1940年、ジーン将軍率いる義勇軍はピレネー山脈の南の麓でスペイン国民党と戦っていた。
FLAKと火砲で武装したフランスの義勇兵は、固い装甲に包まれて比較的軽装の国民党とイタリア軍とドイツ軍の枢軸軍と戦闘した。
ジーン将軍は、元より攻勢的な戦略を提言してきた将軍であったが彼の上司であるアルフォンス・ジョージ元帥は、攻勢に出ることを固く禁じ、
フランス陸軍の特徴ともいえる防衛重視の装備を活かしてあくまでも塹壕の中から前線を守れとの指示を守ってイベリア半島の北東部に僅かに残された共和党の残地を守るために戦った。
スペイン内戦は英仏独のそれぞれの陣営の小手調べとも言えるような前哨戦だった。
元よりスペイン内戦そのものは第二次世界大戦よりも前に始まっていたが、優勢に内戦を進める国民党が枢軸に加盟し、
劣勢な立場にあった共和党がイギリスの誘いで連合入りしたことによってこのヨーロッパ大陸から南東に突き出た半島は単なる内戦の舞台から、枢軸国陣営と連合国陣営がお互いの意地をかけてそれぞれの国から派兵した陸軍同士がぶつかり合う戦場へと様変わりした。
序盤ではただ押し込まれるだけの共和党勢力であったが、ジブラルタルから英軍が北上し、イベリア半島南部に二つ目の前線を築くと息を吹して反撃の姿勢を示しさえした。
しかしイタリア軍を中心に地中海からの枢軸国の増援部隊が上陸し始めると徐々にだが、やはり前線を押し込まれて首都マドリードを中心にカタルーニャ地方の一角に包囲されるようにして追い込まれることとなった。
この時まだ地中海の制海権は枢軸側にあったため大量のイタリア軍を中心とする陸軍が、やすやすとイベリア半島に渡ったのである。
イベリア半島には追い詰められた共和党が依拠する今にも殲滅させられかけている東方のカタルーニャ地方の一角のカタルーニャ前線と、派兵されたイギリス軍を中心として北上するジブラルタル前線の二つがあった。
ジブラルタル前線はイギリス軍の威信をかけた作戦の甲斐あって前進を続けていたが、グアディアナ川の付近で足取りは重くなり、前線は膠着し始めた。
一方でカタルーニャ地方の前線はかねてより優勢の国民党に加えて枢軸軍も加わって着々と後退、収縮し続けていた。
ジブラルタル前線の北上が止まった今や、カタルーニャ前線とそこに集まる共和党の主力部隊が壊滅することは時間の問題だと思われた。
フランス軍の装甲化率は高く、ジーン将軍率いる義勇軍は歩兵師団によって構成された歩兵部隊であったにも関わらずFLAK大隊などの兵器によって枢軸側の貫徹力を上回る装甲を発揮することがたびたびあった。
第二次世界大戦の戦場ではしばしばそもそも自軍の銃器や火砲などの攻撃手段がそもそも敵側の装甲に歯が立たないということがしばしばあった。
通常は戦車を中心に構成された戦車部隊などに対して起こる現象だったが、スペイン内戦においてはフランス軍は歩兵部隊ですら装甲化を進めていたがために歩兵部隊に対して枢軸の小型戦車部隊や歩兵部隊が非貫徹状態になることが多くあった。
これは民主的な自由主義国家のフランスにおいて徴兵可能な人数が限定的であったため量より質を優先する軍備が意識されたからである。
そのためフランスの標準的な歩兵師団ですら各師団ごとにFLAKが配備されまた戦場病院や砲兵などあらゆる副次的な専門性の高い部隊が随行した。
このFLAKがスペイン内戦では大活躍した。
この時期の枢軸と連合の争いは海軍は連合の方が優位だが、陸軍と空軍は枢軸優勢といった感じであり、地上戦闘においては常に枢軸側の近接航空支援が行われた状態での戦いであった。
