板中を荒らしながら病的な自演とスパムを続ける「栗木ハンター」。
アフィ目的は明らかですが、その来歴や栗城スレ(まとめwiki)の妨害、当スレでの執拗な埋立てなどから
栗城ネット工作員である可能性が濃厚です。
ここは、現在もっとも不快な荒らしである「栗木ハンター(通称ワイエディ)」をヲチりつつ
登山キャンプ板の正常化を願い、情報を共有していくためのスレッドです。
【!】異常者にご注意ください【!】
(ワイエディ [123.255.128.*]) 栗木ハンター主回線
(エーイモ [1.114(115).*.*]) 別回線
(ササクッテロ*) 別回線 末尾*ラ〜ロは動的
(ワッチョイ [175.177.5.*]) 埋立荒らし
(JP [103.75.118.*]) 埋立荒らし
(アウアウカー [182.251.242.*]) 埋立荒らし
(アウアウウー [106.133.56.*]) 埋立荒らし
※他にも回線あり
■ ご覧の皆さまへ
悪質転載ブログ「wi1d28jp」 は踏まずにNG登録を。
踏んでしまった人は関連cookieを削除し、ネットショッピングは別ブラウザから。
■ 普段からアフィ対策を!
ブラウザにadblockやuBlock導入+国内フィルタ全部載せが推奨です。
スマホは広告ブロッカーも多いのでお好みのものを(フィルタ追加できるものが効果的)。
勝手な広告やスパイウェアをブロックして安全で快適なネットライフを♪
スマホ通信量の節約、時短にもなります。
☆ オリジナルはこちら!
【栗城史多まとめ @ ウィキ】
登山や活動・関係者等の詳細なまとめ。
http://www44.atwiki.jp/kuriki_fan/
http://www44.atwiki.jp/kuriki_fan/m/ [モバイル版]
【知恵袋のベストアンサー】
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1146998496
【オクサマファイル】
的確な指摘です。ご一読を。
http://baby01.net/blog/364
(当板「栗城スレ」や「海彦山彦ブログ/栗城下山劇場」もおすすめです)
※前スレ
【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)10【ダメ工作員】
http://2chb.net/r/out/1515815279/1-41
VIPQ2_EXTDAT: checked:vvvvv:1000:512:----: EXT was configured
栗城ハンター(通称エーイモ・現ワイエディ)は残念ながら
ブログの嘘や無断転載、2chでの自作自演や荒らし行為が指摘されています。
また、その異常性によって栗城検証スレでは早い段階からテンプレ入りを拒否され
住人の多くからNG登録されている存在です。
■ハンター否決の顛末 その1
http://2chb.net/r/out/1474517763/168-193
(エーイモ SEc8-aNcl [1.114.11.204]) による海彦山彦テンプレ話の流れから
エーイモ別回線と思しき (ササクッテロ) による振り
同調する (エーイモ)
ハンター推しの2回線を除き住人一致で否決
■ハンター否決の顛末 その2
http://2chb.net/r/out/1474517763/634-654
諦めきれない (エーイモ ) による蒸し返し
10名以上に即否決され悪態を吐き出す (エーイモ)
それを指摘され、罵詈雑言と共になぜか「ノースグラフィック乙^^」
■栗城ハンター拒絶の声 ふたたび
ブログの嘘や無断転載、自作自演、荒らし行為によってテンプレから排除されて久しい栗城ハンター(現ワイエディ・通称エーイモ)。
その後もエスカレートする異常性と妨害行為について、再び有志達から拒絶の声が挙がっています。
http://2chb.net/r/out/1497540942/594-n
80に達する「出ていけ」の声は圧巻。
栗城ハンター(現ワイエディ)に対する、批判スレ住人の総意です。
198 :底名無し沼さん [] :2017/06/25(日) 12:10:59.70 ID:wvnpzStD
ワイエディ=栗木ハンターの最近の書き込み例
「山野井や竹内とも交流ある」
「いろんな登山家と交流してきた」
「海外も色々行く」「ヨーロッパからアジアから南米まで様々」
「アラスカで数ヶ月過ごした」
「パタゴニアに2ヶ月滞在した時でもチャンスは数回もなかった」
「鳳来攻めて今下山中」 (鳳来山周辺でワイエディ回線の電波はエリア外)
「南谷マリンもゲスト出演してた 」「マリンにサイン貰った」 (この日南谷は出演していない)
■栗木ハンターの自演と虚栄心-2
215 :底名無し沼さん [] :2017/07/12(水) 20:44:19.28 ID:OwmiUoRb
アルパイン・ソロ・セルフレスキュー・ビッグウォール
などなど日本の書籍では書いてない技術が盛りだくさんだから
海外の技術書はとても勉強になるよ。
何故か日本では「ソロは極秘技術」みたいな傾向があって
誰にも教えられないとか自分で研究したとかいう人がやたら多いけど
海外では全然ポピュラーに知られている技術だし
隠す方がよっぽど危険だと思う。
以前、マイクロトラクションやシンチでリードソロやってるバカが居て
話してみたら「グリグリは止まらないかもしれないけどコレならそんな心配もないですし」
と言われて唖然とした。
OwmiUoRb http://hissi.org/read.php/out/20170712/T3dtaVVvUmI.html
クライミングの経験や知識を持たない栗城ハンター(現ワイエディ)に書けるコメントではありません。
もちろん他人のレスをコピペしています。
オリジナル:http://matsuri.2ch.net/test/read.cgi/out/1496137290/63
必死チェッカーによるレス抽出を意識し自らを粉飾しようとする見栄でしょうか。
とても無理のある、幼稚で浅ましい行為に映ります。
「栗城ハンターブログ」もコメントや画像の盗用で構成されています。
盗用とその誇示、という一連の異常行動は
犯罪性や心の病を感じさせます。
追記
これは真っ当にアフィリエイトに取り組む多くの人は含みません。
ただ栗城ハンターという快楽犯の撒き散らした故人中傷が不快です。
アフィそのものや金額の多寡ではなく、異常者による小銭稼ぎを兼ねた荒らし行為へのカウンターです。
これらのお知らせは繰り返し貼りますので、目障りと感じる方はNG登録してくださいね。
■栗木ハンター(エーイモ=ワイエディ)について
ブログ開設以前は栗城擁護の立場で荒らしていた来歴は今はとりあえず置いておくとして・・
現在はっきりしているのは悪質なアフィリエイト活動であるということ。
間違えて踏ませる・騙してでも踏ませようとする執拗なマルチポストとスレ立て、それは栗城スレ内良識派への嫌がらせと追い出しも兼ねながら、たまに2chを覗くようなROM層に向け、またログ化の後まで見据えて行われています。
栗城を材とし収入を得るアフィブログの目的は、つまるところ栗城との共存共栄でしかありません。
ハンターを名乗るこの異常者は、周知を口実にして理性的批判者を排しつつ工作員妄想(※後述)と思考停止を煽り
その野次馬にマウンティングしながら利己的な小銭稼ぎを拡大しようとしているのでしょう。
※工作員妄想について
栗城関係者と思しきWikipedia改竄工作は過去、実際に発覚しています。
https://www44.atwiki.jp/kuriki_fan/sp/pages/133.html
同時に、誰でも書き込める2ch掲示板においては愉快犯が成りすますことも容易です。
ハンターを名乗る荒らしのこれまでの自演成りすましの多さから、コピペやAAによる荒らし・住人を煽る幼稚な書き込みの大半はこの異常者によるものと考えていいと思います。
(別の工作員がいるとしても特定は厄介になります。いずれにしても板荒らしやスレ荒らしに関して、この異常者と栗城サイドは利害が一致します)
アフィカス - 2ちゃんねるwiki
http://info.2ch.net/index.php/アフィカス
人の嫌がることがだーいすきv(^o^)
金のためなら嫌われてもいいもんねー(^o-)-☆
概要
アフィブログ、まとめブログ、コピペブログ、剽窃ブログとも言う。(ここでの対象は2chの内容を転載するブログである)
人の書き込みを無断転載して金を稼ぐ人間の屑。アフィカスがレスをまとめたものは、アフィブログとして公開される。
基本的には管理人の主義主張に応じたレスをまとめることが多いため、大抵内容は偏向しており、ネトウヨの溜まり場になったり、厨房の巣窟になったりする。
転載される側の掲示板住民に対して、住民になりすまして対立煽りなどをしていることが発覚して以来、強烈に嫌われるようになった。
■自己宣伝はうんざり
異常者ワイエディ(栗城ハンターブログ)がアメブロ順位を喧伝しながらマルチポストしていますが、もちろん実情とかけ離れたランキングです。
ちょっと検索すればこんな情報が。
『アメブロランキングを上げる簡単な方法。
アメブロランキングには、月間総合、デイリー総合、各ジャンルのランキングがあります。
ランキング集計方法は、前日のPV数で行われます。
PV数とは、単純にブログへの総アクセス数で同一人物が何度アクセスしてもアクセス数に反映されます。
では、PV数(総アクセス数)型のアメブロランキングを上げる方法はと言うと。。。
これは超簡単!
自分で何回アクセスしてもカウント数に反映されるのだから、自分自身でブログを何回も表示すれば良い。
一番手っ取り早い方法は、ブラウザに自分のブログを表示したらキーボードのF5(リ
ロード)を連打すれば良い。
これだけで翌日確実にランキングは上がっています。』
さらにトラフィックエクスチェンジやチートツールを使えばPVを好きなだけ盛れるのがアメブロの売り。
読者たった20人の支離滅裂なパクリ日記でも一夜でランカーになれる、とても虚栄心にコミットした仕組みです。
ランキングなど何の意味もありません。
アメブロで常に上位にいる人たちって・・
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1454388374
栗城ハンターの5chでの病的な自己宣伝をみると、こういった小細工でブログを粉飾しているのは明らかですね。
栗城商法のSNSフォロワー・いいね水増しとなんら変わらない、見栄と欲得にまみれたデモンストレーションです。
嘘と自演で己を飾り、下賤な快楽とアフィのために故人や登山家を貶めてきた栗城ハンター。
5chコメントや他ブログ、マンガなど他人の著作物を盗用しあぶく銭を得ようとする小物ぶりには呆れ果てます。
正体を看破されアナウンスされた途端に上っ面の偽善を唱え始めましたが、もう騙される者もいないでしょう。
言葉を持たない故人への中傷は赦される事はありません。
ログは厳然と残っています。
■「wi1d28jp」を専ブラでNG登録 ■
● Jane Style
【ツール】【設定】【あぼーん】【NGWord】→ wi1d28jp を追加
● 2chMate
【NG編集】【Word】→ wi1d28jp を追加
● twinkle
スレを開いた状態で【NG設定(下タブの一番左)】【NGワード】→ wi1d28jp を登録
● BB2C
NGワードを使用する:ON
対象レスで該当文字列を半長押し→NGワードに登録
※親切な方に「ワイエディの推奨NG方法」としてまとめていただいたものを、スレ共通で有効なURL文字列のNG方法に改めさせて頂きました。
※「NGネーム」では無効とのご指摘により改訂しました。補足訂正等ありましたらお寄せください。
オリジナルはこちら。
↓
登山キャンプ板 自治スレ
http://matsuri.2ch.net/test/read.cgi/out/1464347504/22
【重要】「wi1d28jp」NG登録について
「wi1d28jp」のNG登録によっていくつかのスレッドの>>1が見えなくなってしまう方へ
専ブラ毎の条件設定などでクリアできない場合は「ameblo.jp/」を加えてください。
【推奨NGワード】ameblo.jp/wi1d28jp
※上記は可視化のためアルファベットの「l」を数字「1」に置き換えています。
このままコピペせず、数字をアルファベットl(小文字のエル)に修正してください。
■ 使用された回線の一つ
【175.177.5.17】
'175.177.0.0 - 175.177.255.255'に対する不正行為の連絡先は'[email protected]' です
inetnum:175.177.0.0 - 175.177.255.255 netname
:iTSCOM
descr:その通信会社
descr:541-1 Ichigao-tyou Aoba-ku横浜神奈川225-0024日本
国:JP
admin-c:JNIC1-AP
tech-c: JNIC1-AP
ステータス:ALLOCATED PORTABLE
発言:スパムや虐待の苦情のための電子メールアドレス:[email protected]
MNT-IRT:IRT-JPNIC-JP
MNT-によって:MAINT-JPNIC
MNT-下:MAINT-JPNIC
最終更新:2011-02- 17T08:16:02Z
今日も楽しくスレ潰し〜♪
さっさと次スレ立てろよキチガイw
富士山(ふじさん、英語:Mount Fuji)は、静岡県
(富士宮市、裾野市、富士市、御殿場市、駿東郡エムゾネ小山町)
と、山梨県(富士吉田市、南都留郡鳴沢村)に跨る活火山であ
る。標高3776.12 m、日本最高峰(剣ヶ峰)の独立峰
で、その優美な風貌は日本国外でも日本の象徴として広く知ら
れている。数多くの芸術作品の題材とされ芸術面で大きなエムゾネ
影響を与えただけではなく、気候や地層など地質学的にも大き
エムゾネ富士山(ふじさん、英語:Mount Fuji)は、静
岡県(富士宮市、裾野市、富士市、御殿場市、駿東郡小山町)と
、山梨県(富士吉田市、南都留郡鳴沢村)に跨る活火山である。
標高3776.12 m、日本最高峰(剣ヶ峰)の独立峰で、そ
のエムゾネ優美な風貌は日本国外でも日本の象徴として広く知られ
ている。数多くの芸術作品の題材とされ芸術面で大きな影響を与
えただけではなく、気候や地層など地質学的にも大きな影響を与
えている。懸垂曲線の山容を有した玄武岩質成層火山で構成され
、そエムゾネの山体は駿河湾の海岸まで及ぶ。古来霊峰とされ、特
に山頂部は浅間大神が鎮座するとされたため、神聖視された。噴
火を沈静化するため律令国家により浅間神社が祭祀され、浅間信
仰が確立された。また、富士山修験道の開祖とされる富士上人に
より修エムゾネ験道の霊場としても認識されるようになり、登拝が
行われるようになった。これら富士信仰は時代により多様化し、
村山修験や富士講といった一派を形成するに至る。現在、富士山
麓周辺には観光名所が多くある他、夏季シーズンには富士登山が
盛んであエムゾネる。日本三名山(三霊山)、日本百名山、日本の
地質百選に選定されている。また、1936年(昭和11年)に
は富士箱根伊豆国立公園に指定されている。その後、1952年
(昭和27年)に特別名勝、2011年(平成23年)に史跡、
さらに20エムゾネ13年(平成25年)6月22日には関連する
文化財群とともに「富士山−信仰の対象と芸術の源泉」の名で世
界文化遺産に登録された。日本の文化遺産としては13件目であ
る。富士の山とは詠んだとしても、「ふじやま」という呼称は誤
りであり、愛エムゾネ媛県大洲市柚木にある冨士山(とみすやま)
とは字も呼び方も異なる。富士山についての最も古い記録は『常
陸国風土記』における「福慈岳」という語であると言われている
。他にも多くの呼称が存在し、不二山もしくは不尽山と表記する
富士山(ふじさん、英語:Mount Fuji)は、エムゾネ静岡県
(富士宮市、裾野市、富士市、御殿場市、駿東郡小山町)と、山梨
県(富士吉田市、南都留郡鳴沢村)に跨る活火山である。標高37
76.12 m、日本最高峰(剣ヶ峰)の独立峰で、その優美な風
貌は日本国外でも日本の象徴として広く知られエムゾネている。数多く
の芸術作品の題材とされ芸術面で大きな影響を与えただけではなく
、気候や地層など地質学的にも大きな影響を与えている。懸垂曲線
の山容を有した玄武岩質成層火山で構成され、その山体は駿河湾の
海岸まで及ぶ。古来霊峰とされ、特にエムゾネ山頂部は浅間大神が鎮座
するとされたため、神聖視された。噴火を沈静化するため律令国家
により浅間神社が祭祀され、浅間信仰が確立された。また、富士山
修験道の開祖とされる富士上人により修験道の霊場としても認識さ
れるようになり、登拝が行わエムゾネれるようになった。これら富士信
仰は時代により多様化し、村山修験や富士講といった一派を形成す
るに至る。現在、富士山麓周辺には観光名所が多くある他、夏季シ
ーズンには富士登山が盛んである。日本三名山(三霊山)、日本百
名山、日本の地質百エムゾネ選に選定されている。また、1936年(
昭和11年)には富士箱根伊豆国立公園に指定されている。その後
、1952年(昭和27年)に特別名勝、2011年(平成23年
)に史跡、さらに2013年(平成25年)6月22日には関連す
る文化財群エムゾネとともに「富士山−信仰の対象と芸術の源泉」の名
で世界文化遺産に登録された。日本の文化遺産としては13件目で
ある。富士の山とは詠んだとしても、「ふじやま」という呼称は誤
りであり、愛媛県大洲市柚木にある冨士山(とみすやま)とは字も
呼エムゾネび方も異なる。富士山についての最も古い記録は『常陸国風
土記』における「福慈岳」という語であると言われている。他にも
多くの呼称が存在し、不二山もしくは不尽山と表記する古文献もあ
る。また、
な影響を与えている。懸垂曲線の山容を有した玄武岩質成層火
山で構成され、その山体は駿河湾の海岸まで及ぶ。古来霊峰と
され、特に山頂部は浅間大神が鎮座するとされたため、神聖視
されエムゾネた。噴火を沈静化するため律令国家により浅間神社が
祭祀され、浅間信仰が確立された。また、富士山修験道の開祖
とされる富士上人により修験道の霊場としても認識されるよう
になり、登拝が行われるようになった。これら富士信仰は時代
により多様化エムゾネし、村山修験や富士講といった一派を形成す
るに至る。現在、富士山麓周辺には観光名所が多くある他、夏
季シーズンには富士登山が盛んである。日本三名山(三霊山)
、日本百名山、日本の地質百選に選定されている。また、19
36年(昭和11年)エムゾネには富士箱根伊豆国立公園に指定さ
れている。その後、1952年(昭和27年)に特別名勝、2
011年(平成23年)に史跡、さらに2013年(平成25
年)6月22日には関連する文化財群とともに「富士山−信仰
の対象と芸術の源泉」の名で世エムゾネ界文化遺産に登録された。
日本の文化遺産としては13件目である。富士の山とは詠んだ
としても、「ふじやま」という呼称は誤りであり、愛媛県大洲
市柚木にある冨士山(とみすやま)とは字も呼び方も異なる。
富士山についての最も古い記録は『常陸エムゾネ国風土記』におけ
る「福慈岳」という語であると言われている。他にも多くの呼
称が存在し、不二山もしくは不尽山と表記する古文献もある。
また、『竹取物語』における伝説もある。「フジ」という長い
山の斜面を表す大和言葉から転じて富士山と称さエムゾネれたとい
う説もある。近代以降の語源説としては、宣教師・バチェラー
は、名前は「火を噴く山」を意味するアイヌ語の「フンチヌプ
リ」に由来するとの説を提示した。しかし、これは囲炉裏の中
に鎮座する火の姥神を表す「アペフチカムイ」からきた誤エムゾネ
古文献もある。エムゾネまた、『竹取物語』における伝説もある。
「フジ」という長い山の斜面を表す大和言葉から転じて富士山と
称されたという説もある。近代以降の語源説としては、宣教師・
バチェラーは、名前は「火を噴く山」を意味するアイヌ語の「フ
ンチヌプリ」に由エムゾネ来するとの説を提示した。しかし、これ
は囲炉裏の中に鎮座する火の姥神を表す「アペフチカムイ」から
きた誤解であるとの反論がある。その他の語源説として、マレー
長い山の斜面を表す大和言葉から転じて富士山と称されたという説
もある。近代以降の語源説としては、宣教師・バチェラーは、名前
は「火を噴く山」を意味するアイヌ語の「フンチヌプリ」に由来す
るとの説を提示した。しかし、これは囲炉裏の中にエムゾネ鎮座する火
の姥神を表す「アペフチカムイ」からきた誤解であるとの反論があ
る。その他の語源説として、マレー語説・マオリ語説・原ポリネシ
ア語説等がある。明確に「富士山」と表記されるに至るにおいては
駿河国富士郡に由来するとするものがありエムゾネ、記録としては都良
香の『富士山記』に「山を富士と名づくるは、郡の名に取れるなり
」とある。富士山に因む命名富士山が日本を代表する名峰であるこ
とから、日本の各地に「富士」の付く地名が多数存在している。富
士山の麓として静岡県に富士市・エムゾネ富士宮市、富士郡、山梨県に
富士吉田市・富士河口湖町・富士川町があるほか、よくあるものと
して富士山が見える場所を富士見と名づけたり(例:埼玉県富士見
市)、富士山に似ている山(主に成層火山)に「富士」の名を冠す
る例(信濃富士など)がエムゾネある。日本国外に移住した日本人たち
も、居住地付近の山を「○○富士」と呼ぶことがある。詳細は「富
士見」および「富士街道」を参照また、全国各地には少なくとも、
321座を超える数の富士と名の付く山があり、それらを郷土富士
と呼ぶ。詳細はエムゾネ「郷土富士」を参照なお、地名以外にも「富士
」を冠した名称は多く存在する。詳細は「フジ」を参照また、異名
として芙蓉峰とも言う。詳細は「芙蓉」を参照地質学上の富士山富
士山周辺の地形図富士山の構造図地質学上の富士山は典型的な成層
火山でエムゾネあり、この種の火山特有の美しい稜線を持つ。現在の富
士山の山体は、大きく分けて下記の4段階の火山活動によって形成
されたものだと考えられている。先小御岳(せんこみたけ)火山小
御岳(こみたけ)火山古富士(こふじ)火山新富士(しんふじ)エムソ
゙ネ火
解であるとの反論がある。その他の語源説として、マレー語説
・マオリ語説・原ポリネシア語説等がある。明確に「富士山」
と表記されるに至るにおいては駿河国富士郡に由来するとする
ものがあり、記録としては都良香の『富士山記』に「山を富士
と名エムゾネづくるは、郡の名に取れるなり」とある。富士山に因
む命名富士山が日本を代表する名峰であることから、日本の各
地に「富士」の付く地名が多数存在している。富士山の麓とし
て静岡県に富士市・富士宮市、富士郡、山梨県に富士吉田市・
富士河口湖町エムゾネ・富士川町があるほか、よくあるものとして
富士山が見える場所を富士見と名づけたり(例:埼玉県富士見
市)、富士山に似ている山(主に成層火山)に「富士」の名を
冠する例(信濃富士など)がある。日本国外に移住した日本人
たちも、居住地付近のエムゾネ山を「○○富士」と呼ぶことがある
。詳細は「富士見」および「富士街道」を参照また、全国各地
には少なくとも、321座を超える数の富士と名の付く山があ
り、それらを郷土富士と呼ぶ。詳細は「郷土富士」を参照なお
、地名以外にも「富士」を冠しエムゾネた名称は多く存在する。詳
細は「フジ」を参照また、異名として芙蓉峰とも言う。詳細は
「芙蓉」を参照地質学上の富士山富士山周辺の地形図富士山の
構造図地質学上の富士山は典型的な成層火山であり、この種の
火山特有の美しい稜線を持つ。現在の富エムゾネ士山の山体は、大
きく分けて下記の4段階の火山活動によって形成されたものだ
と考えられている。先小御岳(せんこみたけ)火山小御岳(こ
みたけ)火山古富士(こふじ)火山新富士(しんふじ)火山こ
の中で先小御岳が最古であり、数十万年前の更新エムゾネ世にでき
た火山である。東京大学地震研究所が2004年4月に行った
ボーリング調査によって、小御岳の下にさらに古い山体がある
ことが判明した。安山岩を主体とするこの第4の山体は「先小
語説・マオリ語説・原ポリネシア語説等がある。明確に「富士山
」と表記されるに至エムゾネるにおいては駿河国富士郡に由来する
とするものがあり、記録としては都良香の『富士山記』に「山を
富士と名づくるは、郡の名に取れるなり」とある。富士山に因む
命名富士山が日本を代表する名峰であることから、日本の各地に
「富士」の付く地名がエムゾネ多数存在している。富士山の麓とし
て静岡県に富士市・富士宮市、富士郡、山梨県に富士吉田市・富
士河口湖町・富士川町があるほか、よくあるものとして富士山が
見える場所を富士見と名づけたり(例:埼玉県富士見市)、富士
山に似ている山(主に成エムゾネ層火山)に「富士」の名を冠する
例(信濃富士など)がある。日本国外に移住した日本人たちも、
居住地付近の山を「○○富士」と呼ぶことがある。詳細は「富士
見」および「富士街道」を参照また、全国各地には少なくとも、
321座を超える数の富士エムゾネと名の付く山があり、それらを
郷土富士と呼ぶ。詳細は「郷土富士」を参照なお、地名以外にも
「富士」を冠した名称は多く存在する。詳細は「フジ」を参照ま
た、異名として芙蓉峰とも言う。詳細は「芙蓉」を参照地質学上
の富士山富士山周辺の地形図エムゾネ富士山の構造図地質学上の富
士山は典型的な成層火山であり、この種の火山特有の美しい稜線
を持つ。現在の富士山の山体は、大きく分けて下記の4段階の火
山活動によって形成されたものだと考えられている。先小御岳(
せんこみたけ)火山小御岳(こエムゾネみたけ)火山古富士(こふ
じ)火山新富士(しんふじ)火山この中で先小御岳が最古であり
、数十万年前の更新世にできた火山である。東京大学地震研究所
が2004年4月に行ったボーリング調査によって、小御岳の下
にさらに古い山体があることが判エムゾネ明した。安山岩を主体と
するこの第4の山体は「先小御岳」と名付けられた。古富士は8
万年前頃から1万5千年前頃まで噴火を続け、噴出した火山灰が
た火山である。東京大学地震研究所が2004年4月に行ったボー
リング調査によって、小御岳の下にさらに古い山体があることが判
明した。安山岩を主体とするこの第4の山体は「先小御エムゾネ岳」と
名付けられた。古富士は8万年前頃から1万5千年前頃まで噴火を
続け、噴出した火山灰が降り積もることで、標高3,000m弱ま
で成長した。山頂は宝永火口の北側1?2kmのところにあったと
考えられて
御岳」と名付けられた。古富士は8万年前頃から1万5千エムゾネ
年前頃まで噴火を続け、噴出した火山灰が降り積もることで、
標高3,000m弱まで成長した。山頂は宝永火口の北側1〜
2kmのところにあったと考えられている。2009年10月
に、GPSによる富士山の観測で地殻変動が確認された。これ
は1エムゾネ996年4月の観測開始以来初めてのことである。こ
の地殻変動により最大2センチの変化が現れ、富士宮市−富士
吉田市間で約2cm伸びた。これはマグマが蓄積している(活
火山である)現れとされている。プレートの観点からは、ユー
ラシアプレーエムゾネト外縁部で、北アメリカプレート又はオホー
ツクプレートと接するフォッサマグナ(すぐ西に糸魚川静岡構
造線)に南からフィリピン海プレートが沈み込む位置であり(
ほぼ、相模トラフと駿河トラフ及び伊豆・小笠原・マリアナ島
弧を陸上に延長した交エムゾネ点)、3個のプレートの境界域(三
重会合点(英語版))となっている。富士山下で沈み込んでい
るフィリピン海プレートのさらに下に太平洋プレートが沈み込
んでおり、富士山のマグマは、東日本にある島弧火山と同様に
太平洋プレートに由来するものエムゾネである。富士山の火山上の
特徴は、日本列島の陸上で他にない均整のとれた山体であるこ
と、日本の火山のほとんどが安山岩マグマを多く噴出している
のに対し、富士山は玄武岩マグマを多く噴出すること、側火山
が非常に多いことがある。富士山頂山頂エムゾネ火口を上空より山
頂火口山頂には火口(お鉢)がありこれを「大内院」と呼ぶ。
これを囲むようにして8つの峰がありこれを八神峰と呼ぶ。火
口の南西側に最高点の剣ヶ峰があり二等三角点(点名は、富士
山。標高3775.51m2014年4月1日改エムゾネ算)、火
口の北側には二等三角点(点名は、富士白山。標高3756.
23m2014年4月1日改算)が設置されている。火口の構
降り積もることで、標高3,000m弱まで成長した。山頂は宝
永火口の北側1〜2kmのところにエムゾネあったと考えられてい
る。2009年10月に、GPSによる富士山の観測で地殻変動
が確認された。これは1996年4月の観測開始以来初めてのこ
とである。この地殻変動により最大2センチの変化が現れ、富士
宮市−富士吉田市間で約2cm伸びたエムゾネ。これはマグマが蓄
積している(活火山である)現れとされている。プレートの観点
からは、ユーラシアプレート外縁部で、北アメリカプレート又は
オホーツクプレートと接するフォッサマグナ(すぐ西に糸魚川静
岡構造線)に南からフィリピン海プレーエムゾネトが沈み込む位置
であり(ほぼ、相模トラフと駿河トラフ及び伊豆・小笠原・マリ
アナ島弧を陸上に延長した交点)、3個のプレートの境界域(三
重会合点(英語版))となっている。富士山下で沈み込んでいる
フィリピン海プレートのさらに下に太平洋エムゾネプレートが沈み
込んでおり、富士山のマグマは、東日本にある島弧火山と同様に
太平洋プレートに由来するものである。富士山の火山上の特徴は
、日本列島の陸上で他にない均整のとれた山体であること、日本
の火山のほとんどが安山岩マグマを多く噴出エムゾネしているのに
対し、富士山は玄武岩マグマを多く噴出すること、側火山が非常
に多いことがある。富士山頂山頂火口を上空より山頂火口山頂に
は火口(お鉢)がありこれを「大内院」と呼ぶ。これを囲むよう
にして8つの峰がありこれを八神峰と呼ぶ。火エムゾネ口の南西側
に最高点の剣ヶ峰があり二等三角点(点名は、富士山。標高37
75.51m2014年4月1日改算)、火口の北側には二等三
角点(点名は、富士白山。標高3756.23m2014年4月
1日改算)が設置されている。火口の構造は、国エムゾネ土地理院
によると、最深部の標高が3538.7m、火口の深さは約23
7m、山頂火口の直径は780m、火口底の直径は130mとあ
観測で地殻変動が確認された。これは1996年4月の観測開始以
来初めてのことである。この地殻変動により最大2センチの変化が
現れ、富士宮市−富士吉田市間で約2cm伸びた。これはマグマが
蓄積している(活火山である)現れとエムゾネされている。プレートの
観点からは、ユーラシアプレート外縁部で、北アメリカプレート又
はオホーツクプレートと接するフォッサマグナ(すぐ西に糸魚川静
岡構造線)に南からフィリピン海プレートが沈み込む位置であり(
ほぼ、相模トラフと駿河トラエムゾネフ及び伊豆・小笠原・マリアナ島
弧を陸上に延長した交点)、3個のプレートの境界域(三重会合点
(英語版))となっている。富士山下で沈み込んでいるフィリピン
海プレートのさらに下に太平洋プレートが沈み込んでおり、富士山
のマグマは、東日本エムゾネにある島弧火山と同様に太平洋プレートに
由来するものである。富士山の火山上の特徴は、日本列島の陸上で
他にない均整のとれた山体であること、日本の火山のほとんどが安
山岩マグマを多く噴出しているのに対し、富士山は玄武岩マグマを
多く噴出すエムゾネること、側火山が非常に多いことがある。富士山頂
山頂火口を上空より山頂火口山頂には火口(お鉢)がありこれを「
大内院」と呼ぶ。これを囲むようにして8つの峰がありこれを八神
峰と呼ぶ。火口の南西側に最高点の剣ヶ峰があり二等三角点(点名
はエムゾネ、富士山。標高3775.51m2014年4月1日改算)
、火口の北側には二等三角点(点名は、富士白山。標高3756.
