◎正当な理由による書き込みの削除について:      生島英之とみられる方へ:

邪馬台国畿内説 Part39 ->画像>39枚


動画、画像抽出 || この掲示板へ 類似スレ 掲示板一覧 人気スレ 動画人気順

このスレへの固定リンク: http://5chb.net/r/history/1541814138/
ヒント:5chスレのurlに http://xxxx.5chb.net/xxxx のようにbを入れるだけでここでスレ保存、閲覧できます。

1◆UiepmfCeDJqf 2018/11/10(土) 10:42:18.26
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
http://2chb.net/r/history/1541619466/

◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。

2◆UiepmfCeDJqf 2018/11/10(土) 10:45:30.69
邪馬台国畿内説 Part398です

闕字がありました
読み替えてください

3◆UiepmfCeDJqf 2018/11/10(土) 10:46:12.93
◆1(女王所都)
 奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)

 現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
 居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。

 この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。

 箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある 
 乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。

 この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。

4◆UiepmfCeDJqf 2018/11/10(土) 10:46:39.71
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
 前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
 また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。

 血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
 つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。

 纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
 築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。

 この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。

 その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。

5◆UiepmfCeDJqf 2018/11/10(土) 10:47:06.43
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
 その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
 このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
 箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
 換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ、そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである

 また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。

 乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
 女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。

 紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。

6◆UiepmfCeDJqf 2018/11/10(土) 10:47:37.93
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
 纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
 同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。

 威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
 しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
 代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。

 共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
 それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。

 定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
 もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
 後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
 この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。

 初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。

7◆UiepmfCeDJqf 2018/11/10(土) 10:48:06.42
◆5(倭国の形成と気候変動)
 1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
 2に、河内と吉備の交流の深さ
 この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
 共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
 これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。

 2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
 この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
 寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
 弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。

8◆UiepmfCeDJqf 2018/11/10(土) 10:48:56.94
◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
 これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
 これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
 先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。

 析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
 後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
 やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
 分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。

 方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
 二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
 この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。

9◆UiepmfCeDJqf 2018/11/10(土) 10:49:16.95
◆6−2
 高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。

 巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の

10◆UiepmfCeDJqf 2018/11/10(土) 10:49:38.64
前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。

11◆UiepmfCeDJqf 2018/11/10(土) 10:50:00.74
◆6−3
 ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
 一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。

 この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
 このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。

12◆UiepmfCeDJqf 2018/11/10(土) 10:50:28.81
◆7−1(北部九州における人の移動と政治的動向)
 3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
 北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
 つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。

 庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。

 上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
 逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
 外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。

 1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
 2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
 これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。

13◆UiepmfCeDJqf 2018/11/10(土) 10:50:53.64
◆7−2
 北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。

 その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
 糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。

 この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。

14◆UiepmfCeDJqf 2018/11/10(土) 10:51:27.50
◆8(結語)
 日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
 原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
 原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。

 その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
 前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。

 博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。

 遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
 この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
 この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。

 土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
 そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。

15◆UiepmfCeDJqf 2018/11/10(土) 10:51:47.12
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
 寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)
http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)
http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf


◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収

●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」

●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」

16◆UiepmfCeDJqf 2018/11/10(土) 10:52:12.28
◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)

○弥生時代後期
  1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
  2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃 
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
  3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
  4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
  4世紀第4四半期〜5世紀中頃
   (古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)

※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
 庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
 同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
 庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
 IA期ー 大和庄内0〜1    ー 河内庄内I〜II
 IB期ー 大和庄内2〜3    ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山                  
  IIA期ー 布留0古相      ー 河内庄内III   ●箸墓、権現山51号
  IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V  ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
                           浦間茶臼山、西求女塚
  IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
                           メスリ山、行灯山、祇園山

17◆UiepmfCeDJqf 2018/11/10(土) 10:52:38.11
◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!

A:九州は倭国の一部なので問題ない。
 郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
 逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。壹岐一国では観察されたが首都よく観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。

 畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
 水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。

 北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
 また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
 倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。

18◆UiepmfCeDJqf 2018/11/10(土) 10:53:00.72
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
  魏使は九州を出ていないではないか!

A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。
 逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)
  「泝流」が6回
  「泝(+固有名詞川名)が7回
 倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
 倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の10日や20日に及ぶ「水行」をその省略形であると見做すことには合理性がある。

19◆UiepmfCeDJqf 2018/11/10(土) 10:53:29.37
◆FAQ 3
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!

A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
 「當在」という語法からは、筆者が里程等から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。

 以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りが含まれていること、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌ほどの南方に過ぎず、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
 三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
 筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。

 実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
 このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,57も参照)

※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
 遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
 予章郡:雒陽南二千七百里  南海郡:雒陽南七千一百里
 蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
 (雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)

 倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、会稽山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
 また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。

20◆UiepmfCeDJqf 2018/11/10(土) 10:53:55.59
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!

A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
 纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
 また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。

 畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
 また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。


◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!

A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
 佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)

 小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
 対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
 ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。

 むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
 このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。


◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?

A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。

21◆UiepmfCeDJqf 2018/11/10(土) 10:54:19.99
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
  纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?

A:そのような事実はなく、当然交流があった。
 畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
 このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)


◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?

A:読み替えない。
 行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
 これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
 伊豆七島などは唐古鍵の時代から畿内と交流圏である。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。


◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
  女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
  女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?

A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。
有力な候補である。
 中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
 倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が強調された可能性もある。
 いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
 王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。

22◆UiepmfCeDJqf 2018/11/10(土) 10:54:48.20
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
  年代が判るという考古学者はおかしいではないか!

A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
 陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。

 封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
 しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。


◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
  それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?

A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
 後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
 使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。

23日本@名無史さん2018/11/10(土) 10:54:54.84
倭奴国(博多)の領域が広がり、首都が南遷→吉野ヶ里へ

遷都の理由
博多は外国勢力の影響を受けやすく不安定なため

帥升の大量生口朝貢
=征服した吉野ヶ里の原住民捕虜を奴隷として漢に贈る


倭国大乱→南遷倭奴国の反対勢力が決起
反乱の神輿が卑弥呼
邪馬台国=福岡の朝倉〜日田
邪馬台国連合=北部九州〜瀬戸内海〜奈良(遠絶のため不可得詳の国々)


邪馬台国の東遷
狗奴国からの圧力と戦乱を避けるため、王都を奈良に移す

24日本@名無史さん2018/11/10(土) 10:55:15.67
前方後円墳と前方後方墳の分布をよく確認した方がいいよ

前方後方墳は近畿以東を中心に分布するが
吉野ヶ里遺跡にあるのは前方後方墳

「狗奴国」の範囲がわかるじゃん

つまり狗奴国は「卑弥呼共立に反対した国」であって

各国の連合勢力であった

その中心は佐賀であって、邪馬台国勢力(前方後円墳勢力、北部九州〜瀬戸内海〜奈良)を避けた、奈良以東に広がっていた

そして卑弥呼とヒミココはもとより和せず、なのだから、
仲の悪い近隣国なわけじゃん

狗奴国=佐賀、邪馬台国=福岡ってわかるよね

25◆UiepmfCeDJqf 2018/11/10(土) 10:55:22.45
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
  畿内説は倭人伝と合わないのではないか?

A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
 福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
 弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
 以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。

 当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。

 3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。

 倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
 倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
 当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。

 なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
 加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
 の指摘は今日も有効である。

26◆UiepmfCeDJqf 2018/11/10(土) 10:55:44.90
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
  古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!

A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。

 現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
 古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。

 現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響と思われはするものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状であり、古代中国人に木槨と認識されるとは考え難い。
 畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
 逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。


◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?

A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。

 伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
 糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
 このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。

27日本@名無史さん2018/11/10(土) 10:55:49.97
倭国王帥升

別の書によると倭面土国の帥升

面土国=メタ国=佐賀の米多郷=吉野ヶ里だろ

帥升の時代と吉野ヶ里の最盛期も一致する

28◆UiepmfCeDJqf 2018/11/10(土) 10:56:16.74
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!

A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
 宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。

 一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
 遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
 鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。

 纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
 と結論されている。

 弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。


◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
  九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!

A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。

29◆UiepmfCeDJqf 2018/11/10(土) 10:56:42.31
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!

A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
 また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
 よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
 このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。


◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!

A:いかなる史料上にも、そのような測定実施の記録がない。
 万が一にも、そのような測定があったなら福岡県が魏の許都の真東近くに所在することが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
 したがって測定は存在しない。

 また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。

30◆UiepmfCeDJqf 2018/11/10(土) 10:57:15.52
◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
  これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!

A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。

 新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
 江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
 まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。

 逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。

31◆UiepmfCeDJqf 2018/11/10(土) 10:57:56.87
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
  これで説明が付く!

A:そのような整合性は認められない。
 考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
 対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。

 信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
 郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。

 九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。


◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
  箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!

A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
 箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
 このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。

 中国本土では前漢代の雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中華王朝では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
 三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
 西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。

32◆UiepmfCeDJqf 2018/11/10(土) 10:58:21.39
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した!
  これは信用ならない!
  同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
 もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
 つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。

 考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
 炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。

 逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示している。
邪馬台国畿内説 Part39 	->画像>39枚
 これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018)

 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。

33日本@名無史さん2018/11/10(土) 10:58:33.30
くだらないテンプレを貼るのはやめろ。
そういうのは自分のブログででもやってくれ。

34◆UiepmfCeDJqf 2018/11/10(土) 10:58:47.39
◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!

A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) 邪馬台国畿内説 Part39 	->画像>39枚
 また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
 基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
 よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。

箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築 
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。

 1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
 2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
 スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
 隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 邪馬台国畿内説 Part39 	->画像>39枚

 前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。

 方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く)

35◆UiepmfCeDJqf 2018/11/10(土) 10:59:09.37
(承前)
◆FAQ 23−2

◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。

◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
 ・ 森将軍塚   :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
 ・ 前橋王山古墳 :上毛
 ・ 持塚二号墳  :上総
 ・ 高千穂七号墳 :上総
 ・ 山伏作一号墳 :上総
 ・ 長沖八号墳  :武蔵
 ・ 温井一五号墳 :能登
 ・ 見手山一号墳 :但馬
 ・ 西穂波16号墳 :東伯 
 ・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
 ・ 高鼻二号墳  :伯耆
 ・ 日拝塚古墳  :筑前
 ・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)

◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等

36◆UiepmfCeDJqf 2018/11/10(土) 10:59:36.03
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!

A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
 黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
 両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
 古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、

 このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。


◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国が大和の日本に取って代わられたことは、旧唐書に明らかではないか!

A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。

 旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記されており、中国側の認識の混乱を表している。以下の各項等を勘案すると、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等として片付けて毫も問題ない。
・唐代に書かれたことが明らかな史料がみな倭=日本という認識を示していること。
・唐会要(倭=日本と認識)より、旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に認識できること。
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認できること。
 
 後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家であり、政変の頻発する中で、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前にようやく完成をみた。
 このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複するという不体裁が発生しているばかりでなく、他にも同一人物の伝が二本別に収録されるなど、他の史書に例を見ない杜撰が複数件発生している。

37◆UiepmfCeDJqf 2018/11/10(土) 11:00:24.10
◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
  ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
  
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
 統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
  
 遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
  
 さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
 ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
  
 古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。
 
 
 

38◆UiepmfCeDJqf 2018/11/10(土) 11:00:59.36
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!

A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
 ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
  
  
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
  卑弥呼の墓があるのは九州だ!
  
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
 また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
  
 参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
 日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
  
 以上のとおり、墳丘本体に殉葬痕があるか否か卑弥呼冢の判定基準にしようという考えには合理性が無い。
 
 
 

39◆UiepmfCeDJqf 2018/11/10(土) 11:01:21.52
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう!
  弥生絹があるのは九州のみ!

A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
 高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出であり、景初の遣使が献上した班布がこれであると推定(布目1999)されている。
 九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退している。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。

 一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が連続していない。
 九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。

「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示している。(21・23次概報)
 正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色が行われていた状況(金原2013,2015)と一致する。茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用されているため、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解されるからである。

 以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
 九州説にとって不利な条件と言える。

40◆UiepmfCeDJqf 2018/11/10(土) 11:01:39.56
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
  箸墓の築造と時間差があるだろう!

A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
 隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
 以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。

 なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
 また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
 このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
 解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。

 なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。

41◆UiepmfCeDJqf 2018/11/10(土) 11:01:58.60
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?

A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
 考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
 もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
 氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。

 弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
   邪馬台国畿内説 Part39 	->画像>39枚
 また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
 これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。

 優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
 吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
 弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。

 畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
 これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。

42◆UiepmfCeDJqf 2018/11/10(土) 11:02:19.12
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?

A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
 3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。

 これが部分的利用に留まる所以である。


◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある!
  海を渡るとは陸続きでないところに行くことだから、女王国は本州にある畿内ではないな?

A:陸続きのところへも渡海するので、伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。

 「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
 「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国

43◆UiepmfCeDJqf 2018/11/10(土) 11:02:42.04
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
  伊都国は隆盛のさなかである!

A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
 原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
 副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。

 当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
 国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
 残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
 大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)

 後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
 平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
 いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。

 後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
 このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。

 以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。

44◆UiepmfCeDJqf 2018/11/10(土) 11:03:16.82
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!

A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
 ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。

 以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
 ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)

 一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
 それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
 国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。

 弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
 同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。


※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。

45◆UiepmfCeDJqf 2018/11/10(土) 11:03:38.90
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!

A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
 博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)

 文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
 また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
 吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。

 なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行為することがない。
 那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。

 伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。

46◆UiepmfCeDJqf 2018/11/10(土) 11:03:58.15
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
  纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!

A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
 外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
 これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。

 ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
 古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
 ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。

47◆UiepmfCeDJqf 2018/11/10(土) 11:04:22.45
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
  仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!

A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
 意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
 金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。
 古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
 この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。

「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
 とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
 纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
 霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。

 大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
 にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
 侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある
 新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。

48◆UiepmfCeDJqf 2018/11/10(土) 11:04:47.17
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
  邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?

A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。

 女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。


◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
  九州でいいではないか!

A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
  邪馬台国畿内説 Part39 	->画像>39枚
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
 福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
 ◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。

 会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
 沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
 東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
 このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。

 捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。

49◆UiepmfCeDJqf 2018/11/10(土) 11:05:19.04
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
  九州には古くから三種の神器がある!
  大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?

A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
 出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
 また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
 記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)

 畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。

 弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
 平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
 これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。

※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。

 この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。

50◆UiepmfCeDJqf 2018/11/10(土) 11:06:02.63
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
  新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
 
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
 弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
 
 申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
 定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
 
 申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
 良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
 参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
   
 嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
 このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。
 
 
 

51◆UiepmfCeDJqf 2018/11/10(土) 11:06:47.48
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
  炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
  確かな根拠などないだろう!

A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
 1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
 また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。

その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である

以上から
 1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行する。(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。

 楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
 また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
 よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。

52◆UiepmfCeDJqf 2018/11/10(土) 11:07:10.78
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
  国産に決まっている!

A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
 史料上で抹殺された年号は珍しくない。
 このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。

 中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
 この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
 最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。

 この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。

 景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。

53◆UiepmfCeDJqf 2018/11/10(土) 11:07:47.75
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
 
A:◆1で略述したとおりである。
 ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
 箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
 その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
 倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
 ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
 同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
 
 また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
 その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
 
 
 

54◆UiepmfCeDJqf 2018/11/10(土) 11:08:15.92
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
  これが魏晋鏡だろう?

A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
 2世紀の鏡である。

 内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
  内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
 という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
 蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。

 この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
  A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
 2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
 雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。

55◆UiepmfCeDJqf 2018/11/10(土) 11:08:33.47
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
  2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?

A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。

 魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
 これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。

 少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)

 倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。

56◆UiepmfCeDJqf 2018/11/10(土) 11:08:51.07
◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
  考古学的に確認されているのか?

A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。

 桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。

 広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
 このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。

57◆UiepmfCeDJqf 2018/11/10(土) 11:09:11.89
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?

A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
 今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
 また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
 魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
  「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
 さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。

 固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
 また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。


◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
  どこにでもありそうだ。

A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
 画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
 纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
 単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。

58◆UiepmfCeDJqf 2018/11/10(土) 11:09:41.31
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
  壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!

A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
 灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
 郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
 壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。

 弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
 日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
 卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無く、壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
 ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。

 五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
  新方・森之宮(摂津)
  雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
  唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
 ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。

59◆UiepmfCeDJqf 2018/11/10(土) 11:10:03.42
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?

A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
 奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
 巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。


◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?

A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。

 刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
 秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
 この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。

60◆UiepmfCeDJqf 2018/11/10(土) 11:10:24.88
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
  以北ってことは女王国も含むんだぞ!

A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
   (三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
   (三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
   (同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。


◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
  狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!

A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
    山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
    海中の島国がカンボジアと「接」

 狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。

61◆UiepmfCeDJqf 2018/11/10(土) 11:10:44.75
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!

A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。

「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
 殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
  ※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
  ※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。

「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
 太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
  ※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
  ※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
  ※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
  ※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
   昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
   当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
  ※百世に亘って代々を想定

62◆UiepmfCeDJqf 2018/11/10(土) 11:11:25.54
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
  必然性がない!
  
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
 法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである-
邪馬台国畿内説 Part39 	->画像>39枚 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
  
 加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
  
 畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。
 
 
 

63◆UiepmfCeDJqf 2018/11/10(土) 11:11:53.54
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!

A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)

「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
 参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。

「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
   
 また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
 以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
   
 さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
 また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。

 以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。

64◆UiepmfCeDJqf 2018/11/10(土) 11:12:12.47
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
  の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!

A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。

また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。

65◆UiepmfCeDJqf 2018/11/10(土) 11:12:32.09
◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
  「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
  所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!

A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。

(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
     北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
    南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
    東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
    西與犂「革偏に于」・條支接。
    行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
    …東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
    …東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。

                (以上、漢書西域上)

66◆UiepmfCeDJqf 2018/11/10(土) 11:13:08.56
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
  これは実測したとしか考えられない!
  誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
  
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
  
 戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
 或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
  
 また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
              (後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
  
 さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。
 
 このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。
 
 
 

67◆UiepmfCeDJqf 2018/11/10(土) 11:13:26.25
◆FAQ 62−1
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!

A:定説に従う。

 金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
 帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。

 二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域と考えられる。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制の異なる碧城郡・海州市は郡域外であろう。
(本項 続く)

68◆UiepmfCeDJqf 2018/11/10(土) 11:13:44.02
(承前)
◆FAQ 62−2
 以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。

 楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
 

◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!

A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。

69◆UiepmfCeDJqf 2018/11/10(土) 11:14:01.72
◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
  径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!

A:基礎知識の誤りである。
  現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する

ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)

70◆UiepmfCeDJqf 2018/11/10(土) 11:14:20.25
◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
  倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!

A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
 殷商:約16cm
 西周:約20cm
 戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
 後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
 南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
 先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
 後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。

 また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
 ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。

《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)

71◆UiepmfCeDJqf 2018/11/10(土) 11:14:40.28
(承前)
◆FAQ 65−2
 『禮記』王制には
 「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
  古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
  古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」

とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。

 ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。

 この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。


 秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
  古者周尺 17.3cm
  今周尺  21.0cm
  秦漢尺  23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。

72◆UiepmfCeDJqf 2018/11/10(土) 11:15:01.54
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
  本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!

A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
 当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。

 なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。


◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
  なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
  倭人伝にある方位に間違いはないのだ!

A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
 東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。

 ・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
 ・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
 ・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。

 ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。

古代の海岸線に沿って「東南陸行」することは、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
邪馬台国畿内説 Part39 	->画像>39枚

 因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
 地名が実際の地勢と著しく異なる。

73◆UiepmfCeDJqf 2018/11/10(土) 11:15:19.84
◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
  奈良県の三角縁はもっと新しい!

A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半と考えられる。

 ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
 しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0に遡る情況と整合する。
 箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は但丹・近江などの地域で弥生後期〜終末の弥生墳丘墓で発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。

74◆UiepmfCeDJqf 2018/11/10(土) 11:15:41.83
◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!  
  このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
  魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
  護軍将軍である淵の任地は都である!

A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
 上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
 淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。

 長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
 

75◆UiepmfCeDJqf 2018/11/10(土) 11:16:06.27
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足相赴。
  乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
  襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!

A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
 魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
郭沖三事にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
 銭大マ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。

 襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。

76◆UiepmfCeDJqf 2018/11/10(土) 11:16:28.24
◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!

A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。

 中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(十二世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(十三世紀) 邪馬台国畿内説 Part39 	->画像>39枚
 魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。

 当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
 を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州に限定し得ないことは明らかである。


◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
 「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
  畿内は「東征」を受けた毛人だ!

A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
  「服」は他動詞として使う。
  「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。

 「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。

77◆UiepmfCeDJqf 2018/11/10(土) 11:16:53.81
◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
  これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!

A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
 「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
 参考に、正始年間薨の魏仮節龍驤将軍予州刺史李簡子墓誌銘を挙げる。
 邪馬台国畿内説 Part39 	->画像>39枚

 能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。


◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
  大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!

A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。

 大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
 畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。


◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
  畿内説は皇国史観の徒である!

A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。

 遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
 複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。

78◆UiepmfCeDJqf 2018/11/10(土) 11:19:05.97
◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
  最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
  8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
  古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!

A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。

 古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。

 弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。

79◆UiepmfCeDJqf 2018/11/10(土) 11:19:43.46
◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
 前方後円墳体制など、夢想だ!

A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。

 萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
 当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。

 奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。


◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
  里数が書いてないではないか!
  つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
  投馬国は南九州でよいのだ!

A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。

 『九章算術』巻第六「均輸」に
 「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
続けて
 「甲県一万戸、行道八日」「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近・戸数多少から算出された「衰」は
 甲県で 10,000 ÷ 8=125
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。

 本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表している。

80◆UiepmfCeDJqf 2018/11/10(土) 11:20:34.64
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
  ただの倉庫だろう?

A:倉庫群は均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ。
  纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。

 建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部に存し、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉するため、望楼状の高床式建築物と考えられる。
 建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
 建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。

 強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。


◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
 「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
  魏志に邪馬臺と書かれていたのではない! 
  ただ当時の風説を書いたのだ!

A:初歩的な誤りである。
 子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
 子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
 動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。

 助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
 よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。

81◆UiepmfCeDJqf 2018/11/10(土) 11:21:30.49
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
  だから邪馬台国は畿内ではない!

A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
 後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。

 三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。

 魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。

 三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。

82◆UiepmfCeDJqf 2018/11/10(土) 11:22:19.04
◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
  このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!

A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。

 「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。

 三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
 黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。暮壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。

 このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。

83◆UiepmfCeDJqf 2018/11/10(土) 11:27:49.99
 
 
 
◆FAQ 83−1
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
  鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!
   
A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。
  
●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。
 

(本項続く)

 
 

84◆UiepmfCeDJqf 2018/11/10(土) 11:28:47.74
(続き)Q 83−2

●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
 大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君″jッ」「保子¢キ」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。
 
 国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君″jッ至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。
 両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
 鏡師が東渡し作鏡したという記述ではない。
 
 

85◆UiepmfCeDJqf 2018/11/10(土) 11:29:59.60
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
  古墳とは違うのだ!

A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
 但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。

 孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。

 類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。

 魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。

86◆UiepmfCeDJqf 2018/11/10(土) 11:31:20.14
◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!

A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。

 K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものと思われる。
 庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭と考えられる。

 古墳主体部の年代は、殉葬の可能性を完全に放棄するならば、これより多少の時代遡求もあり得るが、山の中腹の尾根上という仰ぎ見られる視野角の広くない立地からは、あまり広域を支配していない首長像が瞥見される。

87◆UiepmfCeDJqf 2018/11/10(土) 11:32:08.77
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
  日本の古墳は平坦で、高くない!
  卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!

A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
  驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
邪馬台国畿内説 Part39 	->画像>39枚


◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
  「好物」は「よきもの」と訓じるのが正しい!
  特鋳説の根拠にはならない!

A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量と思われ、市中から雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しいと思われる。

 全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
 この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
 このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
 また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。

 銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。

88◆UiepmfCeDJqf 2018/11/10(土) 11:32:57.41
◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するの不可解だ!

A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
 中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。

 また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。

 江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
 参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
 邪馬台国畿内説 Part39 	->画像>39枚
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。

 このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。

89◆UiepmfCeDJqf 2018/11/10(土) 11:33:46.22
◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
   3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!

A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。

 下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
 この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。

 夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。

邪馬台国畿内説 Part39 	->画像>39枚
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

90◆UiepmfCeDJqf 2018/11/10(土) 11:36:01.86
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

注意*前スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】 ◆FAQ 23に加筆

今回スレタイを
 邪馬台国畿内説 「Part39」
とタイプミスしました。申し訳ありません。

本スレを
 邪馬台国畿内説 Part398
としてご使用ください。

91日本@名無史さん2018/11/10(土) 11:38:49.20
【筑紫を中心とする倭国の交易路】
もともと日本海ルートが倭国の交易の主力だった。4世紀の仲哀天皇のときに関門海峡が開削され、5世紀の雄略天皇のときに風待ち港と澪標が整備され、瀬戸内ルートが整備された。なお、太平洋ルートは事実上存在しなかった模様。纒向は日本海ルートの末梢の辺境。

筑紫博多→出雲→丹後・若狭→能登・越→諏訪→甲斐・秩父
↓         ↓
↓         近江→尾張→纏向

宇佐→安芸・伊予→阿波・吉備→淡路島→摂津・河内

【九州北部勢力による倭国の拡大】
紀元前に、越のヒスイ勾玉を含む三種の神器が出現
→日本海沿岸の土器が博多湾へ流入

1世紀に銅矛などが拡散
2世紀に高地性集落が瀬戸内海を東征
→瀬戸内四国の土器が博多湾へ流入

2世紀末に銅戈が大阪湾上陸
→3世紀に畿内から庄内式土器が博多湾へ流入

3世紀末に大型内行花文鏡が畿内へ侵入
→畿内から布留式土器が博多湾へ流入

支配は西から東へ拡大し、土器などの産物は王都である筑紫へ

92日本@名無史さん2018/11/10(土) 11:39:25.97
http://www.tokyo-np.co.jp/article/forum/list/CK2014092002000221.html

 日本書紀をみると、王宮では崇神天皇が天照大神(あまてらすおおみかみ)の御霊代(みたましろ)を祭っていた。
天皇は御殿で「同床共殿(どうしょうきょうでん)」の祭祀(さいし)を行っていたが、神の霊威(れいい)を恐れて、宮内の大庭にホコラを建てて、大神(おおみかみ)のご神体である宝鏡をお納めした(神宮雑例集)。
これが建物Cである。それでもまだ恐れ多いので、垂仁天皇の時代に伊勢に社を造り、宝鏡をお移しした。
それが伊勢神宮であり、建物Cの復元形態は神宮の正殿と極めてよく似ている。
神明造(しんめいづくり)の形が倉庫と近いのは、王宮における建物Cが宝庫だったことによるのである。

ということで、纒向建物群は崇神天皇の磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや)であり、倉庫から発展した伊勢神宮のモデルとなる、独立棟持柱を持つ建物が含まれていたということ。
卑弥呼とは関係ない。

93日本@名無史さん2018/11/10(土) 11:39:50.68
「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」佐々木憲一(2010)
明治大学人文科学研究所紀要 第66冊 (2010年3月31日)251−312
https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/10881/1/jinbunkagakukiyo_66_251.pdf

3世紀中葉から後半にかけて日本列島各地で出現した前方後円墳は,弥生時代後期後葉の様々な地 域の交流の所産という考えが日本考古学界で広く受け入れられている。
しかし古墳の出現は首長間交流の所産であるのに対し,集落から出土する土器は一般庶民の生活を 反映している。したがって,両者の関係をそう単純には結びつけることはできない。
纒向遺跡での搬入土器の主体は東海系であるのに対し,河内平野では吉備系土器が主体である。纒向遺跡では北陸系や近江系といった河内には 流入しない土器群がみられる。
前方後円墳で象 徴されるネットワークは恐らく大和が中心で,そしてそれは祭祀,あるいは政治的な意味合いも含めたネットワークであろう。
それに対して,畿内型(系)土器の拡散で象徴されるネットワークは大和や河内が必ずしも中心ではなく,場合によっては交易の所産である可能性も高い。
特に重要なのは, 福岡平野の比恵・那珂遺跡群で,一度畿内型土器が搬入され,模倣製作されたのち,在地の土器製作者がそれらを我流の技術で生産し,豊前,豊後の一部地域はもちろん,壱岐や遠く朝鮮半島南部に搬出するという現象である。
これは福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたことを示すものであろう。
中央(最高首長)の意思決定行為は内的に細分化・専門化されておらず(官僚機構の不在),支配能力が高くなく,したがって地方首長は自分の支配地域の維持運営にさまざまな責任を負っているため,地方は中央の意思とは別に,独自の行動をとることが可能である。
古墳出現期の福岡平野がまさに,独自の行動をとっている地方の実例である。古墳時代を国家段階と捉えた時期もかつてあったが,この研究の成果が示すように,少なくとも古墳時代初頭は国家段階にまったく達していないことが推測できるのである。

94日本@名無史さん2018/11/10(土) 11:40:14.66
関川尚功(邪馬台国大和説と箸墓古墳・纏向遺跡、2017)
「大和の弥生遺跡と纏向遺跡をみても、邪馬台国のあった地域の遺跡とは思えない。大陸系の遺物もほとんど出ないし、
古墳の起源になるような墳丘墓もみられない。
このようなところに北部九州の「奴国」や「伊都国」を統属して、中国王朝と盛んに交流を行ったという邪馬台国があったは
ずはないし、またこのような国が大和において自然に現れてくるということは、まず考えられない。
また、箸墓古墳の土器や埴輪も布留式の時代ですから3世紀まで行くものではない。纏向遺跡のピークもこのころだから、
やはり邪馬台国の時代よりあとのことで、纏向遺跡はむしろ大和政権の確立期の遺跡であろうと思われる。」

95日本@名無史さん2018/11/10(土) 11:43:40.59
397の>>>436
>2回目が話題の遣隋使だけどその後も5回目までは継続してるらしいじゃん<

俀國(=九州倭国)は、隋代の間は「此後遂絶」になって、
唐になってからまた高表仁が来倭して来たが、皇子と争ってまた「由是復絶」になり、
一部に遣使もあったが、結局白村江で戦う事になってしまった。

それに対して、倭国に中の俀國以外の地域(中心はおそらく大和)は、
大業4年や6年に唐に「倭国としての遣使」を派遣し、
唐の武徳中には(裴世清の来倭もあって?)「日本国」の国名も承認され、
中国とのコンタクトを続け、白村江でも直接的な戦闘をさけ、
九州倭国の大敗の後のサチヤマの捕虜の時期に、天智が采配を取り、
670年に、大和が九州倭国を併合吸収継承する事を内外に宣言した。

96◆UiepmfCeDJqf 2018/11/10(土) 11:46:00.67
控えに
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
http://2chb.net/r/history/1541817689/l50
を建てたありますが
当スレを先にお使いください
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

97日本@名無史さん2018/11/10(土) 11:50:02.79
>>95
ラノベイラネ

98日本@名無史さん2018/11/10(土) 12:02:31.37
>>444
>椿井大塚古墳。 築造3世紀末。 副葬品に鉄鎌あり。 石包丁が姿消してから百数十年後。
その間、稲刈りの農具には何を使っていたの? 答え。手で引き抜いていた。<


椿井大塚古墳は、
3世紀末以後にしかならないホケノの有棺有槨より進化した「竪穴式石室」墓であるから、
4世紀の墓。

99日本@名無史さん2018/11/10(土) 12:05:29.79
>>98
九州の無知さらしハジさらしw

100日本@名無史さん2018/11/10(土) 12:12:25.50
>>445
>ご正解。<

景行紀の九州遠征は、古事記には全く書かれていないから、
おそらく大和の伝承には存在しなかったものであり、
その遠征も、山口県のウサ?を出発地にして、筑紫平野で凱旋しているから、
おそらく九州倭国内の「南九州征服譚」記録からの盗用であり、
景行自身も、九州倭国内の将軍的地位にあった人物であった可能性もある。

101日本@名無史さん2018/11/10(土) 12:13:44.24
大足彦(景行天皇)が海路で九州に入るとき、筑紫の魁帥である神夏磯媛の出迎えを受け、かわりに朝敵である土蜘蛛を討伐することを求められた。
このとき、神夏磯媛は賢木に八握剣、八咫鏡、八尺瓊を掛けて神威を示している。
これは皇位を象徴する三種の神器そのものである。
日本書紀は神夏磯媛と大足彦のどちらの立場が上であったかぼかしてあるのであるが、
神夏磯媛が筑紫を支配して三種の神器を保有していたのであるから、神夏磯媛こそが当時の筑紫倭国の女王であり、アマテラスやニニギ、卑弥呼の後継者であったと考えられる。
その尊号には筑紫の支配者を意味する帥(そち)の字が使われている。
神夏磯媛は朝廷にまつろわぬ者として、
菟狭(うさ、豊前国宇佐郡、大分県宇佐市)の川上の鼻垂(はなたり)、
御木(みけ、豊前国三毛郡、大分県中津市)の川上の耳垂(みみたり)、
高羽(たかは、豊前国田河郡、福岡県田川市)の川上の麻剥(あさはぎ)、
緑野(みどりの、福岡県北九州市紫川)の川上の土折猪折(つちおりいおり)
を挙げて討伐するように求めるが、いずれも卑弥呼時代の倭国連合の範囲内にほぼ収まる。
耳垂の名は、魏志倭人伝において投馬国の官と副官である彌彌(みみ)と彌彌那利(みみたり)とも同じである。
大足彦より前とされる神武東征の折にはすでに菟狭の川上には後の宇佐国造家の祖である菟狭津彦と菟狭津媛がいたことになっている。
すなわちこの戦いは異国や異民族との戦いではなく、倭国内部の権力闘争であり、筑紫の女王である神夏磯媛にしてみれば分家(ワケ)である大足彦忍代別の兵力を借りて国内にいる政敵を倒したことになり、
神夏磯媛が言う朝廷は大足彦ではなく自らの倭国王権を指していたことになる。

102日本@名無史さん2018/11/10(土) 12:16:48.66
前スレ>992
>海に水行を使った記述はゼロ

つ 從郡至倭、循海岸水行、歴韓國

この時点で0じゃないね
この記述に「循海岸」が付いているから、とかいう人がいるけれど
大陸正史で「水行」が地理旅程記事で使われたのは、「ここが初出」だということを知らないだろう

水行は、基本的に循海岸の海の移動なんだよ
川で水行が使われているのは、ガンジス川2例とソンホン川の1例のみだが、この二つの川は
現在でも内陸航路に使われている大河で、海岸ならぬ川岸沿いを考えることができる川
九州の細い川に水行の語が使われることはない

103日本@名無史さん2018/11/10(土) 12:18:30.71
ここはPart 399なのか?

