dupchecked22222../4ta/2chb/772/10/history157771077221738750315 邪馬台国畿内説 Part549 YouTube動画>2本 ->画像>23枚 ◎正当な理由による書き込みの削除について:      生島英之とみられる方へ:

邪馬台国畿内説 Part549 YouTube動画>2本 ->画像>23枚


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1◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/30(月) 21:59:32.35
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
http://2chb.net/r/history/1577286060/
◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。

2◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/30(月) 22:01:37.28
◆1(女王所都)
 奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)

 現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に配置された大型建物等(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
 居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。

 この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。

 箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
 乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。

 この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。

3◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/30(月) 22:02:15.70
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
 前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
 また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。

 血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
 つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。

 纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
 築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。

 この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。

 その始発点が、a.元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から、b.或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。

4◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/30(月) 22:02:50.88
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
 その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
 このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
 箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
 換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである

 また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前の情報が窺知できる。

 乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
 女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。

 紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。

5◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/30(月) 22:03:26.34
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
 纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
 同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。

 威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
 しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
 代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。

 共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他なるまい。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
 それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。

 定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
 もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
 後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
 この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。

 初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。

6◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/30(月) 22:04:00.49
◆5(倭国の形成と気候変動)
 1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
 2に、河内と吉備の交流の深さ
 この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
 共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
 これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。

 2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
 この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
 寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
 弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。

※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
 クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。

7◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/30(月) 22:04:33.04
◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
 これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
 これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
 先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。

 析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
 後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。

 やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
 分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く)

8◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/30(月) 22:05:06.47
(承前)
◆6−2
 方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
 二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。

 この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。

 高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。

 巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。

 ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
 一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。

 この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
 このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。

9◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/30(月) 22:05:41.76
◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
 3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
 北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
 つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。

 庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。

 上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
 逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
 外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。

 1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
 2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
 これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。

 北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。

 その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
 糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。

 この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。

10◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/30(月) 22:06:14.97
◆8(結語)
 日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
 原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
 原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。

 その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
 前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。

 博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。

 遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
 この現象は、寒冷化に起因する列島での社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
 この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。

 土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
 そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。

11◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/30(月) 22:06:47.81
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
 寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf

◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」


◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)

○弥生時代後期
  1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
  2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃 
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
  3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
  4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
  4世紀第4四半期〜5世紀中頃
   (古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)

※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
 庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
 同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
 庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
 IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
 IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III  ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山                  
  IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III    ●箸墓、権現山51号
  IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V  ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
                           浦間茶臼山、西求女塚
  IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
                           メスリ山、行灯山、祇園山

12◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/30(月) 22:07:21.55
◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!

A:九州は倭国の一部なので問題ない。
 郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
 逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
 畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
 水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。

 北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
 また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
 倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。

◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
  魏使は九州を出ていないではないか!

A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
   「泝(+固有名詞川名)が7回
 倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
 倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
 以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。

13◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/30(月) 22:07:56.38
◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!

A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
 「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。

 以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
 三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。

 筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。

 実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
 このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:

14◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/30(月) 22:08:44.23
◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く)
(承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
 遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
 予章郡:雒陽南二千七百里  南海郡:雒陽南七千一百里
 蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
 交趾郡:雒陽南萬一千里
 (雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)

 倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
 以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。

 また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。

15◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/30(月) 22:09:17.42
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!

A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
 纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
 また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。

 畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
 また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
 中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇田と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。

◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!

A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
 佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)

 小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
 対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
 ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。

 むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
 このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。


◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?

A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。

16◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/30(月) 22:10:16.67
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
  纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?

A:そのような事実はなく、当然交流があった。
 畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
 このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)


◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?

A:読み替えない。
 行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
 これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
 古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。


◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
  女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
  女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?

A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
 これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
 中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
 倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
 いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
 王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。

17◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/30(月) 22:10:48.90
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
  年代が判るという考古学者はおかしいではないか!

A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
 陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。

 封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
 しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。


◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
  それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?

A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
 後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
 使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。

18◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/30(月) 22:11:21.22
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
  畿内説は倭人伝と合わないのではないか?

A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
 福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
 弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
 以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。

 当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと


 3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。

 倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
 倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
 当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。

 なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
記紀においてもヤリとホコの区別が無いことは、天日槍を知らぬ者を除き常識である。
 加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
 の指摘は今日も有効である。

19◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/30(月) 22:11:56.78
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
  古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!

A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なる概念である。よって否定材料にならない。

呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。

 現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
 古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。

 現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて韓地経由の楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響ではあるものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状である。
就中、ホケノ山は床板が無く、石室構築のための仮設の板壁を石室完成後に撤去した木蓋石室墓とする復元案(真鍋2018)も有之、古代中国人が認識する木槨とは程遠い。
これを槨と称するならば、北部九州に多い箱式石棺も歴然と槨である。

 畿内で一般的な墓は木棺直葬の方形周溝墓で「有棺無槨」に適合している。


◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?

A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能である。

 伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
 糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
 このような状況下で、畿出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。

20◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/30(月) 22:12:30.70
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!

A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
 宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。

 一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと推定できる。
 他に、使用痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄など、遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧とがある。

 鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。

 纒向での鉄利用状況については、遺跡建設当初の庄内0期遺物から鉄器による加工痕が認められる。
 纒向大溝建築材実測図 邪馬台国畿内説 Part549 YouTube動画>2本 ->画像>23枚
矢板列支柱(左)に角の明瞭な貫穴、矢板(右)に鱗状手斧痕。倶に鉄器による加工の特徴を示す。
 纒向遺跡メクリ地区に「大型の鉄製品を砥ぐという行為が行われていたのは間違いがな」いとされている大量の砥石があり、廃棄時期は3世紀前半〜中頃、最も古いものは「庄内2式期の可能性」(『纒向遺跡発掘調査報告書2』桜井市教委2009)とされる。
 大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析では、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
 と結論されている。

 弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
 また併せて、纒向遺跡で脱炭鋼を製造していた布留0期の鍛冶遺構に於て鉃滓は共伴するが成品が発見されない状況は、官製工房的な管理の強化・貫徹を想定するに足る。
古墳時代に入ると「鉄器が普及したと同時に、首長層へ鉄器が集中した」(橋口2002)
という視点に立てば、首長級墳墓への集中と生活遺構での不在という鉄器の偏在は理解しやすい。

21日本@名無史さん2019/12/30(月) 22:13:05.15
奥山氏、働け。

22◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/30(月) 22:13:05.00
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
  九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!

A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。


◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!

A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
 また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
 よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
 このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。


◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!

A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
 万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
 したがって測定は存在しない。

 また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
 「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
  則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。

23日本@名無史さん2019/12/30(月) 22:13:28.18
奥山氏、働け。

24◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/30(月) 22:13:39.73
◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
  これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!

A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。

 新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
 江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
 まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。

 逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。


◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
  これで説明が付く!

A:そのような整合性は認められない。
 考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
 対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)

 信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
 郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。

 九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。

25◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/30(月) 22:14:11.21
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
  箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!

A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
 箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
 このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。

 中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。
郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であるが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり、中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。
現物は西晋末〜東晋初(四世紀第1四半期末から第2四半期頃)の河南省・遼寧省出土例まで降る。

 湖南省西晋墓陶俑図 邪馬台国畿内説 Part549 YouTube動画>2本 ->画像>23枚

 三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
 西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。

26◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/30(月) 22:14:43.42
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した! これは信用ならない!
  同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
 もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
 つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。

 考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
 炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。

 逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
邪馬台国畿内説 Part549 YouTube動画>2本 ->画像>23枚
 これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018) 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。

27◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/30(月) 22:15:16.70
◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!

A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) 邪馬台国畿内説 Part549 YouTube動画>2本 ->画像>23枚
 また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
 基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
 よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。

箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築 
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。

 1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
 2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
 スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
 隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 邪馬台国畿内説 Part549 YouTube動画>2本 ->画像>23枚

 前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。

 方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く)

28◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/30(月) 22:15:50.19
(承前)
◆FAQ 23−2

◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。

◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
 ・ 森将軍塚   :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
 ・ 前橋王山古墳 :上毛 ・ 持塚二号墳  :上総
 ・ 高千穂七号墳 :上総 ・ 山伏作一号墳 :上総
 ・ 長沖八号墳  :武蔵 ・ 温井一五号墳 :能登
 ・ 見手山一号墳 :但馬 ・ 西穂波16号墳 :東伯 
 ・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
 ・ 高鼻二号墳  :伯耆 ・ 日拝塚古墳  :筑前
 ・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
 ・ 朝日谷2号墳 :伊予ー布留0古(梅木1998)
◯朝日谷2号で後円部上に棺設置後、覆土と同時に前方部の盛土開始が判明していること
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等


◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!

A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
 黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
 両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
 古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、

 このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。

29◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/30(月) 22:16:25.51
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!

A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。

 旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
 
 後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
 このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。


◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
  ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!

A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
 統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。

 遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。

 さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
 ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
 古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。

30◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/30(月) 22:16:59.95
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!

A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
 ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。


◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
  卑弥呼の墓があるのは九州だ!

A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
 また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。

 参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
 日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。

 墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。


◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!

A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
 高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
 九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
 一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
 九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。

「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
 正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。

 以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があった。
 九州説にとって不利な条件と言える。

31◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/30(月) 22:17:31.57
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
  箸墓の築造と時間差があるだろう!

A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
 隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
 以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。

 なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
 また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
 このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
 解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀掾j、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。

 なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。

32◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/30(月) 22:18:04.39
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?

A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
 考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
 もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
 氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。

 弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
   邪馬台国畿内説 Part549 YouTube動画>2本 ->画像>23枚
 また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
 これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。

 優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
 吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
 弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核には、この地域を想定するのが妥当である。

 畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
 これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。

33◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/30(月) 22:18:36.26
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?

A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
 3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。

 これが部分的利用に留まる所以である。


◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある!
  海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!

A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。

 「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
 「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国

34◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/30(月) 22:19:10.71
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
  伊都国は隆盛のさなかである!

A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
 原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
 副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。

 当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
 国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
 残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
 大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)

 後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
 平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
 いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。

 後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
 このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。

 以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。

35◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/30(月) 22:19:45.68
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!

A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
 ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。

 以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
 ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)

 一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
 それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
 国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。

 弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
 同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。

※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。

36◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/30(月) 22:20:20.16
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!

A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
 博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)

 文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
 また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
 吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。

 なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
 那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。

 伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。


◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
  纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!

A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
 外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
 これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。

 ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
 古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
 ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。

37◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/30(月) 22:20:51.50
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
  仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!

A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
 意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
 金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)

 古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
 この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。

「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
 とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
 纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
 霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。

 大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
 にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
 侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
 新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。

38◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/30(月) 22:21:24.30
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
  邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?

A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。

 女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。


◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
  九州でいいではないか!

A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
  邪馬台国畿内説 Part549 YouTube動画>2本 ->画像>23枚
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
 福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
 ◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。

 会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
 沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
 東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
 このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。

 捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。

39◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/30(月) 22:21:57.15
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
  九州には古くから三種の神器がある!
  大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?

A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
 出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
 また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
 記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)

 畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。

 弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
 平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
 これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。

 この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。

40◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/30(月) 22:22:30.36
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
  新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!

A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
 弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。

 申敬は慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
 定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。

 申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
 良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
 参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。

 嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
 このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。

41◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/30(月) 22:23:02.91
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
  炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
  確かな根拠などないだろう!

A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
 1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
 また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。

その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である

以上から
 1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。

 楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
 また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
 よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。

42◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/30(月) 22:23:36.55
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
  国産に決まっている!

A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
 史料上で抹殺された年号は珍しくない。
 このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。

 中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
 この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
 最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。

 この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。

 景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。

43◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/30(月) 22:24:09.81
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?

A:◆1で略述したとおりである。
 ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
 箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
 その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
 倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
 ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
 同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
 文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。

 また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
 その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。


◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
  これが魏晋鏡だろう?

A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
 2世紀の鏡である。

 内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
  内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
 という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
 蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。

 この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
  A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
 2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
 雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。

44◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/30(月) 22:24:44.79
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
  2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?

A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。

 魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
 これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。

 少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)

 倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。


◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
  考古学的に確認されているのか?

A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。

 桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。

 広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
 このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。

45◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/30(月) 22:25:16.62
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?

A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
 今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
 また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
 魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
  「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
 さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。

 固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
 また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。


◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
  どこにでもありそうだ。

A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
 画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
 纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
 単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。

46◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/30(月) 22:25:49.77
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
  壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!

A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
 灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
 郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
 壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。

 弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
 日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
 卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
 ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。

 五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
  新方・森之宮(摂津)
  雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
  唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
 ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。

47◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/30(月) 22:26:24.24
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?

A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
 奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
 巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。


◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?

A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。

 刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
 秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
 この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。

48◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/30(月) 22:26:57.09
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
  以北ってことは女王国も含むんだぞ!

A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
   (三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
   (三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
   (同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。


◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
  狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!

A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
    山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
    海中の島国がカンボジアと「接」

 狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。

49日本@名無史さん2019/12/30(月) 22:27:01.83
朝鮮民族の奥山氏が、テンプレートを完全に論破された、破綻した邪馬台国畿内説のスレッドを作成するという闘いを、闘っているので、見守っている者達の感情を高め、感情を動かせるのではないのかな。

50◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/30(月) 22:27:30.57
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!

A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。

「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
 殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
  ※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
  ※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。

「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有¢ケ。
 太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
  ※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
  ※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
  ※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
  ※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
   昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
   当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
  ※百世に亘って代々を想定

51日本@名無史さん2019/12/30(月) 22:27:38.81
50

52◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/30(月) 22:28:02.35
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
  必然性がない!

A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
 法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである-
邪馬台国畿内説 Part549 YouTube動画>2本 ->画像>23枚 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。

 加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。

 畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。

53◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/30(月) 22:28:35.76
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!

A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)

「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
 参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。

「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
 備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。

 また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
 以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。

 さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
 また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。

 以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。

54◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/30(月) 22:29:09.09
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
  の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!

A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。

また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。


◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
  「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
  所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!

A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。

(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
     北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
    南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
    東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
    西與犂「革偏に于」・條支接。
    行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
    …東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
    …東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
                (漢書西域)

55◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/30(月) 22:29:42.05
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
  これは実測したとしか考えられない!
  誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!

A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。

 戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
 或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。

 また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
              (後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)

 さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。

 このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。

56◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/30(月) 22:30:16.17
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!

A:定説に従う。

 金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
 帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。

 二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。

 以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。

 楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
 

◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!

A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。

◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
  径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!

A:基礎知識の誤りである。
  現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する

ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)

57◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/30(月) 22:30:50.80
◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
  倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!

A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
 殷商:約16cm
 西周:約20cm
 戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
 後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
 南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
 先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
 後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。

 また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
 ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。

《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)

58◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/30(月) 22:31:23.93
(承前)
◆FAQ 65−2
 『禮記』王制には
 「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
  古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
  古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」

とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。

 ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。

 この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。


 秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
  古者周尺 17.3cm
  今周尺  21.0cm
  秦漢尺  23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。

59◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/30(月) 22:31:57.82
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
  本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!

A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。

 当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
 乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。

 なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。


◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
  なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
  倭人伝にある方位に間違いはないのだ!

A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
 東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。

 ・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
 ・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
 ・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。

 ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
邪馬台国畿内説 Part549 YouTube動画>2本 ->画像>23枚

 因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
 地名が実際の地勢と著しく異なる。

60◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/30(月) 22:32:31.80
◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
  奈良県の三角縁はもっと新しい!

A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。

 ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
 しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。

 箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。


◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!  
  このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
  魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
  護軍将軍である淵の任地は都である!

A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
 上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
 淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。

 長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
 

61◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/30(月) 22:33:06.30
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
  乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
  襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!

A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
 魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
 銭大ウ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。

 襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。


◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!

A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。

 中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) 邪馬台国畿内説 Part549 YouTube動画>2本 ->画像>23枚
 魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。

 当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
 を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。

62◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/30(月) 22:33:36.06
◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
 「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
  畿内は「東征」を受けた毛人だ!

A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
  「服」は他動詞として使う。
  「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。

 「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。


◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
  これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!

A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
 「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
 『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:邪馬台国畿内説 Part549 YouTube動画>2本 ->画像>23枚

 能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。

63◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/30(月) 22:34:09.40
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
  大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!

A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。

 大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
 畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。

 庄内大和型甕と庄内河内型甕は、庄内 I 段階に大和川河口地域に成立した初期庄内甕(庄内式古相)から分化して、庄内 II 段階に至り倶に確立した。胎土・製作技法・形態により識別されるのみならず、分布域も明瞭に区分可能である。

 生駒西麓型とも呼ばれる庄内河内型甕は、中河内地域で圧倒的なシェアを占める一方で、摂津・和泉並びに大和盆地では低シェアという、極めて特徴的な偏在を示す。
これが、中河内地域の排他性を意味しないことは、中河内地域主要遺跡の持つハブ港的性格を鑑みれば明瞭である。事実、吉備の文化は中河内を経由地として纏向に極めて濃厚に転移している。


◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
  畿内説は皇国史観の徒である!

A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。

 遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
 複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。

64◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/30(月) 22:34:43.00
◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
  最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
  8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
  古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!

A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。

 古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。

 弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。


◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
 前方後円墳体制など、夢想だ!

A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。

 萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
 当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。

 奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。

65◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/30(月) 22:35:16.49
◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
  里数が書いてないではないか!
  つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
  投馬国は南九州でよいのだ!

A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。

 『九章算術』巻第六「均輸」に
 「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
 甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。

 これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。

 本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。

三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
 旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
 其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
 不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
 逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」

とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。

 もとより倭人伝は倭人の国々を
  1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
  2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。

倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。

66日本@名無史さん2019/12/30(月) 22:35:47.75
奥山氏、貴方は、働きなさい。

67◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/30(月) 22:35:51.71
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
  ただの倉庫だろう?

A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)

 建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
 建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
 建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。

 強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。


◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
 「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
  魏志に邪馬臺と書かれていたのではない! 
  ただ当時の風説を書いたのだ!

A:初歩的な誤りである。
 子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
 子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
 動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。

 助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
 よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。

68◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/30(月) 22:36:30.62
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
  だから邪馬台国は畿内ではない!

A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
 後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。

 三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。

 魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。

 三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。


◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
  このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!

A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。

 「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。

 三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
 黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。

 このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。

69◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/30(月) 22:37:04.09
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
  鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!

A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。

●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。

●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
 大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君d高官」「保子d孫」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。

 国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君d高官至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。

 両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
 

70日本@名無史さん2019/12/30(月) 22:37:05.87
67

71◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/30(月) 22:37:41.69
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
  古墳とは違うのだ!

A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
 但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。

 孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。

 類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。

 魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。


◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!

A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。

 K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。
 庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。

72日本@名無史さん2019/12/30(月) 22:38:14.04
奥山氏よ、社会は、有ります。

73◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/30(月) 22:38:13.92
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
  日本の古墳は平坦で、高くない!
  卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!

A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
  驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
邪馬台国畿内説 Part549 YouTube動画>2本 ->画像>23枚


◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
  「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
  特鋳説の根拠にはならない!

A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。

 全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
 この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
 このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
 また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。

 銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。

74◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/30(月) 22:38:46.46
◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!

A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
 中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。

 また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。

 江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
 参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
 邪馬台国畿内説 Part549 YouTube動画>2本 ->画像>23枚
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。

 このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。


◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
   3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!

A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。

 下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
 この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。

 夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
邪馬台国畿内説 Part549 YouTube動画>2本 ->画像>23枚

75◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/30(月) 22:39:22.71
◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
  短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!

A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。

「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
 明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
 ※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
 ※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
 ※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
 ※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
 ※「皇覽」(魏文勅撰)


◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
   10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!

A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。

 実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。

76◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/30(月) 22:39:55.67
◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
  周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!

A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。

 六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。

『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。

 また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。

 八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
 よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。


◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!

A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。

 北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
 西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
 南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
 東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
 ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。

77◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/30(月) 22:40:29.61
◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
  畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!

A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。

 IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
邪馬台国畿内説 Part549 YouTube動画>2本 ->画像>23枚
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。

 畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。


◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
  布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!

A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。

ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。

科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。

78日本@名無史さん2019/12/30(月) 22:40:33.00
奥山氏よ、、、
社会は、5ちゃんねるにも有りますが、本質的ではありません。
貴方は、他の闘いも、闘えます。

79◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/30(月) 22:41:02.04
◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
  彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!

A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
 これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。

 呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。


◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!

A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
  東漢にあっても普通に食用であった。
  「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
  「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
 纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。


◆FAQ 98
Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない!

A:合理的な理由がない。
 纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。
 一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。
よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。
また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。
よって此の因果関係も求め難い。

 纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。
導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。

以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

80日本@名無史さん2019/12/30(月) 22:41:16.30
真実は、5ちゃんねるには、有りません。

81◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/30(月) 22:42:09.15
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

注意*前スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
 荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】 なし

82日本@名無史さん2019/12/30(月) 22:43:56.04
いくらなんでもテンプレ長すぎ

馬鹿だよ

83日本@名無史さん2019/12/30(月) 22:49:54.09
>>947
楽浪郡は高句麗と接していたのですから、そりゃオンドルを知るでしょう。

新撰姓氏録は白村江の戦いまでに帰化した朝鮮帰化人のリストですよね。

朝鮮帰化人も祖先をたどると楽浪郡人や帯方郡人がいる訳ですから、中国系由来になる訳です。

しかし、楽浪郡人や帯方郡人は遺構から出土する土器を見ると、実際は遼東郡漢人の分家であり、
中国大陸からの人々ではない事が分かります。

楽浪土器や帯方土器には同期する中国大陸の中国陶磁器にある三足や耳の付いた器種器形がなく、
中国大陸にはBC14Cからあった原始青磁もないのです。だから陶磁器ではなく、まだ土器なのです。

遼東人は元々はウラルアルタイ語族で漢人でも中国系でもありませんでした。

戦国時代中頃に燕に併合され、他民族が漢化しただけなのです。

だから土器に中国大陸の中国陶磁器の影響が全く反映していないのです。

新撰姓氏録に書かれている中国大陸の王族を祖先とするものはほとんどが騙りだと思います。

実際は漢化しただけの遼東人である遼東郡漢人を祖先に持つ楽浪郡人や帯方郡人が祖先なだけだと思います。

でも遼東人、並びにその分家の楽浪郡人、帯方郡人の王族や貴族の後裔は間違いなくいたと思います。

それが高じて、失われた中国大陸の王族を騙って自称するようになったのではないかな?

日本と同様、朝鮮半島からも三足や耳の付いた中国大陸の中国陶磁器が皆無なのです。

朝鮮半島には中国大陸人の入植はほとんどなかったと考えざるを得ない。

入植したのは漢化しただけの名のみの漢人の遼東郡漢人ですね。

84日本@名無史さん2019/12/30(月) 22:59:21.28
邪馬台国畿内説を宣伝している奥山氏が、発狂してしまったな。

85日本@名無史さん2019/12/30(月) 23:03:49.76
朝鮮民族の民族運動である邪馬台国畿内説を宣伝してきた朝鮮民族の奥山氏よ、貴方は卑劣な闘い方で、闘い、敗北したが、貴方は闘い抜いたね。。。

86日本@名無史さん2019/12/30(月) 23:27:12.10
いったい何の目的で律儀にスレ立てんだ?w
まあいじめられる事が心地よいという病気もあるそうだけどなw

87日本@名無史さん2019/12/31(火) 00:32:31.86
いい加減に気づいているだろう。
家が祀られていているほうの家なんだけど、老婆の話によると、そうなの。
何かの家の人だとか、むかーしの渡来人の?

88日本@名無史さん2019/12/31(火) 00:34:04.05
『大膳 職』
このような話などもwあったでしょ?

89日本@名無史さん2019/12/31(火) 00:37:46.40
謎の『チェーンソーのゲーム』があるでしょ?

あー、腹減ったなあ〜みたいな事を言っていたり。

90日本@名無史さん2019/12/31(火) 00:39:30.23
謎の日本昔話なども、なぜか家の話だしな。

91日本@名無史さん2019/12/31(火) 00:42:55.51
謎のチェーンソーのゲーム、オウムのようなキャラ(敵)も出てくるでしょ?


『ドンバ』(不明)・・・家の写真なんだけど。

92日本@名無史さん2019/12/31(火) 00:45:39.50
『かっぱっぱー』同じでしょ?

93日本@名無史さん2019/12/31(火) 00:48:44.50
相撲の話もしていたり、家が相撲を取っていたというわけではない。
相撲が好きだったのかな?土俵などがあって〜という話もしていたり。

94日本@名無史さん2019/12/31(火) 00:52:59.18
〜中国などから『鳳輿』〜渡ってきた家?

95日本@名無史さん2019/12/31(火) 00:55:59.06
『うまかろう安かろう亭』〜『かっぱっぱー』〜『ドンバ』〜『』『』『』

96日本@名無史さん2019/12/31(火) 01:07:50.78
それにしてもオウム(真理教)・・・、なぜ詳しいんだろう。

97日本@名無史さん2019/12/31(火) 01:13:42.01
『ザ・モモタロウ』

あと『相撲』の話なども、ほとんど同じ(合致?)。

98日本@名無史さん2019/12/31(火) 01:18:20.36
wiki『相撲』w

>皇極天皇元年(642年)7月22日には、
>百済の使節、大佐(だいさ)の平智積(へいちしゃく)らを饗応し、
>宴会の余興として、健児(ちからひと)に命じて、
>同年4月8日に亡命していた百済王族 翹岐(ぎょうき)の前で相撲をとらせた、とある[7]。

日本の仏教の話も・・・だしな、なぜ知っているんだろう。
老婆も詳しい。

99日本@名無史さん2019/12/31(火) 01:23:26.89
>〜饗応し、宴会

専門用語?『饗応』

100日本@名無史さん2019/12/31(火) 01:51:11.48
まさか・・・、その家(不明)の人なの?と思うでしょ。
そうなんだろう・・・としか言えない。

傾いた松の木の写真も同じだし、
シダ類、オジギソウの類の植物なども映っていたり。

101日本@名無史さん2019/12/31(火) 01:57:11.30
何が言いたいのか?
オウム(不明)のほうがマトモなんだと言っているだけ。

102日本@名無史さん2019/12/31(火) 02:16:07.06
無職奥山の畿内説漫談

103日本@名無史さん2019/12/31(火) 02:23:39.64
河童、河伯〜、
何かの家だと言っている人がいたでしょ?むかーしの渡来人の家。

104日本@名無史さん2019/12/31(火) 02:56:58.37
謎のチェーンソーのゲーム

『ずっと俺のターン』(曲w)『』『』『』・・・など、
なぜ知っている人がいるんだろう。

105日本@名無史さん2019/12/31(火) 02:59:46.15
dead or alive『turn around and count 2 ten』


ずっと俺のターンw

106日本@名無史さん2019/12/31(火) 04:21:24.91
『三貴子』

107日本@名無史さん2019/12/31(火) 04:29:30.60
『三貴子』〜『ドンバ』なども、ほとんど同じ。

108日本@名無史さん2019/12/31(火) 04:31:41.58
『うらしま・たろう』〜『ドンバ』〜『』・・・ほとんど同じ。

109日本@名無史さん2019/12/31(火) 04:36:35.92
おそらく、あの白い服の人の話なんだろうw、
なぜ眼帯(?)のような雰囲気だと知っているんだろう。
雰囲気、顔の作り?

110日本@名無史さん2019/12/31(火) 04:42:25.39
何度も書いたはずw
鼻、目のあたり・・・・の話とか。

111日本@名無史さん2019/12/31(火) 05:50:34.10
『もののけ姫』に出てくるキャラの話なのかな、どういうことなんだろう。

112日本@名無史さん2019/12/31(火) 05:56:05.94
キナイコシ無職wwww

これは事実であって悪口ではありません

113日本@名無史さん2019/12/31(火) 06:10:14.14
>>112
キナイコシは知的障害者だからだよ
無職でもいいじゃん

114日本@名無史さん2019/12/31(火) 06:54:49.39
>>83
>楽浪郡は高句麗と接していたのですから、そりゃオンドルを知るでしょう。
新撰姓氏録は白村江の戦いまでに帰化した朝鮮帰化人のリストですよね。
朝鮮帰化人も祖先をたどると楽浪郡人や帯方郡人がいる訳ですから、中国系由来になる訳です。<

新撰姓氏録は、他にも周朝の出である氏族や、秦朝や漢朝の出である、とする氏族などもいます。
また、弁辰の辰國(後の新羅)は、秦から逃れた遺民であった、ともされ、
出雲の「国引き神話」では、新羅地域からも部族が出雲に来た、という事になる記載もあります。

115日本@名無史さん2019/12/31(火) 08:53:22.71
>>83
>楽浪土器や帯方土器には同期する中国大陸の中国陶磁器にある三足や耳の付いた器種器形がなく、
中国大陸にはBC14Cからあった原始青磁もないのです。だから陶磁器ではなく、まだ土器なのです。<


ダメです。内倉武久さんの「太宰府は日本の首都だった」を見てごらん。
太宰府付近で「褐色の土器片と灰色の陶磁器片が混在していた」
という事を示す写真があり、しかもそんな事が何か所もあった、という事です。

>遼東人は元々はウラルアルタイ語族で漢人でも中国系でもありませんでした。
戦国時代中頃に燕に併合され、他民族が漢化しただけなのです。
だから土器に中国大陸の中国陶磁器の影響が全く反映していないのです。<

内倉本を読まれたら、いいでしょう。


>新撰姓氏録に書かれている中国大陸の王族を祖先とするものはほとんどが騙りだと思います。
実際は漢化しただけの遼東人である遼東郡漢人を祖先に持つ楽浪郡人や帯方郡人が祖先なだけだと思います。
でも遼東人、並びにその分家の楽浪郡人、帯方郡人の王族や貴族の後裔は間違いなくいたと思います。
それが高じて、失われた中国大陸の王族を騙って自称するようになったのではないかな?
日本と同様、朝鮮半島からも三足や耳の付いた中国大陸の中国陶磁器が皆無なのです。
朝鮮半島には中国大陸人の入植はほとんどなかったと考えざるを得ない。<


「〜と思います」とか「〜ないかな?」では、確率が低過ぎて、論拠になりません。
きちんとした「史料事実や史料実態からの確率の高い推論」をやってください。

116日本@名無史さん2019/12/31(火) 08:53:41.78
10進数は、錯覚が多いな。

117日本@名無史さん2019/12/31(火) 09:04:37.22
あ い う いい え いう お いいい うう いえ か いいう き いお うえ いいいい く いうう け いいえ うお いか こ

118日本@名無史さん2019/12/31(火) 09:35:06.16
>>114
楽浪郡帯方郡は遼東郡漢人が植民して建設されたのですから漢王朝の出身なのは
当然として、弁辰の辰國が秦から逃れた遺民が関係しているという記録も
遼東郡秦人が流れてきたと考えれば考古学的にさほど矛盾はしないと思います。

しかし、周王室の出であるとか、呉王夫差の後裔であるとか、漢の霊帝の後裔で
あるとか、などの記録は、遼東郡やその分家である楽浪郡、帯方郡に中国大陸の
中国陶磁器文化がないゆえ、考古学的に大きく矛盾してくるのです。

中国大陸の周や呉や漢の王族が植民しておいて、中国大陸の中国陶磁器には
当たり前にあるはずの原始青磁もない、陶鼎もない、陶鬲もない、耳が付いた
器形すらないというのは考古学的にあまりにもおかしすぎるのです。

当たり前の話ですが、王族や貴族というのはその地で最も文化水準が
高い人々な訳ですから。

ですから、新撰姓氏録に出てくる中国大陸の王族出身の自称はほとんど騙りである
と思います。

中国系なのであれば、それは必然的に遼東郡秦人漢人になる訳で、
中国大陸から来ているという線はあまりにも考えにくいのです。

119日本@名無史さん2019/12/31(火) 09:42:38.50
邪馬台国畿内説は破綻しました
邪馬台国纏向説は妄想です
そしてキナイコシは無職ですwww

120日本@名無史さん2019/12/31(火) 09:47:21.32
畿内説敗れて無職あり

121日本@名無史さん2019/12/31(火) 09:47:38.96
水行十日のあと、いきなり陸行の方角が変わるのは何でだったけか
誰か説明していたような

122日本@名無史さん2019/12/31(火) 09:58:21.28
>>115
中国大陸で磁器が生産されるのがBC14Cからであるのに対して、朝鮮半島で磁器が
生産されるようになるのはその2000年以上あとの10Cからで、日本では17Cからです。

そんな何の考古立証もできないデムパ作家のデムパ本、詭弁本なんか読むだけムダですね。

それこそ確率が低過ぎて、論拠になり得ません。

お笑いです。

とにかく、弥生人が中国から来たと吹聴しているヤツは中卒ですね。

123日本@名無史さん2019/12/31(火) 10:04:57.67
孫達が、歌合戦が始まる前に集結するのだったな。

124日本@名無史さん2019/12/31(火) 10:08:19.85
>>123
夢中になれる研究をすれば、時間が速く進行するのではないのかな。

125日本@名無史さん2019/12/31(火) 10:11:34.67
あ い う いい え いう お いいい うう いえ か いいう き いお うえ いいいい く いうう け いいえ うお いか こ いいいう ええ いき ううう いいお さ

126日本@名無史さん2019/12/31(火) 10:34:07.48
>>118
>楽浪郡帯方郡は遼東郡漢人が植民して建設されたのですから漢王朝の出身なのは
当然として、弁辰の辰國が秦から逃れた遺民が関係しているという記録も
遼東郡秦人が流れてきたと考えれば考古学的にさほど矛盾はしないと思います。<

「〜と思います」程度では、史料事実や史料実態を否定抹殺する事にはなりません。

>しかし、周王室の出であるとか、呉王夫差の後裔であるとか、漢の霊帝の後裔で
あるとか、などの記録は、遼東郡やその分家である楽浪郡、帯方郡に中国大陸の
中国陶磁器文化がないゆえ、考古学的に大きく矛盾してくるのです。<

ダメです。
中国から列島まで逃れて来た流民は、当然着の身着のままであり、
武器や重い土器も手放して、現地での物々交換で生き延びるしかなく、
筑紫の遺跡に、褐色の土器と灰色の陶磁器の混在した場所が幾つもある、という事は、
陶磁器が伝えられていた、という事の証拠です。

127日本@名無史さん2019/12/31(火) 10:35:04.75
>>118
>中国大陸の周や呉や漢の王族が植民しておいて、中国大陸の中国陶磁器には
当たり前にあるはずの原始青磁もない、陶鼎もない、陶鬲もない、耳が付いた
器形すらないというのは考古学的にあまりにもおかしすぎるのです。
当たり前の話ですが、王族や貴族というのはその地で最も文化水準が
高い人々な訳ですから。<

中国から逃げて来たのは、流浪の民です。

>ですから、新撰姓氏録に出てくる中国大陸の王族出身の自称はほとんど騙りである
と思います。<

「〜と思います」なんて、証拠になりません。

>中国系なのであれば、それは必然的に遼東郡秦人漢人になる訳で、
中国大陸から来ているという線はあまりにも考えにくいのです。<

新撰姓氏録の記録は、自家の出目を証言しているのであり、
筑紫での須恵器の存在は、中国からの直接的流民の存在を否定出来るものではありません。

128日本@名無史さん2019/12/31(火) 10:39:18.18
日本政府は「尖閣諸島は沖縄県に属する」と説明している。
そうであれば尖閣諸島は日本固有の領土ではないということになる。
なぜなら尖閣諸島が属する沖縄はもともと琉球王国という主権国家だったわけで、ゆえにその琉球王国を前身に持つ現在の沖縄は日本固有の領土とは言えないから。

129日本@名無史さん2019/12/31(火) 10:51:34.53
>>122
>中国大陸で磁器が生産されるのがBC14Cからであるのに対して、朝鮮半島で磁器が
生産されるようになるのはその2000年以上あとの10Cからで、日本では17Cからです。

日本列島の陶磁器は、吉武高木や祇園山に既に見つかっており、
筑紫の遺跡からも褐色土器と灰色陶磁器の混在が沢山見つかっており、
そういう(大和説者にとっては都合の悪い)史料事実や史料実態を否定抹殺するような、
そんな何の考古立証もできないデムパ大和説者のデムパ論、詭弁本なんか、
読むだけムダですね。
それこそ確率が低過ぎて、論拠になり得ません。 お笑いです。
とにかく、弥生人が中国から一切来なかった、と吹聴しているヤツは中卒ですね。

130日本@名無史さん2019/12/31(火) 10:59:33.97
沖縄はもともと日本の領土ではなく琉球王国という別の国だったから日本とは文化や風習が大きく異なる。
正月の過ごし方や食べ物はもちろんのこと、わずか数十年前まで七五三を祝うということもなかった。
沖縄では七五三より13祝いのほうが重要視されていて今でも13歳になると家族や親戚が祝うことが多い。

131日本@名無史さん2019/12/31(火) 11:00:32.75
日本政府は中国に対して「尖閣諸島は日本固有の領土」と主張するものの、「沖縄は日本固有の領土」とは主張しない。
その一方で、日本政府は「尖閣諸島は沖縄県に属する」と説明している。
尖閣諸島が沖縄県に属するなら、日本政府は「沖縄は日本固有の領土」と主張するべきだが、日本政府が「沖縄は日本固有の領土」と主張したことはただの一度もない。
日本政府がなぜ「沖縄は日本固有の領土」と主張できないかというと、日本政府は1879年3月27日に軍隊を動員して沖縄の前身である琉球王国を武力併合したという歴史的事実があるから。
武力併合しておきながら、その武力併合した地域を「我が国固有の領土」と主張してしまうと、例えばどこかの国が日本を武力併合したら、その瞬間から、その国は「日本は我が国固有の領土」とも言えることになり、日本政府はその国の主張に反論できなくなる。
だから日本政府は口が裂けても「沖縄は日本固有の領土」とは言えない。

132日本@名無史さん2019/12/31(火) 11:15:59.91
やはり、朝鮮民族の奥山氏が宣伝している、朝鮮民族の民族運動である邪馬台国畿内説は、日本国民の殆どの者達が祖先としている大半の古代人が、揚子江や南西諸島に分布していたことを、隠蔽する目的も大きいのだな。

133日本@名無史さん2019/12/31(火) 11:17:06.43
「日本人の境界」(新曜社刊)
http://www.shin-yo-s...ks/4-7885-0648-3.htm

第1章 琉球処分―「日本人」への編入
「国内に人類」への統合と排除/外国人顧問の提言/「日本人」としての琉球人/歴史をめぐる争い

第2章 沖縄教育と「日本人」化―同化教育の論理
旧慣維持と忠誠心育成/「文明化」と「日本化」/歴史観の改造

第12章 沖縄ナショナリズムの創造―伊波晋猷と沖縄学
沖縄にとっての同化/二重のマイノリティ/防壁としての同祖論/沖縄ナショナリズムと同祖/排除と同化の連鎖/啓蒙知識人として

第18章 境界上の島々―「外国」になった沖縄
「少数民族」としての沖縄人/「琉球総督府」の誕生/「アメリカ人」からの排除/「日本人」であって「日本人」でない存在


皇民化政策のもと、日本人ではない沖縄人を無理やり日本人になるように強制したり、
逆に「沖縄人」というだけで差別をしてきた日本の明治政府の醜さを余すところなく紹介した秀逸本が「日本人の境界」。

134日本@名無史さん2019/12/31(火) 11:17:11.92
>>126
ダメなのは貴方ですね。

単なる詭弁だし、弥生期に磁器が伝わっていたと言ってる頭のおかしな考古学者なんておりませんよ。

そもそも磁器を生産するには1200℃以上で高温焼成できる登り窯が必要なのです。

その登り窯が日本に登場するのは江戸期に入ってからですよ。

それまで磁器が作れる訳がないんですよ。

中卒ですね。

135日本@名無史さん2019/12/31(火) 11:24:22.31
日本国民の殆どの者達が祖先としている大半の古代人は、揚子江全流域や南西諸島に分布していたのだったね。

136日本@名無史さん2019/12/31(火) 11:25:52.24
>>135
人類学の常識なのだったね。

137日本@名無史さん2019/12/31(火) 11:27:41.94
>>127
須恵器はアナ窯を見ても、器種器形の系統から見ても、半島から伝わったものである事など明白。

その時代に中国から伝わるべきは磁器を焼成できる登り窯のはずだし、中国陶磁器の器種器形のはず。

そこに中国なんかありません。

中国からの直接的流民なんてあり得ません!