23m2014年4月1日改算)が設置されている。火口の構造は
、国土地理院によると、最深部の標高が3538.7m、火エムゾネ口
の深さは約237m、山頂火口の直径は780m、火口底の直径は
130mとある。登山道を除く8合目より上は、富士宮市にある富
士山本宮浅間大社の私有地であるが、県境と市町村境界は未確定で
ある。2014年1月の富士山世界文化遺産協議会エムゾネ後の記者会
見で
造は、国土地理院によると、最深部の標高が3538.7m、
火口の深さは約237m、山頂火口の直径は780m、火エムゾネ
口底の直径は130mとある。登山道を除く8合目より上は、
富士宮市にある富士山本宮浅間大社の私有地であるが、県境と
市町村境界は未確定である。2014年1月の富士山世界文化
遺産協議会後の記者会見でも静岡県知事の川勝平太と山梨県知
事のエムゾネ横内正明は県境を定めないことを明言している。国土
る。登山道を除く8合目より上は、富士宮市にある富士山本宮浅
間大社の私有地であるが、県境と市町村境界は未確エムゾネ定であ
る。2014年1月の富士山世界文化遺産協議会後の記者会見で
も静岡県知事の川勝平太と山梨県知事の横内正明は県境を定めな
いことを明言している。国土地理院がインターネット上で公開し
ている地形図では2013年10月から地図上の地点エムゾネを指
定すると住所、緯度・経度、標高が表示される機能が加わったが
、帰属未確定の地点の場合には近くの帰属が確定している住所が
表示されるという設定になっているため、富士山頂(剣が峰)を
指定すると静岡県富士宮市として表示されることが山梨エムゾネ県
などから指摘され、これを受けて富士山頂の住所表示については
非表示になるよう変更された。宝永山宝永山と宝永噴火口宝永山
(ほうえいざん)は宝永4年(1707年)の宝永大噴火で誕生
した側火山(寄生火山)である。富士山南東斜面に位置しエムゾネ
標高は2,693mである。宝永山の西側には巨大な噴火口が開
いている。これらを間近で見ることができる登山コースも整備さ
れている。詳細は「宝永山」を参照富士山と火山活動富士山の噴
火詳細は「富士山の噴火史」を参照最終氷期が終了した約1エムゾ
ネ万1千年前、古富士の山頂の西側で噴火が始まり、溶岩を大量
に噴出した。この溶岩によって、現在の富士山の山体である新富
士が形成された。その後、古富士の山頂が新富士の山頂の東側に
顔を出しているような状態となっていたと見られるが、約2,エム
ゾネ500〜2,800年前、風化が進んだ古富士の山頂部が大
規模な山体崩壊(「御殿場岩なだれ」)を起こして崩壊した。新
富士の山頂から溶岩が噴出していたのは、約1万1千年前〜約8
,000年前の3,000年間と、約4,500年前〜約3,2
エムゾネ00年前の1,300年間と考えられている。山頂部から
の最後の爆発的噴火は2300年前で、これ以降は山頂部からの
ないことを明言している。国土地理院がインターネット上で公開し
ている地形図では2013年10月から地図上の地点を指定すると
住所、緯度・経度、標高が表示される機能エムゾネが加わったが、帰属
未確定の地点の場合には近くの帰属が確定している住所が表示され
るという設定になっているため、富士山頂(剣が峰)を指定すると
静岡県富士宮市として表示されることが山梨県などから指摘され、
これを受けて富士山頂の住所表示エムゾネについては非表示になるよう
変更された。宝永山宝永山と宝永噴火口宝永山(ほうえいざん)は
宝永4年(1707年)の宝永大噴火で誕生した側火山(寄生火山
)である。富士山南東斜面に位置し標高は2,693mである。宝
永山の西側には巨大な噴エムゾネ火口が開いている。これらを間近で見
ることができる登山コースも整備されている。詳細は「宝永山」を
参照富士山と火山活動富士山の噴火詳細は「富士山の噴火史」を参
照最終氷期が終了した約1万1千年前、古富士の山頂の西側で噴火
が始まり、溶岩エムゾネを大量に噴出した。この溶岩によって、現在の
富士山の山体である新富士が形成された。その後、古富士の山頂が
新富士の山頂の東側に顔を出しているような状態となっていたと見
られるが、約2,500〜2,800年前、風化が進んだ古富士の
山頂部エムゾネが大規模な山体崩壊(「御殿場岩なだれ」)を起こして
崩壊した。新富士の山頂から溶岩が噴出していたのは、約1万1千
年前〜約8,000年前の3,000年間と、約4,500年前〜
約3,200年前の1,300年間と考えられている。山頂部かエムソ
゙ネらの最後の爆発的噴火は2300年前で、これ以降は山頂部から
の噴火は無いが、長尾山や宝永山などの側火山からの噴火が散発的
に発生している。延暦19年−21年(800年−802年)に延
暦噴火、貞観6年(864年)に青木が原溶岩を噴出しエムゾネた貞観
大噴火。最後に富士山が噴火したのは宝永4年(1707年)の宝
永大
地理院がインターネット上で公開している地形図では2013
年10月から地図上の地点を指定すると住所、緯度・経度、標
高が表示される機能が加わったが、帰属未確定の地点の場合に
は近くの帰属エムゾネが確定している住所が表示されるという設定
になっているため、富士山頂(剣が峰)を指定すると静岡県富
士宮市として表示されることが山梨県などから指摘され、これ
を受けて富士山頂の住所表示については非表示になるよう変更
された。宝永山宝永山エムゾネと宝永噴火口宝永山(ほうえいざん
)は宝永4年(1707年)の宝永大噴火で誕生した側火山(
寄生火山)である。富士山南東斜面に位置し標高は2,693
mである。宝永山の西側には巨大な噴火口が開いている。これ
らを間近で見ることができる登エムゾネ山コースも整備されている
。詳細は「宝永山」を参照富士山と火山活動富士山の噴火詳細
は「富士山の噴火史」を参照最終氷期が終了した約1万1千年
前、古富士の山頂の西側で噴火が始まり、溶岩を大量に噴出し
た。この溶岩によって、現在の富士山のエムゾネ山体である新富士
が形成された。その後、古富士の山頂が新富士の山頂の東側に
顔を出しているような状態となっていたと見られるが、約2,
500〜2,800年前、風化が進んだ古富士の山頂部が大規
模な山体崩壊(「御殿場岩なだれ」)を起こしてエムゾネ崩壊した
。新富士の山頂から溶岩が噴出していたのは、約1万1千年前
〜約8,000年前の3,000年間と、約4,500年前〜
約3,200年前の1,300年間と考えられている。山頂部
からの最後の爆発的噴火は2300年前で、これ以降は山エムゾネ
頂部からの噴火は無いが、長尾山や宝永山などの側火山からの
噴火が散発的に発生している。延暦19年−21年(800年
−802年)に延暦噴火、貞観6年(864年)に青木が原溶
岩を噴出した貞観大噴火。最後に富士山が噴火したのは宝永4
噴火は無いが、長尾山や宝永山などの側火山からの噴火が散発的
に発生している。延暦19年−21年(800年−802年)に
延エムゾネ暦噴火、貞観6年(864年)に青木が原溶岩を噴出し
た貞観大噴火。最後に富士山が噴火したのは宝永4年(1707
年)の宝永大噴火で、噴煙は成層圏まで到達し、江戸では約4c
mの火山灰が降り積もった。また、宝永大噴火によって富士山の
山体エムゾネに宝永山が形成された。その後も火山性の地震や噴気
が降り積もった。また、宝永大噴火によって富士山の山体に宝永山
が形成された。その後も火山性の地震や噴気がエムゾネ観測されており
、今後も噴火の可能性が残されている。噴火の年代が考証できる最
も古い記録は、『続日本紀』に記述されている、天応元年(781
年)に富士山より降灰があったくだりである。平安時代初期に成立
した『竹取物語』にも、富士山が作品エムゾネ成立の頃、活動期であっ
たことを窺わせる記述がある。平安時代の歴史書『日本三代実録』
には貞観大噴火の状況が迫力ある文体で記載され、平安時代中期の
『更級日記』には、富士山の噴気や火映現象を表した描写がある。
宝永大噴火についての記録はエムゾネ、新井白石による『折りたく柴の
記』をはじめとした文書、絵図等により多数残されている。その後
も、噴煙や鳴動の記録は多く残されているが、記述から見て短期間
かつ小規模な活動で終わったものと推測される。宝永大噴火以来3
00年にわたって噴エムゾネ火を起こしていないこともあり、1990
年代まで小学校などでは富士山は休火山と教えられていた。しかし
先述の通り富士山にはいまだ活発な活動が観測されており、また気
象庁が休火山という区分を廃止したことも重なり、現在は活火山に
区分されてエムゾネいる。2013年7月20日、産業技術総合研究所
は、1999年から約15年分の踏査データや地質調査データをま
とめ富士火山地質図第2版(Ver.1)として発表し、2016
年には修正加筆が終了した。同時に、溶岩が流れ出す規模の噴火は
過エムゾネ去2000年間に少なくとも43回あったとしている。山体
崩壊の発生地震および噴火活動にともなう山体崩壊(岩屑がんせつ
なだれ)が発生年代が不明確なものも含めて南西側に5回、北東側
に3回、東側に4回の計12回起きたとされている。また、エムゾネ直
下に存在が示唆されている活断層の活動によるマグニチュード7ク
ラスの地震による崩壊も懸念されている。主な発生歴約2900年
前(
年(エムゾネ1707年)の宝永大噴火で、噴煙は成層圏まで到達
し、江戸では約4cmの火山灰が降り積もった。また、宝永大
噴火によって富士山の山体に宝永山が形成された。その後も火
山性の地震や噴気が観測されており、今後も噴火の可能性が残
されている。エムゾネ噴火の年代が考証できる最も古い記録は、『
続日本紀』に記述されている、天応元年(781年)に富士山
より降灰があったくだりである。平安時代初期に成立した『竹
取物語』にも、富士山が作品成立の頃、活動期であったことを
窺わせる記述がある。エムゾネ平安時代の歴史書『日本三代実録』
には貞観大噴火の状況が迫力ある文体で記載され、平安時代中
期の『更級日記』には、富士山の噴気や火映現象を表した描写
がある。宝永大噴火についての記録は、新井白石による『折り
たく柴の記』をはじめとした文エムゾネ書、絵図等により多数残さ
れている。その後も、噴煙や鳴動の記録は多く残されているが
、記述から見て短期間かつ小規模な活動で終わったものと推測
される。宝永大噴火以来300年にわたって噴火を起こしてい
ないこともあり、1990年代まで小学エムゾネ校などでは富士山
は休火山と教えられていた。しかし先述の通り富士山にはいま
だ活発な活動が観測されており、また気象庁が休火山という区
分を廃止したことも重なり、現在は活火山に区分されている。
2013年7月20日、産業技術総合研究所は、エムゾネ1999
年から約15年分の踏査データや地質調査データをまとめ富士
火山地質図第2版(Ver.1)として発表し、2016年に
は修正加筆が終了した。同時に、溶岩が流れ出す規模の噴火は
過去2000年間に少なくとも43回あったとしている。エムゾネ
山体崩壊の発生地震および噴火活動にともなう山体崩壊(岩屑
がんせつなだれ)が発生年代が不明確なものも含めて南西側に
5回、北東側に3回、東側に4回の計12回起きたとされてい
が観測されており、今後も噴火の可能性が残されている。噴火の
年代が考証できる最も古い記録は、『続日本紀』に記述されてい
る、天応元年(781年)に富士山より降灰があったくだりであ
る。平エムゾネ安時代初期に成立した『竹取物語』にも、富士山が
作品成立の頃、活動期であったことを窺わせる記述がある。平安
時代の歴史書『日本三代実録』には貞観大噴火の状況が迫力ある
文体で記載され、平安時代中期の『更級日記』には、富士山の噴
気や火映エムゾネ現象を表した描写がある。宝永大噴火についての
記録は、新井白石による『折りたく柴の記』をはじめとした文書
、絵図等により多数残されている。その後も、噴煙や鳴動の記録
は多く残されているが、記述から見て短期間かつ小規模な活動で
終わったもエムゾネのと推測される。宝永大噴火以来300年にわ
たって噴火を起こしていないこともあり、1990年代まで小学
校などでは富士山は休火山と教えられていた。しかし先述の通り
富士山にはいまだ活発な活動が観測されており、また気象庁が休
火山という区エムゾネ分を廃止したことも重なり、現在は活火山に
区分されている。2013年7月20日、産業技術総合研究所は
、1999年から約15年分の踏査データや地質調査データをま
とめ富士火山地質図第2版(Ver.1)として発表し、201
6年には修正加エムゾネ筆が終了した。同時に、溶岩が流れ出す規
模の噴火は過去2000年間に少なくとも43回あったとしてい
る。山体崩壊の発生地震および噴火活動にともなう山体崩壊(岩
屑がんせつなだれ)が発生年代が不明確なものも含めて南西側に
5回、北東側に3エムゾネ回、東側に4回の計12回起きたとされ
ている。また、直下に存在が示唆されている活断層の活動による
マグニチュード7クラスの地震による崩壊も懸念されている。主
な発生歴約2900年前(御殿場泥流):東斜面で大規模(約1
8億立方メートル)エムゾネな山体崩壊が発生し、泥流が御殿場周
体崩壊が発生し、泥流が御殿場周辺から東へは足柄エムゾネ平野へ、南
へは三島周辺を通って駿河湾へ流下、山体崩壊の発生原因は不明。
1331年の元弘地震に伴い発生。1891年濃尾地震に伴い発生
。災害対策火山噴火予知連絡会(気象庁)−富士山のみを限定する
ものではないが、日本の火山活動についてエムゾネの検討を実施する。
状況に応じて見解を発表するが、噴火の日時を特定して発表するこ
とは
る。また、直下に存在が示唆されている活断層の活動によるマ
グニエムゾネチュード7クラスの地震による崩壊も懸念されている
。主な発生歴約2900年前(御殿場泥流):東斜面で大規模
(約18億立方メートル)な山体崩壊が発生し、泥流が御殿場
周辺から東へは足柄平野へ、南へは三島周辺を通って駿河湾へ
流下、山体崩エムゾネ壊の発生原因は不明。1331年の元弘地震
に伴い発生。1891年濃尾地震に伴い発生。災害対策火山噴
火予知連絡会(気象庁)−富士山のみを限定するものではない
が、日本の火山活動についての検討を実施する。状況に応じて
見解を発表するが、噴エムゾネ火の日時を特定して発表することは
ない。定例会は年3回実施されるが、噴火時には随時開催され
る。2000年10月に富士山の低周波地震が増加した際は、
ワーキンググループが設置され、富士山に関する基礎データの
収集・整理、監視体制の検討、エムゾネ火山情報発信の方法などが
集中的に検討された。富士山ハザードマップ検討委員会(内閣
府防災担当)−噴火時の広域避難のために必要なハザードマッ
プの作成が、検討委員会を通じて進められている。富士直轄砂
防事業(国土交通省)−大沢崩れを源にエムゾネして発生する大規
模な土石流から、下流の保全対象を守る砂防事業を実施中。山
梨県は2015年6月11日、「富士山噴火時避難ルートマッ
プ」を作成した。「静岡市市長の田辺信宏は2016年1月2
2日の定例記者会見で、市消防航空隊が2013エムゾネ年、富士
山で滑落した登山者を救助中にヘリコプターから落下させ、こ
の登山者が死亡した事故を受け、再発防止策として、市消防局
がヘリで救助できる山の高さに3200メートルと上限を設け
たことを明らかにした。」。地殻変動の観測国の機関(防エムゾネ
災科学技術研究所、気象庁、国土地理院、産業技術総合研究所
)及び大学(東京大学地震研究所)などにより観測が行われて
辺から東へは足柄平野へ、南へは三島周辺を通って駿河湾へ流下
、山体崩壊の発生原因は不明。1331年の元弘地震に伴い発生
。1891年濃尾地震に伴い発生。災害対策火山噴火予知連絡会
(気象庁)−富士山のエムゾネみを限定するものではないが、日本
の火山活動についての検討を実施する。状況に応じて見解を発表
するが、噴火の日時を特定して発表することはない。定例会は年
3回実施されるが、噴火時には随時開催される。2000年10
月に富士山の低周波地震エムゾネが増加した際は、ワーキンググル
ープが設置され、富士山に関する基礎データの収集・整理、監視
体制の検討、火山情報発信の方法などが集中的に検討された。富
士山ハザードマップ検討委員会(内閣府防災担当)−噴火時の広
域避難のために必要なハザエムゾネードマップの作成が、検討委員
会を通じて進められている。富士直轄砂防事業(国土交通省)−
大沢崩れを源にして発生する大規模な土石流から、下流の保全対
象を守る砂防事業を実施中。山梨県は2015年6月11日、「
富士山噴火時避難ルートマッエムゾネプ」を作成した。「静岡市市
長の田辺信宏は2016年1月22日の定例記者会見で、市消防
航空隊が2013年、富士山で滑落した登山者を救助中にヘリコ
プターから落下させ、この登山者が死亡した事故を受け、再発防
止策として、市消防局がヘリでエムゾネ救助できる山の高さに32
00メートルと上限を設けたことを明らかにした。」。地殻変動
の観測国の機関(防災科学技術研究所、気象庁、国土地理院、産
業技術総合研究所)及び大学(東京大学地震研究所)などにより
観測が行われている。国土地理院エムゾネ:地磁気観測点が、鹿野
山測地観測所、水沢測地観測所および江刺観測場に設置されてい
る。また、山頂にはGPSの電子基準点。気象庁観測所:地震計
(山頂、御殿場口8合目、吉田口6合目、鳴沢塒塚東、太郎坊)
、傾斜計(太郎坊)、空振計(太郎エムゾネ坊、上井出)、GSP
る。2000年10月に富士山の低周波地震が増加した際は、ワー
キンググループが設置され、富士エムゾネ山に関する基礎データの収集
・整理、監視体制の検討、火山情報発信の方法などが集中的に検討
された。富士山ハザードマップ検討委員会(内閣府防災担当)−噴
火時の広域避難のために必要なハザードマップの作成が、検討委員
会を通じて進められていエムゾネる。富士直轄砂防事業(国土交通省)
−大沢崩れを源にして発生する大規模な土石流から、下流の保全対
象を守る砂防事業を実施中。山梨県は2015年6月11日、「富
士山噴火時避難ルートマップ」を作成した。「静岡市市長の田辺信
宏は2016年エムゾネ1月22日の定例記者会見で、市消防航空隊が
2013年、富士山で滑落した登山者を救助中にヘリコプターから
落下させ、この登山者が死亡した事故を受け、再発防止策として、
市消防局がヘリで救助できる山の高さに3200メートルと上限を
設けたエムゾネことを明らかにした。」。地殻変動の観測国の機関(防
災科学技術研究所、気象庁、国土地理院、産業技術総合研究所)及
び大学(東京大学地震研究所)などにより観測が行われている。国
土地理院:地磁気観測点が、鹿野山測地観測所、水沢測地観測所エムソ
゙ネおよび江刺観測場に設置されている。また、山頂にはGPSの電
子基準点。気象庁観測所:地震計(山頂、御殿場口8合目、吉田口
6合目、鳴沢塒塚東、太郎坊)、傾斜計(太郎坊)、空振計(太郎
坊、上井出)、GSP(太郎坊)、望遠カメラ(萩原)エムゾネ防災科
学技術研究所:火山活動可視情報化システム(VIsualiza
tionsystemforVolcanicActivity)
噴出物災害などへの対策国土交通省、富士砂防事務所:静岡県、山
梨県と連携し火砕流、溶岩流などの火山活動にエムゾネ伴う災害を防ぐ
ための調査・検討を実施しハザードマップが作成されている。しか
し、山体崩壊を想定したハザードマップは2012年現在未作成で
ある
いる。国土地理院:地磁気観測点が、鹿野山測地観測所、水沢
測地観測所および江刺観測場に設置されている。また、山頂に
はGエムゾネPSの電子基準点。気象庁観測所:地震計(山頂、御
殿場口8合目、吉田口6合目、鳴沢塒塚東、太郎坊)、傾斜計
(太郎坊)、空振計(太郎坊、上井出)、GSP(太郎坊)、
望遠カメラ(萩原)防災科学技術研究所:火山活動可視情報化
システム(VエムゾネIsualizationsystemfo
(太郎坊)、望遠カメラ(萩原)防災科学技術研究所:火山活動
可視情報化システム(VIsualizationsystem
forVolcanicActivity)噴出物災害などへの
対策国土交通省、富士砂防事務所:静エムゾネ岡県、山梨県と連携
し火砕流、溶岩流などの火山活動に伴う災害を防ぐための調査・
検討を実施しハザードマップが作成されている。しかし、山体崩
壊を想定したハザードマップは2012年現在未作成である。富
士山と気象気候山頂は最暖月の8月でもエムゾネ平均気温が6℃し
かなく、ケッペンの気候区分では最暖月平均気温が0℃以上10
℃未満のツンドラ気候に分類される。太平洋側の気候のため1月
や2月は乾燥し、3月、4月、5月、6月が最深積雪トップ10
を占める。観測史上最低気温は−38.0エムゾネ℃で最高気温が
−30℃未満の日も過去に数回観測されていて−30℃を上回る
ことがない1日というのは北海道でも例がない。富士山での気象
観測かつて気象庁東京管区気象台が富士山頂剣ヶ峯に設置してい
た気象官署が富士山測候所である。現在は富エムゾネ士山特別地域
気象観測所となっており、自動気象観測装置による気象観測を行
っている。詳細は「富士山測候所」を参照気象現象山体に強風が
吹くと砂が巻き上げられ、周辺の自治体に降ることがある。20
10年12月15日には、神奈川県の西部からエムゾネ南部にかけ
て黒い砂が積もり、その状況から富士山の砂が巻き上げられ、西
風に乗り降り積もったと考えられると報道された。富士山北麓の
一部農地(現在の山梨県富士吉田市など)では、富士山の標高2
600m付近に現れる農鳥(鳥の形に見える残雪エムゾネ)の出現
する時期によって、農作物が豊作になる・凶作となるという言い
伝えがある。富士山では山岳波が発生することもあり墜落事故も
起きている(英国海外航空機空中分解事故など)。富士山麓の自
然環境富士山麓の天然記念物として、「富士山原始エムゾネ林及び
かなく、ケッペンの気候区分では最暖エムゾネ月平均気温が0℃以上1
0℃未満のツンドラ気候に分類される。太平洋側の気候のため1月
や2月は乾燥し、3月、4月、5月、6月が最深積雪トップ10を
占める。観測史上最低気温は−38.0℃で最高気温が−30℃未
満の日も過去に数回観測されエムゾネていて−30℃を上回ることがな
い1日というのは北海道でも例がない。富士山での気象観測かつて
気象庁東京管区気象台が富士山頂剣ヶ峯に設置していた気象官署が
富士山測候所である。現在は富士山特別地域気象観測所となってお
り、自動気象観測装エムゾネ置による気象観測を行っている。詳細は「
富士山測候所」を参照気象現象山体に強風が吹くと砂が巻き上げら
れ、周辺の自治体に降ることがある。2010年12月15日には
、神奈川県の西部から南部にかけて黒い砂が積もり、その状況から
富士山の砂エムゾネが巻き上げられ、西風に乗り降り積もったと考えら
れると報道された。富士山北麓の一部農地(現在の山梨県富士吉田
市など)では、富士山の標高2600m付近に現れる農鳥(鳥の形
に見える残雪)の出現する時期によって、農作物が豊作になる・凶
作エムゾネとなるという言い伝えがある。富士山では山岳波が発生する
こともあり墜落事故も起きている(英国海外航空機空中分解事故な
ど)。富士山麓の自然環境富士山麓の天然記念物として、「富士山
原始林及び青木ヶ原樹海」(天然記念物:1926年2月2エムゾネ4
日指定、2010年3月8日追加指定・名称変更)、「富士風穴」
(天然記念物:1929年12月17日指定)などがある。伏流水
白糸の滝(静岡県)富士山に降った雨や雪は、長い年月をかけ伏流
水として地下水脈を流れ湧き出てくる。最も高い地エムゾネ点から湧き
出す湧水として確認されている例は標高1670m(富士宮口二合
目付近)とされ、その他山麓を帯状に分布している。富士山麓にお
ける湧水の総湧出量は1968年で1日あたり154万立方メート
ル以上だと
rVolcanicActivity)噴出物災害などへの対
策国土交通省、富士砂防事務所:静岡県、山梨県と連携し火砕
流、溶岩流などの火山活動に伴う災害を防ぐための調査・検討
を実施しハザードマッエムゾネプが作成されている。しかし、山体
崩壊を想定したハザードマップは2012年現在未作成である
。富士山と気象気候山頂は最暖月の8月でも平均気温が6℃し
かなく、ケッペンの気候区分では最暖月平均気温が0℃以上1
0℃未満のツンドラ気候に分類エムゾネされる。太平洋側の気候の
ため1月や2月は乾燥し、3月、4月、5月、6月が最深積雪
トップ10を占める。観測史上最低気温は−38.0℃で最高
気温が−30℃未満の日も過去に数回観測されていて−30℃
を上回ることがない1日というのは北海エムゾネ道でも例がない。
富士山での気象観測かつて気象庁東京管区気象台が富士山頂剣
ヶ峯に設置していた気象官署が富士山測候所である。現在は富
士山特別地域気象観測所となっており、自動気象観測装置によ
る気象観測を行っている。詳細は「富士山測候所エムゾネ」を参照
気象現象山体に強風が吹くと砂が巻き上げられ、周辺の自治体
に降ることがある。2010年12月15日には、神奈川県の
西部から南部にかけて黒い砂が積もり、その状況から富士山の
砂が巻き上げられ、西風に乗り降り積もったと考えられるエムゾネ
と報道された。富士山北麓の一部農地(現在の山梨県富士吉田
市など)では、富士山の標高2600m付近に現れる農鳥(鳥
の形に見える残雪)の出現する時期によって、農作物が豊作に
なる・凶作となるという言い伝えがある。富士山では山岳波が
発生エムゾネすることもあり墜落事故も起きている(英国海外航空
機空中分解事故など)。富士山麓の自然環境富士山麓の天然記
念物として、「富士山原始林及び青木ヶ原樹海」(天然記念物
:1926年2月24日指定、2010年3月8日追加指定・
青木ヶ原樹海」(天然記念物:1926年2月24日指定、20
10年3月8日追加指定・名称変更)、「富士風穴」(天然記念
物:1929年12月17日指定)などがある。伏流水白糸の滝
(静岡県)富士山に降った雨や雪は、長い年月をかけエムゾネ伏流
水として地下水脈を流れ湧き出てくる。最も高い地点から湧き出
す湧水として確認されている例は標高1670m(富士宮口二合
目付近)とされ、その他山麓を帯状に分布している。富士山麓に
例がある。地域名称南東麓されてい柿田川(日本三大清流)、小浜
池南麓吉原湧泉群西麓湧がってい玉池(特別天然記念物)、白糸の
滝(国指定の名勝及び天然記念物)、猪之頭湧泉群北麓忍野八海(
国指定の天然記念物)またの、一エムゾネ部で駿河湾や富士五湖の西湖
(水深25m付近)で湧出があるとされている。富士山を源とする
伏流水を利用し、周辺地域で製紙業や医薬関連の製造業などの工業
が活発に行われている。また、富士山の伏流水はバナジウムを豊富
に含んでいるため、ミネエムゾネラルウォーターとして瓶詰めされ販売
されている。溶岩洞窟西湖コウモリ穴入口富士山麓周辺には大小1
00以上の溶岩洞窟が形成されている。その中でも総延長2139
mの三ツ池穴(静岡県富士宮市)は溶岩洞窟として日本一の長さを
誇る。また、山エムゾネ麓周辺で最大規模の溶岩洞窟として西湖コウモ
リ穴(山梨県南都留郡富士河口湖町)があり、国の天然記念物に指
定されている。その他、鳴沢氷穴(山梨県南都留郡鳴沢村)も国の
天然記念物に指定されている。植生富士山は標高は高いが、日本の
他の高エムゾネ山に比較すると高山植物などの植生に乏しい。これは富
士山が最終氷期が終了した後に山頂から大規模な噴火が繰り返した
ために山の生態系が破壊され、また独立峰であるため、他の山系か
らの植物の進入も遅れたためである。しかし、宝永山周辺ではいエムソ
゙ネくらか高山植物が見られる。山の上部ではタデ科オンタデ属のオ
ンタデ(御蓼)、山腹ではキク科アザミ属のフジアザミ(富士薊)
が自生している。中部山岳地帯の高山の森林限界の上にはハイマツ
帯が広がっているのが通例であるが、富士山にはハイマエムゾネツ帯は
欠如し、その代替にカラマツ林が広がっている。人間史富士山本宮
浅間大社古代古代より富士山は山岳信仰の対象とされ、富士山を神
体山として、また信仰の対象として考えることなどを指して富士信
仰と言われるようになった。特に富士山の神霊エムゾネとして考えられ
てい
名称変更)、エムゾネ「富士風穴」(天然記念物:1929年12
月17日指定)などがある。伏流水白糸の滝(静岡県)富士山
に降った雨や雪は、長い年月をかけ伏流水として地下水脈を流
れ湧き出てくる。最も高い地点から湧き出す湧水として確認さ
れている例は標高16エムゾネ70m(富士宮口二合目付近)とさ
れ、その他山麓を帯状に分布している。富士山麓における湧水
の総湧出量は1968年で1日あたり154万立方メートル以
上だという。しかし、近年湧出量の減少が確認されている例が
ある。地域名称南東麓されていエムゾネ柿田川(日本三大清流)、
小浜池南麓吉原湧泉群西麓湧がってい玉池(特別天然記念物)
、白糸の滝(国指定の名勝及び天然記念物)、猪之頭湧泉群北
麓忍野八海(国指定の天然記念物)またの、一部で駿河湾や富
士五湖の西湖(水深25m付近)で湧出エムゾネがあるとされてい
る。富士山を源とする伏流水を利用し、周辺地域で製紙業や医
薬関連の製造業などの工業が活発に行われている。また、富士
山の伏流水はバナジウムを豊富に含んでいるため、ミネラルウ
ォーターとして瓶詰めされ販売されている。溶岩エムゾネ洞窟西湖
コウモリ穴入口富士山麓周辺には大小100以上の溶岩洞窟が
形成されている。その中でも総延長2139mの三ツ池穴(静
岡県富士宮市)は溶岩洞窟として日本一の長さを誇る。また、
山麓周辺で最大規模の溶岩洞窟として西湖コウモリ穴(山エムゾネ
梨県南都留郡富士河口湖町)があり、国の天然記念物に指定さ
れている。その他、鳴沢氷穴(山梨県南都留郡鳴沢村)も国の
天然記念物に指定されている。植生富士山は標高は高いが、日
本の他の高山に比較すると高山植物などの植生に乏しい。これ
は富エムゾネ士山が最終氷期が終了した後に山頂から大規模な噴火
が繰り返したために山の生態系が破壊され、また独立峰である
ため、他の山系からの植物の進入も遅れたためである。しかし
おける湧水の総湧出量は1968年で1日あたり154エムゾネ万
立方メートル以上だという。しかし、近年湧出量の減少が確認さ
れている例がある。地域名称南東麓されてい柿田川(日本三大清
流)、小浜池南麓吉原湧泉群西麓湧がってい玉池(特別天然記念
物)、白糸の滝(国指定の名勝及び天然記念物)、猪之頭エムゾネ
湧泉群北麓忍野八海(国指定の天然記念物)またの、一部で駿河
湾や富士五湖の西湖(水深25m付近)で湧出があるとされてい
る。富士山を源とする伏流水を利用し、周辺地域で製紙業や医薬
関連の製造業などの工業が活発に行われている。また、富士エムゾ
ネ山の伏流水はバナジウムを豊富に含んでいるため、ミネラルウ
ォーターとして瓶詰めされ販売されている。溶岩洞窟西湖コウモ
リ穴入口富士山麓周辺には大小100以上の溶岩洞窟が形成され
ている。その中でも総延長2139mの三ツ池穴(静岡県富士エム
ゾネ宮市)は溶岩洞窟として日本一の長さを誇る。また、山麓周
辺で最大規模の溶岩洞窟として西湖コウモリ穴(山梨県南都留郡
富士河口湖町)があり、国の天然記念物に指定されている。その
他、鳴沢氷穴(山梨県南都留郡鳴沢村)も国の天然記念物に指定
エムゾネされている。植生富士山は標高は高いが、日本の他の高山
に比較すると高山植物などの植生に乏しい。これは富士山が最終
氷期が終了した後に山頂から大規模な噴火が繰り返したために山
の生態系が破壊され、また独立峰であるため、他の山系からの植
物エムゾネの進入も遅れたためである。しかし、宝永山周辺ではい
くらか高山植物が見られる。山の上部ではタデ科オンタデ属のオ
ンタデ(御蓼)、山腹ではキク科アザミ属のフジアザミ(富士薊
)が自生している。中部山岳地帯の高山の森林限界の上にはハイ
マツエムゾネ帯が広がっているのが通例であるが、富士山にはハイ
マツ帯は欠如し、その代替にカラマツ林が広がっている。人間史
富士山本宮浅間大社古代古代より富士山は山岳信仰の対象とされ
社であり全国に存在する。浅間神社の総本宮が麓の富士宮市にある
富士山本宮浅間大社(浅間大社)であり、富士宮市街にある「本宮
」と、富士山頂にある「奥宮」にて富エムゾネ士山の神を祭っている。
詳細は「富士信仰」を参照古代では富士山は駿河国のものであると
する考え方が普遍的であった。これらは「高く貴き駿河なる富士の
高嶺を」(山部赤人『万葉集』)や「富士山は、駿河国に在り。」
「富士山は
、宝永山周辺ではいくらか高山植物が見られる。山の上部では
タデ科オンタエムゾネデ属のオンタデ(御蓼)、山腹ではキク科ア
ザミ属のフジアザミ(富士薊)が自生している。中部山岳地帯
の高山の森林限界の上にはハイマツ帯が広がっているのが通例
であるが、富士山にはハイマツ帯は欠如し、その代替にカラマ
ツ林が広がっている。エムゾネ人間史富士山本宮浅間大社古代古代
より富士山は山岳信仰の対象とされ、富士山を神体山として、
また信仰の対象として考えることなどを指して富士信仰と言わ
れるようになった。特に富士山の神霊として考えられている浅
間大神とコノハナノサクヤビメエムゾネを主祭神とするのが浅間神
社であり全国に存在する。浅間神社の総本宮が麓の富士宮市に
ある富士山本宮浅間大社(浅間大社)であり、富士宮市街にあ
る「本宮」と、富士山頂にある「奥宮」にて富士山の神を祭っ
ている。詳細は「富士信仰」を参照古代エムゾネでは富士山は駿河
国のものであるとする考え方が普遍的であった。これらは「高
く貴き駿河なる富士の高嶺を」(山部赤人『万葉集』)や「富
士山は、駿河国に在り。」「富士山は駿河の国の山で(省略)
まっ白な砂の山である」(都良香『富士山記』)エムゾネ、「駿河
の国にあるなる山なむ」(『竹取物語』)など広く見られるも