104日本@名無史さん2018/11/10(土) 12:24:06.03
>>103
398の前にここを使う

105日本@名無史さん2018/11/10(土) 12:25:46.61
>>101
神宝を差し出して臣従したんだよ
どう見ても景行が上位

106日本@名無史さん2018/11/10(土) 12:26:31.53
前スレ>992
>海に水行を使った記述はゼロ

三国志前後の大陸の正史で漢書から新唐書までの範囲で「水行」で全文検索をかけた結果
漢書 後漢書 三国志 宋書 南斉書 梁書 魏書 北斉書 隋書 南史 北史 旧唐書 新唐書の史書に43ヵ所「水行」表記がある
ただ「罔水行舟」みたいな決まり文句もあって、地理、旅程として「水行」が使われているのは19ヵ所

そのうち、倭国までの水行、投馬国までの水行、邪馬台国までの水行の3つセットが「三国志」「梁書」「北史」にあるので、残り10ヵ所
流求國が「北史」と「隋書」で計2ヵ所
それから東南アジアの
赤土國,扶南之別種「北史」      プノンペン辺り
安南       「新唐書」     ヴィエトナム
佛逝國      「隋書」「新唐書」 マレー半島からスマトラ辺り
それから、大秦国(ローマ帝国)の属国で紅海沿岸の澤散王の話が、三国志の本文ではなく注釈にある
琉球から澤散王までの7つは、全て海の水行だって分かる
残りの「水行」は3つ

うち二つが「梁書」と「南史」にまったく同じ表現があって
循海大灣中正西北入,歴灣邊數國,可一年餘到天竺江口,逆水行七千里乃至焉
天竺江口つまりガンジス川河口から、「逆水行」七千里で着く
と書いてあるが、ガンジス川くらい大きな川なら水行と書かれることが分かる

で最後が、「新唐書」の
北經大泊,十七里至金河。又經故後魏沃野鎮城,傍金河,過古長城,九十二里至吐俱麟川。傍水行 ,經破落汗山、賀ス泉,百三十一里至歩越多山
ここでは、吐俱麟川の傍水行をしている
この吐俱麟川がどれくらいの川幅かは分からないが、これは傍「水行」ではなく、「水(吐俱麟川)の傍らを行く」つまり「川沿いを行く」

これで、大陸の三国志前後の正史に出てくる「全ての『水行』」を検討したが、
1.基本的には海
2.ガンジス川くらい大きければ川でも水行 ただし河口からは『逆』水行
3.吐俱麟川は、水行してない
ということで、水行を「川のぼり」あるいは「川舟を引いて岸を歩く」とするのは無理だよ

107日本@名無史さん2018/11/10(土) 12:29:33.14
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 

108日本@名無史さん2018/11/10(土) 12:32:56.68
前スレ>986
>標高差36mの楕円形で盛り上がった墓地がある。

ただ坂を下っただけ
まったく盛り上がっていないただ単調に下るだけの斜面
「塚」は『裸の左側スロープ君』にしか見えない、つまり脳内にしかない幻w

>代々地元高天原での墓地である。

いつの時代からだろうねww
江戸時代?

109日本@名無史さん2018/11/10(土) 12:53:59.72
>>105
景行は神夏磯姫のパシリで戦った将軍。
神夏磯姫は三種の神器を掲げて神威を示しただけ。

110日本@名無史さん2018/11/10(土) 12:56:53.47
>>109
やったことはイトデらと一緒

つまり景行に服属した田舎豪族

111日本@名無史さん2018/11/10(土) 13:01:11.04
畿内は元々狗奴國の版図
侵略されたんだよ
魏志倭人伝当時は畿内征伐の過程

ヤマトは陥落して、畿内征伐の拠点にされたんだよ
邪馬台はヤマト単なる地名、卑弥呼が都を置いた処

112日本@名無史さん2018/11/10(土) 13:01:57.24
トンデモ畿内説をいくつスレ作るんだよ!

邪馬台国は徐福が佐賀に作った国である、異論はないであろう

113subo2018/11/10(土) 13:03:12.16
卑弥呼の塚は久留米御井の祇園山古墳である。

114日本@名無史さん2018/11/10(土) 13:04:28.45
狗奴国は熊本平野、所都は八代である。

115日本@名無史さん2018/11/10(土) 13:05:01.89
>>112
おまいが言うか w

116日本@名無史さん2018/11/10(土) 13:05:30.70
邪馬台国の所都は八女である。

117日本@名無史さん2018/11/10(土) 13:07:02.31
理由が言えないのはトンデモ
つまり九州説とはトンデモである

証明されたな

118subo2018/11/10(土) 13:07:34.66
>>115

ほんとうのことばいいよると、なんも反論できんやろ

119subo2018/11/10(土) 13:07:34.79
>>115

ほんとうのことばいいよると、なんも反論できんやろ

120日本@名無史さん2018/11/10(土) 13:07:58.31
トンデモ畿内説スレなんて見当たらんなあ
トンデモ九州説スレならそこら中にあるが

121日本@名無史さん2018/11/10(土) 13:08:51.86
>>119
ウソなので反論されました

122subo2018/11/10(土) 13:09:37.73
畿内説はトンデモの宝庫だなw

ザラコク、孝霊厨、岡上、鼻ホジは元気にしてるのか?

123subo2018/11/10(土) 13:12:00.82
いつのまにやらテンプレがなごーなっとる。
いいかげんにせい!
テンプレ主の名前はなんだったか、奥村だったか?

124日本@名無史さん2018/11/10(土) 13:12:40.72
>>122
懲りもせず、またウソをつく男

125日本@名無史さん2018/11/10(土) 13:12:57.22
>>453
>倭国が日本に改名したが正解だろうな。<

九州倭国が中国に対して「日本」と名乗った最初は、
釈日本紀に拠れば、晋の惠帝への朝貢の時。

126日本@名無史さん2018/11/10(土) 13:13:34.29
奥村か奥山だったような。

畿内説はトンデモで確定している、悪あがきはやめたほうがいいよw

127日本@名無史さん2018/11/10(土) 13:14:14.16
>>123
トンデモ説が書かれて困ることが書いてある
困ってるだろ

128日本@名無史さん2018/11/10(土) 13:15:07.81
>>126
根拠が言えない>>126はトンデモの人

129subo2018/11/10(土) 13:15:44.89
おっ、ザラコクは元気そうだな


巻向政権はなぜ突然に発生したかを論じるほうが建設的議論になる

130日本@名無史さん2018/11/10(土) 13:16:05.70
>>125
・・・だというのが怪しいと書いてある本だな、それは

131subo2018/11/10(土) 13:17:27.07
>>128

万2千里=水行10日陸行1月である。

132日本@名無史さん2018/11/10(土) 13:17:56.50
>>461
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説には、
日本の地理も知らんクズしか残ってないのが、
なんともお寂しい現状か。

133日本@名無史さん2018/11/10(土) 13:18:33.78
根拠が言えない>>131はトンデモの人

134subo2018/11/10(土) 13:19:57.25
水行は一日航海千里の規定を適用

水平線しか見えないようなときには測りようがないので便宜的に規定している。

135日本@名無史さん2018/11/10(土) 13:19:58.83
>>462
>邪馬台国は葛城だ。<

邪馬台国なんてなかったし、「南≠東」に拠っても、×だ。

136subo2018/11/10(土) 13:22:10.04
里程、行程については伊作さんの邪馬台国奇跡の解法を参照するといいだろう

137日本@名無史さん2018/11/10(土) 13:23:24.02
>>463
こういうこ「論理を書かない」書き込みを見れば、
発言者の程度の低さがよくわかるね。
どういう何を見てそう結論が出たのか? まったく内容が無い。
つまり 頭の中に元々あった結論が ただ口を衝いて出てきただけで
なにも思考していないってことだ<

138subo2018/11/10(土) 13:23:32.07
SSNの鴨厨がまだ邪馬台国は葛城だとほざいているのかw

139subo2018/11/10(土) 13:25:28.34
畿内厨は結論が先にあるしなw

本末転倒とは畿内説にぴったりの言葉である。

140subo2018/11/10(土) 13:27:38.99
やまいちこくは佐賀平野でいいよ

141日本@名無史さん2018/11/10(土) 13:27:57.40
>>131
狗邪韓国の位置に投馬国と同じになってしまうのでその説は破綻した

142日本@名無史さん2018/11/10(土) 13:28:06.59
>>134
対馬は見えるんだよな
韓国人が領土主張する一因でもあるし
もちろん対馬から壱岐も見える

143subo2018/11/10(土) 13:28:54.55
いちの漢字が変換できないから便宜上、邪馬台国といっている。

144日本@名無史さん2018/11/10(土) 13:29:40.51
>>140
ヤマイチコクなどないよ

145日本@名無史さん2018/11/10(土) 13:31:07.38
弥生最大のヒスイ勾玉が見つかった 池上曽根遺跡、6cm大の巨大勾玉、鳥トーテムの集落
池上曽根は日本最大の井戸や弥生最大級の大神殿、鉄工房もあった。

大阪は他にも高槻市成合遺跡、東大阪市鬼虎川遺跡、四条畷市城遺跡、高宮八丁遺跡
など、きりがないほどヒスイ勾玉が出ている。

奈良の唐古・鍵遺跡
銅鐸、井戸、鉄鉱に納められた巨大勾玉

卑弥呼、女王国以前に、勾玉を信奉した集団のクニが大阪〜奈良にあったんじゃないのかな

滅ぼされたんだろう

146subo2018/11/10(土) 13:31:26.49
>>142

たとえ見てても測量が困難なら一日航海千里の規定である。

その韓国人は百済かそれとも新羅か?

147subo2018/11/10(土) 13:32:52.92
>>145
越の銅鐸民族ですね

148日本@名無史さん2018/11/10(土) 13:33:56.06
畿内説スレで「南≠東」に拠ってとかアホなこと続けてるな

149subo2018/11/10(土) 13:35:25.13
勾玉は出雲王朝の証である。

150subo2018/11/10(土) 13:36:44.02
九州王朝は銅鏡である。

151日本@名無史さん2018/11/10(土) 13:36:57.11
>>110
イトデらも、筑紫倭国の王家として、仲哀を迎えたんだよ。
彼らの承認がなければ、仲哀は香椎宮へ入れなかっただろう。

152日本@名無史さん2018/11/10(土) 13:37:51.34
>>483
この寺澤の文は、反論済み。

153日本@名無史さん2018/11/10(土) 13:38:34.40
>>146

設定追加したけど裏付けあるの?

154subo2018/11/10(土) 13:39:23.98
勾玉は出雲王朝
鏡は吸収王朝
剣は畿内王朝

155subo2018/11/10(土) 13:40:21.66
吸収→九州

156subo2018/11/10(土) 13:42:04.99
>>153
中国の正史に記述されている、詳しくは邪馬台国奇跡の解法を見るように

157日本@名無史さん2018/11/10(土) 13:44:54.88
>>485
>大代古墳・・・前方後円墳・・・竪穴式石室・・・鏡片<

何だい?、これじゃ九州倭国の東征将軍で、鏡片があるから、
卑弥呼直属の将軍や部将の墓にしかならない、ではないか。

158日本@名無史さん2018/11/10(土) 13:44:59.53
>>145
畿内が日本海沿岸に広がっていた倭国の影響下にあったことを示しているだけだよ。

159subo2018/11/10(土) 13:45:37.71
海岸巡航だから海だろw

奥山爺は相当ボケとるなw

160subo2018/11/10(土) 13:48:58.68
>>158

畿内は倭の別種である。

乙巳の変、大化の改新で畿内政権は九州政権を併合した。

161日本@名無史さん2018/11/10(土) 13:51:42.40
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 

162subo2018/11/10(土) 13:51:53.67
ザラコクはあいかわらず周回遅れだなw

別にいいだろうw

163日本@名無史さん2018/11/10(土) 13:53:29.74
>>156
ジョークはよしなよ
題名からして幸福の科学みたいじゃん

164subo2018/11/10(土) 13:58:29.44
>>163
>>163


幸福の科学wであんたは壺売り教会かなw


エルカンターレは卑弥呼は九州のおなごと言っていた。

165subo2018/11/10(土) 14:02:59.45
投馬国は帯方郡から水行20日

宮崎の西都である。

水行20日は2万里、長崎経由

166日本@名無史さん2018/11/10(土) 14:04:30.52
大和の邪馬台国は吉備の影響が大きいと言われるが必ずしも直接的な物ではない
吉備の弥生末期的要素を見ると

突出付円形墳丘墓(双方中円、葺石無し)
特殊器台
吉備式土器

という物になるがこれが直接大和で出てくるわけでもない
纏向型はこれらの要素が播磨、讃岐、摂津、河内を経由して変容した形で影響が入ってる
吉備の影響がハッキリ出てくるのは定型化後

大和の邪馬台国誕生の経緯については再考の余地がある

167subo2018/11/10(土) 14:04:58.40
関門海峡が航行できるようになったのは仲哀天皇のときである

168日本@名無史さん2018/11/10(土) 14:06:03.45
積石でアウト

169subo2018/11/10(土) 14:06:28.38
巻向政権は呉の復興ロマンである。

170subo2018/11/10(土) 14:10:16.12
畿内厨は少しは歴史に興味もてよ

歴史を楽しさを教えてあげるからさ

171日本@名無史さん2018/11/10(土) 14:11:56.68
また大和の邪馬台国出現の際のコアとなると考えられる土地にあまり大きな初期古墳が出てこないのも不思議な点
吉備も出現期の古墳は小規模なものが多い
後の古墳体制から考えると重要地こそ大きな古墳が出現するはずだがそうなってない
出現そのものもそれほど早いと言うわけでもない

この辺りのミスマッチが邪馬台国成立を考えるうえで重要なカギを持ってると思う

172subo2018/11/10(土) 14:11:58.92
狗奴国は春秋時代の呉

巻向政権は三国志時代の呉

173日本@名無史さん2018/11/10(土) 14:14:33.54
重要地とはどのような観点から重要としてるの

174日本@名無史さん2018/11/10(土) 14:14:52.40
>>172
おまえ中国人だろ。

日本の掲示板に来るなよ。

ブタ広鼻はブタ広鼻の掲示板に行け!

175subo2018/11/10(土) 14:17:58.37
>>174
大和撫子の原点は呉の小喬であった!

ひさしぶりだね、沿海州ブタw

176日本@名無史さん2018/11/10(土) 14:18:56.34
>>175
さっさと失せろよ汚らしい!

177日本@名無史さん2018/11/10(土) 14:21:46.07
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 

178日本@名無史さん2018/11/10(土) 14:22:01.96
古墳の大きさと重要地との関連がハッキリ出るのは定型化後

最初の纏向型の後にもう一度連合の再編成のような契機があるのがうかがえる
崇神、垂仁、景行の三代の時代の事跡の時代だろうか

179日本@名無史さん2018/11/10(土) 14:25:08.75
>>138
>SSNの鴨厨がまだ邪馬台国は葛城だとほざいているのかw

当然。
まず崇神が4世紀初〜前半というのはおおよその同意を得て決定的。
ならばそこから数十年前のトヨが一人しかおらず、
しかも国宝中平銘鉄刀の保持者和邇氏の祖・孝昭天皇の母。
そして3世代前にヒメがいる・
トヨとヒメが住んだのが葛城、
だから邪馬台国とは葛城。

わしほど論理的に遡って邪馬台国・葛城説を提唱してる男はいない。

纏向説や九州説はわしの説の第一段階にも達していない。

180日本@名無史さん2018/11/10(土) 14:26:19.68
誰かお薬出してあげて

181subo2018/11/10(土) 14:27:22.21
>>176

じゃじゃ馬の原点は孫尚香である!

いいな沿海州ブタ

182日本@名無史さん2018/11/10(土) 14:28:29.59
卑弥呼と神武が同世代なのは同意。
だからこそ、畿内に卑弥呼のような女王はいなかった。

183日本@名無史さん2018/11/10(土) 14:29:51.15
>>501
なんの理由も言わず、ただ「南→東」などの嘘吐き騙しになる結論を呟き続ける、
それがトンデモ大和説。

184日本@名無史さん2018/11/10(土) 14:30:18.40
>>181
日本の掲示板に来るな!


いいなインドシナ華南ウンコ色ブタ広鼻突顎巨大タラコ唇ベトナミー。

185subo2018/11/10(土) 14:30:34.41
>>179
応神天皇の即位が390年ということについてはそんなところだろう、反論はしない

記紀は九州での出来事をパクッているから注意しな

186subo2018/11/10(土) 14:33:18.59
>>184

漢と書いておとこと読む

漢とは中国の王朝である、いいな沿海州ブタ

187日本@名無史さん2018/11/10(土) 14:35:52.91
>>170
>歴史を楽しさを教えてあげるからさ

>>170のやっているのは妄想の楽しさであって学問ではない

188subo2018/11/10(土) 14:39:56.97
>>187
学問とは歴史の真実の追究でなければならない

実に辛く残酷なことである、そこにはロマンなどない

189日本@名無史さん2018/11/10(土) 14:40:00.10
>>171
>出現そのものもそれほど早いと言うわけでもない

>この辺りのミスマッチが邪馬台国成立を考えるうえで重要なカギを持ってると思う

これは簡単!
若手の実力者が仕切ってたんだよ

墓は首長が死んでから作られる
前方後円墳体制の同意した首長連合の中で、年長のものから順に死んでいく
一巡するのに一世代、数十年の時間差があるのは不思議でもなんでもない

190日本@名無史さん2018/11/10(土) 14:43:27.90
神武と卑弥呼が夫婦だとかいうトンデモを基盤にして何か言えると信じるようになると
左側スロープが見えたり、ただの下り斜面が塚だと分かるようになるらしいよw

191日本@名無史さん2018/11/10(土) 14:53:39.28
>>984
殷人と吉備の特殊器台の関係は?
殷人が吉備人なのか?w

全くの妄想だね。
>>171
出現期の古墳が小さいのは当たり前だ

192日本@名無史さん2018/11/10(土) 14:56:01.34
>>188
日本の掲示板に来るな!


いいなインドシナ華南ウンコ色ブタ広鼻突顎巨大タラコ唇ベトナミー。

193subo2018/11/10(土) 15:11:18.56
>>192
キムチ君、発狂しすぎだよw

194日本@名無史さん2018/11/10(土) 15:11:27.10
>>190
どうして?
神武に先立たれた姿は
「歳すでに長大 夫はいない」だが。

あと政治を補佐する男弟、
宮に出入りするただ一人の男子も説明できる。

前者は天日方奇日方、後者はタギシミミだ。

195subo2018/11/10(土) 15:13:34.93
奥山爺はテンプレはいいからなんか返事せい!

196日本@名無史さん2018/11/10(土) 15:14:12.86
>>193
日本の掲示板に来るな!


いいなインドシナ華南ウンコ色ブタ広鼻突顎巨大タラコ唇ベトナミー。

197日本@名無史さん2018/11/10(土) 15:15:14.54
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 

198subo2018/11/10(土) 15:16:15.70
鴨厨さ〜九州での出来事のパクリなんだって

源氏物語とか舞台は大宰府の宮だしな

199subo2018/11/10(土) 15:17:47.51
>>196

北朝鮮の工作員にいわれる筋合いはないな(ふむふむ

200日本@名無史さん2018/11/10(土) 15:18:11.76
葛城だとか土蜘蛛だとか卑弥呼と神武が夫婦とか言ってるのも畿内説スレ荒らしだな
九州説じゃ部が悪いから愚にもつかない盲説でスレ荒らしてるんだ

201日本@名無史さん2018/11/10(土) 15:29:11.69
大和の纏向型がほぼ同時期に一斉に作られてるところを見ると累代の墓と言うよりも各地の王の墓なのかもしれない

大和の王の代々の墓じゃなくて邪馬台国連合に参加した王達がここに王墓を作ったのかもしれないな
纏向型の登場から墓が作られるまで期間が短すぎるからな

202日本@名無史さん2018/11/10(土) 15:35:40.64
畿内説が分裂して綻んでいるな。
もう畿内に望みはない。

203日本@名無史さん2018/11/10(土) 15:37:17.71
>>202
それはお前の脳だろう
畿内説は分裂などしていないのだから

204日本@名無史さん2018/11/10(土) 15:42:16.70
前スレにレス返してる奴って頭おかしいんだろうなとよく分かる

205日本@名無史さん2018/11/10(土) 15:45:18.98
>>147
越後か
鳥追い祭りという奇祭が残っているなぁ

206日本@名無史さん2018/11/10(土) 15:48:06.60
>>179
>まず崇神が4世紀初〜前半というのはおおよその同意を得て決定的。

おおよそって、どこの誰?

207日本@名無史さん2018/11/10(土) 15:56:20.21
>>204
前スレの末尾にバカなことを書いてるやつがいたときは
スレが改まってもちゃんと咎めておかないと、とは思うけどね

まあ、ザラコクは言い換えされないための周回遅れだけれど

208日本@名無史さん2018/11/10(土) 15:57:16.53
>>626の訂正
「潟」では、「南方」付近の大阪湾への出口が狭い浅瀬状態であり、
五瀬命や神武らは、南方で食い止められて日下にまでは、舟では全く行けないし、
敗戦後も大阪湾にまで逃げられない。
それは、河内「湖」状態であっても同じ。

209日本@名無史さん2018/11/10(土) 16:03:13.33
>>638
やはり「南→東」などの嘘つき騙しをどうしてもしなければならない大和説は、
歴史学とは無縁の、
「戦前の万世一系皇国史観戦争」という政治宗教に狂った・・・・集団だったんだな。

210日本@名無史さん2018/11/10(土) 16:06:26.75
>>640
「戦前の万世一系皇国史観の殺戮戦争」のお経をいくら唱えてもを、
「南→東」などの嘘つき騙しで死んだ大和説は、生き返らない。

211日本@名無史さん2018/11/10(土) 16:10:30.32
>>644
常に「南→東」などのウソをつき、畿内などをでっちあげて、大和説を盤石と称えても、
世間の7割は否定している。

212日本@名無史さん2018/11/10(土) 16:13:14.65
>>649
「南→東」などの嘘つき騙しの荒らし専業化は、
大和説の死亡証明。
なむ・・・・・。

213日本@名無史さん2018/11/10(土) 16:17:13.66
このように、ザラコクは毎日ウソをついてきる

214日本@名無史さん2018/11/10(土) 16:19:18.48
大和の邪馬台国は纏向型段階までは、播磨、摂津、河内、讃岐の文化的背景が強い
邪馬台国の最初期の構成員はこの辺りの地域が土台になってる

吉備の影響の拡大などが起こるのは定型化後
この辺りから全国の古墳の大きさや三角縁などの連動などシステムとしての洗練がみられる

この動きをみると邪馬台国の発展と拡大に2段階あるように見える
卑弥呼時代の緩やかな連合体と、その後の王権としての確立期
確立期の動きが四道将軍や景行天皇の伝説と連動する点がみられて興味深い

215日本@名無史さん2018/11/10(土) 16:22:58.01
>>145
>卑弥呼、女王国以前に、勾玉を信奉した集団のクニが大阪〜奈良にあったんじゃないのかな


だから、勾玉も倭国(阿波)と、何度言えばw  @阿波

216日本@名無史さん2018/11/10(土) 16:30:35.02
>>91

→3世紀に畿内から庄内土器が博多湾へ流入

と言ったって、肝心要のところだから、3世紀のいつ頃にそれが始まったか書くべき。
単に3世紀と言えば、100年も幅がありまっせ。

217日本@名無史さん2018/11/10(土) 16:32:33.13
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 

218日本@名無史さん2018/11/10(土) 16:39:08.04
>>216
第一四半期だが何か?

219日本@名無史さん2018/11/10(土) 16:41:52.43
大和、九州ともに弥生時代に邪馬台国要素がなく、邪馬台国成立時に突然その文化が成立している
大和、九州ともに弥生時代からの段階的発展の上に邪馬台国を見出すことが出来ない
なのでこの両地域に邪馬台国の根源を探すことは無意味

近畿周辺の勢力による連合が地勢的な理由から大和に作られ、その影響が九州に拡大してここを連合の一部に組み込んだ流れが見える

220日本@名無史さん2018/11/10(土) 16:43:14.19
>>92
建物Cなどが卑弥呼とは関係ないのは正解だけど、纏向遺跡内に人が住んだ形跡がないのだから、建物群は崇神の宮ではなく、崇神の宮は纏向遺跡の外にあったと考えるのがよい。

221日本@名無史さん2018/11/10(土) 16:45:38.62
>>220
このように、トンデモ説はまったく理由を言わない

222日本@名無史さん2018/11/10(土) 16:47:21.31
>>220
>纏向遺跡内に人が住んだ形跡がないのだから、

それは誰の説?

223日本@名無史さん2018/11/10(土) 16:47:57.66
>>219
>近畿周辺の勢力による連合が地勢的な理由から大和に作られ、その影響が九州に拡大してここを連合の一部に組み込んだ流れが見える

連合? なにそれ? 連合をだれが取り仕切るっていうんだい?  そんなアホな。
大和や九州などに影響を与えたのは倭国(阿波)の「忌部はん」と、何度言えばw  @阿波

224日本@名無史さん2018/11/10(土) 16:53:14.86
阿波は鉱山に石切場、工場かな
金属加工には莫大な燃料としての森林資源がいるしね

225日本@名無史さん2018/11/10(土) 16:56:13.19
>>224
>金属加工には莫大な燃料としての森林資源がいるしね

そんなに燃料(木材)に困窮してるなら、倭国(阿波)の森林資源、分け与えようか?  @阿波

226日本@名無史さん2018/11/10(土) 16:57:12.69
鏡の副葬と序列化と言うシステムは九州が先行している

ただ弥生後期後半に入ると九州からは完形鏡が現れなくなり、新しい鏡も出てこなくなる
それに対して広く西日本各地で完形鏡が多数出土するようになる
鏡の入手先が九州ではなく西日本に移動していることが分かる

そして?製鏡についても大阪を起点とする独自形式の鏡の配布が既に始まっているのが知られている

邪馬台国に引き継がれる鏡の副葬と序列は、直接的には近畿北部や吉備、四国の影響であると理解できる
九州からの影響の拡大と言う様子は鏡をとっても見ることが出来ない

227日本@名無史さん2018/11/10(土) 17:01:12.67
真十【鏡】 可照月乎 白妙乃 雲香隠流 天津霧鴨

228日本@名無史さん2018/11/10(土) 17:02:55.33
弥生終末期の完形鏡出土場所を見ると、瀬戸内海沿岸と丹波等の近畿北部に多いのが分かる

これらの地域が直接的に鏡を手に入れている様子が見える
特に瀬戸内海は直接的に大陸との交渉が出来ている事から、九州の妨害を受けていない事がよく分かる
弥生時代中期までの独占的な九州の優位性が消失していることが分かる

229日本@名無史さん2018/11/10(土) 17:03:28.92
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 

230日本@名無史さん2018/11/10(土) 17:05:44.40
>>93
まったくその通りだと思うが、1点疑問に思うのは次の事項だ。
前方後円墳を共有して、大和から各種貴重財の配布を受ける以上、地方勢力側から大和に対してなんらかの反対給付を行ったと考えるのが妥当。
その反対給付は、例えば玉や朱などの財貨であったかも知れない。
大和はその財貨を資金として、各種貴重財の輸入、あるいは各種財物の国内生産をおこなったと考えるのがよいのではないか。
大和の連合政権は、そもそもそのような目的で設立された協同組合組織だった、と思われる。

231日本@名無史さん2018/11/10(土) 17:07:42.09
>>226
>直接的には近畿北部や吉備、四国の影響であると理解できる

だから、それらの勢力は倭国(阿波)を発った「忌部はん」たちと、何度言えばw  @阿波

232日本@名無史さん2018/11/10(土) 17:09:51.90
>>230

連合政権? なにそれ? 連合政権をだれが取り仕切るっていうんだい?  そんなアホな。
大和や九州などに影響を与えたのは倭国(阿波)の「忌部はん」と、何度言えばw  @阿波

233subo2018/11/10(土) 17:14:24.99
>>232

忌部はんはユダヤ人ですか?

234subo2018/11/10(土) 17:15:27.81
阿波はユダヤ王朝であった(ふむふむ

235日本@名無史さん2018/11/10(土) 17:18:49.04
>>233
>忌部はんはユダヤ人ですか?

「忌部はん」は全国各地のみんなのご先祖さんだよ。  @阿波

236日本@名無史さん2018/11/10(土) 17:30:06.65
>>663
>つまり周の国で一寸千里を採用したとかいう話は書かれていない<

周公が商高に質問した「周天曆度と地の尺寸而度」の関係を、
陳子が榮方に、一寸千里の法を答える形の記載で説明してある。

237日本@名無史さん2018/11/10(土) 17:35:08.48
>>230
マンパワーだろ
あれだけ巨大古墳を作り続けてるのだから

238日本@名無史さん2018/11/10(土) 17:37:22.40
>>236
つまり「周制に反映された」という話は一切でてこない

239日本@名無史さん2018/11/10(土) 17:50:26.86
>>222
これは、発掘担当者の知見。

240日本@名無史さん2018/11/10(土) 17:53:47.07
>>222
竪穴住居跡でも出てれば、大騒ぎしているよ。   推して知るべし。  @阿波

241日本@名無史さん2018/11/10(土) 17:56:08.92
>>239
名前が言えないということは
つまり、またデマなのだね?

242日本@名無史さん2018/11/10(土) 17:56:45.56
>>214
卑弥呼はどの墓に葬られたん?

243日本@名無史さん2018/11/10(土) 17:56:49.85
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 

244日本@名無史さん2018/11/10(土) 18:02:05.68
>>201
だけど、纏向型は5基しかないけどな。
各地の王、少なすぎじゃね。

245質問良いですか2018/11/10(土) 18:04:59.85
纒向の本や畿内説の学者の記述では
集落群とか大集落群と出てきますが
集落跡が未だ発見されてないのに 
いかような根拠が有るのでしょうか?

246日本@名無史さん2018/11/10(土) 18:07:42.97
>>244
>だけど、纏向型は5基しかないけどな。
>各地の王、少なすぎじゃね。

大和へ進出した「忌部はん」の親分の墓なんだから、そんなもんだよ。  @阿波

247日本@名無史さん2018/11/10(土) 18:08:35.58
>>674
>>周髀算経から「1歩≒25.5cmだ」と分かるから、<

>周髀算経にはそんなことは書いてない <

周地付近での、南北それぞれの千里の計測地点での、
夏至正午の8尺棒の影長が1尺5寸と1尺6寸と1尺7寸であった、という事から、
(谷本確認計算により)、「1歩≒25.5cmだ」と分かる。

>周髀算経の中で、1里=300歩=1800尺が確認できる<

1里=300歩は構わないが、「300歩=1800尺」つまり「1歩=6尺」は確認出来ない。
そして、大和説者が取り上げる、
立二十八宿,以周天曆度之法。
術曰:倍正南方,以正勾定之。
即平地徑二十一步,周六十三步。
令其平矩以水正,則位徑一百二十一尺七寸五分。
の、「令其平矩以水正,則位徑一百二十一尺七寸五分」という記載が、
全く無意味な「ダブった二度記載」という奇妙な失敗記載になってしまっており、
こんな記載が発生したのは、前漢初期の周髀算経の収集説明をした人物が、
「始皇帝の1歩=6尺」を使っての説明のやり直しをしたらしい、という事になる。

>そして、八尺棒を立てて影を計っているが、これが短尺wwではないことは明らか
つまり、1里=1800尺である以上、短里ではありえない
つまり、周髀算経の一寸千里がそもそも間違っていた、というだけの話にしかならない<

何を狂った事を言ってるんだい?。
「短尺」なんて言った事もないし、言う筈もないし、
「短尺」なんて存在しない、と何度も説明済みだよ。

248日本@名無史さん2018/11/10(土) 18:10:03.77
>>245

でもそれ、畿内だけじゃないよ。  @阿波

249日本@名無史さん2018/11/10(土) 18:11:56.96
>>245
集落跡が未だ発見されてないって、誰の説る

250日本@名無史さん2018/11/10(土) 18:14:35.00
>>244
大和は六御県だよ
問題ない

251日本@名無史さん2018/11/10(土) 18:20:50.35
>>200
4世紀前半の崇神の約6世代前の王族たちの話なのでヒミコの話でいいのだ。
ヒミコが誰か言えずただ纏向だ箸墓だなんて言ってる方がよほど荒らし。

252日本@名無史さん2018/11/10(土) 18:22:15.92
>>245
根拠はないよ

253日本@名無史さん2018/11/10(土) 18:23:33.17
>>206
崇神が3世紀の卑弥呼の時代だと言ってるバカ以外。

254日本@名無史さん2018/11/10(土) 18:26:26.57
>>247
何をいってるのか理解不能


地面の水平なところに
徑一百二十一尺七寸五分の正確な円を描くのには
徑二十一步ぶん整地する

当たり前だし、必要なことだ
ちゃんと意味のあることであって

>全く無意味な「ダブった二度記載」

だとか決めつける理由は全くない

255日本@名無史さん2018/11/10(土) 18:29:36.07
>>250
>大和は六御県だよ

それ、「忌部はん」の進出拠点なんだよ。  @阿波

256日本@名無史さん2018/11/10(土) 18:33:15.00
>>675
>>ほぼ全て「長里」が否定され、<

>ほぼをつければ否定されないとか、バカなことを考えて保険をかけてんじゃねーよww<

記録記載された里数値は、当然全て近似値だ。
不可知部分が殆どである自然に100%絶対正しい、という計測値など存在しない。当たり前の事。

>>天柱山も含めて、<

>天柱山の話は、古田氏が言い始めた瞬間に、同じ九州説の安本美典氏に
速攻で否定・論破された事実があるんだが、古田史学関係者のみそれを認めていないww<

漢文では、数量説明文言は、説明対象の直後に記載する、という事が原則やルールであり、
だから「天柱山高峻二十余里」の「二十余里」の説明対象は、その前の「天柱山高峻」の説明であり、
安本が言ったような、「二十余里」の後ろの文言の「道」の説明にはならない。
そして、数量説明が形容詞のように著明な文言として使用される場合には、
「千里馬」などのように名詞の前に付ける事もあるが、
そんな場合には「余」などという近似表現をせずに、「断定」数量を使うものであり、
そういう意味でも、安本説明は×であった。
実際、中国人学者らは、「二十余里」は「天柱山高峻」の説明だ、という解釈だ。

257日本@名無史さん2018/11/10(土) 18:33:19.83
>>251
「ヒミコが誰か言えず」って発想が
異常だと思うんだけどな

もう記紀の登場人物が実在だと
最初から決めつけちゃってるわけでしょ?

258日本@名無史さん2018/11/10(土) 18:35:16.78
テンプレ脳で九州説に勝てるつもりかよ

259日本@名無史さん2018/11/10(土) 18:36:46.96
>>256
>だから「天柱山高峻二十余里」の「二十余里」の説明対象は、その前の「天柱山高峻」の説明であり、

そうだよ
だから「高峻」の説明が標高だという解釈は明らかに間違いだね

260日本@名無史さん2018/11/10(土) 18:39:28.28
>>257
「ヒミコが誰か言えず」って発想が
異常だと思うんだけどなって発想が異常だと思うんだけどな。

もう記紀の登場人物が非実在だと
最初から決めつけちゃってるわけでしょ?

261日本@名無史さん2018/11/10(土) 18:39:55.60
>>253
つまり、また具体的情報は全く出せないわけだ
それで畿内説に歯が立つわけないって
なんで自覚できないのかね

262日本@名無史さん2018/11/10(土) 18:41:10.71
>>260
なぜ異常だと思うの?

理由は?