138日本@名無史さん2019/12/31(火) 11:28:20.09
>>125
無限と闘うためには、文字が足りなくなるな。

139日本@名無史さん2019/12/31(火) 11:31:18.49
残りやすかったというだけの土器という一要素を、物事全体に還元して、妄想をぶちまけている中卒がいるね。

140日本@名無史さん2019/12/31(火) 11:32:34.72
Γ関数を研究しているのだったね。

141日本@名無史さん2019/12/31(火) 11:33:28.27
>>129


で、弥生遺跡から磁器が出土したとウソブいている頭のおかしな考古学者の氏名と所属団体は?



今すぐ言えよ中卒!

142日本@名無史さん2019/12/31(火) 11:33:42.07
その昔、中国の福州市に「福州琉球館」という琉球王国の大使館があった。
当時の琉球王国は日本の統治権が及ばない異国だったので、自ら外交権を持ち、他国に大使館を置くことができた。
今の日本政府にはこのような歴史的事実を知っている人はいないだろうし、
沖縄がかつて琉球王国という日本の統治権が及ばない異国だったことすら知らない人が多いというのが現実。

143日本@名無史さん2019/12/31(火) 11:35:09.92
奥山氏は、残りやすかったというだけの土器という一要素を、物事全体に還元して、妄想をぶちまけている中卒なのだったね。

144日本@名無史さん2019/12/31(火) 11:36:29.12
某テレビ番組で琉球王国の歴史について解説した小森陽一東京大学大学院教授が「沖縄は140年前、琉球王国として自立していました。欧米列強の圧力で開国した日本は近代化の体制をつくる過程で琉球を日本の一部に囲い込もうとしました」 とコメントしている。
小森陽一教授の解説を見ても分かるように、琉球王国は日本の領土ではなかった。
その証拠に、日本の明治政府は1879年3月27日に軍隊を動員して武力的威嚇のもと琉球王国を併合している。
琉球王国が日本の領土だったなら日本の明治政府がその琉球王国を武力的併合するわけがないし、併合する必要もない。
琉球王国が日本の領土でなかったことは皮肉なことに日本の明治政府が琉球王国を武力併合したことで自ら証明してしまった。
よってその琉球王国を前身に持つ現在の沖縄は日本固有の領土とは言えない。

145日本@名無史さん2019/12/31(火) 11:37:59.19
1 2 3 2 2 5 2 3 7 2 2 2 3 3 2 5 11 2 2 3 13 2 7 3 5 2 2 2 2 17 2 3 3 19 2 2 5 3 7 2 13 23 2 2 2 3 5 5 2 13 3 3 3 2 2 7 29

146日本@名無史さん2019/12/31(火) 11:38:42.68
やはり、朝鮮民族の奥山氏が宣伝している、朝鮮民族の民族運動である邪馬台国畿内説は、日本国民の殆どの者達が祖先としている大半の古代人が、揚子江や南西諸島に分布していたことを、隠蔽する目的も大きいのだな。

147日本@名無史さん2019/12/31(火) 11:40:55.37
>>129


で、弥生遺跡から磁器が出土したとウソブいている頭のおかしな考古学者の氏名と所属団体は?



早く言えよ、お笑い中卒!

148♯はうんこ2019/12/31(火) 11:43:12.17
「双子の素数の間の数」の積を研究した者は、いるのだろうか。。

2 2 2 3 2 2 3 2 3 3 2 3 5

149日本@名無史さん2019/12/31(火) 11:44:17.95
トリップが、ばれてしまったのでは、ないのかな。

150日本@名無史さん2019/12/31(火) 11:46:08.37
150

151◆bL7iehB8vc 2019/12/31(火) 11:47:35.02
なぜ、トリップが失敗したのだろう、、、

152日本@名無史さん2019/12/31(火) 11:49:03.71
♯と#は、違うのだね。

153日本@名無史さん2019/12/31(火) 11:49:06.05
>>129


で、弥生遺跡から磁器が出土したとウソブいている頭のおかしな考古学者の氏名と所属団体は?



さっさと言えよ、お笑い中卒!

154◆SsckGH7WxE 2019/12/31(火) 11:56:21.82
「三つ子以上ではない双子の素数の間の数」の積の2乗は、三つ子以上ではない双子の素数の積と、どのような関係性があるのだろうか、、、

155日本@名無史さん2019/12/31(火) 11:58:00.65
長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。


「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。

http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
 


縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!

156日本@名無史さん2019/12/31(火) 11:59:00.75
2 2 2 2 3 3 2 2 3 3 3 3 2 2 3 3 5 5
11 13 17 19 29 31

157日本@名無史さん2019/12/31(火) 12:03:32.98
「三つ子以上ではない双子の素数の間の数」の積の2乗は、三つ子以上ではない双子の素数の積よりも、三つ子以上ではない双子の素数の組み合わせの数だけ、大きな値なのだろうか。

158日本@名無史さん2019/12/31(火) 12:04:30.76
>>134
>ダメなのは貴方ですね。
単なる詭弁だし、弥生期に磁器が伝わっていたと言ってる頭のおかしな考古学者なんておりませんよ。<

ダメなのは貴方ですね。 単なる詭弁だし、
吉野ケ里や祇園山の陶磁器を報告したのは「大和説考古学者」だし、
筑紫の遺跡に「褐色の土器と灰色の陶磁器様土器の混在」を見ても、
「灰色のが後代の陶磁器の混在だろう」という嘘つき騙しをしたのも、
頭のおかしな「大和説考古学者」なんだよ。

>そもそも磁器を生産するには1200℃以上で高温焼成できる登り窯が必要なのです。
その登り窯が日本に登場するのは江戸期に入ってからですよ。
それまで磁器が作れる訳がないんですよ。<

「高温焼成」なら、筑紫では、青銅や鉄鉱石や瓦式土器などの高温焼成が伝わっていたし、
庄内も布留もある程度高温焼成をやっていた。

159日本@名無史さん2019/12/31(火) 12:05:22.73
>>157
間違いだな。

160日本@名無史さん2019/12/31(火) 12:09:44.75
>>158


で、弥生遺跡から磁器が出土したとウソブいている頭のおかしな考古学者の氏名と所属団体は?



今すぐ言えよ、お笑い中卒!

161日本@名無史さん2019/12/31(火) 12:23:30.15
Π((a∧2)─1)
aは三つ子以上ではない双子の素数の間の数

162日本@名無史さん2019/12/31(火) 12:24:50.70
「三つ子以上ではない双子の素数の間の数」の積の2乗は、三つ子以上ではない双子の素数の積と、どのような関係性があるのだろうか、、

163日本@名無史さん2019/12/31(火) 12:30:45.67
lim「X→?」(奥(1)-1)*(奥(2)-1)*(奥(3)-1)*・・・*(奥(X)-1)

164日本@名無史さん2019/12/31(火) 12:31:48.58
双子の素数は、何個あるのだろうか、、、

165日本@名無史さん2019/12/31(火) 12:37:56.48
三つ子素数の定義は、3 5 7とは、別にあるのだな。

166日本@名無史さん2019/12/31(火) 12:40:58.31
>>162
「三つ子以上ではない」という部分を、「11以上」に変換すれば良いよ。

167◆SsckGH7WxE 2019/12/31(火) 12:42:44.20
「11以上の双子の素数の間の数」の積の2乗は、11以上の双子の素数の積と、どのような関係性があるのだろうか、、

168日本@名無史さん2019/12/31(火) 12:48:57.37
>>137
>須恵器はアナ窯を見ても、器種器形の系統から見ても、半島から伝わったものである事など明白。
その時代に中国から伝わるべきは磁器を焼成できる登り窯のはずだし、中国陶磁器の器種器形のはず。
そこに中国なんかありません。
中国からの直接的流民なんてあり得ません!<

燕の南方の倭人(おそらく天孫族や阿毎氏系の倭人)は、
生存地域を求めての緩やかな半島経由での移住であった可能性があるが、
呉王夫差の遺民(姫氏ら)は、海に入る位の直接的な緊急避難逃亡であり、
陶磁器技術者のような人々が含まれていたのか?も、不明であり、
どちらかと言えば、おそらくいなかった。

169日本@名無史さん2019/12/31(火) 12:57:31.36
>>141
>で、弥生遺跡から磁器が出土したとウソブいている頭のおかしな考古学者の氏名と所属団体は?
今すぐ言えよ中卒!<

で、筑紫の遺跡での「褐色の土器片と灰色の土器片の混在」を見て、
「灰色のは、後代に付近から流れ込んで来たのだ」
というインチキ説明をした、頭のおかしい大和説考古学者の名前と所属団体名を、
今すぐ言えよ。

170♯あらいお2019/12/31(火) 13:23:39.59
トリップキーの前の記号は、どちらだったろうか、、、

171日本@名無史さん2019/12/31(火) 13:28:35.31
>>168
呉王夫差の遺民が渡来定着が事実なら、磁器は無理にしても、弥生土器の作り手に
中国陶磁器の器種器形くらい教えて作らせればイイだろ。

三足や耳の付いた鼎や鬲や盤や尊や鬹くらいすぐに作れるだろがカス

皿(盤)一枚伝わってねえでやんの。

それに瓦屋根が無理にしても、竪穴式住居の作り手に土壁くらい教えて、
土壁の住居を作らせて住めばイイだけだろ。

だいたい、それ以前に龍信仰も伝わってないし、原始漢字が一字も
伝わっていない事自体、あり得んだろが。

呉の王族がやって来ておいて、呉という漢字の一つも伝えねえとか、あり得んだろ。

それに渡来当時に伝わった中国系言語の単語は?

一体どこに呉王夫差の遺民の痕跡があるんだよ?

中卒すぎる。

172日本@名無史さん2019/12/31(火) 13:40:13.08
♯とは、何だろうか。

173日本@名無史さん2019/12/31(火) 13:43:31.53
嬰記号というのだな。

174日本@名無史さん2019/12/31(火) 13:43:56.44
ハッシュ関数とは、無関係だね。

175日本@名無史さん2019/12/31(火) 13:45:03.46
>>172
それはシャープだろ
番号記号は縦の線が斜めのやつじゃね?

176日本@名無史さん2019/12/31(火) 13:48:11.43
ハッシュ関数とは、対応が1対1ではないのだな。

177日本@名無史さん2019/12/31(火) 13:52:55.91
lim「X→?」(奥(1)-1)*(奥(2)-1)*(奥(3)-1)*・・・*(奥(X)-1)
双子の素数は、何個あるのだろうか、、、

178日本@名無史さん2019/12/31(火) 13:56:26.38
「「X番目の11以上の双子の素数の間の数の2乗」─1」を全て掛け合わせた値は、何だろうか、、、

179日本@名無史さん2019/12/31(火) 13:57:37.97
新幹線が、進行しているな、、、

180日本@名無史さん2019/12/31(火) 13:59:51.71
キナイコシは無職wwwwwwwwwwww
大爆笑wwwwww

181日本@名無史さん2019/12/31(火) 14:03:00.09
(「X番目の11以上の双子の素数の間の数の2乗」─1)/「X番目の11以上の双子の素数の間の数の2乗」
=1-(1/「X番目の11以上の双子の素数の間の数の2乗」)=1なのだろうか。

182日本@名無史さん2019/12/31(火) 14:16:57.29
ここまで全部畿内説に徹底的に敗北して
錯乱した九州説の狂乱書き込み

183日本@名無史さん2019/12/31(火) 14:30:12.80
ろくなデータもないのに他説を罵倒するだけの纏向説は哀れだな

184日本@名無史さん2019/12/31(火) 14:31:09.28
邪馬台と書いてヤマトと読む。
倭と書いてヤマトと読む。
つまり邪馬台国とは倭国と同義で、訓読みにさらに漢字を当てただけ。
魏志にある女王国もまた同義である。
卑弥呼の称号は邪馬台国の女王ではなく、倭国女王(親魏倭王)である。

倭国は稲作伝来の地である玄界灘沿岸に成立し、対馬海峡の交易により発展した海洋国家であり、海人の国を意味する「天津国」とも呼ばれた。
生活の基盤が次第に漁撈から稲作と交易にシフトすると博多がその中心として発展したが、卑弥呼の時代には王都は博多からやや離れた伊都国に置かれた。

倭国の都は紀元前から一貫して筑紫、現在の福岡県にあった。
漢の時代に金印を授かり冊封され、女王卑弥呼の時に魏から冊封された。
倭国においては筑紫の他に、豊国、肥国などの有力な国があり、魏志によると東の海を渡ったところにも倭種つまり出雲や近江、越など日本海沿岸に国が続いていた。
畿内は京都も大阪も奈良も、沼地であった。

185日本@名無史さん2019/12/31(火) 15:00:42.48
>>184

マレー系の甕棺墓はど没落した
人種的に万世一系作り話

186日本@名無史さん2019/12/31(火) 15:39:31.74
畿内説自体には腹はたたないが、なぜか纏向説はムカついて仕方ない
キナイコシが書き込みをすればするほど纏向説のイメージは悪化するということなのだろう

187日本@名無史さん2019/12/31(火) 15:43:11.04
>>184
>倭国の都は紀元前から一貫して筑紫、現在の福岡県にあった。

いくら言い張っても、碌な弥生集落遺跡や資源の無い福岡に、「倭国の都」など興る訳がない。  なにを考えているんだか。  わははははは   @阿波   

188日本@名無史さん2019/12/31(火) 16:18:01.21
>>171
>呉王夫差の遺民が渡来定着が事実なら、磁器は無理にしても、弥生土器の作り手に
中国陶磁器の器種器形くらい教えて作らせればイイだろ。
三足や耳の付いた鼎や鬲や盤や尊や鬹くらいすぐに作れるだろがカス
皿(盤)一枚伝わってねえでやんの。<

生活や祭祀の器を造る技術者は、呉王家やその家臣とは違って、
越王勾践の軍に殺される心配は殆どなく、海に入って逃亡する必要が殆どなかった。

>それに瓦屋根が無理にしても、竪穴式住居の作り手に土壁くらい教えて、
土壁の住居を作らせて住めばイイだけだろ。<

火の国山門から北上して、委奴の地で天孫族と合同した姫氏の分家は、
吉武高木に宮殿を造っていたらしい。

>だいたい、それ以前に龍信仰も伝わってないし、原始漢字が一字も
伝わっていない事自体、あり得んだろが。
呉の王族がやって来ておいて、呉という漢字の一つも伝えねえとか、あり得んだろ。
それに渡来当時に伝わった中国系言語の単語は?
一体どこに呉王夫差の遺民の痕跡があるんだよ?<

「大夫」という身分名などがある。

189日本@名無史さん2019/12/31(火) 16:23:30.90
>>182
ここまで全部
九州説に徹底的に敗北して
錯乱した大和説の狂乱の書き込み

世間の皆さまは、
うっかり議論に参加すると、
「南→東」などの嘘つき騙しの・・・・アホ詐欺の口調が伝染してしまいますから、
こんな・・・・は、
相手にしないで放置しておいた方がいいでしょうね。

190日本@名無史さん2019/12/31(火) 16:41:07.76
>>188の追記
>>だいたい、それ以前に龍信仰も伝わってないし、原始漢字が一字も
伝わっていない事自体、あり得んだろが。
呉の王族がやって来ておいて、呉という漢字の一つも伝えねえとか、あり得んだろ。
それに渡来当時に伝わった中国系言語の単語は?
一体どこに呉王夫差の遺民の痕跡があるんだよ?<

「大夫」という身分名などがある。
他にも、松野氏姫氏系図には、呉王夫差の文字や、
その直属の王族であったと思われ、
海に入りて列島へやって来た「公氏忌」の名前も記載されており、
新撰姓氏録にも「呉王夫差」の名前だ記され、
魏志倭人伝の「佐治」という文言も、呉の文言の名残であった可能性もある。

191日本@名無史さん2019/12/31(火) 17:02:59.09
知能に差がある人々が議論をするとこうなるという分かりやすいスレだわ

192日本@名無史さん2019/12/31(火) 17:07:39.16
錯乱九州説

193日本@名無史さん2019/12/31(火) 17:17:38.16
>>188
技術者が来る必要なんか全くないだろ

王族自ら器形だけ教えて作らせればイイだけなんだから

何にもないという事はそんなものはやって来ていないだけの話

で、姫氏や大夫という漢字の記録が弥生遺構のどこにあるの?

詭弁とデムパばっかで全く考古学になってないぞ


>>190


だから大夫や姫氏や呉王夫差や公氏忌という漢字の記録が弥生遺構のどこにあんだよ?


どこ?どこ?どこ?どこ?どこ?


.

194日本@名無史さん2019/12/31(火) 17:20:38.50
畿内説が完全に破綻して消滅したからこのスレも暇になったな

195日本@名無史さん2019/12/31(火) 17:21:59.90
>>192
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しなどの、
錯乱大和説

196日本@名無史さん2019/12/31(火) 17:26:40.49
『畿内説』なんて最初からなかった
あったのはそうであって欲しいという『畿内願望』だけ

197日本@名無史さん2019/12/31(火) 17:31:36.50
ついに「南水行十日陸行一月」の謎が解けたyo!
魏志倭人伝の核心は「計其道里 當在会稽東冶之東(その道里を計るに、まさに会稽東冶の東にあるべし)」の一文。

1.西晋初代・武帝司馬炎は、祖父・司馬懿仲達(秀吉)を後見人に指名してくれた大恩人・曹叡(信長)の、(実は呉より北にいた)卑弥呼を特別待遇してしまった判断ミスを正当化し、呉を滅ぼす先鞭を付けた賢帝に仕立てる必要があった。
→曹魏の帝都・洛陽から見て東南にある孫呉との戦いにおいて、その背後に倭国「女王之所都」があれば、最高の牽制となる。
→孫権の帝都・建業とほぼ同緯度の会稽郡「東治(シ・さんずい)」ではなく、そこから更に約580km南で、帯方郡から12,000里の「東冶(ン・にすい)」の東にあると思わせたい。
2.しかし本当の位置も残さなければならない。
3.ところで倭国の気候&風俗(服装、産物、動物、武器)は、南越(ベトナム)国境にある海南島の大陸側、儋耳朱崖に似ている。

そこで陳寿が行った忖度が、女王国(九州)島が、狗邪(伽耶)韓国の南から儋耳朱崖(ベトナム)まで届く、中国大陸をすっぽり包み込む「南北に」長大な2つの列島であるように思わせるテクニック。
まず、正解の【奴国1】と、「當在会稽【東冶】之東」となる幻の【奴国2】を設定。
「奴国」を2回使って「女王之所都」が「奴国だよ、奴国だよ」と正解の【奴国1】を暗示(ダチョウ倶楽部「押すなよ、押すなよ」→2回目の念押しがポイント)。
次に、投馬国(宮崎)から南水行十日にある奄美大島を海南島までグィ〜ンと引き伸ばして、女王国島のパラレルワールド「邪馬台国島」を、そこに東治⇔東冶間の「陸行一月」を転用して幻の【奴国2】を創り、「東冶(ン・にすい)」の東に「女王之所都」を合わせた。
同時に倭国に行ったことがある中国知識人には「陸行一日(奴国)」の間違いとすぐに気が付くようにもした(「日」の両端の棒を下に延ばし日+Л→「月」)。
卑弥呼は、漢委奴国王以来の奴国王・帥升「其國本亦以男子為王 住七八十年」の男系女子(孫娘)で、先祖である歴代倭王(死者=鬼)の神託を聞くイタコとして(鬼道政治)、北部九州30カ国から共立された巫女(斎王)。
邪馬台国七万戸=奴国二万戸(福岡平野)+(南の狗奴国に狙われた)後背地・筑紫平野五万戸。

198日本@名無史さん2019/12/31(火) 17:32:59.13
>>197の模式図だyo!【魏志倭人伝の倭国観】
   ┏━━┓帯方郡  ┏┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
←┐┃黄海┗狗邪韓国┛(伽耶)〜〜〜日本海〜〜
洛陽┃〜〜〜↓↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━━━━━━━━━━━━━━━
【魏】┃〜対馬▲↓南「水行10日」〜〜〜〜┃「女王国東渡海1,000里 複有国 皆倭種」 
 ↓ ┃「瀚海」↓↓玄界灘〜〜〜〜〜〜〜┗━━━━━━━━━━━┓
   ┃〜壱岐▲↓〜〜〜〜┌南「水行10日」┐関門海峡〜瀬戸内海▲┃
v✖s┃〜〜┏末盧国━━━↑━━━━━┓↓〜〜〜〜┏━━━┓〜┃ 
   ┃〜〜┃伊都国→不弥国▲▲▲▲▲┃↓〜〜〜〜┃侏儒国┃〜┗━━━┛
 ↑ ┃〜〜┃▲↘「陸行1日」(正)‗▲▲▲▲↓国東半島┗━━━┛「在其南 人長3〜4尺
【呉】┃〜〜┃♀【奴国1】女王之所都▲▲┛↙豊後水道〜〜〜〜〜去女王4,000里」
建業┃〜〜┃狗奴国▲▲▲▲投馬国←←┘宮崎平野=南「水行20日」
   ┃〜〜┗━━女王国島━━┛↓〜〜〜〜〜〜〜〜
会稽┃〜東シナ海〜┌南「水行10日」〜〜〜〜〜〜〜〜
東治┃〜〜┌─┌←▲奄美大島┐↙陳寿の創作(女王国島のパラレルワールド)↓
 ↓ ┃〜〜│〜↓「陸行1月」_〜│←「自女王國以北其戸数道里可得略載」(北部九州30カ国)
   ┃〜〜│〜↓▲沖縄〜〜〜│〜〜↓「自郡至女王国 12,000里」
東冶┃〜〜│♀【奴国2】(幻)〜│★『(女王之所都)計其道里 當在会稽「東冶」之東』(魏<西晋のプロパガンダ)
   ┃〜〜│▲台湾〜〜〜〜〜│〜〜↑「此女王境界所尽 其南有狗奴國 不属女王」
香港┃〜〜└┐〜〜〜〜〜〜〜│←「其余旁国遠絶(幻)不可得詳」
┏▲海南島〜└邪馬台国島(幻)┘〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
┃↖儋耳朱崖〜〜南シナ海〜〜「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜」
┛←南越(ベトナム)〜〜〜〜〜↘▲裸国フィリピン〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜↘▲黒歯国インドネシア▲パプアニューギニア「複在其【奴国2】東南 船行1年」

199日本@名無史さん2019/12/31(火) 17:40:03.88
>>193
>技術者が来る必要なんか全くないだろ
王族自ら器形だけ教えて作らせればイイだけなんだから
何にもないという事はそんなものはやって来ていないだけの話<

王族が鼎などを製作する筈がないから、教えられる筈もない。

>で、姫氏や大夫という漢字の記録が弥生遺構のどこにあるの?
詭弁とデムパばっかで全く考古学になってないぞ<

何だ?、誰か「考古証拠」なんて要求したか?。
姫氏は、新撰姓氏録に書かれた呉王夫差が、姫氏の周朝の子孫であり、
松野氏姫氏系図の「姫氏(=キ氏)」であり、紀氏や貴氏らの本家筋の苗字だ。
「大夫」は、
倭人伝に書かれた姫氏の卑弥呼の部下の難升米や伊聲耆や掖邪狗らの職名だ。

200日本@名無史さん2019/12/31(火) 17:43:51.91
>>196
これ

201日本@名無史さん2019/12/31(火) 17:47:41.44
>>197
>>198
倭王卑弥呼の魏帝への朝貢目的は、蜀の牽制として西のインド・クシャーナ朝「親魏大月氏王」同様、呉の牽制として東の「親魏倭王」号を取得し、帯方郡が管理している「伽耶の鉄」の倭国における輸入独占権の確保(郡宛て発注書簡の封泥金印「親魏倭王」)。
つまり狗奴国戦争における後方支援(後に援軍)要請だったわけで、南の狗奴国の位置が決まれば、自動的に北の邪馬台国の位置も決まることになる。
長年続く邪馬台国所在地論争の核心は、実は狗奴国の位置であることに留意されたい。
そこで九州説、畿内説における狗奴国を検討すると、以下のようになる。

−女王国 東→渡「海A」千余里 複有「国皆倭種B」(〇九州説…A関門海峡・B本州、✖畿内説…A鈴鹿山脈・B北海道)
−其南↓有狗奴國 不属女王(〇九州説…熊本もしくは薩摩、✖畿内説…仲良し東海)

畿内説はいずれも当てはまらない上、「渡海複有国皆倭種(→東)」と「狗奴国(南⤴東)」が重複し、矛盾が生じる。
また、鉄製武器(軍事力)も文字・駅伝制(通信手段)もない3世紀の畿内にいて、遠隔の北部九州を安定支配するのは物理的に不可能。
消去法により、九州説が正しいことになる。
では、狗奴国が熊本か鹿児島かだが、邪馬台国七万戸を統治する倭女王をして、魏帝に援軍要請させるほど窮地に陥れる国の軍事力を考えると、
その人口は邪馬台国と同等(七万戸)もしくはそれ以上の人口(八万戸)を想定。
面積から見て、川内平野でゎ「平野面積≒戸数」となる3世紀の開墾能力では無理があると思われ、狗奴国は菊地平野(狗古智比狗の本拠)+熊本平野+八代平野の3平野を合わせた超大国と考定して、
北の邪馬台国は、北岸の吉野ヶ里遺跡を始め、弥生拠点集落の宝庫「筑後(川)の賜物」筑紫平野、卑弥呼王宮はその最高所・甘木朝倉を、
卑弥呼の冢「大作冢径百余歩(尺)=0.25m×100歩=直径25m」は、3世紀中頃の築造で、筑紫平野を一望でき、同時期の殉葬者が少なくとも66人以上確認されている「有棺無槨」祇園山古墳を比定。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%87%E5%9C%92%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3

202日本@名無史さん2019/12/31(火) 18:03:14.40
>>201すると、欽明(現皇室開祖)の父にして、古代史の謎である継体の正体(呉の南の「越」王の分家>狗奴国・卑弥弓呼末裔/鯨魚@八代淡海→近江琵琶湖)も判明!古代史は以下のように一挙に解明できるのである!

漢委奴国王=1世紀(弥生後期)
帥升=2世紀(倭国大乱)
卑弥呼=3世紀(弥生終末)邪馬台国(帯方郡張政の仲介で狗奴国を併合)…伊都国王神武「更立男王国中不服」を派遣し、紀伊半島西部水銀鉱床で栄えていた大和纏向を征服させ、奥津城(王家の谷)として隠蔽&独占。
崇神朝=4世紀(前期古墳)伊都国(台与死後「複立男王並受中国爵命」)…垂仁、伊勢神宮を創建し紀伊半島東部も聖域化。紀伊半島の水銀鉱床完全独占。
応神朝=5世紀(中期古墳)邪馬台国(仲哀を武内宿彌&神功が暗殺)…魏晋【宋/斉/梁】南朝へ朝貢再開。479年「武」上表「安東大将軍倭王」任命(悲願達成)。
継体朝=6世紀(後期古墳)狗奴国(武烈死後、倭王磐井を暗殺「百済本紀531年、日本の天皇・皇太子・皇子共に薨去」、筑紫君と矮小)…阿蘇邪靡堆へ遷都。倭国独自(九州)年号創設。
日出処「天子」倭王阿毎多利思比孤、新羅の朝貢を契機に隋煬帝に対し対等外交宣言607年
欽明朝=7世紀(飛鳥時代)…仏教による墓制(国家祭祀)変更のため、欽明皇子、蘇我稲目と共に奥津城(王家の谷)に下向。大和分家として飛鳥疎開宮造営。
用明&厩戸…物部守屋を誅殺し前方後円墳廃止。大和分家を乗っ取ろうとした蘇我氏を九州本家の天智が誅殺し、近江大津京へ東遷(大化の改新)。
天武朝=8世紀(奈良時代)記紀編纂→唐外交の火種【九州年号&多利思比孤】を抹消すべく、崇神朝〜応神朝〜継体朝の歴代倭王権@九州本家の交代が、すべて大和分家で起こっていたように史実歪曲。
畿内を記紀の歴史テーマパーク化(九州の地名をそっくり移植。阿蘇外輪山→三輪山、八代淡海→近江琵琶湖など)
桓武朝=9世紀(平安時代)

まとめると、
九州本家…卑弥呼台与(邪馬台国)→崇神朝(伊都国)→応神朝(邪馬台国)→継体朝(狗奴国/阿毎多利思比孤)→天智東遷(難波宮大津宮)→桓武(平安京)
大和分家…神武(伊都国)東征→崇神朝奥津城造営(紀伊半島の水銀鉱床目的)↘欽明朝(推古摂政厩戸)→天武持統(飛鳥宮藤原京)→元明(平城京)

203日本@名無史さん2019/12/31(火) 18:14:03.46
>>201
女王国(邪馬台国)の北に位置する「投馬国」が旧八女郡(上妻郡下妻郡生葉郡)を中心とした地域と判明したので
女王国はその南すなわち肥後国の可能性が高くなりました

上妻〜カム(上)・ツマ、カオ・ツ・ウマ〜おおむね現在の八女市、筑後市の北部、八女郡
下妻〜チモ・ツ・ウマ〜おおむね現在の筑後市の南部の地域

204日本@名無史さん2019/12/31(火) 18:14:48.14
>>202
邪馬台国女王・台与の死後、倭王となった伊都国王・崇神「複立男王並受中国爵命」の玄孫(4世孫)・仲哀から王権を相続(奪還)した応神(胎中天皇)は、仲哀の実子ではなく、
筑紫女王・神功皇后(記紀が1世紀前の邪馬台国「卑弥呼」と混同させられる理由)と大臣・武内宿彌の子供説(リンク参照)がある(仲哀崩御の十月十日後に筑紫で出生)。
仲哀の息子(応神の異母兄)たち(籠坂かごさか&忍熊おしくま皇子)の反乱もこれが原因である。

ここに武内宿彌の正体も明らかになるのである!
崇神朝(伊都国)の?景行?成務?仲哀、応神朝(邪馬台国)?応神(息子)?仁徳(孫)の5人の大王に仕えた彼は、筑紫女王・卑弥呼の男弟の末裔なのである!
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%86%85%E5%AE%BF%E7%A6%B0

その応神朝@筑紫(邪馬台国♂武内宿彌&♀神功皇后)を筑紫君磐井の乱で下剋上した狗奴国王・継体@阿蘇は、仁賢皇女・手白香姫を娶って欽明皇子を産ませることで、歴代倭王統の維持を図った(倭国大乱の再発予防)。

この欽明皇子が義理の父・蘇我稲目とともに、古代東アジア標準の中央集権強化手段=仏教への国家祭祀(墓制)変更のため、奥津城(王家の谷)大和に下向して大和分家(飛鳥)を築き(継体の大和入り20年に仮託)、
その次男・用明の代で、ついに強硬な廃仏派である大連・物部守屋を滅ぼして前方後円墳築造を廃止。その妹推古が仏教の国教化を成就。
しかし、全国の官寺建設で国家予算を恣にした蘇我蝦夷・入鹿父子が大和分家の皇族を次々に粛正し、乗っ取ろうとしたため、九州本家の天智@太宰府(瓦葺き)が飛鳥(板葺)宮に下向。三韓大使の目の前で誅殺(乙巳の変)。
その後、663年に白村江海戦での完敗により、唐・新羅の連合艦隊による倭王征伐がいよいよ現実味を帯びたため、継体→安閑・宣化→阿毎多利思比孤系統の九州本家・天智が、近江大津京に東遷。

ここに倭王権は史上初めて北部九州を出て、近江大津京→飛鳥浄御原宮→新益藤原京→平城京→平安京へと続く畿内中心の歴史が始まるのである!
欽明以前の「畿内」には、崇神朝・応神朝はもちろん、直前の継体朝ですら記紀伝承地に大王宮が一つも出土せず(明治政府設置の石碑のみ)、超巨大王墓と倉庫しか出土しないのは、そのためである。

205日本@名無史さん2019/12/31(火) 18:20:30.96
>>204
ダイワ・オオワとしか読めない大倭(大和)を(オオ)ヤマト と読ませるのはなぜか?
邪馬台国があったからではなく、その逆で、国内外(唐)に対し、新益藤原京を新設した「畿内」に、筑紫邪馬台も阿蘇邪靡堆もあったと思わせたかったからなのである!

白村江海戦惨敗で東遷した九州本家の天智の死後、壬申の乱で倭王権を獲得した大和分家の天武が正史記紀を編纂し(唐を刺激する九州本家の=継体創始の倭国独自年号&日出処「天子」多利思比孤を抹消)、
それに合わせて九州の地名をそっくり移植し、畿内をその歴史テーマパーク化していったからで、そのテーマパークの名前が「大倭」(ヤマト)なのである!

7世紀唐(飛鳥時代)までの中国歴代王朝には、倭国は九州島のみと認識されていたことが判る。
魏志倭人伝「女王国(九州)東渡海千里複有国皆倭種(本州)又有侏儒国在其南(四国)」
隋書倭国伝(倭王阿毎多利思比孤@阿蘇邪靡堆)、旧唐書(原文略)
日本の使者Aは「日本国(本州)は昔の倭国(九州)とは別の国だったが、日辺(→東)にあったので、日本と名付けた」
別の使者Bは「倭(九州)と言う名前が優雅でないから日本(本州)と改名した」と言い、
また別の使者Cは「日本(本州)は昔小国だったが、倭地(九州)を併せた」と言った。
来朝した使者ABCの態度が尊大で、真実を言っている様子がなかったので、中国は彼らを疑った。

事実は逆で、白村江海戦惨敗で九州本家が近江大津京に東遷後、実際はすべて北部九州で展開していた「倭国」の歴史テーマパークにするため、後漢書東夷伝の「大倭」@九州を借用しつつ、
発音は北部九州時代の都であった筑紫邪馬台&阿蘇邪靡堆(ヤマト)としたということなのである!
ゆえに「魏志倭人伝」の年代記述に合わせて箸墓の築造年代を繰り下げて生まれた畿内説(他人の褌)、ならびに教科書に載っている古墳時代の「畿内」にあったとされる「ヤマト王権」(定説)は、
唐外交を最優先課題とせざるを得なかった天武・持統朝が国家事業として強行した、この複雑なからくりに惑わされて生まれた幻想で、
特に前者は、記紀(ヤマト王権)という虚構のゴール地点から、魏志倭人伝と考古学の年代繰り上げ操作という他人の褌で、どこまで史実(スタート地点)歪曲&洗脳を定着させられるのか?という、社会実験に過ぎないのである。

206日本@名無史さん2019/12/31(火) 18:31:16.29
>>199
器形くらい粘土ですぐ教えられるに決まってるだろ

王族はみんな何にもできねえ木偶の坊だと思ってないか詭弁カス



で、大夫や姫氏や呉王夫差や公氏忌という漢字の記録が弥生遺構の一体どこにあるの?


どこ?どこ?どこ?どこ?どこ?


.

207日本@名無史さん2019/12/31(火) 18:35:55.88
>>205
まとめると、663年8月の白村江海戦で(互いに先陣を競って無秩序な突撃を繰り返す)倭国水軍を全滅させた大艦隊を擁し、ダウンロード&関連動画>>


その気になれば、完全に無防備〔もはや陸軍のみ→夥しい神籠石(高句麗)式&朝鮮(百済)式山城の築造ラッシュ〕となった倭国に来襲し、天智の首都・太宰府を殲滅できた超大国・唐(外交)への忖度で生まれた記紀が消そうとしたのは、

A.倭国史上初めて北部九州を出て、近江大津京に東遷した天智@太宰府以前の倭王権(崇神朝→応神朝→継体朝)がすべて北部九州(筑紫邪馬台→阿蘇邪靡堆→天智太宰府)にあったこと
→3王朝ともその奥津城(王家の谷)&新益藤原京を新設したばかりの「畿内」にあったことにした(記紀の歴史テーマパーク「大倭」→「大和」>聖徳太子「以和為貴」)。
B.さらに、磐井の乱で応神朝@筑紫を乗っ取った、継体朝@阿蘇がやらかしていた3つの不都合な史実なのである!

1.(武寧王の百済を完全属国化した)継体が南北朝の中国二帝並立の隙に創始してしまった(時間の支配者=中国皇帝の冊封からの独立を意味する)倭国独自(九州)年号
→天智の【倭京】(太宰府)以前は全て抹消!(下記リンク参照)
2.鉄の産出により高句麗&百済に形勢逆転した新羅からの朝貢で調子に乗り、南北朝を再び統一した隋の「天子」煬帝相手に日出処「天子」を名乗ってしまった阿毎多利思比孤(冠位十二階)
→同時期の大和分家・厩戸皇子と合成し、憲法十七条(以和為貴)「聖徳太子」を捏造&抹消!
3.白村江海戦惨敗で唐新羅連合艦隊の倭王成敗(王族9親等全員処刑)に怯えた九州本家・天智@太宰府の、(裏口から船で高句麗に脱出できる)近江大津宮への遷都(臆病風→周辺国の笑い草)
→舒明♂皇極♀の長男=斉明皇太子として大和分家に接続&統合!(皇極斉明重祚&天智天武兄弟の秘密)

-継体朝@阿蘇による倭国独自(九州)年号一覧
継体・善記・正和・教知・僧聴・明要・貴楽・法清・兄弟・蔵和・師安・和僧・金光・賢称・鏡當・勝照・端政・告貴・願転・光元・定居・【倭京】・仁王・僧要・命長・常色・白雉・白鳳・朱雀・朱鳥・大化・大長
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/nengo/nengou.html
-熊本県玉名市和水町前原の石原家文書
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaiho122/kai12204.html

208日本@名無史さん2019/12/31(火) 18:51:47.45
>>205
九州説って威勢のいいスローガンばっかりで
あいかわらず立証する気ゼロだな

209日本@名無史さん2019/12/31(火) 18:54:23.92
楼観なし、厳設城柵なし、奴婢千人の居住痕なし、守衛兵の武器出土なし、文字の使用痕跡なし。。。

210日本@名無史さん2019/12/31(火) 18:56:55.74
>>206
>器形くらい粘土ですぐ教えられるに決まってるだろ
王族はみんな何にもできねえ木偶の坊だと思ってないか詭弁カス<

王族は、将軍家や天皇家のようなもの?だから、
下々の仕事なんか教えもしないし、関心もないんだよ。

>で、大夫や姫氏や呉王夫差や公氏忌という漢字の記録が弥生遺構の一体どこにあるの?
どこ?どこ?どこ?どこ?どこ?<

弥生遺物になんか見つかっていないよ。
あるのは、松野氏姫氏系図。

211日本@名無史さん2019/12/31(火) 19:00:57.00
>>208
「南→東」などの史料事実の否定や曲解の嘘つき騙しの大和説って、
議論対象の摩り替えや、都合の悪い話からの逃げや、
威勢のいいスローガンばっかりで
あいかわらず立証する気ゼロだな

212日本@名無史さん2019/12/31(火) 19:16:05.49
>>196
あまりにも真実すぎてもう何も言えない

213日本@名無史さん2019/12/31(火) 19:17:31.80
畿内説の畿内って、何世紀の畿内なの?

214日本@名無史さん2019/12/31(火) 19:33:25.13
>>210
関心がなくても器形くらいすぐ教えられるじゃないか

竪穴式住居に住み、甕で炊飯し、漢服も木沓もない弥生の原始社会で、
瓦屋根の城に住み、鼎や鬲で炊飯し、漢服を着て木沓を履いて暮らしてきた
文明人の漢人の王族が生きていくんだろ?

そんなヤワじゃ生き残っていける訳がねえだろが詭弁カス

もう考古学的に完全破綻してるだろ

松野氏姫氏系図だけにあって現実世界の弥生遺構にはないってか

それを世間ではふつう捏造と言うのですよ

よろしいか中卒の詭弁カス

215日本@名無史さん2019/12/31(火) 19:36:33.78
>>204
>ここに倭王権は史上初めて北部九州を出て


九州説の致命的な欠陥はいろいろあるが、 そのなかでも分かりやすいのが、

九州には自慢できる温泉が腐るほどあるのに、九州に在る温泉への天皇行幸が明治天皇行幸まで一切無いこと。

なんで九州各地の風土記に天皇の行幸記事が無いのだろうか?

九州に倭王権があれば、有り得ない話である。   @阿波

216日本@名無史さん2019/12/31(火) 19:37:58.22
>>213

8世紀。   @阿波

217日本@名無史さん2019/12/31(火) 19:45:09.04
妻は端、大和から見て遠い端(つま)にある国
岩手、宮城、茨城、埼玉、神奈川、長崎、宮崎に多く分布する

218日本@名無史さん2019/12/31(火) 19:46:43.74
阿波爺さんは、前(漢委奴国王や帥升)後(ヤマト王権)への整合性をどう考えているの?