のである。しかし「なまよみの甲斐の国うち寄する駿河の国と
こちごちの」(「高橋虫麻呂」『万葉集』)のように駿河国・
甲斐国両国を跨ぐ山であるという共有の目線で記された貴エムゾネ
重な例もある。それより後期の時代、イエズス会のジョアン・
ロドリゲスは自著『日本教会史』にて「富士山は駿河国に帰属
している」としているため、帰属は駿河国という関係は継続さ
れていたと考えられる。登山口は末代上人が開いた登山道を起
源とエムゾネし、登山道が完成されたそれが最初の登山道と言われ
る村山口である。これにより富士修験が成立したとされる。次
都良香『富士山記』)、「駿河の国にあるなる山なむ」(『竹取物
語』)など広く見られるものである。しかし「なまよみの甲斐の国
うち寄する駿河の国とこちごちの」(「高橋虫麻呂」『万葉集』)
のように駿河国・甲エムゾネ斐国両国を跨ぐ山であるという共有の目線
で記された貴重な例もある。それより後期の時代、イエズス会のジ
ョアン・ロドリゲスは自著『日本教会史』にて「富士山は駿河国に
帰属している」としているため、帰属は駿河国という関係は継続さ
れていたとエムゾネ考えられる。登山口は末代上人が開いた登山道を起
源とし、登山道が完成されたそれが最初の登山道と言われる村山口
である。これにより富士修験が成立したとされる。次第に他の登山
道も開削されてゆき、大宮・村山口、須山口、須走口が存在してる
。エムゾネ神仏習合は富士山も例外ではなかった。山頂部は仏の世界と
考えられるようになり、特別な意味を持つようになった。遺例とし
ては正嘉3年(1259年)の紀年銘である木造坐像が古いとされ
、これは大日堂(村山)の旧本尊であった。鎌倉時代の書物エムゾネで
ある『吾妻鏡』には神仏習合による「富士大菩薩」や「浅間大菩薩
」という呼称が確認されている。富士山頂の8つの峯(八神峰)を
「八葉」と呼ぶことも神仏習合に由来し、文永年間(1264年−
1275年)の『万葉集註釈』には「いただきに八エムゾネ葉の嶺あり
」とある。その他多くの書物で「八葉」の記述が確認できる。江戸
時代江戸時代になると、徳川家康による庇護の下、本殿などの造営
や内院散銭取得における優先権を得たことを基に江戸幕府より八合
目以上を寄進された経緯で、現在富士山のエムゾネ八合目より上の部分
は登山道・富士山測候所を除き浅間大社の境内となっている。登山
の大衆化と共に村山修験や富士講などの一派が形成され、富士信仰
を発展させていった。富士講の隆盛が見られた18世紀後半以降、
新興宗教として旧来の登山道ではエムゾネ発展できなかったために吉田
口を
第に他の登山道も開削されてゆき、大宮・村山口、須山口、須
走口が存在してる。神仏習合は富士山も例外ではなかった。山
頂部は仏の世エムゾネ界と考えられるようになり、特別な意味を持
つようになった。遺例としては正嘉3年(1259年)の紀年
銘である木造坐像が古いとされ、これは大日堂(村山)の旧本
尊であった。鎌倉時代の書物である『吾妻鏡』には神仏習合に
よる「富士大菩薩」やエムゾネ「浅間大菩薩」という呼称が確認さ
の8つの峯(八神峰)を「八葉」と呼ぶことも神仏習合に由来し
、文永年間(1264エムゾネ年−1275年)の『万葉集註釈』
には「いただきに八葉の嶺あり」とある。その他多くの書物で「
八葉」の記述が確認できる。江戸時代江戸時代になると、徳川家
康による庇護の下、本殿などの造営や内院散銭取得における優先
権を得たことを基に江戸エムゾネ幕府より八合目以上を寄進された
経緯で、現在富士山の八合目より上の部分は登山道・富士山測候
所を除き浅間大社の境内となっている。登山の大衆化と共に村山
修験や富士講などの一派が形成され、富士信仰を発展させていっ
た。富士講の隆盛が見られエムゾネた18世紀後半以降、新興宗教
として旧来の登山道では発展できなかったために吉田口を利用す
る道者が目立つようになっていたと考えられ、18世紀後半以降
では、他の登山口の合計と同程度であったという。富士参詣の人
々を「道(導)者」といい、エムゾネ例えば『妙法寺記』の明応9
年(1500年)の記録に「此年六月富士導者参事無限、関東乱
ニヨリ須走へ皆導者付也」とある。また、登山における案内者・
先導者を「先達」といい、先達の名が見える道者帳(『公文富士
氏文書』、文中に「永禄6年」エムゾネとあり)などが確認されて
いる。明治以後慶応4年(1868年)に神仏分離令が出される
と、これら神仏習合の形態は大きく崩されることとなる。富士山
中や村山における仏像の取り壊しなどが進んだ。富士山興法寺は
分離され、大日堂は人穴浅間神社エムゾネとなり大棟梁権現社は廃
されるなど改変が進んだ。北口本宮冨士浅間神社では仁王門や護
摩堂などが取り壊されることとなった。仏教的な名称なども改称
され、「八葉」の呼び名も変更された。1883年(明治16年
)に御殿場口登山道が、1906年エムゾネ(明治39年)に新大
宮口が開削された。富士山は平成23年(2011年)2月7日
に国指定文化財である「史跡」に指定された。史跡としての富士
後半以降では、他の登山口の合計と同程度であったという。富士参
詣の人々を「道(導)者」といい、例えば『妙法寺記』の明応9年
(1500年)の記録にエムゾネ「此年六月富士導者参事無限、関東乱
ニヨリ須走へ皆導者付也」とある。また、登山における案内者・先
導者を「先達」といい、先達の名が見える道者帳(『公文富士氏文
書』、文中に「永禄6年」とあり)などが確認されている。明治以
後慶応4年(1エムゾネ868年)に神仏分離令が出されると、これら
神仏習合の形態は大きく崩されることとなる。富士山中や村山にお
ける仏像の取り壊しなどが進んだ。富士山興法寺は分離され、大日
堂は人穴浅間神社となり大棟梁権現社は廃されるなど改変が進んだ
。北口エムゾネ本宮冨士浅間神社では仁王門や護摩堂などが取り壊され
ることとなった。仏教的な名称なども改称され、「八葉」の呼び名
も変更された。1883年(明治16年)に御殿場口登山道が、1
906年(明治39年)に新大宮口が開削された。富士山は平成エムソ
゙ネ23年(2011年)2月7日に国指定文化財である「史跡」に
指定された。史跡としての富士山は複数の資産から構成され「史跡
富士山」として包括されている。指定範囲は静岡県は富士宮市・裾
野市・駿東郡小山町、山梨県は富士吉田市・南都留郡富エムゾネ士河口
湖町・鳴沢村である。このとき富士山八合目以上の山頂部や各社寺
、登拝道(登山道)が指定された。その後富士山本宮浅間大社社有
地の一部、人穴富士講遺跡、各登山道が追加指定された。登山史富
士登山の伝承においては伝説的な部分が多く入エムゾネり混じっており
、諸説存在する。富士山の登山史和暦西暦内容補足推古天皇6年5
98年平安時代の甲斐の黒駒伝承には、聖徳太子が神馬に乗り富士
山の上を越えたとする記述がある。諸国からが多献上された数百匹
の中から白い甲斐の烏駒
れている。富士山頂の8つの峯(八神峰)を「八葉」と呼ぶこ
とも神仏習合に由来し、文永年間(1264年−1275年)
の『万葉集註釈』には「いただきに八葉の嶺あり」とある。そ
の他多くの書物で「八葉」の記エムゾネ述が確認できる。江戸時代
江戸時代になると、徳川家康による庇護の下、本殿などの造営
や内院散銭取得における優先権を得たことを基に江戸幕府より
八合目以上を寄進された経緯で、現在富士山の八合目より上の
部分は登山道・富士山測候所を除き浅間エムゾネ大社の境内となっ
ている。登山の大衆化と共に村山修験や富士講などの一派が形
成され、富士信仰を発展させていった。富士講の隆盛が見られ
た18世紀後半以降、新興宗教として旧来の登山道では発展で
きなかったために吉田口を利用する道者が目立つエムゾネようにな
っていたと考えられ、18世紀後半以降では、他の登山口の合
計と同程度であったという。富士参詣の人々を「道(導)者」
といい、例えば『妙法寺記』の明応9年(1500年)の記録
に「此年六月富士導者参事無限、関東乱ニヨリ須走へ皆導エムゾネ
者付也」とある。また、登山における案内者・先導者を「先達
」といい、先達の名が見える道者帳(『公文富士氏文書』、文
中に「永禄6年」とあり)などが確認されている。明治以後慶
応4年(1868年)に神仏分離令が出されると、これら神仏
習合エムゾネの形態は大きく崩されることとなる。富士山中や村山
における仏像の取り壊しなどが進んだ。富士山興法寺は分離さ
れ、大日堂は人穴浅間神社となり大棟梁権現社は廃されるなど
改変が進んだ。北口本宮冨士浅間神社では仁王門や護摩堂など
が取り壊されエムゾネることとなった。仏教的な名称なども改称さ
れ、「八葉」の呼び名も変更された。1883年(明治16年
)に御殿場口登山道が、1906年(明治39年)に新大宮口
が開削された。富士山は平成23年(2011年)2月7日に
山は複数の資産から構成され「史跡富士山」として包括されてい
る。指定範囲は静岡県は富士宮市・裾エムゾネ野市・駿東郡小山町
、山梨県は富士吉田市・南都留郡富士河口湖町・鳴沢村である。
このとき富士山八合目以上の山頂部や各社寺、登拝道(登山道)
が指定された。その後富士山本宮浅間大社社有地の一部、人穴富
士講遺跡、各登山道が追加指定された。エムゾネ登山史富士登山の
伝承においては伝説的な部分が多く入り混じっており、諸説存在
。天智天皇2年663年役小角が県は富、流刑したされた伊豆大島
から毎晩密かに逃げ出し、富エムゾネ士山へ登ったという伝説が残る。
役小角は「富士山開山の祖」ともいわれる。この役小角の登山はマ
ルセル・クルツの『世界登頂年代記』に掲載されており、記録は改
訂されたものの「世界初の登山」という記述がされていた。貞観1
7年875年平安時エムゾネ代の学者である都良香が『富士山記』の中
で山頂火口のさまを記す。山頂には常に沸き立つ火口湖があり、そ
のほとりに虎の姿に似た岩があるなど、実際に見た者でなければ知
りえない描写から、実際に登頂したか、または登頂した者に取材し
たと考えらエムゾネれる。なおこの約10年前には山頂噴火ではないが
有史最大の貞観大噴火があった。久安5年1149年『本朝世紀』
には末代上人が数百回の登山を繰りかえしたとある。回数は一致す
るものかは不明であるが、登山を多く行った人物として知られる。
江エムゾネ戸時代に入ると富士講が盛んになり、多くの参拝者が富士登
山(富士詣)をした。特に江戸後期には講社が多数存在し、富士詣
は地域社会や村落共同体の代参講としての性格を持っていた。最盛
期には吉田口だけで百軒近くの宿坊(山小屋)があった。文エムゾネ政
11年1828年気圧計による高度測定の試みシーボルトの弟子で
ある二宮敬作が登頂し、気圧の変化により高度測定を行った。伊能
忠敬の測量では2603m−3732mとされていたが、この測定
では3794.5mと算出されている。天保3年1エムゾネ832年高
山たつが女性として初登頂。女人禁制が敷かれていた時代である。
嘉永6年1852年松平宗秀(本庄宗秀)が近世大名として初登頂
。富士宮市の有形文化財となっている、造り酒屋の主人が記した「
袖日記」という古記録に宮津藩主松平宗秀エムゾネが富士登山を行った
記録がある。袖日
国指定文化財である「エムゾネ史跡」に指定された。史跡としての
富士山は複数の資産から構成され「史跡富士山」として包括さ
れている。指定範囲は静岡県は富士宮市・裾野市・駿東郡小山
町、山梨県は富士吉田市・南都留郡富士河口湖町・鳴沢村であ
る。このとき富士山八合目以上エムゾネの山頂部や各社寺、登拝道
(登山道)が指定された。その後富士山本宮浅間大社社有地の
一部、人穴富士講遺跡、各登山道が追加指定された。登山史富
士登山の伝承においては伝説的な部分が多く入り混じっており
、諸説存在する。富士山の登山史和暦西エムゾネ暦内容補足推古天
皇6年598年平安時代の甲斐の黒駒伝承には、聖徳太子が神
馬に乗り富士山の上を越えたとする記述がある。諸国からが多
献上された数百匹の中から白い甲斐の烏駒(くろこま)を神馬
であると見抜き、同年9月に太子が試乗すると、エムゾネ馬は天高
く飛び上がり東国へ赴き、富士山を越えて信濃国まで至ると、
3日を経て都へ帰還したという。天智天皇2年663年役小角
が県は富、流刑したされた伊豆大島から毎晩密かに逃げ出し、
富士山へ登ったという伝説が残る。役小角は「富士山開山エムゾネ
の祖」ともいわれる。この役小角の登山はマルセル・クルツの
『世界登頂年代記』に掲載されており、記録は改訂されたもの
の「世界初の登山」という記述がされていた。貞観17年87
5年平安時代の学者である都良香が『富士山記』の中で山頂火
口のエムゾネさまを記す。山頂には常に沸き立つ火口湖があり、そ
のほとりに虎の姿に似た岩があるなど、実際に見た者でなけれ
ば知りえない描写から、実際に登頂したか、または登頂した者
に取材したと考えられる。なおこの約10年前には山頂噴火で
はないが有史エムゾネ最大の貞観大噴火があった。久安5年114
9年『本朝世紀』には末代上人が数百回の登山を繰りかえした
とある。回数は一致するものかは不明であるが、登山を多く行
ったり、たとえ社寺参詣であってエムゾネも寄り道することは許されな
いため、富士に登ることを幕府に願い出るも中々許可が出ず、3年
を経て許可を得るも「馬返し」と呼ばれる地点までであった。(馬
返しというのは一合目よりも下の場所であり、登山客はここで馬を
下りて山に登るという所
った人物として知られる。江戸時代に入ると富士講が盛んにな
り、多くの参拝者が富エムゾネ士登山(富士詣)をした。特に江戸
後期には講社が多数存在し、富士詣は地域社会や村落共同体の
代参講としての性格を持っていた。最盛期には吉田口だけで百
軒近くの宿坊(山小屋)があった。文政11年1828年気圧
計による高度測定の試みシーボエムゾネルトの弟子である二宮敬作
が登頂し、気圧の変化により高度測定を行った。伊能忠敬の測
量では2603m−3732mとされていたが、この測定では
3794.5mと算出されている。天保3年1832年高山た
つが女性として初登頂。女人禁制が敷かエムゾネれていた時代であ
る。嘉永6年1852年松平宗秀(本庄宗秀)が近世大名とし
て初登頂。富士宮市の有形文化財となっている、造り酒屋の主
人が記した「袖日記」という古記録に宮津藩主松平宗秀が富士
登山を行った記録がある。袖日記の6番によるとエムゾネ、宗秀は
江戸と宮津を参勤交代で往復しているうちに富士山に登ろうと
思い始めたが、参勤交代の道程は幕府に指定されたルートであ
り、これを逸脱したコースを通ったり、たとえ社寺参詣であっ
ても寄り道することは許されないため、富士に登ることをエムゾネ
幕府に願い出るも中々許可が出ず、3年を経て許可を得るも「
馬返し」と呼ばれる地点までであった。(馬返しというのは一
合目よりも下の場所であり、登山客はここで馬を下りて山に登
るという所)そこで宗秀は嘉永6年(1852)6月21日、
幕府エムゾネに内緒で登山を決意し、明け方から出発して山を登り
始め、昼過ぎには頂上に着いたという。宗秀の富士山登頂は、
近世大名が富士登山を行った唯一の記録となった。万延元年1
860年英国公使オールコックが外国人として初登頂。『古事
類苑』にオーエムゾネルコックの登山についての記録(富士重本が
寺社奉行所に提出した届出)があり、「英人富士山ヲ測量スル
山たつが女性として初登頂。女人禁制が敷かれていた時代である
。嘉永6年1852年松平宗秀(本庄宗秀)が近世大名として初
登頂。富士宮市の有形文化財となっている、造り酒屋の主エムゾネ
人が記した「袖日記」という古記録に宮津藩主松平宗秀が富士登
山を行った記録がある。袖日記の6番によると、宗秀は江戸と宮
津を参勤交代で往復しているうちに富士山に登ろうと思い始めた
が、参勤交代の道程は幕府に指定されたルートであり、これエムゾ
ネを逸脱したコースを通ったり、たとえ社寺参詣であっても寄り
道することは許されないため、富士に登ることを幕府に願い出る
も中々許可が出ず、3年を経て許可を得るも「馬返し」と呼ばれ
る地点までであった。(馬返しというのは一合目よりも下の場エム
ゾネ所であり、登山客はここで馬を下りて山に登るという所)そ
こで宗秀は嘉永6年(1852)6月21日、幕府に内緒で登山
を決意し、明け方から出発して山を登り始め、昼過ぎには頂上に
着いたという。宗秀の富士山登頂は、近世大名が富士登山を行っ
エムゾネた唯一の記録となった。万延元年1860年英国公使オー
ルコックが外国人として初登頂。『古事類苑』にオールコックの
登山についての記録(富士重本が寺社奉行所に提出した届出)が
あり、「英人富士山ヲ測量スルニ就キ、大宮司ヨリ届書寫…廿二
日エムゾネ大雨にて、廿四日晝立、大宮小休、村山泊に相成り、廿
五日快晴致し、不士山六合目へ泊り、廿六日快晴頂上いたし…」
とある。オールコックは7月24日に大宮から村山に入り登山を
行い、26日に登頂した。明治4年1872年女人禁制が解かれ
る。エムゾネ明治時代になると信仰登山は徐々に衰退してゆき、代
わって娯楽やスポーツとしても登られるようになり、欧米の近代
登山技術が取り入れられることになる。明治25年1892年英
国人のウォルター・ウェストンが登頂。翌年にも登頂した。その
後本をエムゾネ出版し富士山などの日本の山々を世界に紹介した。
近世大名が富士登山を行った唯一の記録となった。万延元年186
0年英国公使オエムゾネールコックが外国人として初登頂。『古事類苑
』にオールコックの登山についての記録(富士重本が寺社奉行所に
提出した届出)があり、「英人富士山ヲ測量スルニ就キ、大宮司ヨ
リ届書寫…廿二日大雨にて、廿四日晝立、大宮小休、村山泊に相成
り、廿エムゾネ五日快晴致し、不士山六合目へ泊り、廿六日快晴頂上い
たし…」とある。オールコックは7月24日に大宮から村山に入り
登山を行い、26日に登頂した。明治4年1872年女人禁制が解
かれる。明治時代になると信仰登山は徐々に衰退してゆき、代わエムソ
゙ネって娯楽やスポーツとしても登られるようになり、欧米の近代登
山技術が取り入れられることになる。明治25年1892年英国人
のウォルター・ウェストンが登頂。翌年にも登頂した。その後本を
出版し富士山などの日本の山々を世界に紹介した。明治エムゾネ28年
1895年野中到が冬季初登頂。2月16日に御殿場口から単独で
登頂。同年10月から12月まで山頂で気象観測を行った。大正1
2年1923年皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)の登山7月26日
の事、須走に赴いてから8合目まで乗馬にて登エムゾネ山後、8合目以
上は徒歩にて登山を行なった。奥宮を参拝し金剛棒に焼印などを行
った後、御殿場口より下山された。大正12年1923年秩父宮雍
仁親王の登山8月20日の夜に御殿場口から登山し、翌朝頂上に到
着。奥宮を参拝後、下山。昭和2年1エムゾネ927年中村テルが冬季
女性初登頂1月1日に御殿場口から登頂、男性2人と共に。昭和6
3年1988年浩宮徳仁親王(当時)の登山。8月1日−2日の登
山で、須走口から八合目を往復した。天候の悪化で登頂は断念され
る。平成20年2008年皇エムゾネ太子徳仁親王が登頂。8月7日に
富士宮口を出発後
ニ就キ、大宮司ヨリ届書寫…廿二日大雨にて、廿四日晝立、大
宮小休、村山泊に相成り、廿五日快晴致し、不士山六合目へ泊
り、廿六日快晴頂上いエムゾネたし…」とある。オールコックは7
月24日に大宮から村山に入り登山を行い、26日に登頂した
。明治4年1872年女人禁制が解かれる。明治時代になると
信仰登山は徐々に衰退してゆき、代わって娯楽やスポーツとし
ても登られるようになり、欧米エムゾネの近代登山技術が取り入れ
明治28年1895年野中到が冬季初登頂。2月16日に御殿場
口から単独で登頂。同年10月から12月まで山頂で気象観測を
行った。大正12年1923年皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)
の登山7エムゾネ月26日の事、須走に赴いてから8合目まで乗馬
にて登山後、8合目以上は徒歩にて登山を行なった。奥宮を参拝
し金剛棒に焼印などを行った後、御殿場口より下山された。大正
12年1923年秩父宮雍仁親王の登山8月20日の夜に御殿場
口から登山エムゾネし、翌朝頂上に到着。奥宮を参拝後、下山。昭
和2年1927年中村テルが冬季女性初登頂1月1日に御殿場口
から登頂、男性2人と共に。昭和63年1988年浩宮徳仁親王
(当時)の登山。8月1日−2日の登山で、須走口から八合目を
往復した。天エムゾネ候の悪化で登頂は断念される。平成20年2
008年皇太子徳仁親王が登頂。8月7日に富士宮口を出発後、
御殿場口登山道に入り登頂。富士山を巡る利権争い山役銭と内院
散銭『冨嶽三十六景諸人登山』山麓の各地域には各登山道があり
、特に村山口とエムゾネ大宮口、須走口、須山口が古来の登山道で
あり、その登山道を管理する地域の浅間大社が山役銭を徴収して
いた。これらの地域は互いに山役銭などを巡り、争いを起こして
いる。特に内院散銭は相当額になるため、争いの火種になりやす
かった。例えば須エムゾネ走村への配分だけでも1年で76両を越
えたといい、一戸に約一両が配当される計算になるという。内院
散銭の権利は、大名などに与えられた権利を根拠に主に3地域に
よって争われた。「村山」と「須走」と「大宮」である。村山に
おいては、1533エムゾネ年(天文2年)に村山三坊の「辻之坊
」が今川氏輝により内院散銭の取得権を与えられている。須走は
1577年(天正5年)に武田氏により薬師堂(現在の久須志神
社)の開帳日の内院散銭の取得権が与えられている。大宮は16
09年(慶長14年)エムゾネに徳川家康が内院散銭を浅間大社に
山道であり、その登エムゾネ山道を管理する地域の浅間大社が山役銭を
徴収していた。これらの地域は互いに山役銭などを巡り、争いを起
こしている。特に内院散銭は相当額になるため、争いの火種になり
やすかった。例えば須走村への配分だけでも1年で76両を越えた
といい、一エムゾネ戸に約一両が配当される計算になるという。内院散
銭の権利は、大名などに与えられた権利を根拠に主に3地域によっ
て争われた。「村山」と「須走」と「大宮」である。村山において
は、1533年(天文2年)に村山三坊の「辻之坊」が今川氏輝に
よエムゾネり内院散銭の取得権を与えられている。須走は1577年(
天正5年)に武田氏により薬師堂(現在の久須志神社)の開帳日の
内院散銭の取得権が与えられている。大宮は1609年(慶長14
年)に徳川家康が内院散銭を浅間大社に寄進し、内院散銭のエムゾネ取
得の優位権を得ている。浅間大社の大宮司が村山より登る際は山役
銭を取られたので、村山を避け「須走」から登拝する慣例などもあ
った。新規に出来た登山道である現富士吉田口は、登山道を管理し
ている「須走」に許可なく、浅間大社の大宮司富士エムゾネ信安など富
士氏が自分たちに山役銭を支払えば、「須走」の登山道を利用する
にも関わらず勝手に山がけ(登山道を作り山小屋を建てる)の許可
を与えたことで論争となり、「河口」と「吉田」は1810年に登
山ルートや山役銭の徴収方法で論争を起こエムゾネし、「大宮」と「吉
田」では薬師堂における役銭の配分で争っている過去などがある。
元禄の争論元禄16年(1703年)に散銭や山小屋経営を巡り須
走村が富士浅間神社本宮(浅間大社)を訴えた争論が元禄の争論で
ある。須走村側は東口本宮冨士浅エムゾネ間神社の神主や御師らが、浅
間大社の大宮司富士信安など富士氏らを相手取り寺社奉行に訴え出
た。訴えは三か条であっ
られることになる。明治25年1892年英国人のウォルター
・ウェストンが登頂。翌年にも登頂した。その後本を出版し富
士山などの日本の山々を世界に紹介した。明治28年1895
年野中到が冬季初登頂。2月16日に御エムゾネ殿場口から単独で
登頂。同年10月から12月まで山頂で気象観測を行った。大
正12年1923年皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)の登山7
月26日の事、須走に赴いてから8合目まで乗馬にて登山後、
8合目以上は徒歩にて登山を行なった。奥宮を参エムゾネ拝し金剛
棒に焼印などを行った後、御殿場口より下山された。大正12
年1923年秩父宮雍仁親王の登山8月20日の夜に御殿場口
から登山し、翌朝頂上に到着。奥宮を参拝後、下山。昭和2年
1927年中村テルが冬季女性初登頂1月1日に御殿場口エムゾネ
から登頂、男性2人と共に。昭和63年1988年浩宮徳仁親
王(当時)の登山。8月1日−2日の登山で、須走口から八合
目を往復した。天候の悪化で登頂は断念される。平成20年2
008年皇太子徳仁親王が登頂。8月7日に富士宮口を出発後
、御エムゾネ殿場口登山道に入り登頂。富士山を巡る利権争い山役
銭と内院散銭『冨嶽三十六景諸人登山』山麓の各地域には各登
山道があり、特に村山口と大宮口、須走口、須山口が古来の登
山道であり、その登山道を管理する地域の浅間大社が山役銭を
徴収していたエムゾネ。これらの地域は互いに山役銭などを巡り、
争いを起こしている。特に内院散銭は相当額になるため、争い
の火種になりやすかった。例えば須走村への配分だけでも1年
で76両を越えたといい、一戸に約一両が配当される計算にな
るという。内院散銭のエムゾネ権利は、大名などに与えられた権利
を根拠に主に3地域によって争われた。「村山」と「須走」と
「大宮」である。村山においては、1533年(天文2年)に
村山三坊の「辻之坊」が今川氏輝により内院散銭の取得権を与
寄進し、内院散銭の取得の優位権を得ている。浅間大社の大宮司
が村山より登る際は山役銭を取られたので、村山を避け「須走」
から登拝する慣例などもあった。新規に出来た登山道である現富
士吉田口は、登山道を管エムゾネ理している「須走」に許可なく、
浅間大社の大宮司富士信安など富士氏が自分たちに山役銭を支払
えば、「須走」の登山道を利用するにも関わらず勝手に山がけ(
登山道を作り山小屋を建てる)の許可を与えたことで論争となり
あることを、須走の既得権を犯すものであるというもの、3つ目は
内院の散銭取得における2番拾いは須走側が得るという慣例となっ
ているとし、それを浅間大社が取得しているという訴えである。こ
れに対し訴えらエムゾネれた浅間大社側は江戸に赴き、薬師嶽は須走村
の地内ではないこと、薬師堂の入仏については浅間大社側が造営し
たものであるので権利は浅間大社にあること、散銭の2番拾いの慣
例は根拠がないということを主張した。それらは第三者に委ねる内
済といエムゾネう扱いとなり、その内済にて「他の者に小屋掛けさせな
いこと」「薬師堂の入仏は須走村が行うこと」「内院散銭は一番拾
いを大宮と須走で6:4で分け、2番拾いは須走が得るものとする
」という決定となり、以後これらは遵守された。安永の争論安永エムソ
゙ネ元年(1772年)に、須走村が山頂の支配権は同村の支配にあ
るとして浅間大社を相手として訴えた争論が安永の争論である。ま
たこれをみた浅間大社側の富士民済も反論を起こした。さらに吉田
村と浅間大社とで支配地域を確定する争論もあったためエムゾネ、ここ
に大宮・新規参入である吉田と須走の争いの決着が望まれることと
なり、勘定奉行なども関わる大論争となった。安永8年(1779
年)に持ち越されることとなった。結論は徳川家康が富士山本宮浅
間大社を信奉していたという幕府側の配慮があエムゾネり、勘定奉行・
町奉行・寺社奉行のいわゆる三奉行による裁許で、最終的に富士山
の8合目より上は、富士山本宮浅間大社持ちとすることが決定され
た。この2者の争論を起因とする裁判により、これまで曖昧であっ
た山頂の支配権やその他権利の所在なエムゾネどが、江戸幕府により明
確に定められることとなった。富士山と眺望特別名勝としての富士
山富士山は昭和27年(1952年)10月7日に「名勝」に指定
され、同年11月22日
えられている。須走は1577エムゾネ年(天正5年)に武田氏に
より薬師堂(現在の久須志神社)の開帳日の内院散銭の取得権
が与えられている。大宮は1609年(慶長14年)に徳川家
康が内院散銭を浅間大社に寄進し、内院散銭の取得の優位権を
得ている。浅間大社の大宮司が村山よりエムゾネ登る際は山役銭を
取られたので、村山を避け「須走」から登拝する慣例などもあ
った。新規に出来た登山道である現富士吉田口は、登山道を管
理している「須走」に許可なく、浅間大社の大宮司富士信安な
ど富士氏が自分たちに山役銭を支払えば、「須走エムゾネ」の登山
道を利用するにも関わらず勝手に山がけ(登山道を作り山小屋
を建てる)の許可を与えたことで論争となり、「河口」と「吉
田」は1810年に登山ルートや山役銭の徴収方法で論争を起
こし、「大宮」と「吉田」では薬師堂における役銭の配分エムゾネ
で争っている過去などがある。元禄の争論元禄16年(170
3年)に散銭や山小屋経営を巡り須走村が富士浅間神社本宮(
浅間大社)を訴えた争論が元禄の争論である。須走村側は東口
本宮冨士浅間神社の神主や御師らが、浅間大社の大宮司富士信
安なエムゾネど富士氏らを相手取り寺社奉行に訴え出た。訴えは三
か条であった。1つは浅間大社が吉田村の者に薬師嶽の小屋掛
けを認めたことへの不服、2つ目は浅間大社側が造営した薬師
堂の棟札に「富士本宮が入仏を勤める」という旨の記述がある
ことを、須走エムゾネの既得権を犯すものであるというもの、3つ
目は内院の散銭取得における2番拾いは須走側が得るという慣
例となっているとし、それを浅間大社が取得しているという訴
えである。これに対し訴えられた浅間大社側は江戸に赴き、薬
師嶽は須走村の地内でエムゾネはないこと、薬師堂の入仏について
は浅間大社側が造営したものであるので権利は浅間大社にある
こと、散銭の2番拾いの慣例は根拠がないということを主張し
、「河口」と「吉田」は1エムゾネ810年に登山ルートや山役銭
の徴収方法で論争を起こし、「大宮」と「吉田」では薬師堂にお
ける役銭の配分で争っている過去などがある。元禄の争論元禄1
6年(1703年)に散銭や山小屋経営を巡り須走村が富士浅間
神社本宮(浅間大社)を訴えエムゾネた争論が元禄の争論である。
須走村側は東口本宮冨士浅間神社の神主や御師らが、浅間大社の
大宮司富士信安など富士氏らを相手取り寺社奉行に訴え出た。訴
えは三か条であった。1つは浅間大社が吉田村の者に薬師嶽の小
屋掛けを認めたことへの不服、エムゾネ2つ目は浅間大社側が造営
した薬師堂の棟札に「富士本宮が入仏を勤める」という旨の記述
があることを、須走の既得権を犯すものであるというもの、3つ
目は内院の散銭取得における2番拾いは須走側が得るという慣例
となっているとし、それを浅間大エムゾネ社が取得しているという
訴えである。これに対し訴えられた浅間大社側は江戸に赴き、薬
師嶽は須走村の地内ではないこと、薬師堂の入仏については浅間
大社側が造営したものであるので権利は浅間大社にあること、散
銭の2番拾いの慣例は根拠がないとエムゾネいうことを主張した。
それらは第三者に委ねる内済という扱いとなり、その内済にて「
他の者に小屋掛けさせないこと」「薬師堂の入仏は須走村が行う
こと」「内院散銭は一番拾いを大宮と須走で6:4で分け、2番
拾いは須走が得るものとする」というエムゾネ決定となり、以後こ
れらは遵守された。安永の争論安永元年(1772年)に、須走
村が山頂の支配権は同村の支配にあるとして浅間大社を相手とし
て訴えた争論が安永の争論である。またこれをみた浅間大社側の
富士民済も反論を起こした。さらに吉田エムゾネ村と浅間大社とで
支配地域を確定する争論もあったため、ここに大宮・新規参入で
ある吉田と須走の争いの決着が望まれることとなり、勘定奉行な
ども関わる大論争となった。安永8年(1779年)に持ち越さ
地域全部および富士宮口登山道(富士宮市)と御殿場口登山道(御
殿場市)を挟む標高1,500m以上の地域、またこれと重複しな
い一合目以上御中道エムゾネに至る富士宮口登山道および須走口登山道
(小山町)が範囲となっている。富士山の眺望ウィキメディア・コ
モンズには、各地点から
た。それらは第三者に委ねる内済という扱いとなり、その内済
にて「他の者に小屋掛けさせなエムゾネいこと」「薬師堂の入仏は
須走村が行うこと」「内院散銭は一番拾いを大宮と須走で6:
4で分け、2番拾いは須走が得るものとする」という決定とな
り、以後これらは遵守された。安永の争論安永元年(1772
年)に、須走村が山頂の支配権は同村のエムゾネ支配にあるとして
浅間大社を相手として訴えた争論が安永の争論である。またこ
れをみた浅間大社側の富士民済も反論を起こした。さらに吉田
村と浅間大社とで支配地域を確定する争論もあったため、ここ
に大宮・新規参入である吉田と須走の争いの決着エムゾネが望まれ
ることとなり、勘定奉行なども関わる大論争となった。安永8
年(1779年)に持ち越されることとなった。結論は徳川家
康が富士山本宮浅間大社を信奉していたという幕府側の配慮が
あり、勘定奉行・町奉行・寺社奉行のいわゆる三奉行によエムゾネ
る裁許で、最終的に富士山の8合目より上は、富士山本宮浅間
大社持ちとすることが決定された。この2者の争論を起因とす
る裁判により、これまで曖昧であった山頂の支配権やその他権
利の所在などが、江戸幕府により明確に定められることとなっ
た。エムゾネ富士山と眺望特別名勝としての富士山富士山は昭和2
7年(1952年)10月7日に「名勝」に指定され、同年1
1月22日に「特別名勝」に指定された。山梨県側は富士吉田
市・船津村(現・富士河口湖町)・鳴沢村・中野村(現・山中
湖村)の範囲エムゾネが指定された。静岡県側は御中道に囲まれる
地域全部および富士宮口登山道(富士宮市)と御殿場口登山道
(御殿場市)を挟む標高1,500m以上の地域、またこれと