263日本@名無史さん2018/11/10(土) 18:42:33.43
>>258
>テンプレ脳で九州説に勝てるつもりかよ

これが、九州説のダメさ加減を如実に表してるよね
「勝てるつもりかよ」ってww
学問は勝ち負けじゃないんだよ
真理の追究が目的

九州説が正しいなら、それでいいんだけれど、現状九州説を肯定する根拠が皆無だからね
九州説の人が根拠だといってたものは、軒並み否定済みで、
その否定の結果が、ここのテンプレに根拠論証つきで明記されてる

最近、九州説で根拠をつけて書き込む人が皆無だろ?
もう、使える論拠すら残っていないw

264subo2018/11/10(土) 18:44:59.28
崇神天皇は3世紀末から4世紀初めだよ

265日本@名無史さん2018/11/10(土) 18:45:26.37
>>683
>阿波も倭国の有力な地
中国地方に狗奴国があったから倭国としては重要な地だよ<

「南≠東」などに拠って×。
阿波も、元は出雲銅鐸系地域であり、
そこへ九州倭国の東征毛人五十五國があり、それにしても拠って支配地になった国の一つ。

266日本@名無史さん2018/11/10(土) 18:45:38.75
>>260
これ、論理的思考が出来ないと
自白なさっているわけですな
お気の毒である

267subo2018/11/10(土) 18:46:37.56
>>263
根拠はきっちり示したよ

268日本@名無史さん2018/11/10(土) 18:46:58.59
>>264
ほら、また
w

決して根拠を付けて書き込まない

269日本@名無史さん2018/11/10(土) 18:47:01.40
>>263
>最近、九州説で根拠をつけて書き込む人が皆無だろ?

畿内説も同じじゃん。  @阿波

270日本@名無史さん2018/11/10(土) 18:47:12.05
オウム返しはザラコク並みだっていう自白だからやめれって言ってるのにw
左側スロープ君も、完全にザラコク並みトンデモの位置に落ち着いちゃったな

271日本@名無史さん2018/11/10(土) 18:47:55.17
>>267
いつ、どこで何と言って?
どうしていつも根拠を付けて書き込まないの?

272日本@名無史さん2018/11/10(土) 18:48:41.95
>>267
>根拠はきっちり示したよ

>>258の「テンプレ脳で九州説に勝てるつもりかよ 」のどこに根拠があるって?
テンプレ脳の部分かい?

273日本@名無史さん2018/11/10(土) 18:50:35.25
>>257
なぜ異常だと思うの?

理由は?

274日本@名無史さん2018/11/10(土) 18:50:37.89
>>269
>畿内説も同じじゃん。

テンプレに記録してるからね
「八咫鏡は円周が八咫だから」っていう戯言の否定は、
私が挙げた根拠をまとめてくれたものだよ

275日本@名無史さん2018/11/10(土) 18:51:35.89
オウム返しはザラコク並みだっていう自白だからやめれって言ってるのにw
箸バカ君も、完全にザラコク並みトンデモの位置に落ち着いちゃったな

276日本@名無史さん2018/11/10(土) 18:52:55.69
>>261
俺は畿内説だアホ。

277日本@名無史さん2018/11/10(土) 18:53:51.37
>>276
いいえ
あなたはトンデモ説です

278日本@名無史さん2018/11/10(土) 18:54:04.20
>>273
>なぜ異常だと思うの?
>理由は?

欠史八代が、なぜ欠史になってると思うんだ?
8世紀時点で既に、十分な記録が失われていた時代の記述が「正しいという前提」で
論じるのは、意味がないとするのが普通だろ?

それを、「正しいという前提」どころが絶対視して、他人を攻撃するなんていうのは
異常じゃなかったら何だい?

279日本@名無史さん2018/11/10(土) 18:55:11.78
>>251
それは畿内説スレで話す内容ではないな

280日本@名無史さん2018/11/10(土) 18:55:34.15
「箸バカ」とか書ける人に、恥の概念とか他人への敬意尊重とかを
説くだけ無駄だってのは分かってるんだけどね

281日本@名無史さん2018/11/10(土) 18:55:37.45
>>274
>テンプレに記録してるからね

そのテンプレが「根拠論証じゃなくて、妄想」なんだと、何度言えばw  @阿波

282日本@名無史さん2018/11/10(土) 18:57:00.35
>>275
なんだか「張り紙禁止の張り紙」みたいなメタ表現になってるなww

283日本@名無史さん2018/11/10(土) 18:57:36.62
>>687
>きみね あのねーー 筑紫忌部の歴史を教えてくれよ<

元々、「〜部」自体が、縄文以来の出雲での「職掌」文言。
そして、九州倭人の天孫族が出雲から「国譲り」を強制した時に、
「職掌文言の部」も九州に移って存続し、
また、出雲の支配下にあった西日本各地の「元」出雲系部族にも、
「部」は存続していたが、
九州倭國の「東征毛人五十五國」に拠って、倭国内の部族に繰り込まれて行った。

284日本@名無史さん2018/11/10(土) 18:59:02.10
>>281
>そのテンプレが「根拠論証じゃなくて、妄想」なんだと、何度言えばw  @阿波

「妄想」だと言いたいなら、きちんとどこがどう妄想なのか、
「具体的に」「根拠を示して」論じてくださいね!

「満津浦」が松浦だとかいう脆弱な論拠だと相手にされないかもしれないけれどww

285日本@名無史さん2018/11/10(土) 19:00:04.31
左側スロープ君、葛城スレが「きのこ」に侵食されてるよ!ww

286日本@名無史さん2018/11/10(土) 19:00:49.61
>>281
という証拠は?

287日本@名無史さん2018/11/10(土) 19:01:08.48
【古代史】「邪馬台国」時代の鉄器生産工房…「ヤマト建国」に隠された淡路島の「不運な歴史」
http://2chb.net/r/newsplus/1541840994/

288日本@名無史さん2018/11/10(土) 19:02:31.77
>>247
夏至の正午
地面に立てた8尺の棒の影が1尺6寸で
南に千里で1寸5尺北に千里で1寸7尺で南北丁度1寸づつの差になる地点なんぞ
この地球上に存在しない

一寸千里の法則は空想の数値
短里のあった根拠にならない

289日本@名無史さん2018/11/10(土) 19:03:35.64
>>691
「南→東」などの嘘つき騙しのように、
まったくまともな証拠のないトンデモ説だな、大和説は。

290日本@名無史さん2018/11/10(土) 19:06:13.25
>>248
阿波さん
しかし畿内以外の候補地は」大集落群と大騒ぎしないよ

291日本@名無史さん2018/11/10(土) 19:09:01.98
>>249
>集落跡が未だ発見されてないって、誰の説る

纒向の事実でねーの
もしかして見つかった

292日本@名無史さん2018/11/10(土) 19:09:54.60
>>284
>「満津浦」が松浦だとかいう脆弱な論拠だと相手にされないかもしれないけれどww

まさにそれが、テンプレだよ。  @阿波

293日本@名無史さん2018/11/10(土) 19:10:12.96
>>274
テンプレしっかり読んだら笑うぞ

294日本@名無史さん2018/11/10(土) 19:12:16.51
>>290
>しかし畿内以外の候補地は」大集落群と大騒ぎしないよ

しかし、「弥生銀座」なんて大騒ぎしているよ。 つまらん遺跡ばっかりなのに。  @阿波

295日本@名無史さん2018/11/10(土) 19:12:43.36
>>700
>>「南≠東」だけで、始めから、×。<

>残念だったな
九州説最後の頼みの綱「南≠東」が、とっくに「会稽東治之東」で、×。<

残念だったな。
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説の最後の抵抗の「南≠東」が、
陳寿の「会稽東治之東」という「女王國の位置推定」文で、
「南の方向は正しい」という事になり、
東方向になる大和説は、×になった。

296日本@名無史さん2018/11/10(土) 19:23:57.76
>>278
>欠史八代が、なぜ欠史になってると思うんだ?

当たり前ではないか、ヒミコからトヨ、そして崇神迄の一番コアな歴史を書くことになるからだ。
7代孝靈の4人の妃の名前まで書かれてるのに事績がないということは、
わざと事績を書かなかったのだ。

>「正しいという前提」どころが絶対視して、他人を攻撃するなんていうのは
異常じゃなかったら何だい?

それはそのままお前のことだ。

297日本@名無史さん2018/11/10(土) 19:28:36.99
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 

298日本@名無史さん2018/11/10(土) 19:31:58.98
破綻した畿内説の宣伝係員が、根拠が空想だったことを曝かれたテンプレートのせいで、信用を失い、討論に敗北したな。。

299日本@名無史さん2018/11/10(土) 19:36:34.94
>>266
ヒミコは記紀に登場しないという固定観念を疑わないと。
ヒミコを見つけれないやつがヒミコは記紀に登場しないなんて泣きごとを言ったわけだ。

まぁ邪馬台国論争を仕掛けた江戸時代の国学者たちはヒミコが誰なのか充分わかってた上で論争を仕掛けたわけだがね。

300日本@名無史さん2018/11/10(土) 19:44:38.01
邪馬台国論争を仕掛けた江戸時代の国学者たちが卑弥呼が誰なのかどうやって理解したか言おうか。

・倭国王帥升(すいしょう)が名前の似ているスサノオではないのか。

日本にとって最悪の歴史だが、あえてそうではないかとするこの仮説一つでヒミコは分かる。
スサノオの約100年後にヒミコ、そしてトヨがいる事になるからだ。

朝貢年

107年 倭国王・帥升     スサノオ
 ・
 ・
 ・
 ・
 ・
238年 卑弥呼       ヒメ踏鞴
 ・
266年 台与        トヨ津 

301日本@名無史さん2018/11/10(土) 19:52:26.21
>>296
>それはそのままお前のことだ。

>>296と違って、左側スロープなんて見えないし、ただの下り斜面を塚だなんて言い張らないよ?
どこがそのままなんだ?

何も絶対視して他人の攻撃に使ったりなんてしてないだろ?

オウム返しと自分への批判を相手のこととするミラーリングは、無能の証明ww

302日本@名無史さん2018/11/10(土) 19:53:51.62
>>299
>ヒミコは記紀に登場しないという固定観念を疑わないと。

している、という決め付け固定観念を問題にされてるのが
理解出来ないんだろうか

303日本@名無史さん2018/11/10(土) 19:54:17.29
というわけで、結論。

邪馬台国論争とは、ヒミコが誰なのか充分わかってた江戸時代の国学者たちが、
ヒミコは誰だろう?邪馬台国は九州なのではないか?としらばくれて仕掛けた論争なのだ。

304日本@名無史さん2018/11/10(土) 19:54:48.28
>>297
>テンプレしっかり読んだら笑うぞ

だから、「どこが」「どのように」笑えるのかを
「具体的に」「根拠を示して」言わないと!

それができないから、負け犬の遠吠えなんだよ?w

305日本@名無史さん2018/11/10(土) 19:55:38.00
百襲姫 ももそひめ
百済 くだら

これうそだからな

百済がくだらなら、百襲姫はクソヒメだろ

306日本@名無史さん2018/11/10(土) 19:55:45.16
>>301
>左側スロープなんて見えないし

いつの時代の物かはともかく俺には見えるし。
お前の脳の問題だ。
IPS細胞でどうにかしろ。

307日本@名無史さん2018/11/10(土) 19:56:55.28
>>302
ヒミコもトヨも記紀にいるのだから仕方ない。

308日本@名無史さん2018/11/10(土) 19:56:56.81
百人を殺して埋めたのが卑弥呼
百襲姫の名の通りやな

309日本@名無史さん2018/11/10(土) 20:02:28.86
>>308
魏志を意識して付けた当て字だろうな

310日本@名無史さん2018/11/10(土) 20:04:13.80
卑弥呼「魏では墓に奴隷を一緒に埋めるらしいぞ!私もやろっと!」
→箸墓

次の王「卑弥呼さんやりすぎやろ。。。やめようぜ。。。俺はハニワでええやん。。。」

311日本@名無史さん2018/11/10(土) 20:09:30.74
>>731
>倭王武  倭武  倭武天皇  倭武命
用語の使い分け、人物の比定について、誰が明確に説明できる?<

倭王武=倭武。
「倭」は姓として使われており、九州倭国の姓になっており、武が名前。
倭武命も「倭」が姓であり、「武命」が呼称名。
しかし、「日本武尊」とも呼ばれるから、
書紀は、大和日本国側の人物であった、という認識していた事になり、
だから、その人物は、
九州倭国王家と同じ姓の、九州倭国内での武将クラスであったんだろう、
という事になる。

312日本@名無史さん2018/11/10(土) 20:10:53.49
帥升の記述と言い、ヒミコの記述と言い、日本の歴史は奴婢から始まる。

太古からの王権の謂れと奴婢郷の両方が存在する地域、それが邪馬台国だ。

それは葛城しかないのだ。

もういい加減にあきらめろ。

313日本@名無史さん2018/11/10(土) 20:12:26.89
>>306
それを病気と人は言う

314日本@名無史さん2018/11/10(土) 20:15:35.28
>>312
>奴婢郷

それが見えるのが左側スロープ君だけだからだよww

315日本@名無史さん2018/11/10(土) 20:15:48.61
笛吹の北方にきたという天村雲命は、唐古・鍵遺跡の主だったのではないかな、、、

316日本@名無史さん2018/11/10(土) 20:17:28.41
>>306
>いつの時代の物かはともかく俺には見えるし。

農道はみんな見えてるんだよ
それを前方部まで繋がる墳丘側面のスロープだって言い張るおかしな人がいるだけでさww

317日本@名無史さん2018/11/10(土) 20:19:30.17
>>308
>百襲姫の名の通りやな

百人を女王自ら襲ったんか?ww
それは気付かんかったw

318日本@名無史さん2018/11/10(土) 20:21:48.18
>>313
お前農道って言ってただろ。
ということは見えてるんじゃないか。

なんで見えないなんて嘘云うの?

319日本@名無史さん2018/11/10(土) 20:23:23.36
>>316
>それを前方部まで繋がる墳丘側面のスロープだって言い張るおかしな人がいるだけでさww

円墳先造説よりよほどましだがなwww

320日本@名無史さん2018/11/10(土) 20:23:49.37
>>226
弥生後期〜弥生終末

福岡市と糸島の三雲〜井原〜平原とその周辺の出土鏡数だけで、かなりの数になりそうなんだが

破砕鏡と破鏡を一緒にしてない?

完鏡が多いかもしれんが、副葬文化の違いによるものだろうし
それに、弥生後期〜終末の出土数は圧倒的に北部九州なのだが?

古墳時代に入ってからならわかるが、弥生時代の鏡で北部九州と比べるのは得策じゃないと思うよ

321日本@名無史さん2018/11/10(土) 20:24:41.75
>>318
円丘に続くスロープなんて誰にも見えないんだよ
墳丘を横断する農道しか見えない
正常な人にはね

322日本@名無史さん2018/11/10(土) 20:25:17.15
>>319
理由は?

323日本@名無史さん2018/11/10(土) 20:25:30.72
>>314
今もある国栖(クズ クニス)

お前は本物のクス゛だがなw

324日本@名無史さん2018/11/10(土) 20:27:01.28
>>321
>農道しか見えない

死者に参詣するのは当たり前だろ。
お前の説なら爺ちゃんは参詣できないことになる。

325日本@名無史さん2018/11/10(土) 20:28:18.69
>>321
農道しか見えない というのはお前の主観だね。

全然意味がない。

326日本@名無史さん2018/11/10(土) 20:29:56.40
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 

327subo2018/11/10(土) 20:30:56.28
>>305
くそひめ、、、、、吹いたwww

328日本@名無史さん2018/11/10(土) 20:34:07.37
>>747
>>「景初三年」という情報は、 唐代以後の後代の「自己解釈に拠る書き換え」が沢山あった
信頼性が半分以下の史家などの記載であり、<

>なんの根拠もありませんねぇ。<

史料の記載事実や、史料批判された実態が、根拠。

>>写本版本などの「景初二年」など記録を否定してまでして、<

>写本から引用した日本書紀は「景初三年」なんだよね。<

写本には「景初三年」なんて99.5%以上存在せず、
書紀は、「魏志云:明帝景初三年,六月・・・」だから、「写本から引用」を全くしていない。

>>>《通史》《通典》の話に、突然《晋書》が出てくるのか、さっぱりわかりませんねぇ。<

>>後代の史家の「二年→三年」という「自己解釈に拠る書き換え」の、論理の出発点や原因になったのが、
晋書の「曖昧な記載」であったから。<

>的外れですね。 日本書紀の引用は北宋の刊本以前の魏志の写本からですからねぇ。<

嘘つきですねえ。前項のように、書紀は、魏志写本を引用していないねえ。

>刊本を元にした《通典》ではねぇ。<

通典は、魏志写本を元にした、
という事が史料事実であり、史料実態であるんだからねえ。

329subo2018/11/10(土) 20:34:08.55
>>312
鴨厨てさ〜、邪馬台国は佐賀の田んぼなんだよ、想像してみなよ

330日本@名無史さん2018/11/10(土) 20:34:57.25
石上神宮や石切劔社の関わりから、唐古・鍵遺跡は物部氏の遺跡と思われている節があるな、、、

331subo2018/11/10(土) 20:35:38.74
ザラコクも邪馬台国が佐賀の田んぼにあったことに異論はないであろう

332subo2018/11/10(土) 20:36:46.52
物部氏はスサノオ系だろ

333日本@名無史さん2018/11/10(土) 20:43:02.39
鍛治技術を和邇氏ももっていたことと
造船技術をいなべと言ったこと
丹波との繋がりを考えると、やはり孝霊天皇の後は彦坐王が引き継いだようだね、、、

334日本@名無史さん2018/11/10(土) 20:44:28.93
坂戸由良姫と関係があると言うことは、近江の三上とも同族なのだね、、、

335日本@名無史さん2018/11/10(土) 20:45:52.42
>>330
ニギハヤヒだな

336日本@名無史さん2018/11/10(土) 20:48:19.39
高倉下は紀州に移り住んだが大屋姫は笛吹に留まったそうだね、、、
紀伊国造家は皇統だったのだね、、、
それで武内宿禰が記録されたのか、、、なるほど、、、

337日本@名無史さん2018/11/10(土) 20:52:28.07
>>318
>お前農道って言ってただろ。
>ということは見えてるんじゃないか。

最初からこう言ってるんだが

邪馬台国畿内説 Part391
http://2chb.net/r/history/1540395218/470
「ずっと後代に前方部を横切る踏み分け道がつけられているからそれをスロープと勘違いしてるんじゃないかな?」

338日本@名無史さん2018/11/10(土) 20:53:06.84
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 

339日本@名無史さん2018/11/10(土) 20:55:56.09
>>337

農道というのはお前の主観だな。
赤外線だけでいつごろできたか分かるわけもないし。

340日本@名無史さん2018/11/10(土) 20:57:24.11
村雲に始まる王朝は、劔がシンボルでそれを尾張まで持っていったと言うことだね、、、
海幸彦の子孫は海人という先入観があったけれども鍛治技術も持っていたとは、、、

341日本@名無史さん2018/11/10(土) 20:59:25.16
>>747
>>99.5%以上の確率のある写本版本の「二年」を否定してまでして、
はるか後代学者の「自己解釈に拠る書き換え」の、確率が殆どない「三年」を採用するなんて、
この「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者には、呆れます。
「イイとこ取り」なのでしょうね。<

>「ついうっかり」と99.5%がどう結びつくのかなぁ?<

関係がないねえ。
「ついうっかり」は、「書き換え」という犯罪的行為をする人間が、
うっかり元の史料事実通りの話をしゃべってしまう行為。
「99.5%」は、写本版本における文字転写において間違いが発生しない確率。

>それに99.5%があてにならない数字だったの忘れたのかなぁ?<

「写本版本の全校勘でも、差異が発生していなかった大体の確率」という史料実態。

>以前、三國志の文字数と裴注の文字数を教えてあげたのにね。<

Yahooでのハイエナの「三国志の文字数80万字」は、
始めから、大まかな概算であった、と言っておいた。

>まだ言うんだぁ。 「景初二年は三年の誤」と言うのが中国でも主流なんだってば。<

権力に弱い現代中国学者らは、
現代日本の「南→東」などの嘘つき騙しの大和説学者らが信頼性がない事と同じく、
「主流」なんて全く価値も信頼性もないもの。
信頼性や価値があるのは、史料事実や、史料批判されて得られた史料実態。

342日本@名無史さん2018/11/10(土) 21:01:56.51
お行儀が悪いよスレ主
>>1=>>304
>>297
>テンプレしっかり読んだら笑うぞ

だから、「どこが」「どのように」笑えるのかを
「具体的に」「根拠を示して」言わないと!

それができないから、負け犬の遠吠えなんだよ?w

343日本@名無史さん2018/11/10(土) 21:03:54.08
スロープって何古墳の話なんだ

344日本@名無史さん2018/11/10(土) 21:05:06.97
うましまじが鏡を持ち込んだというのは、正確ではないのだな、、、太陽崇拝の信仰と、鏡祭祀の開始は分けて考えるべきなのだな、、、

345日本@名無史さん2018/11/10(土) 21:08:16.78
>>339
>農道というのはお前の主観だな。
>赤外線だけでいつごろできたか分かるわけもないし。

いつできたか分からなくても、前方部を横切る道だってのは「見て分かる」だろ?
それを後円部にものを持ち上げるスロープだと言い張るってのは、本当に恥がないよな

346日本@名無史さん2018/11/10(土) 21:09:48.04
>>748
>>まさに、信頼性や客観性の高い同時代記録文献の「全否定」ですねぇ。
日本書紀も、倭國の存在や歴史を抹殺盗用造作した半分偽書であり、
魏志の卑弥呼と壹與の事績を神功紀に挿入したり、ついうっかり「明帝」と書いてしまったりの、
全く信頼性がないのですよ。<

>こちらは多数の文献から誤記を判定してるだけなんですがね。<

「多数の文献から判定」なんて、
そりゃ・・・・なんて無茶苦茶な文献を一杯書くものであり、
そんな事は全く価値がない。
価値があるのは、史料事実や、それの史料批判して得られた確率の高い史料実態。

>今度は日本書紀の否定ですかぁ。<

いや、始めから「半分×書」だとか「半分偽書」だとか言っておいた筈だよ。
当たり前の事だ。

>やっぱり全文献の否定の一環ですねぇ。<

この男は、やっぱり口先での誤魔化しをする半分×詐欺師人間であったようですねえ。

347日本@名無史さん2018/11/10(土) 21:10:41.50
つまりうましまじは道教祭祀を本格的に持ち込んで、海幸彦の銅鐸祭祀に対抗する宗教紛争を起こしたんだな、、、葛城に初期古墳がなく
物部の道教祭祀が始まったから纏向に古墳があるのだね、、、なるほど、、、

348日本@名無史さん2018/11/10(土) 21:12:50.48
ケルトの祭りをキリスト教が乗っ取ったように
三輪山の太陽崇拝を道教式にのっとったということなのだね、、、

349日本@名無史さん2018/11/10(土) 21:13:13.79
>>749
>邪馬台国はわからないが天皇のルーツは四国だろうね<

天皇家自体は、ルーツは九州と百済だった、と証言していたようだねえ。

350日本@名無史さん2018/11/10(土) 21:14:42.06
箸墓が三輪山とちがって、巻向山に向いていると言うことは、箸墓がかなり新しいことを意味することになるね、、、

351日本@名無史さん2018/11/10(土) 21:17:04.61
孝霊天皇に関わりが深い百襲媛は
うましまじがまだ纏向には来ていない時代だから、三輪山の巫女だった可能性が高いな、、、

352日本@名無史さん2018/11/10(土) 21:18:33.17
三輪山の巫女が三輪山と関係ない設備の箸墓と関わりがあるとは思えないな、、、

353日本@名無史さん2018/11/10(土) 21:21:32.28
>>340
>海幸彦の子孫は海人という先入観があったけれども鍛治技術も持っていたとは、、、

倭国(阿波)の海人族なんだから、当たり前。  @阿波

354日本@名無史さん2018/11/10(土) 21:23:45.48
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 

355日本@名無史さん2018/11/10(土) 21:25:37.81
>>350
>箸墓が三輪山とちがって、巻向山に向いていると言うことは

巻向山じゃなくて、穴師山だよ
箸中山古墳の軸線は夏至の日の出の方向に合わされていて、
箸中山古墳から見ると、夏至の太陽が穴師山から昇るんだよ

356日本@名無史さん2018/11/10(土) 21:30:47.61
敗者の歴史まで奪い取り捏造する奴らばかり

畿内の勢力は、女王国、卑弥呼らの侵略に抗い破れたんだよ
破れた国々にも人々が住んでいて歴史があった

それを無きものするのは、クズのすること

357日本@名無史さん2018/11/10(土) 21:34:09.90
纏向というと大神神社と思っていたけれども
穴師坐大兵主神社というものがあるのだね、、、
鏡が御神体なのだな、、、

358日本@名無史さん2018/11/10(土) 21:41:11.23
敦賀湾〜伊吹山の勢力も、卑弥呼を共立した国々、初期のヤマト政権に必死で抵抗していたんですよ。
気多大社の謂れは興味深いです。
孝元天皇の時代(台与の頃かな)オオナムチが化鳥、大蛇を退治して海路が開けたとある
越〜伊吹山にかけて、鳥と大蛇の国があったんでしょう。

四隅突出墳丘墓の分布
広島→岡山、島根、鳥取→石川、富山

舞鶴マイヅル、敦賀ツルガに無いのは興味深いです。

気多大菩薩は、孝元天皇の時代、従者を引き連れて渡来した異国の王子とある

オオナムチは、異国の勢力の侵入を手引きしてまで、在地の勢力を伐とうとしたしたんですよ。

359日本@名無史さん2018/11/10(土) 21:43:32.91
>>754
>>景初三年の12月の次に「景初三年の後十二月」を置いたんだから、1年余り喪に服したんだよ。<

>《通典》卷八十『魏武帝遺詔:「百官當臨殿中者,十五舉音。葬畢便除。」文帝崩,國內服三日。
蜀劉備,臣下發喪滿三日,除服,至葬復如禮。此則魏蜀又異於漢也。』
文帝が崩御した時はたった三日らしいぞ。 一年なんて何の根拠もないようだね。<

はるか後代の通典の「 此則魏蜀又異於漢也」なんて、根拠にならないし、
通典が「景初三年の後十二月」に関する説明をしていなくっちゃ、ますます根拠にならない。

>>いや、劉マは、帯方の「越海定二郡、諸韓國臣智加賜邑君印綬」までが任務であり、<

>「までが任務」というのも君の思い付きですよね。<

劉マらが、司馬懿の公孫氏討伐に応援に行かず、のんびり遊んでいて若しも司馬懿が負けたら、
そりゃ、首が危ないし、公孫氏からも討伐を食らって、命も危なくなるだろうねえ。

>それを「景初二年六月」以前に終えて、後任が来て交代なんて出来ないでしょ。<

交代していた事になる、という事が史料事実。

360日本@名無史さん2018/11/10(土) 21:44:29.89
>>574
>>おそらく、劉マらは、公孫氏戦に出動しており、<

>これも妄想ですよね。「おそらく」だし、どこにもそんな記事ないし。<

傍観していては首が飛ぶかも、という人類の常識や、史料実態が根拠。

>>劉夏は、公孫氏征伐完了時点頃までの後役の太守だな。<

>「時点頃」ってどういう時間的範囲を指すのかなぁ? 公孫氏征伐完了は景初二年八月。
劉夏が太守と確認できるのが六月。 二年だと矛盾があるよね。<

韓伝の「景初中、明帝密遣帶方太守劉kin、樂浪太守鮮于嗣越海定二郡、諸韓國臣智加賜邑君印綬、其次與邑長」の直ぐ後に、
「部從事呉林以樂浪本統韓國、分割辰韓八國以與樂浪、吏譯轉有異同、臣智激韓忿、攻帶方郡崎離營。
時太守弓遵、樂浪太守劉茂興兵伐之、遵戰死、二郡遂滅韓」
の事件の記載があるから。

361日本@名無史さん2018/11/10(土) 21:44:48.23
>>345
>>345
>いつできたか分からなくても、前方部を横切る道だってのは「見て分かる」だろ?

前方部を横切る道って何だ。

>それを後円部にものを持ち上げるスロープだと言い張るってのは、本当に恥がないよな

後円部にもの(棺)をずり上げるみちであったろうし、参詣もしたのであろうね。

後円部先造説を言い張るおまえって本当に恥がないよな

362日本@名無史さん2018/11/10(土) 21:47:39.30
卑弥呼を共立した勢力は、カグツチの血が石に落ちて生まれた勢力ですよ

石折イワサク、根折ネサク、石筒之男、甕速日、樋速日、建御雷之男(建フツ、豊フツ)、闇淤加美、闇御津羽

九州北部の住吉三神は、石筒之男、吉備(甕速日、樋速日、建御雷之男)に倒された
饒速日と物部かな

九州南部の海幸彦(隼人の祖)は、イワサク(山幸彦)に倒された
イワサク磐折は、磐割、磐余。
磐余は石村。

根の国は元々は様々な渡来人が雑居する土地であったが、根折、オオナムチにより統一された

彼らが連合して最後に攻め込んだのが近畿地方(クニ、クナ)
天岩戸という防衛拠点を突破して攻め込んで来たんです
2世紀末、彼らの侵略で播磨淡路島摂津なにわ北河内南近江そしてヤマトが陥落
魏志倭人伝当時、必死で侵略に抗っていたのは南河内と和泉ですよ。魏志倭人伝でいう狗奴国。

363日本@名無史さん2018/11/10(土) 21:48:55.29
卑弥呼を共立した国の一つ
投馬国、官ミミ、ミミナリ
九州南部、宮崎〜鹿児島、記紀でいう山幸彦の国だろう

潮嶽神社
ヒコホホデミノミコト(山幸)に追われたホデリノミコト(海幸)がこの地にたどり着き、居を構えたと伝えらています。
神話、海幸彦、山幸彦では山幸彦の影に隠れ、山幸彦ほど有名ではありませんが、海幸彦は隼人(南九州に居住する氏族)の祖といわれております。

隼人の祖は海幸彦。
海幸彦と山幸彦は対立していた。
海幸彦は内陸へ追いやられたとある。

山幸彦の子孫を自称する天武の時代に隼人の乱が起きたのは必然と言える。

364日本@名無史さん2018/11/10(土) 21:54:32.58
>>226
>ただ弥生後期後半に入ると九州からは完形鏡が現れなくなり、新しい鏡も出てこなくなる
>それに対して広く西日本各地で完形鏡が多数出土するようになる

九州は破鏡の文化に移行したのに、畿内は100年単位で遅れていたということだろう。

365日本@名無史さん2018/11/10(土) 21:56:18.75
>>230
>その反対給付は、例えば玉や朱などの財貨であったかも知れない。

纒向にそのような痕跡がない。
そのような痕跡、すなわち各地からの産物の集積が見られるのは、福岡。

366日本@名無史さん2018/11/10(土) 21:57:53.59
近畿の男系は縄文系の遺伝子は結構残っていて、他の地域と大差ない。
畿内の弥生時代の遺跡は縄文時代の遺跡に連なるものが多い。
渡来人が縄文人達の水源を奪った痕跡もない。
渡来人達が新たに住み始めたのは洲や井戸の技術がないと住めない水利の悪い台地。
2世紀半ば迄は環濠が要らなくなるくらい平和な時代になっていた。
様々なルーツの集団が仲良く暮らしていたんです。
温暖で河内湖の水資源も豊かで稲作も盛んになり、豊かな地域に発展したんだろう。日本書紀でいう食国、芦原中津國。 クニ、クナ。

畿内の勢力は2世紀末に大きく変わる。
纒向遺跡でも、東海や山陰、吉備などの外来系土器が突然現れる。
記紀にもヤマト征伐によってヤマト政権が始まる様子が記述されている。
畿内征伐によって誕生した邪馬台国、ヤマト政権の主体は、東海、山陰、吉備、阿波。

367日本@名無史さん2018/11/10(土) 22:00:05.80
>>365
>そのような痕跡、すなわち各地からの産物の集積が見られるのは、福岡。

なにを嬉しそうに。  それらを持ち込んだのは、筑紫忌部と、何度言えばw  @阿波

368日本@名無史さん2018/11/10(土) 22:00:19.63
畿内から環濠が消えていく1世紀後半〜2世紀中頃の、守山の伊勢遺跡
政治の中枢の誕生を示す遺跡だろう

中国の建築様式やレンガ、出雲や北陸の建築様式の建物など各地の特徴を持った建物跡が出土している。
おそらく30もの首長たちが集い、祭祀を行い政治が行われていたと推測できる。
面白いことに伊勢遺跡の全盛期に同時代の墓が周辺に認められないんだよね。政治の中枢であるが墓がない、国会のような年に1回首長たちが集う祭祀の場であった可能性がある。
神無月に出雲に神々が集う言い伝えがあるが、伊勢遺跡の伝承だった可能性もある。

伊勢遺跡の祭祀は夜に行われていたと言われている。
夜の食国を治めたのは月夜見
農作業に使う暦を作って、首長たちに伝えていたのかもしれない

魏志倭人伝の魏略からの引用に女王国には暦がないという記述は興味深い
天津罪は、農業の作法を知らない人が適当に稲作をしたこととも読める。

369日本@名無史さん2018/11/10(土) 22:02:53.35
>>772の忘れ物
>阿波は元々大和のX式土器の伝播先で阿波から何かが伝わってるわけではない<

成程。大和側の当然の反論だな。
しかし、X式土器も、筑紫が先行していた、という可能性が高い。

>前方後円墳も吉備→播磨、讃岐、阿波という過程で形が作られている<

これは、モンゴル〜高句麗の前方後円墳の伝来が、
筑紫への直達と、出雲を介して?吉備などの瀬戸内への伝来の、両方の可能性があるが、
後者は、出雲に存在しない、という事がどうしてもネックになり、
やはり、筑紫に最も早く伝来した、という可能性が高い。

>順序的には播磨、讃岐が先行してる 初期の纏向型は葺石をしない等の独自点もあるから
そのストレートな流れで来たわけでもないと言われている<

筑紫のの那珂八幡は、
「くびれ部彎曲」であって高句麗の前方後円墳に近く、撥型ではないので、
やはり、東瀬戸内の撥型よりも古い、と思う。

370日本@名無史さん2018/11/10(土) 22:04:26.50
>>366
>畿内征伐によって誕生した邪馬台国、ヤマト政権の主体は、東海、山陰、吉備、阿波。

畿内に、征伐されるような勢力は最初っから居ないんだよ。
東海、山陰、吉備、阿波の「忌部はん」たちが開拓に入っただけのことと、何度言えばw  @阿波

371日本@名無史さん2018/11/10(土) 22:04:29.33
>>357
日本の神社はほとんどが鏡を御神体にしている。
九州北部の銅鏡文化、三種の神器の文化は、今日まで神道の中心を構成している。
しかも、それは卑弥呼の当時の中国人から見れば、五斗米道(鏡と剣を祭祀に用いる)の鬼道にそっくりに見えただろう。

372日本@名無史さん2018/11/10(土) 22:05:24.96
鎮魂歌
卑弥呼→台与の頃を歌ったものだろうか?
邪馬台国、初期のヤマト政権は、石器作りや狩猟を生業にしていた勢力が主体だったことが窺える
また、「フル」、「アチメ」という言葉は大和言葉では意味が分からないが、朝鮮語では「流れる」「朝日」という意味になる
初期のヤマト政権は、朝鮮半島と日本列島を行き来していた日本海側の勢力も関係していたのかもしれない
石上神宮の布留の謂れは、刀が【流れてきて】布で受け止めたら留まったというもの。