219日本@名無史さん2019/12/31(火) 19:48:57.49
>>216
それはウソだとテンプレに書いてあるな

220日本@名無史さん2019/12/31(火) 19:50:07.26
崩壊した「畿内」説は、全スルーでよろ!

221日本@名無史さん2019/12/31(火) 19:57:32.46
>>214
>関心がなくても器形くらいすぐ教えられるじゃないか
竪穴式住居に住み、甕で炊飯し、漢服も木沓もない弥生の原始社会で、
瓦屋根の城に住み、鼎や鬲で炊飯し、漢服を着て木沓を履いて暮らしてきた
文明人の漢人の王族が生きていくんだろ?
そんなヤワじゃ生き残っていける訳がねえだろが詭弁カス
もう考古学的に完全破綻してるだろ<

流民というものは、
現地住民の生きて行き方に学んで、その生き方に従って生きて行くしかなのもの。
現地住民の生き方を拒否して抵抗すれば、
そりゃ、直ぐに食えなくなって全滅するものなの。

222日本@名無史さん2019/12/31(火) 20:25:27.78
>>218
>阿波爺さんは、前(漢委奴国王や帥升)後(ヤマト王権)への整合性をどう考えているの?


7世紀、白村江の戦で敗れ、新都奈良藤原京が完成するまでは、倭国(阿波)。

8世紀、新都奈良藤原京が完成後に文武天皇の御宇、大和朝廷の発足。   @阿波

223日本@名無史さん2019/12/31(火) 20:26:24.57
キリストの弟さんの墓が青森にあります
公園近のくにあるコンビニはキリストっぷ
十時からの営業となっています

224日本@名無史さん2019/12/31(火) 20:43:10.70
アホの九州説の頭に銅鐸を被せてカルロス・ゴ〜〜〜ン!したるわ。

225日本@名無史さん2019/12/31(火) 20:54:44.58
>>221
それをはね除けるのが文明じゃないか

呉王夫差の王族は当時の中国文明の粋を集めた生活をし、中国文明の頂点にある
様々な文化や知識に触れているはずだろ

弥生人が食べた事もない料理、弥生人が飲んだ事もない酒、弥生人が使った事も
ない調理器や食器、弥生人が着た事もない服飾、弥生人が住んだ事もない住居、
弥生人が聞いた事もない音楽、弥生人が遊んだ事もない遊び、弥生人が触れた事も
ない文学や思想、弥生人が乗った事もない馬車、弥生人が差した事もない傘、
弥生人が着けた事もない金銀細工、弥生人が使った事もない金属器、弥生人が
使った事もない貨幣・・・

それらの記憶から弥生社会を向上させる奉仕活動をすれば、弥生人の王の
重鎮として重用されるはずじゃないか

知能が低すぎないかおサルさん

226日本@名無史さん2019/12/31(火) 21:00:33.73
長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。


「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。

http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
 


縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!

227日本@名無史さん2019/12/31(火) 21:17:20.16
畿内説?
忘れてください
探さないでください
@奥山



ソース
読売新聞YOL
21.11.2018
邪馬台国の候補地?見学施設、財政難で建設延期 社会

奈良県桜井市は、邪馬台国の有力候補地として注目される纒向(まきむく)遺跡で、
2020年度中の完成を目指していた「ガイダンス施設」の建設延期を決めた。
財政難が原因。整備を進める史跡公園の核となる施設で、遺跡見学の拠点として
期待されていたが、新たな完成時期は未定だ。

228日本@名無史さん2019/12/31(火) 21:41:06.67
5000年前には水稲栽培は伝わってないからな

229日本@名無史さん2019/12/31(火) 22:53:32.02
九州説側の抵抗があまりに稚拙で非力で
かわいそうになる

230◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/31(火) 23:30:01.48
みなさま年内はお世話になりました。
そうぞ、復た良いお年をお迎えください。
1は今年は親に付き合って松の内を温泉地で過ごす予定のため、更新が遅れぬよう極力注意致しますが、多少の失敗があっても何卒ご容赦ください。

置き土産がわりに
「会稽東冶之東」と記した清朝同治十年刊三国志の部分をお届けします。
邪馬台国畿内説 Part549 YouTube動画>2本 ->画像>23枚
ご賞味いただければ恐悦至極です。

231日本@名無史さん2019/12/31(火) 23:57:20.08
爆弾落として行きおった

232邪馬台国ありました2020/01/01(水) 03:29:40.82
邪 馬 台 国 へ よ う こ そ

■廣志逸文の記述
廣志曰く、倭國東南陸行五百里、
到る伊都國(糸島付近)、又南、至る邪馬嘉(臺)国(筑紫平野?)。
邪馬台国畿内説 Part549 YouTube動画>2本 ->画像>23枚

■アクセス
伊都国の南 徒歩すぐ

233これが現実です2020/01/01(水) 03:31:10.04
九州・畿内で発掘調査に15年以上費やした成果こそが現実です

■佐賀:吉野ヶ里遺跡の宮殿
邪馬台国畿内説 Part549 YouTube動画>2本 ->画像>23枚
集落全体:邪馬台国畿内説 Part549 YouTube動画>2本 ->画像>23枚


■奈良:纏向遺跡の宮殿(想像模型)
邪馬台国畿内説 Part549 YouTube動画>2本 ->画像>23枚
現物:邪馬台国畿内説 Part549 YouTube動画>2本 ->画像>23枚

234日本@名無史さん2020/01/01(水) 03:35:21.22
>>224
明けましておめでとう御座います。

>アホの九州説の頭に銅鐸を被せてカルロス・ゴ〜〜〜ン!したるわ。<

「南→東」などの嘘吐き騙しの・・・・アホ詐欺師の大和説者の頭に、
銅鐸を被せてカルロス・ゴ〜〜〜ン!したるわ。

235日本@名無史さん2020/01/01(水) 03:48:12.34
>>225
>それをはね除けるのが文明じゃないか
呉王夫差の王族は当時の中国文明の粋を集めた生活をし、中国文明の頂点にある
様々な文化や知識に触れているはずだろ
弥生人が食べた事もない料理、弥生人が飲んだ事もない酒、弥生人が使った事も
ない調理器や食器、弥生人が着た事もない服飾、弥生人が住んだ事もない住居、
弥生人が聞いた事もない音楽、弥生人が遊んだ事もない遊び、弥生人が触れた事も
ない文学や思想、弥生人が乗った事もない馬車、弥生人が差した事もない傘、
弥生人が着けた事もない金銀細工、弥生人が使った事もない金属器、弥生人が
使った事もない貨幣・・・
それらの記憶から弥生社会を向上させる奉仕活動をすれば、弥生人の王の
重鎮として重用されるはずじゃないか 知能が低すぎないかおサルさん <

公子忌らとて、大量の軍や技能部下を持たずに流浪の民になってしまえば、
郷に入りては郷に従えであり、
倭人や毛人蝦夷らの生活技術を学習模倣しなければ、
直ぐに飢え死にしてしまうものなの。

236日本@名無史さん2020/01/01(水) 03:52:36.08
>>229
>九州説側の抵抗があまりに稚拙で非力でかわいそうになる<

「南→東」などの嘘吐き騙しがバレた大和説側の抵抗が、
あまりに稚拙で非力でかわいそうになる

237日本@名無史さん2020/01/01(水) 04:27:00.18
>>230
>みなさま年内はお世話になりました。
そうぞ、復た良いお年をお迎えください。
1は今年は親に付き合って松の内を温泉地で過ごす予定のため、更新が遅れぬよう極力注意致しますが、多少の失敗があっても何卒ご容赦ください。
置き土産がわりに
「会稽東冶之東」と記した清朝同治十年刊三国志の部分をお届けします。
邪馬台国畿内説 Part549 YouTube動画>2本 ->画像>23枚
ご賞味いただければ恐悦至極です。<

清朝同治十年では、清朝末期で事大主義に陥って正確さに欠けて来ており、
(同時代史書である陳寿の魏志よりも)
後漢書や唐代史書の「自己解釈に拠る書き換え」の失敗と同じく、
自己解釈び拠る記載変更をしてしまっている事になるから、
史料価値が全くなく、×書です。

238日本@名無史さん2020/01/01(水) 05:30:16.70
理屈抜き
都合悪けりゃ信じない
それが九州説の生きる道
令和二年、今日も茨の道を行く

239日本@名無史さん2020/01/01(水) 06:14:20.66
>>237
>清朝同治十年では、清朝末期で事大主義に陥って正確さに欠けて来ており、

清朝に事大主義とか無いから

240日本@名無史さん2020/01/01(水) 06:25:35.02
>>238
>理屈抜き<

理屈は、当然、
同時代文献の信頼性や確率の高さや、それ自体の写本版本群の信頼性の高さが根拠であり、
後代史家や現代史家の「自己解釈に拠る書き換え」があった文書は、信頼性も確率も低い、
という歴史の学問的な大原則だな。

現代大和説者も、都合悪けりゃ信じない
それが「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説の生きる道
令和二年、今日も茨の道を行く

241日本@名無史さん2020/01/01(水) 06:37:43.31
>>240
自己解釈なんて言葉も無いから

242日本@名無史さん2020/01/01(水) 06:42:27.83
>>239
>>清朝同治十年では、清朝末期で事大主義に陥って正確さに欠けて来ており、<

>清朝に事大主義とか無いから<

ダメだ。
清朝の学者らも、一種の中華思想の国家権力的思考に陥っており、
過去の同時代文書の証言の確率の高さが判らず、
その後の後代国家権力的史家に拠る「内容説明的な書き換え」文書を採用する、
というヘマをしていた事は、5chでもこれまで何度も指摘して来た。
そのヘマの一人が魯弼であり、
それに対して、出来るだけ「古文古形に回帰」する復古主義を採ったのが張元済。

243日本@名無史さん2020/01/01(水) 06:50:38.54
>>241
>自己解釈なんて言葉も無いから <

「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐き騙しの大和説者の解釈そのものが、
「自己の思想に拠る史料解釈=自己解釈」というインチキそのものだな。

244日本@名無史さん2020/01/01(水) 07:30:06.45
>>243
そんな造語つくる「自己解釈」って
他人に通用すると思う?

245日本@名無史さん2020/01/01(水) 07:33:18.86
>>242
>>>清朝同治十年では、清朝末期で事大主義に陥って正確さに欠けて来ており、<
>>清朝に事大主義とか無いから<

>ダメだ。
>清朝の学者らも、一種の中華思想の国家権力的思考に陥っており、

じゃあ、
「清朝同治十年では、清朝末期で事大主義に陥って正確さに欠けて来ており」
って、真っ赤なウソだったってコトになるんだけど?

246日本@名無史さん2020/01/01(水) 07:48:37.51
そもそも
写本に誤りが多いから学者たちに校正させたって11世紀の文献が残ってるのに
「それ自体の写本版本群の信頼性の高さが根拠」
とか言って、その11世紀の学者の解釈を不改の常典にしたがる九州説こそが
「自己の思想に拠る史料解釈=自己解釈」というインチキそのもの
なんじゃないの?

247日本@名無史さん2020/01/01(水) 08:33:30.66
>>246
>そもそも
写本に誤りが多いから学者たちに校正させたって11世紀の文献が残ってるのに
「それ自体の写本版本群の信頼性の高さが根拠」
とか言って、その11世紀の学者の解釈を不改の常典にしたがる九州説こそが
「自己の思想に拠る史料解釈=自己解釈」というインチキそのものなんじゃないの? <

全写本の「個々の文字」に関する差異発生確率は、0.5%位しかない。
しかし、後代文書における「自己解釈に拠る内容説明的な書き換え」は、
その書き換えた部分のほぼ全文字が写本原本とは違った文字や内容になってしまうんだから、
その書き換えた部分の文字のほぼ全部が陳寿原本と違う事になる。

当たり前の事。
それが判らんらしいこの大和説者らは、おそらく・・・・。

248日本@名無史さん2020/01/01(水) 08:37:25.43
>>247
>全写本の「個々の文字」に関する差異発生確率は、0.5%位しかない。

真っ赤なウソ
そんな調査は実在しない
九州説ならではの妄想だね

249日本@名無史さん2020/01/01(水) 08:55:31.88
>>247
>しかし、後代文書における「自己解釈に拠る内容説明的な書き換え」は、
>その書き換えた部分のほぼ全文字が写本原本とは違った文字や内容になってしまうんだから、

その写本なんてトルファンの呉志断片しか残ってないんだからな
11世紀の学者が書いた最初の版本のどこが原本と違うかなんて今は誰も知らないだろ
だから九州説が言い張ってる箇所が11世紀の学者の「自己解釈」wでないなんて保証はどこにも無いだろ
九州説はそんな砂上の高層掘立小屋だわ

250日本@名無史さん2020/01/01(水) 09:11:52.19
>>249
>>しかし、後代文書における「自己解釈に拠る内容説明的な書き換え」は、
その書き換えた部分のほぼ全文字が写本原本とは違った文字や内容になってしまうんだから、<

>その写本なんてトルファンの呉志断片しか残ってないんだからな<

呉志断片は、始めから、「内容説明的な書き換え」文書であり、完全写本ではないよ。

>11世紀の学者が書いた最初の版本のどこが原本と違うかなんて今は誰も知らないだろ
だから九州説が言い張ってる箇所が11世紀の学者の「自己解釈」wでないなんて保証はどこにも無いだろ
九州説はそんな砂上の高層掘立小屋だわ<

版刻は、原則として底本写本を「文字面を版板に貼り付け」て、文字部分以外を掘って、
文字部分を浮かび上がらせて版を造って、紙にその版を押し付けて版本を造るのだから、
原則として、底本写本とほぼ同じものが出来上がるもの。
だから、版本は写本とほぼ同じ文字であり文字型である。
という事は、写本の間違い文字は、版本の間違い文字とほぼ同じであり、
その確率も、0.5%位でほぼ同じ。

251日本@名無史さん2020/01/01(水) 09:14:58.29
>>250
>版刻は、原則として底本写本を「文字面を版板に貼り付け」て、文字部分以外を掘って、
>文字部分を浮かび上がらせて版を造って、紙にその版を押し付けて版本を造るのだから、


それが九州説素人老人の
まったくの空想なんだから

話にならないよね

252日本@名無史さん2020/01/01(水) 09:28:26.42
>>251
>>版刻は、原則として底本写本を「文字面を版板に貼り付け」て、文字部分以外を掘って、
文字部分を浮かび上がらせて版を造って、紙にその版を押し付けて版本を造るのだから<

>それが九州説素人老人のまったくの空想なんだから話にならないよね<

勿論、その方法は、現代の「判子屋」さんの技法でもあるし、
中国では既に、紀銘鏡や画像鏡や紀銘墓誌などでも使われていた技法。
おそらく活版時代になっても、活字を造るのに使われた技法。

253日本@名無史さん2020/01/01(水) 09:33:49.39
>>252
それが版本製作に使われたなんて
ただの妄想だよな

254日本@名無史さん2020/01/01(水) 09:36:55.21
>>252
>勿論、その方法は、現代の「判子屋」さんの技法でもあるし、

それに史料の写本を使ったなんて完全に捏造だよな
だから九州説はクズなんだよ

255日本@名無史さん2020/01/01(水) 09:51:09.57
「魏志倭人伝を無視したい」
その一念で連投する畿内説キモい

256日本@名無史さん2020/01/01(水) 09:53:26.84
>>252
成程。丁寧な解説を有り難う。
今年も宜しく。
寝たきりであまり書き込みは出来ないが読んでいます。

257日本@名無史さん2020/01/01(水) 10:01:10.63
「あれも違うこれも違う」

それしか呟けない畿内説は何も証明できない。
畿内説が支持される時は永遠に来ない。
日本国民の大半は九州説。

258日本@名無史さん2020/01/01(水) 10:13:31.61
>>256
ウソの解説されて、なんで感謝するの
九州説ってみんな発狂してんのか
なるほどな

259日本@名無史さん2020/01/01(水) 10:15:31.93
>>257
証拠は?
ウソつくだけの九州説
一年の計がソレかよ

260日本@名無史さん2020/01/01(水) 10:27:22.54
日本政府が「沖縄は日本固有の領土」と主張したら、それこそ世界の笑いものになるだろう。
なぜなら日本政府は141年前の1879年3月27日に沖縄の前身である琉球王国に軍隊を派遣して琉球王国の首都だった首里城を取り囲んで武力的威嚇のもと併合したという歴史的事実があるから。
武力併合しておいて、その併合した地域を「我が国固有の領土」と主張すると、例えば、どこかの国が日本を武力併合したら、その瞬間から、その国は「日本は我が国固有の領土」とも言えることになり、日本政府はその国の主張に反論できなくなる。
だから日本政府は口が裂けても「沖縄は日本固有の領土」とは言えない。

261日本@名無史さん2020/01/01(水) 10:30:18.61
九州説はなぜウソつくの?

262日本@名無史さん2020/01/01(水) 10:33:43.59
>>256
>成程。丁寧な解説を有り難う。 今年も宜しく。
寝たきりであまり書き込みは出来ないが読んでいます。<

「寝たきり」とは、お気の毒ですねえ。
読んで頂いて、有難うございます。今年も宜しくお願いします。

263日本@名無史さん2020/01/01(水) 10:39:28.63
>>258
>ウソの解説されて、なんで感謝するの
九州説ってみんな発狂してんのか なるほどな <

どこがどう「ウソ」なのか?を、なんで書けないの?。
それを書いてくれないと、再反論も出来ず、放置して上げるしかないし、
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者って、みんな発狂してんのか?。
なるほどなあ。

264日本@名無史さん2020/01/01(水) 10:41:06.39
>>263
漢籍見たことある人なら完全にわかる

265日本@名無史さん2020/01/01(水) 10:42:30.59
>>261
>九州説はなぜウソつくの? <

大和説が、なぜ、
「南→東」などのウソをつくの?。

266日本@名無史さん2020/01/01(水) 10:47:24.97
>>263
ウソと気付かないほうが、ほとんど白痴
宋元木版本の文字みたことある?
スキャンしてフォント化できるくらい規格化してるんだよ
写本なんか貼り付けて板木を彫るわけないだろ

267日本@名無史さん2020/01/01(水) 10:47:52.93
>>265
ウソだって証拠は?

268日本@名無史さん2020/01/01(水) 11:07:14.46
沖縄が日本固有の領土であるという法的根拠はない。

269日本@名無史さん2020/01/01(水) 11:09:51.65
九州説が学説であるという学問的根拠はない

270日本@名無史さん2020/01/01(水) 11:22:57.29
>>266
>ウソと気付かないほうが、ほとんど白痴 > 宋元木版本の文字みたことある?
スキャンしてフォント化できるくらい規格化してるんだよ
写本なんか貼り付けて板木を彫るわけないだろ<

文字が一個一個が規格化されているのは、写本でも同じだし、
版本に拠ってかなり字形に違いがある事も、何度も見ている。
要するに活版ではなかったし、
一度版木が造られれば、同じ版本が100冊位は刷る事が出来るだろう。

271日本@名無史さん2020/01/01(水) 11:55:42.76
>>270
>文字が一個一個が規格化されているのは、写本でも同じだし、

証拠は?

272日本@名無史さん2020/01/01(水) 12:02:02.53
>>268
>沖縄が日本固有の領土であるという法的根拠はない。<

そうですね。
ポツダム宣言受諾や、1946年1月末の連合軍総司令部の677号?訓令に拠って、
北方四島や竹島や小笠原や北緯30度以南は、日本領土で無くなって、
全て連合国支配になり、サンフランシスコ条約でも、殆ど変更がなかった。
朝鮮戦争の頃にアメリカは尖閣を沖縄に含ませようとしたが、
最も近い台湾や台湾中国の同意を得ないまま。
そのまま沖縄返還があった。
竹島は、最も近い韓国領で、連合国側は依存がでていない、
という事でしょうね。

273日本@名無史さん2020/01/01(水) 12:04:36.44
>>269
>九州説が学説であるという学問的根拠はない<

「南→東」などの人類の常識外れの嘘つき騙しをした大和説が、
学説である、
という学問的根拠はない。

274日本@名無史さん2020/01/01(水) 12:14:16.11
11世紀北宋で活字印刷が始まるから活版だろうね

275日本@名無史さん2020/01/01(水) 12:28:32.47
無職奥山、正月から暇なのかよ

276日本@名無史さん2020/01/01(水) 12:38:30.60
正月はみんな暇だ

277日本@名無史さん2020/01/01(水) 12:47:30.91
外にでかけたり、親戚が訪れたりあるだろ

278日本@名無史さん2020/01/01(水) 13:05:27.89
写本を板木に直接貼り付けて彫って
版本を作るってザラコク珍説は
校正しないってことだから
「治」を誰も「冶」に直さなかったので「治」が正しい
という方のザラコク珍説が死亡した

279日本@名無史さん2020/01/01(水) 13:24:35.86
>>232>>233
こういうコピペを深夜の3時に貼ってる九州説は何者?
日本の歴史を改竄するために、24時間365日活動してる工作員じゃないのか?

280日本@名無史さん2020/01/01(水) 14:04:21.40
畿内説は嘘や中傷をやめて、畿内説を固めることに傾注したほうがいい。

281日本@名無史さん2020/01/01(水) 14:04:59.19
>>280
嘘って何?

282日本@名無史さん2020/01/01(水) 14:05:24.73
あけましておめでとうございます。
今年は畿内説のような妄言が消滅しますように。

283日本@名無史さん2020/01/01(水) 14:13:19.14
>>280
九州説はそんな嘘や中傷で荒らしをやってる暇があったら、九州説の名誉をこれ以上落とさないように勉強するんだな

284日本@名無史さん2020/01/01(水) 14:37:27.82
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。

285日本@名無史さん2020/01/01(水) 14:48:07.08
>>284
>日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、

弥生時代には日本にも高床式が登場したろ?
それとも畿内限定の妄言かな?

286日本@名無史さん2020/01/01(水) 16:05:05.73
中国の地方(南部以外)の民家では最近まで土間で上がり框がない
靴を脱がない習慣だろう

287日本@名無史さん2020/01/01(水) 16:14:04.20
>>285
高床式住居に住めたのは最高司祭者だけ

しかも紀元後から

例外すぎる

288日本@名無史さん2020/01/01(水) 16:24:10.29
高貴な人が居たのなら、警備体制は厳重であるはずです。

吉野ヶ里の警備厳重な城柵
邪馬台国畿内説 Part549 YouTube動画>2本 ->画像>23枚

纒向で妄想される警備厳重な垣根
邪馬台国畿内説 Part549 YouTube動画>2本 ->画像>23枚

289日本@名無史さん2020/01/01(水) 16:25:54.24
黄土高原には窰洞(ヤオトン)と呼ばれる
崖や地面に掘った穴を利用した住居がある

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AA%AF%E6%B4%9E

290日本@名無史さん2020/01/01(水) 17:05:52.54
>>275の返信を書いたが、5chの拒絶に会って投稿不能状態。
だから、木版印刷や活版印刷の検索紹介は止めて、私の話だけ投稿。

>11世紀北宋で活字印刷が始まるから活版だろうね<

ふーン。
「活版印刷」と「木版印刷」で検索してみると・・・(止めた部分)・・・
私は、中高の頃のグーテンベルグの活版印刷しか知らなかったが、
中国では「木版印刷(一枚の板で版を作るもの)及び活字印刷」はかなり古くから始まっていたらしいし、
私が言っていたのは、木版印刷の方であったらしい。

291日本@名無史さん2020/01/01(水) 17:09:09.72
>>235
どうでもイイけど、弥生時代の漢字の記録が一切ないのに、何で松野氏姫氏系図の
作者は弥生時代に渡来した自分の先祖の名前が姫氏や呉王夫差や公子忌だと
分かったの?

何で分かったの?

どうして分かったの?

292日本@名無史さん2020/01/01(水) 17:14:10.95
>>278
>写本を板木に直接貼り付けて彫って
版本を作るってザラコク珍説は
校正しないってことだから
「治」を誰も「冶」に直さなかったので「治」が正しい
という方のザラコク珍説が死亡した <

木版印刷は、(活字を使う活版印刷と違って)、
「版板に貼り付けて彫り込んで版木を造るんだから、
「治」は「治」のままである筈であり、
「冶」となった清代末の版本は、始めから「冶」と書かれていたインチキ本を使った、
という事になるんだよ。

293日本@名無史さん2020/01/01(水) 17:17:05.06
>>283
大和説者は、「南→東」や「治→冶」などのような、
そんな嘘や中傷で荒らしをやってる暇があったら、
大和説の名誉をこれ以上落とさないように、勉強するんだな

294日本@名無史さん2020/01/01(水) 17:23:18.97
>>284
>・・・縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。<

燕の南の倭人や、呉王夫差の遺民らは、
家財道具など持ち運べない流浪の民なのであったんだから、
九州に至ってしまえば、母国の中国の衣食住の材料などは、
現地九州の在地の民に教わって手に入れるしかないのだよ。

295日本@名無史さん2020/01/01(水) 17:25:05.19
848 :日本@名無史さん :2019/12/29(日) 22:58:06.98
畿内説()の言い分

Q.帯方郡から萬二千里では畿内まで届かないが?
A.関係ありません、とにかく畿内なんです。

Q.倭国の産物として記された絹や鉄製品が見当たらないが?
A.関係ありません、とにかく畿内なんです。

Q.方角が南と記されているが?
A.関係ありません、とにかく畿内なんです。なので東の誤記に決まってます。

Q.畿内の遺跡からカエルの骨が見つかったが?1
A.これぞ邪馬台国の動かぬ証拠!ほらやっぱり畿内だった!畿内!畿内!

畿内説は学問ではありません
頭の病気の病名です

296日本@名無史さん2020/01/01(水) 17:27:29.38
魏志倭人伝の記述を見ると
邪馬台国を相当南方に想定している記述になっている
帯方郡より南に1万2千里の1万2千里というのは
漢の時代に書かれた淮南子という書に出てくる世界の果てを意味する距離
魏志倭人伝はそれに合わせて邪馬台国を世界の果ての遠い国で
皇帝の徳がそこまで届き使者が朝貢にやってきたという世界観によって書かれているもの
魏志倭人伝の邪馬台国までの行程は実際のものではない

297日本@名無史さん2020/01/01(水) 17:29:09.27
>>287
>>285
>高床式住居に住めたのは最高司祭者だけ
>しかも紀元後から
>例外すぎる

言い訳だね。
江南から来たのは王族だ。
それがそのまま高床式に住む弥生の首長層になったということ。
そうやって水稲が持ち込まれて倭国が成立したのが弥生時代。
その上陸地にして政権の中枢だったのが後漢書にある通り九州北部。
弥生末期の卑弥呼もその筑紫倭国の王だったのだから、もちろん九州北部にいた。

298日本@名無史さん2020/01/01(水) 17:29:48.19
九州説も>>295みたいな捏造から足を洗えない限り
未来は無いよね

299日本@名無史さん2020/01/01(水) 17:29:50.18
>>295
このように
九州説は頭が弱くて畿内説の主張をまるきり理解できないのです
皆で九州説を憐れみましょう

300日本@名無史さん2020/01/01(水) 17:30:02.45
会稽郡は孫呉末期の永安三年(260年)に分郡が行われ、東冶県は会稽郡から外れて建安郡に所属が変更された
西晋もその郡制を受け継いでいる
西晋の陳寿が三国志を執筆した時点で、既に東冶は会稽郡ではない
既に存在しなかった会稽東冶を主張するのは詐欺師

301日本@名無史さん2020/01/01(水) 17:30:18.94
>>296

すでに論破された屁理屈を喚き立てるキナイコシ

302日本@名無史さん2020/01/01(水) 17:30:24.89
>>295
正解過ぎるwwwww

303日本@名無史さん2020/01/01(水) 17:31:09.32
>>300
それな
畿内説は詐欺師ばかり

304日本@名無史さん2020/01/01(水) 17:31:17.27
>>294
手に入れたら、母国の中国風にアレンジできるだろがカス


で、弥生時代の漢字の記録が一切ないのに、何で松野氏姫氏系図の作者は
弥生時代に渡来した自分の先祖の名前が姫氏や呉王夫差や公子忌だと
分かったの?

何で分かったの?

どうして分かったの?

305日本@名無史さん2020/01/01(水) 17:31:35.70
>>295
畿内って本当にそんなんばっかだよね

306日本@名無史さん2020/01/01(水) 17:33:46.07
頭が弱くて畿内説の内容理解ができない九州説
おお憐れ憐れ

307日本@名無史さん2020/01/01(水) 17:34:02.66
>>300
まあ畿内は嘘つきばかりの土地だって人国記にも書いてあるしな

966 :日本@名無史さん :2019/12/31(火) 17:42:06.55
>>946,962
邪馬台国畿内説 Part549 YouTube動画>2本 ->画像>23枚
なるほど、確かに福州市は完全に建安郡だな
これで東治東冶論争も決着か

308日本@名無史さん2020/01/01(水) 17:34:45.36
>>298

過去スレを読めばすぐにバレる嘘をつくキナイコシ
過去に主張した内容もすぐになかったことにするため、いつしか畿内説そのものが空っぽw

309日本@名無史さん2020/01/01(水) 17:35:05.32
倭(北九州)と日本(機内)は別の国
白村江で日本は新羅側について倭を併合した
たぶんこれが真実

310日本@名無史さん2020/01/01(水) 17:35:50.22
>>295
畿内説がいかに宗教かよく分かるな

311日本@名無史さん2020/01/01(水) 17:37:47.22
>>307
旧唐書にも日本人の言うことは不実で信用できないと書かれていたような。
キナイコシみたいなのが昔からいたんだなw

312日本@名無史さん2020/01/01(水) 17:38:16.44
>>300
後漢書(5世紀)には会稽郡は海南島に近いと書いてるぞ
海南島とは中国最南部のハワイと同じ緯度にある所
会稽郡がそこに近いなら会稽郡東冶県も相当に南方
現在では福建省福州市のある場所でその東が沖縄とか台湾

313日本@名無史さん2020/01/01(水) 17:38:22.14
>>291
>どうでもイイけど、弥生時代の漢字の記録が一切ないのに、<

弥生時代には九州には漢字があったんだよ。
「大夫」や「室見川の銘版」や記銘鏡や記銘ホウ製鏡や「卑弥呼の上表文」など。

>何で松野氏姫氏系図の作者は
弥生時代に渡来した自分の先祖の名前が姫氏や呉王夫差や公子忌だと分かったの?
何で分かったの? どうして分かったの?<

松野氏姫氏の記録系図の記録が残っていたから。

314日本@名無史さん2020/01/01(水) 17:38:30.31
『旧唐書』倭国・日本国伝

日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本為名。
或曰:倭國自惡其名不雅、改為日本。
或云:日本舊小國、併倭國之地。其人入朝者、多自矜大、不以實對、故中國疑焉。

(日本語訳)
日本国は、倭国の別種なり。
その国は日の出の場所に在るを以て、故に日本と名づけた。
あるいは曰く、倭国は自らその名の雅ならざるを憎み、改めて日本と為した。
あるいは日本は昔、小国だったが倭国の地を併せたという。
そこの人が入朝したが、多くは自惚れが大にして不実な対応だったので、中国はこれを疑う。

(わかりやすくまとめ)
倭国の使者は異なる3つの説明をした。
A 倭国が日本に改名した。
B 日本と倭国は別の国である。
C 日本は東側の小国だったが倭国を併合した。
倭国の使者は不誠実だったので中国は倭国の使者の話を信用しなかった。

さて、日本国がした説明はどれでしょう?

おそらく、Aが日本国がした説明(嘘)。
真実は、倭国が日本国に改名したのではなく、日本国が倭国の別種であり、倭国を併合した。
倭国は古の倭奴国のこと、つまり九州北部の博多湾沿岸、筑紫のこと。

315日本@名無史さん2020/01/01(水) 17:39:36.27
>>300,307
もし東冶が正解なら西晋の官僚である陳寿が会稽と書くわけないな
これは決定的

316日本@名無史さん2020/01/01(水) 17:39:40.14
>>312
つまり東夷全体が過大評価されていた。
東夷では短里が使われていたからだと考えるとつじつまが合う。

317日本@名無史さん2020/01/01(水) 17:40:50.30
>>292
>「治」は「治」のままである筈であり、
>「冶」となった清代末の版本は、始めから「冶」と書かれていたインチキ本を使った、
>という事になるんだよ。

つまり
「治」を誰も「冶」に直さなかったので「治」が正しい
という方のザラコク珍説は本人に否定されて死亡

「それ自体の写本版本群の信頼性の高さが根拠」 というのも自壊した
九州説年頭から無惨な崩壊ね

318日本@名無史さん2020/01/01(水) 17:41:38.03
>>316
東夷は里を知らず
日数によって距離を表す
旧唐書

319日本@名無史さん2020/01/01(水) 17:42:17.29
>>297
その頃の江南の住居は土壁の戸建てだがな

中国から菜畑に稲作が伝わったなら、中粒種のイネがあるはずだし、
中国の耕作用農具が伝わってるはずだろ

妄想チンコロ乙

320日本@名無史さん2020/01/01(水) 17:42:22.22
>>312
そんな2秒でバレるウソを書かれましてもw
畿内説って本当にウソばかりですよねw

https://ja.wikipedia.org/wiki/会稽郡
>会稽郡(かいけい-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。秦代から唐代にかけて設置された。
>揚州東部の長江下流域に設置され、六朝時代には政治、文化(六朝文化)の中心地として発展した。その領域は時代によって変遷があるが、
>現在の中華人民共和国浙江省紹興市付近がその中心である。

>郡名は会稽山による。

https://ja.wikipedia.org/wiki/会稽山
>会稽山(かいけいざん)は、中華人民共和国浙江省紹興市南部に位置する山。

321日本@名無史さん2020/01/01(水) 17:42:58.90
>>316
元々つじつま合わせに発明された珍説だからな、「短里」そのものが

322日本@名無史さん2020/01/01(水) 17:43:07.79
>>306
>頭が弱くて畿内説の内容理解ができない九州説 おお憐れ憐れ<

頭が弱くて、
自分らが「南→東」などウソを付いている事が判らず、
「畿内」なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言である事も判らず、
九州説者からの指摘の内容理解ができない大和説
おお憐れ憐れ

323日本@名無史さん2020/01/01(水) 17:44:01.35
>>320
なんだまたキナイコシは嘘をついたのか

324日本@名無史さん2020/01/01(水) 17:44:56.52
>>321
魏志倭人伝と実際の地理を比べれば短里だったことは明白。
魏志倭人伝だと都合が悪い畿内説って、ただの妄想だろ。

325日本@名無史さん2020/01/01(水) 17:45:20.87
魏志倭人伝に邪馬台国の場所は会稽東治の東
現代の場所に直すと沖縄や台湾の辺りと書いている
なので短里で九州北部と書いてると主張の九州説は絶滅

326日本@名無史さん2020/01/01(水) 17:45:22.04
>>315
>もし東冶が正解なら西晋の官僚である陳寿が会稽と書くわけないな
>これは決定的

なんで理由ひとつ無く決定的になる?
九州説って根本的におかしいね

327日本@名無史さん2020/01/01(水) 17:45:36.67
>>323

キナイコシは息をするように嘘を吐く。

328日本@名無史さん2020/01/01(水) 17:46:45.79
>>325
そのウソはもう>>300>>320で暴かれてますよw
畿内説はウソの塊に過ぎないとよく分かるレスですねw

329日本@名無史さん2020/01/01(水) 17:47:25.08
>>326
東冶が会稽でなく建安なのに会稽東冶と書くわけ無いじゃん
知恵遅れかよw

330日本@名無史さん2020/01/01(水) 17:48:57.00
>>328

だから言ったろ?
『畿内説』なんて最初からなかった
あったのはそうであって欲しいという『畿内願望』だけ

331日本@名無史さん2020/01/01(水) 17:49:17.49
>>320
会稽郡東冶県は沖縄とか台湾と同じ緯度の今でいう福建省福州市だよ
後漢書にも中国最南部の海南島の近くと書いてるし
何より魏志倭人伝が邪馬台国を世界の果てに相当するような
かなりの南方に想定して書いてある

332日本@名無史さん2020/01/01(水) 17:49:33.06
使節の服装からの思い込み

333日本@名無史さん2020/01/01(水) 17:50:58.60
>>331
何度も言われてるだろ
東冶県は建安郡であって会稽郡ではない
魏志倭人伝が書かれたとき、会稽東冶はもうこの世に存在していない
お前の負けだ嘘吐き

334日本@名無史さん2020/01/01(水) 17:51:30.73
>>312
>後漢書(5世紀)には会稽郡は海南島に近いと書いてるぞ<

後漢書の筆者の范曄は、
「自己解釈に拠る書き換え」をこっそりやる高慢なインチキ人間であるから、
半分×人間であり、そんな本の記載は、魏志の論拠にならないの。

>海南島とは中国最南部のハワイと同じ緯度にある所
会稽郡がそこに近いなら会稽郡東冶県も相当に南方
現在では福建省福州市のある場所でその東が沖縄とか台湾<

魏志は、「会稽東治之東」であり、揚子江河口の南北海岸地域であり、
その「之東」は、ほぼ九州島付近であるから、
「福州市」も「沖縄とか台湾」は×。

335日本@名無史さん2020/01/01(水) 17:51:40.89
>>332
いいや魏の政治的な事情で伝説上の倭の極南界に邪馬台国があると想定して
魏志倭人伝は書かれたもの

336日本@名無史さん2020/01/01(水) 17:51:50.05
ウソを百回言って真実にするぞ! by畿内説論者

337日本@名無史さん2020/01/01(水) 17:52:04.88
>>329
>東冶が会稽でなく建安なのに会稽東冶と書くわけ無いじゃん
>知恵遅れかよw

じゃ、現実に三国志には何ヶ所も「会稽東冶」と書いてあるのは何故?
九州説は現実を無視した妄想だから当然そうなるのかな

338日本@名無史さん2020/01/01(水) 17:53:59.70
>>337
それは厳白虎とかの時代の記事だろが
分郡は260年だぞアホ

339日本@名無史さん2020/01/01(水) 17:55:19.63
このスレを見ていると、畿内説論者っていうのは要するに頭が悪いから畿内説なんていうヨタ話を信じちゃってるんだなってよくわかる

340日本@名無史さん2020/01/01(水) 17:55:22.23
>>333
何度言われても
魏志倭人伝に邪馬台国の位置は会稽東治の東と書かれているし
会稽郡東冶県があったのは現在の福建省福州市でその東は沖縄か台湾
後漢書にも会稽郡はハワイと同緯度の海南島と近いと書いてるし
魏志倭人伝は邪馬台国を相当南の世界の果てにある国として書いている

341日本@名無史さん2020/01/01(水) 17:57:26.88
>>333

會稽東冶五縣という地域名は三国志で使われている

342日本@名無史さん2020/01/01(水) 17:57:38.66
>>340
何度同じ嘘を書こうが、東冶県は建安郡であって会稽郡ではない
魏志倭人伝が書かれたとき、会稽東冶はもうこの世に存在していない
お前の負けだ嘘吐き

343日本@名無史さん2020/01/01(水) 17:57:43.73
>>334
>魏志は、「会稽東治之東」であり、揚子江河口の南北海岸地域であり、

そこは129年以降ずっと呉郡なのだから
魏志倭人伝が書かれたとき、その「会稽東治」はこの世に存在していない
九州説の負けだ嘘吐き

344日本@名無史さん2020/01/01(水) 17:57:59.90

345日本@名無史さん2020/01/01(水) 17:58:04.47
>>313
ますますおかしいじゃないの

呉王夫差も公子忌もBC5Cの春秋時代の人だろ

その時代は弥生中期頃だけど、弥生中期に漢字の記録なんか一切ないだろが

弥生中期の漢字の記録が一切ないのに、何でその松野氏姫氏の記録系図の記録を
残した人物は弥生中期に渡来した自分の先祖の名前が姫氏や呉王夫差や公子忌だと
分かったの?

何で分かったの?

どうして分かったの?

346日本@名無史さん2020/01/01(水) 17:58:49.07
会稽東治を揚子江あたりとただ言い張れば勝てると思ったか
九州説は浅いのお

347日本@名無史さん2020/01/01(水) 17:59:00.28

348日本@名無史さん2020/01/01(水) 17:59:04.92
>>342
>何度同じ嘘を書こうが、東冶県は建安郡であって会稽郡ではない

証拠は?
思考停止して言い張るだけ?

なんで三国志には何ヶ所も会稽東冶と書いてあるの?