重複しない一合目以上御中道に至る富士宮口登山道および須走
口登山道(小山町)がエムゾネ範囲となっている。富士山の眺望ウ
ィキメディア・コモンズには、各地点からの富士山の眺望に関
れることとなった。結論は徳川家康が富士エムゾネ山本宮浅間大社
を信奉していたという幕府側の配慮があり、勘定奉行・町奉行・
寺社奉行のいわゆる三奉行による裁許で、最終的に富士山の8合
目より上は、富士山本宮浅間大社持ちとすることが決定された。
この2者の争論を起因とする裁判により、こエムゾネれまで曖昧で
あった山頂の支配権やその他権利の所在などが、江戸幕府により
明確に定められることとなった。富士山と眺望特別名勝としての
富士山富士山は昭和27年(1952年)10月7日に「名勝」
に指定され、同年11月22日に「特別名勝」エムゾネに指定され
た。山梨県側は富士吉田市・船津村(現・富士河口湖町)・鳴沢
村・中野村(現・山中湖村)の範囲が指定された。静岡県側は御
中道に囲まれる地域全部および富士宮口登山道(富士宮市)と御
殿場口登山道(御殿場市)を挟む標高1,500エムゾネm以上の
地域、またこれと重複しない一合目以上御中道に至る富士宮口登
山道および須走口登山道(小山町)が範囲となっている。富士山
の眺望ウィキメディア・コモンズには、各地点からの富士山の眺
望に関連するカテゴリがあります。富士山への良好エムゾネな眺望
が得られる128景233地点を、国土交通省関東地方整備局が
関東の富士見百景として、2005年(平成17年)に選定した
。羽田空港から西に向かう国内便などでは富士山の上空を通過す
る。その際、機長が富士山を案内するアナウンスをすエムゾネるこ
とが多い。また、新年のご来光を見るための遊覧飛行便も運行さ
れる。富士山の眺望の最遠は2013年現在、和歌山県那智勝浦
町である。那智勝浦の色川富士見峠(妙法山とは別)は、富士山
頂からの距離は322.9キロで、一番遠く最も西にあエムゾネる
とされる。また、眺望の北限は2017年1月16日に福島県川
俣町と飯舘村にまたがる花塚山(標高919m)と日本地図セン
ターにより認定された(富士山からは308kmの距離にある)
年(平成17年)に選定した。羽田空港から西に向かう国内便など
では富士山の上空を通過する。その際、機長が富士山を案内するア
ナウンスをすることが多い。また、新年のご来光を見るための遊覧
飛エムゾネ行便も運行される。富士山の眺望の最遠は2013年現在、
和歌山県那智勝浦町である。那智勝浦の色川富士見峠(妙法山とは
別)は、富士山頂からの距離は322.9キロで、一番遠く最も西
にあるとされる。また、眺望の北限は2017年1月16日エムゾネに
福島県川俣町と飯舘村にまたがる花塚山(標高919m)と日本地
図センターにより認定された(富士山からは308kmの距離にあ
る)。南東方向に約271Km離れた八丈島の三原山からも眺望さ
れる。富士山の見える都道府県は、理論上可能とさエムゾネれていた京
都府から2014年に撮影に成功したことにより、20都道府県と
なった。様々な表情の富士山富士山の表情は、見る場所・角度・季
節・時間によって様々に変化する。富士と名が付く、いくつかの姿
がある。画像富士山の姿解説赤富士夏の朝エムゾネ、露出した山肌が朝
焼けにより赤くなった姿。葛飾北斎をはじめとした画家が「赤富士
」を描いた絵画を残した。紅富士雪化粧した富士山が朝日や夕日で
紅色に染まる姿。「モルゲンロート」(ドイツ語Morgenro
t)が用いられる場合がある。逆エムゾネさ富士波立ちが少ない水面に
映る逆さの富士山の光景。D五千円券の裏の図案に、本栖湖の逆さ
富士が使用された。竜ヶ岳(山梨県)から望む日の出時のダイヤモ
ンド富士(2015年12月5日撮影)ダイヤモンド富士太陽が昇
った時又は沈む時、太陽エムゾネが富士山の頂上と重なり、富士山の頂
上付近がダイヤモンドのように光る現象。富士山が見える西又は東
の場所から、年に2回見ることができる。影富士朝日や夕日で富士
山の山容の影が周囲に映
連するカテゴリがあります。富士山への良好な眺望が得られる
128景233地点を、国土交通省関東地方整備局が関東の富
士見百景として、2005年(エムゾネ平成17年)に選定した。
羽田空港から西に向かう国内便などでは富士山の上空を通過す
る。その際、機長が富士山を案内するアナウンスをすることが
多い。また、新年のご来光を見るための遊覧飛行便も運行され
る。富士山の眺望の最遠は2013年現エムゾネ在、和歌山県那智
。南東方向に約271Km離れた八丈島の三原山からも眺エムゾネ
望される。富士山の見える都道府県は、理論上可能とされていた
京都府から2014年に撮影に成功したことにより、20都道府
県となった。様々な表情の富士山富士山の表情は、見る場所・角
度・季節・時間によって様々に変化する。富士と名が付く、エムゾ
ネいくつかの姿がある。画像富士山の姿解説赤富士夏の朝、露出
した山肌が朝焼けにより赤くなった姿。葛飾北斎をはじめとした
画家が「赤富士」を描いた絵画を残した。紅富士雪化粧した富士
山が朝日や夕日で紅色に染まる姿。「モルゲンロート」(ドイエム
ゾネツ語Morgenrot)が用いられる場合がある。逆さ富
士波立ちが少ない水面に映る逆さの富士山の光景。D五千円券の
裏の図案に、本栖湖の逆さ富士が使用された。竜ヶ岳(山梨県)
から望む日の出時のダイヤモンド富士(2015年12月5日撮
エムゾネ影)ダイヤモンド富士太陽が昇った時又は沈む時、太陽が
富士山の頂上と重なり、富士山の頂上付近がダイヤモンドのよう
に光る現象。富士山が見える西又は東の場所から、年に2回見る
ことができる。影富士朝日や夕日で富士山の山容の影が周囲に映
しエムゾネ出される風景。富士山登山時に山の上部から、雲海の上
に見られる場合がある。笠雲笠雲とレンズ雲を伴う。富士山の頂
上に傘をかぶせた雲がある風景。その際は、次第に麓では曇りま
たは雨になることが多い。「表富士」と「裏富士」『不二三十六
景甲エムゾネ斐夢山裏富士』現在も富士山の山小屋や登山道の道標
として「表口」や「裏口」という表現がみられ、一般的に静岡県
から見た富士山を表富士、山梨県からの姿を裏富士として認知さ
れているが、これには歴史的背景がある。延宝8年(1680年
)に作エムゾネ成された『八葉九尊図』では既に「するが口表」と
いう表記がある。他に『甲斐国志』巻35ではこのような記述が
ある。登山路ハ北ハ吉田口、南ハ須走口・村山口・大宮口ノ四道
に麓では曇りまたは雨になることが多い。「表富士」と「裏富士」
『不二三十六景甲斐夢山裏富士』現在も富士山の山小屋や登山道の
道標とエムゾネして「表口」や「裏口」という表現がみられ、一般的に
静岡県から見た富士山を表富士、山梨県からの姿を裏富士として認
知されているが、これには歴史的背景がある。延宝8年(1680
年)に作成された『八葉九尊図』では既に「するが口表」というエムソ
゙ネ表記がある。他に『甲斐国志』巻35ではこのような記述がある
。登山路ハ北ハ吉田口、南ハ須走口・村山口・大宮口ノ四道ナリ、
(中略)南面ヲ表トシ、北面ヲ裏トスレドモ、…〜〜『甲斐国志』
他の資料にも共通した記述がみられ、このように南麓をエムゾネ表、北
麓を裏とする考え方は一般的な認識であったと言える。これとは別
に「裏富士」という言葉があり、葛飾北斎の『富嶽百景裏不二』『
冨嶽三十六景身延川裏不二』や歌川広重の『不二三十六景甲斐夢山
裏富士』など、作品名に採用されている例がみエムゾネられる。富士山
の文化美術における富士山三峰型富士の例絹本着色富士曼荼羅図狩
野元信(伝)峰型富士の例(上図)と同じ構図の実写富士は、ギャ
ラリーに掲載富士山絵画は平安時代に歌枕として詠まれた諸国の名
所を描く名所絵の成立とともにはじまエムゾネり、現存する作例はない
ものの、記録からこの頃には富士を描いた名所絵屏風の画題として
描かれていたと考えられている。現存する最古の富士図は法隆寺献
納宝物である延久元年(1069年)の『聖徳太子絵伝』(東京国
立博物館)で、これは甲斐のエムゾネ黒駒伝承に基づき黒駒に乗った聖
徳太子が富士を駆け上る姿を描いたもので、富士は中国山水画風の
山岳図として描かれている。楽焼白片身変茶碗銘不二山(国宝)鎌
倉時代には山頂が三峰に分かれた三峰型富士の描写法が確立し、『
伊勢物語絵巻』『曽エム
勝浦町である。那智勝浦の色川富士見峠(妙法山とは別)は、
富士山頂からの距離は322.9キロで、一番遠く最も西にあ
るとされる。また、眺望の北限は2017年1月16日に福島
県川俣町と飯舘村にまたがる花塚山(標高919エムゾネm)と日
本地図センターにより認定された(富士山からは308kmの
距離にある)。南東方向に約271Km離れた八丈島の三原山
からも眺望される。富士山の見える都道府県は、理論上可能と
されていた京都府から2014年に撮影に成功したことにエムゾネ
より、20都道府県となった。様々な表情の富士山富士山の表
情は、見る場所・角度・季節・時間によって様々に変化する。
富士と名が付く、いくつかの姿がある。画像富士山の姿解説赤
富士夏の朝、露出した山肌が朝焼けにより赤くなった姿。葛飾
北斎エムゾネをはじめとした画家が「赤富士」を描いた絵画を残し
た。紅富士雪化粧した富士山が朝日や夕日で紅色に染まる姿。
「モルゲンロート」(ドイツ語Morgenrot)が用いら
れる場合がある。逆さ富士波立ちが少ない水面に映る逆さの富
士山の光景。エムゾネD五千円券の裏の図案に、本栖湖の逆さ富士
が使用された。竜ヶ岳(山梨県)から望む日の出時のダイヤモ
ンド富士(2015年12月5日撮影)ダイヤモンド富士太陽
が昇った時又は沈む時、太陽が富士山の頂上と重なり、富士山
の頂上付近がダイヤモエムゾネンドのように光る現象。富士山が見
える西又は東の場所から、年に2回見ることができる。影富士
朝日や夕日で富士山の山容の影が周囲に映し出される風景。富
士山登山時に山の上部から、雲海の上に見られる場合がある。
笠雲笠雲とレンズ雲を伴う。富エムゾネ士山の頂上に傘をかぶせた
雲がある風景。その際は、次第に麓では曇りまたは雨になるこ
とが多い。「表富士」と「裏富士」『不二三十六景甲斐夢山裏
富士』現在も富士山の山小屋や登山道の道標として「表口」や
ナリ、(中略)南面ヲ表トシ、北面ヲ裏トスレドモ、…〜〜『甲
斐国志』エムゾネ他の資料にも共通した記述がみられ、このように
南麓を表、北麓を裏とする考え方は一般的な認識であったと言え
る。これとは別に「裏富士」という言葉があり、葛飾北斎の『富
嶽百景裏不二』『冨嶽三十六景身延川裏不二』や歌川広重の『不
二三十六景エムゾネ甲斐夢山裏富士』など、作品名に採用されてい
る例がみられる。富士山の文化美術における富士山三峰型富士の
状で緑色に着色された他の山に対して山頂が白く冠雪した状態で描
かれ、特別エムゾネな存在として認識されていた。室町時代の作とされ
る『絹本著色富士曼荼羅図』(富士山本宮浅間大社所蔵、重要文化
財)には富士山とその富士山に登る人々や、禊ぎの場であった浅間
神社や湧玉池が描かれており、当時の様子を思わせるものである。
まエムゾネた、富士山は三峰型富士で描かれている。凱風快晴、葛飾北
斎作江戸時代には明和4年(1767年)に河村岷雪が絵本『百富
士』を出版し、富士図の連作というスタイルを提示した。浮世絵の
ジャンルとして名所絵が確立すると、河村岷雪の影響を受けエムゾネた
葛飾北斎は晩年に錦絵(木版多色摺)による富士図の連作版画『冨
嶽三十六景』(天保元年1831年頃)を出版した。多様な絵画技
法を持つ北斎は大胆な構図や遠近法に加え舶来顔料を活かした藍摺
や点描などの技法を駆使して中でも富士を描き、夏エムゾネの赤富士を
描いた『凱風快晴』や『山下白雨』、荒れ狂う大波と富士を描いた
『神奈川沖浪裏』などが知られる。また、歌川広重も北斎より後の
1850年代に『不二三十六景』『冨士三十六景』を出版した。広
重は甲斐国をはじめ諸国を旅して実地のスエムゾネケッチを重ね作品に
活かしている。『東海道五十三次』でも、富士山を題材にした絵が
多く見られる。北斎、広重らはこれらの連作により、それまで富士
見の好スポットと認識されていなかった地点や、甲斐国側からの裏
富士を画題として開拓していったエムゾネ。工芸品としては本阿弥光悦
が自ら制作した楽焼の茶碗に富士山の風情を見出し、「不二山」と
銘打っている。50銭政府紙幣(1938年発行)岡田紅陽が撮影
した愛鷹山からの富士山がモデル。富士は日本画をはじめ絵画作品
や工芸、写真、デザインエムゾネなどあらゆる美術のモチーフとして扱
われている。日本
「裏口」という表現がみられ、一般的にエムゾネ静岡県から見た富
士山を表富士、山梨県からの姿を裏富士として認知されている
が、これには歴史的背景がある。延宝8年(1680年)に作
成された『八葉九尊図』では既に「するが口表」という表記が
ある。他に『甲斐国志』巻35ではこのような記エムゾネ述がある
。登山路ハ北ハ吉田口、南ハ須走口・村山口・大宮口ノ四道ナ
リ、(中略)南面ヲ表トシ、北面ヲ裏トスレドモ、…〜〜『甲
斐国志』他の資料にも共通した記述がみられ、このように南麓
を表、北麓を裏とする考え方は一般的な認識であったと言エムゾネ
える。これとは別に「裏富士」という言葉があり、葛飾北斎の
『富嶽百景裏不二』『冨嶽三十六景身延川裏不二』や歌川広重
の『不二三十六景甲斐夢山裏富士』など、作品名に採用されて
いる例がみられる。富士山の文化美術における富士山三峰型富
士のエムゾネ例絹本着色富士曼荼羅図狩野元信(伝)峰型富士の例
(上図)と同じ構図の実写富士は、ギャラリーに掲載富士山絵
画は平安時代に歌枕として詠まれた諸国の名所を描く名所絵の
成立とともにはじまり、現存する作例はないものの、記録から
この頃には富エムゾネ士を描いた名所絵屏風の画題として描かれて
いたと考えられている。現存する最古の富士図は法隆寺献納宝
物である延久元年(1069年)の『聖徳太子絵伝』(東京国
立博物館)で、これは甲斐の黒駒伝承に基づき黒駒に乗った聖
徳太子が富士を駆け上エムゾネる姿を描いたもので、富士は中国山
水画風の山岳図として描かれている。楽焼白片身変茶碗銘不二
山(国宝)鎌倉時代には山頂が三峰に分かれた三峰型富士の描
写法が確立し、『伊勢物語絵巻』『曽我物語富士巻狩図』など
物語文学の成立とともに舞台とエムゾネなる富士が描かれ、富士信
仰の成立に伴い礼拝画としての『富士曼陀羅図』も描かれた。
また絵地図などにおいては反弧状で緑色に着色された他の山に
例絹本着色富士曼荼羅図狩野元信(伝)峰型富士の例(上図)と
同じ構図の実写富士は、ギャラリーに掲載富士山絵画は平安時代
に歌枕としてエムゾネ詠まれた諸国の名所を描く名所絵の成立とと
もにはじまり、現存する作例はないものの、記録からこの頃には
富士を描いた名所絵屏風の画題として描かれていたと考えられて
いる。現存する最古の富士図は法隆寺献納宝物である延久元年(
1069年)のエムゾネ『聖徳太子絵伝』(東京国立博物館)で、
これは甲斐の黒駒伝承に基づき黒駒に乗った聖徳太子が富士を駆
け上る姿を描いたもので、富士は中国山水画風の山岳図として描
かれている。楽焼白片身変茶碗銘不二山(国宝)鎌倉時代には山
頂が三峰に分かれエムゾネた三峰型富士の描写法が確立し、『伊勢
物語絵巻』『曽我物語富士巻狩図』など物語文学の成立とともに
舞台となる富士が描かれ、富士信仰の成立に伴い礼拝画としての
『富士曼陀羅図』も描かれた。また絵地図などにおいては反弧状
で緑色に着色されたエムゾネ他の山に対して山頂が白く冠雪した状
態で描かれ、特別な存在として認識されていた。室町時代の作と
される『絹本著色富士曼荼羅図』(富士山本宮浅間大社所蔵、重
要文化財)には富士山とその富士山に登る人々や、禊ぎの場であ
った浅間神社や湧玉池エムゾネが描かれており、当時の様子を思わ
せるものである。また、富士山は三峰型富士で描かれている。凱
風快晴、葛飾北斎作江戸時代には明和4年(1767年)に河村
岷雪が絵本『百富士』を出版し、富士図の連作というスタイルを
提示した。浮世絵のジャエムゾネンルとして名所絵が確立すると、
河村岷雪の影響を受けた葛飾北斎は晩年に錦絵(木版多色摺)に
よる富士図の連作版画『冨嶽三十六景』(天保元年1831年頃
)を出版した。多様な絵画技法を持つ北斎は大胆な構図や遠近法
に加え舶来顔料を活かしたエムゾネ藍摺や点描などの技法を駆使し
て中でも富士を描き、夏の赤富士を描いた『凱風快晴』や『山下
視点で描かれたエムゾネ富士山絵画が制作された。また、鉄道・道路網
など交通機関の発達により数多くの文人・画家が避暑地や保養地と
しての富士山麓に滞在し富士を題材とした作品を製作しているが、
富士を描いた風景画などを残している画家として富岡鉄斎、洋画に
おいてエムゾネは和田
対して山頂が白く冠雪した状態で描かれ、特別な存在として認
識されていた。室町時代の作とされる『エムゾネ絹本著色富士曼荼
羅図』(富士山本宮浅間大社所蔵、重要文化財)には富士山と
その富士山に登る人々や、禊ぎの場であった浅間神社や湧玉池
が描かれており、当時の様子を思わせるものである。また、富
士山は三峰型富士で描かれている。凱風快晴、葛エムゾネ飾北斎作
江戸時代には明和4年(1767年)に河村岷雪が絵本『百富
士』を出版し、富士図の連作というスタイルを提示した。浮世
絵のジャンルとして名所絵が確立すると、河村岷雪の影響を受
けた葛飾北斎は晩年に錦絵(木版多色摺)による富士図のエムゾネ
連作版画『冨嶽三十六景』(天保元年1831年頃)を出版し
た。多様な絵画技法を持つ北斎は大胆な構図や遠近法に加え舶
来顔料を活かした藍摺や点描などの技法を駆使して中でも富士
を描き、夏の赤富士を描いた『凱風快晴』や『山下白雨』、荒
れ狂エムゾネう大波と富士を描いた『神奈川沖浪裏』などが知られ
る。また、歌川広重も北斎より後の1850年代に『不二三十
六景』『冨士三十六景』を出版した。広重は甲斐国をはじめ諸
国を旅して実地のスケッチを重ね作品に活かしている。『東海
道五十三次』エムゾネでも、富士山を題材にした絵が多く見られる
。北斎、広重らはこれらの連作により、それまで富士見の好ス
ポットと認識されていなかった地点や、甲斐国側からの裏富士
を画題として開拓していった。工芸品としては本阿弥光悦が自
ら制作した楽焼の茶碗エムゾネに富士山の風情を見出し、「不二山
」と銘打っている。50銭政府紙幣(1938年発行)岡田紅
陽が撮影した愛鷹山からの富士山がモデル。富士は日本画をは
じめ絵画作品や工芸、写真、デザインなどあらゆる美術のモチ
ーフとして扱われている。日本エムゾネ画においては近代に殖産興
業などを通じて富士が日本を象徴する意匠として位置づけられ
白雨』、荒れ狂う大波と富士を描いた『神奈川沖浪裏』などが知
られる。また、歌川広重も北斎より後の1850年代に『不二三
十六景』『冨士三十六景』をエムゾネ出版した。広重は甲斐国をは
じめ諸国を旅して実地のスケッチを重ね作品に活かしている。『
東海道五十三次』でも、富士山を題材にした絵が多く見られる。
北斎、広重らはこれらの連作により、それまで富士見の好スポッ
トと認識されていなかった地点エムゾネや、甲斐国側からの裏富士
を画題として開拓していった。工芸品としては本阿弥光悦が自ら
制作した楽焼の茶碗に富士山の風情を見出し、「不二山」と銘打
っている。50銭政府紙幣(1938年発行)岡田紅陽が撮影し
た愛鷹山からの富士山がモデル。エムゾネ富士は日本画をはじめ絵
画作品や工芸、写真、デザインなどあらゆる美術のモチーフとし
て扱われている。日本画においては近代に殖産興業などを通じて
富士が日本を象徴する意匠として位置づけられ美術をはじめ商業
デザインなどに幅広く用いられ、絵エムゾネ画においては伝統を引
き継ぎつつ近代的視点で描かれた富士山絵画が制作された。また
、鉄道・道路網など交通機関の発達により数多くの文人・画家が
避暑地や保養地としての富士山麓に滞在し富士を題材とした作品
を製作しているが、富士を描いた風景エムゾネ画などを残している
画家として富岡鉄斎、洋画においては和田英作などがいる。富士
山をモチーフとした美術品は当時のヨーロッパでも多く流通して
おり、このことから富士山もヨーロッパで広く知られていた。1
893年(明治26年)、日本を旅行しエムゾネていたオーストリ
ア=ハンガリー帝国の皇位継承者フランツ・フェルディナント大
公は、日記に次のように書いている。フジサン、フジノヤマ。い
ったい、この日本の象徴――ヨーロッパではふつうフジヤマと呼
ばれる――を知らない者などいるのだろうエムゾネか〜ヨーロッパ
でもっとも好まれる日本工芸のデザインとして漆器、陶磁器、和
を旅行していたオーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者フラエムソ
゙ネンツ・フェルディナント大公は、日記に次のように書いている。
フジサン、フジノヤマ。いったい、この日本の象徴――ヨーロッパ
ではふつうフジヤマと呼ばれる――を知らない者などいるのだろう
か〜ヨーロッパでもっとも好まれる日本工芸のデザインエムゾネとして
漆器、陶磁器、和紙、金属などに描かれているから、もう、わたし
たちにはお馴染みだ。〜〜8月15日付戦時下には国家により富士
は国体の象徴として位置づけられ、富士は国家のシンボルとして様
々に描かれた。戦後には国体のシンボルとしてエムゾネのイメージから
解放された「日本のシンボル」として、日本画家の横山大観や片岡
球子らが富士を描いた。また、現代美術の世界ではこれらの伝統的
画題へのアンチテーゼとしてパロディや風刺、アイコンとして富士
を描く傾向も見られる。深田久弥は『エムゾネ日本百名山』の中で富士
山を「小細工を弄しない大きな単純」と評し、「幼童でも富士の絵
は描くが、その真を現わすために画壇の巨匠も手こずっている」と
いう。日本画全般の題材として「富士見西行」があり、巨大な富士
山を豆粒のような人物(僧、エムゾネ西行法師)が見上げるという構図
で、水墨画や彫金でも描かれている。千円札、旧五千円札のモデル
となった本栖湖からの富士山近代では紙幣や切手のデザインにも用
いられている。富士山が紙幣のデザインに用いられる例は数多くあ
る。古くは1913エムゾネ年発行の50銭政府紙幣があり、愛鷹山か
らの富士山でる。その後の1951年と1969年発行の旧五百円
札は大月市の雁ヶ腹摺山からの富士山を元にしている。1984年
発行の旧五千円札と2004年発行の千円札は本栖湖の湖畔からの
富士山であエムゾネる。富士山を描写した切手が郵便局から発売された
。河口湖、西湖、
美術をはじめ商業デザインなどに幅広く用いられ、絵画におい
ては伝統を引き継ぎつつ近代的視点で描かれた富士山絵画が制
作された。また、鉄道・道路網など交通エムゾネ機関の発達により
数多くの文人・画家が避暑地や保養地としての富士山麓に滞在
し富士を題材とした作品を製作しているが、富士を描いた風景
画などを残している画家として富岡鉄斎、洋画においては和田
英作などがいる。富士山をモチーフとした美術品エムゾネは当時の
紙、金属などに描かれているから、もう、わたしたちにはお馴染
みだ。〜〜8月15日付戦時下には国家により富士は国体の象徴
として位置づけられ、富士は国家のシンボルエムゾネとして様々に
描かれた。戦後には国体のシンボルとしてのイメージから解放さ
れた「日本のシンボル」として、日本画家の横山大観や片岡球子
らが富士を描いた。また、現代美術の世界ではこれらの伝統的画
題へのアンチテーゼとしてパロディや風刺、アエムゾネイコンとし
て富士を描く傾向も見られる。深田久弥は『日本百名山』の中で
富士山を「小細工を弄しない大きな単純」と評し、「幼童でも富
士の絵は描くが、その真を現わすために画壇の巨匠も手こずって
いる」という。日本画全般の題材として「富士見エムゾネ西行」が
あり、巨大な富士山を豆粒のような人物(僧、西行法師)が見上
げるという構図で、水墨画や彫金でも描かれている。千円札、旧
五千円札のモデルとなった本栖湖からの富士山近代では紙幣や切
手のデザインにも用いられている。富士山が紙幣のエムゾネデザイ
ンに用いられる例は数多くある。古くは1913年発行の50銭
政府紙幣があり、愛鷹山からの富士山でる。その後の1951年
と1969年発行の旧五百円札は大月市の雁ヶ腹摺山からの富士
山を元にしている。1984年発行の旧五千円札と2エムゾネ00
4年発行の千円札は本栖湖の湖畔からの富士山である。富士山を
描写した切手が郵便局から発売された。河口湖、西湖、精進湖、
本栖湖、山中湖(1999年(平成11年))葛飾北斎(199
9年(平成11年))オオマツヨイグサ・山梨県(20エムゾネ0
5年(平成17年))文学における富士山富士山は和歌の歌枕と
してよく取り上げられる。また、『万葉集』の中には、富士山を
詠んだ歌がいくつも収められている。「田子の浦ゆうち出でてみ
れば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける」(3.318)エムゾネ
は山部赤人による有名な短歌(反歌)である。また、この反歌の
和エムゾネ歌の歌枕としてよく取り上げられる。また、『万葉集』の中
には、富士山を詠んだ歌がいくつも収められている。「田子の浦ゆ
うち出でてみれば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける」(3.31
8)は山部赤人による有名な短歌(反歌)である。また、こエムゾネの
反歌のその次には作者不詳の長歌があり、その一節に「…燃ゆる火
を雪もち消ち降る雪を火もち消ちつつ…」(巻3・319・大意「
(噴火の)燃える火を(山頂に降る)雪で消し、(山頂に)降る雪
を(噴火の)火で消しつつ」)とあり、当時の富士エムゾネ山が火山活
動を行っていたことがうかがえる。『新古今和歌集』から。富士の
煙が歌われている。風になびく富士の煙の空にきえてゆくへもしら
ぬ我が心かな西行(#1613)都人にとって富士は遠く神秘的な
山として認識され、古典文学では都良香『エムゾネ富士日記』が富士の
様子や伝承を記録している。『竹取物語』は物語後半で富士が舞台
となり、時の天皇がかぐや姫から贈られた不老不死の薬を、つきの
岩笠と大勢の士に命じて天に一番近い山の山頂で燃やしたことにな
っている。それからその山は数多エムゾネの士に因んでふじ山(富士山
)と名付けられたとする命名説話を記している。なお、富士山麓の
静岡県富士市比奈地区には、「竹採塚」として言い伝えられている
場所が現存している。ほか、『源氏物語』や『伊勢物語』でも富士
に言及される箇所があるエムゾネものの、主要な舞台となるケースは少
ない。富士は甲駿の国境に位置することが正確に認識されており、
古代においては駿河国に帰属していたため古典文学においては駿河
側の富士が題材となることが多いが、『堤中納言物語』では甲斐側
の富士についてエムゾネ触れられている。また、「八面玲瓏」という言
葉は富士山から生まれたといわれ、どの方角から見ても整った美し
い形を表している。中世
ヨーロッパでも多く流通しており、このことから富士山もヨー
ロッパで広く知られていた。1893年(明治26年)、日本
を旅行していたオーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者フ
ランツ・フェルディナント大公は、日記に次のように書いエムゾネ
ている。フジサン、フジノヤマ。いったい、この日本の象徴―
―ヨーロッパではふつうフジヤマと呼ばれる――を知らない者
などいるのだろうか〜ヨーロッパでもっとも好まれる日本工芸
のデザインとして漆器、陶磁器、和紙、金属などに描かれてい
るかエムゾネら、もう、わたしたちにはお馴染みだ。〜〜8月15
日付戦時下には国家により富士は国体の象徴として位置づけら
れ、富士は国家のシンボルとして様々に描かれた。戦後には国
体のシンボルとしてのイメージから解放された「日本のシンボ
ル」として、エムゾネ日本画家の横山大観や片岡球子らが富士を描
いた。また、現代美術の世界ではこれらの伝統的画題へのアン
チテーゼとしてパロディや風刺、アイコンとして富士を描く傾
向も見られる。深田久弥は『日本百名山』の中で富士山を「小
細工を弄しない大きなエムゾネ単純」と評し、「幼童でも富士の絵
は描くが、その真を現わすために画壇の巨匠も手こずっている
」という。日本画全般の題材として「富士見西行」があり、巨
大な富士山を豆粒のような人物(僧、西行法師)が見上げると
いう構図で、水墨画や彫金でもエムゾネ描かれている。千円札、旧
五千円札のモデルとなった本栖湖からの富士山近代では紙幣や
切手のデザインにも用いられている。富士山が紙幣のデザイン
に用いられる例は数多くある。古くは1913年発行の50銭
政府紙幣があり、愛鷹山からの富士山でエムゾネる。その後の19
51年と1969年発行の旧五百円札は大月市の雁ヶ腹摺山か
らの富士山を元にしている。1984年発行の旧五千円札と2
004年発行の千円札は本栖湖の湖畔からの富士山である。富
その次には作者不詳の長歌があり、その一節に「…燃ゆる火を雪
もち消ち降る雪を火もち消ちつつ…」(巻3・319・大意「(
噴火の)燃える火を(山頂に降る)雪で消し、(山頂に)降エムゾ
ネる雪を(噴火の)火で消しつつ」)とあり、当時の富士山が火
山活動を行っていたことがうかがえる。『新古今和歌集』から。
富士の煙が歌われている。風になびく富士の煙の空にきえてゆく
へもしらぬ我が心かな西行(#1613)都人にとって富士はエム
、多くの文人や民俗学者が避暑目的などで富士へ訪れるようになり
、新田次郎や草野心平、堀口大學らが富士をテーマにした作品を書
き、山岳文学をはじめ多くの紀行文などに描かれた。富士山麓にエムソ
゙ネ滞在した作家は数多くおり、武田泰淳は富士山麓の精神病院を舞
台とした小説『富士』を書いており、妻の武田百合子も泰淳の死後
に富士山荘での生活の記録を『富士日記』として記している。津島
佑子は山梨県嘱託の地質学者であった母方の石原家をモエムゾネデルに
、富士を望みつつ激動の時代を過ごした一族の物語である『火の山
―山猿記』を記した。また、北麓地域出身の文学者として自然主義
文学者の中村星湖や戦後の在日朝鮮人文学者の李良枝がおり、それ
ぞれ作品の中で富士を描いており、中村星湖はエムゾネ地域文芸の振興
にも務めている。太宰治が昭和14年(1939年)に執筆した小
説『富嶽百景』の一節である「富士には月見草がよく似合ふ」はよ
く知られ、山梨県富士河口湖町の御坂峠にはその碑文が建っている
。直木賞作家である新田次郎は富士山エムゾネ頂測候所に勤務していた
経験をもとに、富士山の強力(ごうりき)の生き様を描いた直木賞
受賞作『強力伝』や『富士山頂』をはじめ数々の富士にまつわる作
品を執筆している。高浜虚子は静岡県富士宮市の沼久保駅で降りた
際、美しい富士山を見て歌をエムゾネ詠んだ。駅前にはその歌碑が建て
られている。「とある停車場富士の裾野で竹の秋/ぬま久保で降り
る子連れ花の姥」富士山と地域振興富士山一帯の宗教施設や避暑、
富士登山を目的とする観光客相手の観光業も活発に行われている。
しかし、富士山麓にエムゾネは温泉地として成立する規模の湯量は湧出
していない。富士山の利用について、静岡県側が自然・文化の保護
を重視するのに対し、山梨県側は伝統的に観光開発を重視しており
、山頂所有権問題、山小
士山を描写した切手が郵便局から発売された。河エムゾネ口湖、西
湖、精進湖、本栖湖、山中湖(1999年(平成11年))葛
飾北斎(1999年(平成11年))オオマツヨイグサ・山梨
県(2005年(平成17年))文学における富士山富士山は
和歌の歌枕としてよく取り上げられる。また、『万葉集』エムゾネ
の中には、富士山を詠んだ歌がいくつも収められている。「田
子の浦ゆうち出でてみれば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける
」(3.318)は山部赤人による有名な短歌(反歌)である
。また、この反歌のその次には作者不詳の長歌があり、その一
節にエムゾネ「…燃ゆる火を雪もち消ち降る雪を火もち消ちつつ…
」(巻3・319・大意「(噴火の)燃える火を(山頂に降る
)雪で消し、(山頂に)降る雪を(噴火の)火で消しつつ」)
とあり、当時の富士山が火山活動を行っていたことがうかがえ
る。『新古今エムゾネ和歌集』から。富士の煙が歌われている。風
になびく富士の煙の空にきえてゆくへもしらぬ我が心かな西行
(#1613)都人にとって富士は遠く神秘的な山として認識
され、古典文学では都良香『富士日記』が富士の様子や伝承を
記録している。『竹取エムゾネ物語』は物語後半で富士が舞台とな
り、時の天皇がかぐや姫から贈られた不老不死の薬を、つきの
岩笠と大勢の士に命じて天に一番近い山の山頂で燃やしたこと
になっている。それからその山は数多の士に因んでふじ山(富
士山)と名付けられたとする命エムゾネ名説話を記している。なお
、富士山麓の静岡県富士市比奈地区には、「竹採塚」として言
い伝えられている場所が現存している。ほか、『源氏物語』や
『伊勢物語』でも富士に言及される箇所があるものの、主要な
舞台となるケースは少ない。富士は甲駿エムゾネの国境に位置する
ことが正確に認識されており、古代においては駿河国に帰属し
ていたため古典文学においては駿河側の富士が題材となること
ゾネ遠く神秘的な山として認識され、古典文学では都良香『富士
日記』が富士の様子や伝承を記録している。『竹取物語』は物語
後半で富士が舞台となり、時の天皇がかぐや姫から贈られた不老
不死の薬を、つきの岩笠と大勢の士に命じて天に一番近い山の山
エムゾネ頂で燃やしたことになっている。それからその山は数多の
士に因んでふじ山(富士山)と名付けられたとする命名説話を記