アチメ オオオオ オオオオ オオオオ
 天地ニキ揺ラカスハ サ揺ユラカス 神ワカモ 神コソハ キネキコウ キ揺ラナラハ
アチメ オオオオ オオオオ オオオオ
 【石ノ上】 【布瑠】社ノ 【太刀】モガト 願フ其ノ児ニ 其ノ奉ル 
アチメ オオオ オオオ オオオ
 【猟夫】ラガ 持タ木ノ【真弓】 奥山ニ 御狩スラシモ 弓ノ弭見ユ
アチメ オオオ オオオ オオオ
 上リマス【豊日霎】カ 御魂欲ス 本ハ金【矛】 末ハ木矛
アチメ オオオ オオオ オオオ
 【三輪山】ニ アリタテルチカサヲ 今栄エデハ 何時カ栄へム
アチメ オオオ オオオ オオオ
 吾妹子ガ、【穴師】ノ山ノ山ノ山モト 人も見ルカニ 深山カ【縵】為ヨ
アチメ オオオ オオオ オオオ
 魂筥ニ 【木綿】取リシデワ 魂チトラセヨ 御魂上リ 魂上リマシシ神ハ 今ゾ来マセル
アチメ オオオ オオオ オオオ
 御魂ミニ 去マシシ神ハ 今ゾ来マセル 魂筥持チテ 去リクルシ御魂 魂返シスナヤ

373subo2018/11/10(土) 22:08:03.72
伊勢遺跡は鍛冶屋の集団なんですよ、物部氏ですね

374日本@名無史さん2018/11/10(土) 22:09:50.16
【大麻比古神社 】

忌部氏の祖、【大麻比古】を祀る
かつては【サルタヒコ】も祀っていたようだ

大麻比古、又の名は【津咋見命 】

サルタヒコの遺言。
「底どく御魂」「つぶたつ御魂」「あわさく御魂」
【底】【独】【常】【立】【阿波咋】


忌部氏の祖は、阿波の海人を倒し、姫を乗っ取ったんじゃないかな
そして倭国大乱でサルタヒコを倒したと

サルタヒコが祀られていたのは荒魂を鎮魂しろということだったのかもしれない

375日本@名無史さん2018/11/10(土) 22:10:41.76
>>363
ミミナリと似た名前のミミタリが日本書紀に登場する。
神夏磯姫が朝敵と名指しした御木(みけ、豊前国三毛郡、大分県中津市)の川上の耳垂(みみたり)である。
これを見ても、邪馬台国が九州であることがわかる。
神夏磯姫は、うまいこと景行にとり入り、彼に自身の敵対勢力を排除させた。

376日本@名無史さん2018/11/10(土) 22:12:43.66
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 

377日本@名無史さん2018/11/10(土) 22:13:41.50
>>373
>伊勢遺跡は鍛冶屋の集団なんですよ、物部氏ですね

鍛冶屋も勾玉屋も紡織屋も織物屋も銅鐸屋も銅鏡屋も造船屋も船乗りも土建屋も石屋も
み〜んな倭国(阿波)にいるよ。  @阿波

378日本@名無史さん2018/11/10(土) 22:13:44.69
>>363
山幸彦(伊都高祖宮のヒコホホデミ)に敗れた海幸彦は、遠く南海の宮崎県妻で投馬国を立てて暮らしていた。

379日本@名無史さん2018/11/10(土) 22:16:14.36
ニギハヤヒ【布留】吉備の勢力に屈服した勢力は、徴用され物部に落とされたんですよ
播磨物部、讃岐物部、畿内の各地の物部

380日本@名無史さん2018/11/10(土) 22:19:09.74
>>379
>播磨物部、讃岐物部、畿内の各地の物部

だから、それらは倭国(阿波)を発った「忌部はん」と、何度言えばw  @阿波

381日本@名無史さん2018/11/10(土) 22:23:38.52
大和に誕生した邪馬台国は幾つかの地域の文化を集めて成立している

主に、摂津、河内、近江、播磨、讃岐、阿波
吉備は間接的に多くの点に関連しているが直接的な影響は少ない
定型化した古墳が登場した辺りから吉備の影響がハッキリと大きくなる

邪馬台国は卑弥呼生の頃の纏向型段階→卑弥呼死後の定型化以後の2段階の発展の姿が伺える

纏向型の時点では古墳のシステムも緩やかで形もまだ個性が見える
定型化後は一気に古墳の規格性がより整備されて中央と地方の姿がハッキリし始める

吉備が政権に強く関与するようになったことで王権の強化が進んだのだろうか

382日本@名無史さん2018/11/10(土) 22:25:38.53
>>381
>大和に誕生した邪馬台国

しれっと、ウソはイカンぜよ。  @阿波

383日本@名無史さん2018/11/10(土) 22:28:00.52
明治政府はかなり非道なことをした
各地の神社を集合させ、祭神を書き換え、伝承謂れを無きものにしようとした

神道を改変し国家神道を作り、天照大御神を皇祖神に書き換えた
伊勢神宮の神紋に菊の紋章が使われるようになったのも明治から

その結果、誤った歴史認識が広がってしまった
侵略者と被害者があべこべになってしまった
ネットでの異常な大阪叩きの原因は、明治政府と言っても過言ではない

384日本@名無史さん2018/11/10(土) 22:31:15.75
石上神宮や唐古・鍵遺跡
伊勢遺跡と三上祝など、従来の物部氏と思われていた要素が、そうではないことがはっきりして来たな、、、

385日本@名無史さん2018/11/10(土) 22:34:18.88
三上祝の祖形には鳥鳴海など、明らかに出雲と対応する人物名があるのが、、、

物部氏も北九州の遠賀川流域を起源地としていったん出雲を経由して大和入りしたと思われてきたけれども、、、

386日本@名無史さん2018/11/10(土) 22:34:21.37
纏向に現れた古墳は双方中円でもないし、特殊器台もない
楯築遺跡のように列石もない
わずかに弧紋円の土器片があるだけ
土器も庄内、布留式で吉備の土器と違う
吉備の文化は摂津や播磨を経由して纏向で形になっているのがわかる
纏向でも吉備の土器が沢山出るというわけでもない

邪馬台国成立の際には吉備の表立った影響というのは少ないものに見える

387日本@名無史さん2018/11/10(土) 22:36:17.42
>>373
近江は吉備の東進阻んだ人らやな?誰やろ

388日本@名無史さん2018/11/10(土) 22:37:33.47
遠賀川式土器の拡散には物部より前の出雲が主体とみなした方が、、、いろいろ整合するのではないかな、、、

389日本@名無史さん2018/11/10(土) 22:38:05.76
NHKの知恵の泉、邪馬台国編

魏志倭人伝に狗奴国は邪馬台国の東にあると書かれていると嘘までつき、嘘の歴史を広めようとした

吉村 武彦

教授まで務めていた人が、魏志倭人伝の記述を知らない筈はない
意図的に嘘の歴史を放送し、狗奴国の歴史を消し去ろうとした
タチが悪過ぎる

390日本@名無史さん2018/11/10(土) 22:39:20.00
>>373
孝昭さんのおかんか嫁さんはどこの人やろ?
ググるの面倒です

391日本@名無史さん2018/11/10(土) 22:39:41.59
伊勢遺跡も出雲の遺跡と見なすと違うものが見えてくるのではないかな、、、

392日本@名無史さん2018/11/10(土) 22:43:20.55
狗奴国は島根から逃れてきた人々と畿内の在地の勢力が一緒になって作った国なんじゃないかなー

393日本@名無史さん2018/11/10(土) 22:43:58.51
>>390
オカンは豊津姫でオキソミミの子
古事記だと違って磯城県主の娘飯日姫よ

妻は尾張氏のヨソタラシメ

394日本@名無史さん2018/11/10(土) 22:45:05.96
>>834
>ヒミコもその鴨族の中にいるしトヨもそう。
場所は鴨族の聖地・高天原。<

「南≠東」などに拠って、×。

395日本@名無史さん2018/11/10(土) 22:47:03.13
>>835
もはや「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は、
キチガイめいたたわごとだけしか言ってないな。

396日本@名無史さん2018/11/10(土) 22:49:08.13
>>838
>>カモ地名に銅鐸ありと言われる鴨族だ。<

>鴨が卑弥呼と関係ないということだよ 卑弥呼は銅鏡文化だからね <

成程。

397日本@名無史さん2018/11/10(土) 22:50:05.12
>>383
明治政府は長州だからね。

398日本@名無史さん2018/11/10(土) 22:51:18.02
邪馬台国は畿内などという妄想に毒されると、物事を見る目が霞むらしい。

399日本@名無史さん2018/11/10(土) 22:51:42.73
延喜式祝詞には、
皇御孫之命は、天之御蔭 日之御蔭と【隠】坐てとある
天でも日でもないということ

同じく、坐摩神社の井戸の神々は、皇御孫之命にお仕えして、天之御蔭、日之御蔭と隠れていたとある

また道饗祭の祝詞には、【クナト】が高天原で事を始めた皇御孫之命で、根の国底の国の侵略に抗ったと書かれている。

これが平安時代の朝廷の認識

400日本@名無史さん2018/11/10(土) 22:52:16.09
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 

401日本@名無史さん2018/11/10(土) 22:54:42.08
>>844
そいつも、「南→東」などの嘘吐き騙しのキチガイだけど、
大和説は、そいつと同じか、それ以上。

402日本@名無史さん2018/11/10(土) 22:55:20.46
>>369
>しかし、X式土器も、筑紫が先行していた、という可能性が高い。


太陽が西から昇る可能性よりは高くないが

403日本@名無史さん2018/11/10(土) 22:56:35.57
>>845
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和にそれらしい勢力が無いから、
九州に回答を求めるのは自然なんだよな。

404日本@名無史さん2018/11/10(土) 22:56:49.35
>>393
和邇さんの母系ソースやね?

淡海の
鍛冶屋嫁ゆく
先大和(解決

405日本@名無史さん2018/11/10(土) 22:58:10.96
吉備は出雲とも緊密な関係を構築しているのが特殊器台の出土などからも見える
出雲に対する勢力として大和が重視したのかもしれない
崇神天皇の頃に彦五十狭芹彦命の征討を受けて出雲本家が滅ぼされた物語など示唆的

出雲が政権に表立って参加したころに地方政権に対する征討が行われている
ちょうど古墳の規格性が高まる時期に一致する

406日本@名無史さん2018/11/10(土) 23:01:50.08
>>847
>そもそも畿内説スレに九州説が突撃してくる事の意味がわからん
そんなにこのスレの存在が気になるのか <

そりゃ、「畿内」なんて存在もしない嘘つき騙しだし、
「南→東」なども嘘つき騙しだし、
そんな嘘吐き騙しの右翼学会教育界やマスコミや安部文部省らが、
これ以上国民を騙す事は、黙過し難いから。

407日本@名無史さん2018/11/10(土) 23:07:41.65
竹島奪還作戦は毎年訓練してますなー
5時間で済むらしいですよ

408日本@名無史さん2018/11/10(土) 23:10:20.65
戦争反対!戦争反対!

409日本@名無史さん2018/11/10(土) 23:12:26.10
突撃は150m以上は無理ゲーやったらしい?

410日本@名無史さん2018/11/10(土) 23:15:26.56
タラシは近江ぽいな?

411日本@名無史さん2018/11/10(土) 23:16:43.02
>>405
>出雲に対する勢力として大和が重視したのかもしれない

大和がそのような主体性のある存在であるという考え方自体が、根拠がない妄想なんだよ。

412日本@名無史さん2018/11/10(土) 23:19:00.91
>>99
ワイは、椿井の築造時期を、ウィキから引いた。
3世紀末でも、4世紀でもかまわん。
この頃の古墳に始めて鉄鎌が副葬され始めることが言いたいわけ。
石包丁が消えるのが弥生後期後半。
その間、稲をどう処理していたのか、と問うとる。
お前、答えてみろ。

413日本@名無史さん2018/11/10(土) 23:19:52.61
大和が主体性持つのは布留0からやな
ざっくり3世紀第4四半からや(解決

414日本@名無史さん2018/11/10(土) 23:24:08.78
石包丁
稲作やめて
消えました

415日本@名無史さん2018/11/10(土) 23:26:53.29
まー気にせず御歓談あれ?

416日本@名無史さん2018/11/10(土) 23:28:56.06
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 

417日本@名無史さん2018/11/10(土) 23:32:32.88
>>361
>前方部を横切る道って何だ。

自分で一生懸命貼ってた赤色立体図を見れば分かるだろ?
前方部を掘り割りのように削っている部分が農道だよ

左側スロープ君の言う「スロープw」は、その農道に直結していて
円丘には通じていない

当たり前のことを違うと言い続ける厚顔さには本当に呆れるよ

418日本@名無史さん2018/11/10(土) 23:40:29.59
>>412
>この頃の古墳に始めて鉄鎌が副葬され始めることが言いたいわけ。
>石包丁が消えるのが弥生後期後半。
>その間、稲をどう処理していたのか、と問うとる。
>お前、答えてみろ。

横レスだが、鉄鎌で刈ってたんだろ
鉄鎌が出てないから鉄鎌がなかったとするのが、実は短絡なんだ

古墳に鉄鎌が副葬され始めると言っても、その時代に使われた鉄鎌の99.9%以上が出土しない訳だ
0.1%分が出るか出ないかを過大評価しているのが九州説の論調ってだけ

419日本@名無史さん2018/11/10(土) 23:40:35.12
>>101
榊に剣、鏡、玉を掛けるのは当時の倭人の宗教的儀礼で、この三宝を持っていたからといって、神夏磯媛を筑紫の支配者とみなすのは、無理。
また、宇佐から岡田までの賊を討つのは、神武が宇佐から岡田まで行ったことと同じで、周防灘の制海権を掌握したことを表しているもの。

420日本@名無史さん2018/11/10(土) 23:49:29.27
>>120
後円部先造説。

421日本@名無史さん2018/11/10(土) 23:54:25.45
>>418
証拠がないのに言い張っているだけにしか見えない。

422日本@名無史さん2018/11/10(土) 23:57:01.21
>>419
倭人の宗教的儀式だなんて、根拠がないぞ。
仮にそうだとしても、その儀式を司るのは倭国の王の務めなわけだから、結局は神夏磯姫が筑紫の宗教儀式を司る倭王であるということとかわりない。
景行天皇がやったことはといえば、神夏磯姫が指定した敵を討伐したことなわけだし。

423日本@名無史さん2018/11/11(日) 00:01:18.54
畿内説の論拠とするものは、畿内説の勝手な仮定ばかりだね。
しかもことごとく、日本の歴史を無視したものだ。

424日本@名無史さん2018/11/11(日) 00:05:36.38
>>160
なんだ、九州王朝か。

425日本@名無史さん2018/11/11(日) 00:06:15.11
畿内説は致命的だな

426日本@名無史さん2018/11/11(日) 00:11:39.23
吉備の古墳を見ると箸墓の後に浦間茶臼山が出る形
浦間茶臼山は箸墓の2分の1、箸墓からは宮山型特殊器台、都月型埴輪が出る事から両者の関係が深いのがわかる
宮山型は箸墓の方が先行するという説もある

この特殊器台の動きから吉備との同盟ではなく吉備を取り込んだ可能性もある
吉備津彦や四道将軍伝説などを考えると大和による征討があったことも考えられる

427日本@名無史さん2018/11/11(日) 00:25:41.82
>>421
>証拠がないのに言い張っているだけにしか見えない。

証拠なら、>>418に書いてあるだろ?
鉄鎌の存在が確認できる時期でも、鉄鎌の出土数はごくわずかって
確認できたってのがかなりの僥倖に近い偶然なんだよ
鉄は基本的に100年以上もたない

428日本@名無史さん2018/11/11(日) 00:31:41.16
>>422
>仮にそうだとしても、その儀式を司るのは倭国の王の務めなわけだから、
>結局は神夏磯姫が筑紫の宗教儀式を司る倭王であるということとかわりない。

そんなことはない
倭王とは縁のない地方の普通の古墳でもいわゆる三種の神器の組合せの副葬品をもつ例は
普通にある
山口県の赤妻古墳、山梨県の笛吹市平林2号墳 など
これは、倭王の地位とは関係なく首長層に共有されていた習俗で、各地の首長が
それぞれの剣、玉、鏡をもっていたことを示している

>景行天皇がやったことはといえば、神夏磯姫が指定した敵を討伐したことなわけだし。

情報将校からの報告に従って本隊が殲滅戦をしたってくらいのものだろ

429日本@名無史さん2018/11/11(日) 00:34:59.18
>>423
>しかもことごとく、日本の歴史を無視したものだ。

>>428で示したように、三種の神器の組合せの副葬品は多くの古墳で見つかるもので
それだけで王の地位を示すものではないというのが日本の歴史の事実だよ

九州説が「勉強不足」&「あーあー見ない聞こえない」ってしてるだけ

430日本@名無史さん2018/11/11(日) 00:39:10.16
>>428
>倭王とは縁のない地方の普通の古墳でも

また根拠がないことを書いている。
倭王と縁がないのに三種の神器を副葬するのはおかしいわけで、むしろ副葬品が共通なら筑紫の支配者層と非常に近い関係であると考えなくてはいけない。
簡単にいえば、それらの地方の古墳とやらの主もまた筑紫からやってきた勢力であることを明確に示す証拠だよ。
副葬品が同じということは、そういうこと。

431日本@名無史さん2018/11/11(日) 00:40:21.48
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 

432日本@名無史さん2018/11/11(日) 00:41:13.70
>>428
>情報将校からの報告に従って本隊が殲滅戦をしたってくらいのものだろ

根拠のない歪曲だね。
ただでさえ批判の多い記紀の内容をさらに捻じ曲げて解釈するのだから、目も当てられないよ。

433日本@名無史さん2018/11/11(日) 00:42:22.61
>>428
>これは、倭王の地位とは関係なく首長層に共有されていた習俗で、各地の首長が

なんで各地の首長層が、紀元前から筑紫で見られていた副葬品の習俗を受け入れているの?

434日本@名無史さん2018/11/11(日) 00:52:09.06
>>241
橋本輝彦。
240で言っているように、住居跡が出ていれば、大騒ぎしているよ。

435日本@名無史さん2018/11/11(日) 00:54:22.56
鉄器出土数

奈良県 弥生前期 0 弥生前期 0 弥生中期 0 弥生中期 0 弥生後期・終末期 1 弥生後期・終末期 5

徳島県 弥生前期 0 弥生前期 0 弥生中期 3 弥生中期 0 弥生後期・終末期 28 弥生後期・終末期 0

福岡県 弥生前期 2 弥生前期 48 弥生中期 46 弥生中期 365 弥生後期・終末期 213 弥生後期・終末期 753

熊本県 弥生前期 0 弥生前期 1 弥生中期 20 弥生中期 21 弥生後期・終末期 311 弥生後期・終末期 1254

存在していた鉄器の大部分がが失われるとしても、母数となる鉄器の数に圧倒的な格差があるのが現実。
これらの数字からは、卑弥呼の時代に膨張した九州勢力の影響が弥生末期に奈良にも及び始めるという様相だよ。

436日本@名無史さん2018/11/11(日) 00:55:39.30
纒向にの中で人が住んでいた集落の痕跡をキナイコシが示せばいいだけなのでは?

437日本@名無史さん2018/11/11(日) 01:00:04.04
>>246
ワイの考え。
纏向連合の祭祀長は、有力勢力の祭祀者が持ち回りで就任した。
大和、尾張、吉備、近江、北陸が、これに当たる。
5基ちょうど。

438日本@名無史さん2018/11/11(日) 01:00:16.99
>>430
>倭王と縁がないのに三種の神器を副葬するのはおかしいわけで、

なんで?

どうしておかしいの?
理由は?

439日本@名無史さん2018/11/11(日) 01:15:14.94
>>438

なんで各地の首長層が、紀元前から筑紫で見られていた副葬品の習俗を受け入れているの?

440日本@名無史さん2018/11/11(日) 01:16:01.17
>>256
山の高さを表す単位は、丈。
これは、すでに誰かが言っている。
里は、距離。

441日本@名無史さん2018/11/11(日) 01:19:41.17
>>263
真理を追究した結果が、円墳先造説。

442日本@名無史さん2018/11/11(日) 01:36:21.26
>>439
どこの国の首相も背広着てるだろ
何かおかしいか?

443日本@名無史さん2018/11/11(日) 01:49:46.68
>>418
鉄鎌があったのなら、その証拠に鉄鎌掘り出してみせてちょ。
出てないのに、「あったかも」は単なる推測。
単純な推測だけでものいっちゃ、議論になりまへん

444日本@名無史さん2018/11/11(日) 01:50:13.14
>>441
真理が見つかったなら良いじゃないか

445日本@名無史さん2018/11/11(日) 02:00:37.63
>>422
その「筑紫の宗教儀式を司る倭王」というのが、超絶拡大解釈。

周防灘に関連する筋書きは、この景行のときと、神武のときと、仲哀のときの3回もある。
日本書紀は、別々の時代に同じことをわざわざしつこく書いている。
このしつこさをみれば、周防灘を押えておくことが大和政権の最重要事項だったことが分かる。

446日本@名無史さん2018/11/11(日) 02:21:14.65
>>422
>仮にそうだとしても、その儀式を司るのは倭国の王の務めなわけだから、結局は神夏磯姫が筑紫の宗教儀式を司る倭王であるということとかわりない。

榊に剣、鏡、玉を榊に掛けて外来の人を出迎えた記述があるのは
1神夏磯姫
それに2岡の熊鰐と3伊都の五十迹手だね

熊鰐と五十迹手は同時代
しかも場所は岡と伊都

つまり彼らは「筑紫の宗教儀式を司る倭王」ではない
よって「その儀式を司るのは倭国の王の務め」は誤り

447日本@名無史さん2018/11/11(日) 02:33:22.33
>>446
論理破綻の好例

448日本@名無史さん2018/11/11(日) 02:37:50.19
また九州説がバッチリ論破されたな

449日本@名無史さん2018/11/11(日) 02:48:32.44
>>448
自分でもよくわからなくなってるんでそw

450日本@名無史さん2018/11/11(日) 03:01:23.02
畿内説は度量衡も知らないようだ

451日本@名無史さん2018/11/11(日) 03:05:42.73
記紀を使いたがるが記紀を読んでない
という脳の破綻では?

452日本@名無史さん2018/11/11(日) 03:08:16.38
>>450
そう思う理由は?

トンデモ説の主張には常に理由が伴わない

453日本@名無史さん2018/11/11(日) 03:20:23.00
お前らこれが鉄器文化だ

454日本@名無史さん2018/11/11(日) 03:27:37.92
>>453
・・・と言って青銅器を振り回す九州説

455日本@名無史さん2018/11/11(日) 03:27:54.48
記紀を語りたいなら別スレでやれば?

456日本@名無史さん2018/11/11(日) 03:39:38.95
お前らこれが鉄器文化だ

457日本@名無史さん2018/11/11(日) 05:01:12.64
何を語っても論破されるのが九州説

458日本@名無史さん2018/11/11(日) 05:32:06.79
巻向は集落遺跡では無いよな
巻向古墳群でいいのだ

459日本@名無史さん2018/11/11(日) 05:38:18.30
魏志倭人伝に邪馬台国に
王の住居としての「居処」  政治を行う「宮室」  物見やぐらとして「楼観」  「城柵」
があったという記載があるが、纏向で発見されているのは、上の居処のみで、それ以外は発見されていない
佐賀吉野ヶ里遺跡には、上の4つとも発見されている

460日本@名無史さん2018/11/11(日) 05:43:25.73
H23.10.8ジパング倶楽部主催の「邪馬台国ヤマト説を体感」
「寺沢 薫」先生の「邪馬台国ヤマト説を検証する」の講演
  
  @纏向遺跡の出現は3世紀初めで古墳時代の幕開けである
  A纏向遺跡は、新生倭国の中枢(都)であり、邪馬台国の都ではない
  B倭国は2つあり、一つは後漢書の東夷伝(AD107年)に出てくる「倭国王帥升」という表現
    二つ目は、魏志倭人伝の「往七八十年。倭国乱相攻伐。乃共立一女子為王。名目卑弥呼。」
    卑弥呼は倭国の女王であり、邪馬台国の女王ではない
  ……これの私流の解釈を目下思案中です。 

461日本@名無史さん2018/11/11(日) 05:46:29.33
それよりもモレ(仮)のスレを作って、
それとも。、ほとんどモレ(仮)、もれ(仮)の家のスレなのかな?

なぜか、そのような気がするんだけど

462日本@名無史さん2018/11/11(日) 05:50:17.67
日本昔話



謎の漫画、アニメ・・・そのゲーム・・・その他

463日本@名無史さん2018/11/11(日) 05:50:49.95
卑弥呼は唐古・鍵遺跡に居たのだ
巻向は斎場兼市場で良い

464日本@名無史さん2018/11/11(日) 06:10:52.94
あとwiki?
すべて信じないほうが良いぞwと言ってる人がいたり


むかーしの事とか、
史料などの少ない、無かった頃の時代の話など

465日本@名無史さん2018/11/11(日) 06:18:12.28
>>460
往七八十年。倭国乱相攻伐。乃共立一女子為王

ということは2世紀前半から続く王権がもう一方の勢力と相争って卑弥呼を擁立ということだ。
纏向は2世紀末に現れた新興勢力。
2世紀前半から続く其国の男王の王権ではない。。

あっさり言うが祖国の王権とは大国主や事代主の出雲系銅鐸王権。
都の場所は高天原(金剛山)墓は御所市高天。

新興勢力が前方後円墳や鏡祭祀の物部で纏向。
箸墓は崇神の先王(磯城の王)イカガノシコオ。

466日本@名無史さん2018/11/11(日) 06:22:48.44
>>455
ここは日本史板だ、ばかもん。
記紀の話が嫌なら考古学板でやれ。

467日本@名無史さん2018/11/11(日) 06:25:21.97
>>417
>円丘には通じていない

通じてるよ、目が悪いのかい?

468日本@名無史さん2018/11/11(日) 06:34:31.09
あと『織姫』?

実際は家の話でしょ『松傾』上のほうに貼り付けた写真、
むかーし機織りなんかをしている家と結婚したという話、

469日本@名無史さん2018/11/11(日) 06:36:33.95
キュウリのような葉、葱の華・・・などの写っている写真もw
家の写真なんだけど

470日本@名無史さん2018/11/11(日) 06:43:58.38
>>467
通じてるという証拠は?
言い張るだけ?

471日本@名無史さん2018/11/11(日) 06:52:52.11
正確には、
もれ(仮)の妹の話?


なぜ知ってる人がいるんだろう、
兄弟・・・妹

472日本@名無史さん2018/11/11(日) 07:02:17.21
>>467
説明能力ゼロだな
情けない人だ

473日本@名無史さん2018/11/11(日) 07:03:00.58
>>470
邪馬台国畿内説 Part39 	->画像>39枚

途中から急坂になるけど通じてる。

474日本@名無史さん2018/11/11(日) 07:04:49.04
ふざけた事してんじゃねーぞ!!
と言ってる人がいたりしなかった?

なぜだと思う


そういう作品なども、
本当は、家(親戚?)の話だからなんじゃないの?

475日本@名無史さん2018/11/11(日) 07:06:15.99
急坂以外にもうっすら見える2段目の段差を通って円丘に行く方法もあるようだ。
古代はこっちであったかもしれない。

476日本@名無史さん2018/11/11(日) 07:11:23.15
>>475
言い張るだけ?
まったく説明ができないの?
証拠も出せないの?

477日本@名無史さん2018/11/11(日) 07:16:15.76
何かの家の人なんだろうw
(現在、一般人?)とか

知っているのか・・・?
気づいているのか・・・そのような人もいたり

478日本@名無史さん2018/11/11(日) 07:20:01.99
『ボーボボ』?

ほとんど同じだし

479日本@名無史さん2018/11/11(日) 07:20:06.09
箸墓古墳被葬者とその相関関係だ。


               長溝(山城県主の祖・五塚原古墳)
                 ┃
  iイカガノシコオ(箸墓)━━ 真木姫
             ┃
            タベノ宿祢(交野連・雷塚古墳)

480日本@名無史さん2018/11/11(日) 07:21:25.66
ずれた

               長溝(山城県主の祖・五塚原古墳)
                   ┃
  iイカガノシコオ(箸墓)━━ 真木姫
               ┃
            タベノ宿祢(交野連・雷塚古墳)

481日本@名無史さん2018/11/11(日) 07:22:35.32
まだずれとる

               長溝(山城県主の祖・五塚原古墳)
                    ┃
  iイカガノシコオ(箸墓)━━ 真木姫
                ┃
            タベノ宿祢(交野連・雷塚古墳)

482日本@名無史さん2018/11/11(日) 07:25:56.99
言い張る以外何もできないの?

483日本@名無史さん2018/11/11(日) 07:29:01.38
>>860
>二世紀末には落ちぶれる北部九州<

弥生銀座や鉄や鏡や土器でますます栄える筑紫の九州倭国。
九州倭國の「東征毛人五十五國」のお手伝いでようやく3世紀末に、
九州倭国のおこぼれ頂戴をして生きて行けた大和。

484日本@名無史さん2018/11/11(日) 07:29:16.61
『たまごっち!』?

妹と同じ名前のキャラクターが出てきて、
シャトル、ロケット・・・・・・・・・・・・・・、
ガンダム・・・・・・・・・・・・・・・・・・・?

何なんだろう、偶然と言えば偶然

485日本@名無史さん2018/11/11(日) 07:31:14.20
>>861
「南→東」などの嘘つき騙しに、いっさい証拠を出せないトンデモ大和説。藁

486日本@名無史さん2018/11/11(日) 07:35:32.34
>>867
>大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
 畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。 <

ふーん、成程。

487日本@名無史さん2018/11/11(日) 07:40:50.82
>>877
>纒向遺跡への搬入土器の出身地割合
伊勢・東海系 : 49%
北陸・山陰系 : 17%
河内系 : 10%
吉備系 : 7%
近江系 : 5%
関東系 : 5%
播磨系 : 3%
西部瀬戸内海系 : 3%
纒向には魏の使いが滞在していた筑紫からの搬入物がない。
邪馬台国が交流していたはずの楽浪郡からの土器も出ない。
目と鼻の先の河内との交流も乏しく、
畿内の中では瀬戸内海や淀川の水運の利益を受けられない、
尾張の支配下の後進地域であった<

成程。

488日本@名無史さん2018/11/11(日) 07:41:34.74
>>405
>吉備は出雲とも緊密な関係を構築しているのが特殊器台の出土などからも見える

だから、吉備も出雲も、ともに「忌部はん」なんだから当たり前と、何度言えばw  @阿波

489日本@名無史さん2018/11/11(日) 07:46:15.31
>>426
>両者の関係が深いのがわかる

だから、浦間茶臼山も箸墓古墳も、ともに「忌部はん」のお墓なんだから当たり前と、何度言えばw  @阿波

490日本@名無史さん2018/11/11(日) 07:52:30.41
ネットなどで・・・、
調べると出てくる系図のようなもの?
そういうのも信じないほうが良いぞと言ってる人がいたり

勝手に作成、繋げたり〜〜〜〜〜〜〜〜???????????
しているのが、いるんだよwみたいな話なのかな?


日本昔話・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・三貴神?

491日本@名無史さん2018/11/11(日) 07:55:25.89
>>867
>大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 
>纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
>畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。


だから、それらの状況は、倭国(阿波)を発った「忌部はん」 の活動痕跡だ と、何度言えばw  @阿波

492日本@名無史さん2018/11/11(日) 07:57:31.61
>>877
>纒向遺跡への搬入土器の出身地割合

実はそれ全部、「東阿波型土器」だ と、何度言えばw  @阿波

493日本@名無史さん2018/11/11(日) 07:59:31.14
おまいらは、これだけ考古学者が血眼になって、北部九州から東海まで目星い場所は全部掘っているのに、誰もが納得するような邪馬台国の痕跡が出てないのは変だと思わないのか?
箸墓は径二百歩だし、C14年代測定法に誤差が生じることが判り、現在では3世紀末から4世紀初頭の築造、纏向もほぼ同時期に最盛期を迎えた祭祀遺跡(×都市遺跡)。
答えは、邪馬台国を乗っ取った大和朝廷が、台与の死後、箸墓と西殿塚始め大型前方後円墳で邪馬台国の痕跡(卑弥呼と台与の冢、宮殿)を悉く埋め尽くしてしまったからだ。
徳川幕府が豊臣大坂城を埋め尽くしたように。これにより、前方後円墳が箸墓で一気に巨大化した理由も始め、すべてが説明できる。

494日本@名無史さん2018/11/11(日) 08:01:35.18
>>487
あほ
近所の者は日帰りしたり知人や親類の家に泊まったりできるから
飯炊き道具持参で来る必要ないんだよ

495日本@名無史さん2018/11/11(日) 08:04:21.03
>>493
>おまいらは、これだけ考古学者が血眼になって、北部九州から東海まで目星い場所は全部掘っているのに

そして纏向だと言っているのに

496日本@名無史さん2018/11/11(日) 08:09:01.04
>>493
>おまいらは、これだけ考古学者が血眼になって、北部九州から東海まで目星い場所は全部掘っているのに

誰もが納得するような「其山有丹」の痕跡が「阿波国」にしか出てないのは変だと思わないのか?

497日本@名無史さん2018/11/11(日) 08:09:51.82
>>493
>おまいらは、これだけ考古学者が血眼になって、北部九州から東海まで目星い場所は全部掘っているのに

誰もが納得するような「其山有丹」の痕跡が「阿波国」にしか出てないのは変だと思わないのか?  @阿波

498日本@名無史さん2018/11/11(日) 08:10:25.97
>>493
豊臣大坂城の石垣は今の本丸地表から10mくらい地下に埋まってるんだっけ?

499日本@名無史さん2018/11/11(日) 08:12:20.77
>>328
>>341
>>346
詭弁ばかりで呆れ果てた。
君が「史料事実」という言葉を使った時点でいつも循環が成立している。
何の資料も提示せずレッテル張りをして連座の誤謬、虚偽、中傷。そんなのばかり。
学者にも学説にも敬意が持てないのなら、それは既に学問ではないよ。

>いや、始めから「半分×書」だとか「半分偽書」だとか言っておいた筈だよ。当たり前の事だ。
これは「騙す気満々でした」という告白そのもの。

500日本@名無史さん2018/11/11(日) 08:19:23.38
それにしてもストーカーがいるのかな、
伊達郡の川俣町という掲示板

ブラジルに渡った(移民)〜・・・、これも本当に家の話だしな・・・、
一部の書き込みだけを抜粋したのではなく、
その前の代、前の代の家の話とか?

機織りをしていた家とか、町名も同じ

家の親戚に、ストーカーのようなのがいるとか?

501日本@名無史さん2018/11/11(日) 08:27:42.13
>>497
そこで邪馬台国卑弥呼の王宮、熊本城の地下に埋まっている説ですよw
とにかく、現在の重要遺跡(徳川大坂城、箸墓や熊本城)の更に地中深くを調べる、高深度地下考古学が今後の主流になってくるのは間違いないと思われ

502日本@名無史さん2018/11/11(日) 08:30:38.55
ダンボの話とか読んでみた?
あとブラジル(違うの?)〜・・・・・と書いてあったり


エレクトリカルパレード?

