糞訛野郎笑ってんじゃねえよ
早く台風に突っ込んで死んでこい
1000 名無しさんにズームイン![sage] 2022/09/10(土) 09:14:24.43 ID:/1UHOGi00
ボケ老人が働くリスクを許容しないとな
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許容じゃなくて対策すべきだろうがアホ
円じゃなくて扇型にできんのかね。台風が巨大化するように見える
>>偏頭痛といえば去年初めて光る歯車を見た
怖かった
これって閃輝暗点のことだろ、割にあるで。何年に一回くらいの頻度だけど。
中秋の名月って、茄子や胡瓜に割り箸刺して、馬や牛を作って飾る奴だろ?
左翼メディアに洗脳されてる白痴ほど、自分が洗脳されてることを理解していない。自分が判断を下している、自分が一番正しいという観念に取り憑かれているから、他の見方他の判断材料にはまったく目を向けない。洗脳されてる人間にまともな理屈は通用しない。
戦争体験で天皇制と軍隊が諸悪の根源だと考えていた渡邉は、代々木の共産党本部へ行き、入党を申し込む。「天皇制と軍隊の二つを叩き潰すためにどうすればいいか、それが共産党だと思った」と後年語っているように、渡邉はバリバリの左翼だったのである。事実、この時代に芽生えたイデオロギーは、今も渡邉の思想基盤として残っている。『菊とバット』などの著者として知られ、渡邉の政治部記者時代に、彼の英語の個人教授をしていたというロバート・ホワイティングは、渡邉から聞いた「皇居なんて潰して、全部駐車場にしたらいい」との言葉が今も印象に残っているという。当時はすでに、大野伴睦という与党の大物に可愛がられ、保守政治に深く関与していた時期であった。
渡邉はその後、東大の細胞キャップとして東大内の共産党員約200人の学生のトップに君臨して活動を活発化させるが、最終的には派閥抗争に負けて除名処分となる。この体験が、渡邉の深層に深くトラウマとして残ったと指摘する声は多い。かつて読売新聞社会部で渡邉の後輩記者として在籍した文芸評論家の郷原宏は、「こうした体験が、屈折した左翼イデオロギーとして今も渡邉さんの心象に残っている」と指摘する。
渡辺氏はホテルオークラの料亭『山里』で定期的に行なわれるベテラン評論家と政治家との会合「山里会」を主宰し、売り出し中の政治家も「席に呼ばれたらようやく一人前」といわれる。「山里会」常連メンバーの評論家・屋山太郎氏が語る。
「記者の枠を超えた人です。組閣や自民党役員人事に力を持ち、何人もの政治家が『入閣させてほしい』とナベさんに頼みに来る。政治家がへりくだる人でした」
安倍晋三・首相や菅義偉・官房長官でさえも“ひよっこ”扱いで、定期的に“ご高説”を賜るために席を設けていたといわれる。
共産党を離れて読売新聞に入社、岸信介内閣で自民党副総裁を務めた大物政治家・大野伴睦氏の番記者になると“異能”を発揮し始める。
「駆け出しの頃は大野邸で下足番みたいなことをして大野に食い込み、大野氏の目となり耳となって情報を集め、次第に信頼されていく。渡辺氏が“〇〇を大臣にしてやってくれ”と推薦すると、大野氏が聞き入れるから大臣になりたい議員は渡辺氏に頼むようになる。当時、中曽根康弘氏はそうした口利きで科学技術庁長官に入閣したことから盟友になった。大野番になった他紙の記者も、大野氏より先に渡辺氏に挨拶に行くほどでした」(魚住氏)
同時に読売社内の権力闘争でものし上がっていく。
「彼は新人記者の時代から社長を目指し、毎週会合を開いていた。社内に“渡辺派”記者を次々と作り、キャップになる頃には社内人事にも力を持つようになっていた。ライバル幹部に『オレは社長になる。そのためには才能あるやつは邪魔だ。オレのいうことに忠実に従うやつだけが優秀な社員だ』と語っています。そして論説委員長に就任すると紙面を自分の主張に染めていった」(同前)
渡辺氏は社長に就任して名実ともに読売新聞の大権力者になると、他紙の社長とは別格の政治的影響力を持つようになる。
2007年の福田康夫政権誕生では、安倍首相(第一次政権)の辞意表明翌日に日本テレビ本社に“盟友”の氏家斉一郎氏(元日本テレビ会長、故人)とともに森喜朗氏、青木幹雄氏、山崎拓氏という当時の自民党重鎮を呼びつけ、「新・五人組」の談合で福田後継を決定した。
栃木県
流失後の神橋跡(1902年)
死者・行方不明者219名、家屋の全壊・流失約8,200戸、足尾で315ミリの雨量を記録した[5]。渡良瀬川が洪水となり、足尾での被害が大きかったことが後にこの台風の名称となった。足尾町内では神子内尋常小学校が流出するなどした[6]。
また、日光中宮祠では土石流が発生。中禅寺湖に流れ込んだ土砂が3mの高波を起こし、旅館などで被害者を出した[7]。この波は華厳滝を越えて大谷川に流れ込み、神橋、大谷橋が流失。憾満ヶ淵の「並び地蔵」も流失した[8]。裏見滝はこの台風がもとで姿を変えたという[7]。
現在、栃木県立真岡高等学校にある登録有形文化財「真岡高校記念館」は、この台風で損壊した校舎を翌年建て直したものである[7]。
茨城県
死者・行方不明者118名、家屋の全壊・流出20,164戸を記録した[7]。
このグラフから、江戸時代の大雨、強風発生に関して次のような特徴が読み取れる。
①江戸時代を通して、年代による変動はあるが、全体として大雨や強風の発生頻度が増加傾向にある。
②大雨と強風の発生頻度には、数十年の周期的変動が認められるが、そのピークは、江戸時代の三大飢饉と呼ばれる「享保の飢饉」(1720年代)、「天明の飢饉」(1780年代)、「天保の飢饉」(1830年代)に対応している。
③大雨が発生しやすい年代には、強風も発生しやすい。これはある意味で当然のことであるが、大雨や強風をもたらす原因の多くが、雷雨や発達した低気圧、台風などにあることを示唆している。
④一般に、江戸時代の大飢饉は、冷夏による凶作が引き金となって引き起こされると言われてきたが、夏季の低温や日照不足に加えて、大雨や強風などの発生頻度が増加することで飢饉を長引かせたとも言えよう。
一方、もう一つの深層水である北大西洋高緯度(グリーンランド沖)に端を発する北太平洋深層水の形成がこの時期活発になっており、南北両半球における深層水形成が同調していた可能性があることが分かった。最終退氷期の南北両半球における深層水形成の強弱と連動した温暖化、寒冷化のモードは、逆位相の関係にあることが分かっているが、完新世においては、それら逆位相の関係が成立せず、同位相で変動している可能性が認められた。このことから研究グループでは、今回の成果は、完新世においては逆位相と異なる新たなメカニズムの存在の可能性を提唱するものであることから、今後の研究の進展を期待している。【国立環境研究所】