している。なお、富士山麓の静岡県富士市比奈地区には、「竹採
塚」として言い伝えられている場所が現存している。ほか、『源
氏エムゾネ物語』や『伊勢物語』でも富士に言及される箇所がある
ものの、主要な舞台となるケースは少ない。富士は甲駿の国境に
位置することが正確に認識されており、古代においては駿河国に
帰属していたため古典文学においては駿河側の富士が題材となる
ことエムゾネが多いが、『堤中納言物語』では甲斐側の富士につい
て触れられている。また、「八面玲瓏」という言葉は富士山から
生まれたといわれ、どの方角から見ても整った美しい形を表して
いる。中世から近世には富士北麓地域に富士参詣者が往来し、江
戸期にエムゾネは地域文芸として俳諧が盛んであった。近代には鉄
道など交通機関の発達や富士裾野の観光地化の影響を受けて、多
くの文人や民俗学者が避暑目的などで富士へ訪れるようになり、
新田次郎や草野心平、堀口大學らが富士をテーマにした作品を書
き、山岳エムゾネ文学をはじめ多くの紀行文などに描かれた。富士
山麓に滞在した作家は数多くおり、武田泰淳は富士山麓の精神病
院を舞台とした小説『富士』を書いており、妻の武田百合子も泰
淳の死後に富士山荘での生活の記録を『富士日記』として記して
いる。津島エムゾネ佑子は山梨県嘱託の地質学者であった母方の石
原家をモデルに、富士を望みつつ激動の時代を過ごした一族の物
語である『火の山―山猿記』を記した。また、北麓地域出身の文
学者として自然主義文学者の中村星湖や戦後の在日朝鮮人文学者
知識や経験、装備が不可欠である。一般的には、毎年7月1日の山
開きから9月上旬の山じまいまでの期間、登山が可能である。期間
外エムゾネは、万全な準備をしない者の登山は原則禁止されている。と
くに積雪期・残雪期の登山は自殺行為である。詳細は「富士登山」
を参照その他の観光その
が多いが、『堤中納言物語』では甲斐側の富士について触れら
れている。また、「八面玲瓏」という言葉は富士エムゾネ山から生
まれたといわれ、どの方角から見ても整った美しい形を表して
いる。中世から近世には富士北麓地域に富士参詣者が往来し、
江戸期には地域文芸として俳諧が盛んであった。近代には鉄道
など交通機関の発達や富士裾野の観光地化の影響を受けてエムゾネ
、多くの文人や民俗学者が避暑目的などで富士へ訪れるように
なり、新田次郎や草野心平、堀口大學らが富士をテーマにした
作品を書き、山岳文学をはじめ多くの紀行文などに描かれた。
富士山麓に滞在した作家は数多くおり、武田泰淳は富士山麓の
精神エムゾネ病院を舞台とした小説『富士』を書いており、妻の武
田百合子も泰淳の死後に富士山荘での生活の記録を『富士日記
』として記している。津島佑子は山梨県嘱託の地質学者であっ
た母方の石原家をモデルに、富士を望みつつ激動の時代を過ご
した一族の物エムゾネ語である『火の山―山猿記』を記した。また
、北麓地域出身の文学者として自然主義文学者の中村星湖や戦
後の在日朝鮮人文学者の李良枝がおり、それぞれ作品の中で富
士を描いており、中村星湖は地域文芸の振興にも務めている。
太宰治が昭和14年(エムゾネ1939年)に執筆した小説『富嶽
百景』の一節である「富士には月見草がよく似合ふ」はよく知
られ、山梨県富士河口湖町の御坂峠にはその碑文が建っている
。直木賞作家である新田次郎は富士山頂測候所に勤務していた
経験をもとに、富士山の強力(エムゾネごうりき)の生き様を描い
た直木賞受賞作『強力伝』や『富士山頂』をはじめ数々の富士
にまつわる作品を執筆している。高浜虚子は静岡県富士宮市の
沼久保駅で降りた際、美しい富士山を見て歌を詠んだ。駅前に
はその歌碑が建てられている。「とあるエムゾネ停車場富士の裾野
で竹の秋/ぬま久保で降りる子連れ花の姥」富士山と地域振興
の李良枝がおエムゾネり、それぞれ作品の中で富士を描いており、
中村星湖は地域文芸の振興にも務めている。太宰治が昭和14年
(1939年)に執筆した小説『富嶽百景』の一節である「富士
には月見草がよく似合ふ」はよく知られ、山梨県富士河口湖町の
御坂峠にはそのエムゾネ碑文が建っている。直木賞作家である新田
次郎は富士山頂測候所に勤務していた経験をもとに、富士山の強
力(ごうりき)の生き様を描いた直木賞受賞作『強力伝』や『富
士山頂』をはじめ数々の富士にまつわる作品を執筆している。高
浜虚子は静岡県富エムゾネ士宮市の沼久保駅で降りた際、美しい富
士山を見て歌を詠んだ。駅前にはその歌碑が建てられている。「
とある停車場富士の裾野で竹の秋/ぬま久保で降りる子連れ花の
姥」富士山と地域振興富士山一帯の宗教施設や避暑、富士登山を
目的とする観光客相エムゾネ手の観光業も活発に行われている。し
かし、富士山麓には温泉地として成立する規模の湯量は湧出して
いない。富士山の利用について、静岡県側が自然・文化の保護を
重視するのに対し、山梨県側は伝統的に観光開発を重視しており
、山頂所有権問題、山エムゾネ小屋トイレ問題、マイカー規制問題
、世界遺産登録問題等、過去から現在に至るまでの折々で双方の
思惑の相違が表面化している。富士山と観光富士登山富士登山に
は登山の知識や経験、装備が不可欠である。一般的には、毎年7
月1日の山開きから9月エムゾネ上旬の山じまいまでの期間、登山
が可能である。期間外は、万全な準備をしない者の登山は原則禁
止されている。とくに積雪期・残雪期の登山は自殺行為である。
詳細は「富士登山」を参照その他の観光その優美な姿から、富士
山が見える場所は著名な観エムゾネ光地となっていることが多い。
箱根−箱根は富士山が望めるうえに、東京から近く温泉や歴史・
美術館や各種の乗り物が楽しめることもあり、年間を通じて内外
の観光客が絶えない。また、夏は避暑地としても有名である。富
めることもあり、年間を通じて内外の観光客が絶えない。また、夏
は避暑地としても有名である。富士五湖−富士五湖は富士山周辺の
観光地として著名であり、本栖湖の逆さ富士が日本エムゾネ銀行券に採
用されている。白糸の滝−白糸の滝は上流に川は存在せず、富士山
の雪解け水が溶岩断層から湧き出す非常に珍しい形成をしている滝
である。また、音止めの滝と共に日本の滝百選に指定されている。
朝霧高原−朝霧高原は富士山を綺麗に臨むエムゾネスポットとして著名
であり、その自然と広大な土地もあり過去に第13回世界ジャンボ
リーも開催されている。ダイヤモンド富士−ダイヤモンド富士など
がはっきりと拝める田貫湖や山中湖といったスポットも有名で、特
に写真撮影を目的として訪れる観エムゾネ光客もいる。ドライブ−富士
スバルラインや富士山スカイラインなどを利用して、5合目までマ
イカーで上がることができる。シーズン中はマイカー規制の期間が
あり、冬期は閉鎖される。富士山の日(2月23日)2月23日を
「2:ふ・2:じ・3:エムゾネさん」と語呂合わせで読み「富士山の
日」として制定している自治体がある。2001年(平成13年)
山梨県富士河口湖町(当時は河口湖町)にて条例を制定。2002
年(平成14年)山梨県富士吉田市を中心に、山梨県の富士山麓1
0市町村、2恩エムゾネ賜林組合が了承。2009年(平成21年)1
2月21日静岡県議会にて条例を全会一致で可決。同年12月25
日条例を制定。静岡県、山梨県どちらも、富士山は普段の生活に溶
け込み過ぎており、「あって当たり前」の空気のような存在である
。そのエムゾネため「富士山の日」に、各自治体や県内企業などがさま
ざまなイベント等を催し、参加する事など通じて、身近すぎる富士
山を改めて、日本のシンボルとしても名高い名峰として再認識する
機会としている。また併
富士山一帯の宗教施設や避暑、富士登山を目的とする観光客相
手の観光業も活発に行われている。しかし、富士山麓には温泉
地として成立する規模の湯量は湧出していない。エムゾネ富士山の
利用について、静岡県側が自然・文化の保護を重視するのに対
し、山梨県側は伝統的に観光開発を重視しており、山頂所有権
問題、山小屋トイレ問題、マイカー規制問題、世界遺産登録問
題等、過去から現在に至るまでの折々で双方の思惑の相違エムゾネ
士五湖−富士五湖は富士山周エムゾネ辺の観光地として著名であり
、本栖湖の逆さ富士が日本銀行券に採用されている。白糸の滝−
白糸の滝は上流に川は存在せず、富士山の雪解け水が溶岩断層か
ら湧き出す非常に珍しい形成をしている滝である。また、音止め
の滝と共に日本の滝百選に指定エムゾネされている。朝霧高原−朝
霧高原は富士山を綺麗に臨むスポットとして著名であり、その自
然と広大な土地もあり過去に第13回世界ジャンボリーも開催さ
れている。ダイヤモンド富士−ダイヤモンド富士などがはっきり
と拝める田貫湖や山中湖といったエムゾネスポットも有名で、特に
写真撮影を目的として訪れる観光客もいる。ドライブ−富士スバ
ルラインや富士山スカイラインなどを利用して、5合目までマイ
カーで上がることができる。シーズン中はマイカー規制の期間が
あり、冬期は閉鎖される。富士山のエムゾネ日(2月23日)2月
23日を「2:ふ・2:じ・3:さん」と語呂合わせで読み「富
士山の日」として制定している自治体がある。2001年(平成
13年)山梨県富士河口湖町(当時は河口湖町)にて条例を制定
。2002年(平成14年)山梨県富エムゾネ士吉田市を中心に、
山梨県の富士山麓10市町村、2恩賜林組合が了承。2009年
(平成21年)12月21日静岡県議会にて条例を全会一致で可
決。同年12月25日条例を制定。静岡県、山梨県どちらも、富
士山は普段の生活に溶け込み過ぎておりエムゾネ、「あって当たり
前」の空気のような存在である。そのため「富士山の日」に、各
自治体や県内企業などがさまざまなイベント等を催し、参加する
事など通じて、身近すぎる富士山を改めて、日本のシンボルとし
ても名高い名峰として再認識する機会としエムゾネている。また併
せて富士山の世界遺産登録に向けた動きを地元から活発化したい
との期待も込められている。静岡県教育委員会で、各市町村に対
して2011年(平成23年)より「富士山の日」を学校休業日
山の日」を学校休業日とするよう要望した。休業日として組み込ん
だ自治体があるなか、麓である富士市教育委員会では「エムゾネ特定日
を学校休業日とすることはなじまない」という理由で、2011年
以降休業日としていない。ただし富士山の日の意義から、学校で学
べる場の提供や、富士山こどもの国の無料開放、図書館や博物館な
どの社会教育施設にも富士山の日にちなんだ事エムゾネ業実施を要請し
ている。なお、富士山の日を最初に宣言したのは、パソコン通信「
NIFTY−Serve」内の「山の展望と地図のフォーラム(F
YAMAP)」で、1996年1月1日にネット上で発表した。富
士山ナンバー静岡運輸支局管内の4市エムゾネ2町と山梨運輸支局管内
の1市2町4村を対象とした、いわゆるご当地ナンバーとして20
08年11月4日から富士山ナンバーの交付が開始された。管轄支
局が二県にまたがるナンバープレートは珍しい。富士山検定「富士
山検定実行委員会」が主催すエムゾネる富士山検定が、富士商工会議所
、富士吉田商工会議所、静岡新聞社・静岡放送、山梨日日新聞社・
山梨放送、NPO法人富士山検定協会の5者により行われている。
地域間交流富士山頂の湧水を琵琶湖へ、琵琶湖の水を富士山頂へ注
ぐ交流が昭和三十二エムゾネ年以降静岡県富士宮市と滋賀県近江八幡市
の間で続けられている。これは「近江の土を掘り富士山を作りその
穴が琵琶湖になった」という伝説からである。富士山頂の湧水を琵
琶湖へ注ぐことを「お水返し」といい、琵琶湖の水を富士山頂へ注
ぐことを「エムゾネお水取り」という。2014年には日本富士山協会
と中華民国山岳協会との間で、富士山と玉山の友好山提携が締結さ
れている。標高3,952メートルの玉山は台湾の日本統治時代に
新高山と呼ばれ、日本の最高峰であった。その他他山の標高玉山(
台エムゾネ湾)−日本
が表面化している。富士山と観光富士登山富士登山には登山の
知識や経験、装備が不可欠である。一般的には、毎年7月1日
の山開きから9月上旬の山じまいまでの期間、登山が可能であ
る。期間外は、万全な準備をしない者の登山は原則禁止されて
いるエムゾネ。とくに積雪期・残雪期の登山は自殺行為である。詳
細は「富士登山」を参照その他の観光その優美な姿から、富士
山が見える場所は著名な観光地となっていることが多い。箱根
−箱根は富士山が望めるうえに、東京から近く温泉や歴史・美
術館や各種のエムゾネ乗り物が楽しめることもあり、年間を通じて
内外の観光客が絶えない。また、夏は避暑地としても有名であ
る。富士五湖−富士五湖は富士山周辺の観光地として著名であ
り、本栖湖の逆さ富士が日本銀行券に採用されている。白糸の
滝−白糸の滝は上流にエムゾネ川は存在せず、富士山の雪解け水が
溶岩断層から湧き出す非常に珍しい形成をしている滝である。
また、音止めの滝と共に日本の滝百選に指定されている。朝霧
高原−朝霧高原は富士山を綺麗に臨むスポットとして著名であ
り、その自然と広大な土地もあエムゾネり過去に第13回世界ジャ
ンボリーも開催されている。ダイヤモンド富士−ダイヤモンド
富士などがはっきりと拝める田貫湖や山中湖といったスポット
も有名で、特に写真撮影を目的として訪れる観光客もいる。ド
ライブ−富士スバルラインや富士山スカエムゾネイラインなどを利
用して、5合目までマイカーで上がることができる。シーズン
中はマイカー規制の期間があり、冬期は閉鎖される。富士山の
日(2月23日)2月23日を「2:ふ・2:じ・3:さん」
と語呂合わせで読み「富士山の日」として制定しエムゾネている自
治体がある。2001年(平成13年)山梨県富士河口湖町(
当時は河口湖町)にて条例を制定。2002年(平成14年)
山梨県富士吉田市を中心に、山梨県の富士山麓10市町村、2
とするよう要望した。休業日として組み込んエムゾネだ自治体があ
るなか、麓である富士市教育委員会では「特定日を学校休業日と
することはなじまない」という理由で、2011年以降休業日と
していない。ただし富士山の日の意義から、学校で学べる場の提
供や、富士山こどもの国の無料開放、図書館やエムゾネ博物館など
の社会教育施設にも富士山の日にちなんだ事業実施を要請してい
る。なお、富士山の日を最初に宣言したのは、パソコン通信「N
恩賜林組合が了承。2009年(平成21年)12月21エムゾネ
日静岡県議会にて条例を全会一致で可決。同年12月25日条
例を制定。静岡県、山梨県どちらも、富士山は普段の生活に溶
け込み過ぎており、「あって当たり前」の空気のような存在で
ある。そのため「富士山の日」に、各自治体や県内企業などが
さまエムゾネざまなイベント等を催し、参加する事など通じて、身
近すぎる富士山を改めて、日本のシンボルとしても名高い名峰
として再認識する機会としている。また併せて富士山の世界遺
産登録に向けた動きを地元から活発化したいとの期待も込めら
れている。静エムゾネ岡県教育委員会で、各市町村に対して201
1年(平成23年)より「富士山の日」を学校休業日とするよ
う要望した。休業日として組み込んだ自治体があるなか、麓で
ある富士市教育委員会では「特定日を学校休業日とすることは
なじまない」という理エムゾネ由で、2011年以降休業日として
いない。ただし富士山の日の意義から、学校で学べる場の提供
や、富士山こどもの国の無料開放、図書館や博物館などの社会
教育施設にも富士山の日にちなんだ事業実施を要請している。
なお、富士山の日を最初に宣言エムゾネしたのは、パソコン通信「
NIFTY−Serve」内の「山の展望と地図のフォーラム
(FYAMAP)」で、1996年1月1日にネット上で発表
した。富士山ナンバー静岡運輸支局管内の4市2町と山梨運輸
支局管内の1市2町4村を対象とした、エムゾネいわゆるご当地ナ
ンバーとして2008年11月4日から富士山ナンバーの交付
が開始された。管轄支局が二県にまたがるナンバープレートは
珍しい。富士山検定「富士山検定実行委員会」が主催する富士
山検定が、富士商工会議所、富士吉田商工会議所エムゾネ、静岡新
聞社・静岡放送、山梨日日新聞社・山梨放送、NPO法人富士
山検定協会の5者により行われている。地域間交流富士山頂の
IFTY−Serve」内の「山の展望と地図のフォーラム(F
YAMAP)」で、1996年1月1日にネットエムゾネ上で発表
した。富士山ナンバー静岡運輸支局管内の4市2町と山梨運輸支
局管内の1市2町4村を対象とした、いわゆるご当地ナンバーと
して2008年11月4日から富士山ナンバーの交付が開始され
た。管轄支局が二県にまたがるナンバープレートはエムゾネ珍しい
。富士山検定「富士山検定実行委員会」が主催する富士山検定が
、富士商工会議所、富士吉田商工会議所、静岡新聞社・静岡放送
、山梨日日新聞社・山梨放送、NPO法人富士山検定協会の5者
により行われている。地域間交流富士山頂の湧水を琵エムゾネ琶湖
へ、琵琶湖の水を富士山頂へ注ぐ交流が昭和三十二年以降静岡県
富士宮市と滋賀県近江八幡市の間で続けられている。これは「近
江の土を掘り富士山を作りその穴が琵琶湖になった」という伝説
からである。富士山頂の湧水を琵琶湖へ注ぐことを「おエムゾネ水
返し」といい、琵琶湖の水を富士山頂へ注ぐことを「お水取り」
という。2014年には日本富士山協会と中華民国山岳協会との
間で、富士山と玉山の友好山提携が締結されている。標高3,9
52メートルの玉山は台湾の日本統治時代に新高山と呼ばエムゾネ
れ、日本の最高峰であった。その他他山の標高玉山(台湾)−日
本統治時代は新高山と呼ばれ、日本最高峰であった。標高3,9
52メートル。雪山(台湾)−日本統治時代は次高山と呼ばれ、
日本で2番目に高い山であった。標高3,886メートル。エムゾ
ネ北岳−日本で2番目に高い山。標高3,193メートル。日和
山(仙台市)−日本で最も低い山。標高3メートル。エベレスト
−世界最高峰。標高8,844メートル。文字この節には、一部
のコンピュータや閲覧ソフトで表示できない文字(Unicoエム
ゾネde6.0の絵文字)が含まれています。和文通話表で、「
ふ」を送る際に「富士山のフ」という。文字コードのUnico
゙ネ載を推薦する「富士山」は、東アジアの東端に当たる日本列島の
本州島の中央部、日本の東海地方の東部及び関東地方の西部に位置
する。推薦する資産は17個の構成資産(26個の構成要素(後述
))から成り、現行の行政区分に基づく各構成資産の所エムゾネ在地に
ついては以下に記
湧水を琵琶湖へ、琵琶湖の水を富士山頂へ注ぐ交流が昭和三十
二年以降静岡県富士宮市と滋賀県近江八幡市の間で続けらエムゾネ
れている。これは「近江の土を掘り富士山を作りその穴が琵琶
湖になった」という伝説からである。富士山頂の湧水を琵琶湖
へ注ぐことを「お水返し」といい、琵琶湖の水を富士山頂へ注
ぐことを「お水取り」という。2014年には日本富士山協会
と中エムゾネ華民国山岳協会との間で、富士山と玉山の友好山提携
が締結されている。標高3,952メートルの玉山は台湾の日
本統治時代に新高山と呼ばれ、日本の最高峰であった。その他
他山の標高玉山(台湾)−日本統治時代は新高山と呼ばれ、日
本最高峰であエムゾネった。標高3,952メートル。雪山(台湾
)−日本統治時代は次高山と呼ばれ、日本で2番目に高い山で
あった。標高3,886メートル。北岳−日本で2番目に高い
山。標高3,193メートル。日和山(仙台市)−日本で最も
低い山。標高3メートエムゾネル。エベレスト−世界最高峰。標高
8,844メートル。文字この節には、一部のコンピュータや
閲覧ソフトで表示できない文字(Unicode6.0の絵文
字)が含まれています。和文通話表で、「ふ」を送る際に「富
士山のフ」という。文字コードエムゾネのUnicode6.0で
は、携帯電話などで使われていた絵文字も追加されたが、その
中に「MOUNTFUJI」として富士山も含まれている。続
けられている。これは「近江の土を掘り富士山を作りその穴が
琵琶湖になった」という伝説からであるエムゾネ。富士山頂の湧水
を琵琶湖へ注ぐことを「お水返し」といい、琵琶湖の水を富士
山頂へ注ぐことを「お水取り」という[82][83]。20
14年には日本富士山協会と中華民国山岳協会との間で、富士
山と玉山の友好山提携が締結されている[84]エムゾネ。標高3
,952メートルの玉山は台湾の日本統治時代に新高山と呼ば
de6.0では、携帯電話などで使われていた絵文字も追加され
たが、その中に「MOUNTFUJI」として富士山も含まれて
エムゾネいる。続けられている。これは「近江の土を掘り富士山を
作りその穴が琵琶湖になった」という伝説からである。富士山頂
の湧水を琵琶湖へ注ぐことを「お水返し」といい、琵琶湖の水を
富士山頂へ注ぐことを「お水取り」という[82][83]。2
0エムゾネ14年には日本富士山協会と中華民国山岳協会との間で
、富士山と玉山の友好山提携が締結されている[84]。標高3
,952メートルの玉山は台湾の日本統治時代に新高山と呼ばれ
、日本の最高峰であった。その他[編集]他山の標高[編集]玉
山(エムゾネ台湾)−日本統治時代は新高山と呼ばれ、日本最高峰
であった。標高3,952メートル。雪山(台湾)−日本統治時
代は次高山と呼ばれ、日本で2番目に高い山であった。標高3,
886メートル。北岳−日本で2番目に高い山。標高3,193
メートエムゾネル。日和山(仙台市)−日本で最も低い山。標高3
メートル。エベレスト−世界最高峰。標高8,844メートル。
文字[編集]この節には、一部のコンピュータや閲覧ソフトで表
示できない文字(Unicode6.0の絵文字)が含まれてい
ます(詳エムゾネ細)。和文通話表で、「ふ」を送る際に「富士山
のフ」という。文字コードのUnicode6.0では、携帯電
話などで使われていた絵文字も追加されたが、その中に「MOU
NTFUJI」として富士山も含まれている。富士山世界文化遺
産平成22エムゾネ年度第1回静岡県学術日本政府が世界遺産一覧
表への記載を推薦する「富士山」は、東アジアの東端に当たる日
本列島の本州島の中央部、日本の東海地方の東部及び関東地方の
西部に位置する。推薦する資産は17個の構成資産(26個の構
成要素(後述エムゾネ))から成り、現行の行政区分に基づく各構
成資産の所在地については以下に記すとおりである。構成資産所
)県境未確定地富士山(山頂剣ヶ峰)資産範囲エムゾネ及び緩衝地帯の
範囲図資産と緩衝地帯の位置及び範囲を示す図面、並びに資産近傍
における法的保護区分を示す図面は以下のとおりである。f)資産
面積及び緩衝地帯の面積各構成資産の面積及びその緩衝地帯の面積
、資産の総面積及びその緩衝地帯の総エムゾネ面積については、以下に
記すとおりである。構成資産面積:緩衝地帯面積:合計:No.構
成資産の面積(ha)緩衝地帯の面積(ha)合計説明a)資産の
説明1)資産全体の説明富士山は、標高3776mと日本一の高さ
を誇る独立峰である。高度をエムゾネ増すごとに山腹の傾斜が急になる
美しい懸垂曲線を呈し、類まれな優美さを持つ円錐形の山容を有し
た玄武岩質成層火山である。その山体は南の駿河湾の海浜にまで及
び、海面からの実質的な高さは世界的にも有数である。富士山は、
日本列島のほぼ中央エムゾネに位置し、フィリピン海プレート、ユーラ
シアプレート、北アメリカプレートの三つのプレートが会合し、さ
らにその下に東側から巨大な太平洋プレートが沈み込んでいる特異
な地点に存在する。富士山は、新生代第三紀中新世のおもに海底火
山噴出物かエムゾネらなる地層の上に第四紀更新世に造り上げられた先
小御岳火山とそれに重なる小御岳火山を土台として、古富士、さら
にそれを覆う新富士山の4層構造で構成されている。山頂部の火口
はおよそ2200年前を最後に噴火していないが、フィリピン海プ
レエムゾネートが北進しユーラシアプレートを南南東方向から押し続け
ているため割れ目が発生することによって、山頂を通って北北西に
向かう方向にほぼ直線的に側火山が並び、有史以降も火山活動を行
ってきた。富士山が過去に流出した溶岩などの火山噴出物はエムゾネ、
適度な粘度を持つために美しいコニーデ型の山容を形成しながら、
山頂を中心として約15
れ、日本の最高峰であった。その他[編集]他山の標高[編集
]玉山(台湾)−日本統治時代は新高山と呼ばれ、日本最高峰
であった。標高3,952メートル。雪山(台湾)−日本エムゾネ
統治時代は次高山と呼ばれ、日本で2番目に高い山であった。
標高3,886メートル。北岳−日本で2番目に高い山。標高
3,193メートル。日和山(仙台市)−日本で最も低い山。
標高3メートル。エベレスト−世界最高峰。標高8,844メ
在地No.所在地座標計測位置緯度経度A静岡県(富士宮市・富
士市・裾野市・御殿場市・小山町)山梨県(富士吉田市・身延町
・鳴沢村・富士エムゾネ河口湖町)県境未確定地富士山(山頂剣ヶ
峰)資産範囲及び緩衝地帯の範囲図資産と緩衝地帯の位置及び範
囲を示す図面、並びに資産近傍における法的保護区分を示す図面
は以下のとおりである。f)資産面積及び緩衝地帯の面積各構成
資産の面積及びそエムゾネの緩衝地帯の面積、資産の総面積及びそ
の緩衝地帯の総面積については、以下に記すとおりである。構成
資産面積:緩衝地帯面積:合計:No.構成資産の面積(ha)
緩衝地帯の面積(ha)合計説明a)資産の説明1)資産全体の
説明富士山は、標高エムゾネ3776mと日本一の高さを誇る独立
峰である。高度を増すごとに山腹の傾斜が急になる美しい懸垂曲
線を呈し、類まれな優美さを持つ円錐形の山容を有した玄武岩質
成層火山である。その山体は南の駿河湾の海浜にまで及び、海面
からの実質的な高さはエムゾネ世界的にも有数である。富士山は、
日本列島のほぼ中央に位置し、フィリピン海プレート、ユーラシ
アプレート、北アメリカプレートの三つのプレートが会合し、さ
らにその下に東側から巨大な太平洋プレートが沈み込んでいる特
異な地点に存在する。富エムゾネ士山は、新生代第三紀中新世のお
もに海底火山噴出物からなる地層の上に第四紀更新世に造り上げ
られた先小御岳火山とそれに重なる小御岳火山を土台として、古
富士、さらにそれを覆う新富士山の4層構造で構成されている。
山頂部の火口はおよそ22エムゾネ00年前を最後に噴火していな
いが、フィリピン海プレートが北進しユーラシアプレートを南南
東方向から押し続けているため割れ目が発生することによって、
山頂を通って北北西に向かう方向にほぼ直線的に側火山が並び、
有史以降も火山活動を行ってエムゾネきた。富士山が過去に流出し
た溶岩などの火山噴出物は、適度な粘度を持つために美しいコニ
湧水(日量約450〜680万t、現在最大の湧水は日量約100
万tの柿田川)が見られる。富士山北麓ではこれらの湧水や降水を
起源とする湖沼が点在している。上記のような自然的環境を持つ富
士山は、古来自然物、特に山岳に対する信エムゾネ仰の伝統を持ってい
た日本人に畏敬の念を抱かせ、日本における様々な宗教の融合した
信仰の対象とされた。遥拝や山中での修行のみならず、神仏の在所
と考えられた山頂への登山という宗教行為が一般化するとともに、
山体及び山麓周辺に神社などの宗エムゾネ教施設や風穴・湧水といった
自然物・自然現象を起源とする霊地・巡礼地が設けられ、登山のた
めの道や施設及びそれを支援する包括的なシステムが作られた。標
高約2500m付近の森林限界より上方は富士講(富士山信仰の集
団の一つ)信者には「焼エムゾネ山」と呼ばれ、神聖な地域ないし他界
(死後世界)と考えられていた。北麓地域ではさらに、山体を上方
から順に「焼山」(森林限界以上)、「木山」(森林地帯)、「草
山」(草原地帯)と呼び習わし、俗界(「草山」)と死の世界(「
焼山」)を往復エムゾネすることでこの世の罪と穢れを消すという富士
登拝の区分と関連付けていた。森林地帯は神聖な地域の入口の一つ
とされる一方で木材の伐採等生活のために利用される地域でもあっ
た。また、富士山山麓に見られる湧水は登山前に身を清めるために
必須のエムゾネものであり、現代においても柿田川をはじめ各所で「霊
水」として取り扱われている。また、富士山の稜線、冬季に一般的
に見られる雪を戴いた姿、周辺の湖や海岸線などの展望地から眺め
た景観などが時代を超えて多くの人々に神秘的な美しさとして賞エムソ
゙ネ賛され、芸術的な創造意欲を掻き立てた。富士山体のうち、標高
約1500m以上の範囲は、周辺の浅間神社や展望地点から見た可
視領域が重なり合う範囲
ートエムゾネル。文字[編集]この節には、一部のコンピュータや
閲覧ソフトで表示できない文字(Unicode6.0の絵文
字)が含まれています(詳細)。和文通話表で、「ふ」を送る
際に「富士山のフ」という。文字コードのUnicode6.
0では、携帯エムゾネ電話などで使われていた絵文字も追加された
が、その中に「MOUNTFUJI」として富士山も含まれて
いる。富士山世界文化遺産平成22年度第1回静岡県学術日本
政府が世界遺産一覧表への記載を推薦する「富士山」は、東ア
ジアの東端に当たる日エムゾネ本列島の本州島の中央部、日本の東
海地方の東部及び関東地方の西部に位置する。推薦する資産は
17個の構成資産(26個の構成要素(後述))から成り、現
行の行政区分に基づく各構成資産の所在地については以下に記
すとおりである。構成資産所在エムゾネ地No.所在地座標計測位
置緯度経度A静岡県(富士宮市・富士市・裾野市・御殿場市・
小山町)山梨県(富士吉田市・身延町・鳴沢村・富士河口湖町
)県境未確定地富士山(山頂剣ヶ峰)資産範囲及び緩衝地帯の
範囲図資産と緩衝地帯の位置及び範囲をエムゾネ示す図面、並びに
資産近傍における法的保護区分を示す図面は以下のとおりであ
る。f)資産面積及び緩衝地帯の面積各構成資産の面積及びそ
の緩衝地帯の面積、資産の総面積及びその緩衝地帯の総面積に
ついては、以下に記すとおりである。構成資産面エムゾネ積:緩衝
地帯面積:合計:No.構成資産の面積(ha)緩衝地帯の面
積(ha)合計説明a)資産の説明1)資産全体の説明富士山
は、標高3776mと日本一の高さを誇る独立峰である。高度
を増すごとに山腹の傾斜が急になる美しい懸垂曲線を呈しエムゾネ
、類まれな優美さを持つ円錐形の山容を有した玄武岩質成層火
山である。その山体は南の駿河湾の海浜にまで及び、海面から
の実質的な高さは世界的にも有数である。富士山は、日本列島
ーデ型の山容を形成しながら、山頂を中心として約15〜20k
m(最大約30km)の範囲に広がった。山麓には数多くの風穴
・溶岩樹型等の地形が見られ、エムゾネ溶岩流の末端部では富士山
の中腹以上への降水を起源とする豊富な湧水(日量約450〜6
80万t、現在最大の湧水は日量約100万tの柿田川)が見ら
れる。富士山北麓ではこれらの湧水や降水を起源とする湖沼が点
在している。上記のような自然的エムゾネ環境を持つ富士山は、古
る地点)の標高以上の範囲とほぼ一致している。地元住民が、とり
わけこの「馬返」より上を指して「オヤマ」又は「オヤマサマ」と
呼び、富士山の範囲とみなす地域もあった。景エムゾネ観的には山体の
傾斜角の変化率が大きくなり「平野部」と「山体」の境界として認
識され、稜線が優美な曲線を描き絵画などの対象とされることが多
い範囲である。2)資産の構成推薦資産は、日本列島のほぼ中央に
位置する富士山体と、周辺の浅間神社エムゾネや御師住宅、霊地・巡礼
地である風穴・溶岩樹型・湖沼、芸術作品の視点場(又は舞台)と
なった地点から構成される。富士山体の中には山頂信仰遺跡や登山
道などの重要な要素が含まれている。これらの構成資産が一体とな
った推薦資産「富士山」は、エムゾネ山に対する固有の文化的伝統を表
す物証であり、山と人間との精神的な関係を生み出した景観の見本
であるとともに、芸術的作品との関連がある山岳である。表構成資
産/構成要素の分類No.世界遺産条約上の分類遺跡A1山頂信仰
遺跡遺跡A2大宮・エムゾネ村山口登山道遺跡A3須山口登山道遺跡A
4須走口登山道遺跡A5吉田口登山道遺跡A6北口本宮冨士浅間神
社遺跡、記念工作物、建造物A7西湖遺跡A8精進湖遺跡A9本栖
湖遺跡B1遺跡、記念工作物、建造物B2遺跡B3遺跡B4遺跡B
5遺跡B6エムゾネ遺跡B7遺跡、記念工作物、建造物B8建造物B9
遺跡B10遺跡B11遺跡B12遺跡B13遺跡B14遺跡B15
遺跡C遺跡A富士山(富士山体)富士山本宮浅間大社山宮浅間神社
河口湖村山浅間神社須山浅間神社富士浅間神社(須走浅間神社)河
口エムゾネ浅間神社白糸ノ滝三保松原構成資産/構成要素忍野八海船津
胎内樹型吉田胎内樹型人穴富士講遺跡冨士御室浅間神社御師住宅山
中湖673)構成資産の説明富士山(富士山体)・展望地点富士山
には、山頂部に点在する
のほぼ中央に位置し、フィリピン海プレート、ユーラシアプレ
ートエムゾネ、北アメリカプレートの三つのプレートが会合し、さ
らにその下に東側から巨大な太平洋プレートが沈み込んでいる
特異な地点に存在する。富士山は、新生代第三紀中新世のおも
に海底火山噴出物からなる地層の上に第四紀更新世に造り上げ
られた先小御エムゾネ岳火山とそれに重なる小御岳火山を土台とし
て、古富士、さらにそれを覆う新富士山の4層構造で構成され
ている。山頂部の火口はおよそ2200年前を最後に噴火して
いないが、フィリピン海プレートが北進しユーラシアプレート
を南南東方向から押しエムゾネ続けているため割れ目が発生するこ
とによって、山頂を通って北北西に向かう方向にほぼ直線的に
側火山が並び、有史以降も火山活動を行ってきた。富士山が過
去に流出した溶岩などの火山噴出物は、適度な粘度を持つため
に美しいコニーデ型の山容を形エムゾネ成しながら、山頂を中心と
して約15〜20km(最大約30km)の範囲に広がった。
山麓には数多くの風穴・溶岩樹型等の地形が見られ、溶岩流の