503日本@名無史さん2018/11/11(日) 08:32:10.57
例えば・・・・『菅野力夫』画像をググってみて

504日本@名無史さん2018/11/11(日) 08:33:14.79
どういう話なんだろう、
凄い土地を持っていたみたいな話をしていたり

むかーしからの国の土地?

505日本@名無史さん2018/11/11(日) 08:41:07.92
『ブラズル・ダズル・デイ』

発音が違うのかな?何かのネタなのかな、何なんだろう

506日本@名無史さん2018/11/11(日) 08:45:25.52
>>501
ただでさえ狭い日本の、更にその16%しかない平野部にしか都市(文明)は築けない以上、
便利の良い同じ場所が時代を通じで使われ続けるというのは当然で、ましてやモータリゼーションが発達する以前の支配者の宮殿となれば、
各平野で最高の場所(利便性を備えた)地点に自ずと特定できるはずなのにも関わらず、延々と論争を繰り広げてしまうような、
誰もが納得できる痕跡が見つからない邪馬台国は、現在、掘り返せない状態にある重要遺跡の地下にあるとしか考えられないのである。

507日本@名無史さん2018/11/11(日) 08:55:17.13
>>506
>現在、掘り返せない状態にある重要遺跡の地下にあるとしか考えられないのである。

そんなことはない。 「矢野遺跡」や「庄・蔵本遺跡」などがある鮎喰川下流域一帯を掘削調査すれば
必ずや、卑弥呼の王都が出てくる。 すでに、「矢野遺跡」や「庄・蔵本遺跡」などでその兆候が見られる。  @阿波

508日本@名無史さん2018/11/11(日) 08:56:53.90
家の老婆(旧姓:渡辺)の話と同じだしな・・・


結婚してから、ブラジルに渡り、
コンビニじゃないな・・・スーパー?
何かやっていると聞いたよ(母親談)

かなり大きくなった(不明)とかw

509日本@名無史さん2018/11/11(日) 08:57:43.10
>>493
>箸墓は径二百歩だし、C14年代測定法に誤差が生じることが判り、現在では3世紀末から4世紀初頭の築造、纏向もほぼ同時期に最盛期を迎えた祭祀遺跡(×都市遺跡)。

それマジ?

510日本@名無史さん2018/11/11(日) 08:59:59.05
『君は1000%』?

511日本@名無史さん2018/11/11(日) 09:01:33.93
雪野山古墳や継体天皇陵と目されている今城山古墳みたいに城や砦に再利用された古墳は結構あるそうだけども
古墳を覆うように埋めて新しい古墳にしたってのはトレンチ入れた時点で気付くはずなのに未だそんな報告無さそうだし現時点では著しく可能性低いな

512日本@名無史さん2018/11/11(日) 09:03:21.93
>>511
陵参は掘らせんからな>宮内庁

513日本@名無史さん2018/11/11(日) 09:05:06.83
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww


https://search.yahoo.co.jp/image/search?p=長江+鬲&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa



アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww


https://search.yahoo.co.jp/image/search;_ylt=A2RinFM7cedbKFAAyBqU3uV7;_ylu=X3oDMTBhcmNxcTgxBHZ0aWQDSVMwMDI-?p=越式鼎&aq=-1&oq=&ei=UTF-8

514日本@名無史さん2018/11/11(日) 09:08:37.75
>>512
そういうことか…orz

515日本@名無史さん2018/11/11(日) 09:29:09.13
>>507
>必ずや、卑弥呼の王都が出てくる。 すでに、「矢野遺跡」や「庄・蔵本遺跡」などでその兆候が見られる。  @阿波

いつまでやってんだよ、阿波のオオカミ少年!

516日本@名無史さん2018/11/11(日) 09:33:18.65
エレクトリカルパレードの動画(youtube)?

しゅういち(秀一)でしょ?
親戚(従兄)の名前と同じだしな・・・偶然なのかな、
他人だけど、そういうネームを使用しているとか?

517日本@名無史さん2018/11/11(日) 09:41:18.27
宮内庁から天皇陵の治定を受けてないが大王墓ではないかと考えられてる巨大古墳がメスリ山古墳
副葬品専用の石室がなんと未盗掘で見つかってかなりの量の武具も納められていた
3世紀後半から4世紀前半の古墳らしいので卑弥呼の時代と割と近いが別勢力に埋められて再利用された形跡は無いな

518日本@名無史さん2018/11/11(日) 09:45:32.98
>>509
当然デマ

519subo2018/11/11(日) 09:45:49.82
つぶやきのなりすましがいるな

520subo2018/11/11(日) 09:47:14.53
卑弥呼の塚は久留米御井の祇園山古墳で確定してるんだよ

521subo2018/11/11(日) 09:50:44.67
>>481
箸墓は大物主の塚でありモモソ姫は殉葬された、いいな鴨厨

522日本@名無史さん2018/11/11(日) 09:53:31.46
連続句点男は、畿内説を妄信するキナイコシを、完膚なきまで叩きのめしている、優れた考古学者ではないのかな。。。

523日本@名無史さん2018/11/11(日) 10:07:29.22
畿内説が、完全に破綻してしまったことが、はっきりし、テンプレートも完全に論破されてしまった今、纏向遺蹟とは何だったのか研究すれば、良いのではないのかな、、、

524日本@名無史さん2018/11/11(日) 10:09:37.63
阿部と安倍なんか違う氏族だろ

安倍氏系は歴史改竄得意だよな

安倍氏が和邇氏の本流とかも抜かし出してる始末だからな

渟足柵に安倍氏の名は無い、しっかり大彦命は阿部氏だし彦国葺命は真野氏をしっかり名乗ってる

吉田氏が来たのなんて戊辰戦争辺りでしっかりうちが所有していた土地に来た経由が書いてある

525日本@名無史さん2018/11/11(日) 10:23:05.25
何が、おもしろいのか?

『ガンダム シャトル』

グーグルで検索して、画像を閲覧していって、
ここにも銀〜というキャラの画像、

それとも他の人()には見えないのかな?

526日本@名無史さん2018/11/11(日) 10:24:22.82
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=長江+鬲&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa



アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search;_ylt=A2RinFM7cedbKFAAyBqU3uV7;_ylu=X3oDMTBhcmNxcTgxBHZ0aWQDSVMwMDI-?p=越式鼎&aq=-1&oq=&ei=UTF-8

527日本@名無史さん2018/11/11(日) 10:26:49.95
『ガンダム シャトル』

ほとんどガンダムとか、
関連するプラモデルなどの画像なんだけど、
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
銀?(木刀のようなものを持っているアニメ)の画像がw

528日本@名無史さん2018/11/11(日) 10:41:20.53
ここは誰もアニヲタ咎めないのか

529日本@名無史さん2018/11/11(日) 10:56:29.04
卑弥呼は唐古・鍵遺跡に居たのだ
巻向は斎場兼市場で良い

530日本@名無史さん2018/11/11(日) 10:58:24.79
H23.10.8ジパング倶楽部主催の「邪馬台国ヤマト説を体感」
「寺沢 薫」先生の「邪馬台国ヤマト説を検証する」の講演
  
  @纏向遺跡の出現は3世紀初めで古墳時代の幕開けである
  A纏向遺跡は、新生倭国の中枢(都)であり、邪馬台国の都ではない
  B倭国は2つあり、一つは後漢書の東夷伝(AD107年)に出てくる「倭国王帥升」という表現
    二つ目は、魏志倭人伝の「往七八十年。倭国乱相攻伐。乃共立一女子為王。名目卑弥呼。」
    卑弥呼は倭国の女王であり、邪馬台国の女王ではない
  ……これの私流の解釈を目下思案中です。 

531日本@名無史さん2018/11/11(日) 11:21:37.79
>>430
>また根拠がないことを書いている。
>倭王と縁がないのに三種の神器を副葬するのはおかしいわけで、
>むしろ副葬品が共通なら筑紫の支配者層と非常に近い関係であると考えなくてはいけない。

山梨県の笛吹市平林2号墳の被葬者とどんな関係があるんだい?ww
>>428では2例しか挙げてないが、3種の神器の組合せは日本中で普通に
見られる首長層に共通の文化だよ

これが全部「筑紫の支配者層と非常に近い関係」とか、笑わせてくれるよ
九州説はチェリーピッキングを重ねた末に矛盾だらけになるw

532日本@名無史さん2018/11/11(日) 11:25:54.67
>>467
>通じてるよ、目が悪いのかい?

これが左側スロープ君クオリティ

何の根拠もない思い込みを意地でも修正しない、できない情けなさ

533日本@名無史さん2018/11/11(日) 11:32:24.74
邪馬台国は伊勢神宮の地下にあります。

534日本@名無史さん2018/11/11(日) 11:40:01.34
>>530
7年考えて破綻したのかな

535subo2018/11/11(日) 11:43:09.78
邪馬台国は佐賀の田んぼだっていいよるやろ、何回いえばよかとか


あと10000回ぐらいいわんとわからんとか

536日本@名無史さん2018/11/11(日) 11:50:23.98
>>535
>あと10000回ぐらいいわんとわからんとか

「丹」の採れないところは、あと10000回ぐらい言ってもダメよ。  @阿波

537日本@名無史さん2018/11/11(日) 12:01:32.81
何回言っても邪馬台国は佐賀の田んぼにはならねーよ

538日本@名無史さん2018/11/11(日) 12:01:58.59
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=長江+鬲&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa



アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search;_ylt=A2RinFM7cedbKFAAyBqU3uV7;_ylu=X3oDMTBhcmNxcTgxBHZ0aWQDSVMwMDI-?p=越式鼎&aq=-1&oq=&ei=UTF-8

539日本@名無史さん2018/11/11(日) 12:04:25.49
つくづく思うんだが

ほんとうに「丹」の威力ってすごいもんだね。  現在の5チャンの世界でも、よく効く効く。  @阿波

540日本@名無史さん2018/11/11(日) 12:08:31.98
ひがしにうみがあり、そこにも和種がいるとのことです。よって卑弥呼の居所は大分か、宮崎、香川、とくしま、三重のどこかです。

541日本@名無史さん2018/11/11(日) 12:08:44.55
効いてると思っているのは阿波だけだ

542日本@名無史さん2018/11/11(日) 12:10:05.95
>>540
日本国内ならほぼどこにだって東に海があるわ

543日本@名無史さん2018/11/11(日) 12:48:40.45
丹鉱山は三重や大和にあるしな

544日本@名無史さん2018/11/11(日) 12:53:38.66
>>541
そのとおり
九州説の爺さんたちの耳は
自分に都合の悪いことは
本当に聞こえない
みたいだからな

545日本@名無史さん2018/11/11(日) 13:26:03.09
>>542
くまもと、さが、中国地方、おおさか、奈良、北陸には東にうみはないよ

546日本@名無史さん2018/11/11(日) 13:28:15.39
畿内説はもう終わった。これからは九州説の時代。
歴史が再び真実を追求する時代になった。

547日本@名無史さん2018/11/11(日) 13:29:09.22
>>545
あるから

548日本@名無史さん2018/11/11(日) 13:46:45.00
終わったのは九州説だ
このスレの存在によって崩壊

549日本@名無史さん2018/11/11(日) 14:18:13.31
>>546
九州説の根拠って何?
・短里で萬二千里
 ⇒短里は捏造 誇張されてる値を実地に当てはめても意味はない
・周髀算経でも短里だ
 ⇒実測値じゃないし蓋天説という間違った前提での机上の数字
・鉄も絹も漢鏡も九州
 ⇒紀元前は多くても3世紀にはしょぼい

他には?

550日本@名無史さん2018/11/11(日) 14:24:18.96
ま、此処は大和基地の隔離スレになたというわけだ
九州なんかにゃ、来ないでくれよ

551日本@名無史さん2018/11/11(日) 14:39:41.45
どちらかというと気の触れた九州説の収容所だろ
いや屠殺場かもな

552日本@名無史さん2018/11/11(日) 14:53:26.67
九州説関係のスレは「ボクの考えたサイツヨの読み方」発表会になってて、
学問からドンドン離れているしな
文献史学に考古学を持ち込むなとか言う奴も多いし

553日本@名無史さん2018/11/11(日) 14:57:56.32
九州説のあらさがしをするだけの畿内説に未来はない

554日本@名無史さん2018/11/11(日) 15:06:38.34
探さなくてもアラだらけだろうが

555日本@名無史さん2018/11/11(日) 15:42:48.40
>>446
伊都から来たのは筑紫の日向の高千穂宮の王、岡から来たのは筑紫の岡田宮から来た王。
いずれも皇別だったのだろう。
ただし八咫の鏡を持っていたのは神夏磯姫だけなので、倭を代表して外交まで行えたのは、神夏磯姫だけだったろう。

556日本@名無史さん2018/11/11(日) 15:43:42.54
>>451
それはキナイコシのこと?
八咫の鏡や三種の神器を論破するのに記紀を持ち出していたら世話ないよ。

557日本@名無史さん2018/11/11(日) 15:45:09.05
>>542
畿内の東側の海はどこ?

558日本@名無史さん2018/11/11(日) 15:45:53.35
論破したと負け犬の遠吠えをする畿内説

559日本@名無史さん2018/11/11(日) 16:05:26.37
>>557
伊勢湾

560日本@名無史さん2018/11/11(日) 16:09:04.73
>>558
全部論破されてこんな程度の低い事しか書くことのなくなった九州説

561日本@名無史さん2018/11/11(日) 16:09:38.81
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=長江+鬲&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa



アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search;_ylt=A2RinFM7cedbKFAAyBqU3uV7;_ylu=X3oDMTBhcmNxcTgxBHZ0aWQDSVMwMDI-?p=越式鼎&aq=-1&oq=&ei=UTF-8

562日本@名無史さん2018/11/11(日) 16:20:21.16
方角が違うの一点張りだから
まったく建設的な議論にならんよな

563日本@名無史さん2018/11/11(日) 16:27:22.44
>>553
>九州説のあらさがしをするだけの畿内説に未来はない

畿内説の根拠は九州説の否定じゃなくて、3世紀時点で列島の広い範囲に
共通の土器、前方後円墳という共通の葬送祭祀を持つ祭祀連合が成立していた、とするもの

九州説の否定は、絡んでくるのを叩き落としてるだけだよ
ある意味、余技だw

564日本@名無史さん2018/11/11(日) 16:31:14.59
>>563
九州説の根拠は倭人伝にどれだけ合致してるか突き合わせたもの
畿内説は文献史学の方法論になってないからそもそも話にならないよ

565日本@名無史さん2018/11/11(日) 16:32:24.73
なるほど、そうか。
つまり、邪馬台国さがしは余技になってしまったのなwww

566日本@名無史さん2018/11/11(日) 16:41:22.69
>>564
・・・などという根拠は?

567日本@名無史さん2018/11/11(日) 16:41:51.72
>>564
>九州説の根拠は倭人伝にどれだけ合致してるか突き合わせたもの

その「どれだけ合致しているか」という部分は、考古学的出土遺物で考えるのだろ?
その時点で文献史学の領域からはみ出している

そして、畿内説では魏志倭人伝の中の邪馬台国の比定に最も重要で誤りの余地の少ない部分
・邪馬台国の発音に近い地名
・戸数7万戸
・30近くの国々の盟主
・宮室、楼観、城柵
・卑弥呼の墓径百歩
・徇葬百人
をもとに考えている訳だ

568日本@名無史さん2018/11/11(日) 16:42:32.50
>>565
>つまり、邪馬台国さがしは余技になってしまったのなwww

九州説の否定が余技で、邪馬台国探しは「決着済み」w

569日本@名無史さん2018/11/11(日) 16:43:10.94
・邪馬台国の発音に近い地名
 ⇒ ヤマト国そのもの

570日本@名無史さん2018/11/11(日) 16:43:44.74
・戸数7万戸
 ⇒ 大和+河内〜環大阪湾の畿内第V様式土器が共通で出る範囲
   戸数7万は実数ではないだろうが、福岡平野2万戸(奴国)、
   四隅突出墓の範囲5万戸(投馬国、出雲)との比較で妥当な数字といえる

571日本@名無史さん2018/11/11(日) 16:43:56.61
・30近くの国々の盟主
 ⇒ 纏向遺跡で出土する、広範囲で多様な各地の土器の集積 
   広い範囲からの人が集まっている証拠  
 ⇒ 前方後円墳の定型化が、纏向遺跡で進められている
   それを古墳時代に列島の広い範囲で共通に受け入れていることから、
   この墓制の共通化を主導した盟主と認められる

572日本@名無史さん2018/11/11(日) 16:44:22.24
・宮室、楼観、城柵
 ⇒ 纏向遺跡の辻地区居館域の建物群
   それまでの弥生時代の建築にはない複数建物の計画的な配置が確認できる
 ⇒ 唐子鍵遺跡から、楼閣を記した線刻土器が多数出土している

573日本@名無史さん2018/11/11(日) 16:44:38.25
・卑弥呼の墓径百歩
 ⇒ 纏向古墳群は、最初期の纏向型前方後円墳の纏向石塚古墳で墳丘長96メートル
   それ以後、ずっと列島最大の墳丘墓が作られ続け、いずれでも径百歩の墓として見劣りしない
   どれが卑弥呼の墓かは編年次第で変動するため特定できないが、
   いずれにしても纏向古墳群に卑弥呼の墓がある蓋然性が極めて高い

574日本@名無史さん2018/11/11(日) 16:45:27.03
>>556
九州説が自己矛盾を突きつけられているだけ

つまり自滅

575日本@名無史さん2018/11/11(日) 16:46:12.14
>>77
>参考に、正始年間薨の魏仮節龍驤将軍予州刺史李簡子墓誌銘を挙げる。

正始二年は西暦505年だが?
まさに北魏の時代w
http://kohkosai.com/rinsyo/hokugi%20100.htm
>豫州刺史李簡子墓誌
>正始二年(505)

畿内説は捏造しか出来ないカスw

576日本@名無史さん2018/11/11(日) 16:47:26.49
・徇葬百人
 ⇒ 日本列島で大規模殉葬の確認例はない
   家族墓である方形周溝墓への追葬を殉葬と誤認した=倭国には殉葬の風習があると
   誤解した可能性がある

畿内大和説では、殉葬以外はきちんと説明できる

577日本@名無史さん2018/11/11(日) 16:52:26.98
>>575
北魏の書体だという九州説からの反論をかえって証明してしまっているなw

578日本@名無史さん2018/11/11(日) 17:01:47.73
>>575
やはり畿内論者はゴッドハンダー畿内と呼ばれているだけのことはありますね
息を吐くようにゴッドハンドする

579subo2018/11/11(日) 17:08:40.05
祇園山古墳には100人ほどの殉葬がある。

580日本@名無史さん2018/11/11(日) 17:09:48.74
>>885
ほら、「南→東」などの嘘つき騙しの、まったく証拠が出せない発言をする。
だから大和説は、トンデモから一歩も出られない。

581日本@名無史さん2018/11/11(日) 17:12:24.47
>>887
嘘つき騙しの「南→東」の根拠が言えず、
無知を丸出しするる大和説。

582日本@名無史さん2018/11/11(日) 17:13:01.31
>>579
>祇園山古墳には100人ほどの殉葬がある。

殉葬なんてど〜でもいいよ。
そんなことより、「祇園山古墳」の水銀朱は、まず間違いなく筑紫忌部が持ち込んだ「若杉山産」だ と何度言えばw  @阿波

583日本@名無史さん2018/11/11(日) 17:14:54.12
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=長江+鬲&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa



アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search;_ylt=A2RinFM7cedbKFAAyBqU3uV7;_ylu=X3oDMTBhcmNxcTgxBHZ0aWQDSVMwMDI-?p=越式鼎&aq=-1&oq=&ei=UTF-8

584日本@名無史さん2018/11/11(日) 17:17:45.03
>>575
うはww

そもそも>>77の画像の元の出処はココだと思うんだが
http://ghmafty.blogspot.com/2015/05/blog-post_21.html
このサイトでは
>北魏正始二年十二月廿四日十二月刻墨拓本

とはっきり北魏のものだと明記してあるんだがなぁw

元画像を辿れないようわざわざアップローダに上げ直しているあたり、意図的な捏造としか判断のしようがないな

585日本@名無史さん2018/11/11(日) 17:18:43.92
>>576
円墳先造説は?

586日本@名無史さん2018/11/11(日) 17:22:46.06
畿内説が追求しているのは、邪馬台国ではなくヤマト王権の萌芽。
その結果、魏志倭人伝の記述と似ても似つかぬ国を夢想し始めている。

587日本@名無史さん2018/11/11(日) 17:24:31.70
>>567
>そして、畿内説では魏志倭人伝の中の邪馬台国の比定に最も重要で誤りの余地の少ない部分

畿内説に都合がいい部分、の間違いだろ。
考古学的な証拠である鉄器や絹、銅鏡文化などを無視している。

588日本@名無史さん2018/11/11(日) 17:26:12.24
>>584
畿内説は捏造に捏造を重ねたゴッドハンドの幻だな。
そんなものは歴史ではない。
ラノベだ。

589日本@名無史さん2018/11/11(日) 17:26:40.40
>>572
近江の下之郷遺跡、伊勢遺跡。
どちらも計画的配置。
纏向遺跡は、伊勢遺跡の延長線上の祭祀施設。
卑弥呼は、筑後山門。

590日本@名無史さん2018/11/11(日) 17:30:34.99
>>584
これを見てどうして「漢代からやっていたんだー!」とか妄想したんだろうな?
マジで畿内論者ってクスリでもやってんのか?

591日本@名無史さん2018/11/11(日) 17:31:02.72
>>569
邪馬臺=ヤマダイ。
ヤマトは、邪馬臺にあらず。

592日本@名無史さん2018/11/11(日) 17:35:58.22
>>567
考古学の出土物は、ものいわん。
文献との照合が必要。
土の中から柱の穴出てきたからとて、何それ。
その場所が三輪山の前だとして、何それ。
それらを解釈するには、文献が必要。

593日本@名無史さん2018/11/11(日) 17:42:08.12
>>549
大和説は、円墳先造説。

594日本@名無史さん2018/11/11(日) 17:42:11.13
>>592
聞く耳持たない人に真実は話しかけてくれない

595日本@名無史さん2018/11/11(日) 17:45:29.29
>>584
「畿内説論者を見たらウソつきだと思え」という格言のとおりだな

596日本@名無史さん2018/11/11(日) 17:52:45.12
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=長江+鬲&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa



アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search;_ylt=A2RinFM7cedbKFAAyBqU3uV7;_ylu=X3oDMTBhcmNxcTgxBHZ0aWQDSVMwMDI-?p=越式鼎&aq=-1&oq=&ei=UTF-8

597日本@名無史さん2018/11/11(日) 17:53:45.82
優れた考古学者が畿内説の完膚なきまで論破しているのではないかな。。。

598日本@名無史さん2018/11/11(日) 17:55:13.54
それにしても、おかしな話ばかり
『ガンダム シャトル』ググってみると、なぜか銀?の画像が出来たり
『ガンダム もう一人のhero』?



『もう一人の hero Queen』?

599日本@名無史さん2018/11/11(日) 17:55:51.58
やまたいこくさがし・・・、と打ってポンしたら、
邪馬台国佐賀市・・・、と変換されてしまったよ、オヨヨ。

600日本@名無史さん2018/11/11(日) 17:57:40.79
>>911
>邪馬台国=ヤマト朝廷論なら、邪馬台国は奈良だろ<

奈良は、「南≠東」などに拠って、×。

601日本@名無史さん2018/11/11(日) 17:58:24.60
機織りガンダム・・・・・・幕の後ろのほうから出てくるシーンでしょ、
どういう話なんだろう

602日本@名無史さん2018/11/11(日) 18:01:05.65
>>592
その通り。
纏向に王権が移るのは4世紀前半の崇神天皇以降。
それ以前は葛城。
邪馬台国は葛城で決まり.

603日本@名無史さん2018/11/11(日) 18:02:11.88
>>594
>聞く耳持たない人

お前だなw

604日本@名無史さん2018/11/11(日) 18:02:12.23
銀の魂?偶然観ていたときのことなんだけど


真の主人公とは、本当の主人公とは

と言っていたりw

605日本@名無史さん2018/11/11(日) 18:03:35.73
>>917
>スレそのものより、テンプレが嫌いみたいだよ<

スレ名も嘘つき騙し文言であるし、
テンプレも、「南→東」などの嘘つき騙しで書かれているから、
どちらも国民のためにならず、
嫌いだよ。

606日本@名無史さん2018/11/11(日) 18:08:04.59
>>575
結局ウソしか言えないのが畿内説(笑)
なんだよな

607日本@名無史さん2018/11/11(日) 18:10:13.11
本当にワンピースと同じようなキャラでしょ、
宇宙船(海賊船?)のようなものに乗ってきたり

スキンヘッド、髭のおやじとか、
あれがワンピースに出てくる主人公?

608日本@名無史さん2018/11/11(日) 18:11:54.39
>>921
あなたも、
史料事実や史料実態に違背する嘘つき騙しをし、
自説に都合のいい解釈ばかりしてるね。
倭人伝通りなら、「自郡至女王國萬二千餘里」は九州にしかあてはまらないだろ。
それに邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるし、
沖縄付近は、「計其道里、當在會稽東治之東」にも全く合わない。

609日本@名無史さん2018/11/11(日) 18:17:52.73
>>925
>もちろん首都は奈良だろ。<

「南≠東」などで、×。

>奈良は筑紫まで支配してたが<

奈良は、九州倭国から別れた別種の旧小国の附庸國であり、
九州倭国の「東征毛人五十五國」の中の一国であったに過ぎない。

610日本@名無史さん2018/11/11(日) 18:23:22.06
>>927
>>橋本輝彦も、「南→東」などの嘘つき騙しの「大和説先にありき」の学者であるから、<

>いや、現在まともな研究をしている研究者は全員「畿内に3世紀の倭国の政治状況の中心があった」と
いうのは、既に共通の基盤になってるんだから当たり前だろう<

それじゃ、「畿内」なんて存在もしない嘘つき騙し文言である事や、
「畿内に3世紀の倭国の政治状況の中心があった」という事も嘘つき騙しであるんだから、
「現在研究をしている研究者は全員」が、まともではなく、嘘つき騙しである、
という事だ。

611日本@名無史さん2018/11/11(日) 18:34:33.98
『織姫』?

上のほうに貼り付けた写真があるでしょ、
笹の葉?・・・なども写っていたり


『松傾』
こういう名前の家なんだけどw

612日本@名無史さん2018/11/11(日) 18:38:17.46
>>935
>箸墓や巻向が推されるのは年代的な可能性や<

箸墓は4世紀。纏向は3世紀末。

>同時期としては隔絶した規模の大きさによるものだから違うでしょ<

纏向の規模は、弥生銀座にははるかに劣る。

613日本@名無史さん2018/11/11(日) 18:39:23.65
アニメの制作者(デタラメだから)の考え、意図は必要ない


本物のアニメ通によると、
主人公と敵のキャラ?家族か何かなんじゃないの?という説があったり

614日本@名無史さん2018/11/11(日) 18:43:58.28
・・・父親、母親・・・息子?
親戚とか?

ガンダム通によると、
そうなっているみたいなんだけど

615日本@名無史さん2018/11/11(日) 18:52:22.02
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=長江+鬲&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa



アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search;_ylt=A2RinFM7cedbKFAAyBqU3uV7;_ylu=X3oDMTBhcmNxcTgxBHZ0aWQDSVMwMDI-?p=越式鼎&aq=-1&oq=&ei=UTF-8

616subo2018/11/11(日) 18:54:04.71
>>599
ビンゴじゃないかw

佐賀びよりを買ってたべるといい邪馬台国の味がするよ

617日本@名無史さん2018/11/11(日) 18:54:10.18
『破れかぶれの共喰いの 狂った桃源郷』

こういう曲も、かなり詳しいような気がするんだけど?
なぜ知っているんだろう、まさか…工作員というわけでもないだろうし

618日本@名無史さん2018/11/11(日) 19:10:15.84
そびえたつーあほさらしー >>1 ぃぃ〜(呟きせんせー風

619日本@名無史さん2018/11/11(日) 19:13:32.78
物部さんは近江経由と思ってた時期もあったなー(遠い目
鴨せんせーに間違い気づかされました

620日本@名無史さん2018/11/11(日) 19:15:30.58
>>937
>全国最大の前方後方墳も奈良盆地東部の大倭・柳本古墳群にあることから、
前方後方墳を好む勢力も畿内政権に参画していることが確認できるよね <

墓の形状は、部族や氏族の誇りになるものであり、
同一形状は同一部族であった事を示し、
前方後円墳と前方後方墳のような類似性の強いものは、
当然近縁部族であった可能性が高い、という事になる。
また、同一形状であってサイズが大きくなったものは、
大きくしなければならないという何らかの理由があったのだろう、と考えるべき。

そして、前方後円墳が「筑紫の弥生銀座の那珂八幡などが列島での最古のものである」、という事は、
瀬戸内近畿東海南関東の前方後円墳は、
九州倭国の「東征毛人五十五國」の同一部族の将軍られたの墓であったんだろう、という事になり、
同じ事で、東海や近畿の前方後方墳は、九州や北部九州にも前方後方墳があるから、
対馬や北部九州の部族が「東征毛人五十五國」の将の中の部族にいた、
という事を示す事になる。

621日本@名無史さん2018/11/11(日) 19:15:41.41
筑後川不利酒みれば二階堂?

622日本@名無史さん2018/11/11(日) 19:18:00.41
オキタラシさん降りた
質問あれば早めにどーぞ?

623日本@名無史さん2018/11/11(日) 19:19:27.71
>>940
>邪馬台国の東遷
狗奴国からの圧力と戦乱を避けるため、王都を奈良に移す<

九州倭国は、白村江までは列島の盟主であったから、
「王都を奈良に移す」は×ね。

624日本@名無史さん2018/11/11(日) 19:21:46.19
九州説なんて吉田神道の連中らの虚言からやん

625日本@名無史さん2018/11/11(日) 19:25:32.74
>>942
「南→東」などの嘘つき騙しのトンデモ大和説は、まったく理由を言わない。
これ定番。

626日本@名無史さん2018/11/11(日) 19:28:42.18
>>944
>倭人伝にははっきりと
倭国の位置を計ってみると、ちょうど會稽や東冶の東(沖縄付近)にあると書いてある<

「治→冶」にすり替える嘘を付くな。
倭人伝にははっきりと、
倭国の位置を計ってみると、ちょうど會稽東治の東(九州付近)にあると書いてある。

627日本@名無史さん2018/11/11(日) 19:29:33.66
考古学を否定してる時点で九州説は理性を放棄してるからな

628日本@名無史さん2018/11/11(日) 19:33:21.29
>>950
>遺跡ないじゃん <

嘘を付くな。
北部九州は、弥生銀座を始め、遺跡だらけだ。

629日本@名無史さん2018/11/11(日) 19:34:36.60
ん?理性的なら邪馬壹不明やろ?あほ

630日本@名無史さん2018/11/11(日) 19:38:05.51
前スレに延々とレス付けてる時点で自信無いの分かる

631日本@名無史さん2018/11/11(日) 19:43:30.05
>>956
>>ちゃんと九州におさまるよ。<

>そのためには「短里の捏造が必要」で、<

いや、「里数」記載の史料実態距離で。

>水行、陸行記述の「アクロバット珍解釈」が必要なんでしょ?<

いや、水行や陸行の「人類の常識的解釈」で。

しかし、大和説は、「長里の捏造が必要」で、
水行、陸行記述の「アクロバット珍解釈」が必要なんでしょ?。
分かりますww。

632日本@名無史さん2018/11/11(日) 19:46:34.16
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=長江+鬲&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa



アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search;_ylt=A2RinFM7cedbKFAAyBqU3uV7;_ylu=X3oDMTBhcmNxcTgxBHZ0aWQDSVMwMDI-?p=越式鼎&aq=-1&oq=&ei=UTF-8

633日本@名無史さん2018/11/11(日) 19:51:03.64
>>957
>なんで短里なんかで報告するの? 魏の役人じゃないの?<

魏使らの魏の役人らの報告が「短里」であったの。

>畿内が会稽の東にならないって証拠は?<

畿内なんて存在もしない嘘つき騙しであったし、
大和は、会稽東治から、直接的な「之東」にはなっておらず、
間に九州や中国四国を挟んでいるから、
「会稽東治之東」という表記にふさわしくないから、×なの。

634日本@名無史さん2018/11/11(日) 19:54:44.15
ねえねえ畿内信者さん、これ(>>575>>584)どうすんの?

ねえどうすんの?

635日本@名無史さん2018/11/11(日) 19:56:02.21
会稽東治て会稽東県の治所やな?
はじけた様な気分でゆれていればそこがなんたーら

636日本@名無史さん2018/11/11(日) 19:58:35.19
>>958
>西暦57年
筑紫(倭奴国)と大和には別の国があったのは明らか。<

「正北抵新羅」に拠って倭国は北部九州であり、
大和は、倭国の筑紫城の倭奴國から別れた別種の旧小国の附庸國であった事は、明らか。

>西暦180〜190年
大和が筑紫を支配して邪馬台国(大和)が首都の倭国ができあがっている <

西暦180〜190年は、まだ「倭國乱」の前であり、
邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙し文言であり、
大和が九州倭国を併合吸収継承したのは白村江の後だから、×。

637日本@名無史さん2018/11/11(日) 20:20:01.08
>>959
>福岡(奴国、不彌国)から水行、船出した先にあるのが邪馬台国と
魏志倭人伝に書いてあるぞ 、<

邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるし、
倭人伝では、不彌國の次に書かれた投馬國は、
魏使らの移動が書かれていないから側副傍線国説明であり、
また、不彌國で「折れ線的道のり距離合計がほぼ萬二千余里に達してしまう」ので、
邪馬壹國女王之所都は、不彌國のすぐ南からの筑紫平野付近になってしまい、
不彌國から水行しないし、
「水行十日陸行一月」は、郡から女王之所都の日数説明になるし、
大和は、「南≠東」だから、始めから、×。

638日本@名無史さん2018/11/11(日) 20:24:03.94
>>963
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説は、
自説のためには都合の悪い史料記載は何の根拠もなく否定曲解し、
その曲解した解釈を、なんの根拠もなく採用するのねw。

639日本@名無史さん2018/11/11(日) 20:32:02.15
>>964
>方位的には畿内の方が距離があるからより東に近くなるんじゃね
九州が北北東なら畿内は北東とか <

方位の問題ではなく、
会稽東治之東が、
海を隔てて直接的に東に行って(九州に)到達できるか?、
間に九州や中国四国などを挟んで間接的に(大和に)到達する事になるのか?、
という問題なの。

640日本@名無史さん2018/11/11(日) 20:32:48.42
>>964
>方位的には畿内の方が距離があるからより東に近くなるんじゃね
九州が北北東なら畿内は北東とか <

方位の問題ではなく、
会稽東治之東が、
海を隔てて直接的に東に行って(九州に)到達できるか?、
間に九州や中国四国などを挟んで間接的に(大和に)到達する事になるのか?、
という問題なの。

641日本@名無史さん2018/11/11(日) 20:41:02.90
>>965
>>卑弥呼は祭祀に鏡を用いていたから、
中国人から見て鬼道(鏡と剣を用いる五斗米道)のように見えた。
銅鐸文化圏の畿内は邪馬台国ではない。
後に筑紫の銅鏡文化や瀬戸内の銅剣文化が奈良盆地にも流入し、銅鐸文化は放棄される。<

>何でまったく理由を言わないの?<

大和説者は、何で?、
「〜だから」と理由を言ってから結論を書いてある、
という事を隠して、
何で?、「まったく理由を言わない」なんて言い出すの?。

おそらく、・・・・詐欺師だから?。」

642日本@名無史さん2018/11/11(日) 20:46:22.65
>>972
>>筑紫における倭国大乱 <

>なんで筑紫限定の話にしたの?どこにも筑紫の話だとは書いてないのに<

倭国は「正北抵新羅」であるから、「筑紫」でほぼいいの。

643subo2018/11/11(日) 20:53:17.44
ザラコクタイムになってるな

644日本@名無史さん2018/11/11(日) 20:54:01.26
>>982
>いくら言いはっても卑弥呼が誰なのか永遠に言えないのだからむなしいね。<

前から言っている。
卑弥呼は、松野氏姫氏系図の「刀良」。

645subo2018/11/11(日) 20:54:47.33
>>622
御手洗団子と関係がありますか?

