西日本って東日本みたいに、他人の顔色を窺わないからこそ優秀なんだよな。
性格も世界的標準。
東日本人は誰かがあーしろとかやめろと言えば、何の疑問も無に従う。
東日本の人って、それは間違ってることは間違ってる、あなたがおかしいとか
相手に向かって言えない。
会議でも異論を発言できない。常に、上司の顔色窺って、社畜になるのみ。
関東って社畜養成社会には実に適してるな。
すべてが官僚統制下にあるという感じ。
JRにしても東日本は詰め込み画一型だしな。
西日本と違って、他人と触れないロングシートがもてはやされるのもあれも東日本の特徴だな。
関東ではまずアカの他人と道端で話すことはまずない。
東日本人ってコミュ力障害がありそう。
西日本だとクロスシートで会えば、何気なく他人同士でも会話が始まる。
でも関東でこれやると、不審者扱いされる冷たい目線....
これじゃあ、全くノーベル賞が取れるわけがない。
東日本人っていつも、周りからどう見られてるか、社会の中でどういう位置づけなのかばかり気にしてる。
東日本は、出る杭は叩かれる地域性だからじゃないの? 目立ってたり人と違ったことは許されない。
積極的な性格だったり自己アピールなんかしようものなら図々しいとか言われる。 今だに村八分とかあるし、
西日本は逆に人と違った部分も個性として認められる。積極的な性格の方が寧ろ褒められる。
だからノーベル賞に限らず優秀な文化人とかプロスポーツ選手も多いじゃん。
俺的には東日本人は百姓・役人気質、西日本人は学者・起業家気質かな。
東国は、権力が朝廷ではなく「自分の親分」なんだよ。だから勢力が大規模になるし、隷属的で忠誠心も強い。
いっぽう西日本は自治組織が発達していった。
早くから一揆が起こり、戦国期に各地で発生した大大名も、関西周辺では発生しなかった。
それぞれの勢力の拮抗点だったこともあるが、何より小規模な国人や地侍、寺社らが一揆を組みまくっていたのがでかい。
桃山期まで生き残った雑賀衆や根来衆の他、播磨の国一揆や山城の国一揆、十津川などが有名。
その頃の近畿の農民は武装し、惣を組織し、集落を形成して高度な自治を行っていた。
これは近畿で発生し、ほとんど西日本でしか見られなかった。
また、商人は堺や坂本などに自治都市を形成し、浪人を雇い、銃などで武装していた。
自立心に欠け、儒教朱子学精神で主君に滅私奉公することを生き甲斐としていた関東人とは大きく異なっていたのだ・・・
そして、その関東における主君も、多くが西日本人の末裔であった。
東日本人は西日本人に比べ、忍耐強く、保守的で権力には極めて従順だった。
西日本人のほうが、権力に対して反抗的かつ自立的で新しいことはいつも西からやってきた。
まあ、関東や東北の支配層なんてのも、元を辿れば畿内の皇族や貴族に由来するからね。
鎌倉幕府だって、土地が関東なだけで、源氏も北条も三浦も和田も梶原も血筋はもろに源平、すなわち畿内の皇族がルーツ。
歴史に詳しい人なら論ずるまでもない常識だけどね・・・
日本の歴史とは、ほとんどが近畿の支配層の勢力拡大と、近畿人同士の勢力争いの歴史でしかない。
日本のノーベル賞受賞者(自然科学)
東日本6人
西日本18人
北海道→1人
東北→0人
関東→3人
中部(山梨静岡)→2人
中部(愛知岐阜)→4人
北陸→2人
近畿→7人
中国→1人
四国→1人
九州→3人
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日本がモンゴル帝国に攻撃されたのは関東武士が馬鹿で野蛮だったせい
≪われわれが習ってきた歴史は、史実のごく一部でしかない。東京大学史料編纂へんさん所の本郷和人教授は、「もしも鎌倉幕府に教養があったら、日本はモンゴルに襲われなかっただろう。モンゴルにしてみれば、わざわざコストパフォーマンスのよくない日本攻めなどやる意味がない」という――。≫
■腕っぷしは強いが、知力や教養は乏しかった
これは日本史ではなく、東洋史のほうの研究者の知見なのですが、いわゆる「元寇」の前段階、モンゴルから送られてきた国書は、別に服属を求めてきたわけではなく、驚くほど丁寧なものだったそうです。
だから、もしももう少し鎌倉の武士たちに教養があって、モンゴルの意図を理解することができていたら。少なくとも挨拶の使者くらいは送ったのではないかと思います。
当時の鎌倉の武士は腕っぷしは強い。しかし知力や教養は乏しかった。
たとえば極楽寺重時(1198―1261)という、北条泰時(1183―1242)の弟にあたる武士がいました。泰時は御成敗式目を定めた執権。重時はその兄に非常に忠実な人で、泰時に頼まれて京都で六波羅探題を務め、泰時没後は、兄の孫の北条時頼(1227―1263)を補佐するために京都から帰ってきた。
重時は時頼をしっかり補佐し、やがて重時の娘と時頼が結婚して時宗が生まれた。後にモンゴルと戦うことになる北条時宗(1251―1284)です。時宗からすると、重時は祖父ということになります。
彼は、兄の泰時とともに、政治行為の重要性を知らしめ、鎌倉幕府に「統治」という概念を植えつけました。この極楽寺重時が鎌倉時代のキーパーソンだったと私は考えています。
その重時が、子どもたちにあてて書いた遺訓が残っています。
そのなかの1つには「どんなに腹が立っても家来を殺してはいけない」とある。どんな教えだ。重時ほど優秀な人にして、このレベル……。しかも言われている子どもたちが、箸にも棒にもかからない出来だったのであれば、まだ仕方がないですが、その子どもとは、北条時頼から認められ、初めて北条本家以外から執権になった北条長時(1230―1264)なのです。
重時ですら、やがて執権となる息子に「腹が立ったからといって家来を殺すな」と教えなければならないレベル。それが当時の武士の教養の現実でした。