そのため対空兵器であるFLAKはフランス義勇軍において心強い味方であり、空戦においてはほとんど防戦一方であったスペインにおける戦線においてほとんど唯一枢軸の航空機が損害を発生させる原因がフランス義勇軍のFLAK大隊による高射砲撃だった。
そのため航空機はフランス義勇軍のいる地域を避けて飛行することが多かった。
また対地戦闘においてもFLAKは動く盾として歩兵達を敵の銃撃から守るために活躍した。
後方から砲兵が砲撃し、歩兵は塹壕の中から一斉に勢いに任せて押し寄せる枢軸側の攻撃部隊に制圧射撃を加えた。
FLAK大隊はこの時、塹壕の外で押し寄せる敵歩兵部隊に向かって轢き殺す勢いで前進しながら高射砲や機砲を水平に向けて砲撃するという戦術をよく取ることが多かった。
このFLAKを奥の手として組み込んだフランスの40年前後の一般的な歩兵部隊の強さはスペイン内戦で嫌というほどまでに証明され、当時の記録の中でもフランス義勇軍の強さはたびたび強調された。
フランス義勇軍はたったの5師団のみであり、二つの戦線の中の更に一角を占める軍隊に過ぎなかったが、南方のジブラルタル前線にまで彼らの噂は伝わっていた。
フランス義勇軍と遭遇したときはこう対処しろだとか、対戦車兵器を持たない師団は戦闘を回避しろだとかそういったかの義勇軍に対する評判は軍隊の規模に比して圧倒的に広まっていた。
実際この盛況な部隊は万歳突撃を繰り返す枢軸側の歩兵部隊を何度も追い返しそのたびに甚大な死傷者を敵軍に対して与えていた。
比較的質が高いと思われていたドイツ軍でさえフランスの義勇軍には手を焼いた。
堅調に包囲網を狭めていったカタルーニャ前線はフランス義勇軍が参加した時ごろからほとんど前進できなくなり、それどころか被害が重なるばかりで共和党を降伏して壊滅させるための最後の一歩を踏み出せずにいた。
業を煮やしたドイツの司令部はなんとかこの僅かに残ったカタルーニャ前線を攻略できないかと考えてダメ元であえて海上から上陸部隊を送り込んで背後から攻め落とせないかと考えた。
これは軍事学的に全く理論を踏み外した作戦だったが、カタルーニャ前線を押し上げられないのはカタルーニャの地形やあるいは何か枢軸軍の団結や組織に問題があると考えて、
純粋にドイツ軍だけで成る上陸部隊をこれまでの敗戦の戦場とは反対側の海路からカタルーニャに向けて送った。
正直言ってドイツ軍の司令部はカタルーニャを最後に押しつぶせないことに疑心暗鬼だったのだ。枢軸側の団結力やあるいは内部の指揮や人事やあるいは陰謀などに問題があると考えていたのだ。
上陸作戦には5師団が参加して地中海から共和党の首都であるバルセロナを直接上陸地点に選んだ。
この上陸作戦の結果はスペイン内戦どころか第二次世界大戦の中でも指折りなほどに散々な結果に終わった。
上陸部隊は壊滅的な打撃を受け、ドイツの司令部は作戦の失敗を認めた。カタルーニャ前線における劣勢はイタリア軍などを中心とした枢軸側の怠慢にあるわけではないことを再認識し、機甲化されたフランス軍に対して改めて畏怖の念を感じることとなったのだ。
ちなみにこのカタルーニャの攻防とバルセロナ上陸作戦は戦後何度も映画化されている。
バルセロナ上陸作戦ではドイツ軍の歩兵5師団が上陸し、多くの航空部隊が近接航空支援のため協力したが結果は散々であった。
バルセロナ側にはFLAK大隊もいたにも関わらず、航空部隊を集中させ上陸部隊は対戦車兵器をほとんど装備していなかった。
カタルーニャ前線の枢軸軍の中ではフランスの義勇軍に攻撃機を向けるのは悪手であり、また陸上戦闘においてフランス軍と戦うときは必ず対戦車兵器を配備した部隊があたるべしという教訓が得られていたがそれらに真っ向から矛盾する作戦だったと言える。