646日本@名無史さん2018/11/11(日) 20:56:14.13
泣く子とザラコクには勝てん

647日本@名無史さん2018/11/11(日) 20:56:26.14
愚にもつかない妄言を吐き散らかして
一人悦に入るザラコク
もう完全に精神を破壊された人間のやる行動だな

648日本@名無史さん2018/11/11(日) 20:59:32.88
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=長江+鬲&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa



アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search;_ylt=A2RinFM7cedbKFAAyBqU3uV7;_ylu=X3oDMTBhcmNxcTgxBHZ0aWQDSVMwMDI-?p=越式鼎&aq=-1&oq=&ei=UTF-8

649日本@名無史さん2018/11/11(日) 21:00:17.75
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww


https://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa



アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww


https://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8

650日本@名無史さん2018/11/11(日) 21:03:03.26
>>984
>・代わりに古い時代の円墳、最前期の100m超の有力者が埋葬されていると
考えられる大規模な前方後円墳からは特殊器台、円筒埴輪が見つかる
・恐らくこれに供物か、奴婢または動物の血を捧げる儀式が存在していたと考えられる
殉葬で有名な古代中国の殷にも同様の儀式があった痕跡があり
血という字は皿に盛った生贄の血という漢字の成り立ちからも
それが証されているようにも思える
倭はそれを輸入し同様の儀式を行っていた可能性<

魏使らは、実際に「jun葬者奴婢百餘人」を実見しなければ、
「jun葬者奴婢百餘人」と記録出来る筈がなく、
だから、「特殊器台円筒埴輪を殉葬だと記録した」という説は、×。

651subo2018/11/11(日) 21:03:23.44
卑弥呼は刀良だったのか

652日本@名無史さん2018/11/11(日) 21:03:49.05
畿内説があまりにも鉄板過ぎるので
とうとう精神をやられたザラコク

653日本@名無史さん2018/11/11(日) 21:07:06.10
>>650
奴婢の件は、伝聞の可能性が高い。

654日本@名無史さん2018/11/11(日) 21:09:22.48
>大規模な前方後円墳からは特殊器台、円筒埴輪が見つかる
>恐らくこれに供物か、奴婢または動物の血を捧げる儀式が存在していたと考えられる


円墳先造説といい、どんだけ都合よい解釈してるのだか。

655日本@名無史さん2018/11/11(日) 21:10:02.69
>>650
奴婢を埋めるとかじゃなく
クビ切ったのとか実見したかも知れないだろ?
いずれにせよ殉葬は古墳の周りに奴婢を埋めるようなものじゃないのは考古調査により明らか

656日本@名無史さん2018/11/11(日) 21:10:15.83
>>989
>前方後円墳は江戸時代の国学者が名づけたものだって<

江戸時代の国学者だって、おそらく、
孔明の「墳と冢の使い分け」も知ってるだろうし、「墳と塚」が違う事も知っている。

>あと大いに作ったって卑弥呼の墓は径百歩(約140m)
径百歩の墓が沢山まとまってる所なんてあるか?
しいて言うなら畿内の特に奈良になるけども <

卑弥呼の墓の「径百余歩」は、「約140m」ではない。

657日本@名無史さん2018/11/11(日) 21:12:54.16
>>653
日本の古墳に殉葬の痕跡はない。

ならばこれは通常ではない事件である。
王権にまつろわぬ者を殺した。
そして埋めた。
そう言う事だ。

まつろわぬ者とは土蜘蛛だ。

658日本@名無史さん2018/11/11(日) 21:14:31.51
>>657
意味わからねえ
殉葬は古来から行われて来たんだろ
日本書紀にそう書いてある

659日本@名無史さん2018/11/11(日) 21:16:19.43
>>650
>「jun葬者奴婢百餘人」と記録出来る筈がなく、

ほら、「jun葬」って書いてるだろ?
これを連発してるんだよ
多分単語登録状態になってる

まあザラコクの書き込みはみんな見てないからスルーされてるけどさ

660日本@名無史さん2018/11/11(日) 21:16:54.21
>>658
そんな痕跡はないから行われてない。

661日本@名無史さん2018/11/11(日) 21:17:11.57
>>992
>海に水行を使った記述はゼロ<

これはウソだね。
確か、会稽付近から福州付近に行くのに「水行」と書いた例がある筈だし、
ベトナム〜タイ〜インド洋の航海でも「水行」と書かれた例もあった筈。

662日本@名無史さん2018/11/11(日) 21:19:47.01
>>656
それじゃ卑弥呼の墓は径何メートルよ
そんで九州説の言うように魏志倭人伝の記述
「大作塚」が塚を沢山作ったという意味ならそれが集まってる古墳群はどこよ
畿内には沢山古墳群があるんだけど

663日本@名無史さん2018/11/11(日) 21:21:19.04
>>993
>殉葬は古来から行われて来た、だから
殉葬が奴婢を古墳の周りに生き埋めにするものなら
畿内の前方後円墳より前のそこらの円墳からも見つからなくてはいけない<

畿内なんて存在もしない嘘つき騙し文言。
また魏使らの実見記録である「jun葬者奴婢百餘人」は、大和ではなく、
九州倭国での実見記録。

664日本@名無史さん2018/11/11(日) 21:22:08.60
>>660
じゃあ魏志倭人伝と日本書紀の記述は何よ
両資料とも)殉葬が行われていた記述がはっきり書かれてるだろうが

665日本@名無史さん2018/11/11(日) 21:23:36.01
>>664

卑弥呼(ヒミコ)とは簡単。

I崇神(310年頃 318年没)
H開化
     G孝元
          F孝霊   
トヨ津          E孝安 D孝昭
トヨ津       (250年頃) C懿徳 
ヒメ(踏鞴五十鈴)        B安寧
ヒメ(踏鞴 五十鈴)       A綏靖
ヒメ(踏鞴五十鈴) (200年頃) @神武 

ヒメ(踏鞴五十鈴)の時代に奴婢を埋葬したのは神武。

666日本@名無史さん2018/11/11(日) 21:25:19.29
>>665
イミフ
狂ってるわ

667日本@名無史さん2018/11/11(日) 21:25:57.17
奴婢を埋葬したのは神武
邪馬台国畿内説 Part39 	->画像>39枚

場所は高天原

668日本@名無史さん2018/11/11(日) 21:26:36.89
>>666

狂ってるのはお前だ

669日本@名無史さん2018/11/11(日) 21:29:21.05
>>663
発狂ザラコク
もう根拠なしの自分に都合のいい妄言をわめき散らすだけ

670日本@名無史さん2018/11/11(日) 21:30:24.02
>>668
イヤお前だろ

671日本@名無史さん2018/11/11(日) 21:30:25.94
奴婢の埋葬はあった。
しかしそれは一つの事件であり、
奴婢を埋葬することが古代日本で慣習化していたわけではない。
だから日本の古墳から埋葬痕跡が見つからないのだ。

672日本@名無史さん2018/11/11(日) 21:33:23.41
>>653
>奴婢の件は、伝聞の可能性が高い。

殉葬は、家族墓としての方形周溝墓への追葬を、殉葬と誤認したんじゃないか
あるいは庶民墓の甕棺墓列を大規模殉葬と見たのか

いずれにしても、卑弥呼の時代より古い時代の記録だろう
それと卑弥呼が王であることと合わせてすごい殉葬があったに違いないという記述のように思う

卑弥呼の死には張政は立ち会っていないようだし

673日本@名無史さん2018/11/11(日) 21:37:02.65
>>670
左側スロープ君は、天才だという自己評価と、自分の意見が見向きもされない現実との間の
ギャップに耐えきれなくてイラついてるんだよw

674日本@名無史さん2018/11/11(日) 21:37:42.67
殉葬をやめる代わりに、前方後円墳と埴輪類を作るようになったのだ。
それくらい劇的に、大和は人道的・人間味あふれるクニに変わったということだ。

675日本@名無史さん2018/11/11(日) 21:44:39.24
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa



アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8

676日本@名無史さん2018/11/11(日) 21:51:25.33
ヤマトには3世紀 
九州に及ばない、相当文明の遅れた国があったとさ

677日本@名無史さん2018/11/11(日) 21:51:50.33
ゾンビサガ

678日本@名無史さん2018/11/11(日) 21:52:51.79
考古学も史学も無視して畿内説はどこへ行こうとしているのか

679日本@名無史さん2018/11/11(日) 21:55:15.20
>>673
>自分の意見が見向きもされない現実

俺は崇神4世紀前半からヒミコを探し出したがお前は全くできてない。
俺が探し出したヒミコの時代に奴婢の殉葬があった。

おまえは寺沢も放棄した箸墓という泥船にしがみついてるぶざまな男。

680日本@名無史さん2018/11/11(日) 21:55:32.05
元々畿内に殉葬の風習はない
卑弥呼を共立した勢力が持ち込んだんだろう

尾張辺りは江戸時代まで人を生贄にする風習が残っていた

681日本@名無史さん2018/11/11(日) 21:57:55.81
458日本@名無史さん2018/11/11(日) 05:32:06.79
巻向は集落遺跡では無いよな
巻向古墳群でいいのだ

459日本@名無史さん2018/11/11(日) 05:38:18.30
魏志倭人伝に邪馬台国に
王の住居としての「居処」  政治を行う「宮室」  物見やぐらとして「楼観」  「城柵」
があったという記載があるが、纏向で発見されているのは、上の居処のみで、それ以外は発見されていない
佐賀吉野ヶ里遺跡には、上の4つとも発見されている

682日本@名無史さん2018/11/11(日) 21:58:07.81
纒向は尾張の参加なんだけど。

683日本@名無史さん2018/11/11(日) 21:58:25.71
>>674
殉葬は一つの事件。
習慣ではない。

女子高生コンクリート詰め殺人が日本の習慣ではないだろ。
それと同じ。

まだ分からないのか。

684日本@名無史さん2018/11/11(日) 21:58:47.64
八咫烏7エンジンオイルチェック!
ブォンブォンブォーン!爺どもキョトキョトすな
的場だけはゆるさん!

685日本@名無史さん2018/11/11(日) 22:00:42.15
>>93
>前方後円墳で象 徴されるネットワークは恐らく大和が中心で,
そしてそれは祭祀,あるいは政治的な意味合いも含めたネットワークであろう。<

列島の前方後円墳の始まりは那珂八幡や津古生掛などであり、
それが九州倭国の東征毛人五十五國に拠って、東方へ拡散した。

>特に重要なのは, 福岡平野の比恵・那珂遺跡群で,一度畿内型土器が搬入され,模倣製作されたのち,<

これも×。
筑紫の庄内は、那珂八幡地域よりも三雲の方が初元であったようで、
卑弥呼の墓である祇園山にも庄内が出土しているので、3世紀前半から出現。
それに対して、大和では、
前方後円墳の石塚が庄内の始めのようで、
明らかに卑弥呼の冢である祇園山よりも新しく、3世紀末になるから、
筑紫の方が大和よりも50年位古い事になる。
だから、その編年に引きずられて、第X様式も筑紫の方が先行する事になり、
だから、大和や近畿の第X様式や庄内は、逆に、
大和などが筑紫のものを模倣生産し、その産出土器を筑紫へ搬入販売した、
という事になる。

686日本@名無史さん2018/11/11(日) 22:00:53.14
魏志倭人伝には、卑弥呼の王城は楼閣高しと書かれているが、纒向はどうやっても王城とは呼べないし、楼閣なんてどこにもない。

687日本@名無史さん2018/11/11(日) 22:09:15.09
>>673
天才という評価は複数からもらった。

人の意見をなぞってるだけのお前には永遠に得られない評価だw

688日本@名無史さん2018/11/11(日) 22:15:27.51
まー鴨せんせーの閃き💡は天才やね
にぎはやひ!にぎはやひ!

689日本@名無史さん2018/11/11(日) 22:16:47.00
>>610
橋本輝彦個人はどう考えているか知らんが、邪馬台国や卑弥呼のことは言及せん、との立場だろう。
だから、大型建物が「居館」だと言っても、それが卑弥呼の居館なのかどうかは、言わんということじゃな。
そういうわけじゃから、大型建物が「居館」だとしても、それは連合加盟の有力勢力が派遣した祭祀長の居館というふうに理解しても、それは各自の自由ということだ。
しかし、まあ、あれが居館だとは思わんがな。

690日本@名無史さん2018/11/11(日) 22:17:39.57
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa



アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8

691日本@名無史さん2018/11/11(日) 22:24:44.85
>>685
そのデータ古すぎ。
今では、庄内甕、筑前型庄内甕と用語が変わっている。
寺澤の編年で言えば、その庄内甕は庄内3式期、また筑前型庄内甕は布留0式期。
庄内3式期は、350年直前の時期。
布留0式期は、360年前後。

692日本@名無史さん2018/11/11(日) 22:34:11.86
>アー タノシーデスネー<
ギリヤークせんせーも楽しんではるな?
邪馬台国は石舞台や!(ほんまはどーでもええんやろ?

693日本@名無史さん2018/11/11(日) 22:34:48.92
>>680
また適当なことを

>尾張辺りは江戸時代まで人を生贄にする風習が残っていた

これのソースは?

694日本@名無史さん2018/11/11(日) 22:36:07.20
>>674
埴輪がつくられるようになった理由を書いている日本書紀のエピソードは、ありえん。
天皇の墳墓のぐるりに殉葬の人柱を立てて、これが昼夜泣き叫び、死んだら鳥がこれをつついて目も当てられん惨状だというのだが、天皇の墓をそのように汚すことはあり得んので、この日本書紀のエピソードはどこかから拝借してきた話だろう。
埴輪は、吉備の特殊器台から発展したものらしいことは、大方の認めるところだ。
その特殊器台がつくられる前は、吉備でも普通の器台が用いられていた。
墓を汚すような行為があった痕跡は、みられないのではないか。

695日本@名無史さん2018/11/11(日) 22:37:23.21
>>691
>庄内3式期は、350年直前の時期。

どっから出てきた?
そのいいかげんな編年はww

696日本@名無史さん2018/11/11(日) 22:47:47.67
卑弥呼 ヒミココ
どちらも馬韓の卑弥国出身

「もとより和せず」とは卑弥国時代から仲が悪かったということ

697日本@名無史さん2018/11/11(日) 22:59:01.48
庄内3
にさんぜろから
50年(解決

698日本@名無史さん2018/11/11(日) 23:00:50.40
邪馬台国はなかった!(解決

699日本@名無史さん2018/11/11(日) 23:04:14.44
>>93
>これは福岡平野の在地社会が大和から独立して,
自律的に機能していたことを示すものであろう。<

全くの逆。
大和は、九州倭国から別れた別種の旧小国であったのであり、
九州倭国の「東征毛人五十五國」の中の一国であり、九州倭国の附庸國であった。

>中央(最高首長)の意思決定行為は
内的に細分化・専門化されておらず(官僚機構の不在),支配能力が高くなく,<

魏志に於いては、卑弥呼共立諸国が、
「大夫」や「官」や「副」や「一大率」や「大倭」などの支配体制があった、
という事が記載されている。

>したがって地方首長は自分の支配地域の維持運営にさまざまな責任を負っているため,
地方は中央の意思とは別に,独自の行動をとることが可能である。
古墳出現期の福岡平野がまさに,独自の行動をとっている地方の実例である。
古墳時代を国家段階と捉えた時期もかつてあったが,この研究の成果が示すように,
少なくとも古墳時代初頭は国家段階にまったく達していないことが推測できるのである。<

大和などの、東征された国での事である。

700日本@名無史さん2018/11/11(日) 23:10:09.73
>>99
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐き騙しの大和説者の、
無知さらし、ハジさらしw。

701日本@名無史さん2018/11/11(日) 23:14:37.75
>>101
大足彦(景行天皇)が海路で九州に入るとき、筑紫の魁帥である神夏磯媛の出迎えを受け、かわりに朝敵である土蜘蛛を討伐することを求められた。
このとき、神夏磯媛は賢木に八握剣、八咫鏡、八尺瓊を掛けて神威を示している。
これは皇位を象徴する三種の神器そのものである。
日本書紀は神夏磯媛と大足彦のどちらの立場が上であったかぼかしてあるのであるが、
神夏磯媛が筑紫を支配して三種の神器を保有していたのであるから、神夏磯媛こそが当時の筑紫倭国の女王であり、アマテラスやニニギ、卑弥呼の後継者であったと考えられる。
その尊号には筑紫の支配者を意味する帥(そち)の字が使われている。
神夏磯媛は朝廷にまつろわぬ者として、
菟狭(うさ、豊前国宇佐郡、大分県宇佐市)の川上の鼻垂(はなたり)、
御木(みけ、豊前国三毛郡、大分県中津市)の川上の耳垂(みみたり)、
高羽(たかは、豊前国田河郡、福岡県田川市)の川上の麻剥(あさはぎ)、
緑野(みどりの、福岡県北九州市紫川)の川上の土折猪折(つちおりいおり)
を挙げて討伐するように求めるが、いずれも卑弥呼時代の倭国連合の範囲内にほぼ収まる。
耳垂の名は、魏志倭人伝において投馬国の官と副官である彌彌(みみ)と彌彌那利(みみたり)とも同じである。
大足彦より前とされる神武東征の折にはすでに菟狭の川上には後の宇佐国造家の祖である菟狭津彦と菟狭津媛がいたことになっている。
すなわちこの戦いは異国や異民族との戦いではなく、倭国内部の権力闘争であり、筑紫の女王である神夏磯媛にしてみれば分家(ワケ)である大足彦忍代別の兵力を借りて国内にいる政敵を倒したことになり、
神夏磯媛が言う朝廷は大足彦ではなく自らの倭国王権を指していたことになる<

成程。

702日本@名無史さん2018/11/11(日) 23:16:36.54
ホトトギス、時鳥、橘、月、玉

703日本@名無史さん2018/11/11(日) 23:16:57.34
>>689
>そういうわけじゃから、大型建物が「居館」だとしても、それは連合加盟の有力勢力が派遣した祭祀長の居館というふうに理解しても、それは各自の自由ということだ。

テンプレをどうにかしてくれ。

704日本@名無史さん2018/11/11(日) 23:28:02.48
>>672
可能性
1、中国王朝が殉葬を行うことを邪馬台国の役人は知っていて、倭國でも同様だとホラを吹いた。
2、672でも書いているように、吉野ヶ里の甕棺墓列の事例を張政ら帯方郡の役人は知っていて、卑弥呼の場合もそうだろうと推測記事を書いた。

705日本@名無史さん2018/11/11(日) 23:28:39.99
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa



アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8

706日本@名無史さん2018/11/11(日) 23:29:37.56
橋本輝彦君も頑張ってはるんやろから実名だしたるな?
つうか各自名無しで勝負せ?(アホの威借りるな?

707subo2018/11/11(日) 23:31:18.68
>>693

庄内川の15の森だろ

708subo2018/11/11(日) 23:34:11.60
橋本は立場上しょうがないところがあるだろ

709subo2018/11/11(日) 23:34:11.76
橋本は立場上しょうがないところがあるだろ

710日本@名無史さん2018/11/12(月) 00:33:56.20
>>701
>・・・いずれも卑弥呼時代の倭国連合の範囲内にほぼ収まる。

つまり循環論法だ

711日本@名無史さん2018/11/12(月) 01:10:35.69
現代の中国語

コカ・コーラ → 可口可楽(クコクラ)
アインシュタイン → 愛因斯坦(アイインスータン)
ケンタッキー → 肯コ基(ケンドァージィ

712日本@名無史さん2018/11/12(月) 01:12:19.36
卑弥呼はそのままヒミコだろうが 
ヒミココはなんだろうね。
コカ・コーラは、可口可楽(クコクラ) だが

713日本@名無史さん2018/11/12(月) 01:14:55.58
>>710
違いますよ。
日本書紀と魏志倭人伝にほぼ同じ名前の人物が登場するので、その人物がいた場所が特定できて、邪馬台国のおよその位置も分かるわけです。
また、景行天皇が征伐した相手が魏志倭人伝に官として登場するので、景行天皇が内戦を行なっていたことがわかるわけです。

714日本@名無史さん2018/11/12(月) 04:37:18.22
魏志倭人伝に邪馬台国に
王の住居としての「居処」  政治を行う「宮室」  物見やぐらとして「楼観」  「城柵」
があったという記載があるが、纏向で発見されているのは、上の居処のみで、それ以外は発見されていない

715日本@名無史さん2018/11/12(月) 04:37:43.04
魏志倭人伝に邪馬台国に
王の住居としての「居処」  政治を行う「宮室」  物見やぐらとして「楼観」  「城柵」
があったという記載があるが、纏向で発見されているのは、上の居処のみで、それ以外は発見されていない

716日本@名無史さん2018/11/12(月) 05:17:17.01
>>713
>日本書紀と魏志倭人伝にほぼ同じ名前の人物が登場するので、

それ、具体名を出さないと意味がないんだが?

717日本@名無史さん2018/11/12(月) 05:51:46.01
>>715
発見されてないって証拠は?

718日本@名無史さん2018/11/12(月) 06:04:02.26
おーーい
纒向から住居跡まだーーー楼観まだーーー城柵まだーーーですか

719日本@名無史さん2018/11/12(月) 06:06:57.74
>>717
纏向遺跡に関する 文献や公表知らないなら来るな

720日本@名無史さん2018/11/12(月) 06:20:31.70
今日では近畿説の大勢は、主として近畿圏の考古学者たちが主導権を握っているように見える。折からの考古学
ブームに助けられ、また、奈良国立文化財研究所や橿原考古学研究所や奈良県行政の文化財担当部門の発表を無
批判にただ掲載するだけの新聞・マスコミにあおられて、いわば盲目的に「邪馬台国=近畿」説を唱えているよ
うな気がするのである。魏志倭人伝をはじめとする中国の史書や、古事記・日本書紀の内容さえも無視している
ように思えてならない。

721日本@名無史さん2018/11/12(月) 06:22:05.14
畿内説論者の言う邪馬台国が纒向にあって、ここから大和朝廷が全国に支配権を浸透させていったとすれば、
なぜ自分たちの用いていた、銅鐸による呪術的性格を帯びた文化のことを後世に伝えていないのか。
古事記・日本書紀には銅鐸はおろか、それを用いていた民族のこともまったく登場しないのである。記紀に登場
するのは銅剣・銅矛・勾玉・銅鏡であって、これは戦闘的性格を帯びていた北九州文化圏のものであり、今でも
皇室が保有する「三種の神器」は、剣・鏡・玉である。やがて古墳時代に入ると、そのままこの文化は近畿圏に
も伝わり古墳からも多く出土するようになるが、北九州から夥しく出土する甕棺墓に起源がある事は明白である。

722日本@名無史さん2018/11/12(月) 06:26:44.46
『布留0式』という時期は実年代上いつ頃と考えたらよいだろうか。
正直なところ、現在考古学の相対年代(土器の様式や型式)を実年代におきかえる作業は至難の技である。
ほとんど正確な数値を期待することは、現状では不可能といってもよい。
(寺沢薫「箸中山古墳(箸墓)」石野博信編『大和・纏向遺跡』) より

723日本@名無史さん2018/11/12(月) 06:27:49.29
歴博の館長であった佐原眞氏
弥生時代の暦年代に関する鍵は北九州がにぎっている。北九州地方の中国・朝鮮関係遺物・遺跡によって暦年代を決めるのが常道である。

724日本@名無史さん2018/11/12(月) 06:33:13.80
銅鐸文化や銅矛文化って古い考えじゃね
実際はどっちも出土してる
吉野ケ里でも銅鐸出てるじゃん

725日本@名無史さん2018/11/12(月) 06:36:58.06
>>719
また証拠の出せない九州説が敗北した

726日本@名無史さん2018/11/12(月) 06:45:22.43
>>686
今でも建ってる3世紀頃の楼閣なんぞ国内のどこにもないわ

727日本@名無史さん2018/11/12(月) 06:48:21.80
>>110
>>景行は神夏磯姫のパシリで戦った将軍。
神夏磯姫は三種の神器を掲げて神威を示しただけ。<

>やったことはイトデらと一緒 つまり景行に服属した田舎豪族 <

景行遠征譚は、古事記には存在しなかった、
という事は、8世紀の大和の祖先伝承には存在していなかった、
という事を示すのであり、
九州倭国内の記録文書からの盗用であった、という事を強く示すもの。
また、「神〜姫」という呼称は、
大和の史書としても、明らかに「神」のような高位の始祖の姫、という事を示すのであり、
書紀が、筑紫の神夏磯姫は、
自分ら大和から見た「本家の神のような姫だ」と認識していた、
という事を露呈していた、という事になる。

728日本@名無史さん2018/11/12(月) 06:55:26.66
女性の胸を触るなどしたとして、奈良県警は9日、強制わいせつの疑いで、世界遺産・東大寺(奈良市)の上院院主(じょういんいんしゅ)(69)を書類送検した。
捜査関係者への取材で分かった。上院院主は、同寺の二月堂や法華堂などがある上院地区の責任者で、同寺トップの別当(住職)が歴代、就任前に務めた要職でもある。

729日本@名無史さん2018/11/12(月) 06:57:13.63
>>694
殉死または順葬は古代国家なら普通に見られた
中国殷王朝とか

血という漢字は皿に盛られた生贄の血というのが成り立ちだが
古代日本では恐らく特殊器台や円筒埴輪に皿などを据え付けて
殉死者の地を捧げる儀式が行われていたのかも知れない

畿内で人物埴輪が登場する前の大規模古墳に見られる特殊器台は恐らくその痕跡
邪馬台国の頃には形骸化していたかも知れないけれど

730日本@名無史さん2018/11/12(月) 06:58:49.15
>>725
お前が集落群を見つけてきてやったらどうや

731日本@名無史さん2018/11/12(月) 06:58:55.52
>>111
>畿内は元々狗奴國の版図 侵略されたんだよ<

畿内なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるし、
後漢書の「拘奴國」記載は、魏志と合わないから、
范曄の勝手な解釈であることになった、全く証拠にならず、×。

>魏志倭人伝当時は畿内征伐の過程
ヤマトは陥落して、畿内征伐の拠点にされたんだよ <

これは、倭王武の「自昔・・・東征毛人五十五國」に拠って、可能性はある。

>邪馬台はヤマト単なる地名、<

邪馬台なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるから、×。

>卑弥呼が都を置いた処 <

「南≠東」などに拠って、×、

732日本@名無史さん2018/11/12(月) 06:59:03.29
これね

邪馬台国畿内説 Part39 	->画像>39枚

733日本@名無史さん2018/11/12(月) 07:01:34.82
>>730
纏向遺跡は集落ですが、何か?

734日本@名無史さん2018/11/12(月) 07:03:15.45
>>714
3世紀の楼閣など九州でも発見されていない

735日本@名無史さん2018/11/12(月) 07:03:40.72
>>117
理由が言えないのはトンデモ。
「南→東」などのような、史料事実を否定曲解するのはトンデモ。
つまり大和説とはトンデモである。

証明されたな。

736日本@名無史さん2018/11/12(月) 07:07:59.99
>>120
トンデモ大和説スレなんて、そこらの中にあるが、
トンデモではない大和説スレなんて、見当たらんが。

737日本@名無史さん2018/11/12(月) 07:08:00.47
>>683
古墳への奴婢の殉葬は古代からの風習だったと日本書紀にある
しかし古い時代の古墳の周りには日本書紀にあるように
奴婢を生き埋めにした痕跡は見つからず
代わって特殊器台が見つかるからそれで何かやってたんだろ

738日本@名無史さん2018/11/12(月) 07:09:03.83
>>736
大和説のスレなんてない
畿内説スレならあるが

739日本@名無史さん2018/11/12(月) 07:10:09.08
>>121
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は、
ウソなので、根底から反論されました。

740日本@名無史さん2018/11/12(月) 07:11:10.08
>>735
ちゃんと理由が書かれているから問題ないな
そして九州説は反論できない

741日本@名無史さん2018/11/12(月) 07:11:59.92
>>124
大和説者やスレ主らは、懲りもせず、またウソをつく男。

742日本@名無史さん2018/11/12(月) 07:16:35.01
>>733
集落跡が発見されたのだな
張り付けてくれよ

743日本@名無史さん2018/11/12(月) 07:18:41.30
>>127
テンプレには、「南→東」などのバレバレの嘘吐き騙しがのトンデモ大和説の、
書かれて困ることが、沢山書いてある。
右翼学会教育界やマスコミや安部自民文部省や政府も、困ってるだろ。

744日本@名無史さん2018/11/12(月) 07:29:23.75
>>137
こういうような、
「南→東」などの嘘吐き騙しを論拠にして、
「論理を書かない」書き込みを見れば、
大和説発言者の程度の低さがよくわかるね。
どういう何を見てそう結論が出たのか? まったく内容が無い。
つまり 頭の中に元々あった結論が ただ口を衝いて出てきただけで、
なにも思考していないってことだ。

745日本@名無史さん2018/11/12(月) 07:29:27.02
>>738
大和だけではまったく遺跡が足りないから、邪馬台国の定義を拡大しただけ。
邪馬台国は王都の名前だと書いてあるのに、畿内全域とかすり替えている。

746日本@名無史さん2018/11/12(月) 07:31:01.90
>>732
こりゃダメだな。
纒向説は失敗だ。

747日本@名無史さん2018/11/12(月) 07:36:05.48
>>745
じゃ九州説も改名しろや

748日本@名無史さん2018/11/12(月) 07:38:52.44
>>142
>対馬は見えるんだよな
韓国人が領土主張する一因でもあるし
もちろん対馬から壱岐も見える <

対馬の南岸の波打ち際の目の高さからは、壱岐は見えない。
対馬の海岸の後ろの山々に登れば、
壱岐の最高峰のてっぺん付近が、一年に1〜2回かすかに見えるか?、という程度であり、
対馬から壱岐はほぼ見えない。

749日本@名無史さん2018/11/12(月) 07:48:52.77
>>746
いつまでたっても理由の言えないコミュ障の九州説あわれ

750日本@名無史さん2018/11/12(月) 07:51:36.65
>>745
>邪馬台国は王都の名前だと書いてあるのに

こうやって九州説は毎日ウソをつく


w

751日本@名無史さん2018/11/12(月) 08:04:41.70
>>748
見えてるなら正しいじゃん

752日本@名無史さん2018/11/12(月) 08:36:37.89
まあ対馬に行ったこともないでデタラメ書いてるんだろうね
九州説は現地を全然知らない人が多い
厳原のすぐ裏手の高台からでも天気のいい日は壱岐が見えるし
夜は明かりも見える

753日本@名無史さん2018/11/12(月) 08:44:19.29
>>745
>大和だけではまったく遺跡が足りないから、邪馬台国の定義を拡大しただけ。

九州説は、どうして平気でそんな嘘をつくの?
遺跡の数?
考古学とか大して気にしてなかった100年前から
畿内説は畿内説なのに

どうしてそんなに嘘つくの?
心の病気なの?

754日本@名無史さん2018/11/12(月) 08:46:20.22
魏志倭人伝に書かれた卑弥呼の墓が高天原にあった。

高天原最有力地・御所市高天の日本最古の神社・高天彦神社の境内に、
径百余歩(約150m)の塚があり、魏志倭人伝の記述通り奴婢が埋葬されている。
埋葬された奴婢とは土蜘蛛である。

https://yahoo.jp/-6FUq7

卑弥呼(ヒミコ)とは簡単。

I崇神(310年頃 318年没)
H開化
     G孝元
          F孝霊   
トヨ津          E孝安 D孝昭
トヨ津       (250年頃) C懿徳 
ヒメ(踏鞴五十鈴)        B安寧
ヒメ(踏鞴 五十鈴)       A綏靖
ヒメ(踏鞴五十鈴) (200年頃) @神武 

ヒメ(踏鞴五十鈴)もトヨ津媛も鴨族。
鴨の語源はカミ。
鴨族の聖地が高天原。

ヒメ(踏鞴五十鈴)もトヨ津媛も死後に高天原の神々になった。

755日本@名無史さん2018/11/12(月) 08:56:47.96
徇葬者奴婢百餘人

ヒミコことヒメ(踏鞴五十鈴)の時代に土蜘蛛を討ったのは神武である。

邪馬台国畿内説 Part39 	->画像>39枚

756日本@名無史さん2018/11/12(月) 08:58:54.31
>>667
正解

757日本@名無史さん2018/11/12(月) 09:05:33.85
>>755
天才

758日本@名無史さん2018/11/12(月) 09:17:14.39
そろそろ、part40を作製した方が、良いのではないのかな、、、

759日本@名無史さん2018/11/12(月) 09:18:51.98
今日は、お伽話とモデルから興味深い所伝をお伝えしよう、、、

760日本@名無史さん2018/11/12(月) 09:19:06.56
鴨族の聖地にある鴨族の神聖な女王様の墓に
その鴨族の聖地に攻め込んできたよそ者が
住んでる鴨族の人々を100人ぶっ殺して埋めたの?


それが女王の墓?