349日本@名無史さん2020/01/01(水) 17:59:35.06
>>342
嘘じゃあなくて真実
魏志倭人伝に邪馬台国の位置は会稽東治の東と書かれているし
会稽郡東冶県があったのは現在の福建省福州市でその東は沖縄か台湾
後漢書にも会稽郡はハワイと同緯度の海南島と近いと書いてるし
魏志倭人伝は邪馬台国を相当南の世界の果てにある国として書いている

350日本@名無史さん2020/01/01(水) 17:59:40.05
>>346
畿内厨は紹興市がどこかも知らないのかw

351日本@名無史さん2020/01/01(水) 18:00:51.53
>>338
>分郡は260年だぞアホ

つまり卑弥呼が朝貢したとき会稽郡なわけだ
なんの問題もないな

352日本@名無史さん2020/01/01(水) 18:00:59.46
紹興市の緯度は屋久島あたり

353日本@名無史さん2020/01/01(水) 18:01:21.01
>>348
>証拠は?
>>307にあるだろキチガイ

>思考停止して言い張るだけ?
それはお前がやっていることだが

>なんで三国志には何ヶ所も会稽東冶と書いてあるの?
>>338に書いてあるだろキチガイ

354日本@名無史さん2020/01/01(水) 18:02:07.27
>>317
>>「治」は「治」のままである筈であり、
「冶」となった清代末の版本は、始めから「冶」と書かれていたインチキ本を使った、
という事になるんだよ。<

>つまり 「治」を誰も「冶」に直さなかったので「治」が正しい
という方のザラコク珍説は本人に否定されて死亡
「それ自体の写本版本群の信頼性の高さが根拠」 というのも自壊した
九州説年頭から無惨な崩壊ね <

清代初期までの魏志の校勘では、
「冶」と書かれた写本版本は0個であり、全くなかったのであるから、
「冶」と書かれた本は、清代前半以後に捏造された本である事になり、
だから、大和説が年頭から無残の崩壊ね。

355日本@名無史さん2020/01/01(水) 18:02:46.42
>>351
>つまり卑弥呼が朝貢したとき会稽郡なわけだ
>なんの問題もないな

アホかよ
会稽東治が出てくるのは陳寿のまとめ部分
当然西晋時代の記事だ

356日本@名無史さん2020/01/01(水) 18:07:16.84
https://ja.wikipedia.org/wiki/建安郡
>建安郡(けんあん-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。三国時代から唐代にかけて、現在の福建省一帯に設置された。

>概要
>260年(永安3年)、三国の呉により会稽郡南部を分割して建安郡が立てられた[1]。建安郡は揚州に属した。
>晋のとき、建安郡は建安・呉興・東平・建陽・将楽・邵武・延平の7県を管轄した[2]。

>>307の地図を見ると晋代には福州市のあたりは建安郡で間違いないけど東冶県そのものが改称されたのか無くなってるね

357日本@名無史さん2020/01/01(水) 18:09:03.10
>>355
>アホかよ
>会稽東治が出てくるのは陳寿のまとめ部分

だという証拠は?
九州説さん、またインチキ?

358日本@名無史さん2020/01/01(水) 18:11:13.84
>>356
もともと東冶県という県は魏のころから無い
建安東冶だーと、言う九州説は明らかに嘘だな

359日本@名無史さん2020/01/01(水) 18:12:50.38
>>355
>当然西晋時代の記事だ

ばかですか
西晋時代の記事を魏志に書くわけない

360日本@名無史さん2020/01/01(水) 18:14:13.46
>>354
>「冶」と書かれた写本版本は0個であり、全くなかったのであるから、

証拠は?

361日本@名無史さん2020/01/01(水) 18:16:55.11
>>340
阿波の前でそんなデタラメを言っても無駄!  わははははは   @阿波

362日本@名無史さん2020/01/01(水) 18:17:03.28
>>356
それは多分、282年に建安郡がさらに建安郡と晋安郡に分けられて以降の記事だと思う
https://baike.baidu.com/item/%E6%99%8B%E5%AE%89%E9%83%A1

363日本@名無史さん2020/01/01(水) 18:17:21.66
そもそも呉という国の存在を認めてない魏が
呉の勝手な分郡を認める理由はないの
「魏志」の記事な限り今の福州は会稽だね

364日本@名無史さん2020/01/01(水) 18:17:42.62
>>359
バカはお前
陳寿が書いた部分が西晋時代なのは当たり前

365日本@名無史さん2020/01/01(水) 18:18:44.61
>>363
いや西晋も引き継いでるんだがw

366日本@名無史さん2020/01/01(水) 18:20:52.45
>>362
なるほど

367日本@名無史さん2020/01/01(水) 18:21:18.03
>>364
>バカはお前
>陳寿が書いた部分が西晋時代なのは当たり前

バカ発見
三国志は陳寿が書きました

368日本@名無史さん2020/01/01(水) 18:21:37.95
>>358
東冶県と言い張ってたのは畿内厨だろw
自爆おつ

369日本@名無史さん2020/01/01(水) 18:21:57.58
>>367
バカ発見
陳寿は西晋の人物です

370日本@名無史さん2020/01/01(水) 18:23:06.78
右下パズル九州説は屋久島に決定でいいんじゃないの?

371日本@名無史さん2020/01/01(水) 18:23:26.21
>>365
だから魏代は建安郡でも晋安郡でもない
そして陳寿は魏志に魏代の歴史を書いた

372日本@名無史さん2020/01/01(水) 18:24:48.90
>>319
>その頃の江南の住居は土壁の戸建てだがな
中国から菜畑に稲作が伝わったなら、中粒種のイネがあるはずだし、
中国の耕作用農具が伝わってるはずだろ
妄想チンコロ乙<

大体、呉王夫差の遺民は「海に入りて」の緊急逃亡流民であるから、
中粒種の稲なんか持って来れる筈もなく、
火の国山門に上陸したのだから、菜畑とも関係がなく、
燕の南の倭人は、当然半島経由の流浪の民であるから、
やはり中粒種の稲なんか持って来れる筈もない。

稲の種類論に関しては、
Yahoo時代にはmutouhaという知能指数200の工学部出身のお方が分析されて、
中国の多種の稲の一部分だけが、列島に伝わっている、
という分析を書いておられた。

373日本@名無史さん2020/01/01(水) 18:26:16.71
>>307
そういうことだったのか

374日本@名無史さん2020/01/01(水) 18:28:48.73
九州説のひとは歴史を知らないんだよ
三国志には司馬宣帝とはひとことも書いてないだろ
司馬宣王と魏代の身分で書いてある
陳寿は晋の史官だが、史官だから魏代のことは魏代の名称で書くんだよ

375日本@名無史さん2020/01/01(水) 18:31:28.51
>>368
>東冶県と言い張ってたのは畿内厨だろw
>自爆おつ

証拠は?
九州説さん、またインチキ?

376日本@名無史さん2020/01/01(水) 18:31:56.62
>>300
陳寿がつけた注釈は当然西晋の名称じゃないとおかしいわな

377日本@名無史さん2020/01/01(水) 18:32:25.63
>>321
>元々つじつま合わせに発明された珍説だからな、「短里」そのものが<

元々、魏志に記載された里の「1里の距離」が、
始皇帝の決めた「1歩=6尺」からの「1里の距離」の5〜6分の1位であった、
という事を無視して、
つじつま合わせに発明された珍説だからな、「長里」そのものが。

378日本@名無史さん2020/01/01(水) 18:32:43.41

379日本@名無史さん2020/01/01(水) 18:34:58.11
>>377
それ循環論法

380日本@名無史さん2020/01/01(水) 18:39:15.41
>>325
>魏志倭人伝に邪馬台国の場所は会稽東治の東<

邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、この男は始めから×。

>現代の場所に直すと沖縄や台湾の辺りと書いている<

書いていない。現代の場所に直すとほぼ九州島辺りと書いている。

>なので短里で九州北部と書いてると主張の九州説は絶滅<

なので、長里で大和と書いてあると主張し、
「南→東」などのウソを付いた大和説は、絶滅。

381日本@名無史さん2020/01/01(水) 18:39:45.01
>>376
>陳寿がつけた注釈は当然西晋の名称じゃないとおかしいわな

理由は?
九州説はまた言い張るだけ?

382日本@名無史さん2020/01/01(水) 18:39:46.84
>>368
◆FAQ 40な

> 会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
> 沿革も「李宗諤圖。經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
> 東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
> このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
> そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。

383日本@名無史さん2020/01/01(水) 18:40:06.17
会稽郡から臨海郡、建安郡を分郡したのは滅んだ正統ではない孫呉だから
魏志の江南の地域名は後漢時代のままでいい

384日本@名無史さん2020/01/01(水) 18:41:47.41
>>374
司馬懿は生前は王位につかず、宣王と諡されたのは264年に司馬昭が晋王に即位した後
それが反映されているのに260年の分郡が反映されていないとするのは無理があるな

385日本@名無史さん2020/01/01(水) 18:42:18.96
>>378
会稽郡東冶県があったのが現在の福建省福州市なのは事実
それが会稽東冶のことだとは言ってない

386日本@名無史さん2020/01/01(水) 18:42:42.28
>>383
その正統でない孫呉の郡制を正統な西晋が引き継いでいるのだからその主張には無理がある

387日本@名無史さん2020/01/01(水) 18:44:14.36
>>324
>>もし東冶が正解なら西晋の官僚である陳寿が会稽と書くわけないな
これは決定的<

>なんで理由ひとつ無く決定的になる? 九州説って根本的におかしいね<

東冶は、260年の会稽郡の分郡で出来た「建安郡」にあるのであり、
会稽や会稽郡ではなくなったんだから、
西晋の官僚である陳寿が会稽と書くわけないな
これは決定的。
そして、大和説者の嘘つき騙しのアホが決定的。

388日本@名無史さん2020/01/01(水) 18:49:24.05
>>384
納得

389日本@名無史さん2020/01/01(水) 18:49:29.27
>>384
>司馬懿は生前は王位につかず、宣王と諡されたのは264年に司馬昭が晋王に即位した後
>それが反映されているのに260年の分郡が反映されていないとするのは無理があるな

無理って、どんな無理?
魏代の身分だろ
なんの問題もない

390日本@名無史さん2020/01/01(水) 18:49:55.04
>>388
納得する理由は?

391日本@名無史さん2020/01/01(水) 18:52:10.58
>>372
呉王夫差はBC5Cの人物だろがカス

稲作開始はBC10Cだぞ中卒

何にも関係ねえ

392日本@名無史さん2020/01/01(水) 18:53:32.57
>>331
>会稽郡東冶県は沖縄とか台湾と同じ緯度の今でいう福建省福州市だよ<

陳寿が書いたのは、「会稽東治之東」であって、「会稽郡東冶県」ではないの。

>後漢書にも中国最南部の海南島の近くと書いてるし<

後代史書の後漢書は「魏志の自己解釈に拠る書き換え」という
高慢な犯罪者的な半分×史書であるから、根拠にならないの。

>何より魏志倭人伝が邪馬台国を世界の果てに相当するような
かなりの南方に想定して書いてある<

邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
記載した陳寿がで、自分が書いた萬二千余里で「会稽東治之東」と書き、
それはほぼ九州島付近になるから、
「世界の果てに相当するようなかなりの南方に想定して書いて」いないの。

393日本@名無史さん2020/01/01(水) 18:53:55.46
>>372
で、弥生中期の漢字の記録が一切ないのに、何でその松野氏姫氏の記録系図の記録を
残した人物は弥生中期に渡来した自分の先祖の名前が姫氏や呉王夫差や公子忌だと
分かったの?

何で分かったの?

どうして分かったの?

394日本@名無史さん2020/01/01(水) 18:56:04.09
>>392
>陳寿が書いたのは、「会稽東治之東」であって、「会稽郡東冶県」ではないの。

その「会稽東治」が会稽郡でない場所にあるのか?
九州説は全員バカではないのか?

395日本@名無史さん2020/01/01(水) 19:05:16.94
>>335
>いいや魏の政治的な事情で伝説上の倭の極南界に邪馬台国があると想定して
魏志倭人伝は書かれたもの <

これちょっとおかしいね。
「極南界」と書いたのは、魏志倭人伝ではなく後漢書であるし、
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であったし、
倭人伝は「魏の政治的な事情」で書かれたものでもない。

396日本@名無史さん2020/01/01(水) 19:10:36.60
>>395
新年早々また理由なき決めつけを連呼する九州説

397日本@名無史さん2020/01/01(水) 19:21:05.61
1 2 1
1 3 3 1
1 4 6 4 1

398日本@名無史さん2020/01/01(水) 19:22:05.26
俺俺、私私詐欺が流行っているみたいなんだけどw
どこの池沼なんだ?と聞いているんだよ。

399日本@名無史さん2020/01/01(水) 19:22:24.38
1 2 1
1 3 3 1
1 4 6 4 1
1 5 10 10 5 1
1 6 15 20 15 6 1

400日本@名無史さん2020/01/01(水) 19:22:41.14
400

401日本@名無史さん2020/01/01(水) 19:22:52.98
2020

402日本@名無史さん2020/01/01(水) 19:23:34.44
邪馬台国畿内説は、完全に破綻しました。

403日本@名無史さん2020/01/01(水) 19:24:39.37
新年というのに
簡単に論破された九州説が
また荒らし始めた

404日本@名無史さん2020/01/01(水) 19:25:02.12
1 2 1
1 3 3 1
1 4 6 4 1
1 5 10 10 5 1
1 6 15 20 15 6 1
1 7 21 35 35 21 7 1

405日本@名無史さん2020/01/01(水) 19:25:53.41
1 2 1
1 3 3 1
1 4 6 4 1
1 5 10 10 5 1
1 6 15 20 15 6 1
1 7 21 35 35 21 7 1
1 8 28 56 70 56 28 8 1

406日本@名無史さん2020/01/01(水) 19:27:29.03
>>402
邪馬台国畿内説が、完全に破綻したので、このスレッドは、素数についての研究所になったのだったね。

407日本@名無史さん2020/01/01(水) 19:28:21.00
>>337
>>東冶が会稽でなく建安なのに会稽東冶と書くわけ無いじゃん
知恵遅れかよw <

>じゃ、現実に三国志には何ヶ所も「会稽東冶」と書いてあるのは何故?
九州説は現実を無視した妄想だから当然そうなるのかな<

「会稽東冶」という文言が書かれたのは、
260年の会稽郡から建安郡の分郡前の「呉志における会稽郡時代」の説明文であったから。

「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者は、
分郡前の呉志の記載と、分郡後の魏志の記載との区別もできない痴呆だから、
当然そうなるのかな?。

408日本@名無史さん2020/01/01(水) 19:28:21.77
『饗応』
このような写真もあったでしょ、たしか貼り付けたはず、
手に『赤べこ』のようなものを持っていたり。
老婆が言うには浅野セメント〜何やらという話をしていた。


家は『鳳輿』(傾いた松の木)?このような名前の家なんだけど。
ホンモノだったとか?

409日本@名無史さん2020/01/01(水) 19:31:08.03
邪馬台国畿内説が、完全に論破されたので、奥山氏が呟き始めたな。

410日本@名無史さん2020/01/01(水) 19:32:30.48
1 2 1
1 3 3 1
1 4 6 4 1
1 5 10 10 5 1
1 6 15 20 15 6 1
1 7 21 35 35 21 7 1
1 8 28 56 70 56 28 8 1
1 9 36 84 126 126 84 36 9 1

411日本@名無史さん2020/01/01(水) 19:34:11.17
巻向は200回程も、発掘調査したが、邪馬台国畿内説の具体的な証拠が発見されなかったのだったね。

412日本@名無史さん2020/01/01(水) 19:34:17.52
『ドンバ』(不明)などの写真w、
浅野セメントが〜とか、そういう話よりも前・・・の時代の写真なのかな?

413日本@名無史さん2020/01/01(水) 19:35:03.38
>>407
>分郡前の呉志の記載と、分郡後の魏志の記載との区別もできない痴呆だから、

また九州説がウソついてる
卑弥呼の朝貢は分郡前だし、呉が勝手にやったことだから魏の記録にもない

414日本@名無史さん2020/01/01(水) 19:35:31.10
奥山氏は、お正月を孤独に過ごしているのだったね。

415日本@名無史さん2020/01/01(水) 19:36:10.88
葱の華、キュウリの葉などの写っている写真の話。
家の写真なんだけど。

416日本@名無史さん2020/01/01(水) 19:36:33.88
>>409
>邪馬台国畿内説が、完全に論破されたので、奥山氏が呟き始めたな。

などと呟き始める。完全に論破された九州説

417日本@名無史さん2020/01/01(水) 19:38:04.49
>>340
>何度言われても
魏志倭人伝に邪馬台国の位置は会稽東治の東と書かれているし <

何度言われても、邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし。

>会稽郡東冶県があったのは現在の福建省福州市でその東は沖縄か台湾 <

魏志倭人伝の陳寿の「女王国の位置推定」は「会稽東治之東」であるから、
この男は世間の人々を騙そう、としているし。

>後漢書にも会稽郡はハワイと同緯度の海南島と近いと書いてるし<

後漢書の范曄は、自己解釈に拠る「高慢な書き換え」を沢山やっているから、
半分×人間であり、証拠にならないし、

>魏志倭人伝は邪馬台国を相当南の世界の果てにある国として書いている<

魏志倭人伝は、不彌國で萬二千余里はほぼ終わっているから、
邪馬壹國女王之所都の入口が筑紫にある、という書かれ方である。

418日本@名無史さん2020/01/01(水) 19:38:13.41
>>414
孫達や娘達に囲まれ、幸せの気持ちが高まり、貴方は優しくなり、孤独な奥山氏のことを思い出し、完全に破綻した邪馬台国畿内説のスレッドに、アプローチしたのだな。

419日本@名無史さん2020/01/01(水) 19:41:25.63
>>394
夏后少康之子封於会稽 断髪文身

この場合の「会稽」は会稽山のある浙江省紹興市辺りをさす
ここから数行しか離れてない「當在会稽東治之東」がなんで500キロ以上離れた福建省福州市の東に
なるんだよって話
常識的には「会稽の東部地域の治所」と解釈し、紹興市近くの江蘇省蘇州市辺りとなるのよ

それからあれだ、すぐそばの「男子無大小 皆黥面文身」も見えないんだろあんたらは

420日本@名無史さん2020/01/01(水) 19:42:00.45
孫達が銭湯に行っているので、研究に時間を使用すれば良いな。

421日本@名無史さん2020/01/01(水) 19:42:45.90
何かの旅行に行ったときの写真なのかな、浴衣のようなものを着ていたでしょ。

家は『鳳輿』(傾いた松の木)このような名前の家w

422日本@名無史さん2020/01/01(水) 19:43:48.44
奥山氏は、良渚の東にあった、会稽東のことで、追い詰められているな。

423日本@名無史さん2020/01/01(水) 19:45:32.17
『旅館 浴衣』?
このような着物・・・『赤べこ』を持っていてw

424日本@名無史さん2020/01/01(水) 19:47:50.36
>>414
奥山氏には、家族がいない可能性が高いのだね。

425日本@名無史さん2020/01/01(水) 19:48:10.92
>>377
>元々、魏志に記載された里の「1里の距離」が、
>始皇帝の決めた「1歩=6尺」からの「1里の距離」の5〜6分の1位であった、
>という事を無視して、

妄想は、無視されても仕方ない

426日本@名無史さん2020/01/01(水) 19:48:41.78
>>343
>>魏志は、「会稽東治之東」であり、揚子江河口の南北海岸地域(の東)であり、<

>そこは129年以降ずっと呉郡なのだから<

陳寿は、「夏后少康之子封於會稽」と女王国との位置関係を説明したかったから、
わざわざ「会稽郡」の「郡」とは書かず、
「会稽東治(=会稽の東方の治の地)」と書いて、揚州の管理下である事を示し、
揚子江河口の南北海岸地域である事を示したの。

>魏志倭人伝が書かれたとき、その「会稽東治」はこの世に存在していない <

「東治」は、固有名詞の地名ではなく、名詞連結の普通名詞であり、
上記のように、「揚子江河口の南北海岸地域」として存在する。

>九州説の負けだ嘘吐き<

類スレ主の大和説の負けだ、嘘つき。

427日本@名無史さん2020/01/01(水) 19:49:01.76
>>419
>常識的には「会稽の東部地域の治所」と解釈し、紹興市近くの江蘇省蘇州市辺りとなるのよ

そんな常識はない

428日本@名無史さん2020/01/01(水) 19:49:30.92
1 2 1
1 3 3 1
1 4 6 4 1
1 5 10 10 5 1
1 6 15 20 15 6 1
1 7 21 35 35 21 7 1
1 8 28 56 70 56 28 8 1
1 9 36 84 126 126 84 36 9 1
1 10 45 120 210 256 210 120 45 10 1

429日本@名無史さん2020/01/01(水) 19:49:44.53
>>335
願望乙
だから畿内説は誰からも支持されない

430日本@名無史さん2020/01/01(水) 19:50:37.10
>>409
自分で呟いて他人のせいにする簡単なお仕事

431日本@名無史さん2020/01/01(水) 19:50:48.19
>>340
短里の報告を長里で解釈するからそうなったんだよ。

432日本@名無史さん2020/01/01(水) 19:51:44.52
指数関数を研究しているのだね。

433日本@名無史さん2020/01/01(水) 19:52:56.05
>>429
願望って何だよ
そこは要望というとこだろ
日本語はきちんと使おう
日本人じゃないなら仕方ないけど

434日本@名無史さん2020/01/01(水) 19:53:12.17
>>345
>ますますおかしいじゃないの
呉王夫差も公子忌もBC5Cの春秋時代の人だろ
その時代は弥生中期頃だけど、弥生中期に漢字の記録なんか一切ないだろが
弥生中期の漢字の記録が一切ないのに、何でその松野氏姫氏の記録系図の記録を
残した人物は弥生中期に渡来した自分の先祖の名前が姫氏や呉王夫差や公子忌だと
分かったの?
何で分かったの? どうして分かったの?<

当然、公子忌は自分の子孫に自分や呉王夫差の名前を伝え、
子孫がその名前を系図に書き込んだの。

435日本@名無史さん2020/01/01(水) 19:53:22.99
元旦に、銭湯を活動させる必要は、あるのだろうか、、、

436日本@名無史さん2020/01/01(水) 19:54:36.89
邪馬台国畿内説を宣伝する者達の殆どは、朝鮮民族なのだったね。

437日本@名無史さん2020/01/01(水) 19:55:52.96
>>346
会稽東治を「揚子江河口の南北海岸地域ではない」と、
ただ言い張れば勝てると思ったか?。
大和説は浅いのお

438日本@名無史さん2020/01/01(水) 19:56:16.49
>>431
帯方より南1万2千里を長里で解釈すると
沖縄台湾どころじゃなくオーストラリアになるぞ

439日本@名無史さん2020/01/01(水) 19:56:38.38
冬の銭湯は、身体が冷えるのではないのかな。

440日本@名無史さん2020/01/01(水) 19:57:12.59
440

441日本@名無史さん2020/01/01(水) 19:57:44.08
畿内説が完全勝利過ぎてあとは消化試合よのお
あーあーつまらんなあー

442日本@名無史さん2020/01/01(水) 19:57:54.04
一緒に銭湯に行けば良かったな。

443日本@名無史さん2020/01/01(水) 19:58:16.61
文身黥面は、倭人が本当の場所より南の呉の会稽の民族だと思っていた証拠だな。
倭人は呉の太白(黥をして中間と決別した人物)の末裔を自称したという話が陳寿の念頭にあった。
だから短里の報告書を読んで、実際よりも南方の民族だと思い込んだ。
だが実際には、会稽から九州に流れて来た移民(弥生人)だったというわけさ。

444日本@名無史さん2020/01/01(水) 19:59:36.15
まさか・・・、あの中(写真を参照)に、
傾いた松の木(『鳳輿』?)がいたとは?みたいな話。

このスレにも貼り付けたはずなんだけど
お膳のようなものがあり、浴衣を着て、赤べこを持っている。

445日本@名無史さん2020/01/01(水) 20:00:08.70
>>433
誰に要望するんだ?
キナイコシは日本語を知らないらしい。
畿内説などというものは、一部の狂信者の願望または妄想に過ぎない。
なぜなら、魏志倭人伝などの史書とも一致しないし、考古学的証拠もない。
根拠のない思い込みを妄想という。

446日本@名無史さん2020/01/01(水) 20:00:13.65
>>348
>>何度同じ嘘を書こうが、東冶県は建安郡であって会稽郡ではない<

>証拠は? 思考停止して言い張るだけ?
なんで三国志には何ヶ所も会稽東冶と書いてあるの?<

分郡前の会稽郡時代の(呉志の)東冶付近の、幾つの話の説明であったから。

447日本@名無史さん2020/01/01(水) 20:00:50.59
奥山氏は、完全に破綻した邪馬台国畿内説の宣伝を辞め、社会活動に参加して、友人や恋人を、見つけた方が良いよ。

448日本@名無史さん2020/01/01(水) 20:01:09.42
>>438
帯方郡から一万里で九州上陸だ。
対馬海峡が三千里なので、残り二千里では九州北部を出ない。

449日本@名無史さん2020/01/01(水) 20:03:06.72
>>386

281年に孫秀が会稽郡の地に封じられ、
会稽国(呉末の管轄域と同じ範囲のまま)が建国される

450日本@名無史さん2020/01/01(水) 20:03:48.73
>>434
ああ、公子忌は夫差に殺されたヤツだったのか

じゃあ何の関係もねえな


で、弥生中期の漢字の記録が一切ないのに、何でその松野氏姫氏の記録系図の記録を
残した人物は弥生中期に渡来した自分の先祖の名前が姫氏や呉王夫差だと分かったの?

何で分かったの?

どうして分かったの?

451日本@名無史さん2020/01/01(水) 20:03:54.98
>>448
九州北部端っこの不彌国までで計1万700里
そこから南に1300里水行30日陸行1月して沖縄か台湾の辺りに邪馬台国があると魏志倭人伝には書いている

452日本@名無史さん2020/01/01(水) 20:04:22.01
>>349
>嘘じゃあなくて真実
魏志倭人伝に邪馬台国の位置は会稽東治の東と書かれているし
会稽郡東冶県があったのは現在の福建省福州市でその東は沖縄か台湾
後漢書にも会稽郡はハワイと同緯度の海南島と近いと書いてるし
魏志倭人伝は邪馬台国を相当南の世界の果てにある国として書いている <

ありゃ?、この「南→東」などの嘘つき騙しの大和説男が、また貼り付けをしたようだな。
じゃ、貼り付けのお返し。
>何度言われても
魏志倭人伝に邪馬台国の位置は会稽東治の東と書かれているし <

何度言われても、邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし。

>会稽郡東冶県があったのは現在の福建省福州市でその東は沖縄か台湾 <

魏志倭人伝の陳寿の「女王国の位置推定」は「会稽東治之東」であるから、
この男は世間の人々を騙そう、としているし。

>後漢書にも会稽郡はハワイと同緯度の海南島と近いと書いてるし<

後漢書の范曄は、自己解釈に拠る「高慢な書き換え」を沢山やっているから、
半分×人間であり、証拠にならないし、

>魏志倭人伝は邪馬台国を相当南の世界の果てにある国として書いている<

魏志倭人伝は、不彌國で萬二千余里はほぼ終わっているから、
邪馬壹國女王之所都の入口が筑紫にある、という書かれ方である。

453日本@名無史さん2020/01/01(水) 20:05:46.98
>>445
欲望の誤字だけど
そんな事もわからないの

454日本@名無史さん2020/01/01(水) 20:09:52.50
1 2 1
1 3 3 1
1 4 6 4 1
1 5 10 10 5 1
1 6 15 20 15 6 1
1 7 21 35 35 21 7 1
1 8 28 56 70 56 28 8 1
1 9 36 84 126 126 84 36 9 1
1 10 45 120 210 252 210 120 45 10 1
1 11 55 165 330 462 466 330 165 55 11 1

計算は、正確だろうか。
11*10*9*8*7/5*4*3*2*1
=11*3*2*7
=66*7
=462

455日本@名無史さん2020/01/01(水) 20:11:15.30
1 2 1
1 3 3 1
1 4 6 4 1
1 5 10 10 5 1
1 6 15 20 15 6 1
1 7 21 35 35 21 7 1
1 8 28 56 70 56 28 8 1
1 9 36 84 126 126 84 36 9 1
1 10 45 120 210 252 210 120 45 10 1
1 11 55 165 330 462 462 330 165 55 11 1

462だな

456日本@名無史さん2020/01/01(水) 20:12:11.53
>>351
>>分郡は260年だぞアホ<

>つまり卑弥呼が朝貢したとき会稽郡なわけだ なんの問題もないな <

ダメだ。
「計其道里、當在會稽東治之東」は、
陳寿の執筆時の「女王国の位置推定」の「地の文」であり、
当然、読者に執筆時点での西晋代の事実や実態の説明をしなければならず、
「東治」は265年以前の魏代の話ではない。

457日本@名無史さん2020/01/01(水) 20:16:29.65
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。

458日本@名無史さん2020/01/01(水) 20:26:13.51
>>358
>もともと東冶県という県は魏のころから無い <

三国志の呉志には、
魏代の分郡前にあった地名として「会稽東冶」という記載をしていて、
「東冶県」の「「県」の文字は付けられているのは1か所だけ。

>建安東冶だーと、言う九州説は明らかに嘘だな<

呉志には、「建安東冶」なんて文言は書かれていないから、
九州説者がそんな文言をいう筈がなく、
この男(おそらく類スレ主)のでっちあげ捏造。

459日本@名無史さん2020/01/01(水) 20:29:47.67
>>359
>>当然西晋時代の記事だ <

>ばかですか 西晋時代の記事を魏志に書くわけない<

「計其道里、當在會稽東治之東」は、
陳寿の西晋代での執筆時の、女王国の「位置推定」の「地の文」だ。

460日本@名無史さん2020/01/01(水) 20:33:27.33
これも以前から書いている事なんだけど、
チンピラの話なんてしていないんだよ、言っている意味がわからないんだろう。

461日本@名無史さん2020/01/01(水) 20:36:31.24
例えば『白い服 暴力団』w

このような服の写真も貼り付けたず、あれも家の写真なんだけど、
でも暴力団、ヤクザでもないし。

462日本@名無史さん2020/01/01(水) 20:43:09.26
>>363
>そもそも呉という国の存在を認めてない魏が
呉の勝手な分郡を認める理由はないの<

陳寿は、呉志を書いているんだから、当然呉の実在を認めており、
実際に呉志には、分郡の記載があるの。

>「魏志」の記事な限り今の福州は会稽だね<

260年の分郡前はね。

463日本@名無史さん2020/01/01(水) 20:48:29.47
はやく刑務所に行けと言っているのに、
どこの池沼なんだ。

464日本@名無史さん2020/01/01(水) 20:49:46.26
>>370
>右下パズル九州説は屋久島に決定でいいんじゃないの?<

不彌國や邪馬壹國女王之所都で「萬二千余里」がほぼ終わっているから、
その付近に女王国の入口があり、
投馬國は、不彌國の南方で水行二十日の距離にあるから、ほぼ南九州付近であり、
屋久島はかかるか?かからないか?位であり、
女王国は「ほぼ九州島付近」で問題がない。

465日本@名無史さん2020/01/01(水) 20:53:20.02
家にはテレビもラジオもあって、視聴していると言っているのに、
ただ『ザ・モモタロウ』というコミックにはw


浦島太郎(仮)「テレビ?そんなの観ないじゃーん」みたいな事が書いてあるだけ。

466日本@名無史さん2020/01/01(水) 20:55:10.17
>>371
>だから魏代は建安郡でも晋安郡でもない <

勿論、魏代には、260年までは会稽郡に含まれ、
260〜265年は建安郡だ。

>そして陳寿は魏志に魏代の歴史を書いた<

265年頃の壹與の?遣使を書いたから、少し、西晋代の事件も書いた事になる。

467日本@名無史さん2020/01/01(水) 20:59:31.81
新年そうそう九州説は壊走
今年も思いやられますなあ

468日本@名無史さん2020/01/01(水) 21:02:00.90
『チンピラ』あと『右翼』?
このような集団も同じ、さっさと消えろw何度言えばわかるんだ。

469日本@名無史さん2020/01/01(水) 21:02:40.05
>>379
>それ循環論法<

魏志などの「里」記載実態が、
5〜6倍も長かった始皇帝の「1歩=6尺」の里の長さだ、
と断定するこの男(おそらく類スレ主)の方が、循環論法。

470日本@名無史さん2020/01/01(水) 21:03:00.72
徐々に九州説が元気なくなっていってるのが笑える

471日本@名無史さん2020/01/01(水) 21:05:06.16
何度も書いている事なんだけどw

『倭猿』
なぜ、このようなことを言われているんだと思う?

472日本@名無史さん2020/01/01(水) 21:07:16.68
九州説は空虚なウソばっかついてて虚しくならない?
そろそろ仕舞いにしたら?

473日本@名無史さん2020/01/01(水) 21:09:30.32
確実に言えることは、九州雑多説と日本の学者&中国の史家とは
思考がまったく違うということだね

474日本@名無史さん2020/01/01(水) 21:14:56.48
邪馬台国畿内説を宣伝している、朝鮮民族の、頭の悪いプロ固定が、日本人に悪口を言い放ってまで、スレッドを活発化する目的は、何だろうか、、、

475日本@名無史さん2020/01/01(水) 21:16:55.57
『倭人 朝鮮人』だと書いてあるでしょ。

476日本@名無史さん2020/01/01(水) 21:18:39.61
若者達は、沢山食べられるので、良いな。

477日本@名無史さん2020/01/01(水) 21:19:07.26
それで、どの時代から日本人になったんだ?
『先史』?正確には日本人ではないんだけど。

478日本@名無史さん2020/01/01(水) 21:21:32.71
正確には、邪馬台国畿内説を宣伝している奥山氏は、朝鮮民族なのだったね。

479日本@名無史さん2020/01/01(水) 21:23:58.31
>>382
>会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、
同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。<

呉志の分郡前の「東冶」は、「地名」としても「地域」呼称としてもはっきり使われており、
「冶」という「地名」のように使われた事もあが、県名として使われた例はない。

>沿革も「李宗諤圖。經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」
(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。<

後代史書の記載は、半分×書である事が多く、根拠にならない。

>東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て
東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。<

「地の文」は原則として、執筆時点での実態に拠って説明するものであり、
「東治」は固有名詞ではなく、普通名詞である事からも、
「東冶」という固有名詞扱いにする事が不合理だ。

>そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。<

関係がない。「東治」は固有名詞ではなく、普通名詞の熟語である。

480日本@名無史さん2020/01/01(水) 21:27:11.76
>>383
>会稽郡から臨海郡、建安郡を分郡したのは滅んだ正統ではない孫呉だから
魏志の江南の地域名は後漢時代のままでいい<

関係がない。 「東治」は、(固有名詞ではなく)、
陳寿執筆時点での「地の説明文」における「普通名詞の熟語」だ。

481日本@名無史さん2020/01/01(水) 21:29:38.83
歴史的に九州西部は我々日本人とは同化しなかった

482日本@名無史さん2020/01/01(水) 21:30:30.94
皇紀2600年?

483日本@名無史さん2020/01/01(水) 21:30:52.10
>>385
>会稽郡東冶県があったのが現在の福建省福州市なのは事実
それが会稽東冶のことだとは言ってない<

やはり関係がない。
「会稽東治之東」の「東治」は、地名固有名詞ではなく、
「熟語的は普通名詞」だ。

484日本@名無史さん2020/01/01(水) 21:31:46.37
>>482

「阿波で千年、京で千年」   @阿波

485日本@名無史さん2020/01/01(水) 21:32:56.24
>>431
>短里の報告を長里で解釈するからそうなったんだよ。

上司の知らない単位で報告するお馬鹿さんって
そゆな人、いる?

まさかね
九州説の人じゃあるまいし

486日本@名無史さん2020/01/01(水) 21:33:47.42
>>474
スレッドに、奥山氏以外の者が、1回、意見を発表すれば、奥山氏に、1円与える者がいるので、
無職である奥山氏が、スレッドを活発化し、生活費を獲得するのだったな。

487日本@名無史さん2020/01/01(水) 21:33:57.10
なぜ『倭猿』なんだと思う?

488日本@名無史さん2020/01/01(水) 21:35:00.18
>>486
奥山氏へのお年玉になるように、意見を発表すれば、良いな。

489日本@名無史さん2020/01/01(水) 21:37:57.64
>>486
奥山氏へのお年玉になるように、意見を発表すれば、良いな。

490日本@名無史さん2020/01/01(水) 21:38:17.70
>>486
奥山氏へのお年玉になるように、意見を発表すれば、良いな。

491日本@名無史さん2020/01/01(水) 21:38:33.42
>>486
奥山氏へのお年玉になるように、意見を発表すれば、良いな。

492日本@名無史さん2020/01/01(水) 21:39:22.29
>>486
奥山氏へのお年玉になるように、意見を発表すれば、良いな。

493日本@名無史さん2020/01/01(水) 21:39:41.50
>>486
奥山氏へのお年玉になるように、意見を発表すれば、良いな。

494日本@名無史さん2020/01/01(水) 21:42:57.12
>>466
>265年頃の壹與の?遣使を書いたから、少し、西晋代の事件も書いた事になる。

書いてないだろ、そんなこと

495日本@名無史さん2020/01/01(水) 21:43:20.19
>>394
>陳寿が書いたのは、「会稽東治之東」であって、「会稽郡東冶県」ではないの。<

>その「会稽東治」が会稽郡でない場所にあるのか?
九州説は全員バカではないのか?<

東治が会稽郡の中にあったんなら「会稽(郡)之東」と書けば十分だったのであり、
「東治」という文言が全く不要になってしまうのであり、
完結を旨とする陳寿にはあり得ない事であり、
だから、「東治」という文言を書いた、という事は「東治」は会稽郡の中にはなく、
会稽郡の東方地域を示そうとしていた事になり、
だから、会稽郡の東方の「治」地域を示す普通名詞的な熟語であった事になり、
そこは揚州の管轄地であるから、揚子江河口の南北両海岸地域を示す普通名詞である、
という事になるの。

496日本@名無史さん2020/01/01(水) 21:46:12.13
>>486
奥山氏へのお年玉になるように、意見を発表すれば、良いな。

497日本@名無史さん2020/01/01(水) 21:46:14.94
>>462
>>そもそも呉という国の存在を認めてない魏が

>陳寿は、呉志を書いているんだから、当然呉の実在を認めており、


九州説爺さんと普通人との意思疎通は
難しいな

498日本@名無史さん2020/01/01(水) 21:46:28.82
>>396
>新年早々また理由なき決めつけを連呼する九州説<

新年早々また、
「南→東」などの史料事実や史料実態の否定や曲解の嘘つき騙しや、
「東治が地名である」などのように、理由なき決めつけを連呼する大和説

499日本@名無史さん2020/01/01(水) 21:48:11.90
>>486
奥山氏へのお年玉になるように、意見を発表すれば、良いな。

500日本@名無史さん2020/01/01(水) 21:48:30.27
500

501日本@名無史さん2020/01/01(水) 21:48:48.23
>>486
奥山氏へのお年玉になるように、意見を発表すれば、良いな。

502日本@名無史さん2020/01/01(水) 21:48:48.27
>>486
奥山氏へのお年玉になるように、意見を発表すれば、良いな。

503日本@名無史さん2020/01/01(水) 21:49:25.01
>>404
>新年というのに簡単に論破された九州説がまた荒らし始めた<

新年というのに
「南→東」などの嘘つき騙しがバレて、
「東治は普通名詞」などで簡単に論破された大和説が
また荒らし始めた

504日本@名無史さん2020/01/01(水) 21:49:52.04
それにしても、おかしな話ばかり。
家の近所には在日(朝鮮、韓国・・・不明?)の人が多かったと老婆も言っているし。

505日本@名無史さん2020/01/01(水) 21:53:57.11
>>437
>会稽東治を「揚子江河口の南北海岸地域ではない」と、
>ただ言い張れば勝てると思ったか?。

そこは揚州呉郡と徐州広陵郡なので
会稽東治ではないのが確定で
畿内説の勝ちでーす

506日本@名無史さん2020/01/01(水) 21:56:39.55
>>413
>>分郡前の呉志の記載と、分郡後の魏志の記載との区別もできない痴呆だから、<

>また九州説がウソついてる
卑弥呼の朝貢は分郡前だし、呉が勝手にやったことだから魏の記録にもない <

また、「南→東」などの嘘つき騙しの大和説が、
「卑弥呼の朝貢は呉が勝手にやったことだ」なんて、
へんてこな文で、嘘つき騙しをしている?。

507日本@名無史さん2020/01/01(水) 21:59:19.65
そのままw朝鮮、韓国・・・?
そういう会話(言語、ことばを使用)をしている人たち。

508日本@名無史さん2020/01/01(水) 21:59:47.16
>>486
奥山氏へのお年玉になるように、意見を発表すれば、良いな

509日本@名無史さん2020/01/01(水) 22:00:18.14
>>486
奥山氏へのお年玉になるように、意見を発表すれば、良いな

510日本@名無史さん2020/01/01(水) 22:00:18.24
>>486
奥山氏へのお年玉になるように、意見を発表すれば、良いな

511日本@名無史さん2020/01/01(水) 22:03:38.12
九州説はスレ荒らしで貰ってるバイト代を
お世話になってるスレ主に感謝の気持ちとして半分くらいは差し出さなきゃダメだぞ?