末端部では富士山の中腹以上への降水を起源とする豊富な湧水
(日量約450〜680万t、現在最大エムゾネの湧水は日量約1
00万tの柿田川)が見られる。富士山北麓ではこれらの湧水
や降水を起源とする湖沼が点在している。上記のような自然的
環境を持つ富士山は、古来自然物、特に山岳に対する信仰の伝
統を持っていた日本人に畏敬の念を抱かせ、日本エムゾネにおける
様々な宗教の融合した信仰の対象とされた。遥拝や山中での修
行のみならず、神仏の在所と考えられた山頂への登山という宗
教行為が一般化するとともに、山体及び山麓周辺に神社などの
宗教施設や風穴・湧水といった自然物・自然現象を起源とエムゾネ
する霊地・巡礼地が設けられ、登山のための道や施設及びそれ
を支援する包括的なシステムが作られた。標高約2500m付
来自然物、特に山岳に対する信仰の伝統を持っていた日本人に畏
敬の念を抱かせ、日本における様々な宗教の融合した信仰の対象
とされた。遥拝や山中での修行のみならず、神仏の在所と考えら
れた山頂への登山という宗教行為がエムゾネ一般化するとともに、
山体及び山麓周辺に神社などの宗教施設や風穴・湧水といった自
然物・自然現象を起源とする霊地・巡礼地が設けられ、登山のた
めの道や施設及びそれを支援する包括的なシステムが作られた。
標高約2500m付近の森林限界よりエムゾネ上方は富士講(富士
山信仰の集団の一つ)信者には「焼山」と呼ばれ、神聖な地域な
いし他界(死後世界)と考えられていた。北麓地域ではさらに、
山体を上方から順に「焼山」(森林限界以上)、「木山」(森林
地帯)、「草山」(草原地帯)と呼び習エムゾネわし、俗界(「草
山」)と死の世界(「焼山」)を往復することでこの世の罪と穢
れを消すという富士登拝の区分と関連付けていた。森林地帯は神
聖な地域の入口の一つとされる一方で木材の伐採等生活のために
利用される地域でもあった。また、富士山エムゾネ山麓に見られる
湧水は登山前に身を清めるために必須のものであり、現代におい
ても柿田川をはじめ各所で「霊水」として取り扱われている。ま
た、富士山の稜線、冬季に一般的に見られる雪を戴いた姿、周辺
の湖や海岸線などの展望地から眺めた景観なエムゾネどが時代を超
えて多くの人々に神秘的な美しさとして賞賛され、芸術的な創造
意欲を掻き立てた。富士山体のうち、標高約1500m以上の範
囲は、周辺の浅間神社や展望地点から見た可視領域が重なり合う
範囲で、芸術・鑑賞の側面における比重が最もエムゾネ高い。各登
山道における山体の神聖性に関する境界の一つである「馬返」(
乗馬登山が物理的にも、宗教的観点からも不可能になる地点)の
標高以上の範囲とほぼ一致している。地元住民が、とりわけこの
「馬返」より上を指して「オヤマ」又は「オヤマエムゾネサマ」と
神社や展望地点から見た可視領域が重なり合う範囲で、芸術・鑑賞
の側面における比重が最も高い。特に本栖湖や三保エムゾネ松原は、何
度も紙幣の図柄に採用された写真の撮影地や富士山を描く典型的な
構図に含まれる景勝地であり、主要な展望を供する展望地点である
。また推薦範囲は、山体
近の森林限界より上方は富士講(富士山信仰の集団の一つ)信
者には「焼山」と呼ばれ、神聖な地域ないし他界(死後世界)
と考エムゾネえられていた。北麓地域ではさらに、山体を上方から
順に「焼山」(森林限界以上)、「木山」(森林地帯)、「草
山」(草原地帯)と呼び習わし、俗界(「草山」)と死の世界
(「焼山」)を往復することでこの世の罪と穢れを消すという
富士登拝の区エムゾネ分と関連付けていた。森林地帯は神聖な地域
の入口の一つとされる一方で木材の伐採等生活のために利用さ
れる地域でもあった。また、富士山山麓に見られる湧水は登山
前に身を清めるために必須のものであり、現代においても柿田
川をはじめ各所で「霊エムゾネ水」として取り扱われている。また
、富士山の稜線、冬季に一般的に見られる雪を戴いた姿、周辺
の湖や海岸線などの展望地から眺めた景観などが時代を超えて
多くの人々に神秘的な美しさとして賞賛され、芸術的な創造意
欲を掻き立てた。富士山体のうエムゾネち、標高約1500m以上
の範囲は、周辺の浅間神社や展望地点から見た可視領域が重な
り合う範囲で、芸術・鑑賞の側面における比重が最も高い。各
登山道における山体の神聖性に関する境界の一つである「馬返
」(乗馬登山が物理的にも、宗教的観点エムゾネからも不可能にな
る地点)の標高以上の範囲とほぼ一致している。地元住民が、
とりわけこの「馬返」より上を指して「オヤマ」又は「オヤマ
サマ」と呼び、富士山の範囲とみなす地域もあった。景観的に
は山体の傾斜角の変化率が大きくなり「平野部」エムゾネと「山体
」の境界として認識され、稜線が優美な曲線を描き絵画などの
対象とされることが多い範囲である。2)資産の構成推薦資産
は、日本列島のほぼ中央に位置する富士山体と、周辺の浅間神
社や御師住宅、霊地・巡礼地である風穴・溶岩樹型・湖沼エムゾネ
、芸術作品の視点場(又は舞台)となった地点から構成される
呼び、富士山の範囲とみなす地域もあった。景観的には山体の傾
斜角の変化率が大きくなり「平野部」と「山体」の境界として認
識され、稜線が優美な曲線を描き絵画などの対象とされることが
多い範囲である。2)資産の構成推薦資産は、日本エムゾネ列島の
ほぼ中央に位置する富士山体と、周辺の浅間神社や御師住宅、霊
地・巡礼地である風穴・溶岩樹型・湖沼、芸術作品の視点場(又
は舞台)となった地点から構成される。富士山体の中には山頂信
仰遺跡や登山道などの重要な要素が含まれている。こエムゾネれら
の構成資産が一体となった推薦資産「富士山」は、山に対する固
有の文化的伝統を表す物証であり、山と人間との精神的な関係を
生み出した景観の見本であるとともに、芸術的作品との関連があ
る山岳である。表構成資産/構成要素の分類No.世界エムゾネ遺
産条約上の分類遺跡A1山頂信仰遺跡遺跡A2大宮・村山口登山
道遺跡A3須山口登山道遺跡A4須走口登山道遺跡A5吉田口登
山道遺跡A6北口本宮冨士浅間神社遺跡、記念工作物、建造物A
7西湖遺跡A8精進湖遺跡A9本栖湖遺跡B1遺跡、記念エムゾネ
工作物、建造物B2遺跡B3遺跡B4遺跡B5遺跡B6遺跡B7
遺跡、記念工作物、建造物B8建造物B9遺跡B10遺跡B11
遺跡B12遺跡B13遺跡B14遺跡B15遺跡C遺跡A富士山
(富士山体)富士山本宮浅間大社山宮浅間神社河口湖村山浅エムゾ
ネ間神社須山浅間神社富士浅間神社(須走浅間神社)河口浅間神
社白糸ノ滝三保松原構成資産/構成要素忍野八海船津胎内樹型吉
田胎内樹型人穴富士講遺跡冨士御室浅間神社御師住宅山中湖67
3)構成資産の説明富士山(富士山体)・展望地点富士山にはエム
ゾネ、山頂部に点在する宗教関連施設を始め、信仰登山の支援施
設として機能してきた登山道や山小屋といった宿泊施設、信仰の
証として建てられた石碑などが存在する。推薦範囲は、周辺の浅
間神社や展望地点から見た可視領域が重なり合う範囲で、芸術・
大社の境内地とされた八合目(登山道を10区間に分割した目安の
一つ。登山道ごとに異なり標高約3200〜3375m)以上と、
山頂に近づくほどより強い神聖性エムゾネを持つと認識されてきた。A
富士山(富士山体)A1山頂信仰遺跡A9本栖湖C三保松原(写真
複数、地図挿入)(改頁)登山道富士山には、麓の浅間神社を起点
として山頂に至る登山道が、複数存在する。12世紀前半から中ご
ろにかけての修行僧末代エムゾネの活動がきっかけになったと考えられ
る大宮・村山口登山道や、六合目から1384年の銘のある掛仏が
出土した須走口登山道などがある。吉田口登山道は、富士講信者の
登山本道とされ、18世紀後半以降、最も多くの道者(他の登山口
の合計と同程度エムゾネ)によって利用された。また、1200年の資
料では、大宮・村山口及び吉田口の外、須山口登山道を挙げて、そ
れ以外には登山道がないと述べられている。登山道沿いには要所要
所に祠や石碑が設置され、随所に小屋や石室が設けられており、富
士独特エムゾネの登拝システムを語る上で、登山道は欠かすことのでき
ない構成要素である。A2大宮・村山口登山道A3須山口登山道A
4須走口登山道A5吉田口登山道(写真複数、地図挿入)(改頁)
浅間神社・御師住宅登山道の起点や周辺地域には浅間神社が建造エムソ
゙ネされた。古くから富士山は遥拝の対象であり、山宮浅間神社など
は古代からの祭祀の形をとどめている。噴火活動の活発化を受け、
律令国家によって9世紀前半に富士山を神体とする浅間神社(後の
富士山本宮浅間大社)が、9世紀後半には北麓にも噴火エムゾネを鎮め
るための神社が祭祀された。11世紀後半の噴火を最後に火山活動
が休止期に入ると、富士山を舞台とする修験の活動が活発化し始め
、修験者の拠点が後に村山浅間神社や冨士御室浅間神社へと発展し
ていった。登拝の大衆化
。富士山体の中には山頂信仰遺跡や登山道などの重要な要素が
含まれている。これらの構成資産が一体となった推薦資産「富
士山」は、山に対する固有の文化的伝統を表す物証であり、山
と人エムゾネ間との精神的な関係を生み出した景観の見本であると
ともに、芸術的作品との関連がある山岳である。表構成資産/
構成要素の分類No.世界遺産条約上の分類遺跡A1山頂信仰
遺跡遺跡A2大宮・村山口登山道遺跡A3須山口登山道遺跡A
エムゾネ鑑賞の側面における比重が最も高い。特に本栖湖や三保松
原は、何度も紙幣の図柄に採用された写真の撮影地や富士山を描
く典型的な構図に含まれる景勝地であり、主要な展望を供する展
望地点である。また推薦範囲は、山体の神聖性の境界の一つであ
るエムゾネ「馬返」以上に該当する標高1500m以上の区域でも
あり、その中でも、他界(死後世界)と考えられた森林限界より
上方、富士山本宮浅間大社の境内地とされた八合目(登山道を1
0区間に分割した目安の一つ。登山道ごとに異なり標高約320
0〜エムゾネ3375m)以上と、山頂に近づくほどより強い神聖
性を持つと認識されてきた。A富士山(富士山体)A1山頂信仰
遺跡A9本栖湖C三保松原(写真複数、地図挿入)(改頁)登山
道富士山には、麓の浅間神社を起点として山頂に至る登山道が、
複数存エムゾネ在する。12世紀前半から中ごろにかけての修行僧
末代の活動がきっかけになったと考えられる大宮・村山口登山道
や、六合目から1384年の銘のある掛仏が出土した須走口登山
道などがある。吉田口登山道は、富士講信者の登山本道とされ、
18世紀エムゾネ後半以降、最も多くの道者(他の登山口の合計と
同程度)によって利用された。また、1200年の資料では、大
宮・村山口及び吉田口の外、須山口登山道を挙げて、それ以外に
は登山道がないと述べられている。登山道沿いには要所要所に祠
や石碑が設エムゾネ置され、随所に小屋や石室が設けられており、
富士独特の登拝システムを語る上で、登山道は欠かすことのでき
ない構成要素である。A2大宮・村山口登山道A3須山口登山道
A4須走口登山道A5吉田口登山道(写真複数、地図挿入)(改
頁)浅間神社エムゾネ・御師住宅登山道の起点や周辺地域には浅間
神社が建造された。古くから富士山は遥拝の対象であり、山宮浅
間神社などは古代からの祭祀の形をとどめている。噴火活動の活
発化を受け、律令国家によって9世紀前半に富士山を神体とする
流行した富士講によって大いに利用された吉田口登山道の起点であ
ったが、その北には、富士講徒の案内エムゾネし、宿泊の世話や祈祷を
行った御師の住宅が今も残されている。B1富士山本宮浅間大社B
2山宮浅間神社B3村山浅間神社B4須山浅間神社B5富士浅間神
社(須走浅間神社)A6北口本宮冨士浅間神社B8御師住宅B6河
口浅間神社B7冨士御室浅間エムゾネ神社(写真複数、地図挿入)(改
頁)霊地・巡礼地となった風穴・溶岩樹型・湧水地・湖沼18世紀
後半から爆発的に流行した富士講の信者は、山頂を目指して富士山
に登るだけでなく、いわばオプショナル・ツアーのごとく周辺の風
穴や湧水地などを巡エムゾネり、巡礼や修行を行っていた。富士講の開
祖とされる長谷川角行は、人穴(富士講遺跡)で修行をし、富士五
湖を始めとした八つの湖沼や白糸ノ滝で水行を行った。後の富士講
徒はこれらの地へ参詣し、開祖に倣って修行を行う者もいた。また
、長谷川角エムゾネ行の八海修行になぞらえ「富士御手洗(みてらし)
元八湖」と唱えられた忍野八海や、彼が北麓の洞穴で浅間明神を祀
ったことにちなんで整備された船津胎内樹型や吉田胎内樹型など、
特定の富士講にとっての霊場・巡礼地となっている資産もある。B
9エムゾネ山中湖B10河口湖A7西湖A8精進湖A9本栖湖B11忍
野八海B12船津胎内樹型B13吉田胎内樹型B14人穴富士講遺
跡B15白糸ノ滝(写真複数、地図挿入)(改頁)A.富士山(富
士山体)説明富士山には、山頂部に点在する宗教関連施設をエムゾネ始
め、信仰登山の支援施設として機能してきた登山道や山小屋といっ
た宿泊施設、信仰の証として建てられた石碑などが存在する。推薦
範囲は、周辺の浅間神社や展望地点から見た可視領域が重なり合う
範囲で、芸術・鑑賞の側面における比重が9最も高エムゾネい。また推
薦範囲は、山体の
4須走口登山エムゾネ道遺跡A5吉田口登山道遺跡A6北口本宮冨
士浅間神社遺跡、記念工作物、建造物A7西湖遺跡A8精進湖
遺跡A9本栖湖遺跡B1遺跡、記念工作物、建造物B2遺跡B
3遺跡B4遺跡B5遺跡B6遺跡B7遺跡、記念工作物、建造
物B8建造物B9遺跡エムゾネB10遺跡B11遺跡B12遺跡B
13遺跡B14遺跡B15遺跡C遺跡A富士山(富士山体)富
士山本宮浅間大社山宮浅間神社河口湖村山浅間神社須山浅間神
社富士浅間神社(須走浅間神社)河口浅間神社白糸ノ滝三保松
原構成資産/構成要素忍野八海エムゾネ船津胎内樹型吉田胎内樹型
人穴富士講遺跡冨士御室浅間神社御師住宅山中湖673)構成
資産の説明富士山(富士山体)・展望地点富士山には、山頂部
に点在する宗教関連施設を始め、信仰登山の支援施設として機
能してきた登山道や山小屋といった宿泊エムゾネ施設、信仰の証と
して建てられた石碑などが存在する。推薦範囲は、周辺の浅間
神社や展望地点から見た可視領域が重なり合う範囲で、芸術・
鑑賞の側面における比重が最も高い。特に本栖湖や三保松原は
、何度も紙幣の図柄に採用された写真の撮影地やエムゾネ富士山を
描く典型的な構図に含まれる景勝地であり、主要な展望を供す
る展望地点である。また推薦範囲は、山体の神聖性の境界の一
つである「馬返」以上に該当する標高1500m以上の区域で
もあり、その中でも、他界(死後世界)と考えられた森林エムゾネ
限界より上方、富士山本宮浅間大社の境内地とされた八合目(
登山道を10区間に分割した目安の一つ。登山道ごとに異なり
標高約3200〜3375m)以上と、山頂に近づくほどより
強い神聖性を持つと認識されてきた。A富士山(富士山体)A
1山エムゾネ頂信仰遺跡A9本栖湖C三保松原(写真複数、地図挿
入)(改頁)登山道富士山には、麓の浅間神社を起点として山
頂に至る登山道が、複数存在する。12世紀前半から中ごろに
浅間神社(後のエムゾネ富士山本宮浅間大社)が、9世紀後半には
北麓にも噴火を鎮めるための神社が祭祀された。11世紀後半の
噴火を最後に火山活動が休止期に入ると、富士山を舞台とする修
験の活動が活発化し始め、修験者の拠点が後に村山浅間神社や冨
士御室浅間神社へエムゾネと発展していった。登拝の大衆化に伴っ
て、須山浅間神社や富士浅間神社(須走浅間神社)8など、登山
口の起点にも浅間神社が建立されるようになる。なかでも、北口
とされた八合目(登山道を10区間に分割エムゾネした目安の一つ。登
山道ごとに異なり標高約3200〜3375m)以上と、山頂に近
づくほどより強い神聖性を持つと認識されてきた。八合目以上は、
1779年以降、富士山本宮浅間大社の境内地とされたが、この理
由は八合目の標高とほぼ一致するエムゾネ噴火口(「内院」と呼び宗教
的に意義付けられている)の底部に浅間大神が鎮座するとの信仰に
基づく。標高約2500m付近の森林限界より上方は富士講信者(
富士山信仰の集団の一つ)には「焼山」と呼ばれ、神聖な地域ない
し他界(死後世界)と考エムゾネえられていた。ほぼこの境域に沿い、
富士山体を一周する「御中道」が15〜16世紀ごろに富士講の祖
とされる長谷川角行によって開かれたとされ(1561年及び15
80年とされる)、その後「大沢崩れ」という危険箇所を通るため
富士講信者によエムゾネり修行の道として利用された。構成資産範囲内
には、山頂信仰遺跡や登山道といった、富士山の顕著な普遍的価値
を語る上で重要な役割を担う、次のような構成要素が存在する。A
1.山頂信仰遺跡富士山山頂部には、火口壁に沿っていくつかの神
社などエムゾネ、宗教関連施設が所在する。富士山への信仰登山が開始
されると、修験道の影響を受け山頂部において寺院の造営や仏像等
の奉納がおこなわれるとともに、山頂部での宗教行為が体系化され
ていった。道者は山頂周辺において「御来迎(仏の来迎と見なさエムソ
゙ネれたブロッケン現象)」(のち「御来光(日の出)」)を拝み、
内院(噴火口)に鎮座するとされる神仏(大日如来が本地仏とされ
た浅間大神ないし浅間大菩薩)を拝し、火口壁にいくつかあるピー
クを仏教の曼荼羅における仏の世界に擬して巡拝する「エムゾネお鉢め
ぐり(八葉めぐり)」と呼ばれる行為を行なうことが一般的であっ
た。山頂の宗教的施設は
かけての修行僧末代の活動がきっかけになったと考えられる大
宮・村山口登エムゾネ山道や、六合目から1384年の銘のある掛
仏が出土した須走口登山道などがある。吉田口登山道は、富士
講信者の登山本道とされ、18世紀後半以降、最も多くの道者
(他の登山口の合計と同程度)によって利用された。また、1
200年の資料では、エムゾネ大宮・村山口及び吉田口の外、須山
口登山道を挙げて、それ以外には登山道がないと述べられてい
る。登山道沿いには要所要所に祠や石碑が設置され、随所に小
屋や石室が設けられており、富士独特の登拝システムを語る上
で、登山道は欠かすことのできエムゾネない構成要素である。A2
大宮・村山口登山道A3須山口登山道A4須走口登山道A5吉
田口登山道(写真複数、地図挿入)(改頁)浅間神社・御師住
宅登山道の起点や周辺地域には浅間神社が建造された。古くか
ら富士山は遥拝の対象であり、山宮浅間エムゾネ神社などは古代か
らの祭祀の形をとどめている。噴火活動の活発化を受け、律令
国家によって9世紀前半に富士山を神体とする浅間神社(後の
富士山本宮浅間大社)が、9世紀後半には北麓にも噴火を鎮め
るための神社が祭祀された。11世紀後半の噴火エムゾネを最後に
火山活動が休止期に入ると、富士山を舞台とする修験の活動が
活発化し始め、修験者の拠点が後に村山浅間神社や冨士御室浅
間神社へと発展していった。登拝の大衆化に伴って、須山浅間
神社や富士浅間神社(須走浅間神社)8など、登山口の起エムゾネ
点にも浅間神社が建立されるようになる。なかでも、北口本宮
冨士浅間神社は、江戸を中心に流行した富士講によって大いに
利用された吉田口登山道の起点であったが、その北には、富士
講徒の案内し、宿泊の世話や祈祷を行った御師の住宅が今も残
されエムゾネている。B1富士山本宮浅間大社B2山宮浅間神社B
3村山浅間神社B4須山浅間神社B5富士浅間神社(須走浅間
本宮冨士浅間神社は、江戸を中心に流行した富士講によって大い
に利用された吉田口エムゾネ登山道の起点であったが、その北には
、富士講徒の案内し、宿泊の世話や祈祷を行った御師の住宅が今
も残されている。B1富士山本宮浅間大社B2山宮浅間神社B3
村山浅間神社B4須山浅間神社B5富士浅間神社(須走浅間神社
)A6北口本宮冨士浅エムゾネ間神社B8御師住宅B6河口浅間神
社B7冨士御室浅間神社(写真複数、地図挿入)(改頁)霊地・
巡礼地となった風穴・溶岩樹型・湧水地・湖沼18世紀後半から
爆発的に流行した富士講の信者は、山頂を目指して富士山に登る
だけでなく、いわばオプエムゾネショナル・ツアーのごとく周辺の
風穴や湧水地などを巡り、巡礼や修行を行っていた。富士講の開
祖とされる長谷川角行は、人穴(富士講遺跡)で修行をし、富士
五湖を始めとした八つの湖沼や白糸ノ滝で水行を行った。後の富
士講徒はこれらの地へ参詣エムゾネし、開祖に倣って修行を行う者
もいた。また、長谷川角行の八海修行になぞらえ「富士御手洗(
みてらし)元八湖」と唱えられた忍野八海や、彼が北麓の洞穴で
浅間明神を祀ったことにちなんで整備された船津胎内樹型や吉田
胎内樹型など、特定の富士講エムゾネにとっての霊場・巡礼地とな
っている資産もある。B9山中湖B10河口湖A7西湖A8精進
湖A9本栖湖B11忍野八海B12船津胎内樹型B13吉田胎内
樹型B14人穴富士講遺跡B15白糸ノ滝(写真複数、地図挿入
)(改頁)A.富士山(富士山エムゾネ体)説明富士山には、山頂
部に点在する宗教関連施設を始め、信仰登山の支援施設として機
能してきた登山道や山小屋といった宿泊施設、信仰の証として建
てられた石碑などが存在する。推薦範囲は、周辺の浅間神社や展
望地点から見た可視領域が重なりエムゾネ合う範囲で、芸術・鑑賞
の側面における比重が9最も高い。また推薦範囲は、山体の神聖
性の境界の一つである「馬返」以上に該当する標高1500m以
の銘のあるものが最古)・仏像等(1302年の銘があるものが最
古)の山頂部への奉納・埋納や内院への散銭が行われた。また、遅
くとも17世紀には、大宮・村山口山頂部に大日堂(現在は富士山
本宮奥宮が所在)が、吉田・須走口山エムゾネ頂部に薬師堂(現在の久
須志神社)が造営
神社)A6北口本宮冨士浅間神社B8御師住宅B6河口浅間神
社B7冨士御室浅間神社(写真複数、地図挿入)(改頁)霊地
・巡礼地となエムゾネった風穴・溶岩樹型・湧水地・湖沼18世紀
後半から爆発的に流行した富士講の信者は、山頂を目指して富
士山に登るだけでなく、いわばオプショナル・ツアーのごとく
周辺の風穴や湧水地などを巡り、巡礼や修行を行っていた。富
士講の開祖とされる長エムゾネ谷川角行は、人穴(富士講遺跡)で
修行をし、富士五湖を始めとした八つの湖沼や白糸ノ滝で水行
を行った。後の富士講徒はこれらの地へ参詣し、開祖に倣って
修行を行う者もいた。また、長谷川角行の八海修行になぞらえ
「富士御手洗(みてらし)元八エムゾネ湖」と唱えられた忍野八海
や、彼が北麓の洞穴で浅間明神を祀ったことにちなんで整備さ
れた船津胎内樹型や吉田胎内樹型など、特定の富士講にとって
の霊場・巡礼地となっている資産もある。B9山中湖B10河
口湖A7西湖A8精進湖A9本栖湖B1エムゾネ1忍野八海B12
船津胎内樹型B13吉田胎内樹型B14人穴富士講遺跡B15
白糸ノ滝(写真複数、地図挿入)(改頁)A.富士山(富士山
体)説明富士山には、山頂部に点在する宗教関連施設を始め、
信仰登山の支援施設として機能してきた登山道やエムゾネ山小屋と
いった宿泊施設、信仰の証として建てられた石碑などが存在す
る。推薦範囲は、周辺の浅間神社や展望地点から見た可視領域
が重なり合う範囲で、芸術・鑑賞の側面における比重が9最も
高い。また推薦範囲は、山体の神聖性の境界の一つであるエムゾネ
「馬返」以上に該当する標高1500m以上の区域でもあり、
その中でも、他界(死後世界)と考えられた森林限界より上方
、富士山本宮浅間大社の境内地とされた八合目(登山道を10
区間に分割した目安の一つ。登山道ごとに異なり標高約320
0〜エムゾネ3375m)以上と、山頂に近づくほどより強い神聖
上の区域でもあり、その中でも、他界(死後世界)と考えられた
森林限界より上方、富士山本宮浅間エムゾネ大社の境内地とされた
八合目(登山道を10区間に分割した目安の一つ。登山道ごとに
異なり標高約3200〜3375m)以上と、山頂に近づくほど
より強い神聖性を持つと認識されてきた。八合目以上は、177
9年以降、富士山本宮浅間大社の境内エムゾネ地とされたが、この
理由は八合目の標高とほぼ一致する噴火口(「内院」と呼び宗教
的に意義付けられている)の底部に浅間大神が鎮座するとの信仰
に基づく。標高約2500m付近の森林限界より上方は富士講信
者(富士山信仰の集団の一つ)には「焼エムゾネ山」と呼ばれ、神
聖な地域ないし他界(死後世界)と考えられていた。ほぼこの境
域に沿い、富士山体を一周する「御中道」が15〜16世紀ごろ
に富士講の祖とされる長谷川角行によって開かれたとされ(15
61年及び1580年とされる)、その後エムゾネ「大沢崩れ」と
いう危険箇所を通るため富士講信者により修行の道として利用さ
れた。構成資産範囲内には、山頂信仰遺跡や登山道といった、富
士山の顕著な普遍的価値を語る上で重要な役割を担う、次のよう
な構成要素が存在する。A1.山頂信仰遺跡エムゾネ富士山山頂部
には、火口壁に沿っていくつかの神社など、宗教関連施設が所在
する。富士山への信仰登山が開始されると、修験道の影響を受け
山頂部において寺院の造営や仏像等の奉納がおこなわれるととも
に、山頂部での宗教行為が体系化されていったエムゾネ。道者は山
頂周辺において「御来迎(仏の来迎と見なされたブロッケン現象
)」(のち「御来光(日の出)」)を拝み、内院(噴火口)に鎮
座するとされる神仏(大日如来が本地仏とされた浅間大神ないし
浅間大菩薩)を拝し、火口壁にいくつかあるピーエムゾネクを仏教
の曼荼羅における仏の世界に擬して巡拝する「お鉢めぐり(八葉
めぐり)」と呼ばれる行為を行なうことが一般的であった。山頂
ることなく、上記の行為は現エムゾネ代の登山者の多くが行っており、
これらを通じて富士信仰の核心が現代に受け継がれている。A2.
大宮・村山口登山道富士山南西麓の浅間大社を起点とし、村山浅間
神社を経て山頂南側に至る登山道である。12世紀前半から中ごろ
の、修行僧末代の活エムゾネ動により、富士山南麓における登山が本格
的に開始されたとされ、14世紀初めには修験者による組織的登山
が始まったとされる。15世紀以降19世紀後半まで、「村山三坊
」と呼ばれた3軒の有力宿坊が村山浅間神社(興法寺)と登山道の
管理を行うエムゾネとともに所属の修験者が登山道等を利用して修行を
行った。また、一般人の信仰登山(以下これを行う者を「道者」と
言う。)も開始され、その様子は16世紀の作とされる「絹本著色
富士曼荼羅図」に描かれている。道者の数は18世紀後半から19
世エムゾネ紀初頭の宿坊(大鏡坊のみ)の記録より、御縁年で2,00
0人前後、平年で数百名程度と推測できる。また1860年、初の
外国人登山を行った英国公使オールコックがこの登山道を利用した
。101889年、鉄道(東海道線)の開通による御殿場口エムゾネ利
用者の増加により衰退し、これへの対策として1906年、村山を
経由しない新道が建設されたため、大宮から現在の六合目(標高2
600m)までは登山道としての機能を失った。この区間は一部除
き登山道跡の推定は困難な状態である。現在は19エムゾネ70年に標
高2400m地点まで開通した自動車道を利用しての登山が行われ
ている。(推薦範囲は六合目以上である。)A3.須山口登山道富
士山南東麓、須山浅間神社を起点とし、山頂南東部に至る登山道で
ある。その起源は明確ではないが、文字資エムゾネ料の中で1486年
にその存在が確認できる。登山道および山頂部銀明水は須山浅間神
社及びその所在地の須山
性を持つと認識されてきた。八合目以上は、1779年以降、
富士山本宮浅間大社の境内地とされたが、この理由は八合目の
標高とほぼ一致する噴火口(「内院」と呼び宗教的に意義付け
られている)エムゾネの底部に浅間大神が鎮座するとの信仰に基づ
く。標高約2500m付近の森林限界より上方は富士講信者(
富士山信仰の集団の一つ)には「焼山」と呼ばれ、神聖な地域
ないし他界(死後世界)と考えられていた。ほぼこの境域に沿
の宗教的施設は、12世紀中ごろ修行僧末代により建立された施
設(後の大日堂)が最初とされ、その後、経典(1エムゾネ2世紀
末〜13世紀前半と推定されるものが最古)・懸仏(1482年
の銘のあるものが最古)・仏像等(1302年の銘があるものが
最古)の山頂部への奉納・埋納や内院への散銭が行われた。また
、遅くとも17世紀には、大宮・村山口山頂部に大日エムゾネ堂(
現在は富士山本宮奥宮が所在)が、吉田・須走口山頂部に薬師堂
(現在の久須志神社)が造営された。1874年、山頂の仏教的
施設及び仏像は廃仏毀釈の影響によって撤去され、ピークの名称
も変更され、寺院は神社に改変された。しかし、山頂部エムゾネに
対する信仰自体は変化することなく、上記の行為は現代の登山者
の多くが行っており、これらを通じて富士信仰の核心が現代に受
け継がれている。A2.大宮・村山口登山道富士山南西麓の浅間
大社を起点とし、村山浅間神社を経て山頂南側に至る登山エムゾネ
道である。12世紀前半から中ごろの、修行僧末代の活動により
、富士山南麓における登山が本格的に開始されたとされ、14世
紀初めには修験者による組織的登山が始まったとされる。15世
紀以降19世紀後半まで、「村山三坊」と呼ばれた3軒の有エムゾ
ネ力宿坊が村山浅間神社(興法寺)と登山道の管理を行うととも
に所属の修験者が登山道等を利用して修行を行った。また、一般
人の信仰登山(以下これを行う者を「道者」と言う。)も開始さ
れ、その様子は16世紀の作とされる「絹本著色富士曼荼羅図エム
ゾネ」に描かれている。道者の数は18世紀後半から19世紀初
頭の宿坊(大鏡坊のみ)の記録より、御縁年で2,000人前後
、平年で数百名程度と推測できる。また1860年、初の外国人
登山を行った英国公使オールコックがこの登山道を利用した。1
エムゾネ01889年、鉄道(東海道線)の開通による御殿場口利
用者の増加により衰退し、これへの対策として1906年、村山
いないが、1800年(御縁年:富士山出現伝説に由来する60年
に1回の記念の年)に約5,400人、1840年代前半は年平均
約1,700人、1860年(御縁年)は約3,600人であった
。1883年、須山口二エムゾネ合八勺(標高2050m)に接続する
御殿場口登山道が開削され、1889年、東海道本線開通による御
殿場口利便性の向上は須山口よりの道者を奪い、さらに1912年
、一部が陸軍演習場となり使用不可能となったため、須山口からの
登拝(登山)はエムゾネ衰退し現在に至っている。二合八勺以下の登山
道で当時の道が確認できる部分は一部のみである。(資産範囲は現
在「御殿場口」の名称で使用されている二合八勺以上の部分及び遊
歩道として整備された旧須山口の一部である)A4.須走口登山道
富士山エムゾネ東麓の冨士浅間神社を起点とし、八合目で吉田口登山道
と合流し山頂東部に至る登山道である。その起源は明確ではないが
、六合目からは1384年の銘のある掛仏が出土しており、文字資
料では1500年にその存在を確認できる。登山道は遅くとも1エムソ
゙ネ7世紀までに、冨士浅間神社及びその所在地の須走村が登山道の
山頂部までを支配し、散銭取得権の一部などを得ていた。山頂部の
権利については富士山本宮浅間大社と争いになり、須走村は18世
紀(1703年と1772年)、幕府に裁定を求め、権エムゾネ利は幕
府によって認められた。1707年の宝永噴火の際、これらの施設
及び冨士浅間神社、須走村は噴砂に覆われ壊滅したが、江戸幕府の
支援を受け翌年には復興を完了し、多くの道者を集めた。18世紀
後半、他の霊場とセットにされた参詣の流行でエムゾネ道者数は年平均
約1万人、1800年の御縁年に23,700人とピークを迎えた
。1959年、バス道路の完成により、新五合目(標高約2000
m)以下の登山道の利用
い、富士山体を一周すエムゾネる「御中道」が15〜16世紀ごろ
に富士講の祖とされる長谷川角行によって開かれたとされ(1
561年及び1580年とされる)、その後「大沢崩れ」とい
う危険箇所を通るため富士講信者により修行の道として利用さ
れた。構成資産範囲内には、山エムゾネ頂信仰遺跡や登山道といっ
た、富士山の顕著な普遍的価値を語る上で重要な役割を担う、
次のような構成要素が存在する。A1.山頂信仰遺跡富士山山
頂部には、火口壁に沿っていくつかの神社など、宗教関連施設
が所在する。富士山への信仰登山が開始エムゾネされると、修験道
の影響を受け山頂部において寺院の造営や仏像等の奉納がおこ
なわれるとともに、山頂部での宗教行為が体系化されていった
。道者は山頂周辺において「御来迎(仏の来迎と見なされたブ
ロッケン現象)」(のち「御来光(日の出)」)エムゾネを拝み、
内院(噴火口)に鎮座するとされる神仏(大日如来が本地仏と
された浅間大神ないし浅間大菩薩)を拝し、火口壁にいくつか
あるピークを仏教の曼荼羅における仏の世界に擬して巡拝する
「お鉢めぐり(八葉めぐり)」と呼ばれる行為を行なうこエムゾネ
とが一般的であった。山頂の宗教的施設は、12世紀中ごろ修
行僧末代により建立された施設(後の大日堂)が最初とされ、
その後、経典(12世紀末〜13世紀前半と推定されるものが
最古)・懸仏(1482年の銘のあるものが最古)・仏像等(
13エムゾネ02年の銘があるものが最古)の山頂部への奉納・埋
納や内院への散銭が行われた。また、遅くとも17世紀には、
大宮・村山口山頂部に大日堂(現在は富士山本宮奥宮が所在)
が、吉田・須走口山頂部に薬師堂(現在の久須志神社)が造営
された。18エムゾネ74年、山頂の仏教的施設及び仏像は廃仏毀
釈の影響によって撤去され、ピークの名称も変更され、寺院は
神社に改変された。しかし、山頂部に対する信仰自体は変化す
を経由しない新道が建設されたため、大宮から現在の六合目(標
高2600m)までは登山道としての機能を失った。この区間は
一エムゾネ部除き登山道跡の推定は困難な状態である。現在は19
70年に標高2400m地点まで開通した自動車道を利用しての
登山が行われている。(推薦範囲は六合目以上である。)A3.