ナニソレw

761日本@名無史さん2018/11/12(月) 09:20:37.93
一寸法師は、紀元前2世紀に葛城の大王になった天村雲命のことらしい、、、

762日本@名無史さん2018/11/12(月) 09:25:34.14
https://yahoo.jp/XvZjCc

北窪って地名は北にある窪地だからだろう。

ではどこから見た北なのだろうか。

径百余歩の塚の北にある窪地だからだ。

ヒメ(踏鞴五十鈴)も眠ってる径百余歩の神々の塚の北にあるからだ。

763日本@名無史さん2018/11/12(月) 09:26:20.59
>>760
怨霊封印

764日本@名無史さん2018/11/12(月) 09:27:42.46
アジスキタカヒコネの子、タギシヒコは伊勢津彦
ヒラブガイに挟まれた猿田彦に例えられたのは猿田彦が先祖だからという、、、

765日本@名無史さん2018/11/12(月) 09:33:55.11
卑弥呼の「徇葬者奴婢百餘人は当時の日本の習慣ではない。
一つの事件だ。
4c世紀前半の崇神以前に、
奴婢になる連中を大量に討った記述は神武東征紀以外にない。

場所は葛城、ヒミコとはヒメ(踏鞴五十鈴)媛だ。

766日本@名無史さん2018/11/12(月) 09:37:59.31
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。

767日本@名無史さん2018/11/12(月) 09:42:21.42
その地図見ると>>762がウソついてるとわかる
というモノ凄い皮肉



失笑

768日本@名無史さん2018/11/12(月) 09:43:03.66
>>178
>古墳の大きさと重要地との関連がハッキリ出るのは定型化後
最初の纏向型の後にもう一度連合の再編成のような契機があるのがうかがえる<

「自昔・・・東征毛人五十五國」というものが、
一回切りであった、というのではなく、
天孫族の国生み神話や神武ら東征に始まって、何度も繰り返し行われて、
大和も、何度も東征将軍に攻められて、
毛人や出雲系銅鐸部族が服従させられていったんだろうなあ。

769日本@名無史さん2018/11/12(月) 09:49:11.23
石塚古墳の周囲には方形周溝墓や墓壙が見つかっている

元々墳墓は累代の墓として一所に集中して埋葬していた
これを見て殉葬と言っていた可能性がある

770日本@名無史さん2018/11/12(月) 09:52:22.88
>>179
>わしほど論理的に遡って邪馬台国・葛城説を提唱してる男はいない。
纏向説や九州説はわしの説の第一段階にも達していない。<

「南≠東」などに拠って、×。

771日本@名無史さん2018/11/12(月) 09:56:03.07
>>769
>これを見て殉葬と言っていた可能性がある

あるか〜い、どあほw

772日本@名無史さん2018/11/12(月) 09:57:05.80
大和、九州ともに逆算しても弥生い時代に邪馬台国要素を見いだせない

その文化的要素は、吉備、近江、摂津、河内、丹波、播磨、讃岐、阿波で構成されている
大和に成立した邪馬台国は、大和でも九州でもない近畿周辺各地のクニグニが集合して作り上げた国だと分かる

773日本@名無史さん2018/11/12(月) 09:59:02.68
特に大和と九州は邪馬台国要素は皆無に近い状況になっている

この両地域は邪馬台国の主体として発展した場所ではなく、邪馬台国に上書きされた土地であると理解できる
この二つの土地の弥生時代の状況をいくら見たところで邪馬台国に繋がるものにはならない

774日本@名無史さん2018/11/12(月) 10:13:57.11
邪馬台国は近畿とその周辺地域のクニグニが大和に集まってこの時代に初めて創出した連合国家と理解すべき

このような成立背景があるために多くの地域で邪馬台国の要素の一部を見出すとが出来るがそれ以外の部分でつじつまが合わなくなる
この文化的構成要素から考えて邪馬台国を特定地域にのみ見出そうとする考え方自体が見当違いであると分かる

775日本@名無史さん2018/11/12(月) 10:20:28.45
村雲の叔父がタギシミミだという、、、
村雲の母は穂屋姫であるが、庶母は大屋姫であるから、大屋姫の弟ということだな、、、

大屋姫の息子が高倉下で、
村雲と高倉下は異腹の兄弟になるのだな、、、

村雲の父は東出雲王家が母系だが
村雲の妻はどちらも西出雲王家の姫だったのだな、、、

776日本@名無史さん2018/11/12(月) 10:22:29.57
大和では庄内式土器の原型の一つとされるX式土器くらいしか邪馬台国に繋がらない
九州は鏡の副葬と序列化という点で先行しているが、
この時代には破鏡副葬が主で完形鏡を手に入れられず、?製鏡も近畿で別の物が作成配布されているため鏡の副葬主体とはなり得ない

大和、九州ともにこの程度しか邪馬台国に関連する部分が存在しない

大半の要素が近畿周辺の地域に見出せる事から考えてこの両地域に邪馬台国の淵源を見出そうとすることは困難だと分かる

777日本@名無史さん2018/11/12(月) 10:30:43.91
>>182
>卑弥呼と神武が同世代なのは同意。
だからこそ、畿内に卑弥呼のような女王はいなかった。<

神武の記録は、大和の文献にしか証拠がなく、
大和の文献では、卑弥呼の3世紀よりもはるかに昔の、紀元前にしかならないんだから、
不同意。

778日本@名無史さん2018/11/12(月) 10:32:57.74
邪馬台国は、肥国(火・日・卑)に決まっとる。
なんでもかんでも、卑弥呼・邪馬台国に収斂させるのは思考フリーズだ。
無残で非道な殉葬制から脱したその後の全国的発展段階こそ、大和仏教文化だな。

779日本@名無史さん2018/11/12(月) 10:35:51.75
>>774が言ってるようなことは誰にでも理解できそうなもんだが
変な予断に囚われたヤマタイコク狂の老人たちには
とんと理解できないという
この悲しい現実

780日本@名無史さん2018/11/12(月) 10:36:35.94
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。

781日本@名無史さん2018/11/12(月) 10:36:56.52
ヤマタノオロチの尾から剣が出てきたとは
斐伊川の良質の砂鉄から作った剣で
崇神天皇が各地を征服したということなのだな、、、なるほど、、、
山崎帯王は負けてしまったのだね、、、

782日本@名無史さん2018/11/12(月) 10:38:48.62
>>194
>どうして? 神武に先立たれた姿は 「歳すでに長大 夫はいない」だが。
あと政治を補佐する男弟、 宮に出入りするただ一人の男子も説明できる。
前者は天日方奇日方、後者はタギシミミだ。<

やはり、「南≠東」などに拠って×だな。

783日本@名無史さん2018/11/12(月) 10:39:45.81
馬韓の卑弥国から王族(卑弥呼、ヒミココ)が福岡に逃れてきた

公孫氏の圧迫によってドミノ式に起きた人の流れだよ

だから卑弥呼一派は「書」を読み書きすることができたし、
「弟を通して民を統治した」わけだ

だって卑弥呼は外国人で当時の「倭国語」をろくにしゃべれなかっただろうし
「弟」が通訳だったわけだ

卑弥呼が外国人だからこそ、公孫氏や魏といった国際情勢にも精通してたわけだな

784日本@名無史さん2018/11/12(月) 10:39:46.06
事代主は紀元前220年ごろ亡くなってしまったのだね、、、

785日本@名無史さん2018/11/12(月) 10:48:26.11
魏志倭人伝時代が終わっ後に、纏向遺蹟が出現したのは、なぜなのだろうか、、、

786日本@名無史さん2018/11/12(月) 10:49:56.83
魏志倭人伝時代が終わったので、国中が安定したので、古墳を作製したのではないのかな、、、

787日本@名無史さん2018/11/12(月) 10:50:57.68
大和の登美家と高鴨家はうまく村雲を推戴したしたが、行き違いがあって親戚関係が悪くなってしまったのだね、、、

788日本@名無史さん2018/11/12(月) 10:55:40.53
そんな奈良の小国のいざこざとは関係なく、

魏や古三韓と倭国は複雑な国際関係を進んでいるんだよ

とうぜん九州のことだね

789日本@名無史さん2018/11/12(月) 10:56:35.81
奈良の小国のいざこざを、記紀では「日本の歴史」として書いちゃったからおかしくなる

奈良の歴史と倭国の歴史は違うからね

790日本@名無史さん2018/11/12(月) 10:57:30.86
継体、物部、磐井
この三者は「対等関係」として書かれてるからな、そもそも記紀ですら

791日本@名無史さん2018/11/12(月) 11:00:00.43
磐井の乱は、
継体と物部が組んで、磐井から領地を奪った戦争だろう

だから継体は物部に「磐井に勝ったら筑紫以西は物部にやる、山口以東は俺が貰う」と書いてる

つまり、磐井の領地は山口を「含んでいる」ことがわかるし

継体と物部は対等な同盟相手ということもわかるし

筑紫以西は物部が貰うということは、
筑紫の支配者が物部に変わったということもわかる

792日本@名無史さん2018/11/12(月) 11:00:58.26
登美家から和邇家が別れたのだね、、、

793日本@名無史さん2018/11/12(月) 11:04:42.15
山幸彦がワニに乗せられて竜宮城から帰ってきたのは、そういうことだったのか、、、なるほど、、、

794日本@名無史さん2018/11/12(月) 11:04:45.79
>>792
奈良に都が置かれる前の奈良の小競り合いの歴史なんて全体からしたらどうでもいい

795日本@名無史さん2018/11/12(月) 11:06:11.80
モノノベのワカタラシ大王は下関でなくなったのか、、、てっきり伊吹山で亡くなったと思っていたよ、、、

796日本@名無史さん2018/11/12(月) 11:14:16.16
桓霊の間の2世紀末には、彦坐王は丹波に移住せざるを得なかったんだな、、、和邇氏に婿入りせざるを得なかったわけだ、、、

797日本@名無史さん2018/11/12(月) 11:15:14.87
>>211
>大和の纏向型がほぼ同時期に一斉に作られてるところを見ると
累代の墓と言うよりも各地の王の墓なのかもしれない
大和の王の代々の墓じゃなくて
邪馬台国連合に参加した王達がここに王墓を作ったのかもしれないな
纏向型の登場から墓が作られるまで期間が短すぎるからな <

「邪馬台国連合」なんて存在もしない嘘つき騙し。
九州倭國の「自昔・・・東征毛人五十五國」が継続し、
大和は、そのお手伝いや、通過点の国になっていた、
として十分に説明が可能。

798日本@名無史さん2018/11/12(月) 11:15:55.34
>>792
登美家なんて出すなややこしい。
王族(神々)は高天原にいた、それだけ。

799日本@名無史さん2018/11/12(月) 11:17:41.03
>>203
それはお前の脳がおかしいのだろう。
畿内なんて、存在もしない嘘つき騙し文言であるんだから。

800日本@名無史さん2018/11/12(月) 11:20:07.67
オオタラシヒコが菟名手を豊国直にしたらしいね、、、
宇那の宿禰と同一人物なのだろうか、、、

宇佐家は宇佐国造に任じられた後、豊国全体の主人になったというわけだね、、、

801日本@名無史さん2018/11/12(月) 11:23:00.56
宇佐家は宗像家から嫁をもらったそうだね、、、
出雲と古くから付き合いがあったということなのだろうな、、、

802日本@名無史さん2018/11/12(月) 11:28:06.02
豊国宇佐家から豊鍬入姫と豊城入彦がやってきて三輪山に住み着いたのか、、、
宇佐家の月神信仰が檜原神社で始まったのはこのころからなのだね、、、

803日本@名無史さん2018/11/12(月) 11:37:05.38
魏志倭人伝時代が終わった後に、纏向遺蹟が出現したのは、なぜなのだろうか、、、

804日本@名無史さん2018/11/12(月) 11:38:41.20
仲哀天皇の宮は、なぜ、畿内ではないのだろうか、、、

805日本@名無史さん2018/11/12(月) 11:44:30.83
>>214
>大和の邪馬台国は纏向型段階までは、<

大和の邪馬台国なんて、存在もしない嘘つき騙し文言。

>播磨、摂津、河内、讃岐の文化的背景が強い
邪馬台国の最初期の構成員はこの辺りの地域が土台になってる
吉備の影響の拡大などが起こるのは定型化後
この辺りから全国の古墳の大きさや三角縁などの連動などシステムとしての洗練がみられる
この動きをみると邪馬台国の発展と拡大に2段階あるように見える
卑弥呼時代の緩やかな連合体と、その後の王権としての確立期
確立期の動きが四道将軍や景行天皇の伝説と連動する点がみられて興味深い<

九州倭国の「自昔・・・東征毛人五十五國」が波状的の起き、
先に神武らが先着していて、欠史八代で「市」を構えて在地毛人と共存状態にあった大和に、
崇神が出て、九州倭国の新規東征軍に協力して、大量の周辺地域や墓守り人を獲得出来た、
というだけ。

806日本@名無史さん2018/11/12(月) 11:48:00.18
天日矛の子孫たちは孝霊天皇にやぶれて淡路島にいたところ、召集されて葛城王国の開化天皇の勢力、武埴安彦を香具山から追い払ったり
田和山を攻撃して東出雲を占領してしまったのか、、、

琵琶湖の近くからも召集されたとは、、、
みかみ山の穴師の伝説は本当だったんだな、、、

807日本@名無史さん2018/11/12(月) 11:55:56.13
  ザラコクと連続句点って、どっちの方が脳麻痺が進んでるんだろう

808日本@名無史さん2018/11/12(月) 11:58:46.61
>>218
>→3世紀に畿内から庄内土器が博多湾へ流入
と言ったって、肝心要のところだから、3世紀のいつ頃にそれが始まったか書くべき。
単に3世紀と言えば、100年も幅がありまっせ<

>第一四半期だが何か? <

その根拠や論理が知りたいんだが。
何せ、大和の庄内は、卑弥呼の冢の後の前方後円墳の石塚頃が初元の筈だから。

809日本@名無史さん2018/11/12(月) 11:59:36.37
田道間守が難升米というのは衝撃だな、、、
しかし、常世の国に行ったという話は魏の国に行ったことの例え話だったのだな、、、

しかし円山川開削の功績にもかかわらず彦坐王が但馬から追い出してしまったのだな、、、
子孫は福岡は糸島に移って橘姓になったのか、、、
伊都県主なのだね、、、

淡路島や三上山糸島ということは、日矛も製鉄民だったのだのではないかな、、、

810日本@名無史さん2018/11/12(月) 12:02:51.64
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。

811日本@名無史さん2018/11/12(月) 12:05:13.14
>>808
>何せ、大和の庄内は、卑弥呼の冢の後の前方後円墳の石塚頃が初元の筈だから。

その根拠や論理が無いんだが。

812日本@名無史さん2018/11/12(月) 12:06:51.60
崇神天皇に三輪山は占領されてしまったが
東の榛原にもある鳥見山で祭祀を継続したらしいね、、、

次の垂仁天皇はオオタタネコの三輪山祭祀をみとめたとあるから、三輪山祭祀の変遷からこの時期が絞れるのではないかな、、、

そういえば鈴木正信氏の本に三輪山祭祀は一旦断絶したと書いてあったな、、、

813日本@名無史さん2018/11/12(月) 12:11:12.72
破綻した畿内説の宣伝係のキナイコシが、完全に論破されてしまったので、脳が麻痺して、反論を諦め、悪口を言い放ったな。。。

807日本@名無史さん2018/11/12(月) 11:55:56.13
  ザラコクと連続句点って、どっちの方が脳麻痺が進んでるんだろう

814日本@名無史さん2018/11/12(月) 12:14:09.37
連句点だったな

815日本@名無史さん2018/11/12(月) 12:17:34.92
佐穂姫は曙立王と結婚して本牟智和気を生んだのか、、、

816日本@名無史さん2018/11/12(月) 12:19:56.69
佐穂彦も佐穂姫も西都原に移住したのか、、、
それで古墳がたくさんあるのだね、、、

817日本@名無史さん2018/11/12(月) 12:21:56.54
ホムツワケの子孫と宇佐家が結びついてナカツヒコ大王が成立したのが、、、

それで仲哀天皇の宮は、畿内にないのだね、、、

818日本@名無史さん2018/11/12(月) 12:22:27.67
>>808
その根拠、ワイも知りたいわ。

819日本@名無史さん2018/11/12(月) 12:23:25.10
何故邪馬台国は人の心を蝕むのか

820日本@名無史さん2018/11/12(月) 12:24:25.23
曙立王はきっと福岡の朝倉に済んだのだろうね、、、

821日本@名無史さん2018/11/12(月) 12:28:07.07
ヤマトタケルはワカタラシ大王とナカツヒコ大王の実績が合成されているそうだね、、、

822日本@名無史さん2018/11/12(月) 12:32:24.16
、、、を使用する、謎の人物の発表に登場したホムツワケや、宇佐家や、ナカツヒコ大王は、魏志倭人伝の討論にどのような反響を、起こすのだろうか。。。

823日本@名無史さん2018/11/12(月) 12:32:43.96
九州征西部分の実態はオオタラシヒコ大王の事績で間違いないのではないかな、、、

824日本@名無史さん2018/11/12(月) 12:33:29.41
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。

825日本@名無史さん2018/11/12(月) 12:36:08.22
ワカタラシ大王とナカツヒコ大王とオキナガタラシヒメと日向襲津彦が同世代なのだね、、、

826日本@名無史さん2018/11/12(月) 12:40:15.17
ヤマトタケルが荒ぶる穴門の神を殺したというのは、もしかするとワカタラシ大王がナカツヒコ大王に敗れたことを意味するのではないかな、、、

827日本@名無史さん2018/11/12(月) 12:41:12.31
>>772
>大和、九州ともに逆算しても弥生い時代に邪馬台国要素を見いだせない
>その文化的要素は、吉備、近江、摂津、河内、丹波、播磨、讃岐、阿波で構成されている

だから、「吉備、近江、摂津、河内、丹波、播磨、讃岐」は、倭国(阿波)を発って拓殖していった「忌部はん」たち
と、何度言えばw  @阿波

828日本@名無史さん2018/11/12(月) 12:42:55.56
>>776
女王国から東へ渡海千余里で倭種の国がある。
この地理的整合性によって、女王国は北部九州であることが明らか。

829日本@名無史さん2018/11/12(月) 12:50:22.50
宇佐家の言い伝えでは神武天皇と景行天皇が兄弟というのは、どのように理解すればいいのだろうか、、、

オオタラシヒコ大王と宇佐津姫の子が三諸別らしい、、、
三諸別の子孫がホムタワケなのか、、、

830日本@名無史さん2018/11/12(月) 12:50:29.24
>>828
どうして?

理由は?

831日本@名無史さん2018/11/12(月) 12:51:04.88
>>774
>邪馬台国は近畿とその周辺地域のクニグニが大和に集まって

そもそも、「大和に集まった」と考えた時点で、誤っている。


>この時代に初めて創出した連合国家と理解すべき 創出した連合国家と理解すべき

卑弥呼の時代に、「連合国家」など樹立出来る訳がない。 時代錯誤。  @阿波

 

832日本@名無史さん2018/11/12(月) 12:52:11.24
庄内大和甕は内里八丁遺跡等で初現的な物が現れる
その後に纏向遺跡を中心に大和東南部に限定的な流行がみられるようになる
大体弥生時代終末期の230年とかそのくらい
石塚が最初じゃない

で、この段階だと大和甕は限定的な分布だが、その後の布留式に繋がる技術系譜を持っている
なので庄内式の変化の変遷を見ると下記のようになる

河内型→各地に伝播後衰退し布留式に変わる

大和型→大和東南部→布留式→全国展開

と言う流れになる
なので、大和に成立した邪馬台国は最初は河内方面からの影響で成立したが、程なくして中心地としての地位を確立する

と言う流れが明らかになる

833日本@名無史さん2018/11/12(月) 12:54:02.55
息長氏は和邇家の分家なのだな、、、衝撃だな、、、
しかし、息長家の元はオオド黒城であるわけだから、出雲大王家の係累であるのは確かだったわけだが、、、

834日本@名無史さん2018/11/12(月) 12:55:25.00
土器、古墳などの動きをみると大和の邪馬台国の発展の過程を追うことが出来る

吉備、河内、摂津、近江等の勢力が大和に邪馬台国を共同して樹立

大和が新中心地としての地位を確立

全国的な文物発信源となる

という過程が見える
大和の邪馬台国が弥生時代から発展的に邪馬台国になったのではなく各地域の連合によるものだと分かる
そしてその連合によって樹立された中心地が時代を追うごとに地位を確立していく動きとなる

835日本@名無史さん2018/11/12(月) 12:59:13.85
>>832
>庄内大和甕は内里八丁遺跡等で初現的な物が現れる

だから、それは大和忌部が畿内第X期の「東阿波型土器」工法で作ったもの
と、何度言えばw  @阿波

836日本@名無史さん2018/11/12(月) 13:00:10.69
>>774
>邪馬台国は近畿とその周辺地域のクニグニが大和に集まって

そもそも、「大和に集まった」と考えた時点で、誤っている。


>この時代に初めて創出した連合国家と理解すべき 創出した連合国家と理解すべき

卑弥呼の時代に、「連合国家」など樹立出来る訳がない。 時代錯誤。  @阿波

837日本@名無史さん2018/11/12(月) 13:00:35.12
筑紫の岡田の宮にいたのは、実はオキナガタラシヒメとナカツヒコ大王だったのだな、、、

三韓からの貢物が鳴滝遺跡に運ばれたのか、、、
鳴滝遺跡とはどこにあるのだろうか、、、

838日本@名無史さん2018/11/12(月) 13:03:52.69
>>774
言っている意味が、よう分からんな。

839日本@名無史さん2018/11/12(月) 13:04:31.43
>>219
>大和、九州ともに弥生時代に邪馬台国要素がなく、邪馬台国成立時に突然その文化が成立している<

「邪馬台国」なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるし、
九州には、倭國要素や文化が存在し得るが、
大和では、神武ら東征以後の倭種系や毛人や出雲銅鐸祭祀系の、共存要素が存在し得る。

≫大和、九州ともに弥生時代からの段階的発展の上に邪馬台国を見出すことが出来ない
なのでこの両地域に邪馬台国の根源を探すことは無意味<

邪馬台国なんて始めから存在しないし、
九州倭国は、白村江後まで継続し、
大和は、九州倭国の別種の旧小国であり、
九州倭国の「自昔・・・東征毛人五十五國」の中の一国。

>近畿周辺の勢力による連合が地勢的な理由から大和に作られ、
その影響が九州に拡大してここを連合の一部に組み込んだ流れが見える<

九州倭国の「自昔・・・東征毛人五十五國」という史料事実を隠蔽抹殺する論は、
始めから×。

840日本@名無史さん2018/11/12(月) 13:06:41.01
>>221
このように、「南→東」などの嘘つき騙しのトンデモの大和説は、
まったく理由を言わない。

841日本@名無史さん2018/11/12(月) 13:08:36.91
庄内式はその分布状況を見ても河内に濃密に存在している
大和は大和型を多く出す場所は限定的でそれ以外の場所ではX式土器を継続していると言う状況がみられる

この事からも邪馬台国が大和自生の物ではなく外部の影響によって纏向に成立したものであると理解できる

842日本@名無史さん2018/11/12(月) 13:09:43.18
>>773
>特に大和と九州は邪馬台国要素は皆無に近い状況になっている

邪馬台国の要素がないのは大和だけ。
九州は鉄や丹、鏡、絹などが揃っている。

843日本@名無史さん2018/11/12(月) 13:10:40.84
能無し九州説に授業してやる気はないんで

844日本@名無史さん2018/11/12(月) 13:10:47.03
>>772
大和にできたのは纏向連合政権とでも言える連合体であって、邪馬台国ではない。
だから、吉備、近江、摂津、河内、播磨、讃岐、阿波に倭人伝に記された邪馬台国の要素をさがしても、ないのが当たり前。

845日本@名無史さん2018/11/12(月) 13:13:21.92
鏡:破鏡と小型?製鏡しかない。西日本各地には完形鏡が多く見つかっている
絹:麻布よりも粗雑な糸くずが一つ見つかるだけ。こんなもんで良いなら纏向の絹の袋の方がよっぽどマシ
丹:当時の九州に丹山など存在しない

バカ九州説は九州の事を何も知らずにバカ丸出しの妄想を叫んでいるとよく分かりますね
みなさん、これが九州説です

846日本@名無史さん2018/11/12(月) 13:14:05.91
>>791
>継体と物部が組んで、磐井から領地を奪った戦争だろう

結果として屯倉一つしか取れなかったけどね。
岩井の次の筑紫の君には岩井の息子が即位した。

847日本@名無史さん2018/11/12(月) 13:14:30.64
九州のアホと話しても何の意味もないのがよく分かる
何一つ知らないバカの集まりだからな
短いレス一つでよく分かる

848日本@名無史さん2018/11/12(月) 13:17:16.52
大和はあくまでも近畿周辺のクニグニの連合によって新規に中心地に設定された場所であるのが分かる

大和独自の勢力の確立と拡大がはじまるのが布留式の段階であるのが土器の分布から明確になる
布留遺跡の発展も4世紀〜5世紀後半であることからも大和が政権の中枢として成長してそれに付随する地元豪族が成長している姿が見える

849日本@名無史さん2018/11/12(月) 13:17:29.73
破綻した畿内説の宣伝係のキナイコシが、テンプレートを完全に論破されたので、反論を諦めて、空想小説を発表し始めているな。。。

850日本@名無史さん2018/11/12(月) 13:19:51.49
>>849
テンプレートを完全に論破されたので、脳が麻痺し、精神病になった、症状なのではないのかな、、、

851日本@名無史さん2018/11/12(月) 13:21:56.56
魏志倭人伝時代が終わった後に、纏向遺蹟が出現したのは、なぜなのだろうか、、、

852日本@名無史さん2018/11/12(月) 13:22:08.89
畿内大和説は、欲張り爺さん。
桃のタネでも、サバの骨でも、卑弥呼が食べたーーーなどとエロネタばかりいうから、
日本国の基礎を築いた真の大和の偉大な姿が見えぬのだ。

853日本@名無史さん2018/11/12(月) 13:23:08.25
>>769
築造当時列島最大の墳丘墓で王墓とみられているこの石塚古墳の時期には、卑弥呼は王位について倭國の祭祀を行っていたのだから、
卑弥呼は大和にはいなかったということ。

854日本@名無史さん2018/11/12(月) 13:24:46.52
卑弥呼時代の大和の邪馬台国は緩やかな連合体で、卑弥呼死後に中心地としてよりハッキリと発展している形になる
卑弥呼死後の後継者争いなどもコレに該当するのだろうか

855日本@名無史さん2018/11/12(月) 13:25:55.54
>>851
新羅で捕獲した、高句麗の馬と馬主が、関連するのではないのかな。。。

856日本@名無史さん2018/11/12(月) 13:26:12.21
桜井市は、ピンクネタばかり追ういやらしい役所。

857日本@名無史さん2018/11/12(月) 13:27:43.23
破綻した畿内説の宣伝係のキナイコシが、テンプレートを完全に論破されたので、反論を諦めて、空想小説の発表を、続行しているな。。。

854日本@名無史さん2018/11/12(月) 13:24:46.52
卑弥呼時代の大和の邪馬台国は緩やかな連合体で、卑弥呼死後に中心地としてよりハッキリと発展している形になる
卑弥呼死後の後継者争いなどもコレに該当するのだろうか

858日本@名無史さん2018/11/12(月) 13:28:40.13
>>848
お題目のように妄想を唱えているといい。
世間はそんなものを信じない。

859日本@名無史さん2018/11/12(月) 13:29:58.84
>>226
>鏡の副葬と序列化と言うシステムは九州が先行している
ただ弥生後期後半に入ると九州からは完形鏡が現れなくなり、新しい鏡も出てこなくなる<

北部九州からは、蝙蝠鈕座の内行花文鏡や方格規矩鏡や画文帯や△などの完形鏡や、破鏡や鏡片などが沢山出土している。

>それに対して広く西日本各地で完形鏡が多数出土するようになる
鏡の入手先が九州ではなく西日本に移動していることが分かる<

九州倭国女王から東征将軍らへの下賜鏡や、
楽浪の戦乱を逃れた呉系楽浪鏡師らの注文製作鏡であった、と思われる。
そして、大和に鏡が入ったのは、3世紀最末以後のホケノ以後、という事が分かる。

>そして?製鏡についても大阪を起点とする独自形式の鏡の配布が既に始まっているのが知られている<

九州倭国の東征将軍らは、吉備や大阪に一旦中継的な小国家を造っていた、という事が分かる。

>邪馬台国に引き継がれる鏡の副葬と序列は、直接的には近畿北部や吉備、四国の影響であると理解できる
九州からの影響の拡大と言う様子は鏡をとっても見ることが出来ない<

九州倭国の「自昔・・・東征毛人五十五國」という事をこっそり隠した話を書くこの男は、
やはり「南≠東」と同じように、嘘つき騙しの・・・・詐欺師であったんだろう、と判る。

860日本@名無史さん2018/11/12(月) 13:40:29.41
>>769
張政は卑弥呼の墓を見ていない可能性が高い。
なので、周辺の方形周溝墓などもみていないと思われ。

861日本@名無史さん2018/11/12(月) 13:46:53.65
石塚古墳は8次調査で盛り土内から庄内1式土器が出土して他のものが混在していない
この事から築造は3世紀前半と考えられている
近年では寺澤説のように3世半ばと言う年代観も提示されている
この時期は卑弥呼の死後にちょうど前後する時期となる
倭人伝では特徴的な墳墓の築造は卑弥呼死後について記載されているので時期的に一致する

862日本@名無史さん2018/11/12(月) 13:58:52.03
魏志倭人伝時代が終わった後に、纏向遺蹟が出現したのは、なぜなのだろうか、、、

863日本@名無史さん2018/11/12(月) 14:10:29.68
平和になったからではないかな、、、

864日本@名無史さん2018/11/12(月) 14:12:08.59
>>228
>弥生終末期の完形鏡出土場所を見ると、瀬戸内海沿岸と丹波等の近畿北部に多いのが分かる
これらの地域が直接的に鏡を手に入れている様子が見える <

弥生終末期という文言は、大和説者は「卑弥呼の冢」の時代までを意図させて騙そうとしている。
そして、その頃の完成鏡出土場所は、大和付近が3世紀末以後であるから、
大半は、北部九州の出土であり、「瀬戸内海沿岸と丹波等の近畿北部」は散在的であり、
いずれも、九州倭国の東征将軍への下賜鏡や、楽浪鏡師らの注文製作鏡であった事で説明が可能。

>特に瀬戸内海は直接的に大陸との交渉が出来ている事から、九州の妨害を受けていない事がよく分かる<

大陸との交渉は、殆ど北部九州が中心であり、
瀬戸内は、北部九州を介してや、出雲経由の伝来であった、という事になる。

>弥生時代中期までの独占的な九州の優位性が消失していることが分かる <

この男も、九州倭国が白村江での大敗の後まで列島の盟主であった、という事を必死で隠蔽しようとしている、
「戦前からの万世一系皇国史観」の戦争狂の・・・・大和説の狂人であった、という事がよく判る。

865日本@名無史さん2018/11/12(月) 14:20:41.25
>>230
>まったくその通りだと思うが、<

佐々木論考は、「南→東」などの嘘つきや、
筑紫と大和の土器編年や材料胎土や搬入方向でのインチキなどがはっきりバレている、
全くの×論考だ。

>1点疑問に思うのは次の事項だ。
前方後円墳を共有して、大和から各種貴重財の配布を受ける以上、地方勢力側から大和に対してなんらかの反対給付を行ったと考えるのが妥当。
その反対給付は、例えば玉や朱などの財貨であったかも知れない。
大和はその財貨を資金として、各種貴重財の輸入、あるいは各種財物の国内生産をおこなったと考えるのがよいのではないか。
大和の連合政権は、そもそもそのような目的で設立された協同組合組織だった、と思われる。<

この男も、佐々木と同じように、九州倭国の「自昔・・・東征毛人五十五國」を隠蔽し、
九州倭国が白村江の後まで列島の盟主であった、という事をも隠蔽する嘘つき騙しの・・・・詐欺師だな。

866日本@名無史さん2018/11/12(月) 14:24:48.36
倭国大乱
→卑弥呼で平和
→狗奴国と戦争
→卑弥呼死去後に倭国乱れる
→台与で平和
→?

狗奴国との戦争の結末がわからないね。
卑弥呼は狗奴国に殺されたのかな?

867日本@名無史さん2018/11/12(月) 14:27:33.71
>>237
>マンパワーだろ あれだけ巨大古墳を作り続けてるのだから<

九州倭国の東征毛人五十五國の将軍らの権力と、
征服され支配されて墓守り人にされた毛人蝦夷や出雲銅鐸祭祀部族らのマンパワーと、
九州倭国の「地方の市を監督する大倭職」の富と暇などが、
理由だ。

868日本@名無史さん2018/11/12(月) 14:32:55.37
>>866
中国の史書だと台与の後に男性王が特に問題もなく即位して使節を晋、宋、斉、梁、隋とずっと継続しているとしている

大和と東海方面の土器や墓制も大和を主体に緩やかに統合していく流れが見えている
なので狗奴国は自然消滅的に邪馬台国に吸収されていったのだろうと思われる

そもそも纏向の原型とされる伊勢遺跡方面に前方後方墳の起源があると言う説が近年有力になりつつある
なので、纏向そのものが東海の狗奴国勢力との連帯を目指して作られた場所と言う事も考えられる
搬入土器が東海主体と言う点がその考えを補強する

869日本@名無史さん2018/11/12(月) 14:36:21.86
破綻した畿内説の宣伝係のキナイコシが、テンプレートを完全に論破されたので、反論を諦めて、空想小説の発表を、続行しているな。。。

868日本@名無史さん2018/11/12(月) 14:32:55.37
>>866
中国の史書だと台与の後に男性王が特に問題もなく即位して使節を晋、宋、斉、梁、隋とずっと継続しているとしている

大和と東海方面の土器や墓制も大和を主体に緩やかに統合していく流れが見えている
なので狗奴国は自然消滅的に邪馬台国に吸収されていったのだろうと思われる

そもそも纏向の原型とされる伊勢遺跡方面に前方後方墳の起源があると言う説が近年有力になりつつある
なので、纏向そのものが東海の狗奴国勢力との連帯を目指して作られた場所と言う事も考えられる
搬入土器が東海主体と言う点がその考えを補強する

870日本@名無史さん2018/11/12(月) 14:40:40.95
>>869
空想を根拠にして、新しい空想を、作製しているので、さらに、空想の根拠や、空想が作製されているのではないのかな。。。

871日本@名無史さん2018/11/12(月) 14:44:40.18
倭国の王は代々、日本国の天皇のような親子関係ではなく、合戦や選挙で決めていた可能性があるな、、、

872日本@名無史さん2018/11/12(月) 14:47:40.79
>>868
台与の後に男王が即位したと何処に書いてあるんだよ?
想像抜きでよろしく。

873日本@名無史さん2018/11/12(月) 14:55:28.16
倭の五王という、倭国の王は、日本書紀に書かれていないので、倭国が滅びたのは、倭の五王が死んだ後になるな、、、

874日本@名無史さん2018/11/12(月) 14:56:37.35
魏志倭人伝時代が終わった後に、纏向遺蹟が出現したのは、なぜなのだろうか、、、

875日本@名無史さん2018/11/12(月) 15:01:37.27
「梁書」
至魏景初三年 公孫淵誅後卑彌呼始遣使朝貢 魏以為親魏王假金印紫綬
正始中卑彌(呼)死更立男王國中不服更相誅殺 復立卑彌呼宗女臺與為王 【其後復立男王】並受中國爵命

「北史」
魏景初三年、公孫文懿誅後、卑彌呼始遣使朝貢
魏主假金印紫綬。正始中、卑彌呼死、更立男王。國中不服、更相誅殺、復立卑彌呼宗女臺與為王
【其後復立男王】、並受中國爵命
江左歴晉、宋、齊、梁、朝聘不絶

これを踏まえて隋書にタリシヒコの系統、ひいては後の平安時代の天皇と系譜をつながると中国が認識している

876日本@名無史さん2018/11/12(月) 15:02:42.24
>>254
>何をいってるのか理解不能<

人類の常識というものが全く分からない・・・・アホには、何を言って上げても、理解など始めから不能。

>地面の水平なところに 徑一百二十一尺七寸五分の正確な円を描くのには徑二十一步ぶん整地する
当たり前だし、必要なことだ ちゃんと意味のあることであって
>全く無意味な「ダブった二度記載」 だとか決めつける理由は全くない <

「立二十八宿,以周天曆度之法」の円を地面に描くだけなんだから、
大体合っている円を描けばよいだけであり、
整地など、全く必要がないし、算術書にそんな整地範囲の作業を書くなんて事も、全く必要がないく、
始めから「則位徑一百二十一尺七寸五分。因而三之,為三百六十五尺、四分尺之一,以應周天三百六十五度、四分度之一」
の作図を地面にすればよいのであり、
また、一寸千里の法の測影にしても、大地を整地する事なども、全く記載されていない。

そして、この男も、
「即平地徑二十一步,周六十三步。令其平矩以水正」は、全く無意味な文であり作業である、
という事が全く判っていない。

877日本@名無史さん2018/11/12(月) 15:03:43.26
邪馬台国馬鹿って本当に倭人伝と妄想サイトしか見てないとよく分かる

878日本@名無史さん2018/11/12(月) 15:14:54.67
破綻した畿内説の宣伝係のキナイコシが、完全に論破されてしまったので、脳が麻痺して、馬鹿になった可能性が高いな。。。

879日本@名無史さん2018/11/12(月) 15:15:55.05
南斉書を見ると漢末に女王が立ってその後に安東大将軍から進んだ鎮東大将軍の称号を得ているとある

この中で倭の王が卑弥呼から続いて倭の五王から続く朝鮮半島の統治者の称号を引き継いでいる事が分かる
つまり中国は女王卑弥呼からの系譜が後の倭の五王、そして更に後の飛鳥、奈良、平安と継続していると認識しているのが分かる

880日本@名無史さん2018/11/12(月) 15:16:06.41
倭の五王という、倭国の王は、日本書紀に書かれていないので、倭国が滅びたのは、倭の五王が死んだ後になるな、、、

881日本@名無史さん2018/11/12(月) 15:22:20.78
>>880
倭国が滅びた後に、中国が日本国の天皇を倭国王だと誤認定した可能性が、高いな。。。

882日本@名無史さん2018/11/12(月) 15:23:41.19
>>841
>この事からも邪馬台国が大和自生の物ではなく

そもそも、邪馬台国が「大和」ではない。


>外部の影響によって纏向に成立したものであると理解できる

纏向に王都なし。  @阿波

883日本@名無史さん2018/11/12(月) 15:34:53.49
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。

884日本@名無史さん2018/11/12(月) 15:41:43.27
>>876
>整地など、全く必要がないし、算術書にそんな整地範囲の作業を書くなんて事も、全く必要がないく、
>始めから「則位徑一百二十一尺七寸五分。因而三之,為三百六十五尺、四分尺之一,以應周天三百六十五度、四分度之一」
の作図を地面にすればよいのであり、
>また、一寸千里の法の測影にしても、大地を整地する事なども、全く記載されていない。
>そして、この男も、
>「即平地徑二十一步,周六十三步。令其平矩以水正」は、全く無意味な文であり

書いてあるものは仕方がない
いくら自分に都合が悪いからって
史料無視はいけない

885日本@名無史さん2018/11/12(月) 15:43:23.77
>>848
>邪馬台国は近畿とその周辺地域のクニグニが大和に集まって

そもそも、「大和に集まった」と考えた時点で、誤っている。


>この時代に初めて創出した連合国家と理解すべき 創出した連合国家と理解すべき

卑弥呼の時代に、「連合国家」など樹立出来る訳がない。 時代錯誤。  @阿波

886日本@名無史さん2018/11/12(月) 15:46:13.02
それより、>>575>>584はどうすんの?