512日本@名無史さん2020/01/01(水) 22:04:24.18
>>426
>わざわざ「会稽郡」の「郡」とは書かず、
>「会稽東治(=会稽の東方の治の地)」と書いて、揚州の管理下である事を示し、
>揚子江河口の南北海岸地域である事を示したの。

そんなことしたら詐欺でしょ
「会稽の東方の治の地)」なんて無いし
会稽の東なら会稽郡の中しか無いし

「揚子江河口の南北海岸地域」なら北だもの

陳寿は詐欺師ではないので
九州説がインチキだな

513日本@名無史さん2020/01/01(水) 22:10:03.12
王統の経過は文献資料がないとわからないのでは
ないでしょうか?

考古資料では,ある文化が急速に移動してきたことは
わかっても,それは王統には結びつきません.

もしも,文献資料がなかったら13世紀に今のウクライナに
中央アジアのトルコ系文化が急速に侵入して,トルコ系の
王侯の名前を刻んだコインを残した.恐らくホラズムの王族が
侵入したのであろう.
こんな結論になると思います.文献資料ではモンゴル治下の
キプチャク汗国を記録していることはご承知のとおりです.

514日本@名無史さん2020/01/01(水) 22:11:13.04
・・・wwwみたいな話ばかりw

当時、近所で遊んだりしていた子供の話、
雨が降ってきて・・・・・ぴゅんだか、ぴょんだか言いながら走って帰っていった。w

ぴ、レイン?

515日本@名無史さん2020/01/01(水) 22:13:09.59
王統だなんだと言い張る九州説は詐欺師ってことだな

516日本@名無史さん2020/01/01(水) 22:17:30.12
蘇州市が紹興市のほぼ真北にあるのは誰でも知ってる
会稽郡の北どなりの呉郡治を「会稽東治」だとか
頑迷にも言い張る九州説は
自分の信用を傷つける以外のことは
何もしていない

517日本@名無史さん2020/01/01(水) 22:34:53.48
老婆談・・・、年齢的にも戦前?戦中の頃の話だと思うんだけど。
雨が降ってきて、ぴゅんだか、ぴょんだかw

518日本@名無史さん2020/01/01(水) 22:35:04.54
>>416
>などと呟き始める。完全に論破された九州説<

などと、また「南→東」などの嘘吐きン騙しのように、嘘を付き始める。
完全に論破された大和説。

519日本@名無史さん2020/01/01(水) 22:37:42.43
19世紀末の清帝国が事大主義であるとか
歴史オンチをラウドスピーカーで喚かないと
生きて行けないのが九州説だからね
呪われてんだろ

520日本@名無史さん2020/01/01(水) 22:38:32.64
韓国はいつになったら本当の歴史を教育するのか

学校に行っていない川崎東北菅野は朝鮮人に洗脳されていたが
本当のことがわかったのに
いつになったら 朝鮮人に本当の歴史を教えてバカにしてやる のか

朝鮮人のパシリの書き込みバイトじゃ無理か

521日本@名無史さん2020/01/01(水) 22:39:35.16
>>518
>などと、また「南→東」などの嘘吐きン騙しのように、嘘を付き始める。

読経はいいから
嘘だって証拠だしてから死ねよ
負け逃げは惨めだぞ

522日本@名無史さん2020/01/01(水) 22:41:29.72
>>441
>畿内説が完全勝利過ぎてあとは消化試合よのお
あーあーつまらんなあー <

畿内なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であったし、
「南≠東」などで九州説が完全勝利過ぎて、
あとは消化試合よのお
あーあーつまらんなあー

523日本@名無史さん2020/01/01(水) 22:46:35.21
途中に吉備、出雲もあり、吉備は同時代の大和より巨大な前方後円墳を持ってたりする。
それらを平らげながら、更に九州という一大物流集積地まで攻め上り、更に平定するのは、発掘
結果から見られる当時の畿内勢力の力を考えても無理ではないか。

早くて5世紀、遅ければ磐井の乱、更に遅ければ白村江前後まであり得る。

524日本@名無史さん2020/01/01(水) 22:49:45.22
九州説って言うだけで笑われる時代が
もう来てるんだね

525日本@名無史さん2020/01/01(水) 22:50:32.33
>>450
>ああ、公子忌は夫差に殺されたヤツだったのか じゃあ何の関係もねえな<

違うな。松野氏姫氏系図では、公子忌は、夫差の子か孫のような書かれ方だな。

>で、弥生中期の漢字の記録が一切ないのに、何でその松野氏姫氏の記録系図の記録を
残した人物は弥生中期に渡来した自分の先祖の名前が姫氏や呉王夫差だと分かったの?
何で分かったの? どうして分かったの?<

親から子への伝承などがあったから。

526日本@名無史さん2020/01/01(水) 22:50:33.99
>>523
>九州という一大物流集積地まで攻め上り、更に平定する

そんなこと言ってる日本の学者はおらんよ

527日本@名無史さん2020/01/01(水) 22:53:33.50
キナイコシ無職wwwww

528日本@名無史さん2020/01/01(水) 22:55:49.48
>>451
>九州北部端っこの不彌国までで計1万700里
そこから南に1300里水行30日陸行1月して沖縄か台湾の辺りに邪馬台国があると魏志倭人伝には書いている<

書いていない。
不彌國や邪馬壹國女王之所都付近で萬二千余里がほぼおわっており、
投馬國は不彌國から南に水行二十日の位置であり、
「水行十日陸行一月」は、目的地の「女王之所都」の説明だから、
郡から女王之所都への所要日数説明。

529日本@名無史さん2020/01/01(水) 22:59:42.79
>>457
>縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。<

吉武高木の宮殿様の建築があった。

530日本@名無史さん2020/01/01(水) 23:02:56.35
古代、まだ竪穴住居に住み、採集狩猟生活をしていた縄文人。
朝鮮から渡ってきた文明人は、まず彼らに米の作り方、火とカマドの使い方を教えた。
次に、その身なりを哀れに思い、衣服や履物の作り方を教えた。
そして、文字を教え、文明思想を伝えた。

百済に中心を置いた当時の政治勢力は、列島に軍司令官を派遣して治めさせた。
司令官は、九州から近畿まで、土着勢力を征伐し従えながら百済の勢力圏を広めた。
伊勢近辺で土民と対峙し、そこに宗教施設を造営して境界とした。のちの伊勢神宮である。
奈良に本拠地を置き、そこに誕生した都市国家群を称してその土地を”ナラ”=諸国と呼んだ。

しかし、土着するや司令官は天皇と僭称し、直ぐに増長して本家に謀反・敵対を始めた。
今日まで日本人が朝鮮に劣等感を抱き、侵略を企てる基礎がここに定まった。

天皇を朝鮮に来させ、土下座させて歴史の全てをわびさせなければ改まるまい。

531日本@名無史さん2020/01/01(水) 23:03:14.93
>>467
>新年そうそう九州説は壊走 今年も思いやられますなあ<

新年そうそう「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は壊走
今年も思いやられますなあ

532日本@名無史さん2020/01/01(水) 23:05:38.10
神明造で棟持柱をもつ建物が弥生中期くらいから古墳時代前期に
近畿中心に伊勢湾にかけて多く作られる
これが稲作中心の倭国の祭祀建物
長江の南側から東南アジアに分布する

533日本@名無史さん2020/01/01(水) 23:05:40.90
>>470
>徐々に九州説が元気なくなっていってるのが笑える<

徐々に「南→東」などの嘘吐き騙しがバレた大和説が、
元気なくなっていってるのが笑える

534日本@名無史さん2020/01/01(水) 23:07:09.46
>>472
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は
空虚なウソばっかついてて虚しくならない?
そろそろ仕舞いにしたら?

535日本@名無史さん2020/01/01(水) 23:09:37.24
脳がオウム並みに退化して
オウム返しばかりの九州説

536日本@名無史さん2020/01/01(水) 23:10:20.11
>>473
確実に言えることは、
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説と、
日本国民や九州説学者や中国の史家や世界の学者らとは
思考がまったく違うということだね

537日本@名無史さん2020/01/01(水) 23:17:17.95
どこの低脳の集団なのか知らないけど、
はやく刑務所に行ったほうが良いぞ。

538日本@名無史さん2020/01/01(水) 23:20:19.35
>>481
>歴史的に九州西部は我々日本人とは同化しなかった<

歴史的には、倭国は唐会要倭國伝の「正北抵新羅」によって北部九州に中心があり、
倭国は「自昔・・・東征毛人五十五國」に拠って瀬戸内〜近畿〜東海〜南九州を征服し、
大和は倭國の別種同族の旧小国であり、
白村江の後で母国の九州倭国を併合吸継承した。

539日本@名無史さん2020/01/01(水) 23:22:43.28
騙り、成りすまし・・・何なのか知らないけどw
何度、言えばわかるんだ?家は日本なんて応援していないんだよ。

『❓』?

540日本@名無史さん2020/01/01(水) 23:22:47.33
>>485
魏朝の上司の知らない単位で報告するお馬鹿さんってそゆな人、いる?
まさかね
大和説の人じゃあるまいし

541日本@名無史さん2020/01/01(水) 23:25:09.21
成りすまし、騙り・・・何なのか知らないけど、
何度言えばわかるんだ?

542日本@名無史さん2020/01/01(水) 23:29:30.39
百済は卑弥呼の時代
馬韓のなかの伯済国

543日本@名無史さん2020/01/01(水) 23:30:38.77
新羅王は倭人 (三国史記)

544日本@名無史さん2020/01/01(水) 23:31:50.92
>>505
>>会稽東治を「揚子江河口の南北海岸地域ではない」と、
ただ言い張れば勝てると思ったか?。 <

>そこは揚州呉郡と徐州広陵郡なので 会稽東治ではないのが確定で
畿内説の勝ちでーす<

そこの「揚子江河口の南北の海岸地域」は、揚州の管轄下である事が確定なので、
会稽の「東治」地域そのものになり、
九州説の勝ちでーす。

545日本@名無史さん2020/01/01(水) 23:32:17.23
誰々氏・・・家の人の話、
中国人(漢人、むかーし渡来人w)なのかな〜、
みたいな事を言っている人がいたりするでしょ?

546日本@名無史さん2020/01/01(水) 23:32:49.93
うんこ食ってた土人に
西洋近代文化と技術を伝えた

547日本@名無史さん2020/01/01(水) 23:34:07.56
>>511
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は、
スレ荒らしで貰ってるバイト代を
お世話になってるスレ主に、
感謝の気持ちとして半分くらいは差し出さなきゃダメだぞ?

548日本@名無史さん2020/01/01(水) 23:34:46.28
キナイコシは令和元年は無職だった
令和2年も無職の負け組のまま

549日本@名無史さん2020/01/01(水) 23:35:25.35
日本は朝鮮に劣等感などない

日本の属国

550日本@名無史さん2020/01/01(水) 23:37:40.46
朝鮮は何度も滅亡

551日本@名無史さん2020/01/01(水) 23:38:12.52
>>512
そんなことしたら詐欺でしょ
「会稽東治」とは「会稽の東方の治の地」なんだし
会稽の東なら会稽郡の中では無いし
「揚子江河口の南北海岸地域」なら「会稽東治」そのモノだもの

陳寿は詐欺師ではないので
九州説がインチキだな

552日本@名無史さん2020/01/01(水) 23:40:54.52
韓伝

その風俗は、規律が少なく、国邑に統治者がいるとはいっても、
村落は入り混じり、うまく制御することができない。跪いて拝む礼はない。
その(馬韓の)北方は(中国の)郡諸国に近く、やや礼に通じているが、
遠いところは囚人や奴隷が集まっているに等しい。

553日本@名無史さん2020/01/01(水) 23:42:53.49
>>515
大和は、九州倭国の「自昔・・・東征毛人五十五國」の中の一国であり、
九州倭国の別種の旧小国の附要國であり、
王統だなんだと言い張る大和説は詐欺師ってことだな

554日本@名無史さん2020/01/01(水) 23:50:10.64
>>516
蘇州市が紹興市のほぼ真北にあるのは誰でも知ってる
また、揚州の管理下が、会稽郡の東の海岸地域である事も誰でも知っている。
だから、会稽郡の東どなりの揚州管理下の治を「会稽東治」だと呼ぶのは、
何の問題もない
頑迷に否定し続ける大和説は
自分の信用を傷つける以外のことは
何もしていない

555日本@名無史さん2020/01/01(水) 23:53:31.05
>>519
「南→東」などの嘘吐き騙しや、
19世紀末の清帝国が事大主義でないとか
歴史オンチをラウドスピーカーで喚かないと
生きて行けないのが大和説だからね
呪われてんだろ

556日本@名無史さん2020/01/01(水) 23:53:59.76
超時空設定?それにしても何の話なんだろうw

『』『』など、家の話なんだけど。

557日本@名無史さん2020/01/01(水) 23:56:41.96
誰々さんの家、収入がないというのも、
おかしいな〜と気づいている人もいるだろう。

例えば、役所の人などw

558日本@名無史さん2020/01/01(水) 23:58:06.55
漫画、アニメ、ゲーム・・・何やら・・・不明・・・など。

559日本@名無史さん2020/01/01(水) 23:58:54.10
>>521
>>などと、また「南→東」などの嘘吐きン騙しのように、嘘を付き始める。>などと、また「南→東」などの嘘吐きン騙しのように、嘘を付き始める。

>読経はいいから嘘だって証拠だしてから死ねよ 負け逃げは惨めだぞ <

読経はいいから、
「南→東」などが嘘ではない、
だっていう証拠だしてから死ねよ
負け逃げは惨めだぞ

560日本@名無史さん2020/01/02(木) 00:02:58.85
>>723
途中に吉備、出雲もあり、吉備は同時代の大和より巨大な前方後円墳を持ってたりする。
それらを「東征毛人五十五國」で平らげながら、
更に近江東海南関東という一大物流集積地まで攻め上り、更に平定するのは、
発掘結果から見られる当時の北部九州勢力の力を考えても無理ではないか。

早くて5世紀、遅ければ磐井の乱、更に遅ければ白村江前後まであり得る。

561日本@名無史さん2020/01/02(木) 00:04:25.05
>>524
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説って言うだけで笑われる時代が
もう来てるんだね

562日本@名無史さん2020/01/02(木) 00:06:05.19
>>525
伝承があったという証拠は?

BC5Cに渡来した段階で呉王夫差は「ゴオウフサ」とは発音してないはずだが、
漢字の記録なしで何で呉王夫差だと分かったの?

563日本@名無史さん2020/01/02(木) 00:11:37.10
呉ではなくて句麗だろうね

564日本@名無史さん2020/01/02(木) 00:12:03.99
>>529
その時代の中国人はもう高床式建築には住んでないぞ

土壁の住居だぞ

もう半分くらいは瓦屋根のな

565日本@名無史さん2020/01/02(木) 00:24:14.40
例えば


超時空は家の話ではない・・・としても、
他の作品など、確実に家の話だろうと思われるもの。

566日本@名無史さん2020/01/02(木) 00:46:14.70
>>523
>早くて5世紀、遅ければ磐井の乱、更に遅ければ白村江前後まであり得る。

白村江までは倭、律令国家になってからは日本。
国号の変化が実態を反映しているのだろう。

567日本@名無史さん2020/01/02(木) 00:51:17.34
古代、まだ竪穴住居に住み、採集狩猟生活をしていた縄文人。
江南から渡ってきた文明人は、まず彼らに米の作り方、火とカマドの使い方を教えた。
次に、その身なりを哀れに思い、衣服や履物の作り方を教えた。
そして、文字を教え、文明思想を伝えた。

筑紫に中心を置いた当時の政治勢力は、本州に軍司令官を派遣して治めさせた。
彼らは、土着勢力を征伐し従えながら倭国の勢力圏を広めた。
尖兵の一部は近畿地方に拠点を置いた。
土着した司令官は増長して筑紫本家に謀反・敵対を始めた。
白村江で筑紫倭国が敗北すると、唐と手を結び傀儡政権としての日本国が誕生し、せっせと遣唐使による朝貢外交を行った。

568日本@名無史さん2020/01/02(木) 00:51:21.54
坊さんの道久のほうが薩野馬より立場は上

569日本@名無史さん2020/01/02(木) 00:53:27.78
神明造で棟持柱をもつ建物が弥生中期くらいから古墳時代前期に
九州北部からはじまり東日本まで広く作られる
これが九州北部に上陸した稲作中心の倭国の祭祀建物
長江の南側から東南アジアに分布する

570日本@名無史さん2020/01/02(木) 00:55:00.44
>>564

それは中原の話だろう?
だからこそ倭は江南の呉の末裔だという話なのだ。
近代まで南方では高床式が使われている。

571日本@名無史さん2020/01/02(木) 00:59:32.97
マレー系甕棺墓の首狩族が住んでいた北部九州には
棟持柱建物は僅かしかない

572日本@名無史さん2020/01/02(木) 01:01:25.27
>>571
少ししかないからこそ、それが首長層のものだとわかる。
むしろ列島の中では九州北部が発祥の地であり、倭国文化の本拠地だ。

573日本@名無史さん2020/01/02(木) 01:03:01.30
ほとんど超時空設定だとわかるだろう、
家は肉体労働者?そういう家ではないと言っているし。

どこかで仕事をしていたとか・・・、最近の話をしているのかな?

574日本@名無史さん2020/01/02(木) 01:12:03.07
>>572

早いのは近畿のほうが早い

575日本@名無史さん2020/01/02(木) 01:13:08.43
さかきばら事件?

向こうにカメがいるよ。
どこかで鍛えていたのかな?肉体にも変化が見られ・・・

そういう話が載っていたりw
さいきば事件のwikiを読んでみて。

576日本@名無史さん2020/01/02(木) 01:15:04.31
浦島太郎。うらしまマリン。(仮名、キャラクター名)

よくわからないけど、家の話をしているんだろう。

577日本@名無史さん2020/01/02(木) 01:18:53.49
龍宮〜、鳳輿〜w

傾いた松の木の写真の話でしょ?
立っている人は、もれ(この書き込みしている)の写真ではないし、父親でもない。

578日本@名無史さん2020/01/02(木) 01:23:21.65
キュウリの葉、葱の華。

老婆も生れていない頃の写真だから〜wと言っていたり、
家の写真なんだけど『鳳輿』傾いた松の木?

579日本@名無史さん2020/01/02(木) 01:25:49.37
>>574
ふむ
ならば棟持柱ではなく高床式に注目すべきでは?

580日本@名無史さん2020/01/02(木) 01:26:39.78
詳しいことは、わからないんだけど、関西人でもないし。

581日本@名無史さん2020/01/02(木) 01:29:14.08
>>579

なんでならばなのかわからんが
棟持柱建物も高床式、高床式建物には倉庫もある

582日本@名無史さん2020/01/02(木) 01:35:26.17
吉武高木遺跡が高床式の源流ではないか?
そこには三種の神器もある。

583日本@名無史さん2020/01/02(木) 01:38:47.66
高床式建物は縄文時代の三内丸山遺跡でも想定されてる

584日本@名無史さん2020/01/02(木) 01:42:12.59
おじーちゃん?の話、浦島太郎。

585日本@名無史さん2020/01/02(木) 01:45:17.99
オジーちゃん・・・浦島太郎。
煙と水の曲もあったり・・・あれは他のバンドだった?

『姥清水』

586日本@名無史さん2020/01/02(木) 01:47:36.76
『Smoke on the Water』

オジーちゃんの曲でしょw

587日本@名無史さん2020/01/02(木) 01:51:47.72
日本政府が「沖縄は日本固有の領土」と主張したら、それこそ世界の笑いものになるだろう。
なぜなら日本政府は141年前の1879年3月27日に沖縄の前身である琉球王国に軍隊を派遣して琉球王国の首都だった首里城を取り囲んで武力的威嚇のもと併合したという歴史的事実があるから。
武力併合しておいて、その併合した地域を「我が国固有の領土」と主張すると、例えば、どこかの国が日本を武力併合したら、その瞬間から、その国は「日本は我が国固有の領土」とも言えることになり、日本政府はその国の主張に反論できなくなる。
だから日本政府は口が裂けても「沖縄は日本固有の領土」とは言えない。

@沖縄県那覇市首里 琉球史研究家

588日本@名無史さん2020/01/02(木) 02:01:39.50
沖縄は、1972年(昭和47年)5月15日に、沖縄(琉球諸島及び大東諸島)の施政権が
アメリカ合衆国から日本国に返還された

589日本@名無史さん2020/01/02(木) 02:07:18.22
>>570
いや、江南の話だが。

江南の高床式「住居」は5000年前にはほとんど消滅している。
その頃の江南の住居はすでに「木骨泥墻」(もっこつでいしょう)。
江南から真っ先に伝わるべきは木骨泥墻のはずである。
つまり古代日本に高床式「倉庫」を伝えた地域は江南ではありえないという事。
弥生人が江南から来たなら木骨泥墻が伝わるはずだし、仮に高床式「倉庫」が
江南から伝わったものなら、なぜ列島に伝わった途端に住居利用しなくなるのか
全く説明がつかない。


>私が見たものでは高床建物を出す遺跡は右の二つだけで、あとは全部「木骨泥墻」を
>出すものでした。陰湘城がすでに述べたように木骨泥墻ですし、その東にある石家河遺跡が
>やはり木骨泥墻です。この遺跡は陰湘城と同じように環濠集落なのですが、はるかに巨大です。
>壕の長径は1.5キロメートルに達します。これはもう村というより都市だとされています。
>時代は石家河文化時代(前2600〜2000年)です。右の情報を横並べにしてみると、
>次のようになります。

>  @河姆渡第3〜第4期(前5000〜前4000年)
>     ロングハウス式高床建物
>  A屈家ュ期(前3000〜前2600年)
>     木骨泥墻・環濠村
>  B石家河期(前2600〜前2000年)
>     木骨泥墻・環濠都市
http://www.kyoto-up.or.jp/jp/authorsessay01.html

590日本@名無史さん2020/01/02(木) 02:16:53.19
侗族の住居は板壁だから、華北の土壁文化の影響を受けた都市と
少数民族の集落では違っていたんだろう

591日本@名無史さん2020/01/02(木) 02:18:48.88
プリンス・・・?どう考えても、ウラシマンの話。

592日本@名無史さん2020/01/02(木) 02:31:06.18
江南、それは木骨泥墻


土壁、土壁、土壁、土壁

593日本@名無史さん2020/01/02(木) 02:39:12.17
『紫』
かなり高位、上位でしょ、調べてみた?

594日本@名無史さん2020/01/02(木) 02:42:05.95
『饗応』何の話なんだろう、
まさか、ほんとーに偉い人だったのかな?

老婆も・・・・・・・・・某は何かの家の人?
みたいな事を言っていたり。

595日本@名無史さん2020/01/02(木) 02:47:09.54
当時、住んでいたというところも
『姥清水』この辺りだしな・・・w

596日本@名無史さん2020/01/02(木) 02:54:29.64
成りすまし、騙り・・・、
何なのか知らないけど、テレビなど観ているでしょ?観てないのかな。

597日本@名無史さん2020/01/02(木) 03:00:14.88
・・・、・・・、・・・、・・・、・・・、おじーちゃん、おばーちゃん・・・、息子(娘?)・・・、
・・・。

598日本@名無史さん2020/01/02(木) 03:05:32.24
『天王』(天子)?

599日本@名無史さん2020/01/02(木) 03:08:24.70
『何者にもなれない お前たち』『ドンバ』『』『』『』・・・。

600日本@名無史さん2020/01/02(木) 03:16:36.65
こうして毎日

 九州説が論破されて発狂する
というパターンは今年も続く

601日本@名無史さん2020/01/02(木) 03:21:41.83
実際は死刑なんだけどな、
オウム(?)ではなく、お前に言っているんだよ。

602日本@名無史さん2020/01/02(木) 03:56:30.09
傾いた松の木。


かなり最近の写真なんだけど、
それでも『宇宙戦艦』(漫画、アニメ)なども無かったと言っているし。
創価か何かなんだろう?みたいな話ばかりだしな・・・。

603日本@名無史さん2020/01/02(木) 03:58:02.01
『デスラー』・・・『ドンバ』

同じような植物が写っていたり。

604日本@名無史さん2020/01/02(木) 04:01:57.07
立てられている松の木、灯篭w
あとシダ類、オジギソウ・・・、そういう植物。


デスラーの温泉のシーン。

605日本@名無史さん2020/01/02(木) 04:05:27.01
創価か何か・・・、日何やら宗とか、そういう類。

606日本@名無史さん2020/01/02(木) 04:15:24.05
家自体(自身)・・・創価ではないと言っているしw
どういうことなんだろう。

607日本@名無史さん2020/01/02(木) 04:19:29.12
創価、日なにやら宗?だから、何も知らないとか。

608日本@名無史さん2020/01/02(木) 04:30:19.42
皇国何やらとか言っている人間(団体など)自体、
創価か何か?部落?なんだろうという話。

609日本@名無史さん2020/01/02(木) 04:41:09.75
『紫』調べてみた?

『ドンバ』
河伯、日本では河童、そういう話になるでしょ、話が出てくる。
なぜだと思う?

610日本@名無史さん2020/01/02(木) 04:56:20.01
実際は道教、仙術・・・みたいな話ばかりでしょ、天帝が〜とか。

『ドンバ 仙人』なぜ詳しいんだと思う?


『鳳輿』
家は、このような名前の家なんだけど。

611日本@名無史さん2020/01/02(木) 05:13:06.41
何々(不明)を作りたいんですけど、
作っても良いですか?など、許可くらい取りに来たほうが良いと言っているんだよ、家にw


だから無断でやっているんだろう?または家の成り済まし、騙りがいるとか。

612日本@名無史さん2020/01/02(木) 05:17:02.29
国内(日本)の話w


家まで来いと言っているんだよ、
どこの成り済まし、騙りなのか知らないけど。

企業なども同じ、
勝手(無断)にやっているわけではないんだろう。

613日本@名無史さん2020/01/02(木) 05:42:36.69
許可を取ってからにしろと言っているだけ。
挨拶くらいするとか。

>天帝〜造物主、創造神。

聖造・・・寒いな〜の家の話、傾いた松の木。
なぜ知っているの、知っていたんだろう?となるでしょ。

614日本@名無史さん2020/01/02(木) 06:38:19.22
>>535
脳がオウム並みに退化してオウム返しをされるばかりになった、
「南→東」などの嘘吐き騙しの、
・・・・アホ詐欺師の大和説

615日本@名無史さん2020/01/02(木) 06:41:53.99
>>538の訂正
歴史的には、倭国は唐会要倭國伝の「正北抵新羅」によって北部九州に中心があり、
倭国は「自昔・・・東征毛人五十五國」などに拠って、
南九州〜瀬戸内〜近畿〜東海〜南関東を征服し、
大和は倭國の別種同族の旧小国であり、
白村江の後で母国の九州倭国を併合吸継承した。

616日本@名無史さん2020/01/02(木) 06:46:27.78
>>551の訂正
そんなことしたら詐欺でしょ
「会稽東治」とは「会稽の東方の治の地」なんだし
会稽の東なら会稽郡の中では無いし
「揚子江河口の南北海岸地域」なら「会稽東治」そのモノだもの

陳寿は詐欺師ではないので
大和説がインチキだな

617日本@名無史さん2020/01/02(木) 06:47:00.63
>>614
>脳がオウム並みに退化してオウム返しをされるばかりになった、

どんな知能の高い人の言葉だってオウム返しするよ
脳がオウム並みで内容の理解できない九州説老人ならな

618日本@名無史さん2020/01/02(木) 06:54:25.26
>>616
>「会稽東治」とは「会稽の東方の治の地」なんだし

そんなものは実在しないし
そんな言葉が使われた事例もない
九州説ならではの捏造詐欺だよ

>会稽の東なら会稽郡の中では無いし

会稽の東は海までずっと、会稽郡の土地しか無い
九州説が歴史も地理も捏造報して詐欺しようとしても
誰も騙せない
九州説の信用がまた落ちるだけだ

>「揚子江河口の南北海岸地域」なら「会稽東治」そのモノだもの

デタラメは通用しない
そこは会稽ではないし
会稽の東ですらない

会稽の北にある呉郡と徐州の広陵郡だ
九州説が詐欺しようとしても
誰も騙せない
誰ひとり九州説信者ほど馬鹿ではないから

619日本@名無史さん2020/01/02(木) 06:54:49.23
邪馬台国畿内説を宣伝している、朝鮮民族の、頭の悪いプロ固定が、日本人に悪口を言い放ってまで、スレッドを活発化する目的は、何だろうか、、、

620日本@名無史さん2020/01/02(木) 06:56:16.44
620

621日本@名無史さん2020/01/02(木) 06:57:26.77
若者達は、夜更かしや朝寝坊が、好きなのだったな。

622日本@名無史さん2020/01/02(木) 06:58:07.12
>>560の訂正
途中に吉備、出雲もあり、吉備は同時代の大和より巨大な前方後円墳を持ってたりする。
九州倭国は、それらを「東征毛人五十五國」で平らげながら、
更に近江東海南関東という一大物流集積地まで攻め上り、更に平定するのは、
発掘結果から見られる当時の大和の力では無理ではないか。

九州倭国の別種分家の大和が、九州倭国と肩を並べる事が出来るようになるのは、
早くて扶桑國の5世紀であり、
遅ければ継体の乱、更に遅ければ白村江前後までに、に、なり得る。

623日本@名無史さん2020/01/02(木) 06:58:54.88
おせち料理は、飽きたな。

624日本@名無史さん2020/01/02(木) 07:01:15.28
まあ、九州説がいかにインチキ重ねて会稽東治の位置を捏造しても無駄なんだよ
せいぜい鹿児島県南部までで、それ以上は無理だからね
九州説が成り立つ余地はゼロだ

625日本@名無史さん2020/01/02(木) 07:02:36.45
>>623
ホットケーキを焼いているのだな。

626日本@名無史さん2020/01/02(木) 07:03:34.15
>>622
>吉備は同時代の大和より巨大な前方後円墳を持ってたりする。

ニセ情報
同時代は常に畿内が上

627日本@名無史さん2020/01/02(木) 07:03:55.00
会稽東治は、良渚城の東だったね。

628日本@名無史さん2020/01/02(木) 07:05:15.15
>>562
>伝承があったという証拠は?
BC5Cに渡来した段階で呉王夫差は「ゴオウフサ」とは発音してないはずだが、
漢字の記録なしで何で呉王夫差だと分かったの?<

海に入りて逃亡した公子忌らは、当然漢字が使え、
自分らの親族の名前や部下の「大夫」などの職名を記録する事が出来たの。

629日本@名無史さん2020/01/02(木) 07:06:39.83
卑弥呼が死体になった50年後に、初めて前方後円墳が出現したのだったな。

630日本@名無史さん2020/01/02(木) 07:09:26.66
>>625
組み合わせは、生クリームと苺が良いね。

631日本@名無史さん2020/01/02(木) 07:09:27.87
>>569
>神明造で棟持柱をもつ建物が弥生中期くらいから古墳時代前期に
九州北部からはじまり東日本まで広く作られる
これが九州北部に上陸した稲作中心の倭国の祭祀建物
長江の南側から東南アジアに分布する<

ふーん。

632日本@名無史さん2020/01/02(木) 07:10:40.42
紅茶があるのだったな。

633日本@名無史さん2020/01/02(木) 07:12:36.68
会稽東治の、東北でもなく、東南でもない、正に東の対岸は、九州なのだったね。

634日本@名無史さん2020/01/02(木) 07:13:41.59
若者達も、目が覚めたのではないのかな。

635日本@名無史さん2020/01/02(木) 07:18:01.35
>>574
>早いのは近畿のほうが早い <

近畿は元は出雲銅鐸祭祀部族系であったから、確かに古い可能性はあるが、
九州倭国の東征毛人五十五國で、出雲系が九州倭国に征服されたのであるから、
九州と近畿に共通する建築様式は、やはり、九州の方が早い。

636日本@名無史さん2020/01/02(木) 07:18:25.25
新年早々論破されて発狂した九州説が
朝っぱらから妄想を呟き始めた
人として終わってるな

637日本@名無史さん2020/01/02(木) 07:19:11.03
>>635
九州説は常に理由が妄想

638日本@名無史さん2020/01/02(木) 07:26:05.25
>>600
こうして毎日
「南→東」などの嘘吐き騙しの・・・・アホ詐欺師の大和説が、
論破されて発狂する
というパターンは今年も続く

639日本@名無史さん2020/01/02(木) 07:29:46.03
>>638
畿内説が論破されたとか妄想を呟きはじめたら
危険な状態だね

640日本@名無史さん2020/01/02(木) 07:49:17.55
九州説は嘘をつくことが平気になってる人ばかりのようだ、

641日本@名無史さん2020/01/02(木) 07:50:12.06
キナイコシは無職で危険な状態だな

642日本@名無史さん2020/01/02(木) 07:53:48.80
>>641
それが「畿内説は一人しかいない」って妄想からきた妄想上妄想なんだから、あんたカナーリ危険な状態だよ

643日本@名無史さん2020/01/02(木) 08:05:43.58
いい加減に気づいているだろう。

キャプテン・ネモ?浦島太郎、宇宙戦艦・・・七福神など。

『姥清水』調べてみた?

644日本@名無史さん2020/01/02(木) 08:09:25.50
数年前の陰謀スレw

「(神様の)真似なんてしているから、こんな事になってしまった」
と言っている人がいたり。家の真似をしている、していたという話でしょ?

鳳輿、長い竿・・・という名前の家なんだけど、傾いた松の木。

645日本@名無史さん2020/01/02(木) 08:19:22.73
キナイコシは無職
これは事実であって悪口ではありません

646日本@名無史さん2020/01/02(木) 08:31:13.12
『天財若子』〜確実に『鳳輿』この家の話。

うらしま太郎など・・・、ほとんど仮名、キャラクター名でしょ。

647日本@名無史さん2020/01/02(木) 08:34:35.13
 なぜ九州説はいつも発狂するのだろう
 理由はわかってるよね
 論破されるからだよ

648日本@名無史さん2020/01/02(木) 08:48:16.78
キナイコシは無職の負け組

649日本@名無史さん2020/01/02(木) 08:49:20.57
>>624
まあ、大和説がいかにインチキ重ねて会稽東治の位置を、
沖縄や台湾に捏造しても無駄なんだよ
せいぜい鹿児島県南部までで、それ以上は無理だからね
大和説が成り立つ余地はゼロだ

650日本@名無史さん2020/01/02(木) 08:49:45.39
何やらという職、某何位とか、関係ない。
そもそも、もともと、そういうもを超越しているし。

651日本@名無史さん2020/01/02(木) 08:55:20.10
>>649
>まあ、大和説がいかにインチキ重ねて会稽東治の位置を、
>沖縄や台湾に捏造しても

中国でも昔から定説だぞ
九州説は世界の孤児

652日本@名無史さん2020/01/02(木) 08:56:17.34
>>626
>>吉備は同時代の大和より巨大な前方後円墳を持ってたりする。<

>ニセ情報 同時代は常に畿内が上<

ニセ情報
「畿内」なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であり、
吉備と大和と河内は、同じ東征毛人五十五國で出来た国同士であったとしても、
一応別国だ。

653日本@名無史さん2020/01/02(木) 09:00:07.77
>>652
ちゃんとニセ情報と断ってから流すなんて
九州説にしては善良だね

654日本@名無史さん2020/01/02(木) 09:00:22.68
>>636
新年早々論破されて発狂した「南→東」などの嘘つき騙しの大和説が
朝っぱらから、また妄想を呟き始めた
人として終わってるな

655日本@名無史さん2020/01/02(木) 09:02:09.50
>>637
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの・・・・アホ詐欺の大和説は、
常に理由が妄想

656日本@名無史さん2020/01/02(木) 09:02:26.26
もはや九州説に出来るのはサルマネ
ウソつき
オウム返し

人間やめてますね

657日本@名無史さん2020/01/02(木) 09:04:59.34
『もののけ姫』は何なんだろう。神殺し?

658日本@名無史さん2020/01/02(木) 09:06:03.24
なぜか、創価か何かなんだろう?みたいな話ばかりだし。

659日本@名無史さん2020/01/02(木) 09:06:55.15
陳寿本人が、自分の書いた行程どおり計算すると倭が沖縄・台湾あたりくらい南になると書いてるんだから
短里説は塵となって消え
九州説は崩壊だね

660ティオ ◆Sn73NeuvUQ 2020/01/02(木) 09:07:13.34
倭国の使者の服装を見れば、畿内説はありえないということがわかる

661日本@名無史さん2020/01/02(木) 09:07:59.68
>>198 なるほど

662日本@名無史さん2020/01/02(木) 09:09:50.19
>>660
理由の言えない九州説
説じゃないのは明白

663日本@名無史さん2020/01/02(木) 09:10:14.23
老婆が言うには

むかーし、泥棒のようなものに入られた?とか、
たしかに・・・何か?と同じような話だしな。

664日本@名無史さん2020/01/02(木) 09:15:26.90
>>197

帯方郡
↓↓
↓東治=投馬国(宮崎)
↓↓奄美大島「水行十日」
↓↓580q「陸行一月」
東冶(12,000里)=倭国女王之所都

中国大陸における道里の、倭列島への転用か!

665日本@名無史さん2020/01/02(木) 09:19:33.88
九州説は印象論ばかりで論理がないね

666日本@名無史さん2020/01/02(木) 09:20:03.86
>>664

「計其道里當在会稽東治之東」

会稽東治(江蘇省宿遷市宿城区)と同じ緯度(北緯33度56分〜58分)に女王国(阿波)がある。

中国史年表220 二世皇帝一 陳勝・呉広挙兵 前209年(前)

下相(現在の宿遷市)の人の項梁は会稽郡守の慇通を殺し、甥の項羽と共に呉で挙兵する。

項梁、項羽は会稽郡の役所があった所の実力者であった。

すなわち、宿遷市宿城区(下相)に、文献上は会稽の治所があったことがわかる。

「項羽の故里、下相城の遺跡を江蘇省で発見」   @阿波

http://japanese.china.org.cn/japanese/231067.htm

667日本@名無史さん2020/01/02(木) 09:22:44.25
邪馬台国の最盛期の領土は沖縄あたりまであった
日本語と沖縄のことばの類似性的に自然

668日本@名無史さん2020/01/02(木) 09:23:00.02
>>664
責められた時に根拠付けながら忖度する陳寿は天才だな。
記紀による後付け地名で「畿内(694藤原京〜)」説という妄想まで生んでしまったがw

669日本@名無史さん2020/01/02(木) 09:23:46.27
刺青の風習
倭国と日本は別種

670日本@名無史さん2020/01/02(木) 09:27:31.32
>>639
>畿内説が論破されたとか妄想を呟きはじめたら
危険な状態だね<

そうだね。
昨年は、私の身辺にも不穏な兆候が発生していたし、
5chも、私の投稿をしょっちゅう×にして来ているから、かなり頭に来ているようであるし、
まあ、播磨地域で後期高齢を狙った変なテロが発生したら、そりゃ、
類スレ主らのアジテーション大和指示で動いた極右の・・・・チンピラなんだろう、
と推定しておいてくださいね。

671日本@名無史さん2020/01/02(木) 09:29:35.37
>>664

「計其道里當在会稽東治之東」

会稽東治(江蘇省宿遷市宿城区)と同じ緯度(北緯33度56分〜58分)に女王国(阿波)がある。

中国史年表220 二世皇帝一 陳勝・呉広挙兵 前209年(前)

下相(現在の宿遷市)の人の項梁は会稽郡守の慇通を殺し、甥の項羽と共に呉で挙兵する。

項梁、項羽は会稽郡の役所があった所の実力者であった。

すなわち、宿遷市宿城区(下相)に、文献上は会稽の治所があったことがわかる。

「項羽の故里、下相城の遺跡を江蘇省で発見」   @阿波

http://japanese.china.org.cn/japanese/231067.htm

672日本@名無史さん2020/01/02(木) 09:34:45.06
>>640
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者は、
嘘をつくことが平気になって、狂暴なテロを起こしかねないような、
危険な人ばかりのようだ。

673日本@名無史さん2020/01/02(木) 09:34:56.90
>>671
>下相(現在の宿遷市)の人の項梁は会稽郡守の慇通を殺し、甥の項羽と共に呉で挙兵する。

下相の生まれで後に会稽に引っ越しただけ

674日本@名無史さん2020/01/02(木) 09:38:12.62
>>673

下相城は項羽の故郷

始皇帝の死後、会稽郡守の殷通は反乱を起こすために

櫟陽(西安市)に住んでいた項梁を招き寄せた

項梁は項羽を呼び寄せ、項羽が殷通を殺した

だって。   @阿波

675日本@名無史さん2020/01/02(木) 09:46:11.66
泥棒のようなものに入られた・・・・、
子供を逃した?脱出させたという話。

なぜか他の国の話と同じ。

676日本@名無史さん2020/01/02(木) 09:51:16.19
>>647
なぜ大和説はいつも発狂するのだろう。
 理由はわかってるよね。
「南≠東」という動かしがたい証拠のために、
論破されたからだよ。

677日本@名無史さん2020/01/02(木) 09:56:26.96
みつばちハッチ?