須山口登山道富士山南東麓、須山浅間神社を起点とし、山頂南東
部にエムゾネ至る登山道である。その起源は明確ではないが、文字
起点とし、富士山頂東部を目指す道である。15世紀には、富士山
への登拝が、修験者だけでなく、ごく一般の人々の間にも広まって
いた。吉田口は14世紀後半エムゾネには参詣の道者のための宿坊もで
き始め、大勢の人々が登るための設備が整うようになった。16世
紀から17世紀、長谷川角行が吉田口を利用して修行を行い、18
世紀前半には富士講隆盛の礎を築いた食行身禄は、入定(宗教的自
殺)にあたって信者エムゾネの登山本道をこの吉田口と定めた。このた
め、富士講の信者が次第に増加した18世紀後半以降は、最も多く
の道者(他の登山口の合計と同程度)が吉田口登山道を登って山頂
を目指している。しかも、古道としては唯一徒歩で麓から頂上まで
登れる重要エムゾネな道である。(推薦範囲は登山道全体である。)1
1法的保護、修理・整備の経緯1924年に史蹟名勝天然紀念物保
存法の下に名勝に仮指定された。1936年に国立公園法の下に(
富士箱根)国立公園に指定された。1952年に文化財保護法の下
にエムゾネ名勝、ついで特別名勝に指定された。1969年に国が大沢
崩れに対する砂防事業に着手(継続中)。1996年に国・県が台
風による森林の風倒被害に対する対策に着手(継続中)。文化財保
護法の下に他の文化財とともに史跡富士山として指定されるエムゾネ予
定。A6.北口本宮冨士浅間神社説明富士山の遥拝所に祀られてい
た浅間明神(富士山の荒ぶる神)を起源とし、1480年には「富
士山」の鳥居が建立され、16世紀半ばには浅間神社の社殿が整っ
ていたとされる。その後、1561年に現在の東宮エムゾネ本殿、15
94年に西宮本殿、1615年には本殿が建立された。富士講との
つながりが強く、1730年代に富士講の指導者である村上光清の
寄進によって境内の建造物群の修復工事が行われ、現在にみる境内
の景観の礎が形成された
ることなく、上記の行為は現代の登山者の多くが行っており、
これらを通じて富士信エムゾネ仰の核心が現代に受け継がれている
。A2.大宮・村山口登山道富士山南西麓の浅間大社を起点と
し、村山浅間神社を経て山頂南側に至る登山道である。12世
紀前半から中ごろの、修行僧末代の活動により、富士山南麓に
おける登山が本格的に開始されエムゾネたとされ、14世紀初めに
は修験者による組織的登山が始まったとされる。15世紀以降
19世紀後半まで、「村山三坊」と呼ばれた3軒の有力宿坊が
村山浅間神社(興法寺)と登山道の管理を行うとともに所属の
修験者が登山道等を利用して修行を行っエムゾネた。また、一般人
の信仰登山(以下これを行う者を「道者」と言う。)も開始さ
れ、その様子は16世紀の作とされる「絹本著色富士曼荼羅図
」に描かれている。道者の数は18世紀後半から19世紀初頭
の宿坊(大鏡坊のみ)の記録より、御縁年で2,エムゾネ000人
前後、平年で数百名程度と推測できる。また1860年、初の
外国人登山を行った英国公使オールコックがこの登山道を利用
した。101889年、鉄道(東海道線)の開通による御殿場
口利用者の増加により衰退し、これへの対策として190エムゾネ
6年、村山を経由しない新道が建設されたため、大宮から現在
の六合目(標高2600m)までは登山道としての機能を失っ
た。この区間は一部除き登山道跡の推定は困難な状態である。
現在は1970年に標高2400m地点まで開通した自動車道
を利エムゾネ用しての登山が行われている。(推薦範囲は六合目以
上である。)A3.須山口登山道富士山南東麓、須山浅間神社
を起点とし、山頂南東部に至る登山道である。その起源は明確
ではないが、文字資料の中で1486年にその存在が確認でき
る。登山道おエムゾネよび山頂部銀明水は須山浅間神社及びその所
在地の須山村(現裾野市須山)により管理されていた。また、
資料の中で1486年にその存在が確認できる。登山道および山
頂部銀明水は須山浅間神社及びその所在地の須山村(現裾野市須
山)により管理されていた。また、登山道のいくつかの宗教施設
は村山エムゾネの修験者の行場(参拝所)としても使用された。道
者については詳しい研究が進んでいないが、1800年(御縁年
:富士山出現伝説に由来する60年に1回の記念の年)に約5,
400人、1840年代前半は年平均約1,700人、1860
年(御縁エムゾネ年)は約3,600人であった。1883年、須
山口二合八勺(標高2050m)に接続する御殿場口登山道が開
削され、1889年、東海道本線開通による御殿場口利便性の向
上は須山口よりの道者を奪い、さらに1912年、一部が陸軍演
習場となりエムゾネ使用不可能となったため、須山口からの登拝(
登山)は衰退し現在に至っている。二合八勺以下の登山道で当時
の道が確認できる部分は一部のみである。(資産範囲は現在「御
殿場口」の名称で使用されている二合八勺以上の部分及び遊歩道
として整備さエムゾネれた旧須山口の一部である)A4.須走口登
山道富士山東麓の冨士浅間神社を起点とし、八合目で吉田口登山
道と合流し山頂東部に至る登山道である。その起源は明確ではな
いが、六合目からは1384年の銘のある掛仏が出土しており、
文字資料では1エムゾネ500年にその存在を確認できる。登山道
は遅くとも17世紀までに、冨士浅間神社及びその所在地の須走
村が登山道の山頂部までを支配し、散銭取得権の一部などを得て
いた。山頂部の権利については富士山本宮浅間大社と争いになり
、須走村は18世エムゾネ紀(1703年と1772年)、幕府に
裁定を求め、権利は幕府によって認められた。1707年の宝永
噴火の際、これらの施設及び冨士浅間神社、須走村は噴砂に覆わ
れ壊滅したが、江戸幕府の支援を受け翌年には復興を完了し、多
くの道者を集めた。エムゾネ18世紀後半、他の霊場とセットにさ
西宮本殿はともに桧皮葺・一間社流造である。3本殿とも、各部に
漆塗り、極彩色をほどこし、彫刻エムゾネ・金具を配して、それぞれの
時代の装飾的特色がよく表されている。北口本宮冨士浅間神社の支
配権は外川家、小佐野家などの吉田の御師に所属しており、神社の
管理も御師団の中から選
登山道のいくつかの宗教施設は村山の修験者の行場(参拝所)
としても使用された。道者については詳しい研究が進んでいな
いが、1800年(御エムゾネ縁年:富士山出現伝説に由来する6
0年に1回の記念の年)に約5,400人、1840年代前半
は年平均約1,700人、1860年(御縁年)は約3,60
0人であった。1883年、須山口二合八勺(標高2050m
)に接続する御殿場口登山道がエムゾネ開削され、1889年、東
海道本線開通による御殿場口利便性の向上は須山口よりの道者
を奪い、さらに1912年、一部が陸軍演習場となり使用不可
能となったため、須山口からの登拝(登山)は衰退し現在に至
っている。二合八勺以下の登山道で当時エムゾネの道が確認できる
部分は一部のみである。(資産範囲は現在「御殿場口」の名称
で使用されている二合八勺以上の部分及び遊歩道として整備さ
れた旧須山口の一部である)A4.須走口登山道富士山東麓の
冨士浅間神社を起点とし、八合目で吉田口登山道エムゾネと合流し
山頂東部に至る登山道である。その起源は明確ではないが、六
合目からは1384年の銘のある掛仏が出土しており、文字資
料では1500年にその存在を確認できる。登山道は遅くとも
17世紀までに、冨士浅間神社及びその所在地の須走村がエムゾネ
登山道の山頂部までを支配し、散銭取得権の一部などを得てい
た。山頂部の権利については富士山本宮浅間大社と争いになり
、須走村は18世紀(1703年と1772年)、幕府に裁定
を求め、権利は幕府によって認められた。1707年の宝永噴
火のエムゾネ際、これらの施設及び冨士浅間神社、須走村は噴砂に
覆われ壊滅したが、江戸幕府の支援を受け翌年には復興を完了
し、多くの道者を集めた。18世紀後半、他の霊場とセットに
された参詣の流行で道者数は年平均約1万人、1800年の御
縁年に23,エムゾネ700人とピークを迎えた。1959年、バ
れた参詣の流行で道者数は年平均約1万人、1800年の御縁年
に23,700人とピークを迎えた。1959年、バス道路の完
成により、新五合目(標高約2000m)以下の登山道の利用は
ほとんどなくなり、一エムゾネ部道としての確認ができない区間が
ある。(推薦範囲は現在も利用されている新五合目以上である。
)A5.吉田口登山道北口本宮冨士浅間神社を起点とし、富士山
頂東部を目指す道である。15世紀には、富士山への登拝が、修
験者だけでなく、ごく一エムゾネ般の人々の間にも広まっていた。
吉田口は14世紀後半には参詣の道者のための宿坊もでき始め、
大勢の人々が登るための設備が整うようになった。16世紀から
17世紀、長谷川角行が吉田口を利用して修行を行い、18世紀
前半には富士講隆盛の礎をエムゾネ築いた食行身禄は、入定(宗教
的自殺)にあたって信者の登山本道をこの吉田口と定めた。この
ため、富士講の信者が次第に増加した18世紀後半以降は、最も
多くの道者(他の登山口の合計と同程度)が吉田口登山道を登っ
て山頂を目指している。しかエムゾネも、古道としては唯一徒歩で
麓から頂上まで登れる重要な道である。(推薦範囲は登山道全体
である。)11法的保護、修理・整備の経緯1924年に史蹟名
勝天然紀念物保存法の下に名勝に仮指定された。1936年に国
立公園法の下に(富士箱根)国エムゾネ立公園に指定された。19
52年に文化財保護法の下に名勝、ついで特別名勝に指定された
。1969年に国が大沢崩れに対する砂防事業に着手(継続中)
。1996年に国・県が台風による森林の風倒被害に対する対策
に着手(継続中)。文化財保護法エムゾネの下に他の文化財ととも
に史跡富士山として指定される予定。A6.北口本宮冨士浅間神
社説明富士山の遥拝所に祀られていた浅間明神(富士山の荒ぶる
神)を起源とし、1480年には「富士山」の鳥居が建立され、
16世紀半ばには浅間神社の社殿がエムゾネ整っていたとされる。
ス道路の完成により、新五合目(標高約2000m)以下の登
山道の利用はほとんどなくなり、一部道としての確認ができな
い区間がある。(推薦範囲は現在も利用されている新五合目以
上である。)A5.吉エムゾネ田口登山道北口本宮冨士浅間神社を
起点とし、富士山頂東部を目指す道である。15世紀には、富
士山への登拝が、修験者だけでなく、ごく一般の人々の間にも
広まっていた。吉田口は14世紀後半には参詣の道者のための
その後、1561年に現在の東宮本殿、1594年に西宮本殿、
1615年には本殿が建立された。富士講とのつながりが強く、
1730年代に富士講の指導者である村上光清の寄進によって境
内の建造物群の修復工事が行われ、現エムゾネ在にみる境内の景観
の礎が形成された。本殿は、一間社入母屋造・檜皮葺の本殿に唐
破風付向背をつけた形式で、正面と側面に挿肘木の腰組をもって
支える擬宝珠高欄付の切目縁をめぐらしている。東宮本殿・西宮
本殿はともに桧皮葺・一間社流造であるエムゾネ。3本殿とも、各
部に漆塗り、極彩色をほどこし、彫刻・金具を配して、それぞれ
の時代の装飾的特色がよく表されている。北口本宮冨士浅間神社
の支配権は外川家、小佐野家などの吉田の御師に所属しており、
神社の管理も御師団の中から選ばれた者にエムゾネ委ねられていた
。社殿の背後には登山門があり、この神社を起点として富士山頂
まで吉田口登山道が伸びている。富士講や吉田御師と密接な関係
を持ちながら発展した神社である。法的保護、修理・整備の経緯
1907年に東宮本殿が古社寺保存法の下にエムゾネ特別保護建造
物に指定された。1929年の国宝保存法制定に伴い、本殿は国
宝とされた。1950年の文化財保護法制定に伴い、東宮本殿は
重要文化財とされた。1953年に本殿及び西宮本殿が文化財保
護法の下に重要文化財に指定された。1952エムゾネ年に東宮本
殿の解体修理工事が行われた。1962〜63年に西宮本殿の解
体修理工事が行われた。1973〜74年に本殿、西宮本殿及び
幣殿の部分修理工事が行われた。1981〜82年に東宮本殿の
部分修理工事が行われた。1997年に本殿の部エムゾネ分修理工
事が行われた。文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士
山として指定される予定。A7.西湖A8.精進湖A9.本栖湖
説明富士山の火山活動によって形成された堰止湖である。富士山
周辺の湖を巡って修行する内八海巡りが多くの富士エムゾネ講徒に
遥拝所であった山宮浅間神社から現在の地に移転されたことを起源
とする神社で、古くエムゾネから富士山南麓地域の中心的神社であった
。現在全国に約1300社ある浅間神社の総本宮であり、広く信仰
されている。創建当初は遥拝のための施設であったが、15世紀ご
ろ登拝が盛んになるにつれて、富士山本宮浅間大社は村山浅間神社
(興法寺)エムゾネとともに大宮・村山口登山道の基点となり、宿坊が
周辺に建設された。登拝の拡大に伴い、富士山中での諸権利が構築
されていく中で、浅間大社は徳川家康(約150年間の戦乱期をお
さめ統一政権である江戸幕府を開いた人物)の庇護の下、1604
年エムゾネ現在の「浅間造り」と呼ばれる独特な構造を持った社殿が造
営されるとともに、1609年山頂部の散銭取得における優先権を
得た。これを基に浅間大社は山頂部の管理・支配を行うようになり
、1779年、幕府による裁判によりこの八合目以上の支配エムゾネ権
が認められた。明治政府によりここは国有地とされたが、1974
年の最高裁判決に基づき、2004年浅間大社に譲渡(返還)され
た。浅間大社境内には富士山の湧水を起源とする湧玉池がある。浅
間大社は、富士山の噴火を湧水によって鎮める考えエムゾネや、富士山
を聖なる水源の山として崇める考え方から、豊富な湧水量(日平均
14万〜)を持つ湧玉池のほとりに置かれたとする説が有力である
。なお湧玉池は、浅間大社内に所在する富士山の湧水を起源とする
池である。16世紀前後、湧玉池は浅間大エムゾネ社により道者が身を
清める場と位置づけられたとされ、同時期の絵図や旅行記でその様
子が確認できる。この水垢離は1920〜30年代まで行われた。
現在でも湧水を聖なる水として利用する人が多くいる。法的保護、
修理・整備の経緯1907年に本エムゾネ殿が古社寺保存法の下に特別
保護建造物に指定
宿坊もでき始め、大勢の人々がエムゾネ登るための設備が整うよう
になった。16世紀から17世紀、長谷川角行が吉田口を利用
して修行を行い、18世紀前半には富士講隆盛の礎を築いた食
行身禄は、入定(宗教的自殺)にあたって信者の登山本道をこ
の吉田口と定めた。このため、富士講のエムゾネ信者が次第に増加
した18世紀後半以降は、最も多くの道者(他の登山口の合計
と同程度)が吉田口登山道を登って山頂を目指している。しか
も、古道としては唯一徒歩で麓から頂上まで登れる重要な道で
ある。(推薦範囲は登山道全体である。)11法エムゾネ的保護、
修理・整備の経緯1924年に史蹟名勝天然紀念物保存法の下
に名勝に仮指定された。1936年に国立公園法の下に(富士
箱根)国立公園に指定された。1952年に文化財保護法の下
に名勝、ついで特別名勝に指定された。1969年に国がエムゾネ
大沢崩れに対する砂防事業に着手(継続中)。1996年に国
・県が台風による森林の風倒被害に対する対策に着手(継続中
)。文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山として
指定される予定。A6.北口本宮冨士浅間神社説明富士山の遥
拝所エムゾネに祀られていた浅間明神(富士山の荒ぶる神)を起源
とし、1480年には「富士山」の鳥居が建立され、16世紀
半ばには浅間神社の社殿が整っていたとされる。その後、15
61年に現在の東宮本殿、1594年に西宮本殿、1615年
には本殿が建エムゾネ立された。富士講とのつながりが強く、17
30年代に富士講の指導者である村上光清の寄進によって境内
の建造物群の修復工事が行われ、現在にみる境内の景観の礎が
形成された。本殿は、一間社入母屋造・檜皮葺の本殿に唐破風
付向背をつけた形式でエムゾネ、正面と側面に挿肘木の腰組をもっ
て支える擬宝珠高欄付の切目縁をめぐらしている。東宮本殿・
西宮本殿はともに桧皮葺・一間社流造である。3本殿とも、各
よって行われたが、長谷川角行の水行からいつの時代も変わらず
巡拝の対象として数えられたのが、後述の山中湖及び河口湖とこ
の3湖である。また、景勝の地でもあり、多くの芸術作品とゆか
りが深い。12特に本栖湖は、日本の紙幣の図柄としエムゾネて何
度も使用された写真の撮影地点であり、重要な展望地点(vie
wpoint)である。富士山は、プロ・アマ問わず多くの写真
家に愛され、撮影されてきた。なかでも、生涯にわたり富士山を
に袖廊・廻廊を附した。エムゾネ1950年の文化財保護法制定に伴い
、本殿は重要文化財とされた。1951〜52年、1970年、1
988年に本殿の屋根の修理等が行われた。1969〜70年に本
殿の屋根の修理等が行われた。1987〜88年に本殿の屋根の修
理等が行われたエムゾネ(部分補修)。2005年に本殿の屋根の修理
等が行われた。13文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富
士山として指定される予定。B2.山宮浅間神社説明富士山本宮浅
間大社の社伝によれば、浅間大社の前身とされ、拝殿・本殿等が位
置すべエムゾネき場所に石列でいくつかに区分された遥拝所が設置され
るのみという特異な形態は古代からの富士山祭祀の形を止めている
と推定されている。この遥拝所の主軸は富士山方向を向いている。
具体的な創建年代は不詳だが、発掘調査では神事に使用されたとエムソ
゙ネ推定される12〜15世紀の土器が出土し、文献上では1551
年にその存在が確認できる。また、遅くとも1577年までには浅
間大社との間で「山宮御神幸」といわれる儀式が開始された。これ
は4月と11月に神の宿った鉾を持ち、浅間大社と山宮エムゾネ浅間神
社を往復する行事である。現時点では神が4月に旧跡に戻るという
解釈と、山にいる神が4月に田の神として里へ降りるという解釈が
ある。この行事は1874年まで行われていた。なお、「山宮御神
幸」に使用される経路を御神幸道という。道にエムゾネは1691年に
置かれた距離を示す石碑が少なくとも四箇所残っているが、正確な
道筋は現在確認されていない。法的保護、修理・整備の経緯198
5年に富士宮市の史跡に指定される。文化財保護法の下に他の文化
財とともに史跡富士山として指定されエムゾネる予定。B3.村山浅間
神社説明12世紀前半から中ごろの修行僧末代の活動が創建の起源
とされており、1868
部に漆塗り、極彩色をほどこし、彫刻・金具を配して、それぞ
れの時代の装飾的特色がよく表エムゾネされている。北口本宮冨士
浅間神社の支配権は外川家、小佐野家などの吉田の御師に所属
しており、神社の管理も御師団の中から選ばれた者に委ねられ
ていた。社殿の背後には登山門があり、この神社を起点として
富士山頂まで吉田口登山道が伸びているエムゾネ。富士講や吉田御
師と密接な関係を持ちながら発展した神社である。法的保護、
修理・整備の経緯1907年に東宮本殿が古社寺保存法の下に
特別保護建造物に指定された。1929年の国宝保存法制定に
伴い、本殿は国宝とされた。1950年の文化財エムゾネ保護法制
定に伴い、東宮本殿は重要文化財とされた。1953年に本殿
及び西宮本殿が文化財保護法の下に重要文化財に指定された。
1952年に東宮本殿の解体修理工事が行われた。1962〜
63年に西宮本殿の解体修理工事が行われた。1973〜エムゾネ
74年に本殿、西宮本殿及び幣殿の部分修理工事が行われた。
1981〜82年に東宮本殿の部分修理工事が行われた。19
97年に本殿の部分修理工事が行われた。文化財保護法の下に
他の文化財とともに史跡富士山として指定される予定。A7.
西湖エムゾネA8.精進湖A9.本栖湖説明富士山の火山活動によ
って形成された堰止湖である。富士山周辺の湖を巡って修行す
る内八海巡りが多くの富士講徒によって行われたが、長谷川角
行の水行からいつの時代も変わらず巡拝の対象として数えられ
たのが、後述エムゾネの山中湖及び河口湖とこの3湖である。また
、景勝の地でもあり、多くの芸術作品とゆかりが深い。12特
に本栖湖は、日本の紙幣の図柄として何度も使用された写真の
撮影地点であり、重要な展望地点(viewpoint)であ
る。富士山は、プロ・エムゾネアマ問わず多くの写真家に愛され、
撮影されてきた。なかでも、生涯にわたり富士山を追い続けた
追い続けた岡田紅陽によって、1935年に本栖湖北西エムゾネ岸
の峠道から撮影された「湖畔の春」という写真は有名である。こ
の写真は、1984年に採用された五千円札及び2004年に採
用された千円札の図柄として使用された。山体の裾野が湖まで広
がり一体の景観を構成している本栖湖からの展望は、「湖エムゾネ
畔の春」に撮影された富士山とほぼ同じ姿のまま現在も残してい
る。法的保護、修理・整備の経緯文化財保護法の下に名勝として
指定される予定。B1.富士山本宮浅間大社説明社記によれば8
06年に、富士山により近い遥拝所であった山宮浅間神社かエムゾ
ネら現在の地に移転されたことを起源とする神社で、古くから富
士山南麓地域の中心的神社であった。現在全国に約1300社あ
る浅間神社の総本宮であり、広く信仰されている。創建当初は遥
拝のための施設であったが、15世紀ごろ登拝が盛んになるにエム
ゾネつれて、富士山本宮浅間大社は村山浅間神社(興法寺)とと
もに大宮・村山口登山道の基点となり、宿坊が周辺に建設された
。登拝の拡大に伴い、富士山中での諸権利が構築されていく中で
、浅間大社は徳川家康(約150年間の戦乱期をおさめ統一政権
エムゾネである江戸幕府を開いた人物)の庇護の下、1604年現
在の「浅間造り」と呼ばれる独特な構造を持った社殿が造営され
るとともに、1609年山頂部の散銭取得における優先権を得た
。これを基に浅間大社は山頂部の管理・支配を行うようになり、
1エムゾネ779年、幕府による裁判によりこの八合目以上の支配
権が認められた。明治政府によりここは国有地とされたが、19
74年の最高裁判決に基づき、2004年浅間大社に譲渡(返還
)された。浅間大社境内には富士山の湧水を起源とする湧玉池が
あるエムゾネ。浅間大社は、富士山の噴火を湧水によって鎮める考
えや、富士山を聖なる水源の山として崇める考え方から、豊富な
湧水量(日平均14万〜)を持つ湧玉池のほとりに置かれたとす
山における修験道の中心地であり、14世紀初めには、その活動が
組織化された。15〜16世紀には一般の道者の登拝も増加し、そ
の様子が16世紀の制作とされる「絹本著色富士曼荼羅図」に描か
れている。1868エムゾネ年、神仏分離令により浅間神社と大日堂は
分離され、190
岡田紅陽によって、1935年に本栖湖北西岸の峠道から撮影
された「湖畔の春」という写真は有名である。この写真は、1
984年に採用された五千円札エムゾネ及び2004年に採用され
た千円札の図柄として使用された。山体の裾野が湖まで広がり
一体の景観を構成している本栖湖からの展望は、「湖畔の春」
に撮影された富士山とほぼ同じ姿のまま現在も残している。法
的保護、修理・整備の経緯文化財保護法エムゾネの下に名勝として
指定される予定。B1.富士山本宮浅間大社説明社記によれば
806年に、富士山により近い遥拝所であった山宮浅間神社か
ら現在の地に移転されたことを起源とする神社で、古くから富
士山南麓地域の中心的神社であった。現在全国にエムゾネ約130
0社ある浅間神社の総本宮であり、広く信仰されている。創建
当初は遥拝のための施設であったが、15世紀ごろ登拝が盛ん
になるにつれて、富士山本宮浅間大社は村山浅間神社(興法寺
)とともに大宮・村山口登山道の基点となり、宿坊が周辺エムゾネ
に建設された。登拝の拡大に伴い、富士山中での諸権利が構築
されていく中で、浅間大社は徳川家康(約150年間の戦乱期
をおさめ統一政権である江戸幕府を開いた人物)の庇護の下、
1604年現在の「浅間造り」と呼ばれる独特な構造を持った
社殿エムゾネが造営されるとともに、1609年山頂部の散銭取得
における優先権を得た。これを基に浅間大社は山頂部の管理・
支配を行うようになり、1779年、幕府による裁判によりこ
の八合目以上の支配権が認められた。明治政府によりここは国
有地とされたエムゾネが、1974年の最高裁判決に基づき、20
04年浅間大社に譲渡(返還)された。浅間大社境内には富士
山の湧水を起源とする湧玉池がある。浅間大社は、富士山の噴
火を湧水によって鎮める考えや、富士山を聖なる水源の山とし
て崇める考え方から、エムゾネ豊富な湧水量(日平均14万〜)を
る説が有力である。なお湧玉池は、浅間大社内に所在する富士山
の湧水エムゾネを起源とする池である。16世紀前後、湧玉池は浅
間大社により道者が身を清める場と位置づけられたとされ、同時
期の絵図や旅行記でその様子が確認できる。この水垢離は192
0〜30年代まで行われた。現在でも湧水を聖なる水として利用
する人がエムゾネ多くいる。法的保護、修理・整備の経緯1907
年に本殿が古社寺保存法の下に特別保護建造物に指定された。1
923〜26年に本殿・拝殿・楼門等の補修が行われた。192
9年の国宝保存法制定に伴い、本殿は国宝とされた。1933〜
34年に楼エムゾネ門の修理を行った。1936年に袖廊・廻廊を
附した。1950年の文化財保護法制定に伴い、本殿は重要文化
財とされた。1951〜52年、1970年、1988年に本殿
の屋根の修理等が行われた。1969〜70年に本殿の屋根の修
理等が行われエムゾネた。1987〜88年に本殿の屋根の修理等
が行われた(部分補修)。2005年に本殿の屋根の修理等が行
われた。13文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山
として指定される予定。B2.山宮浅間神社説明富士山本宮浅間
大社の社伝によエムゾネれば、浅間大社の前身とされ、拝殿・本殿
等が位置すべき場所に石列でいくつかに区分された遥拝所が設置
されるのみという特異な形態は古代からの富士山祭祀の形を止め
ていると推定されている。この遥拝所の主軸は富士山方向を向い
ている。具体的なエムゾネ創建年代は不詳だが、発掘調査では神事
に使用されたと推定される12〜15世紀の土器が出土し、文献
上では1551年にその存在が確認できる。また、遅くとも15
77年までには浅間大社との間で「山宮御神幸」といわれる儀式
が開始された。これエムゾネは4月と11月に神の宿った鉾を持ち
、浅間大社と山宮浅間神社を往復する行事である。現時点では神
が4月に旧跡に戻るという解釈と、山にいる神が4月に田の神と
ている。法エムゾネ的保護、修理・整備の経緯2001年から2003
年にかけて富士宮市教育委員会により発掘を含む調査が行われた。
文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山として指定され
る予定。B4.須山浅間神社説明須山口登山道の起点として遅くと
もエムゾネ1524年には存在していた神社である。1707年、宝永
噴火により社殿は登山道も含め大きな被害を受け、現在の社殿は1
823年に再建されたものである。神社は村山浅間神社(興法寺)
の修験者とも関わりを持ち、1940年頃まで境内で修行のエムゾネ一
環としての祈祷が行われていた。法的保護、修理・整備の経緯文化
財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山として指定される予
定。14B5.富士浅間神社(須走浅間神社)説明社伝では807
年に社殿を造営したとされ、須走口登山道の起点とエムゾネなった神社
である。16世紀には地元支配者(武田氏)の保護を受け、山頂部
の散銭取得権の一部を得ている。社殿は1707年の宝永噴火で崩
壊し1718年に再建された。この後もこの際の部材を使用し、2
009年の修理も含め何回かの修理がおこエムゾネなわれている。神社
には富士講道者が多く立ち寄り、20世紀前半を中心に登拝回数の
達成(33回がひとつの区切り)等の記念碑を約80基造営した。
法的保護、修理・整備の経緯2006年に社殿が小山町の有形文化
財となる。2009年に本殿・参エムゾネ道の修理が行われた。文化財
保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山として指定される予定
。B6.河口浅間神社説明古くから富士山に関わる祭祀は南麓の浅
間神社が執り行っていたが、864〜866年に北麓で起こった噴
火を契機に、北麓にも浅エムゾネ間神社が建てられることとなった。そ
れが、富士山を望む河口湖の北岸にあり、溶岩の届かなかった河口
浅間神社である可能性が
持つ湧玉池のほとりに置かれたとする説が有力である。なお湧
玉池は、浅間大社内に所在する富士山の湧水を起源とする池で
ある。16世紀前後、湧玉池は浅間大社により道者が身を清め
る場と位置づけられたとされ、エムゾネ同時期の絵図や旅行記でそ
の様子が確認できる。この水垢離は1920〜30年代まで行
われた。現在でも湧水を聖なる水として利用する人が多くいる
。法的保護、修理・整備の経緯1907年に本殿が古社寺保存
して里へ降りるという解釈がある。この行事は1874年まで行
われていた。なお、「エムゾネ山宮御神幸」に使用される経路を御
神幸道という。道には1691年に置かれた距離を示す石碑が少
なくとも四箇所残っているが、正確な道筋は現在確認されていな
い。法的保護、修理・整備の経緯1985年に富士宮市の史跡に
指定される。文化財保護エムゾネ法の下に他の文化財とともに史跡
富士山として指定される予定。B3.村山浅間神社説明12世紀
前半から中ごろの修行僧末代の活動が創建の起源とされており、
1868年の神仏分離令までは神仏習合の宗教施設として興法寺
(富士山興法寺または村山エムゾネ興法寺)と呼ばれていた(資産
範囲には浅間神社と寺院である大日堂が含まれる)。富士山にお
ける修験道の中心地であり、14世紀初めには、その活動が組織
化された。15〜16世紀には一般の道者の登拝も増加し、その
様子が16世紀の制作とされエムゾネる「絹本著色富士曼荼羅図」
に描かれている。1868年、神仏分離令により浅間神社と大日
堂は分離され、1906年の登山道の変化にも伴い両者とも衰微
した。ただし、修験者の活動は1940年代まで継続された。ま
た、村山の修験者の影響を受けエムゾネた地域では現在でもその宗
教行事が継続されている。法的保護、修理・整備の経緯2001
年から2003年にかけて富士宮市教育委員会により発掘を含む
調査が行われた。文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富
士山として指定される予定。B4エムゾネ.須山浅間神社説明須山
口登山道の起点として遅くとも1524年には存在していた神社
である。1707年、宝永噴火により社殿は登山道も含め大きな
被害を受け、現在の社殿は1823年に再建されたものである。
神社は村山浅間神社(興法寺)の修エムゾネ験者とも関わりを持ち
、1940年頃まで境内で修行の一環としての祈祷が行われてい
た。法的保護、修理・整備の経緯文化財保護法の下に他の文化財
における富士講の大流行と、それに伴う吉田御師の隆盛により、河
口の御師集落としての機能は、19世紀以降衰退してしまった。た
だし、河口浅間神社は、現在も富士山と密接に結びついた宗教行事
を行っエムゾネており、歴史的背景と相俟って、富士山信仰を語る上で
欠かすことのできない資産である。法的保護、修理・整備の経緯文
化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山として指定される
予定。B7.冨士御室浅間神社説明冨士御室浅間神社は、8世紀エムソ
゙ネ初めに吉田口登山道二合目に祭場をしつらえたのが最初とされ、
富士山中に祀られた最初の神社であるとする文献もある。富士修験
の信仰拠点は南西の村山であるが、北面の二合目、御室浅間神社が
鎮座する御室の地にも山内の信仰拠点として役行者堂がエムゾネ整備さ
れたようである。山中という厳しい条件の下に所在するためたびた
び破損し、1189、1275、1475、1525年と加修され
、1564には地元領主による大修理が行われている。現在の本殿
は1612年建立と認められ、その後も169エムゾネ8年、1867
年に修復が行われていた。1973−74年には里宮の地にそのま
まの形で移設された。里宮は、二合目の本宮(もとみや)が冬季の
参拝に苦渋するために河口湖畔に建てられたとされる。修験や登拝
といった様々な富士信仰の拠点としてエムゾネ位置づけられる二合目の
本宮と、土地の産土神としての里宮が一体となって機能してきた神
社である。法的保護、修理・整備の経緯1973〜74年に吉田口
登山道二合目にあった本殿が里宮の地に移築された。151985
年に移築された二合目本殿がエムゾネ文化財保護法の下に重要文化財に
指定された。文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山と
して指定される予定。B8.御師住宅説明御師は、道者に宿や食事
を始め登拝のための一切
法の下に特別保護建造物に指定された。エムゾネ1923〜26年
に本殿・拝殿・楼門等の補修が行われた。1929年の国宝保
存法制定に伴い、本殿は国宝とされた。1933〜34年に楼
門の修理を行った。1936年に袖廊・廻廊を附した。195
0年の文化財保護法制定に伴い、本殿は重要文化エムゾネ財とされ
た。1951〜52年、1970年、1988年に本殿の屋根
の修理等が行われた。1969〜70年に本殿の屋根の修理等
が行われた。1987〜88年に本殿の屋根の修理等が行われ
た(部分補修)。2005年に本殿の屋根の修理等が行わエムゾネ
れた。13文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山
として指定される予定。B2.山宮浅間神社説明富士山本宮浅
間大社の社伝によれば、浅間大社の前身とされ、拝殿・本殿等
が位置すべき場所に石列でいくつかに区分された遥拝所が設置
されエムゾネるのみという特異な形態は古代からの富士山祭祀の形
を止めていると推定されている。この遥拝所の主軸は富士山方
向を向いている。具体的な創建年代は不詳だが、発掘調査では
神事に使用されたと推定される12〜15世紀の土器が出土し
、文献上ではエムゾネ1551年にその存在が確認できる。また、
遅くとも1577年までには浅間大社との間で「山宮御神幸」
といわれる儀式が開始された。これは4月と11月に神の宿っ
た鉾を持ち、浅間大社と山宮浅間神社を往復する行事である。
現時点では神が4月にエムゾネ旧跡に戻るという解釈と、山にいる
神が4月に田の神として里へ降りるという解釈がある。この行
事は1874年まで行われていた。なお、「山宮御神幸」に使
用される経路を御神幸道という。道には1691年に置かれた
距離を示す石碑が少なくとも四エムゾネ箇所残っているが、正確な
道筋は現在確認されていない。法的保護、修理・整備の経緯1
985年に富士宮市の史跡に指定される。文化財保護法の下に
とともに史跡富士山として指定される予定。14B5.富士浅間
神社(須走浅間神社)説明社伝では8エムゾネ07年に社殿を造営
したとされ、須走口登山道の起点となった神社である。16世紀
には地元支配者(武田氏)の保護を受け、山頂部の散銭取得権の
一部を得ている。社殿は1707年の宝永噴火で崩壊し1718
年に再建された。この後もこの際の部材エムゾネを使用し、200
9年の修理も含め何回かの修理がおこなわれている。神社には富
傾斜面に沿って大規模な集落を形成した吉田の御師である。御師屋
敷の多くは短冊状をなし、表通りに面して引き込み路を設け、敷地
を流れる水エムゾネ路の奥に住宅兼宿坊の建物が建っている。玄関から
奥へ客室が続き、最奥部には神殿が設けられている。1768年に
建てられ最古の部類に数えられる旧外川家住宅や、格式的な構えが
確立した頃に建てられ富士講最盛期の御師住宅の典型例とされる小
佐エムゾネ野家住宅が代表的である。1861年に新築された小佐野家
住宅同様、富士講の流行に伴い増加する宿泊者に対応するため、旧
外川家住宅では1860年代に離座敷が増築された。法的保護、修
理・整備の経緯1976年に小佐野家住宅が文化財保護法のエムゾネ下
に重要文化財に指定された。1979年に小佐野家住宅の屋根の修
理等が行われた。1996〜98年に小佐野家住宅の腐敗修理等が
行われた。旧外川家住宅が文化財保護法の下に重要文化財に指定さ
れる予定。B9.山中湖B10.河口湖説明富士山エムゾネの火山活動
によって形成された堰止湖である。富士山周辺の湖を巡って修行す
る内八海巡りが多くの富士講徒によって行われたが、長谷川角行の
水行からいつの時代も変わらず巡拝の対象として数えられたのが前
述の3つの湖とこの山中湖及び河口湖であエムゾネる。この巡礼行為に
ついて、具体的に湖沼のどこで修行や巡礼が執り行われたか、また
どのルートを辿って各湖を巡ったかは、定まっていなかった(少な
くとも、明らかになっていない)ものの、人々の信仰心を駆り立て
た湖沼の水そのものを核心としてエムゾネ、周辺地域も含めた範囲が文
化財とされている。また、景勝の地でもあり、多くの芸術作品とゆ
かりが深い。法的保護、修理・整備の経緯文化財保護法の下に名勝
として指定される予定。B11.忍野八海説明富士山の伏流水によ
る八つの湧水地で、それ
他の文化財とともに史跡富士山として指定される予定。B3.
