけ幸福や悲嘆などの感情は主観的実在であると考えられる。
仏教(中観派)
主体と客体というような二項対立的な見方を謬見として徹底的に斥ける。
この延長線上で実践したのが中国唐代の禅であり、彼らの目標は「主と客」と
いう意識(念)の起きる以前の意識の探求・・
「対象自体」(対象そのもの)と「表象」(心に現れた像)を区別する二元論かー^^
カント
人間は特定の形式(時間と空間)に沿ってしか現象を認識できず、
ありのままの事物(物自体)を知ることは不可能である
ということは・・
「五蘊は皆な空である」となり^^
すると・・
主観と客観に執着しない「空の心」に達することになると^^
「是故空中無色 無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香
味触法 無眼界乃至無意識界」
(この故に、空の中には色もなく、受想行識も無く、
眼耳鼻舌身意も無く、無色声香味触法も無く、眼界乃至意識界も無い)
となる^^
989.
現象を否定したらば何が残るのか、という問題である。
その答えが問題となる。
十五頌 五識は、根本識から、縁にしたがって、一緒に、あるいはそうではなく
生起する。ちょうど、水における諸々の波のようである。
十六頌 意識は、無想果と、二つの禅定と、睡眠および気絶という無意識の状態を
除いて、常に生起する。
十七頌 この識の転変は分別である。それによって分別されたものは存在しない。
それ故、この一切は唯だ識のみのものである。
二十頌 どんな分別によってどんな事〔物〕が分別されたとしても、
それは遍計所執性である。それは存在しない。
@「遍計所執性」
認識する側(能取・主観・主体)
↓
認識の対象の側(所取・客観・客体)
↓
思惟・思考による言説概念化
↓
虚妄分別
↓
実在・執着
二十六頌 唯だ識のみであることに、識が住しないかぎり、その間は二取の
随眠は止滅しない。
二十八頌 識が、所縁(対象)を得ることがまさに無くなったとき、
唯だ識のみ、ということに住したのである。〔というのも〕
所取がないとき、それを取ることがないからである。
二十九頌 これは無心であり、無所得である。それはまた、出世間の智である。
転依である。二種の粗重を断じたが故に。
三十頌 それこそが無漏界であり、不思議であり、善であり、永遠である。
これは楽であり、解脱身である。これが大牟尼の法といわれるものである。
唯だ識のみである^^
すんばらしい^^
・・ということで^^
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