678日本@名無史さん2020/01/02(木) 10:07:44.54
>>451
>>まあ、大和説がいかにインチキ重ねて会稽東治の位置を、沖縄や台湾に捏造しても<

>中国でも昔から定説だぞ<

いや、陳寿の3世紀から、倭国は九州が定説であり、
中世のアホ学者が、沖縄に15万戸なんて済む事も出来ない、という事も判らず、
変な地図を空想しただけだ。

>九州説は世界の孤児<

「南→東」などの嘘つき騙しをした大和説は、
中国学者や世界の学者らからも孤児であり、
国民の7割からも孤児。
残りの3割は、学会教育界や安部文科省や右翼マスコミの騙され、
丸め込まれたアホ。

679日本@名無史さん2020/01/02(木) 10:12:29.73
>>656
もはや「南→東」などの嘘つき騙しの大和説に出来るのは、
安部文科省や右翼学会教育界や皇国史観極右マスコミなどのサルマネ
ウソつき
オウム返し

人間やめてますね

680日本@名無史さん2020/01/02(木) 10:13:19.51
>>674
だから下相は会稽郡治と無関係

681日本@名無史さん2020/01/02(木) 10:14:35.01
>>659
陳寿本人が、自分の書いた行程どおり計算すると、
倭がほぼ九州島あたりくらいになると書いてるんだから
長里説は塵となって消え
大和説も崩壊だね

682日本@名無史さん2020/01/02(木) 10:16:25.88
>>662
「南→東」などの嘘つき騙しの理由の言えない大和説
説じゃないのは明白

683日本@名無史さん2020/01/02(木) 10:17:54.42
もう九州説は口汚なく意味不明な怒号を垂れ流すだけになったな
勝負はついたようだ

684日本@名無史さん2020/01/02(木) 10:19:27.44
ガンダムの・・・?

685日本@名無史さん2020/01/02(木) 10:19:33.67
>>681
>陳寿本人が、自分の書いた行程どおり計算すると、
>倭がほぼ九州島あたりくらいになると書いてるんだから

それは妄想
沖縄・台湾あたりくらい南というのが昔から中国でも定説だ

686日本@名無史さん2020/01/02(木) 10:21:26.05
ガンダムのサングラス

687日本@名無史さん2020/01/02(木) 10:21:30.57
>>682
>「南→東」などの嘘つき騙しの理由の言えない大和説

嘘だって理由が言えないなら九州説惨めに敗北でしょ

688日本@名無史さん2020/01/02(木) 10:24:04.19
>>680

下相城は項羽の故郷

始皇帝の死後、会稽郡守の殷通は反乱を起こすために

櫟陽(西安市)に住んでいた項梁を招き寄せた

項梁は項羽を呼び寄せ、項羽が殷通を殺した

だって。   @阿波

689日本@名無史さん2020/01/02(木) 10:27:02.38
>>688
つまり下相は会稽とは無関係だな

690日本@名無史さん2020/01/02(木) 10:31:11.17
江南から来た来た詐欺のサギサギチンコロが顔面に風穴を開けられた瞬間


589日本@名無史さん2020/01/02(木) 02:07:18.22
>>570
いや、江南の話だが。

江南の高床式「住居」は5000年前にはほとんど消滅している。
その頃の江南の住居はすでに「木骨泥墻」(もっこつでいしょう)。
江南から真っ先に伝わるべきは木骨泥墻のはずである。
つまり古代日本に高床式「倉庫」を伝えた地域は江南ではありえないという事。
弥生人が江南から来たなら木骨泥墻が伝わるはずだし、仮に高床式「倉庫」が
江南から伝わったものなら、なぜ列島に伝わった途端に住居利用しなくなるのか
全く説明がつかない。


>私が見たものでは高床建物を出す遺跡は右の二つだけで、あとは全部「木骨泥墻」を
>出すものでした。陰湘城がすでに述べたように木骨泥墻ですし、その東にある石家河遺跡が
>やはり木骨泥墻です。この遺跡は陰湘城と同じように環濠集落なのですが、はるかに巨大です。
>壕の長径は1.5キロメートルに達します。これはもう村というより都市だとされています。
>時代は石家河文化時代(前2600〜2000年)です。右の情報を横並べにしてみると、
>次のようになります。

>  @河姆渡第3〜第4期(前5000〜前4000年)
>     ロングハウス式高床建物
>  A屈家ュ期(前3000〜前2600年)
>     木骨泥墻・環濠村
>  B石家河期(前2600〜前2000年)
>     木骨泥墻・環濠都市
http://www.kyoto-up.or.jp/jp/authorsessay01.html

691日本@名無史さん2020/01/02(木) 10:31:29.57
>>689
>つまり下相は会稽とは無関係だな


つまり下相は、会稽と関係が非常に強いといえる。  わははははは   @阿波

692日本@名無史さん2020/01/02(木) 10:31:42.79
江南から来た来た詐欺のサギサギチンコロが顔面に風穴を開けられた瞬間


589日本@名無史さん2020/01/02(木) 02:07:18.22
>>570
いや、江南の話だが。

江南の高床式「住居」は5000年前にはほとんど消滅している。
その頃の江南の住居はすでに「木骨泥墻」(もっこつでいしょう)。
江南から真っ先に伝わるべきは木骨泥墻のはずである。
つまり古代日本に高床式「倉庫」を伝えた地域は江南ではありえないという事。
弥生人が江南から来たなら木骨泥墻が伝わるはずだし、仮に高床式「倉庫」が
江南から伝わったものなら、なぜ列島に伝わった途端に住居利用しなくなるのか
全く説明がつかない。


>私が見たものでは高床建物を出す遺跡は右の二つだけで、あとは全部「木骨泥墻」を
>出すものでした。陰湘城がすでに述べたように木骨泥墻ですし、その東にある石家河遺跡が
>やはり木骨泥墻です。この遺跡は陰湘城と同じように環濠集落なのですが、はるかに巨大です。
>壕の長径は1.5キロメートルに達します。これはもう村というより都市だとされています。
>時代は石家河文化時代(前2600〜2000年)です。右の情報を横並べにしてみると、
>次のようになります。

>  @河姆渡第3〜第4期(前5000〜前4000年)
>     ロングハウス式高床建物
>  A屈家ュ期(前3000〜前2600年)
>     木骨泥墻・環濠村
>  B石家河期(前2600〜前2000年)
>     木骨泥墻・環濠都市
http://www.kyoto-up.or.jp/jp/authorsessay01.html

693日本@名無史さん2020/01/02(木) 10:31:57.12
江南から来た来た詐欺のサギサギチンコロが顔面に風穴を開けられた瞬間


589日本@名無史さん2020/01/02(木) 02:07:18.22
>>570
いや、江南の話だが。

江南の高床式「住居」は5000年前にはほとんど消滅している。
その頃の江南の住居はすでに「木骨泥墻」(もっこつでいしょう)。
江南から真っ先に伝わるべきは木骨泥墻のはずである。
つまり古代日本に高床式「倉庫」を伝えた地域は江南ではありえないという事。
弥生人が江南から来たなら木骨泥墻が伝わるはずだし、仮に高床式「倉庫」が
江南から伝わったものなら、なぜ列島に伝わった途端に住居利用しなくなるのか
全く説明がつかない。


>私が見たものでは高床建物を出す遺跡は右の二つだけで、あとは全部「木骨泥墻」を
>出すものでした。陰湘城がすでに述べたように木骨泥墻ですし、その東にある石家河遺跡が
>やはり木骨泥墻です。この遺跡は陰湘城と同じように環濠集落なのですが、はるかに巨大です。
>壕の長径は1.5キロメートルに達します。これはもう村というより都市だとされています。
>時代は石家河文化時代(前2600〜2000年)です。右の情報を横並べにしてみると、
>次のようになります。

>  @河姆渡第3〜第4期(前5000〜前4000年)
>     ロングハウス式高床建物
>  A屈家ュ期(前3000〜前2600年)
>     木骨泥墻・環濠村
>  B石家河期(前2600〜前2000年)
>     木骨泥墻・環濠都市
http://www.kyoto-up.or.jp/jp/authorsessay01.html

694日本@名無史さん2020/01/02(木) 10:32:28.98
江南から来た来た詐欺のサギサギチンコロが顔面に風穴を開けられた瞬間


589日本@名無史さん2020/01/02(木) 02:07:18.22
>>570
いや、江南の話だが。

江南の高床式「住居」は5000年前にはほとんど消滅している。
その頃の江南の住居はすでに「木骨泥墻」(もっこつでいしょう)。
江南から真っ先に伝わるべきは木骨泥墻のはずである。
つまり古代日本に高床式「倉庫」を伝えた地域は江南ではありえないという事。
弥生人が江南から来たなら木骨泥墻が伝わるはずだし、仮に高床式「倉庫」が
江南から伝わったものなら、なぜ列島に伝わった途端に住居利用しなくなるのか
全く説明がつかない。


>私が見たものでは高床建物を出す遺跡は右の二つだけで、あとは全部「木骨泥墻」を
>出すものでした。陰湘城がすでに述べたように木骨泥墻ですし、その東にある石家河遺跡が
>やはり木骨泥墻です。この遺跡は陰湘城と同じように環濠集落なのですが、はるかに巨大です。
>壕の長径は1.5キロメートルに達します。これはもう村というより都市だとされています。
>時代は石家河文化時代(前2600〜2000年)です。右の情報を横並べにしてみると、
>次のようになります。

>  @河姆渡第3〜第4期(前5000〜前4000年)
>     ロングハウス式高床建物
>  A屈家ュ期(前3000〜前2600年)
>     木骨泥墻・環濠村
>  B石家河期(前2600〜前2000年)
>     木骨泥墻・環濠都市
http://www.kyoto-up.or.jp/jp/authorsessay01.html

695日本@名無史さん2020/01/02(木) 10:32:48.12
江南から来た来た詐欺のサギサギチンコロが顔面に風穴を開けられた瞬間


589日本@名無史さん2020/01/02(木) 02:07:18.22
>>570
いや、江南の話だが。

江南の高床式「住居」は5000年前にはほとんど消滅している。
その頃の江南の住居はすでに「木骨泥墻」(もっこつでいしょう)。
江南から真っ先に伝わるべきは木骨泥墻のはずである。
つまり古代日本に高床式「倉庫」を伝えた地域は江南ではありえないという事。
弥生人が江南から来たなら木骨泥墻が伝わるはずだし、仮に高床式「倉庫」が
江南から伝わったものなら、なぜ列島に伝わった途端に住居利用しなくなるのか
全く説明がつかない。


>私が見たものでは高床建物を出す遺跡は右の二つだけで、あとは全部「木骨泥墻」を
>出すものでした。陰湘城がすでに述べたように木骨泥墻ですし、その東にある石家河遺跡が
>やはり木骨泥墻です。この遺跡は陰湘城と同じように環濠集落なのですが、はるかに巨大です。
>壕の長径は1.5キロメートルに達します。これはもう村というより都市だとされています。
>時代は石家河文化時代(前2600〜2000年)です。右の情報を横並べにしてみると、
>次のようになります。

>  @河姆渡第3〜第4期(前5000〜前4000年)
>     ロングハウス式高床建物
>  A屈家ュ期(前3000〜前2600年)
>     木骨泥墻・環濠村
>  B石家河期(前2600〜前2000年)
>     木骨泥墻・環濠都市
http://www.kyoto-up.or.jp/jp/authorsessay01.html

696日本@名無史さん2020/01/02(木) 10:33:12.30
江南から来た来た詐欺のサギサギチンコロが顔面に風穴を開けられた瞬間


589日本@名無史さん2020/01/02(木) 02:07:18.22
>>570
いや、江南の話だが。

江南の高床式「住居」は5000年前にはほとんど消滅している。
その頃の江南の住居はすでに「木骨泥墻」(もっこつでいしょう)。
江南から真っ先に伝わるべきは木骨泥墻のはずである。
つまり古代日本に高床式「倉庫」を伝えた地域は江南ではありえないという事。
弥生人が江南から来たなら木骨泥墻が伝わるはずだし、仮に高床式「倉庫」が
江南から伝わったものなら、なぜ列島に伝わった途端に住居利用しなくなるのか
全く説明がつかない。


>私が見たものでは高床建物を出す遺跡は右の二つだけで、あとは全部「木骨泥墻」を
>出すものでした。陰湘城がすでに述べたように木骨泥墻ですし、その東にある石家河遺跡が
>やはり木骨泥墻です。この遺跡は陰湘城と同じように環濠集落なのですが、はるかに巨大です。
>壕の長径は1.5キロメートルに達します。これはもう村というより都市だとされています。
>時代は石家河文化時代(前2600〜2000年)です。右の情報を横並べにしてみると、
>次のようになります。

>  @河姆渡第3〜第4期(前5000〜前4000年)
>     ロングハウス式高床建物
>  A屈家ュ期(前3000〜前2600年)
>     木骨泥墻・環濠村
>  B石家河期(前2600〜前2000年)
>     木骨泥墻・環濠都市
http://www.kyoto-up.or.jp/jp/authorsessay01.html

697日本@名無史さん2020/01/02(木) 10:33:40.58
江南から来た来た詐欺のサギサギチンコロが顔面に風穴を開けられた瞬間


589日本@名無史さん2020/01/02(木) 02:07:18.22
>>570
いや、江南の話だが。

江南の高床式「住居」は5000年前にはほとんど消滅している。
その頃の江南の住居はすでに「木骨泥墻」(もっこつでいしょう)。
江南から真っ先に伝わるべきは木骨泥墻のはずである。
つまり古代日本に高床式「倉庫」を伝えた地域は江南ではありえないという事。
弥生人が江南から来たなら木骨泥墻が伝わるはずだし、仮に高床式「倉庫」が
江南から伝わったものなら、なぜ列島に伝わった途端に住居利用しなくなるのか
全く説明がつかない。


>私が見たものでは高床建物を出す遺跡は右の二つだけで、あとは全部「木骨泥墻」を
>出すものでした。陰湘城がすでに述べたように木骨泥墻ですし、その東にある石家河遺跡が
>やはり木骨泥墻です。この遺跡は陰湘城と同じように環濠集落なのですが、はるかに巨大です。
>壕の長径は1.5キロメートルに達します。これはもう村というより都市だとされています。
>時代は石家河文化時代(前2600〜2000年)です。右の情報を横並べにしてみると、
>次のようになります。

>  @河姆渡第3〜第4期(前5000〜前4000年)
>     ロングハウス式高床建物
>  A屈家ュ期(前3000〜前2600年)
>     木骨泥墻・環濠村
>  B石家河期(前2600〜前2000年)
>     木骨泥墻・環濠都市
http://www.kyoto-up.or.jp/jp/authorsessay01.html

698日本@名無史さん2020/01/02(木) 10:37:23.73
>>689
>つまり下相は会稽とは無関係だな


つまり下相は、会稽と関係が非常に強いといえる。  わははははは   @阿波

699日本@名無史さん2020/01/02(木) 10:38:53.52
>>664
>帯方郡
↓↓
↓東治=投馬国(宮崎)
↓↓奄美大島「水行十日」
↓↓580q「陸行一月」
東冶(12,000里)=倭国女王之所都<

不彌國や邪馬壹國女王之所都で、「萬二千余里」がほぼ終わっており、
「水行十日陸行一月」は、その直前の「女王之所都」の説明文になり、
だから「郡〜女王之所都」の日数説明になるから、
奄美大島や東冶は×。

>中国大陸における道里の、倭列島への転用か!<

陳寿の「女王国の位置推定」はほぼ九州島付近であり、
東冶説は×。

700日本@名無史さん2020/01/02(木) 10:39:52.32
>>691
>つまり下相は、会稽と関係が非常に強いといえる。  

故郷にいられなくなった項梁が逃亡先に選ぶ程度にはな

701日本@名無史さん2020/01/02(木) 10:40:38.96
>>665
>九州説は印象論ばかりで論理がないね<

「南→東」などの嘘つき騙しの大和説は、
印象論ばかりで、論理がないね。

702日本@名無史さん2020/01/02(木) 10:41:31.19
沖縄はもともと琉球王国という国で、当時の琉球王国には日本の主権が及んでいなかったからその琉球王国を前身に持つ現在の沖縄は日本固有の領土ではない。

703日本@名無史さん2020/01/02(木) 10:43:38.52
>>699
>陳寿の「女王国の位置推定」はほぼ九州島付近であり、
>東冶説は×。

「オレ様の新説が絶対正しいから通説は×」
という論法を使い続ける限り
九州説は永遠に非学問のマイナー説だよ

704日本@名無史さん2020/01/02(木) 10:46:07.89
それよりも【七 福 神 の 由 来】


『いざなみ、いざなぎの二神の第三子』

・・・・・・・・・・・・ガンダムで例えると、サングラス?

705日本@名無史さん2020/01/02(木) 10:54:26.33
>>667
>邪馬台国の最盛期の領土は沖縄あたりまであった
日本語と沖縄のことばの類似性的に自然 <

邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であり、
大和説者が大和を匂わせるための詐術的な文言。
また、沖縄は当然東テイ人地域の一部であったのであり、
南九州の東テイ人は、後漢の最末年に後漢に遣使をして「序に就いた」記録を最後に、
記録が消失した部族であり、
卑弥呼の頃に、九州倭国の伊都国系の阿毎氏らの景行らに拠って、討伐されて、
倭国の支配下になって投馬國と呼ばれていた可能性が高い。
つまり、沖縄は、東テイ人の残存地域。

706日本@名無史さん2020/01/02(木) 10:58:44.25
>>670の訂正。PCの調子が相変わらず悪い。
>畿内説が論破されたとか妄想を呟きはじめたら
危険な状態だね<

そうだね。
昨年は、私の身辺にも不穏な兆候が発生していたし、
5chも、私の投稿をしょっちゅう×にして来ているから、かなり頭に来ているようであるし、
まあ、播磨地域で後期高齢を狙った変なテロが発生したら、そりゃ、
類スレ主らのアジテーションや指示で動いた極右の・・・・チンピラなんだろう、
と推定しておいてくださいね。

707日本@名無史さん2020/01/02(木) 11:00:56.53
>>705
そもそも倭国(現在の日本本土)と琉球王国(現在の沖縄)はもともと別の国だったから日本人と琉球人(沖縄人)は人種も民族も異なる。

708日本@名無史さん2020/01/02(木) 11:03:41.19
>>683
もう「南→東」などの嘘つき騙しがバレた大和説は、
口汚なく意味不明な怒号を垂れ流すだけになったな
勝負はついたようだ

709日本@名無史さん2020/01/02(木) 11:04:38.27
老婆談・・・なぜ詳しいんだろう。
泥棒のようなものに入られた(不明)・・・脱出、子供を逃がした、みつばちハッチ?

710日本@名無史さん2020/01/02(木) 11:04:53.05
沖縄県民の91%は湯船につからない(シャワーで済ます)
https://ryukyushimpo...s/entry-1051262.html

711日本@名無史さん2020/01/02(木) 11:10:37.34
>>685
>>陳寿本人が、自分の書いた行程どおり計算すると、
倭がほぼ九州島あたりくらいになると書いてるんだから<

>それは妄想
沖縄・台湾あたりくらい南というのが昔から中国でも定説だ<

それは、「定説」でもなんでもなく、
後代史家や地図学者が、短里を知らなかったために、
陳寿の倭国の位置説明が理解出来ず、妥協的な位置に記載した、というだけだ。

712日本@名無史さん2020/01/02(木) 11:14:26.67
琉球王国時代の庶民の家には仏壇はないし、墓もない。
位牌のある祭祀があり、墓があるのは士族だけ。
それに仏壇というが 沖縄では人が死んだら仏にはならない。
沖縄では人が死ぬと神としてまつる。
だから位牌は赤く名前は金色の文字を刻む。
沖縄で仏壇と言うようになったのは明治政府による琉球併合以降であり「ブチダン」となまる。
また、沖縄は日本本土と違い仏教ではない。
沖縄は中国から伝わった道教をもとにした祖先崇拝である。
沖縄は何もかもが日本本土とは違う。
なぜなら沖縄はもともと琉球王国という日本の主権が及ばない異国だったから。
だからその琉球王国を前身に持つ現在の沖縄は日本固有の領土とは言えない。

@沖縄県那覇市首里 琉球史研究家

713日本@名無史さん2020/01/02(木) 11:15:14.37
>>687
>>「南→東」などの嘘つき騙しの理由の言えない大和説<

>嘘だって理由が言えないなら九州説惨めに敗北でしょ<

正常な成人人類は、東西南北はほぼ間違えない、という事は人類全体の常識であり、
それが判らないのなら、大和説は惨めな敗北でしょ。

714日本@名無史さん2020/01/02(木) 11:18:01.42
日本政府は「尖閣諸島は沖縄県に属する」と説明している。
であるなら日本政府は「沖縄は日本固有の領土」と主張するべきだが、沖縄はもともと琉球王国が統治していた地域だから日本政府は誰一人として「沖縄は日本固有の領土」とは言えない。

@沖縄県那覇市首里 琉球史研究家

715日本@名無史さん2020/01/02(木) 11:22:05.34
>>700
>故郷にいられなくなった項梁が逃亡先に選ぶ程度にはな


項梁は、櫟陽(西安市)に住んでいた。

つまり下相は、会稽と関係が非常に強いといえる。  わははははは   @阿波  

716日本@名無史さん2020/01/02(木) 11:26:58.29
>>700

下相城は項羽の故郷。   @阿波

717日本@名無史さん2020/01/02(木) 11:30:19.38
>>692
>江南から来た来た詐欺のサギサギチンコロが顔面に風穴を開けられた瞬間<

大和説から来た「南→東」などの嘘つき騙しの詐欺師が、
議論に負けて、
脳がぶち壊れてしまった瞬間。

718日本@名無史さん2020/01/02(木) 11:37:04.34
下相(現在の宿遷市)の人の項梁は会稽郡守の慇通を殺し、甥の項羽と共に呉で挙兵する。

項梁、項羽は会稽郡の役所があった所の実力者であった。

すなわち、宿遷市宿城区(下相)に、文献上は会稽の治所があったことがわかる。   @阿波

719日本@名無史さん2020/01/02(木) 11:38:53.46
「項羽の故里、下相城の遺跡を江蘇省で発見」

http://japanese.china.org.cn/japanese/231067.htm

720日本@名無史さん2020/01/02(木) 11:40:59.04
>>703
>>陳寿の「女王国の位置推定」はほぼ九州島付近であり、 東冶説は×。<

>「オレ様の新説が絶対正しいから通説は×」という論法を使い続ける限り<

「通説」なんて知らん。
史料事実や史料実態からの帰納的高確率的な推論をしているだけだよ。

>九州説は永遠に非学問のマイナー説だよ<

そうか。この男もやはり大和説者であったのか。
しかし、「南→東」などの嘘つき騙しの大和説である限り、
永遠に非学問もマイナー説だよ。

721日本@名無史さん2020/01/02(木) 11:52:05.59
沖縄県庁前のパレットくもじの中にある那覇市歴史博物館と那覇市おもろ町にある沖縄県立博物館はぜひ行くべきだと思う。
そこの史料を見れば、わずか141年前まで沖縄が琉球王国という一つの国だったことがよくわかる。

722日本@名無史さん2020/01/02(木) 11:54:44.68
>>711
>後代史家や地図学者が、短里を知らなかったために、

当然だ
現代日本人の脳内にしか無いものを近世以前の中国人が知るわけない


>陳寿の倭国の位置説明が理解出来ず、妥協的な位置に記載した、というだけだ。

陳寿本人が会稽だと言ってるんだからね
短里など存在しない

723日本@名無史さん2020/01/02(木) 11:55:43.34
>>628



で、その公子忌らが遺したというBC5Cの漢字の記録証拠はどこ?

どこ?どこ?どこ?どこ?どこ?


で、伝承があったという証拠は?


.

724日本@名無史さん2020/01/02(木) 11:57:34.08
昔の中国人が日本列島を会稽東冶之東にあると勘違いしていたことは古い地図を見れば明らか
今更議論するまでもない

725日本@名無史さん2020/01/02(木) 12:00:30.67
さらに、古い地図では畿内は九州の東に描かれている
魏志倭人伝によれば九州から南に行くのだから、
邪馬台国が畿内にあると中国人が考えていなかったことも明らか

726日本@名無史さん2020/01/02(木) 12:07:36.77
>>725
メチヤクチャだな
地図は陳寿より700年以上あとのモノだろ
九州説のひとは時代という感覚がないから歴史研究に向いてないよ

727日本@名無史さん2020/01/02(木) 12:10:42.89
海流があるから会稽東冶から東に進んでも沖縄にはつかないんだよ
高出力のモーターやエンジンがある現代人の感覚で考えすぎている

728日本@名無史さん2020/01/02(木) 12:12:12.21
現実を見られない纏向説は死んだ方がいい
生きていても税金にたかるダニだし、社会に不要

729日本@名無史さん2020/01/02(木) 12:16:03.69
>>722
>>後代史家や地図学者が、短里を知らなかったために、<

>当然だ 現代日本人の脳内にしか無いものを近世以前の中国人が知るわけない<

魏の役人らや魏志や魏略や後漢書や梁書や江表伝などでの記載に存在するんだから、
3世紀に短里が存在した。

>>(後代地図学者が)陳寿の倭国の位置説明が理解出来ず、妥協的な位置に記載した、というだけだ。<

>陳寿本人が会稽だと言ってるんだからね 短里など存在しない <

陳寿本人が「会稽東治之東」と言っているんだから、女王国はほぼ九州島付近であり、
短里も存在した。

730日本@名無史さん2020/01/02(木) 12:16:37.99
前近代の琉球人は日本の倭人よりも中国人との交流が盛んだった。
当時の琉球王国は日本の主権が及ばない主権国家だったから単独で中国と冊封関係を結ぶことができたし朝貢貿易も活発に行われていた。
また、当時の琉球王国は日本に大使館を置いてなかったが、中国の福建省福州市に大使館があった。
現在の沖縄県那覇市久米には中国人を祖先に持つ人が多く住んでおり、その関係で那覇市が福州園という施設も造った。
ちなみに元沖縄県知事の仲井真弘多氏のルーツも中国人で、仲井真氏自身が公言していた。
もちろん、ほとんどの沖縄県民はそのことを知っている。

@沖縄県那覇市首里 琉球史研究家

731日本@名無史さん2020/01/02(木) 12:24:46.29
>>727
>海流があるから会稽東冶から東に進んでも沖縄にはつかないんだよ

だれも会稽東冶から東に進んで沖縄とか言ってないので
あたまがピンぼけ過ぎ

732日本@名無史さん2020/01/02(木) 12:26:21.48
>>729
>魏の役人らや魏志や魏略や後漢書や梁書や江表伝などでの記載に存在するんだから、
>3世紀に短里が存在した。

存在すると漢文の読めない素人が妄想してるだけ

733日本@名無史さん2020/01/02(木) 12:27:55.97
>>729
>陳寿本人が「会稽東治之東」と言っているんだから、女王国はほぼ九州島付近であり、

ありえないね
会稽東治は沖縄・台湾くらい南だもの

734日本@名無史さん2020/01/02(木) 12:41:50.02
>>718
>下相(現在の宿遷市)の人の項梁は会稽郡守の慇通を殺し、甥の項羽と共に呉で挙兵する。
>項梁、項羽は会稽郡の役所があった所の実力者であった。

項梁は楚の最後の大将軍項燕の孫
楚も亡び、項家の領地があった項(今の宿遷)で生まれた項梁も秦の都に近い関中の櫟陽に住んだが、問題を起こして江南に逃げて呉で顔役になった
会稽太守に呼び出されたのは、その後
宿遷と会稽郡は無関係

735日本@名無史さん2020/01/02(木) 12:48:40.62
>>725

本州は南北に描かれている
異人の住む島(九州)は済州島くらいの大きさで横長に
おまけ程度に描かれている

736日本@名無史さん2020/01/02(木) 12:57:09.07
江戸幕府が琉球を異国と位置付けていたことが日本史の教科書に書かれているが、当時の倭人(日本人)と琉球人(沖縄人)はお互い相手が話す言葉を理解できず会話が成り立たないため、手ぶり身ぶりでコミュニケーションを図るしかなかったようだ。
琉球王国第19代国王で最後の国王としても知られる尚泰王も日本語が話せなかったので、日本語が話せる三司官や高級官僚らが江戸幕府と琉球王国の国王の間に入って通訳していたともいわれている。
松山御殿物語(まちやまうどぅんものがたり)という本の中に尚泰王の四男にあたる尚順の日記が紹介されていて、その中に「ヤマトの人が話す日本語はさっぱり意味がわからない」という意味の記述がある。
息子の尚順が日本語を理解できなかったわけだから、その父親である琉球国王の尚泰王が日本語を話せなかったのは容易に想像できる。

@沖縄県那覇市首里 琉球史研究家

737日本@名無史さん2020/01/02(木) 13:02:41.36
ちなみに会稽とは少康の子孫を称する越王が代々都とした今の紹興
越王句践が臥薪嘗胆して呉を征服して併合し、都を呉都姑蘇に移したが、越も楚に滅ぼされ併合された
越の残党は温州の東瓯国や福州のビン越国として残った
その楚が項燕の最後の抵抗もむなしく秦に滅ぼされ併合された
秦は呉と越をまとめて会稽郡とし、郡治は姑蘇に置いた
南方の越諸国も漢によって会稽郡に併合された
後漢になって呉と越は分離し、会稽郡は越だけになった
郡治は会稽
そんなわけで、ただ会稽と言えば旧越国を、会稽東冶といえば南部の旧ビン越国あたりを指す

738日本@名無史さん2020/01/02(木) 14:07:52.52
>>589
>江南から真っ先に伝わるべきは木骨泥墻のはずである。
>つまり古代日本に高床式「倉庫」を伝えた地域は江南ではありえないという事。
>>時代は石家河文化時代(前2600〜2000年)です。右の情報を横並べにしてみると、
>>次のようになります。
>>  B石家河期(前2600〜前2000年)
>>     木骨泥墻・環濠都市

丁寧な説明をありがとうございます。
少し納得しました。
訂正したいのは、高床式は倉庫にも使いますが、神明造などの宮にも使われているのだと思います。
しかしこの宮に住んでいた人たちはどこから来た何者だったのでしょう?

739日本@名無史さん2020/01/02(木) 14:22:07.59
高床はアフリカにもアイヌにもあるよ

740日本@名無史さん2020/01/02(木) 14:31:25.45
何か九州説に交じって沖縄独立運動家も参加してるな
賑やかなスレだこった

741日本@名無史さん2020/01/02(木) 14:37:14.67
九州説はそのうち次第に打倒資本主義とか革命とか言い出したりしてな

742日本@名無史さん2020/01/02(木) 14:55:04.51
なぜ九州説おそらく左翼共産思想者は歴史を嘘で作り変えようとするのか
それは歴史というものにはある種のパワーがあって
歴史ではこうなってるからこうした方がいい等と言われれば
多くの人は何となく納得してそれに従うから
九州説のやっている事は学問ではなくて共産思想もしくは儒教思想かも知れないけれど
それに基づく権力闘争

743日本@名無史さん2020/01/02(木) 14:59:43.83
九州説には極左もいれば極右もいる
偏った心の持ち主を引きつける何かがあるんだろう

744日本@名無史さん2020/01/02(木) 15:03:07.50
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&;ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa



アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&;aq=-1&oq=&ei=UTF-8

745日本@名無史さん2020/01/02(木) 15:05:51.05
まあそれでもさすがに九州説は成立させるに無理過ぎるけど
3世紀卑弥呼の時代の考古学証拠は畿内に集中してるし
魏志倭人伝には邪馬台国の位置は会稽東治の東つまり
沖縄とか台湾辺りになる位置と書かれている

短里も当時の魏の古尺や文献であっさり否定され
その他の文献や証拠からも九州北部は邪馬台国とするのに最も不適当とも言える
これを通そうというなら軍隊でも組織して国民や畿内説の学者に銃を向け
畿内説の本を焼き捨て九州説を強要してしかもそれをずっと維持し続けないと不可能なレベル

746日本@名無史さん2020/01/02(木) 15:20:24.15
>>745
まあ、そういう思想統制をやった国家はいくつもあった
今の九州説信者にも、そういうことのやりたい人は確実にいる

747日本@名無史さん2020/01/02(木) 15:28:56.87
九州説から国民を守らねば

748日本@名無史さん2020/01/02(木) 15:55:09.05
>>723
>で、その公子忌らが遺したというBC5Cの漢字の記録証拠はどこ?
どこ?どこ?どこ?どこ?どこ?
で、伝承があったという証拠は?<

新撰姓氏録の松野連の記載と、
松野氏姫氏系図に残された記載。

749日本@名無史さん2020/01/02(木) 16:00:12.77
>>724
>昔の中国人が日本列島を会稽東冶之東にあると勘違いしていたことは古い地図を見れば明らか
今更議論するまでもない <

その「勘違い」を引き起こした犯人は、
後漢書の「自己解釈に拠る高慢な書き換え」を実行した范曄であり、
「其地大較在會稽東冶之東、與朱崖、tan耳相近」という記載。
今更議論するまでもない。

750日本@名無史さん2020/01/02(木) 16:06:52.40
>>726
>メチヤクチャだな 地図は陳寿より700年以上あとのモノだろ
九州説のひとは時代という感覚がないから歴史研究に向いてないよ<

メチヤクチャだな。
地図は、当然後漢書の范曄の「自己解釈に拠る高慢な書き換え」である、
「其地大較在會稽東冶之東、與朱崖、tan耳相近」を見て書いたものだろ?。
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説のひとは、
史料事実や史料批判や時代という感覚がないから、
歴史研究に向いてないよ

751日本@名無史さん2020/01/02(木) 16:09:16.80
>>730
>前近代の琉球人は日本の倭人よりも中国人との交流が盛んだった。
当時の琉球王国は日本の主権が及ばない主権国家だったから単独で中国と冊封関係を結ぶことができたし朝貢貿易も活発に行われていた。
また、当時の琉球王国は日本に大使館を置いてなかったが、中国の福建省福州市に大使館があった。
現在の沖縄県那覇市久米には中国人を祖先に持つ人が多く住んでおり、その関係で那覇市が福州園という施設も造った。
ちなみに元沖縄県知事の仲井真弘多氏のルーツも中国人で、仲井真氏自身が公言していた。
もちろん、ほとんどの沖縄県民はそのことを知っている。
@沖縄県那覇市首里 琉球史研究家 <

ふーん。

752日本@名無史さん2020/01/02(木) 16:10:00.21
>>745
こうやってウソを並べることでしかもう畿内の人たちは心を保てないんだな
哀れな

753日本@名無史さん2020/01/02(木) 16:11:57.11
>>750
>地図は、当然後漢書の范曄の「自己解釈に拠る高慢な書き換え」である、
>「其地大較在會稽東冶之東、與朱崖、tan耳相近」を見て書いたものだろ?。

それ、なんか証拠でも?
またテキトーな想像?

754日本@名無史さん2020/01/02(木) 16:12:12.26
>>732
>>魏の役人らや魏志や魏略や後漢書や梁書や江表伝などでの記載に存在するんだから、
3世紀に短里が存在した。<

>存在すると漢文の読めない素人が妄想してるだけ <

いや、史料事実や史料実態だ。

755日本@名無史さん2020/01/02(木) 16:20:47.79
>>733
>>陳寿本人が「会稽東治之東」と言っているんだから、女王国はほぼ九州島付近であり、<

>ありえないね 会稽東治は沖縄・台湾くらい南だもの<

いやそんな事はあり得ないね。
東治は、(地名固有名詞ではなく)「東の治」という普通名詞の合成語であり、
その「東」は普通に「ほぼ東」であって、「南」ではないし、
「沖縄・台湾くらい南」にもならない。

756日本@名無史さん2020/01/02(木) 16:26:45.90
>>735
>本州は南北に描かれている
異人の住む島(九州)は済州島くらいの大きさで横長に
おまけ程度に描かれている<

本州が描かれているようじゃ、最低、梁代よりも後の時代の知識で書かれた事になり、
3世紀の議論の根拠には全くならない地図だな。

757日本@名無史さん2020/01/02(木) 16:29:13.71
前近代の琉球人は日本の倭人よりも中国人との交流が盛んだった。
当時の琉球王国は日本の主権が及ばない主権国家だったから単独で中国と冊封関係を結ぶことができたし朝貢貿易も活発に行われていた。
また、当時の琉球王国は日本に大使館を置いてなかったが、中国の福建省福州市に大使館があった。
現在の沖縄県那覇市久米には中国人を祖先に持つ人が多く住んでおり、その関係で那覇市が福州園という施設も造った。
ちなみに元沖縄県知事の仲井真弘多氏のルーツも中国人で、仲井真氏自身が公言していた。
もちろん、ほとんどの沖縄県民はそのことを知っている。

@沖縄県那覇市首里 琉球史研究家

758日本@名無史さん2020/01/02(木) 16:34:20.60
>>734

会稽郡守の慇通を殺したところが、下相(現在の宿遷市)  その下相城は項羽の故郷。   わははははは   @阿波

759日本@名無史さん2020/01/02(木) 16:41:42.49
>>748
新撰姓氏録の松野連の記載と松野氏姫氏系図に残された記載のどこが
公子忌らが遺したというBC5Cの漢字の記録証拠なの????


中卒?


で、その公子忌らが遺したBC5Cの漢字の記録証拠は?


どこ?どこ?どこ?どこ?どこ?


で、伝承があったという証拠は?


.