>参考に、正始年間薨の魏仮節龍驤将軍予州刺史李簡子墓誌銘を挙げる。

正始二年は西暦505年だが?
まさに北魏の時代w
http://kohkosai.com/rinsyo/hokugi%20100.htm
>豫州刺史李簡子墓誌
>正始二年(505)


そもそも>>77の画像の元の出処はココだと思うんだが
http://ghmafty.blogspot.com/2015/05/blog-post_21.html
このサイトでは
>北魏正始二年十二月廿四日十二月刻墨拓本
とはっきり北魏のものだと明記してあるんだがなぁw
元画像を辿れないようわざわざアップローダに上げ直しているあたり、意図的な捏造としか判断のしようがないな

887日本@名無史さん2018/11/12(月) 15:48:30.79
>>861
>石塚古墳は8次調査で盛り土内から庄内1式土器が出土して他のものが混在していない


「纒向石塚古墳」も「忌部はん」のお墓だよ。

「纒向石塚古墳」朱塗の鶏形木製品の水銀朱は、まず間違いなく大和忌部が持ち込んだ「若杉山産」だと何度言えばw  @阿波

888日本@名無史さん2018/11/12(月) 15:57:42.31
九州バカはいまだにタンリとか言う妄想にすがるだけしかないのか

倭人伝さえもろくに読んでないアホが何を語るのやら

889日本@名無史さん2018/11/12(月) 15:59:35.86
魏志倭人伝時代が終わった後に、纏向遺蹟が出現したのは、なぜなのだろうか、、、

890日本@名無史さん2018/11/12(月) 16:01:26.77
>>259
>>だから「天柱山高峻二十余里」の「二十余里」の説明対象は、
その前の「天柱山高峻」の説明であり、<

>そうだよ
だから「高峻」の説明が標高だという解釈は明らかに間違いだね <

「高峻」さを表す最も端的な数量表現は、標高であり、
「登り路の道のり距離」表現は、幾らでも発生する可能性があり、適切ではなく、
「二十余里」は、標高だ。

891日本@名無史さん2018/11/12(月) 16:09:44.20
(天柱山)高峻こうしゆん二十余里。(魏志十七) この山は一八六〇メートルだ(中華人民共和国地図、一九七一、北京)。従って「一里=約七五メートル」の短里だ。

892日本@名無史さん2018/11/12(月) 16:10:23.52
>>886
単なるミスでしょ

893日本@名無史さん2018/11/12(月) 16:15:31.27
>>263
これが、大和説のダメさ加減を如実に表してるよね 。
「勝てるつもりかよ」ってww 。
学問は勝ち負けじゃないんだよ。
自然や歴史における観察事実や実験や計測などからの、帰納的推論の確率の高さの追究が目的。
大和説が正しいなら、それでいいんだけれど、現状は、大和説を肯定する根拠が皆無だからね
大和説の人が根拠だといってたものは、軒並み否定済みで、
その根拠が否定されても、ここのスレ主や大和説者らは、知らん振りして同じことをしゃべり続ける。

最近、大和説で根拠をつけて書き込む人が皆無だろ?。
もう、使える論拠すら残っていないw。

894日本@名無史さん2018/11/12(月) 16:16:35.79
>>888
実際、韓伝も同じ距離感で書いてあるんだから間違いではない。
短里というものがほんの数年だけ存在したらしいが、たまたまその時期に魏志倭人伝が書かれたというのも確率は低いと思うが。
南京事変40万人は信じるのか?

895日本@名無史さん2018/11/12(月) 16:21:51.54
バカの意味不明なバカレスとか本当にわけわからん

896日本@名無史さん2018/11/12(月) 16:23:53.48
>>893
無知って悲惨だけど自由でもある



出世はできないけどwwww

897日本@名無史さん2018/11/12(月) 16:24:59.77
>>884
中卒だから資料の扱い方がわからないって告白してるんだよ

898日本@名無史さん2018/11/12(月) 16:28:29.26
>>891
あんた・・・標高って海抜だぞ
どうやって測るつもりだ?
馬鹿ではないのか?

899日本@名無史さん2018/11/12(月) 16:38:42.96
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。

900日本@名無史さん2018/11/12(月) 16:45:00.22
エブリマンも皆勤

901日本@名無史さん2018/11/12(月) 16:47:24.99
>>886
スレ主はダンマリ

902日本@名無史さん2018/11/12(月) 16:52:59.46
どうせ別の例が出てくるだけだと思うけどな

903日本@名無史さん2018/11/12(月) 17:19:10.21
>>899
石刃の農具は吉野ヶ里でみつかってるよ。

904日本@名無史さん2018/11/12(月) 17:21:25.88
卑弥呼=馬韓卑弥国王族
ヒミココ=同じく馬韓卑弥国王族
不弥国=馬韓の不弥国人が作った国

反論なしにより確定で

905日本@名無史さん2018/11/12(月) 17:22:56.61
>>270
「オウム返しされ」は、
「南→東」などの嘘つき騙し並みの非論理だっていう自白だから、
やめれって言ってるのにw。
この大和説君も、完全にこのスレ主並みトンデモの位置に落ち着いちゃったな。

906日本@名無史さん2018/11/12(月) 17:25:01.33
>>903
で、それはどういう耕作用農具なんですか?

石耜ですか?石鋤ですか?石犂ですか?

907日本@名無史さん2018/11/12(月) 17:35:35.88
>>905
ザラコク支離滅裂

908日本@名無史さん2018/11/12(月) 17:37:56.28
>>907
いくら言っても空振りだよ

909日本@名無史さん2018/11/12(月) 17:59:28.64
ザラコクは九州説がズタボロに論破されるのに耐えられず
精神があっちの世界に飛んでってしまった

910日本@名無史さん2018/11/12(月) 18:03:37.24
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。

911日本@名無史さん2018/11/12(月) 18:03:43.26
>>866
>卑弥呼は狗奴国に殺されたのかな?

壹與が即位したのでまとまった。

912日本@名無史さん2018/11/12(月) 18:06:39.08
>>893
>「勝てるつもりかよ」ってww 。
>学問は勝ち負けじゃないんだよ。

全くその通りだ。
畿内説は口先三寸のレトリックでディベートの技術だけ磨いているかのようだが、学問的な事実と真摯に向き合っていないから、誰も納得させられていない。

913日本@名無史さん2018/11/12(月) 18:09:49.37
>>278
>欠史八代が、なぜ欠史になってると思うんだ?
8世紀時点で既に、十分な記録が失われていた時代の記述が「正しいという前提」で
論じるのは、意味がないとするのが普通だろ? <

問題は、史料事実の持つ確率であり、
欠史八代情報は、8世紀の記紀の「天皇家の先祖伝承」の紹介であり、
100%絶対正しい、という訳でも、100%絶対間違っている、という訳でもなく、
だから、本来は、半分×かも、という出発点から、史料批判をして、確率を推定すべきもの。

914日本@名無史さん2018/11/12(月) 18:12:05.42
>>912
九州説なんか田舎のヘボ学者しか信じてないやん
メジャーな学者、文筆家はほぼ全員機内説だわ

915日本@名無史さん2018/11/12(月) 18:12:47.92
>>912
そんな中身のない悪口ばかり言ってるから、九州説は誰も納得させられないんじゃないのか?

916日本@名無史さん2018/11/12(月) 18:18:21.68
>>762
https://yahoo.jp/XvZjCc

貼るたびに、始点終点がずれるのを何とかしなよww
https://yahoo.jp/Vb3hX8のときと、始点も終点も数十メートル単位でずれてるぞ

つまり、どこが塚なんだか、左側スロープ君自身でも分かってないんだろ?w
塚なんてないから、適当なところに線を引っ張ってるだけw

917日本@名無史さん2018/11/12(月) 18:20:22.67
左側スロープ君は、高天の地を聖地だとか言いながら、
その土地の土蜘蛛を討伐して埋めたっていうんだよなw

日本の穢れの感覚からすると、討伐された異族の居住地が聖地とされるなんてことはないだろうにw

918日本@名無史さん2018/11/12(月) 18:23:10.16
>>912
>畿内説は口先三寸のレトリックでディベートの技術だけ磨いているかのようだが

畿内説側は、いちいち根拠やソースを貼ってるんだが?
一言レスで根拠なしでごまかしてるのが九州説だろ?

まあ、レトリックもディベートの技術も、九州説には皆無なのは認めるけどさw

919日本@名無史さん2018/11/12(月) 18:23:55.63
>>912
畿内説がディベート上手すぎて九州説破滅
まあ学問的裏づけがあるからこそなんだが

920日本@名無史さん2018/11/12(月) 18:27:18.75
>>916
どこが墳丘だといいたのか頑として図示しないとこが
インチキと自覚してるクサい葛厨

921日本@名無史さん2018/11/12(月) 18:30:31.87
>>707
>庄内川の15の森だろ

これのことか?
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E4%BA%94%E3%81%AE%E6%A3%AE

>>693で訊いているのは
「>尾張辺りは江戸時代まで人を生贄にする風習が残っていた」のソースなんだが?
人柱と生贄ではまるで違うじゃないか

それに挙げられた伝承は「明応3年(1494年)」で、江戸時代じゃないぞ
そして、人柱であれば、江戸時代に入っても各地に逸話が残っている
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E6%9F%B1#%E6%9D%BE%E6%B1%9F%E5%9F%8E

尾張が生贄を江戸時代まで行っていたというのは、あたらない

922日本@名無史さん2018/11/12(月) 18:32:43.78
>>906
単に石包丁と書いてあるけど、写真で判断してみて。
穴が2つ開けてあるけど、吊り下げる紐を通す穴かな。

923日本@名無史さん2018/11/12(月) 18:34:33.43
せいぜいがとこ、
桜井市役所の御用学者にすぎぬ、笑かすな。

924日本@名無史さん2018/11/12(月) 18:35:33.40
>>923
そして九州説は無学者

925日本@名無史さん2018/11/12(月) 18:36:27.14
>>922
カスタネットみたく指に付ける

926日本@名無史さん2018/11/12(月) 18:36:44.43
>>922
石包丁は耕作用農具ではありませんよ。


収穫用農具です。


よろしいか、小学生のキミ。

927日本@名無史さん2018/11/12(月) 18:38:56.80
>>288
>夏至の正午 地面に立てた8尺の棒の影が1尺6寸で
南に千里で1寸5尺北に千里で1寸7尺で南北丁度1寸づつの差になる地点なんぞ
この地球上に存在しない<

北緯35度付近での「大地平面近似モデル」がほぼ成立する地域で、
有効数字1桁程度の近似値計測であれば、存在し得る。

>一寸千里の法則は空想の数値 短里のあった根拠にならない<

「測影」した事が書かれているから、一寸千里の法則は実測値。
一寸千里の千里が長里のあった根拠には、勿論ならない。

928日本@名無史さん2018/11/12(月) 18:42:52.76
馬韓の風俗

・毎年五月に種蒔きが終わると、鬼神を祭り、人々が群集して歌舞し、昼夜ぶっとうしで酒を飲む。
・そのとき舞われる舞いは、数十人が立って、一つながりになって地を踏み、手足を下げたり、高く上げたりして、音楽のリズムに合わせる。中国の鐸舞に似ている。
・十月に農作業が終わったときも、同様の行事がある。
・鬼神を信じ、国々の邑ではそれぞれ一人を選んで天神の祭りを司らせ、そのものを天君と呼ぶ。
・また、それぞれの国にはもう一つの邑があって、蘇塗と言う名で呼ばれる。そこには大きな木を立てられ、鈴と太鼓をぷら下げて、鬼神の祭祀を行う



卑弥呼の「鬼道」=馬韓の祭祀

はい確定

929日本@名無史さん2018/11/12(月) 18:43:10.43
>>904
>>928
確定かよ

930日本@名無史さん2018/11/12(月) 18:43:31.45
>>927
「測影した」って書かれてないだろ

931日本@名無史さん2018/11/12(月) 18:44:44.06
盆踊りみたいなやつかな。
ただ、近い国だから習俗も似ているのであって、卑弥呼が馬韓の出身だという根拠にはならないよ。

932日本@名無史さん2018/11/12(月) 18:45:49.74
>>916
>つまり、どこが塚なんだか、左側スロープ君自身でも分かってないんだろ?w
塚なんてないから、適当なところに線を引っ張ってるだけw

いや、もっこりしたところがあるのでそこからだよ。
何も問題ないし。
あと墓群もあるし地元の墓域であったことは間違いない。

933日本@名無史さん2018/11/12(月) 18:47:32.04
>>926
稲作が伝わったかどうか気にしてるのは日本ホルホル族だから?
稲作どころか人間ごと中国から移住してきたのだから、渡来後に独自開発が進むこともあるでしょう。
ところで、最古の水田ってどれのこと?

934日本@名無史さん2018/11/12(月) 18:51:17.24
近いうち、高天に行ってくる。
そして地元の人に、あの塚が代々地元の墓域であったかどうか、何とか話を聞いてくる。
何しろ場所は日本の歴史の原点、日本の聖地「高天原」だからな。

纏向(笑)にある箸墓(笑)には永久に奴婢埋葬痕跡なんて出てこないから(笑)

935日本@名無史さん2018/11/12(月) 18:54:59.71
>>917
土蜘蛛が水源を求めて荒らしに来たのかは分からないが、
奴婢埋葬痕跡が明確にあるのは確かだ。

纏向(笑)や箸墓(笑)には奴婢埋葬痕跡がなくて残念でしたwww

936日本@名無史さん2018/11/12(月) 18:56:24.39
>>933
最古水田とは考古学の常識で菜畑遺跡の事ですよ小学生のキミ。



で、人間ごと中国から移住してきた事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と龍信仰と亀卜と、
移住時に伝わった中国系言語の単語は?


で、人間ごと中国から移住してきたとウソブいている頭の湧いた考古学者の
氏名と所属団体は?


.

937日本@名無史さん2018/11/12(月) 19:00:09.66
>>935
>奴婢埋葬痕跡が明確にあるのは確かだ。

確かだ、という根拠は?

938日本@名無史さん2018/11/12(月) 19:03:52.91
>>935
いやいや正統派の畿内説は箸墓に101人埋葬されてたと言い張るんだよ。

纒向には住居跡が無いが、地下に50万人ほど住んでいたと言い張るんだよ。

それが正統派畿内説だ。

葛城じじいなんて足元にも及ばねえから。

939日本@名無史さん2018/11/12(月) 19:14:21.86
>>938
誰かがそんなこと言ったという証拠は?

940日本@名無史さん2018/11/12(月) 19:16:13.29
卑弥国説に反論なし


確定かな

941日本@名無史さん2018/11/12(月) 19:18:35.29
>>927
だから実際に測ったら
夏至の正午、北緯35度卑近に立てた8尺棒の1寸6尺の影長が
北に千里で1寸7尺南に千里で1寸5尺と丁度一寸づつ違う地点は地球上にない
夏至の北緯35度は太陽が真上にないし地球は丸いからな

一寸千里法は実際に測った数値ではなくて机上の空論
ゆえに周の時代に短里の使われていた根拠にはならない
北に千里で影が1寸差だけなら良かったが南も千里で1寸差とばっちり書かれてしまっているからな
周牌算経そのものによって短里の根拠は否定されていると言えるだろう

942日本@名無史さん2018/11/12(月) 19:19:57.07
>>937

あるから

943日本@名無史さん2018/11/12(月) 19:24:46.28
>>358
>敦賀湾〜伊吹山の勢力も、
卑弥呼を共立した国々、初期のヤマト政権に必死で抵抗していたんですよ。<

「南≠東」などに拠って、×。

944日本@名無史さん2018/11/12(月) 19:26:02.43
【臺與】
長生きした卑弥呼のあとを13歳で継いでるわけだから、卑弥呼との世代差は推定で3世代以上。

ならば、
➀万幡豊秋津師比売説
アマテラスの息子・天忍穂耳命(アメノオシホミミ)と結婚し、
天火明命(アメノホアカリ)と邇邇芸命(ニニギ)の母となってるので、
アマテラスとの世代差3〜5世代では説明が苦しい。
また神武の曽祖父ニニギが3世紀末あたりになるが、これはとても無理。

A天豊姫命説
崇神時代の建諸隅命の子なので時系列として無理。
考古学的にも文献史的にも崇神を4世紀初頭から前半とするのが有力なので、
崇神を3世紀中頃の人物としなければ無理。

B豊鍬入姫命説
崇神天皇の皇女だから、モモソ媛を卑弥呼とし、モモソ媛を崇神の2世代前とすれば世代差は説明できる。
しかしこれも上記、崇神を4世紀初頭から前半とするのが有力なので時系列として無理。

C豊姫説
4世紀後半の神功皇后の妹だから論外。

つまりwikiの臺與候補、全員アウト!

というわけで臺與の条件をたった一人、トヨ津媛のみがクリアする。
しかも【国宝】中平銘鉄刀の保持者・和邇氏の祖・孝昭天皇の母である。

卑弥呼とは彼女から3世代前のヒメ(踏鞴五十鈴)媛である。

945日本@名無史さん2018/11/12(月) 19:26:23.78
>>934
キチガイを見る目つきをされ
そしてやっぱり卑弥呼の墓と言い伝えがあったとここに嘘を書くに
方格規矩四神鏡1枚賭けるわ

946日本@名無史さん2018/11/12(月) 19:27:02.93
(天柱山)高峻こうしゆん二十余里。(魏志十七) この山は一八六〇メートルだ(中華人民共和国地図、一九七一、北京)。従って「一里=約七五メートル」の短里だ。

947日本@名無史さん2018/11/12(月) 19:29:29.95
高さを表す単位は丈だよ

948日本@名無史さん2018/11/12(月) 19:30:34.02
>>941
誤差を考えろ

949日本@名無史さん2018/11/12(月) 19:32:33.72
>>948
考えた結果
やっぱり南北でピッタリ1寸差になるのは
実際に測ってない証拠

950日本@名無史さん2018/11/12(月) 19:35:49.94
>>942
ないから

951日本@名無史さん2018/11/12(月) 19:38:47.65
>>926
>石包丁は耕作用農具ではありませんよ。<
正解ですが 耕作すれば収穫もするので農具でいいのです
くだらない揚げ足取りはいけないと思います

952日本@名無史さん2018/11/12(月) 19:41:49.69
>>950

あるから
邪馬台国畿内説 Part39 	->画像>39枚

953日本@名無史さん2018/11/12(月) 19:42:11.38
そもそも南北千里で地面に立てた棒の影の長さを測るのも
千里をまっすぐ北に進まなくてはいけない
道が曲がりくねっていたり間に山があったりした時点で
もう正確な距離は測れなくなる
そんな都合のいい地点があったとは考えにくいし
実験のために千里のまっすぐな道を整備したとするのはナンセンス

954日本@名無史さん2018/11/12(月) 19:43:23.91
>>952
ほら
やっぱりないじゃないか

955日本@名無史さん2018/11/12(月) 19:48:09.18
纏向遺跡の命名は最近じゃないないのか?
纏向古墳群いいと思う
倭人伝に基く遺物も少なすぎるし、王都としては集落跡も無い
いま一度、大和の情勢を再考すべきでは無いだろうか
>>1は纒向・箸墓にこだわっているようだが畿内説の学者の最近の論調を再考すべきです
公表も地域に限られた公表に成りつつあります(櫻井市教委、纒向学研究センターの連盟です)

956日本@名無史さん2018/11/12(月) 19:52:00.00
>>954

あるものをない、
ないもの(円墳先造説)をある、
とうとうお前は狂ったわけだ。

957日本@名無史さん2018/11/12(月) 19:55:57.54
1番こだわってるのは葛城だろ
そもそも卑弥呼の墓を確実に特定するのは難しいから
日本書紀にあるような奴婢を周りに埋めたような痕跡は
国内のどの古墳にも見られないし
基本3世紀の大きな墓でだとすると前方後円墳だろうくらいしか

958日本@名無史さん2018/11/12(月) 19:56:57.62
>>956
ないもんはないからしょうがないだろ

959日本@名無史さん2018/11/12(月) 19:57:51.35
>>951
正解なら、何で揚げ足取りなんだ?

コピペにはちゃんと「耕作用農具」と断って、双方の耕作用農具の相違と矛盾点を
的確に指摘し、文章を進めている。

石包丁を耕作用農具と勘違いしているなら、間違いを訂正するのは当たり前の事。

でしゃばるな偽善者!

960日本@名無史さん2018/11/12(月) 19:58:44.20
>>958
おまえは人間のクス゛

961日本@名無史さん2018/11/12(月) 19:58:49.40
吉野ヶ里の都市機能はセンセーションでした、弥生期の大規模集落群が発見されたのですから
甘木、朝倉の都市機能も弥生期の日本の先進的遺跡です・・・甘木・朝倉の集落群はまだまだの広がるでしょうが後世に譲りましょう

巻向は九州説への当て馬にしては物証が少なすぎます。
近畿地方在住の古代の研究者が畿内説を唱えますが関西勢は封建的な組織体です。数は多いが烏合の衆?餌に集まるハイエナ?

962日本@名無史さん2018/11/12(月) 20:00:25.32
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。

963日本@名無史さん2018/11/12(月) 20:01:04.37
>>381
>大和に誕生した邪馬台国は幾つかの地域の文化を集めて成立している<

「邪馬台国」なんて存在もしない嘘つき騙し文言。

>邪馬台国は卑弥呼生の頃の纏向型段階→卑弥呼死後の定型化以後の2段階の発展の姿が伺える<

纏向型は前方後円墳であり、卑弥呼の冢ではなくその後であるから、×。

964日本@名無史さん2018/11/12(月) 20:01:28.73
>>960
は?何キレてんの?
ダッサwwww

お前は人間のクズ
だってwww腹痛てえwwww

965日本@名無史さん2018/11/12(月) 20:02:24.52
>>964
泣いてるのかい?w

966日本@名無史さん2018/11/12(月) 20:03:41.39
>>965
お前がな

967日本@名無史さん2018/11/12(月) 20:06:33.47
これこれ、トンデモ同士、喧嘩はやめなさい。  @阿波

968日本@名無史さん2018/11/12(月) 20:08:10.96
>>967
お前が1番トンデモじゃねーか

969日本@名無史さん2018/11/12(月) 20:10:12.29
石碑1個で土蜘蛛百人殉葬跡だとさ
あー恥ずかしあー恥ずかし

970日本@名無史さん2018/11/12(月) 20:10:14.77
>>959
よいですが、ムキになるようなカキコミと思えませんでしたから
ご容赦ください スイマセンでした 

971日本@名無史さん2018/11/12(月) 20:10:45.10
円墳先造説自体は先人が唱えてるから
まあそういう考えもあるのだろう
短里よりは根拠あると思った

972日本@名無史さん2018/11/12(月) 20:12:09.33
>>969
>石碑1個で土蜘蛛百人殉葬跡だとさ

百人なら百個いるのか?

973日本@名無史さん2018/11/12(月) 20:13:38.78
ついに日本史板に連投規制が入ったな
ザラコクのせいだろ
あまり無茶な連投すると残酷な天使を償還しましたとなって
おそらく数週間から数ヶ月書き込みが規制されるからみんなも気をつけろ

974日本@名無史さん2018/11/12(月) 20:13:39.22
50は要るな

975日本@名無史さん2018/11/12(月) 20:14:45.89
>>974
先ず箸墓で見つけろ基地外。

976日本@名無史さん2018/11/12(月) 20:15:53.59
>>975
特殊器台

977日本@名無史さん2018/11/12(月) 20:16:05.92
なんで箸墓や纏向で騒ぐのか
畿内説の邪馬台国の王都は纒向や卑弥呼の墓は箸墓と騒ぐのか
畿内に他に候補地は多くあるし
未だ、纒向や箸墓に否定的な畿内説の研究者もいるのになぜ?

巻向と箸墓の決定打は何?????

978日本@名無史さん2018/11/12(月) 20:16:47.20
石碑なんかいらんわい

979日本@名無史さん2018/11/12(月) 20:17:10.66
>>976
それこそ根拠を言え基地外

980日本@名無史さん2018/11/12(月) 20:17:54.56
あの土蜘蛛塚って3世紀のものでは無いだろうしな

981日本@名無史さん2018/11/12(月) 20:17:54.84
>>977
腿の種

982日本@名無史さん2018/11/12(月) 20:19:12.59
>>977
決定打はないwww

983日本@名無史さん2018/11/12(月) 20:20:05.16
テンプレのほとんどが畿内説本の貼り付けだらけで支離滅裂だが
なぜ、箸墓や纏向こだわるかが説不足だ
物証はなんなのか?

984日本@名無史さん2018/11/12(月) 20:20:16.60
畿内説に焦りが手に取るようにわかる

985日本@名無史さん2018/11/12(月) 20:20:44.49
そもそも殉葬の痕跡のある古墳ってあるの?

986日本@名無史さん2018/11/12(月) 20:21:23.37
特殊器台に人間をバラバラにして乗せた?

>>1は将来猟奇殺人しそうだなw

987日本@名無史さん2018/11/12(月) 20:25:54.34
畿内説の支持者が減ったのは纏向と箸墓の功罪だよ
推理・推理で進めたが良いが後追いする研究成果(発見)がおぼつかない

988日本@名無史さん2018/11/12(月) 20:27:24.62
埋めちゃおう 

989日本@名無史さん2018/11/12(月) 20:27:38.25
とはいえ九州でめぼしいところは発掘済みだしな

990日本@名無史さん2018/11/12(月) 20:28:19.48
>>987
>推理・推理で進めたが良いが後追いする研究成果(発見)がおぼつかない

九州説も一緒だよ。  @阿波

991日本@名無史さん2018/11/12(月) 20:28:29.78
埋めちゃおう 

992日本@名無史さん2018/11/12(月) 20:29:28.33
>>979
日本書紀に殉葬は奴婢を古墳の周りに埋める
古代から行われて来た風習とある

しかしそうならば国内の古い時代の古墳からそういった痕跡が数多く見つかるはずだが
そういった発見はない

代わって古い円墳や最前期の特に大型の前方後円墳からは
特殊器台と円筒埴輪が見つかる

これは人物埴輪が登場すると廃れるもので
日本書紀では人物埴輪は殉葬の奴婢の代わりだったとの記述から考えると
特殊器台に奴婢を生贄にするような儀式が行われていたと推察される

つまり殉葬は古墳の周りに奴婢を埋めるようなものではなく
古墳の周りに墓があったりするのは殉葬ではないという事
そうであるならばもっと多数の古墳に見られなければおかしいから

代わりに古い100m超の王墓クラスの前方後円墳から特殊器台が見つかるのは
それに血を捧げる殉葬の儀式が行われていたのではないかと考えるに十分
もっとも邪馬台国の頃には既に形骸化していたのかも知れないが

993日本@名無史さん2018/11/12(月) 20:29:30.12
土蜘蛛かよ

994日本@名無史さん2018/11/12(月) 20:32:05.68
>>724
全ての起源は九州北部だったということか。

995日本@名無史さん2018/11/12(月) 20:33:38.00
>>983
別にそんなに拘ってないが
一番拘ってるのは九州説及び葛城厨

畿内説の態度としては邪馬台国と目される畿内に
複数の大きな建物跡と大きな前方後円墳があるね
邪馬台国は7万戸の国内で1番大きな国で
卑弥呼の墓は大きなものだったという魏志倭人伝の記述に合うなぐらいのもんだ

996日本@名無史さん2018/11/12(月) 20:38:38.71
>>986
やってたとするなら器に血でも入れてたんだろ
血という字は皿に入れた犠牲の血が成り立ち
中国ではそういう儀式があったし日本も輸入した可能性があるしな

997日本@名無史さん2018/11/12(月) 20:38:49.71
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。

998日本@名無史さん2018/11/12(月) 20:40:07.34
土蜘蛛  埋め

999日本@名無史さん2018/11/12(月) 20:41:09.84
>>435
>鉄器出土数
奈良県 弥生前期 0 弥生前期 0 弥生中期 0 弥生中期 0 弥生後期・終末期 1 弥生後期・終末期 5
徳島県 弥生前期 0 弥生前期 0 弥生中期 3 弥生中期 0 弥生後期・終末期 28 弥生後期・終末期 0
福岡県 弥生前期 2 弥生前期 48 弥生中期 46 弥生中期 365 弥生後期・終末期 213 弥生後期・終末期 753
熊本県 弥生前期 0 弥生前期 1 弥生中期 20 弥生中期 21 弥生後期・終末期 311 弥生後期・終末期 1254
存在していた鉄器の大部分がが失われるとしても、母数となる鉄器の数に圧倒的な格差があるのが現実。
これらの数字からは、卑弥呼の時代に膨張した九州勢力の影響が弥生末期に奈良にも及び始めるという様相だよ。<

成程。

1000日本@名無史さん2018/11/12(月) 20:42:31.08
土蜘蛛  埋め

mmp2
lud20190719022343ca
このスレへの固定リンク: http://5chb.net/r/history/1541814138/
ヒント:5chスレのurlに http://xxxx.5chb.net/xxxx のようにbを入れるだけでここでスレ保存、閲覧できます。

TOPへ TOPへ  

このエントリをはてなブックマークに追加現在登録者数177 ブックマークへ


全掲示板一覧 この掲示板へ 人気スレ | >50 >100 >200 >300 >500 >1000枚 新着画像

 ↓「邪馬台国畿内説 Part39 ->画像>39枚 」を見た人も見ています:
邪馬台国畿内説 Part399
邪馬台国畿内説 Part309
邪馬台国畿内説 Part329
邪馬台国畿内説 Part379
邪馬台国畿内説 Part339
邪馬台国畿内説 Part369
邪馬台国畿内説 Part382
邪馬台国畿内説 Part361
邪馬台国畿内説 Part303
邪馬台国畿内説 Part376
邪馬台国畿内説 Part352
邪馬台国畿内説 Part323
邪馬台国畿内説 Part397
邪馬台国畿内説 Part343
邪馬台国畿内説 Part354
邪馬台国畿内説 Part302
邪馬台国畿内説 Part316
邪馬台国畿内説 Part304
邪馬台国畿内説 Part356
邪馬台国畿内説 Part396
邪馬台国畿内説 Part323
邪馬台国畿内説 Part353
邪馬台国畿内説 Part308
邪馬台国畿内説 Part341
邪馬台国畿内説 Part313
邪馬台国畿内説 Part327
邪馬台国畿内説 Part335
邪馬台国畿内説 Part333
邪馬台国畿内説 Part334
邪馬台国畿内説 Part363
邪馬台国畿内説 Part315
邪馬台国畿内説 Part385
邪馬台国畿内説 Part358
邪馬台国畿内説 Part391
邪馬台国畿内説 Part395
邪馬台国畿内説 Part340
邪馬台国畿内説 Part327
邪馬台国畿内説 Part351
邪馬台国畿内説 Part357
邪馬台国畿内説 Part332
邪馬台国畿内説 Part342
邪馬台国畿内説 Part307
邪馬台国畿内説 Part311
邪馬台国畿内説 Part310
邪馬台国畿内説 Part387
邪馬台国畿内説 Part305
邪馬台国畿内説 Part345
邪馬台国畿内説 Part303
邪馬台国畿内説 Part322
邪馬台国畿内説 Part336
邪馬台国畿内説 Part377
邪馬台国畿内説 Part324
邪馬台国畿内説 Part320
邪馬台国畿内説 Part330
邪馬台国畿内説 Part390
邪馬台国畿内説 Part386 ->動画>4本->画像>38枚
邪馬台国畿内説 Part381
邪馬台国畿内説 Part360
邪馬台国畿内説 Part325
邪馬台国畿内説 Part331
邪馬台国畿内説 Part338
邪馬台国畿内説 Part306
邪馬台国畿内説 Part375
邪馬台国畿内説 Part312
20:04:13 up 5 days, 21:07, 0 users, load average: 9.11, 12.70, 13.26

in 0.055685043334961 sec @0.055685043334961@0b7 on 011910