760日本@名無史さん2020/01/02(木) 16:45:42.79
>>758

「計其道里當在会稽東治之東」

会稽東治(江蘇省宿遷市宿城区)と同じ緯度(北緯33度56分〜58分)に女王国(阿波)がある。   @阿波

761日本@名無史さん2020/01/02(木) 16:53:43.47
>>735
>江戸幕府が琉球を異国と位置付けていたことが日本史の教科書に書かれているが、当時の倭人(日本人)と琉球人(沖縄人)はお互い相手が話す言葉を理解できず会話が成り立たないため、手ぶり身ぶりでコミュニケーションを図るしかなかったようだ。
琉球王国第19代国王で最後の国王としても知られる尚泰王も日本語が話せなかったので、日本語が話せる三司官や高級官僚らが江戸幕府と琉球王国の国王の間に入って通訳していたともいわれている。
松山御殿物語(まちやまうどぅんものがたり)という本の中に尚泰王の四男にあたる尚順の日記が紹介されていて、その中に「ヤマトの人が話す日本語はさっぱり意味がわからない」という意味の記述がある。
息子の尚順が日本語を理解できなかったわけだから、その父親である琉球国王の尚泰王が日本語を話せなかったのは容易に想像できる。
@沖縄県那覇市首里 琉球史研究家<

ふーん。

762日本@名無史さん2020/01/02(木) 17:01:17.70
>>373
>・・・そんなわけで、ただ会稽と言えば旧越国を、
会稽東冶といえば南部の旧ビン越国あたりを指す<

いや、陳寿の会稽は、(旧越国というよりは)「夏后少康之子封於會稽」の会稽を指す。

763日本@名無史さん2020/01/02(木) 17:06:54.03
>>741
>九州説はそのうち次第に打倒資本主義とか革命とか言い出したりしてな <

大和説はそのうち次第に、
打倒韓国とか打倒北朝鮮とか打倒ロシアとか打倒中国とか、
言い出したりしてな

764日本@名無史さん2020/01/02(木) 17:09:49.51
>>763
畿内説は学問なので、言いません

765日本@名無史さん2020/01/02(木) 17:11:27.51
>>742
なぜ大和説、おそらく右翼皇国史観思想者は、歴史を嘘で作り変えようとするのか
それは歴史というものにはある種のパワーがあって
歴史ではこうなってるからこうした方がいい等と言われれば
多くの人は何となく納得してそれに従うから
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説のやっている事は、
学問ではなくて国粋皇国史観思想もしくは儒教思想かも知れないけれど
それに基づく人種差別的殺戮戦争志向。

766日本@名無史さん2020/01/02(木) 17:12:28.44
あけましておめでとうございます。

さて 今年はこの議論は止めませんか
倭=ヤマト=大和=山門=・・・・・・
語呂合わせもいいですが、ほとんど根拠にならないので

あと 
会稽東治の東の議論も止めませんか
鎮守が倭国に行ったことも無いのに記述したのでしょう
各説、言い分はあろうと思いますがどの説も万二千里余に合致しません
鎮守が1里?Mと考えていたかも定かでありません

767日本@名無史さん2020/01/02(木) 17:19:02.45
>>733
それ 1里?M?
俺は周教授の意見で納得したけど

「中国の史書の中が国外の距離は比例で考えるべきだし
方位を基準に解読すべき」

768日本@名無史さん2020/01/02(木) 17:19:05.56
>>766
>各説、言い分はあろうと思いますがどの説も万二千里余に合致しません

いや、合致する。   @阿波

769日本@名無史さん2020/01/02(木) 17:20:25.72
失礼
「中国の史書の中国外の距離は比例で考えるべきだ
方位を基準に解読すべき」

770日本@名無史さん2020/01/02(木) 17:24:34.12
>>768
@阿波は1里?Mなんだ

771日本@名無史さん2020/01/02(木) 17:35:48.20
それよりも、
数年前、他のスレに書いたような気がするんだけど。

>エヴァ、サードチルドレン

マライア・きゃりーのクリスマスの曲、空耳w

772日本@名無史さん2020/01/02(木) 17:38:20.48
『何だって?聞こえない』

それとも、お年寄りが聴くとそう聞こえるのかな、
エヴァ、サードチルドレン。レバノン〜。とか。

773日本@名無史さん2020/01/02(木) 17:40:29.56
>>770
>@阿波は1里?Mなんだ

帯方郡(沙里院市)
↓【南】海岸水行7000里( 直線距離 500km)1里=71m
狗邪韓国(順天)
↓【南】海渡1000里 (70km)1里=70m
津島国(方400里、千戸)(対馬上対馬か)
↓海渡1000里 (50キロ)(50km)1里=50m
一支国(方300里、三千家)(壱岐郷ノ浦か)
↓海渡1000里 (対馬→壱岐と近似)(70km)1里=70m
末盧国(四千戸)(福津市辺り・万津浦)
↓【東南】陸行500里 (25キロ)1里50m 福津市→八木山峠越え→直方
伊都国(千戸)※大率が置かれる (直方辺り)
↓【東南】100里 (15キロ)1里150m
奴国(二万戸)(田川辺り)
↓【東】100里 (25キロ)1里250m
不弥国(千戸)(築上町辺り)
↓【南】水行20日
投馬国(五万戸)(宿毛)
↓【南】水行10日又は陸行1月(旧土佐街道)
《邪馬台国》女王・卑弥呼(七万戸)
↓【東】海渡(紀伊水道)1000里(50km)1里=50m
女王国東渡海千余里復有国皆倭種 (阿波から東へ1000里渡海→奈良周辺)

帯方郡(平壌)→女王国(阿波)万二千里( 直線距離 900km)1里=75m

∴1里=70mは、概ね妥当。   

狗邪韓国(順天)は、豊臣秀吉の死後、小西行長らが朝鮮脱出の出航地でもある。

因みに、釜山は対馬海流を利用して渡った、対馬からの着岸地である。   @阿波

774日本@名無史さん2020/01/02(木) 17:40:54.77
杉、松〜みたいな話。

775日本@名無史さん2020/01/02(木) 17:47:27.25
各説 伊都國は九州北部で一致してると思います
末盧國から東南は明らかに間違いだと思います
強いて言えば「草木茂盛行不見前人」でまず東南に向かったと言うことしょう
また、魏の使いは邪馬台国に数回言ってますが末盧國経由は1回だけだと思います・・間違いかな?
要は数度も邪馬台国に行くには末盧國経由では無いと思います 末盧國経由に行ったのは1度だけじゃないだろうか


すると、方位は正しい(当然 太陽 、北極星・・の位置)が結論だと思います
万二千里余の陸行500里程度(それも獣道・「草木茂盛行不見前人」))の方位は余り深く考える必要は無いのかも????

776日本@名無史さん2020/01/02(木) 18:08:29.29
>>775
>末盧國から東南は明らかに間違いだと思います

間違っていない!   @阿波

777日本@名無史さん2020/01/02(木) 18:40:53.84
>>726
まぁまぁあ  
古地図は日本に限らず、憶測が多く描かれてるから、
歴史的価値はありますが、気にしなくても良いですよ

778奥山さんへ2020/01/02(木) 18:44:19.47
巻向学研究センターも報告を毎年義務付けられてるけど
今年の報告の成果は何だとおもいますか??

779日本@名無史さん2020/01/02(木) 18:45:49.17
>>776
末盧國はどこなの?

780日本@名無史さん2020/01/02(木) 18:50:43.41
テンプレあらためて読んだけど
巻向の掘立柱建物が大型群と言ったり,一棟のみ大型と言ったり
FAQも含め、支離滅裂だから統一してくれねーか

781日本@名無史さん2020/01/02(木) 18:51:04.44
もうで(詣で)に行くレバノン。
エヴァ、サードチルドレン。
ガンダムの・・・・・死亡。

空耳w

782日本@名無史さん2020/01/02(木) 18:53:42.85
>>743
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者には、
普通の・・・・アホ詐欺師もいれば極右もいる。
唯我独尊のタカ派の偏った心の持ち主を引きつける何かがあるんだろう。

783日本@名無史さん2020/01/02(木) 18:54:37.86
>>776
>末盧國はどこなの?

帯方郡(沙里院市)
↓【南】海岸水行7000里( 直線距離 500km)1里=71m
狗邪韓国(順天)
↓【南】海渡1000里 (70km)1里=70m
津島国(方400里、千戸)(対馬上対馬か)
↓海渡1000里 (50キロ)(50km)1里=50m
一支国(方300里、三千家)(壱岐郷ノ浦か)
↓海渡1000里 (対馬→壱岐と近似)(70km)1里=70m
末盧国(四千戸)(福津市辺り・万津浦)
↓【東南】陸行500里 (25キロ)1里50m 福津市→八木山峠越え→直方
伊都国(千戸)※大率が置かれる (直方辺り)
↓【東南】100里 (15キロ)1里150m
奴国(二万戸)(田川辺り)
↓【東】100里 (25キロ)1里250m
不弥国(千戸)(築上町辺り)
↓【南】水行20日
投馬国(五万戸)(宿毛)
↓【南】水行10日又は陸行1月(旧土佐街道)
《邪馬台国》女王・卑弥呼(七万戸)
↓【東】海渡(紀伊水道)1000里(50km)1里=50m
女王国東渡海千余里復有国皆倭種 (阿波から東へ1000里渡海→奈良周辺)

帯方郡(平壌)→女王国(阿波)万二千里( 直線距離 900km)1里=75m

∴1里=70mは、概ね妥当。   

狗邪韓国(順天)は、豊臣秀吉の死後、小西行長らが朝鮮脱出の出航地でもある。

因みに、釜山は対馬海流を利用して渡った、対馬からの着岸地である。   @阿波

784日本@名無史さん2020/01/02(木) 18:56:24.86
『アニメの神様』

785日本@名無史さん2020/01/02(木) 19:01:37.69
>>745
まあそれでもさすがに大和説は成立させるに無理過ぎるけど
3世紀卑弥呼の時代の考古学証拠は北部九州に集中してるし
大和は、3世紀末頃以後にしかないし
魏志倭人伝には邪馬台国なんて書かれていないし、
女王国の位置は会稽東治の東つまり九州島付近の位置と書かれている
秦の始皇帝里も当時の魏朝や魏の役人らの記録や文献であっさり否定され
その他の文献や証拠からも九州北部は女王国とするのに最も適当とも言える
大和説を通そうというなら、
軍隊でも組織して国民や九州説学者や中国学者や世界の学者に銃を向け
中国文献や九州説の本を焼き捨て、大和説を強要して、
しかもそれをずっと維持し続けないと不可能なレベル

786日本@名無史さん2020/01/02(木) 19:04:02.89
>>746
まあ、そういう思想統制をやった国家は、戦前の日本のように、いくつもあった
今の「南→東」などの嘘つき騙しの大和説信者にも、
そういうことのやりたい人は確実にいる

787日本@名無史さん2020/01/02(木) 19:04:06.37
>>781
今年もキナイコシ変身するの やめてよーーー

788日本@名無史さん2020/01/02(木) 19:05:39.57
>>747
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しをする大和説から、
国民を守らねば

789日本@名無史さん2020/01/02(木) 19:06:06.69
畿内説は完全に破綻しました

790日本@名無史さん2020/01/02(木) 19:13:39.89
>>764
>畿内説は学問なので、言いません<

畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから×だし、
大和説は、「南→東」などの史料事実や史料実態の否定や曲解をしている嘘つき騙しですから、
学問ではありません。

791日本@名無史さん2020/01/02(木) 19:14:18.24
なぜか『ガンダム0083』の話

792日本@名無史さん2020/01/02(木) 19:16:50.09
>>766
> 今年はこの議論は止めませんか
倭=ヤマト=大和=山門=・・・・・・
語呂合わせもいいですが、ほとんど根拠にならないので <

賛同 倭は倭 ヤマトとどう結び付けるのかな

793日本@名無史さん2020/01/02(木) 19:24:26.88
>>766
>各説、言い分はあろうと思いますがどの説も万二千里余に合致しません<

古田さんの「歴韓國乍南乍東=陸行」と「對海國と一大國は国内見聞陸行」と、
奴國と投馬國は側副傍線國説明で、「萬二千余里」がピッタリ合います。

>鎮守が1里?Mと考えていたかも定かでありません<

国間距離は「居住外縁部間の距離」という読み方で、1里は60〜90m位であり、
大和説者の435mは、5〜6倍も長く、全く×です。

794日本@名無史さん2020/01/02(木) 19:37:29.29
>>742
>なぜ九州説おそらく左翼共産思想者は歴史を嘘で作り変えようとするのか

そんな無意味な煽りで、畿内説の惨めさが際立つだけだなw

795日本@名無史さん2020/01/02(木) 19:42:05.01
>>745

キナイコシは、自分たちがやって来た悪行を隠すため、相手がそれをやったと言い張るのだな。
どこまで畿内説とは卑怯なのか。

796日本@名無史さん2020/01/02(木) 19:44:54.99
まあそれでもさすがに畿内説は成立させるに無理過ぎるけど
3世紀卑弥呼の時代の考古学証拠は九州北部に集中してるし
魏志倭人伝には邪馬台国の位置は帯方郡から一万二千里すなわち九州北部と明記されている(九州上陸までで一万里、対馬海峡は三千里)

797日本@名無史さん2020/01/02(木) 19:51:27.58
とあるスレを読んでみた?同じことを言っている人がいたり。


ハネムーン・ベイビー。
海賊が〜。
第三〜三番目の子供?

798日本@名無史さん2020/01/02(木) 19:53:32.71
『詣で』に行ったのかな?川崎大師?

799日本@名無史さん2020/01/02(木) 19:55:58.22
『七福神の由来』

800日本@名無史さん2020/01/02(木) 19:57:13.45
>>767
>俺は周教授の意見で納得したけど
「中国の史書の中が国外の距離は比例で考えるべきだし
方位を基準に解読すべき」<

ふーん。

801日本@名無史さん2020/01/02(木) 20:00:21.98
『サイバーパンクSPECIAL』ほとんど同じ。

802日本@名無史さん2020/01/02(木) 20:03:15.17
>七福神の信仰は、室町時代の末期のころより生じ

何かの家の直系なんだろう、みたいな話なのかな?
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。

803日本@名無史さん2020/01/02(木) 20:05:16.08
え び す て ん?うらしま〜w

>いざなみ、いざなぎの二神の第三子といわれ

804日本@名無史さん2020/01/02(木) 20:07:42.91
『鳳輿』
長い竿・・・・寒いな・・・の家。

805日本@名無史さん2020/01/02(木) 20:41:24.59
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&;ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa



アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&;aq=-1&oq=&ei=UTF-8

806日本@名無史さん2020/01/02(木) 20:48:37.18
川崎東北菅野(天皇の家来)( 百済菅野(天皇の家来)ではない)

平屋三兄弟
 
サザエさんか団子三兄弟だろ


貧乏もきわまると人のものを自分のものだと言い出す

807日本@名無史さん2020/01/02(木) 21:48:46.23
釣竿を持っているのは事代主だぞ
ヒルコ→ 蛭子(ヒルコ)→ 蛭子(えびす)→ えびす 


ヒルコ wiki
ヒルコとえびす(恵比寿・戎)を同一視する説は室町時代からおこった新しい説であり、それ以前に遡るような古伝承ではないが、

古今集注解や芸能などを通じ広く浸透しており、蛭子と書いて「えびす」と読むこともある。
現在、ヒルコ(蛭子神、蛭子命)を祭神とする神社は多く、和田神社(神戸市)、西宮神社(兵庫県西宮市)などで祀られているが、
恵比寿を祭神とする神社には恵比寿=事代主とするところも多い。

808日本@名無史さん2020/01/02(木) 21:54:18.55
>>807

式内社「事代主神社」 ・ 式内社 「建布都神社」

は、ともに同じ倭国(阿波)阿波市にあり、『ともに日本唯一 阿波にだけ在る式内社』。

式内社「事代主神社」が全国で倭国(阿波)にだけ在ることから、「事代主命」は倭国(阿波)の人物。

同じく、建布都神(武甕槌神)も全国で倭国(阿波)にだけ在ることから、「建布都神(武甕槌神)」も倭国(阿波)の人物ということ。


こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。   @阿波

809日本@名無史さん2020/01/02(木) 21:57:41.40
鉄器のない畿内に邪馬台国なし

810日本@名無史さん2020/01/02(木) 22:01:44.21
だから書いたでしょ、
漫画を描いている集団がいるんだけど・・・プロではないのかな?
そこに住んでいるわけでもないのかな、都内(東京)のアパート。

そこ宛に、このような手紙を出したの、
タイトル『姥清水』(仮)は、ありせませんか?

2001、2002年頃だったかな。

811日本@名無史さん2020/01/02(木) 22:09:21.64
>>800
>俺は周教授の意見で納得したけど

理由を聞かずに結論で納得する九州説脳の不思議

812日本@名無史さん2020/01/02(木) 22:11:39.76
その作家グループの代表のような人物が住んでいたのかな。
なぜか『姥清水』(仮)?ばかり描いていたり。

813日本@名無史さん2020/01/02(木) 22:19:44.67
邪馬台国畿内説が、破綻したので、奥山氏が自殺体になってしまったのですか。

814日本@名無史さん2020/01/02(木) 23:38:55.28
すでに気付いているはずなんだけど。
超越している・・・なんて言うんだろう?死後、神として祀られたり。

815日本@名無史さん2020/01/02(木) 23:40:48.62
あと家の老婆も、巫女のような存在と同じなのかな?
傾いた松の木?の家の嫁なんだけど、なぜか詳しかったり。

816日本@名無史さん2020/01/02(木) 23:50:57.81
>>811

畿内説がいちばん理由がない。

817日本@名無史さん2020/01/02(木) 23:55:52.25
九州説はヤケクソになって
畿内説の畿内論を全部イヤイヤするだけか?

818日本@名無史さん2020/01/02(木) 23:56:04.47
あと、傾いた松の木(立てられている松の木)の写真、
父親がいうには、モミの木だと言っていたりw当時、植えてあったとか。

松なのかな、モミなのかな?

819日本@名無史さん2020/01/03(金) 00:08:56.19
葉はギザギザ(チクチク)で触ると痛いんだよと言っていたり、
wikiと同じ。

何かのネタでもなさそうだしなw

820日本@名無史さん2020/01/03(金) 00:12:25.42
『ギザギザ』〜『鳳輿』?

821日本@名無史さん2020/01/03(金) 00:24:06.39
『ギザ十』とかピラミッドの話なのかな、なぜか詳しい。

822日本@名無史さん2020/01/03(金) 00:26:37.56
北斗の拳の・・・が使用する技?

通称ギザ十

823日本@名無史さん2020/01/03(金) 01:48:00.02
>>817
>九州説はヤケクソになって
畿内説の畿内論を全部イヤイヤするだけか?<

論より証拠

824日本@名無史さん2020/01/03(金) 05:07:52.22
>>817
>九州説はヤケクソになって
畿内説の畿内論を全部イヤイヤするだけか? <

畿内なんて存在もしなかった文言を使ったり、
「南→東」などのような人類の常識を否定曲解すれば、そりゃ否定するが、

大和に、元は毛人や出雲系銅鐸祭祀部族が存在し、
それを九州倭國の「自昔・・・東征毛人五十五國」が征服して別種の旧小国を造っていて、
白村江の後で、母国の九州倭國を併合吸収継承した、
という史料事実や史料実態は認めている。

大和説者は、大和が日本の盟主ではなかった、という実態にヤケクソになって
九州説の古代史論を全部イヤイヤするだけか?

825日本@名無史さん2020/01/03(金) 05:44:15.69
>>775
>各説 伊都國は九州北部で一致してると思います 末盧國から東南は明らかに間違いだと思います
強いて言えば「草木茂盛行不見前人」でまず東南に向かったと言うことしょう <

旅程や行程説明は「出発説明+途中説明+到着説明」の順の書くのは人類の常識であり、
陳寿もそのような記載説明法を採っており、
「東南」は最初に書かれているから、出発時点での出発方向説明であり、
また目的地の伊都國は見えていませんから、魏の役人たちは計測記載する事が出来ず、記載していません。

>また、魏の使いは邪馬台国に数回言ってますが末盧國経由は1回だけだと思います・・間違いかな?
要は数度も邪馬台国に行くには末盧國経由では無いと思います 末盧國経由に行ったのは1度だけじゃないだろうか<

ダメです。後続の使節も、「安全最短の原則」という人類の常識に従って、
魏使らの説明通りに行くのが原則です。

>すると、方位は正しい(当然 太陽 、北極星・・の位置)が結論だと思います
万二千里余の陸行500里程度(それも獣道・「草木茂盛行不見前人」))の方位は余り深く考える必要は無いのかも????また、魏の使いは邪馬台国に数回言ってますが末盧國経由は1回だけだと思います・・間違いかな?
要は数度も邪馬台国に行くには末盧國経由では無いと思います 末盧國経由に行ったのは1度だけじゃないだろうか <

ダメです。魏の役人たちは「不要な長距離航海」を選択しません。
「安全最短」が人類の原則です。

826日本@名無史さん2020/01/03(金) 06:02:04.43
>>811
>>俺は周教授の意見で納得したけど
「中国の史書の中国外の距離は比例で考えるべきだ
方位を基準に解読すべき」<

>理由を聞かずに結論で納得する九州説脳の不思議<

理由そのものが書かれていたのに、
それを「理由も聞かずに」と誹謗する大和説者の脳が不思議。

827日本@名無史さん2020/01/03(金) 06:13:49.69
>>826
>理由そのものが書かれていたのに、
で?

どれが理由のつもり?

828日本@名無史さん2020/01/03(金) 06:27:29.41
自分が気に入らない理由は理由として認定してないだけだろw

829日本@名無史さん2020/01/03(金) 06:55:12.74
>壱岐から九州島の間はそんなに海流は強くないんだよ


当時の手漕ぎ舟にとっては、充分すぎる海流の強さなんだよ。  5mや10m漕ぐわけじゃないからね。  できるだけ、海流を利用するのが、常識。   

もし松浦や唐津や呼子が大陸からの玄関口だったら、もっと大陸の遺物が出土していなければならない。 

福津や宗像のようにね。  もっと冷静に現実を見ないとw   @阿波 
 

830日本@名無史さん2020/01/03(金) 06:58:00.41
今年も、朝鮮民族の民族運動である邪馬台国畿内説が、完全に論破されてしまった。

831日本@名無史さん2020/01/03(金) 08:50:55.41
>帰りは海流に乗るなら小値賀島・五島列島付近まで移動しておかないと。


大陸からの行きと帰りのルートは異なる。

大陸からの往路は、末盧国(福津市周辺 万津浦)→ 豊前経由 → 四国(阿波)   

大陸への復路は、四国(阿波) → 豊前・筑前・肥前(松浦)→ 大陸への出航地(平戸市周辺)

大陸への渡航出航地として考えられるのは度島(浦小川遺跡)・的場大島(朝鮮井戸海岸遺跡)など。  

因みに、朝鮮半島からの出航地は、狗邪韓国(順天)で、

一方、対馬からの朝鮮半島着岸地は、対馬海流を利用して渡った釜山である。   @阿波

832日本@名無史さん2020/01/03(金) 09:02:26.41
>>748



で、新撰姓氏録の松野連の記載と松野氏姫氏系図に残された記載が
BC5Cに公子忌らが遺した漢字の記録だという証拠は?

紙がないんだから、それを記録した金石文や土器文があるはずだろ。

その金石文や土器文は?


で、伝承があったという証拠は?


.

833日本@名無史さん2020/01/03(金) 09:40:25.94
今、大きな警報音がしばらく鳴って、
「セキュリティーシステムが破損されています」という音声が流れました。

834日本@名無史さん2020/01/03(金) 09:50:12.26
>>823
畿内の前方後円墳
三角縁神獣鏡

835日本@名無史さん2020/01/03(金) 10:13:05.81
>>833
それ、変なサイトに行ったろ
よけいなクリックすんなよ
多分フィッシングだから

836日本@名無史さん2020/01/03(金) 10:26:21.03
日本政府(外務省)は「沖縄出身者あるいは沖縄県居住の人々は日本民族である」とホームページに書いているが、これは明らかに嘘である。
そもそも民族の帰属問題は日本政府の専権事項ではないし、日本政府はこれまでただの一度も「民族」あるいは「日本民族」の定義を国民に説明したこともない。
自分が何者であるかというエスニックアイデンティティー、即ち民族意識というものは自己決定権が尊重されるべきであって、
その自己決定権は憲法13条で保障されている幸福追求権の一部だから誰もこれを侵すことはできないし、ましてや国家が憲法を無視して個人の自己決定権を侵すことなど許されるわけがない。
日本政府が沖縄人を日本民族と決めつけているのは政治的な理由があるからなのは明白である。
沖縄の某民族団体が「沖縄への基地の押し付けはマイノリティー(少数民族)差別である」と国連の人種差別撤廃委員会に訴え、人種差別撤廃委員会もこれを認めて「先住民族である沖縄の人々の人権を尊重するように」と日本政府に勧告したものの、
日本政府はこれを無視して「沖縄出身者あるいは沖縄県居住の人々は日本民族である」と反論している。
日本政府が沖縄人を先住民族(琉球民族)と認めたがらないのは、それを認めてしまうと「基地の押し付けは、マイノリティー(少数民族)差別である」と国内外から批判されることを恐れているからである。

@沖縄県那覇市首里 琉球史研究家

837日本@名無史さん2020/01/03(金) 10:54:44.31

838日本@名無史さん2020/01/03(金) 12:03:49.72
>>834
>畿内の前方後円墳
三角縁神獣鏡<

畿内なんて存在もしていなかった嘘つき騙し文言であるから、×であり、
大和の前方後円墳は石塚などの3世紀末であり、
大和の三角縁神獣鏡は4世紀であるから、
卑弥呼の3世紀前半ではなく、×。

839日本@名無史さん2020/01/03(金) 12:55:18.98
歴史的事実として琉球王国には日本の主権が及んでいなかったし、そもそも前近代の日本に国王は存在しなかった。
琉球王国に国王が存在していたことそのものが琉球王国が日本の領土でなかったことを証明している。
故にその琉球王国を前身に持つ現在の沖縄は日本固有の領土とは言えない。

840日本@名無史さん2020/01/03(金) 13:13:07.07
沖縄独立運動家は沖縄独立運動スレへ

841日本@名無史さん2020/01/03(金) 13:21:42.29
独立運動はしていない。

842日本@名無史さん2020/01/03(金) 13:28:28.45
琉球王国時代は戦国時代〜江戸時代だから
このスレにレスするなら沖縄の弥生〜古墳時代のことを書かないと

843日本@名無史さん2020/01/03(金) 14:31:44.23
(8)蒸して食べる

7000年前 中国に起源

最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。

この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。

蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。

日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。

しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。

今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html


◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の甑


http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html

.

844日本@名無史さん2020/01/03(金) 14:32:15.11
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈のセットで炊く、鼎で炊く、
さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。

ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。

弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。

中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。

弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。

845日本@名無史さん2020/01/03(金) 15:02:30.98
>>842
琉球には古墳がなかったし古墳を造ることもなかったから「古墳時代の琉球」という言い方はできない。
また、琉球が日本に組み込まれたのは明治に入ってからだから、「室町時代の琉球」とか「安土桃山時代の琉球」とか「江戸時代の琉球」という言い方もできない。

846日本@名無史さん2020/01/03(金) 15:05:29.88
>>840
「沖縄はもともと琉球王国が統治していた地域だから日本固有の領土ではない」という歴史的事実を指摘すると、それがなぜ独立運動と結びつくのかさっぱり意味がわからない。

847日本@名無史さん2020/01/03(金) 15:11:37.45
>>845

何もないのか?

848日本@名無史さん2020/01/03(金) 15:14:10.89
>>847
何もないのかとは?

849日本@名無史さん2020/01/03(金) 15:18:18.54
>>848

弥生〜古墳時代には
人が遺したものが何もないのか

850日本@名無史さん2020/01/03(金) 15:20:38.93
>>849
琉球に古墳時代と呼ばれる時代はなかった。

851日本@名無史さん2020/01/03(金) 15:21:48.79
>>850

何時代なんだよ

852日本@名無史さん2020/01/03(金) 15:25:10.32
>>851
貝塚時代ならあった。

853日本@名無史さん2020/01/03(金) 15:27:55.89
>>852

貝塚から出てきたものを書け
倭人伝に流求なんかないんだから

854日本@名無史さん2020/01/03(金) 15:28:59.27
>>853
遺構が出てきている。

855日本@名無史さん2020/01/03(金) 15:31:20.82
>>854

それを書いて、中国との交流を主張しろ

856日本@名無史さん2020/01/03(金) 15:37:54.80
「三国志の英雄」として知られる曹操(155〜220年)の墓「曹操高陵」を発掘した中国・河南省文物考古研究院の潘偉斌(ハン・イヒン)氏が、
大分県日田市のダンワラ古墳出土と伝わる国重要文化財「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡(きんぎんさくがんしゅりゅうもんてっきょう)」を、
邪馬台国の女王・卑弥呼がもらった「銅鏡百枚」の一枚である可能性が高いとする見解を明らかにした。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200103-03472520-saga-l41

857日本@名無史さん2020/01/03(金) 15:38:08.20
>>855
貝塚時代に中国との交流はなかった。

858日本@名無史さん2020/01/03(金) 15:39:24.91
>>857

琉球王朝時代のスレに行け

859日本@名無史さん2020/01/03(金) 15:42:31.18
>>856

銅鏡じゃないじゃん

860日本@名無史さん2020/01/03(金) 15:42:44.71
落語見てて若水というのを思い出した

若水(わかみず)とは、往古、立春の日に宮中の主水司から天皇に奉じた水のもとを指した。後に元日の朝に初めて汲む水、井戸から水を汲んで神棚に供えることを指すこととなった。

若、ワカ、清らかな水

昔は生活に根付いていたが忘れられつつあるみたいだ

若狭の水、東大寺二月堂のお水取り、若草山、

若宇加乃売命、アメノワカヒコとか完結するのだろうか?

若水は男が取り扱う、正月の家事は男がする
ワカは女神なのかもな

861日本@名無史さん2020/01/03(金) 15:42:59.65
>>858
いや、ここにいる。

862日本@名無史さん2020/01/03(金) 15:43:22.61
実際には、
卑弥呼と壱与の間で遷都してると思うんだな。
だから、魏志倭人伝の記述は、
九州と畿内の重ね合わせ。

863日本@名無史さん2020/01/03(金) 15:47:17.46
日本は141年前の1879年3月27日に琉球王国を武力併合しているから安倍内閣の閣僚は口が裂けても「沖縄は日本固有の領土」とは言えない。
事実、歴代内閣で「沖縄は日本固有の領土」と発言した閣僚は一人もいない。
もし仮にそのような発言をする閣僚が現れたら、「ではなぜ沖縄の前身である琉球王国を武力併合したのか?」と追及されて、その閣僚は説明責任を果たさなければならなくなるし、対応次第では辞任に追い込まれることになる。

864日本@名無史さん2020/01/03(金) 15:53:56.52
魏志倭人伝の記述をよく読めば、
記述が二重の重ね合わせであることが
分かるはずだ。
九州と畿内へのルートの両方が
記載されている。

卑弥呼の壱与の間に遷都があったと考えて、
はじめて理解できる。

865日本@名無史さん2020/01/03(金) 16:24:31.66
九州説の勝利でした。

卑弥呼の鏡「可能性高い」 大分・日田で出土の鉄鏡「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」 中国・曹操陵の発掘責任者が見解
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200103-03472520-saga-l41

866日本@名無史さん2020/01/03(金) 16:27:51.28
>>859

ダンワラ古墳の鏡は鉄製だが、潘氏は「倭人伝が『銅鏡』と表現したのは、鏡の総称として用いたのだろう。そこに鉄鏡が含まれても不自然ではない」と解説した。

867日本@名無史さん2020/01/03(金) 16:31:13.12
>>865
>>856 にすでに出ている。

そのうえで、
魏志倭人伝の邪馬台国への行程は、
北部九州と畿内への重ねあわせで、

その理由は卑弥呼と壱与の間で遷都されたから、
と主張している。
だれもが、魏志倭人伝の邪馬台国への行程の
異様な書き方に気づいているはずだ。

868日本@名無史さん2020/01/03(金) 16:37:51.25
>>748


で、新撰姓氏録の松野連の記載と松野氏姫氏系図に残された記載が
BC5Cに公子忌らが遺した漢字の記録だという証拠の金石文や土器文は?


で、伝承があったという証拠は?



早く言えよおまえ

869日本@名無史さん2020/01/03(金) 16:44:23.34
>>867
>だれもが、魏志倭人伝の邪馬台国への行程の
>異様な書き方に気づいているはずだ。


いや、まったく正常な書き方である!   @阿波

870日本@名無史さん2020/01/03(金) 16:48:42.83
>>869
陸行 水行
北部九州と畿内の重ね合わせを
隠してるんだ。

871日本@名無史さん2020/01/03(金) 16:56:15.76
アケオメ

巻向から畿内説は離れたほうがいい
早くても3世紀後半・・縄文時代から人が住んでたのは全国一緒
巻向にも人は居た証拠を出さなくても理解するからね

古墳造営基地と推測する畿内説の学者は優秀だと思う

872日本@名無史さん2020/01/03(金) 17:05:02.58
琉球語と中国語は似てると言う方もいるよ
台湾と沖縄の関係も気になるけど・・沖縄って島伝いで台湾に近いんだよね

873日本@名無史さん2020/01/03(金) 17:06:57.89
大琉球と小琉球

874日本@名無史さん2020/01/03(金) 17:20:33.91
>>867
>だれもが、魏志倭人伝の邪馬台国への行程の
>異様な書き方に気づいているはずだ。


いや、まったく正常な書き方である!   @阿波

875日本@名無史さん2020/01/03(金) 17:20:35.81
>>362
>実際には、 卑弥呼と壱与の間で遷都してると思うんだな。
だから、魏志倭人伝の記述は、 九州と畿内の重ね合わせ。<

いや、畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、×であるし、
魏志では女王国の東渡海千里は倭種だとし、
倭王武の時点で、九州倭国の「東征毛人五十五國」と書けるんだし、
旧唐書などは、はっきり「(大和)日本國は倭国の別種の旧小国だった」と書いているんだから、
大和は九州倭国の附庸國の小国であった事になり、×。

876日本@名無史さん2020/01/03(金) 17:31:48.35
>>866

曹操の墓から盗まれたんじゃないか?

877日本@名無史さん2020/01/03(金) 17:41:16.45
私が思うに、
魏志倭人伝をよく読むに、
王がいるのは伊都国とかいてあるんだから、

女王国とは伊都国のことだと思うんだな。

ここに、すべての勘違いが始まってる。
たから、卑弥呼の墓は前原遺跡。
ここで、遷都というか政権簒奪が起きるわけよ。
それが畿内・邪馬台国。壱与の都。

だから、
それを隠すための 水行 陸行さ。

政権の位置は、北部九州から畿内に移ってる。それが隠されてる。

878日本@名無史さん2020/01/03(金) 17:43:26.54
前原遺跡と言われてもな

879日本@名無史さん2020/01/03(金) 17:45:58.08
魏志倭人伝の西暦240年代と
日本書紀の崇神紀の出来事は整合性とれる。

880日本@名無史さん2020/01/03(金) 17:48:55.26
平原遺跡よ。ごめんごめん。
もとの邪馬台国の位置が、
遷都によって移ってる。
伊都国そのものか伊都国に近い邪馬台国、卑弥呼の都、

畿内・邪馬台国、壱与の都。

それを強引に、
気づかれないよう隠してる。

881日本@名無史さん2020/01/03(金) 17:50:44.44
>>872
琉球王国時代の中世から近世にかけて琉球は日本より明や清(現在の中国)との交流が盛んだった。
だから沖縄人は日本人より中国に対して親近感を持っている人が多い。

882日本@名無史さん2020/01/03(金) 17:51:32.37
ナイナイ

883日本@名無史さん2020/01/03(金) 17:52:09.58
弥生時代があったのは東北南部から九州南部まで。

884日本@名無史さん2020/01/03(金) 17:52:52.30
【速報】卑弥呼の鏡「可能性高い」 大分・日田で出土の鉄鏡「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」 中国・曹操陵の発掘責任者が見解【畿内説完全崩壊】
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200103-03472520-saga-l41

885日本@名無史さん2020/01/03(金) 17:53:29.21
>>862
>卑弥呼と壱与の間で遷都してると思うんだな。

中国から見て大きく移動したようには書かれていない。

886日本@名無史さん2020/01/03(金) 17:54:49.02
>>877
>魏志倭人伝をよく読むに、
>王がいるのは伊都国とかいてあるんだから、
>女王国とは伊都国のことだと思うんだな。

ここだけ正解。

887日本@名無史さん2020/01/03(金) 17:55:30.32
>>880

壹與の都は肥前川上

888日本@名無史さん2020/01/03(金) 17:58:09.78
>>882
アルアル

889日本@名無史さん2020/01/03(金) 18:00:35.09
沖縄はもともと琉球王国という日本とは別の国だったから天皇を敬愛する人は少ない。

890日本@名無史さん2020/01/03(金) 18:07:42.11
>>886
それって倭人伝の完全否定だぞ
「世有王、皆統属女王国」

891日本@名無史さん2020/01/03(金) 18:08:09.50
>>864
>魏志倭人伝の記述をよく読めば、記述が二重の重ね合わせであることが分かるはずだ。
九州と畿内へのルートの両方が記載されている。
卑弥呼の壱与の間に遷都があったと考えて、はじめて理解できる。<

これも×。
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
萬二千余里は九州北岸の筑紫で、不彌國や邪馬壹國女王之所都がある事になり、
「ルートの両方が記載」されていない事になり、
大和は、九州倭国の別種の旧小国であるから、×。

892日本@名無史さん2020/01/03(金) 18:18:57.46
>>891
>萬二千余里は九州北岸の筑紫で、不彌國や邪馬壹國女王之所都がある事になり、

それ、会稽東治之東にならないから、確定的に×な。

893日本@名無史さん2020/01/03(金) 18:20:35.34
魏の水銀朱が使われた萩原古墳群出土の画文帯神獣鏡

同じく魏の水銀朱が使われた天河別神社古墳群出土の斜縁二神二獣鏡

この画文帯神獣鏡か斜縁二神二獣鏡 このどちらかだろうね 魏から下賜された鏡は。   @阿波

894日本@名無史さん2020/01/03(金) 18:26:04.98
問題の鏡の銘文は、
長℃q孫 らしいね。

九州出土の鏡特有のものだな。

895日本@名無史さん2020/01/03(金) 18:30:53.53
奥山が投稿しないほうが、学問の話ができそうだね
テンプレだけで奥山投稿しないほうが良いと思う
巻向に新たな発見があれば投稿すればいい

896日本@名無史さん2020/01/03(金) 18:44:04.08
>>890
完全否定だという根拠は?

897日本@名無史さん2020/01/03(金) 18:45:35.04
>>894
漢鏡の代表的な銘文。
中国に皇帝が歴代の倭王に贈ったものと同じ。

898日本@名無史さん2020/01/03(金) 18:56:47.44
労働したので、疲れたな。

899日本@名無史さん2020/01/03(金) 18:57:55.06
>>898
家を、広く感じているのでは、ないのかな。

900日本@名無史さん2020/01/03(金) 18:59:56.99
年末年始が終わったので、魏志倭人伝時代についての研究を、再開すれば良いよ。

901日本@名無史さん2020/01/03(金) 19:00:51.58
>>867
>・・・すでに出ている。 そのうえで、 魏志倭人伝の邪馬台国への行程は、
北部九州と畿内への重ねあわせで、 その理由は卑弥呼と壱与の間で遷都されたから、
と主張している。<

畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であり、大和は、
九州倭国の別種分家の旧小国であり、「自昔・・・東征毛人五十五國」の中の一国であり、
「遷都」なんかしていない。

> だれもが、魏志倭人伝の邪馬台国への行程の異様な書き方に気づいているはずだ。<

邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、この大和説男は×であり、
陳寿の行程説明は、極めて人類の常識に沿った正常な説明であり、
「異様な書き方」では全くないから、この男はやはり×人間。

902日本@名無史さん2020/01/03(金) 19:02:07.46
長℃q孫という文字が、卑弥呼に贈呈された銅鏡の印なのだろうか。

903日本@名無史さん2020/01/03(金) 19:03:28.95
>>900
素数についての研究も、同時に進行させれば良いな。

904日本@名無史さん2020/01/03(金) 19:05:49.54
>>896
>完全否定だという根拠は

「世有王、皆統属女王国」
倭人伝には
伊都国が女王国の統属下にあると明記されているのだから
「女王国とは伊都国のこと」というのは
倭人伝に対する完全否定になる

905日本@名無史さん2020/01/03(金) 19:07:50.16
2 3 2 2 5 2 3 7 2 2 2 3 3 2 5 11 2 2 3 13 2 7 3 5 2 2 2 2 17 2 3 3 19 2 2 5 3 7 2 11 23 2 2 2 3 5 5 2 13 3 3 3 2 2 7 29 2 3 5 31 2 2 2 2 2 3 11 2 17 5 7 2 2 3 3 37

906日本@名無史さん2020/01/03(金) 19:12:04.38
卑弥呼の鏡「可能性高い」 大分・日田で出土の鉄鏡「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」は、中国・曹操の鏡

九州説の勝利だった!
畿内説はただの方向オンチだった!

907日本@名無史さん2020/01/03(金) 19:14:23.89
>>870
>陸行 水行 北部九州と畿内の重ね合わせを隠してるんだ。<

畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、
この男は結論先にありきの×人間であるし、
魏志倭人伝の陸行水行は筑紫付近で萬二千余里がほぼピッタリであるから、
不彌國や邪馬壹國女王之所都は、筑紫付近でよく、大和など全く関係がないので、
この男はやはり嘘つき騙しの・・・・大和説詐欺師であり、×。

908日本@名無史さん2020/01/03(金) 19:24:27.63
>>877
>私が思うに、魏志倭人伝をよく読むに、王がいるのは伊都国とかいてあるんだから、
女王国とは伊都国のことだと思うんだな。 <

萬二千余里は、不彌國や邪馬壹國女王之所都でほぼ終わっており、
伊都国は「世有王、皆統屬女王國」の国。

>ここに、すべての勘違いが始まってる。たから、卑弥呼の墓は前原遺跡。
ここで、遷都というか政権簒奪が起きるわけよ。それが畿内・邪馬台国。壱与の都。<

ここで、この男の嘘つき騙しの詐欺が始まってる。
「遷都」とか「畿内」とか「邪馬台国」とか「壱与」なんて、
存在もしなかった嘘つき騙しの、造作文言。

>だから、 それを隠すための 水行 陸行さ。
政権の位置は、北部九州から畿内に移ってる。それが隠されてる。<

陳寿は、隠しもしないし、隠す必要もないし、「南≠東」などに拠って、×。

909日本@名無史さん2020/01/03(金) 19:33:17.68
>>879
>魏志倭人伝の西暦240年代と
日本書紀の崇神紀の出来事は整合性とれる。<

書紀の記載では崇神は「前97〜後30」になり、
西暦240年と全く合わないから、×。

910日本@名無史さん2020/01/03(金) 19:33:18.17
2^5<37<2^6
3^3<37<3^4
5^2<37<5^3
7^1<37<7^2
11^1<37<11^2
13^1<37<13^2
17^1<37<17^2
19^1<37<19^2
23^1<37<23^2
29^1<37<29^2
31^1<37<31^2

911日本@名無史さん2020/01/03(金) 19:33:44.55
泡、村おこし で学問語ってはいかん 笑

いずれにせよ、卑弥呼の鏡は九州にあった。
それをどう考えるかだ。

912日本@名無史さん2020/01/03(金) 19:40:03.84
>>880
>平原遺跡よ。ごめんごめん。 もとの邪馬台国の位置が、 遷都によって移ってる。
伊都国そのものか伊都国に近い邪馬台国、卑弥呼の都、 畿内・邪馬台国、壱与の都。
それを強引に、 気づかれないよう隠してる。<

この大和説男は、
邪馬台国や畿内などの存在もしなかった嘘つき騙し文言を捏造し、
「大和日本國は九州倭国の別種の旧小国」であった事を隠し、
「南≠東」や「「自昔・・・東征毛人五十五國」があった事を隠して、
それで強引に、 気づかれないように、世間の人々を騙そうとしている。

913日本@名無史さん2020/01/03(金) 19:42:28.78
江南から来た来た詐欺のサギサギチンコロが顔面に風穴を開けられた瞬間



589日本@名無史さん2020/01/02(木) 02:07:18.22
>>570
いや、江南の話だが。

江南の高床式「住居」は5000年前にはほとんど消滅している。
その頃の江南の住居はすでに「木骨泥墻」(もっこつでいしょう)。
江南から真っ先に伝わるべきは木骨泥墻のはずである。
つまり古代日本に高床式「倉庫」を伝えた地域は江南ではありえないという事。
弥生人が江南から来たなら木骨泥墻が伝わるはずだし、仮に高床式「倉庫」が
江南から伝わったものなら、なぜ列島に伝わった途端に住居利用しなくなるのか
全く説明がつかない。


>私が見たものでは高床建物を出す遺跡は右の二つだけで、あとは全部「木骨泥墻」を
>出すものでした。陰湘城がすでに述べたように木骨泥墻ですし、その東にある石家河遺跡が
>やはり木骨泥墻です。この遺跡は陰湘城と同じように環濠集落なのですが、はるかに巨大です。
>壕の長径は1.5キロメートルに達します。これはもう村というより都市だとされています。
>時代は石家河文化時代(前2600〜2000年)です。右の情報を横並べにしてみると、
>次のようになります。

>  @河姆渡第3〜第4期(前5000〜前4000年)
>     ロングハウス式高床建物
>  A屈家ュ期(前3000〜前2600年)
>     木骨泥墻・環濠村
>  B石家河期(前2600〜前2000年)
>     木骨泥墻・環濠都市
http://www.kyoto-up.or.jp/jp/authorsessay01.html

914日本@名無史さん2020/01/03(金) 19:43:07.39
江南から来た来た詐欺のサギサギチンコロが顔面に風穴を開けられた瞬間



589日本@名無史さん2020/01/02(木) 02:07:18.22
>>570
いや、江南の話だが。

江南の高床式「住居」は5000年前にはほとんど消滅している。
その頃の江南の住居はすでに「木骨泥墻」(もっこつでいしょう)。
江南から真っ先に伝わるべきは木骨泥墻のはずである。
つまり古代日本に高床式「倉庫」を伝えた地域は江南ではありえないという事。
弥生人が江南から来たなら木骨泥墻が伝わるはずだし、仮に高床式「倉庫」が
江南から伝わったものなら、なぜ列島に伝わった途端に住居利用しなくなるのか
全く説明がつかない。


>私が見たものでは高床建物を出す遺跡は右の二つだけで、あとは全部「木骨泥墻」を
>出すものでした。陰湘城がすでに述べたように木骨泥墻ですし、その東にある石家河遺跡が
>やはり木骨泥墻です。この遺跡は陰湘城と同じように環濠集落なのですが、はるかに巨大です。
>壕の長径は1.5キロメートルに達します。これはもう村というより都市だとされています。
>時代は石家河文化時代(前2600〜2000年)です。右の情報を横並べにしてみると、
>次のようになります。

>  @河姆渡第3〜第4期(前5000〜前4000年)
>     ロングハウス式高床建物
>  A屈家ュ期(前3000〜前2600年)
>     木骨泥墻・環濠村
>  B石家河期(前2600〜前2000年)
>     木骨泥墻・環濠都市
http://www.kyoto-up.or.jp/jp/authorsessay01.html

915日本@名無史さん2020/01/03(金) 19:43:42.94
>>859

ダンワラ古墳の鏡は鉄製だが、潘氏は「倭人伝が『銅鏡』と表現したのは、鏡の総称として用いたのだろう。そこに鉄鏡が含まれても不自然ではない」と解説した。

916日本@名無史さん2020/01/03(金) 19:43:51.46
江南から来た来た詐欺のサギサギチンコロが顔面に風穴を開けられた瞬間



589日本@名無史さん2020/01/02(木) 02:07:18.22
>>570
いや、江南の話だが。

江南の高床式「住居」は5000年前にはほとんど消滅している。
その頃の江南の住居はすでに「木骨泥墻」(もっこつでいしょう)。
江南から真っ先に伝わるべきは木骨泥墻のはずである。
つまり古代日本に高床式「倉庫」を伝えた地域は江南ではありえないという事。
弥生人が江南から来たなら木骨泥墻が伝わるはずだし、仮に高床式「倉庫」が
江南から伝わったものなら、なぜ列島に伝わった途端に住居利用しなくなるのか
全く説明がつかない。


>私が見たものでは高床建物を出す遺跡は右の二つだけで、あとは全部「木骨泥墻」を
>出すものでした。陰湘城がすでに述べたように木骨泥墻ですし、その東にある石家河遺跡が
>やはり木骨泥墻です。この遺跡は陰湘城と同じように環濠集落なのですが、はるかに巨大です。
>壕の長径は1.5キロメートルに達します。これはもう村というより都市だとされています。
>時代は石家河文化時代(前2600〜2000年)です。右の情報を横並べにしてみると、
>次のようになります。

>  @河姆渡第3〜第4期(前5000〜前4000年)
>     ロングハウス式高床建物
>  A屈家ュ期(前3000〜前2600年)
>     木骨泥墻・環濠村
>  B石家河期(前2600〜前2000年)
>     木骨泥墻・環濠都市
http://www.kyoto-up.or.jp/jp/authorsessay01.html

917日本@名無史さん2020/01/03(金) 19:43:52.21
江南から来た来た詐欺のサギサギチンコロが顔面に風穴を開けられた瞬間



589日本@名無史さん2020/01/02(木) 02:07:18.22
>>570
いや、江南の話だが。

江南の高床式「住居」は5000年前にはほとんど消滅している。
その頃の江南の住居はすでに「木骨泥墻」(もっこつでいしょう)。
江南から真っ先に伝わるべきは木骨泥墻のはずである。
つまり古代日本に高床式「倉庫」を伝えた地域は江南ではありえないという事。
弥生人が江南から来たなら木骨泥墻が伝わるはずだし、仮に高床式「倉庫」が
江南から伝わったものなら、なぜ列島に伝わった途端に住居利用しなくなるのか
全く説明がつかない。


>私が見たものでは高床建物を出す遺跡は右の二つだけで、あとは全部「木骨泥墻」を
>出すものでした。陰湘城がすでに述べたように木骨泥墻ですし、その東にある石家河遺跡が
>やはり木骨泥墻です。この遺跡は陰湘城と同じように環濠集落なのですが、はるかに巨大です。
>壕の長径は1.5キロメートルに達します。これはもう村というより都市だとされています。
>時代は石家河文化時代(前2600〜2000年)です。右の情報を横並べにしてみると、
>次のようになります。

>  @河姆渡第3〜第4期(前5000〜前4000年)
>     ロングハウス式高床建物
>  A屈家ュ期(前3000〜前2600年)
>     木骨泥墻・環濠村
>  B石家河期(前2600〜前2000年)
>     木骨泥墻・環濠都市
http://www.kyoto-up.or.jp/jp/authorsessay01.html

918日本@名無史さん2020/01/03(金) 19:44:28.49
江南から来た来た詐欺のサギサギチンコロが顔面に風穴を開けられた瞬間



589日本@名無史さん2020/01/02(木) 02:07:18.22
>>570
いや、江南の話だが。

江南の高床式「住居」は5000年前にはほとんど消滅している。
その頃の江南の住居はすでに「木骨泥墻」(もっこつでいしょう)。
江南から真っ先に伝わるべきは木骨泥墻のはずである。
つまり古代日本に高床式「倉庫」を伝えた地域は江南ではありえないという事。
弥生人が江南から来たなら木骨泥墻が伝わるはずだし、仮に高床式「倉庫」が
江南から伝わったものなら、なぜ列島に伝わった途端に住居利用しなくなるのか
全く説明がつかない。


>私が見たものでは高床建物を出す遺跡は右の二つだけで、あとは全部「木骨泥墻」を
>出すものでした。陰湘城がすでに述べたように木骨泥墻ですし、その東にある石家河遺跡が
>やはり木骨泥墻です。この遺跡は陰湘城と同じように環濠集落なのですが、はるかに巨大です。
>壕の長径は1.5キロメートルに達します。これはもう村というより都市だとされています。
>時代は石家河文化時代(前2600〜2000年)です。右の情報を横並べにしてみると、
>次のようになります。

>  @河姆渡第3〜第4期(前5000〜前4000年)
>     ロングハウス式高床建物
>  A屈家ュ期(前3000〜前2600年)
>     木骨泥墻・環濠村
>  B石家河期(前2600〜前2000年)
>     木骨泥墻・環濠都市
http://www.kyoto-up.or.jp/jp/authorsessay01.html

919日本@名無史さん2020/01/03(金) 19:45:03.75
江南から来た来た詐欺のサギサギチンコロが顔面に風穴を開けられた瞬間



589日本@名無史さん2020/01/02(木) 02:07:18.22
>>570
いや、江南の話だが。

江南の高床式「住居」は5000年前にはほとんど消滅している。
その頃の江南の住居はすでに「木骨泥墻」(もっこつでいしょう)。
江南から真っ先に伝わるべきは木骨泥墻のはずである。
つまり古代日本に高床式「倉庫」を伝えた地域は江南ではありえないという事。
弥生人が江南から来たなら木骨泥墻が伝わるはずだし、仮に高床式「倉庫」が
江南から伝わったものなら、なぜ列島に伝わった途端に住居利用しなくなるのか
全く説明がつかない。


>私が見たものでは高床建物を出す遺跡は右の二つだけで、あとは全部「木骨泥墻」を
>出すものでした。陰湘城がすでに述べたように木骨泥墻ですし、その東にある石家河遺跡が
>やはり木骨泥墻です。この遺跡は陰湘城と同じように環濠集落なのですが、はるかに巨大です。
>壕の長径は1.5キロメートルに達します。これはもう村というより都市だとされています。
>時代は石家河文化時代(前2600〜2000年)です。右の情報を横並べにしてみると、
>次のようになります。

>  @河姆渡第3〜第4期(前5000〜前4000年)
>     ロングハウス式高床建物
>  A屈家ュ期(前3000〜前2600年)
>     木骨泥墻・環濠村
>  B石家河期(前2600〜前2000年)
>     木骨泥墻・環濠都市
http://www.kyoto-up.or.jp/jp/authorsessay01.html

920日本@名無史さん2020/01/03(金) 19:45:16.31
>>915
>ダンワラ古墳の鏡は鉄製だが、潘氏は「倭人伝が『銅鏡』と表現したのは、鏡の総称として用いたのだろう。そこに鉄鏡が含まれても不自然ではない」と解説した。

まさに倭人伝無視

921日本@名無史さん2020/01/03(金) 19:45:56.94
江南から来た来た詐欺のサギサギチンコロが顔面に風穴を開けられた瞬間



589日本@名無史さん2020/01/02(木) 02:07:18.22
>>570
いや、江南の話だが。

江南の高床式「住居」は5000年前にはほとんど消滅している。
その頃の江南の住居はすでに「木骨泥墻」(もっこつでいしょう)。
江南から真っ先に伝わるべきは木骨泥墻のはずである。
つまり古代日本に高床式「倉庫」を伝えた地域は江南ではありえないという事。
弥生人が江南から来たなら木骨泥墻が伝わるはずだし、仮に高床式「倉庫」が
江南から伝わったものなら、なぜ列島に伝わった途端に住居利用しなくなるのか
全く説明がつかない。


>私が見たものでは高床建物を出す遺跡は右の二つだけで、あとは全部「木骨泥墻」を
>出すものでした。陰湘城がすでに述べたように木骨泥墻ですし、その東にある石家河遺跡が
>やはり木骨泥墻です。この遺跡は陰湘城と同じように環濠集落なのですが、はるかに巨大です。
>壕の長径は1.5キロメートルに達します。これはもう村というより都市だとされています。
>時代は石家河文化時代(前2600〜2000年)です。右の情報を横並べにしてみると、
>次のようになります。

>  @河姆渡第3〜第4期(前5000〜前4000年)
>     ロングハウス式高床建物
>  A屈家ュ期(前3000〜前2600年)
>     木骨泥墻・環濠村
>  B石家河期(前2600〜前2000年)
>     木骨泥墻・環濠都市
http://www.kyoto-up.or.jp/jp/authorsessay01.html

922日本@名無史さん2020/01/03(金) 19:46:37.32
「畿内」説w

923日本@名無史さん2020/01/03(金) 19:52:00.63
>>892
>>萬二千余里は九州北岸の筑紫で、不彌國や邪馬壹國女王之所都がある事になり、<

>それ、会稽東治之東にならないから、確定的に×な。<

関係がないな。
「女王之所都」は、卑弥呼の都がある邪馬壹國の中の狭いところ。
「会稽東治之東」は、陳寿の「女王国」の位置推定文言であり、
「女王国」は共立諸国を含むから、南九州の投馬國も含むので、
「ほぼ九州島付近」である、という事になる。

924日本@名無史さん2020/01/03(金) 19:57:51.34
(2^1)(3^0)(5^0)(7^0)(11^0)(13^0)(17^0)(19^0)(23^0)(29^0)(31^0)(37^0)
(2^0)(3^1)(5^0)(7^0)(11^0)(13^0)(17^0)(19^0)(23^0)(29^0)(31^0)(37^0)
(2^2)(3^0)(5^0)(7^0)(11^0)(13^0)(17^0)(19^0)(23^0)(29^0)(31^0)(37^0)
(2^0)(3^0)(5^1)(7^0)(11^0)(13^0)(17^0)(19^0)(23^0)(29^0)(31^0)(37^0)
(2^1)(3^1)(5^0)(7^0)(11^0)(13^0)(17^0)(19^0)(23^0)(29^0)(31^0)(37^0)
(2^0)(3^0)(5^0)(7^1)(11^0)(13^0)(17^0)(19^0)(23^0)(29^0)(31^0)(37^0)
(2^3)(3^0)(5^0)(7^0)(11^0)(13^0)(17^0)(19^0)(23^0)(29^0)(31^0)(37^0)
(2^0)(3^2)(5^0)(7^0)(11^0)(13^0)(17^0)(19^0)(23^0)(29^0)(31^0)(37^0)
(2^1)(3^0)(5^1)(7^0)(11^0)(13^0)(17^0)(19^0)(23^0)(29^0)(31^0)(37^0)
(2^0)(3^0)(5^0)(7^0)(11^1)(13^0)(17^0)(19^0)(23^0)(29^0)(31^0)(37^0)
(2^2)(3^1)(5^0)(7^0)(11^0)(13^0)(17^0)(19^0)(23^0)(29^0)(31^0)(37^0)
(2^0)(3^0)(5^0)(7^0)(11^0)(13^1)(17^0)(19^0)(23^0)(29^0)(31^0)(37^0)
(2^1)(3^0)(5^0)(7^1)(11^0)(13^0)(17^0)(19^0)(23^0)(29^0)(31^0)(37^0)

925日本@名無史さん2020/01/03(金) 19:59:50.94
いずれにせよ、
ほぼ卑弥呼こ鏡で間違いないと
思われるものが九州から出てきた。

すべては、ここから出発しなくてはならない。
卑弥呼、北九州、
壱与で畿内遷都、
魏志倭人伝はそれを隠してる。

926日本@名無史さん2020/01/03(金) 20:02:59.96
或る自然数より小さい素数の数は、どのような値になるのだろうか、、、

927日本@名無史さん2020/01/03(金) 20:06:10.32
>>911
>泡、村おこし で学問語ってはいかん 笑

学問と言えるのは、倭国(阿波)だけ!  わははははは   @阿波

928日本@名無史さん2020/01/03(金) 20:06:35.86
>>902
>長℃q孫という文字が、卑弥呼に贈呈された銅鏡の印なのだろうか。<

「長℃q孫」という形の文言として記銘されたのは、
www.ne.jp/asahi/isshun/original/mater10.html
に拠れば、日本でも中国でも楽浪でも、
「内行花文鏡」だけだね。

929日本@名無史さん2020/01/03(金) 20:07:14.02
魏の水銀朱が使われた萩原古墳群出土の画文帯神獣鏡

同じく魏の水銀朱が使われた天河別神社古墳群出土の斜縁二神二獣鏡

この画文帯神獣鏡か斜縁二神二獣鏡 このどちらかだろうね 魏から下賜された鏡は。   @阿波

930日本@名無史さん2020/01/03(金) 20:09:51.92
或る自然数の階乗を素因数分解すれば、その自然数の平方根より大きな素数の因子は指数が1なのだったな、、、

931日本@名無史さん2020/01/03(金) 20:10:12.74
>>925
>魏志倭人伝はそれを隠してる。

まったく隠す必要がない!   @阿波

932日本@名無史さん2020/01/03(金) 20:13:53.78
前方後円墳は、積分経路を表現した可能性があるのだったな。

933日本@名無史さん2020/01/03(金) 20:14:01.96
景行天皇の伝説みたいなんはかなり詳しく書かれてるみたいなんやっけか?

四国天皇の話な

934日本@名無史さん2020/01/03(金) 20:14:59.59
奥山氏は、邪馬台国畿内説を完全に論破されたので、自殺体になったのだろうか。

935日本@名無史さん2020/01/03(金) 20:15:17.88
ヤマトタケルの父親なんだわな景行天皇

936日本@名無史さん2020/01/03(金) 20:15:34.69
>>925
>・・・卑弥呼、北九州、 壱与で畿内遷都、魏志倭人伝はそれを隠してる。<

「畿内」なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
大和は、九州倭国の「自昔・・・東征毛人五十五國」や「九州倭国の別種の旧小国」
であるから、遷都なんてもなかったから、×。

937日本@名無史さん2020/01/03(金) 20:20:46.77
「田上郷戸籍断簡」は日本で最初の戸籍。

この中に「建部」と見えるが「建部」とは、景行天皇御宇に日本武尊命の功名を記録しようと定められた御名代部である。

「建部」は、日本武尊命の西討東伐の道筋に置かれた。

この「田上郷戸籍断簡」には11名の「建部」が見える。

阿波に日本最古の戸籍。

阿波に「建部」

阿波ってなに?  



こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。   @阿波

938日本@名無史さん2020/01/03(金) 20:21:47.49
>>932
前方部の更に遙か彼方の前方から、出現し、真っ直ぐに後円部にアプローチし、後円部に辿りついたら、後円部の最高段の周囲を一周し、元来た直線を引き返すのだったね。

939日本@名無史さん2020/01/03(金) 20:24:20.40
>>928
>「長℃q孫」という形の文言として記銘されたのは、
www.ne.jp/asahi/isshun/original/mater10.html
>に拠れば、日本でも中国でも楽浪でも、
>「内行花文鏡」だけだね。

それはウソ
「紀年銘」鏡だけの一覧だから

940日本@名無史さん2020/01/03(金) 20:25:37.76
>>933>>935
>景行天皇の伝説みたいなんはかなり詳しく書かれてるみたいなんやっけか?
>ヤマトタケルの父親なんだわな景行天皇<

大和は九州倭国の別種の旧小国であったんだから、
天皇なんて存在もせず、記紀の造作文言であり、
だから、大和の景行もヤマトタケルも、九州倭国の阿毎氏の一将軍や武将クラスであって、
九州倭国の「西服衆夷六十六國」や「東征毛人五十五國」に働いた将軍クラス、
という事になるの。

941日本@名無史さん2020/01/03(金) 20:26:10.90
>>748


で、新撰姓氏録の松野連の記載と松野氏姫氏系図に残された記載が
BC5Cに公子忌らが遺した漢字の記録だという証拠の金石文や土器文は?


で、伝承があったという証拠は?



さっさと言えよおまえ!

942日本@名無史さん2020/01/03(金) 20:26:29.12
>>937

つまり阿波とは、日本武尊命が、西討東伐して回ったところ!   @阿波

943日本@名無史さん2020/01/03(金) 20:27:38.14
>>904
どうしてそれが否定になるの?

944日本@名無史さん2020/01/03(金) 20:29:02.78
【伊都国】

伊都国の官は爾支と記されているが、ニニギ、ニギハヤヒなどと同じ系統の名であり、神道における神職を意味する禰宜にも通じる。
平原遺跡には鳥居などの遺構があり、いわゆる神道の形式が整いつつあった。
高祖宮は伊都国から日の出の方にあり、卑弥呼らは太陽を背にして君臨していた。
高千穂宮から始まる神武東征の時、神武は天の子は太陽を背にするべきだと発言していて、伊都は神道の基本である太陽信仰の都である。
卑弥呼の鬼道とは、中国人から見た古代神道のことだったのである。

伊都国の平原遺跡は3世紀頃の女王墓であり、方格規矩四神鏡と内行花文鏡、玉を中心とする豪華な副葬品を持ち、後漢の頃には見られなかった巨大な国産の内行花文鏡、いわゆる八咫の鏡が5面含まれていたことから、倭国大乱後の倭国の王権が伊都国にあったことがわかる。
2世紀の倭国大乱以降では卑弥呼が最初の女王であるため、平原遺跡の被葬者の最有力候補が卑弥呼である。
魏志において伊都国は人口が1000戸と少ないが、魏志に卑弥呼の王宮の下女は1000人とることと一致する。
近隣の世俗の商業都市としての博多奴国と、政治・祭祀・外交のための聖なる王都である伊都が分離されていたと考えられる。

伊都国には高祖宮(高祖神社)があり、後世にはその東側の高祖山とクシフル山の山頂を囲む中国風山城(奈良時代は怡土城、戦国時代は高祖城と呼称される)があった。
高祖山を越える峠が日向峠であり、筑紫の日向のクシフル山にある高祖宮の古名が高千穂宮であったと考えられる。

アマテラスの孫のニニギはクシフル山に降臨してその西側に埋葬されたとあり、三雲南小路遺跡、井原鑓溝遺跡などが、魏志において倭国大乱の前の男王の時代70〜80年を担った日向王家の王墓であると考えられる。
三雲南小路遺跡の拝殿であり漢の金印を保管していた細石(さざれいし)神社は天孫邇邇芸と木花佐久夜毘売を祭神とし、
平原遺跡からはニニギが授かった三種の神器である八咫の鏡と思われる超大型内行花文鏡が出土しており、筑紫の伊都がその名の通り倭国王家である日向三代の都であった証拠である。

945日本@名無史さん2020/01/03(金) 20:31:02.38
>>937

そして、「日本武尊命」をお祀りしているのが、気延の郷 「白鳥神社」

「日本武尊命」の陵墓が「白鳥神社」の真西「山の神古墳」   @阿波

946日本@名無史さん2020/01/03(金) 20:35:09.96
あのな、
同じ名前のところが、二つあるんだって。
これは、近世の北海道なんかでも同じ。
ふるさとの名前つけるから。

まして、
魏志倭人伝は遷都を強引に隠そうとしてる。

947日本@名無史さん2020/01/03(金) 20:35:28.54
>>923
>関係がないな。
>「会稽東治之東」は、陳寿の「女王国」の位置推定文言であり、
>「女王国」は共立諸国を含むから、南九州の投馬國も含むので、
>「ほぼ九州島付近」である、という事になる。

デタラメだね
「道里」が北部九州までしか記載されていないなら
「会稽東治之東」ではあり得ない

「道里」が投馬国まで記載されているなら
「戸数道里」の略載されている投馬国は「女王国以北」になり
南九州ではありえない

つまり九州説は自己矛盾していて、説として成り立たない

948日本@名無史さん2020/01/03(金) 20:39:43.32
九州北部の高床式の王宮がどこから来たのかわかれば、倭王朝の起源がわかるはず。
呉の太白の末裔が詐称なら、実際にはどこから来たのだろう?

949日本@名無史さん2020/01/03(金) 20:40:59.18
>>948

倭国(阿波)から。   @阿波

950日本@名無史さん2020/01/03(金) 20:42:00.79
漢委奴国王印を最後に使用したのは卑弥呼のはず。
それがなければ倭王であることを証明できないから。
それでも魏は半信半疑だったので、わざわざ郡使を派遣して確認させた。
その金印が福岡にあったということは、まあそういうことだ。

951日本@名無史さん2020/01/03(金) 20:58:31.59
>>948
まず、おまえは無勉無学のパッパラパーだから基本ができてねえわ。

縄文末のBC11〜12Cに沿海州南部から渡来した弥生人に決まっとろうが。

まず弥生の高床式倉庫は弥生早期に「松菊里型住居とセットで」江辻遺跡に初登場する訳。

ところが、この人たちは朝鮮土器を作らない弥生土器の人たち。

つまり弥生の高床式倉庫は「松菊里型住居とセットで」弥生人自身が朝鮮南部からパクってきたものだと分かる。

最高司祭者が高床式倉庫に住むようになるのは紀元後から。

どこからも来てない。

単に弥生人起源なだけ。

952日本@名無史さん2020/01/03(金) 21:03:25.39
(8)蒸して食べる

7000年前 中国に起源

最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。

この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。

蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。

日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。

しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。

今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html


◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の甑


http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html

.

953日本@名無史さん2020/01/03(金) 21:04:58.48
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈のセットで炊く、鼎で炊く、
さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。

ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。

弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。

中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。

弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。

954日本@名無史さん2020/01/03(金) 21:29:49.72
上海から、南西諸島、九州まで、漁業民である倭人の領土なのだったね。

955日本@名無史さん2020/01/03(金) 21:35:57.98
邪馬台国畿内説は、破綻した。

956日本@名無史さん2020/01/03(金) 21:40:52.04
>>946
>あのな、 同じ名前のところが、二つあるんだって。
これは、近世の北海道なんかでも同じ。 ふるさとの名前つけるから。<

あのな、大和は九州國から別れた別種の旧小国で、
「東征毛人五十五國」の一つであったから、
別種や東征軍らは、自分らの(九州での)郷里や出身地の地名で呼んだの。

>まして、 魏志倭人伝は遷都を強引に隠そうとしてる。<

陳寿は、魏の役人らの記録を紹介してそれに説明を付ければよかっただけであり、
「隠そう」なんてする必要がなかったし、「遷都」なんてもなかった。

957日本@名無史さん2020/01/03(金) 21:40:55.32
朝鮮民族の民族運動である「日本列島には、朝鮮半島経由で魏志倭人伝時代までの物事が伝来したのだ」という宣伝は、朝鮮民族の民族運動である邪馬台国畿内説と同時に、完全に破綻しました。

958日本@名無史さん2020/01/03(金) 21:46:52.34
畿内勢力は半島由来だったけどな

959日本@名無史さん2020/01/03(金) 21:48:23.77
>>947
>デタラメだね
「道里」が北部九州までしか記載されていないなら 「会稽東治之東」ではあり得ない <

北部九州は、女王國であるから、あり得る。

>「道里」が投馬国まで記載されているなら<

投馬國への「道里」は、記載されていない。

>「戸数道里」の略載されている投馬国は「女王国以北」になり
南九州ではありえない <

「戸数」は倭人からの伝聞であり、道里は始めから記載されていないから、
「女王國以北」にならない。

つまり類スレ主の大和説は、嘘吐き騙しばかりであり、説として成り立たない。

960日本@名無史さん2020/01/03(金) 21:52:25.95
>>948
>九州北部の高床式の王宮がどこから来たのかわかれば、倭王朝の起源がわかるはず。<

吉野ヶ里でも、高床式があっても、王宮とは限らなかった。

>呉の太白の末裔が詐称なら、実際にはどこから来たのだろう?<

倭人の自称であり、詐称ではなかった。

961日本@名無史さん2020/01/03(金) 21:54:27.84
中国人工作員なのか なぜか言わない


琉球王国
wiki

琉球王国の正史『中山世鑑』や『おもろさうし』などでは、
12世紀に源為朝(鎮西八郎)が現在の沖縄県の地に逃れ、
その子が琉球最初の王統の始祖・舜天になったとされる。

962日本@名無史さん2020/01/03(金) 21:56:18.74
>>959
>投馬國への「道里」は、記載されていない。

ならば道里を計算することが出来ないので
「会稽東治之東」に当たるという計算ができない
したがって
「会稽東治之東」に当たるという結論が出ないので

「ほぼ九州島付近」という結論も偽と判明する

963日本@名無史さん2020/01/03(金) 21:59:49.75
>>950
>漢委奴国王印を最後に使用したのは卑弥呼のはず。
>それがなければ倭王であることを証明できないから。

「漢委奴国王印」は「漢委奴国王」印なのだから
そんなもの使っても
倭王であることは証明できない

964日本@名無史さん2020/01/03(金) 22:00:21.93
朝鮮民族の民族運動である「日本列島には、朝鮮半島経由で魏志倭人伝時代までの物事が伝来したのだ」という宣伝は、朝鮮民族の民族運動である邪馬台国畿内説と同時に、完全に破綻しました。

965日本@名無史さん2020/01/03(金) 22:03:19.51
・・・気づいていると思うんだけど、
お正月などがあるでしょ、そういうのも正確には日本(日本列島)起源ではないでしょ。

966日本@名無史さん2020/01/03(金) 22:03:30.15
>>953
>弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。<

弥生人は、毛人蝦夷や、南海からの東テイ人や、
半島や沿海州からの、出雲や越などへの渡来民や、
燕の南方や、呉付近からの遺民や、徐福らの、
混合なの。

967日本@名無史さん2020/01/03(金) 22:06:39.58
計其道里當在会稽東治之東とは、今の上海からは、北東でも南東でもなく、東に「倭人」がいるのだという意味なのだったね。

968日本@名無史さん2020/01/03(金) 22:09:56.19
魏志倭人伝時代近くの朝鮮半島の者達は、マッチョな倭人に海賊行為で、奴隷として連行され、日本列島で混血した可能性があるのだったな。

969日本@名無史さん2020/01/03(金) 22:15:32.52
>>962
>>投馬國への「道里」は、記載されていない。<

>ならば道里を計算することが出来ないので「会稽東治之東」に当たるという計算ができない <

会稽東治之東は、女王國の位置推定であり、女王國は、
九州北岸の「萬二千余里」がほぼ終わった不彌國や邪馬壹國女王之所都から、
南九州の投馬國までを含むから、「会稽東治之東」に当たるという計算が出来る事になる。

>したがって「会稽東治之東」に当たるという結論が出ないので
「ほぼ九州島付近」という結論も偽と判明する<

したがって、
「会稽東治之東」に当たるという結論が出るので
「ほぼ九州島付近」という結論も真と判明する

970日本@名無史さん2020/01/03(金) 22:19:09.09
実際は、うらしまん起源?

おそらく気づいている人もいるんだけど。
有名な話なのかな?

971日本@名無史さん2020/01/03(金) 22:20:31.93
おい、奥山氏、はっけよい。

972日本@名無史さん2020/01/03(金) 22:21:24.24
聖化 日神 日霊〜津?
このときに始めて〜と書いている人がいたり。

973日本@名無史さん2020/01/03(金) 22:24:16.32
聖化〜なども、
なぜか『鳳輿』この家の話。

974日本@名無史さん2020/01/03(金) 22:26:16.48
漫画起源ではない

5chに 書いている人がいたり しても意味がない
5ch以外のソースを書け

975日本@名無史さん2020/01/03(金) 22:29:31.87
>>943
>どうしてそれが否定になるの?

伊都国が女王国の統属下にあると明記されているのだから
伊都国は女王国とは別の国で
立場は女王国が上、伊都国が下だから
「女王国とは伊都国のこと」というのは
倭人伝の記載内容への完全否定になる

976日本@名無史さん2020/01/03(金) 22:32:25.59
wwwあの時代に漫画なんてないんだけど、どこの基地外なんだ?

977日本@名無史さん2020/01/03(金) 22:34:42.20
傾いた松の木・・・の写真があるでしょ、
その時代でも同じ、ウラシマン〜?漫画やアニメなどもなかったし。

978日本@名無史さん2020/01/03(金) 22:37:12.56
>>969
>会稽東治之東は、女王國の位置推定であり、女王國は、
>九州北岸の「萬二千余里」がほぼ終わった不彌國や邪馬壹國女王之所都から、
>南九州の投馬國までを含むから、「会稽東治之東」に当たるという計算が出来る事になる。

不可能だね
九州北岸までの「道里」しか書いてないと主張するならば
その「道里」をどう計算しても会稽東治之東には達しないので九州説は確実に破綻する

979日本@名無史さん2020/01/03(金) 22:43:16.31
基地外、池沼がいるでしょ?
誰に対してレスをしているのか、わからないんだよw

「>>」
このようなレスをしなくても良いから、
誰に対しての返信なのか、書けと言っているのw

例えば「789氏よ、それは何々だよ」とか

980日本@名無史さん2020/01/03(金) 22:49:09.11
あと『日本昔話』(テレビ、1970年代〜開始)?などもやっていなかったし。
なぜ同じなんだと思う?

981日本@名無史さん2020/01/03(金) 22:54:29.08
日本政府は中国に対して「尖閣諸島は日本固有の領土」と主張するものの、「沖縄は日本固有の領土」とは主張しない。
その一方で、日本政府は「尖閣諸島は沖縄県に属する」と説明している。
尖閣諸島が沖縄県に属するなら、日本政府は「沖縄は日本固有の領土」と主張するべきだが、日本政府が「沖縄は日本固有の領土」と主張したことはただの一度もない。
この件について日本政府は国民に説明する必要がある。

982日本@名無史さん2020/01/03(金) 22:55:37.02
例えば日本昔話w

>作詞家の川内康範、監修

老婆自身、この人物よりも、
はやく生まれているし、傾いた松(モミの木?)・・・w
立っている人は、もっと上、年齢の話。

983日本@名無史さん2020/01/03(金) 23:02:52.42
>うらしまん起源

これは何の起源だ

984日本@名無史さん2020/01/03(金) 23:02:54.01
キュウリの葉、葱の華・・・、
もっと古い、昔の写真だと言っているし。

明治時代の頃?

985日本@名無史さん2020/01/03(金) 23:11:53.80
・・・、・・・、・・・、・・・???、・・・、・・・、

うらしまんwなぜ知っているんだと思う?

986日本@名無史さん2020/01/03(金) 23:13:45.34
龍宮〜・・・『鳳輿』調べると出てくるでしょ?
なぜか同じ名前の家だしなwww

傾いた松の木(モミの木?)。

987日本@名無史さん2020/01/03(金) 23:20:23.39
他のスレも同じ

基地外、池沼がいるでしょ?
精神科、精神病院に行けと言っているだけ。

988日本@名無史さん2020/01/03(金) 23:26:26.57
馬鹿だなあ。
だから、魏志倭人伝は
簒奪という事実をかけないから、
隠してるといっているだろう?
伊都国(いとで)から畿内への政権委譲の件は、
記紀にも明記されている。

邪馬台国とは、
伊都国と畿内の両方のことなのだ。

簒奪だから、遷都なんだ。
それは、書けないんだ。
けれど、記紀には、書けないことの痕跡が残っている。

なぜ、途中から行程の書き方を変えたのか?
なぜ、卑弥呼は衆を惑わす存在と書いたのか。
なにより、平原遺跡と箸墓古墳が簒奪と遷都を証明している。

989日本@名無史さん2020/01/03(金) 23:32:04.36
wwwwwwww何かわかったことがあるだろう?

ウルトラマン、ゴジラを制作している人なのかな?
それともマラソンのほうの人?

そういう話をしていたこともあったしな・・・。

990日本@名無史さん2020/01/03(金) 23:40:13.42
『千葉 漁師 日蓮』?

・・・違うと思うんだけど。

991日本@名無史さん2020/01/03(金) 23:42:14.28
成太作(ほんとーなのかな?)

かなり良いことを言っているんだけど、
日本は下で・・・とか。

992日本@名無史さん2020/01/04(土) 00:02:42.57
日本昔話の何やら〜監修など、その他も同じ。
悪く言うと、どうでも良いような人間・・・、本当は。

そうしないと、おかしくなるだろう、国の仕組みなどの話。


本来は、そうなんだけど。

993日本@名無史さん2020/01/04(土) 00:08:19.69
『何者にもなれない お前たち』(???と・・・その他みたいな設定)

994日本@名無史さん2020/01/04(土) 00:17:41.88
日本政府は中国に対して「尖閣諸島は日本固有の領土」と主張するものの、「沖縄は日本固有の領土」とは主張しない。
その一方で日本政府は「尖閣諸島は沖縄県に属する」と説明している。
尖閣諸島が沖縄県に属するなら、日本政府は「沖縄は日本固有の領土」と主張するべきだが、日本政府が「沖縄は日本固有の領土」と主張したことはただの一度もない。
この件について日本政府は国民に説明する必要がある。

995日本@名無史さん2020/01/04(土) 00:20:05.98
ほんとーの話。

「お前はデスラーか!頭おかしくなるわ!!」
という謎のレス(>>返信、応答?)があったんだけど。

漫画やアニメ、ドラマや映画、芸能関係などのスレッドではない。

996日本@名無史さん2020/01/04(土) 01:19:50.06
なぜか「撃ってもいいよ」(殺してもいいよ)みたいな謎のレスもあったり。
預言スレだったかな。

997◆n7jxAxKCBhb6 2020/01/04(土) 01:25:56.87
新スレ立てました。
http://2chb.net/r/history/1578066007/
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*本スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

998日本@名無史さん2020/01/04(土) 01:27:07.64
なんとなく、
気づいている人もいると思うんだけど、
人の家の真似している人間がいるんだろう?

悪く言うと寄生、成り済まし、騙り。

999日本@名無史さん2020/01/04(土) 01:30:35.72
なぜ誰々さんの家は収入がないのですか?と言っている人もいたり。

1000日本@名無史さん2020/01/04(土) 01:33:04.53
戦後、尖閣諸島はアメリカの施政権下に置かれたが、沖縄返還時、アメリカ国務総省は、尖閣諸島は「中立」だと言い、その後、現在に至るまで、尖閣諸島の領有権が日本にあるとは認めていない。
戦争に負けた日本はポツダム宣言を受諾したので本土以外には「吾等アメリカの決定する諸小島」しか持てなかった。
日本が尖閣諸島の領有権を主張するには、アメリカの承認が必要なのは言うまでもない。
そのアメリカは尖閣諸島は日本の領土とは認めていない。
よって日本政府が主張している「尖閣諸島は日本固有の領土」というのは国内向けのプロパガンダにすぎず、アメリカをはじめとする国際社会が日本政府の主張を認めているわけではない。


lud20210704223106ca
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