村山浅間神社説明12世紀前半から中ごエムゾネろの修行僧末代の
活動が創建の起源とされており、1868年の神仏分離令まで
は神仏習合の宗教施設として興法寺(富士山興法寺または村山
興法寺)と呼ばれていた(資産範囲には浅間神社と寺院である
大日堂が含まれる)。富士山における修験道の中エムゾネ心地であ
り、14世紀初めには、その活動が組織化された。15〜16
世紀には一般の道者の登拝も増加し、その様子が16世紀の制
作とされる「絹本著色富士曼荼羅図」に描かれている。186
8年、神仏分離令により浅間神社と大日堂は分離され、1エムゾネ
906年の登山道の変化にも伴い両者とも衰微した。ただし、
修験者の活動は1940年代まで継続された。また、村山の修
験者の影響を受けた地域では現在でもその宗教行事が継続され
ている。法的保護、修理・整備の経緯2001年から2003
年にエムゾネかけて富士宮市教育委員会により発掘を含む調査が行
われた。文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山と
して指定される予定。B4.須山浅間神社説明須山口登山道の
起点として遅くとも1524年には存在していた神社である。
1707年、エムゾネ宝永噴火により社殿は登山道も含め大きな被
害を受け、現在の社殿は1823年に再建されたものである。
神社は村山浅間神社(興法寺)の修験者とも関わりを持ち、1
940年頃まで境内で修行の一環としての祈祷が行われていた
。法的保護、修理・整エムゾネ備の経緯文化財保護法の下に他の文
化財とともに史跡富士山として指定される予定。14B5.富
士浅間神社(須走浅間神社)説明社伝では807年に社殿を造
営したとされ、須走口登山道の起点となった神社である。16
世紀には地元支配者(武田氏)エムゾネの保護を受け、山頂部の散
銭取得権の一部を得ている。社殿は1707年の宝永噴火で崩
士講道者が多く立ち寄り、20世紀前半を中心に登拝回数の達成
(33回がひとつの区切り)等の記念碑を約80基造営した。法
的保護、修理・整備の経緯2006年に社エムゾネ殿が小山町の有
形文化財となる。2009年に本殿・参道の修理が行われた。文
化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山として指定され
る予定。B6.河口浅間神社説明古くから富士山に関わる祭祀は
南麓の浅間神社が執り行っていたが、864エムゾネ〜866年に
北麓で起こった噴火を契機に、北麓にも浅間神社が建てられるこ
ととなった。それが、富士山を望む河口湖の北岸にあり、溶岩の
届かなかった河口浅間神社である可能性が高い。浅間神社を中心
とした河口の地は、甲府盆地から続く官道の宿エムゾネ駅という役
割に加え、富士登拝が大衆化した中世後半から御師集落として発
展を遂げた。しかし、江戸における富士講の大流行と、それに伴
う吉田御師の隆盛により、河口の御師集落としての機能は、19
世紀以降衰退してしまった。ただし、河口浅間神エムゾネ社は、現
在も富士山と密接に結びついた宗教行事を行っており、歴史的背
景と相俟って、富士山信仰を語る上で欠かすことのできない資産
である。法的保護、修理・整備の経緯文化財保護法の下に他の文
化財とともに史跡富士山として指定される予定。Bエムゾネ7.冨
士御室浅間神社説明冨士御室浅間神社は、8世紀初めに吉田口登
山道二合目に祭場をしつらえたのが最初とされ、富士山中に祀ら
れた最初の神社であるとする文献もある。富士修験の信仰拠点は
南西の村山であるが、北面の二合目、御室浅間神社がエムゾネ鎮座
する御室の地にも山内の信仰拠点として役行者堂が整備されたよ
うである。山中という厳しい条件の下に所在するためたびたび破
損し、1189、1275、1475、1525年と加修され、
1564には地元領主による大修理が行われている。現エムゾネ在
の本殿は1612年建立と認められ、その後も1698年、18
みてらし)元八湖」と唱えられた古跡の霊場と伝えられ、1843
年に富士講道者エムゾネによって再興されたとされる。法的保護、修理
・整備の経緯1934年に史蹟名勝天然紀念物保存法の下に天然紀
念物に指定された。16B12.船津胎内樹型説明1617年長谷
川角行が富士登拝の際、
壊し1718年に再建された。この後もこの際の部材を使用し
、2009年の修理も含め何回かの修理がおこなわれている。
神社には富士講道者が多く立ち寄り、2エムゾネ0世紀前半を中心
に登拝回数の達成(33回がひとつの区切り)等の記念碑を約
80基造営した。法的保護、修理・整備の経緯2006年に社
殿が小山町の有形文化財となる。2009年に本殿・参道の修
理が行われた。文化財保護法の下に他の文化財とエムゾネともに史
跡富士山として指定される予定。B6.河口浅間神社説明古く
から富士山に関わる祭祀は南麓の浅間神社が執り行っていたが
、864〜866年に北麓で起こった噴火を契機に、北麓にも
浅間神社が建てられることとなった。それが、富士山を望エムゾネ
む河口湖の北岸にあり、溶岩の届かなかった河口浅間神社であ
る可能性が高い。浅間神社を中心とした河口の地は、甲府盆地
から続く官道の宿駅という役割に加え、富士登拝が大衆化した
中世後半から御師集落として発展を遂げた。しかし、江戸にお
けるエムゾネ富士講の大流行と、それに伴う吉田御師の隆盛により
、河口の御師集落としての機能は、19世紀以降衰退してしま
った。ただし、河口浅間神社は、現在も富士山と密接に結びつ
いた宗教行事を行っており、歴史的背景と相俟って、富士山信
仰を語る上でエムゾネ欠かすことのできない資産である。法的保護
、修理・整備の経緯文化財保護法の下に他の文化財とともに史
跡富士山として指定される予定。B7.冨士御室浅間神社説明
冨士御室浅間神社は、8世紀初めに吉田口登山道二合目に祭場
をしつらえたのが最初エムゾネとされ、富士山中に祀られた最初の
神社であるとする文献もある。富士修験の信仰拠点は南西の村
山であるが、北面の二合目、御室浅間神社が鎮座する御室の地
にも山内の信仰拠点として役行者堂が整備されたようである。
山中という厳しい条件の下に所エムゾネ在するためたびたび破損し
67年に修復が行われていた。1973−74年には里宮の地に
そのままの形で移設された。里宮は、二合目の本宮(もとみや)
が冬季の参拝に苦渋するために河口湖畔に建てられたとさエムゾネ
れる。修験や登拝といった様々な富士信仰の拠点として位置づけ
られる二合目の本宮と、土地の産土神としての里宮が一体となっ
て機能してきた神社である。法的保護、修理・整備の経緯197
3〜74年に吉田口登山道二合目にあった本殿が里宮の地にエムゾ
ネ移築された。151985年に移築された二合目本殿が文化財
保護法の下に重要文化財に指定された。文化財保護法の下に他の
文化財とともに史跡富士山として指定される予定。B8.御師住
宅説明御師は、道者に宿や食事を始め登拝のための一切の世話エム
ゾネをするとともに、登拝の指導や祈祷を行うことを業とした。
富士山御師として代表的なのは、吉田口登山道の起点である北口
本宮冨士浅間神社の北西に、北東方向の傾斜面に沿って大規模な
集落を形成した吉田の御師である。御師屋敷の多くは短冊状をな
エムゾネし、表通りに面して引き込み路を設け、敷地を流れる水路
の奥に住宅兼宿坊の建物が建っている。玄関から奥へ客室が続き
、最奥部には神殿が設けられている。1768年に建てられ最古
の部類に数えられる旧外川家住宅や、格式的な構えが確立した頃
にエムゾネ建てられ富士講最盛期の御師住宅の典型例とされる小佐
野家住宅が代表的である。1861年に新築された小佐野家住宅
同様、富士講の流行に伴い増加する宿泊者に対応するため、旧外
川家住宅では1860年代に離座敷が増築された。法的保護、修
理・エムゾネ整備の経緯1976年に小佐野家住宅が文化財保護法
の下に重要文化財に指定された。1979年に小佐野家住宅の屋
根の修理等が行われた。1996〜98年に小佐野家住宅の腐敗
修理等が行われた。旧外川家住宅が文化財保護法の下に重要文化
財に指エムゾネ定される予定。B9.山中湖B10.河口湖説明富
型が発見され、浅間明神が遷宮された。富士登拝の際に、樹型に入
って身を清める風習があり、洞穴内外の地形空間に宗教的な意義エムソ
゙ネ付けが行われるとともに、奥には富士講にとっての富士山の祭神
である木花開耶姫などが祀られている。法的保護、修理・整備の経
緯1929年に史蹟名勝天然紀念物保存法の下に天然紀念物に指定
された。B13.吉田胎内樹型説明1892年に富士道エムゾネ者によ
って整備された「お胎内」である。富士講講徒は、昼までに御師の
家に着き、夕方まで胎内巡りをし、翌朝富士山に登山した。本穴に
ついては、古くから冨士山北口御師団が管理している。法的保護、
修理・整備の経緯1929年に史蹟名勝天然紀エムゾネ念物保存法の下
に天然紀念物に指定された。B14.人穴富士講遺跡説明富士講の
開祖長谷川(藤原)角行が修行したとされる溶岩洞窟の人穴と富士
講信者による約230基の碑塔群が残る遺跡である。「吾妻鏡」で
は人穴探検の様子が描かれ、「浅間大エムゾネ菩薩の御在所」とみられ
ていたとされている。この内容は遅くとも1603年までに、浅間
大菩薩の霊験譚として説話化され、その存在が広く知られていた。
富士講関連の文書によれば人穴は16世紀から17世紀にかけ、長
谷川角行が修行により浅間大エムゾネ菩薩(富士講では仙元大日神とす
る)の啓示を得た場であり、入滅した場だとしている。また、角行
は人穴を「浄土(浄土門)」と述べ、これらの結果人穴には熱心な
富士講信者が参詣し、修行を行う者も見られた。また、信者は人穴
への分骨埋葬などをエムゾネ望み、墓碑、供養碑、記念碑などを建立し
た。1942年付近が軍用地となり、人穴の浅間神社や周辺の住民
は一時移転した。1954年神社は現在地に復興されたが、冨士講
自体が衰退したことで参詣者はみられるものの1964年以降碑塔
の建設は行エムゾネわ
、1189、1275、1475、1525年と加修され、1
564には地元領主による大修理が行われている。現在の本殿
は1612年建立と認められ、その後も1698年、1867
年に修復が行われていた。1973−7エムゾネ4年には里宮の地
にそのままの形で移設された。里宮は、二合目の本宮(もとみ
や)が冬季の参拝に苦渋するために河口湖畔に建てられたとさ
れる。修験や登拝といった様々な富士信仰の拠点として位置づ
士山の火山活動によって形成された堰止湖である。富士山周辺の
湖を巡って修行する内八海巡りが多くの富士講徒によって行われ
たが、長谷川角行の水行からいつの時代も変わらず巡拝の対象と
して数えエムゾネられたのが前述の3つの湖とこの山中湖及び河口
湖である。この巡礼行為について、具体的に湖沼のどこで修行や
巡礼が執り行われたか、またどのルートを辿って各湖を巡ったか
は、定まっていなかった(少なくとも、明らかになっていない)
ものの、人エムゾネ=Xの信仰心を駆b阯ァてた湖沼の瑞�サのものを核
心として、周辺地域も含めた範囲が文化財とされている。また、
景勝の地でもあり、多くの芸術作品とゆかりが深い。法的保護、
修理・整備の経緯文化財保護法の下に名勝として指定される予定
。B11.忍エムゾネ野八海説明富士山の伏流水による八つの湧水
地で、それぞれに八大竜王を祀る富士信仰に関わる巡拝地であっ
た。富士登山を目指す行者たちはこの水で穢れを祓った。長谷川
角行が行った富士八海修行になぞらえ「富士御手洗(みてらし)
元八湖」と唱えエムゾネられた古跡の霊場と伝えられ、1843年
に富士講道者によって再興されたとされる。法的保護、修理・整
備の経緯1934年に史蹟名勝天然紀念物保存法の下に天然紀念
物に指定された。16B12.船津胎内樹型説明1617年長谷
川角行が富士登拝エムゾネの際、北麓に洞穴(船津胎内樹型指定範
囲内に点在する小規模な溶岩樹型のひとつと考えられる)を発見
し、浅間明神を祀った。1673年には富士講道者によって現船
津胎内樹型が発見され、浅間明神が遷宮された。富士登拝の際に
、樹型に入って身をエムゾネ清める風習があり、洞穴内外の地形空
間に宗教的な意義付けが行われるとともに、奥には富士講にとっ
ての富士山の祭神である木花開耶姫などが祀られている。法的保
護、修理・整備の経緯1929年に史蹟名勝天然紀念物保存法の
下に天然紀念物に指定エムゾネされた。B13.吉田胎内樹型説明
山の湧水を起源とする数百の流れを持つ滝である。滝の名前は湧水
(エムゾネ日平均15〜16万〜)の噴出が数百条の白糸が垂れている
ように見えることをその起源とする。17白糸ノ滝は富士講関連の
文書によれば長谷川角行が人穴での修行と合わせて水行を行った地
とされ、富士講を中心とした人々の巡礼・修行の場となったエムゾネ。
また、景勝地としても有名であり、和歌・絵画の題材にもなってい
る。法的保護、修理・整備の経緯1936年に史蹟名勝天然紀念物
保存法の下に名勝及び天然紀念物に指定された。C.三保松原説明
三保松原は、万葉集以降和歌の題材となり、謡曲「エムゾネ羽衣」の舞
台となった。15〜16世紀以降富士山を描く際の典型的な構図に
含まれる景勝地として数多く描かれ、歌川広重等の作品をはじめ海
外にも広く知られている(又は海外に影響を与えた)芸術作品の視
点場、又は舞台となった場所のひとつであエムゾネる。法的保護、修理
・整備の経緯1922年に史蹟名勝天然紀念物保存法の下に名勝に
指定された。18b)歴史と発展山容の形成富士山の原型は、40
〜10万年前、周辺の火山とともに活動をはじめ、先小御岳火山が
形成された。その後これを覆うよエムゾネうに標高約2500mの小御
岳火山が形成された。さらに約10万年前、そのふもとに古富士火
山が誕生し、爆発的噴火、火山礫・火山灰の噴出、山体崩壊を繰り
返し、小御岳火山をほぼ山体に納める形で3000mを超える火山
に成長した。約1万年前エムゾネには大量の溶岩を噴出する形で現在の
富士山(新富士火山)が成長を始め、古富士山を覆いつくし、約5
600〜3500年前に現在の規模となった。繰り返された溶岩の
流出によって何層にもわたる溶岩層が形成され、その先端部には山
体への降水を起エムゾネ源とする湧水が各溶岩層の隙間より湧出する形
で各所に形成され
けられる二合目の本宮と、土地の産土神としてのエムゾネ里宮が一
体となって機能してきた神社である。法的保護、修理・整備の
経緯1973〜74年に吉田口登山道二合目にあった本殿が里
宮の地に移築された。151985年に移築された二合目本殿
が文化財保護法の下に重要文化財に指定された。文化財保エムゾネ
護法の下に他の文化財とともに史跡富士山として指定される予
定。B8.御師住宅説明御師は、道者に宿や食事を始め登拝の
ための一切の世話をするとともに、登拝の指導や祈祷を行うこ
とを業とした。富士山御師として代表的なのは、吉田口登山道
の起エムゾネ点である北口本宮冨士浅間神社の北西に、北東方向の
傾斜面に沿って大規模な集落を形成した吉田の御師である。御
師屋敷の多くは短冊状をなし、表通りに面して引き込み路を設
け、敷地を流れる水路の奥に住宅兼宿坊の建物が建っている。
玄関から奥へエムゾネ客室が続き、最奥部には神殿が設けられてい
る。1768年に建てられ最古の部類に数えられる旧外川家住
宅や、格式的な構えが確立した頃に建てられ富士講最盛期の御
師住宅の典型例とされる小佐野家住宅が代表的である。186
1年に新築された小佐エムゾネ野家住宅同様、富士講の流行に伴い
増加する宿泊者に対応するため、旧外川家住宅では1860年
代に離座敷が増築された。法的保護、修理・整備の経緯197
6年に小佐野家住宅が文化財保護法の下に重要文化財に指定さ
れた。1979年に小佐野家住エムゾネ宅の屋根の修理等が行われ
た。1996〜98年に小佐野家住宅の腐敗修理等が行われた
。旧外川家住宅が文化財保護法の下に重要文化財に指定される
予定。B9.山中湖B10.河口湖説明富士山の火山活動によ
って形成された堰止湖である。富士山周エムゾネ辺の湖を巡って修
行する内八海巡りが多くの富士講徒によって行われたが、長谷
川角行の水行からいつの時代も変わらず巡拝の対象として数え
1892年に富士道者によって整備された「お胎内」である。富
士講講徒は、昼までに御師の家に着き、夕方まで胎内巡りをし、
翌朝富士山に登山した。本穴については、古くから冨士山北口御
師団が管理している。法エムゾネ的保護、修理・整備の経緯192
9年に史蹟名勝天然紀念物保存法の下に天然紀念物に指定された
。B14.人穴富士講遺跡説明富士講の開祖長谷川(藤原)角行
が修行したとされる溶岩洞窟の人穴と富士講信者による約230
噴火はエムゾネ2200年前の噴火を最後に起こっていないが、歴史時
代になっても北西〜南東方向に連なる側火山からの噴火を続け、1
200年前から後には少なくとも800〜802年、864〜86
6年、937年、999年、1033年、1083年、1435エムソ
゙ネ〜1436年、1511年、1707年の九つの時期の噴火が確
認されている。神々しい山容と「鎮爆」このような噴火や溶岩の流
出を繰り返す富士山は恐ろしくかつ神秘的な山と考えられたために
、古くから遥拝の対象であったが、日本における古代国エムゾネ家の統
治システムがほぼ整った8世紀後半以降は、繰り返す噴火を鎮める
ため、富士山そのものあるいは富士山に鎮座する神を浅間神として
祀るようにもなり、各地に遥拝所としての浅間神社が建立され、国
家の宗教政策の一端に位置づけられるようになエムゾネった。また、富
士山の神々しく秀麗な姿と周辺の自然環境が芸術の対象とされるよ
うになり、日本最古の歌集である『万葉集』(8世紀半ば)や日本
最古の物語とされる『竹取物語』(9世紀後半)をはじめとして、
数多くの和歌・物語など文学の題材とエムゾネなったほか、現存最古と
なる『聖徳太子絵伝』(11世紀制作)をはじめ、数多くの絵画作
品の題材として取り上げられるようになった(表参照)。特に12
世紀後半以降、日本の政治的中心が京都から鎌倉に移動し、この二
つの都市を結び富士山南麓をエムゾネ通る街道の交通量が増加したこと
で、富士山の情報は多くの人に記録され、広く知られるようになっ
た。修験道―日本古来の山岳信仰と外来宗教の習合―また、12世
紀頃より噴火活動が沈静化したことで富士山は日本古来の山岳信仰
と密教・道教(神仙エムゾネ思想)が習合した「修験道」の道場ともな
り、修験者が山中に分け入り、霊力を獲得するために修行する山へ
と変化していった。当時
られたのが前述の3つの湖とこの山中湖及び河口湖である。こ
の巡礼行為について、具体的に湖沼のどこで修行エムゾネや巡礼が
執り行われたか、またどのルートを辿って各湖を巡ったかは、
定まっていなかった(少なくとも、明らかになっていない)も
のの、人々の信仰心を駆り立てた湖沼の水そのものを核心とし
て、周辺地域も含めた範囲が文化財とされている。また、エムゾネ
景勝の地でもあり、多くの芸術作品とゆかりが深い。法的保護
、修理・整備の経緯文化財保護法の下に名勝として指定される
予定。B11.忍野八海説明富士山の伏流水による八つの湧水
地で、それぞれに八大竜王を祀る富士信仰に関わる巡拝地であ
ったエムゾネ。富士登山を目指す行者たちはこの水で穢れを祓った
。長谷川角行が行った富士八海修行になぞらえ「富士御手洗(
みてらし)元八湖」と唱えられた古跡の霊場と伝えられ、18
43年に富士講道者によって再興されたとされる。法的保護、
修理・整備のエムゾネ経緯1934年に史蹟名勝天然紀念物保存法
の下に天然紀念物に指定された。16B12.船津胎内樹型説
明1617年長谷川角行が富士登拝の際、北麓に洞穴(船津胎
内樹型指定範囲内に点在する小規模な溶岩樹型のひとつと考え
られる)を発見し、浅エムゾネ間明神を祀った。1673年には富
士講道者によって現船津胎内樹型が発見され、浅間明神が遷宮
された。富士登拝の際に、樹型に入って身を清める風習があり
、洞穴内外の地形空間に宗教的な意義付けが行われるとともに
、奥には富士講にとっての富士エムゾネ山の祭神である木花開耶姫
などが祀られている。法的保護、修理・整備の経緯1929年
に史蹟名勝天然紀念物保存法の下に天然紀念物に指定された。
B13.吉田胎内樹型説明1892年に富士道者によって整備
された「お胎内」である。富士講講徒はエムゾネ、昼までに御師の
家に着き、夕方まで胎内巡りをし、翌朝富士山に登山した。本
になった。この結果15〜16世紀には登拝する山として一般に広
く知られ、修験者に引率された武家・庶民等による信仰登山が盛ん
になった。登山口の設置はいずれも室町時代のことで、14世紀か
らエムゾネ15世紀後半に開かれたとされている。このころには参詣の
道者のための宿坊もでき
穴については、古くから冨士山北口御師団が管理している。法
的保護、修理・整備の経緯1929年に史蹟名勝天然紀念物保
存法の下に天然紀念物に指定された。B14.人エムゾネ穴富士講
遺跡説明富士講の開祖長谷川(藤原)角行が修行したとされる
溶岩洞窟の人穴と富士講信者による約230基の碑塔群が残る
遺跡である。「吾妻鏡」では人穴探検の様子が描かれ、「浅間
大菩薩の御在所」とみられていたとされている。この内容エムゾネ
は遅くとも1603年までに、浅間大菩薩の霊験譚として説話
化され、その存在が広く知られていた。富士講関連の文書によ
れば人穴は16世紀から17世紀にかけ、長谷川角行が修行に
より浅間大菩薩(富士講では仙元大日神とする)の啓示を得た
場でエムゾネあり、入滅した場だとしている。また、角行は人穴を
「浄土(浄土門)」と述べ、これらの結果人穴には熱心な富士
講信者が参詣し、修行を行う者も見られた。また、信者は人穴
への分骨埋葬などを望み、墓碑、供養碑、記念碑などを建立し
た。1942エムゾネ年付近が軍用地となり、人穴の浅間神社や周
辺の住民は一時移転した。1954年神社は現在地に復興され
たが、冨士講自体が衰退したことで参詣者はみられるものの1
964年以降碑塔の建設は行われていない。法的保護、修理・
整備の経緯1999年エムゾネに富士宮市の史跡となる。文化財保
護法の下に他の文化財とともに史跡富士山として指定される予
定。B15.白糸ノ滝説明富士山の湧水を起源とする数百の流
れを持つ滝である。滝の名前は湧水(日平均15〜16万〜)
の噴出が数百条の白糸が垂れてエムゾネいるように見えることをそ
の起源とする。17白糸ノ滝は富士講関連の文書によれば長谷
川角行が人穴での修行と合わせて水行を行った地とされ、富士
講を中心とした人々の巡礼・修行の場となった。また、景勝地
としても有名であり、和歌・絵画の題材エムゾネにもなっている。
知られている(又は海外に影響を与えた)エムゾネ芸術作品の視点
場、又は舞台となった場所のひとつである。法的保護、修理・整
備の経緯1922年に史蹟名勝天然紀念物保存法の下に名勝に指
定された。18b)歴史と発展山容の形成富士山の原型は、40
〜10万年前、周辺の火山とともに活動をはエムゾネじめ、先小御
岳火山が形成された。その後これを覆うように標高約2500m
の小御岳火山が形成された。さらに約10万年前、そのふもとに
古富士火山が誕生し、爆発的噴火、火山礫・火山灰の噴出、山体
崩壊を繰り返し、小御岳火山をほぼ山体に納めエムゾネる形で30
00mを超える火山に成長した。約1万年前には大量の溶岩を噴
出する形で現在の富士山(新富士火山)が成長を始め、古富士山
を覆いつくし、約5600〜3500年前に現在の規模となった
。繰り返された溶岩の流出によって何層にもわたエムゾネる溶岩層
が形成され、その先端部には山体への降水を起源とする湧水が各
溶岩層の隙間より湧出する形で各所に形成された。富士山北麓に
おいてはこれらの湧水や降水が北側の山地との間の低地にたまり
、湖や湿地が形成された。また、溶岩層の中には数エムゾネ多くの
風穴、溶岩樹型が形成された。山頂からの噴火は2200年前の
噴火を最後に起こっていないが、歴史時代になっても北西〜南東
方向に連なる側火山からの噴火を続け、1200年前から後には
少なくとも800〜802年、864〜866年、9エムゾネ37
年、999年、1033年、1083年、1435〜1436年
、1511年、1707年の九つの時期の噴火が確認されている
。神々しい山容と「鎮爆」このような噴火や溶岩の流出を繰り返
す富士山は恐ろしくかつ神秘的な山と考えられたためにエムゾネ、
古くから遥拝の対象であったが、日本における古代国家の統治シ
ステムがほぼ整った8世紀後半以降は、繰り返す噴火を鎮めるた
め、富士山そのものあるいは富士山に鎮座する神を浅間神として
定し経19済的な発展もあってより多くの人が富士山を目指すよう
になった。このような中で18世紀後半、16世紀に富士山体や周
辺の風穴などで修行し、宗教的覚醒を得た長谷川角行から始まった
とされる富士信仰が江戸(現在の東京)を中心に「エムゾネ富士講」と
呼ばれる信仰集団を形成して大いに盛んになり、より多くの人々が
登拝するようになった。富士講や他の登拝者(合わせて「道者」と
いう。)は原則として固定的・継続的関係を持った「御師(宿坊を
経営する神職)」の家や宿坊に宿泊し、祈エムゾネ祷や宗教的指導を受
け、湧水で水垢離をとり、浅間神社に参拝した後、頂上を目指した
。登山道には茶屋や山小屋が建てられ、多くの登拝者の活動を支え
る施設が体系的に整備されたのもこの頃である。また、富士講にお
いては長谷川角行ら指導者の言動エムゾネにならって周辺の風穴や湖沼
・滝なども修行の地とされ、ここにおいて富士山と周辺の宗教施設
・霊地・巡礼地は庶民の信仰の場として定着し、山の結界が開放さ
れる二ヶ月間に年平均1万〜2万人の人々が信仰を目的とした登山
を行うようになった。芸エムゾネ術作品の多様化とジャポニスム芸術面
においても、とりわけ江戸時代(17〜19世紀半ば)には、文学
、絵画、工芸、庭園等のモチーフとして多岐にわたって取り上げら
れ、三保松原と富士山を描いた絵画など多様な表現が追究されるよ
うになった。(エムゾネ表参照)特に、葛飾北斎の「冨嶽三十六景」に
代表される浮世絵の数々は、西洋の画家たちに文化的衝撃を与えた
。19世紀後半には「ジャポニスム」という芸術上の画期的な転機
を惹き起こし、印象派の作品に影響を与えるとともに、その富士山
を含んエムゾネだ構図は海外において日本のイメージの一つとされてき
たのである。日本を訪れた外国人が富士山からインスピレーション
を得て記述した紀行文の
法的保護、修理・整備の経緯1936年に史蹟名勝天然紀念物
保存法の下に名勝及び天然紀念物に指定された。C.三保松原
説明三保松原は、万葉集以降和歌の題材となり、謡曲「羽衣」
の舞台となった。15〜16世紀以降富士山を描エムゾネく際の典
型的な構図に含まれる景勝地として数多く描かれ、歌川広重等
の作品をはじめ海外にも広く知られている(又は海外に影響を
与えた)芸術作品の視点場、又は舞台となった場所のひとつで
祀るようにもなり、各地に遥拝所としての浅間神社が建立エムゾネ
され、国家の宗教政策の一端に位置づけられるようになった。ま
た、富士山の神々しく秀麗な姿と周辺の自然環境が芸術の対象と
されるようになり、日本最古の歌集である『万葉集』(8世紀半
ば)や日本最古の物語とされる『竹取物語』(9世紀後半)エムゾ
ネをはじめとして、数多くの和歌・物語など文学の題材となった
ほか、現存最古となる『聖徳太子絵伝』(11世紀制作)をはじ
め、数多くの絵画作品の題材として取り上げられるようになった
(表参照)。特に12世紀後半以降、日本の政治的中心が京都エム
ゾネから鎌倉に移動し、この二つの都市を結び富士山南麓を通る
街道の交通量が増加したことで、富士山の情報は多くの人に記録
され、広く知られるようになった。修験道―日本古来の山岳信仰
と外来宗教の習合―また、12世紀頃より噴火活動が沈静化した
エムゾネことで富士山は日本古来の山岳信仰と密教・道教(神仙思
想)が習合した「修験道」の道場ともなり、修験者が山中に分け
入り、霊力を獲得するために修行する山へと変化していった。当
時一般的であった神仏習合思想(本地垂迹説)により、山頂部は
仏エムゾネの世界(又は仏が神の形となって現れる場所)として認
識され、山頂部に至ることが重要な意味を持つようになった。こ
の結果15〜16世紀には登拝する山として一般に広く知られ、
修験者に引率された武家・庶民等による信仰登山が盛んになった
。登エムゾネ山口の設置はいずれも室町時代のことで、14世紀か
ら15世紀後半に開かれたとされている。このころには参詣の道
者のための宿坊もでき始め、大勢の登山者が登るための設備が整
い始めた。登拝の大衆化―富士講―17世紀前半、約150年に
わたるエムゾネ日本国内での戦乱状態が終了し、江戸幕府の下で治
安が安定し経19済的な発展もあってより多くの人が富士山を目
指すようになった。このような中で18世紀後半、16世紀に富
につれて、日本を代表する山から日本を象徴する山へと変貌した。
廃仏毀釈と登山の利便性向上19世紀半ばより、明治政府を中心に
行われた日本の近代化・西欧化政策は富士山にも影響をエムゾネ与えた
。政府が神仏分離や修験道禁止の方針を打ち出したことや、これを
契機に発生した廃仏毀釈の運動により、仏教的施設は神道系の施設
に再編されたが、1872年の(信仰の山における)女人禁制解禁
の影響もあり富士山への登拝は継続ないし拡大エムゾネした。19世紀
末以降の鉄道・自動車道の開通も、登山者の利便性を格段に向上さ
せた。南麓へは1889年に東海道線が開通し、北麓へは1900
年前後に馬車鉄道と中央線が開通したことによって、東京からの登
山がさらに活発になった。自動車道とエムゾネしては、1929年に北
口本宮冨士浅間神社から馬返(標高1450m)まで自動車専用道
路が開削され、1937年には大型バスによる輸送も始まった。第
二次大戦以降、日本の価値観や経済状況の変化により、富士山への
登山は信仰を中心としたものエムゾネから、富士山への憧れを主な動機
とするものに変化した。また、1964年に中腹までの自動車道と
して、北麓の富士山スバルラインが、1970年に南麓の富士山ス
カイラインが開通し、これ以降、中腹(標高2300〜2400m
)を起点とした登山エムゾネが主流になった。この結果富士山への登山
者は急増し、年平均20万〜30万人に達するに至った(2007
年からはさらに増加し年間35万〜43万人)。これらの登山者の
行動様式の中には富士山への信仰の核心が受け継がれており、加え
て、現代的エムゾネな富士山信仰の形態として、静岡県の柿田川のよう
に、新たに富士山との関わりが明らかになったことが、環境保護活
動の活性化につながった例などがある。最近の保全の歴史20富士
山体は文化財としては、
ある。法的保護、修理・整備の経緯1922年に史蹟名勝エムゾネ
天然紀念物保存法の下に名勝に指定された。18b)歴史と発
展山容の形成富士山の原型は、40〜10万年前、周辺の火山
とともに活動をはじめ、先小御岳火山が形成された。その後こ
れを覆うように標高約2500mの小御岳火山が形成された。
さらエムゾネに約10万年前、そのふもとに古富士火山が誕生し、
爆発的噴火、火山礫・火山灰の噴出、山体崩壊を繰り返し、小
御岳火山をほぼ山体に納める形で3000mを超える火山に成
長した。約1万年前には大量の溶岩を噴出する形で現在の富士
山(新富士火エムゾネ山)が成長を始め、古富士山を覆いつくし、
約5600〜3500年前に現在の規模となった。繰り返され
た溶岩の流出によって何層にもわたる溶岩層が形成され、その
先端部には山体への降水を起源とする湧水が各溶岩層の隙間よ
り湧出する形で各所にエムゾネ形成された。富士山北麓においては
これらの湧水や降水が北側の山地との間の低地にたまり、湖や
湿地が形成された。また、溶岩層の中には数多くの風穴、溶岩
樹型が形成された。山頂からの噴火は2200年前の噴火を最
後に起こっていないが、歴史時エムゾネ代になっても北西〜南東方
向に連なる側火山からの噴火を続け、1200年前から後には
少なくとも800〜802年、864〜866年、937年、
999年、1033年、1083年、1435〜1436年、
1511年、1707年の九つの時期のエムゾネ噴火が確認されて
いる。神々しい山容と「鎮爆」このような噴火や溶岩の流出を
繰り返す富士山は恐ろしくかつ神秘的な山と考えられたために
、古くから遥拝の対象であったが、日本における古代国家の統
治システムがほぼ整った8世紀後半以降は、繰りエムゾネ返す噴火
を鎮めるため、富士山そのものあるいは富士山に鎮座する神を
浅間神として祀るようにもなり、各地に遥拝所としての浅間神
士山体や周辺の風穴などで修行し、宗教的覚醒を得た長谷川角行
から始まエムゾネったとされる富士信仰が江戸(現在の東京)を中
心に「富士講」と呼ばれる信仰集団を形成して大いに盛んになり
、より多くの人々が登拝するようになった。富士講や他の登拝者
(合わせて「道者」という。)は原則として固定的・継続的関係
を持った「エムゾネ御師(宿坊を経営する神職)」の家や宿坊に宿
泊し、祈祷や宗教的指導を受け、湧水で水垢離をとり、浅間神社
定され、現在も保全の対象となっている。さらに、第二次世界大戦
後の1952年には、新たに文化財保護法によって、御中道エムゾネ以
下500mより上及び一部の登山道などが名勝として(同年、特別
名勝として)指定され、1966年には指定区域を拡大した。山梨
県は1978年(のち、1999年及び2006年に改定)、静岡
県は2006年に「特別名勝富士山」の保存管理計エムゾネ画を策定し
、適切な保存と活用を図っている。周辺の浅間神社や御師住宅の近
代以前の修理や保存の状況は2bで述べたところだが、それらを含
めた富士山に関わる記念工作物・建造物群・遺跡は、1907年以
降、古社寺保存法(1897年〜1929エムゾネ年)、(国宝保存法
(1929年〜1950年))、史蹟名勝天然紀念物保存法(19
19年〜1950年)、文化財保護法(1950年〜現在)により
、名勝、特別天然記念物又は天然記念物、重要文化財、史跡等とし
て指定され、文化財ごとに保存管エムゾネ理計画が策定されており、そ
れぞれの価値が最もよく表れる時代の状態が保たれるように細心の
注意が払われている。、また、周辺に位置する個々の文化財は、「
包括的保存管理計画」によって、富士山体も含めた統一的な保存・
管理が行われている。2エムゾネ1表富士山の美術(1)日本古来の伝
統様式によるもの(国宝重要文化財)指定所在作品名形式時代(年
代)説明東京国立博物館聖徳太子絵伝屏風1069現在最古の富士
山。聖徳太子が馬で富士山を越える物語の状景。神奈川清浄光寺外
一遍聖絵絵巻1エムゾネ299一遍が全国遍歴の途中、富士川に入水す
る往生者を見送る背後に富士山。兵庫・真光寺遊行上人縁起絵絵巻
1323他阿上人が全国遍歴の途中、甲斐の御坂峠を越えて河口に
進む背後に富士山。大阪・久保惣記念美術館伊勢物語絵巻絵巻14
世紀伊エムゾネ勢物語
社が建立され、国家の宗教政策の一端に位置づけられるように
なった。また、富士山の神々しく秀麗な姿と周辺の自然環エムゾネ
境が芸術の対象とされるようになり、日本最古の歌集である『
万葉集』(8世紀半ば)や日本最古の物語とされる『竹取物語
』(9世紀後半)をはじめとして、数多くの和歌・物語など文
学の題材となったほか、現存最古となる『聖徳太子絵伝』(1
1世エムゾネ紀制作)をはじめ、数多くの絵画作品の題材として取
り上げられるようになった(表参照)。特に12世紀後半以降
、日本の政治的中心が京都から鎌倉に移動し、この二つの都市
を結び富士山南麓を通る街道の交通量が増加したことで、富士
山の情報は多エムゾネくの人に記録され、広く知られるようになっ
た。修験道―日本古来の山岳信仰と外来宗教の習合―また、1
2世紀頃より噴火活動が沈静化したことで富士山は日本古来の
山岳信仰と密教・道教(神仙思想)が習合した「修験道」の道
場ともなり、修験者がエムゾネ山中に分け入り、霊力を獲得するた
めに修行する山へと変化していった。当時一般的であった神仏
習合思想(本地垂迹説)により、山頂部は仏の世界(又は仏が
神の形となって現れる場所)として認識され、山頂部に至るこ
とが重要な意味を持つようになエムゾネった。この結果15〜16
世紀には登拝する山として一般に広く知られ、修験者に引率さ
れた武家・庶民等による信仰登山が盛んになった。登山口の設
置はいずれも室町時代のことで、14世紀から15世紀後半に
開かれたとされている。このころには参エムゾネ詣の道者のための
宿坊もでき始め、大勢の登山者が登るための設備が整い始めた
。登拝の大衆化―富士講―17世紀前半、約150年にわたる
日本国内での戦乱状態が終了し、江戸幕府の下で治安が安定し
経19済的な発展もあってより多くの人が富士山エムゾネを目指す
ようになった。このような中で18世紀後半、16世紀に富士
に参拝した後、頂上を目指した。登山道には茶屋や山小屋が建て
られ、多くの登拝者の活動を支える施設が体系的に整備されたの
もこの頃であエムゾネる。また、富士講においては長谷川角行ら指
導者の言動にならって周辺の風穴や湖沼・滝なども修行の地とさ
れ、ここにおいて富士山と周辺の宗教施設・霊地・巡礼地は庶民
の信仰の場として定着し、山の結界が開放される二ヶ月間に年平
均1万〜2万人エムゾネの人々が信仰を目的とした登山を行うよう
になった。芸術作品の多様化とジャポニスム芸術面においても、
とりわけ江戸時代(17〜19世紀半ば)には、文学、絵画、工
芸、庭園等のモチーフとして多岐にわたって取り上げられ、三保
松原と富士山を描エムゾネいた絵画など多様な表現が追究されるよ
うになった。(表参照)特に、葛飾北斎の「冨嶽三十六景」に代
表される浮世絵の数々は、西洋の画家たちに文化的衝撃を与えた
。19世紀後半には「ジャポニスム」という芸術上の画期的な転
機を惹き起こし、印エムゾネ象派の作品に影響を与えるとともに、
その富士山を含んだ構図は海外において日本のイメージの一つと
されてきたのである。日本を訪れた外国人が富士山からインスピ
レーションを得て記述した紀行文の中でも、富士山のアイコン的
側面を綴ったものが多エムゾネい。近世以前も富士山は日本一有名
な山であったが、19世紀後半の開国によって日本が近代国家と
しての体制を整えるにつれて、日本を代表する山から日本を象徴
する山へと変貌した。廃仏毀釈と登山の利便性向上19世紀半ば
より、明治政府を中心にエムゾネ行われた日本の近代化・西欧化政
策は富士山にも影響を与えた。政府が神仏分離や修験道禁止の方
針を打ち出したことや、これを契機に発生した廃仏毀釈の運動に
より、仏教的施設は神道系の施設に再編されたが、1872年の
(信仰の山における)女人エムゾネ禁制解禁の影響もあり富士山へ
の登拝は継続ないし拡大した。19世紀末以降の鉄道・自動車道
。富士山本宮浅間大社富士参詣曼荼羅図掛軸16世紀霊山であるエムソ
゙ネ富士山に参拝する行者達の登山風景、山頂に三尊あり。狩野派の
祖元信筆。東京国立博物館武蔵野図屏風17世紀武蔵野の状景を装
飾的に描いた名所図屏風の一。ススキ野の奥に富士山がそびえる。
山梨県立博物館曽我物語
山体や周辺の風穴などで修行し、宗教的覚醒を得た長谷川角行
から始まったとされる富士信仰が江戸(現在の東京)を中心に
「富士講」と呼ばれる信仰集団を形成して大いに盛んになエムゾネ
り、より多くの人々が登拝するようになった。富士講や他の登
拝者(合わせて「道者」という。)は原則として固定的・継続
的関係を持った「御師(宿坊を経営する神職)」の家や宿坊に
宿泊し、祈祷や宗教的指導を受け、湧水で水垢離をとり、浅間
神社エムゾネに参拝した後、頂上を目指した。登山道には茶屋や山
小屋が建てられ、多くの登拝者の活動を支える施設が体系的に
整備されたのもこの頃である。また、富士講においては長谷川
角行ら指導者の言動にならって周辺の風穴や湖沼・滝なども修
行の地とされエムゾネ、ここにおいて富士山と周辺の宗教施設・霊
地・巡礼地は庶民の信仰の場として定着し、山の結界が開放さ
れる二ヶ月間に年平均1万〜2万人の人々が信仰を目的とした
登山を行うようになった。芸術作品の多様化とジャポニスム芸
術面においても、とりエムゾネわけ江戸時代(17〜19世紀半ば
)には、文学、絵画、工芸、庭園等のモチーフとして多岐にわ
たって取り上げられ、三保松原と富士山を描いた絵画など多様
な表現が追究されるようになった。(表参照)特に、葛飾北斎
の「冨嶽三十六景」に代表されエムゾネる浮世絵の数々は、西洋の
画家たちに文化的衝撃を与えた。19世紀後半には「ジャポニ
スム」という芸術上の画期的な転機を惹き起こし、印象派の作
品に影響を与えるとともに、その富士山を含んだ構図は海外に
おいて日本のイメージの一つとされてきエムゾネたのである。日本
を訪れた外国人が富士山からインスピレーションを得て記述し
た紀行文の中でも、富士山のアイコン的側面を綴ったものが多
い。近世以前も富士山は日本一有名な山であったが、19世紀
後半の開国によって日本が近代国家としての体制エムゾネを整える
の開通も、登山者の利便性を格段に向上させた。南麓へは188
9年に東海道線が開通し、北麓へは1900年前後に馬車鉄道と
中央線が開通したことによっエムゾネて、東京からの登山がさらに
活発になった。自動車道としては、1929年に北口本宮冨士浅
間神社から馬返(標高1450m)まで自動車専用道路が開削さ
れ、1937年には大型バスによる輸送も始まった。第二次大戦
以降、日本の価値観や経済状況エムゾネの変化により、富士山への
登山は信仰を中心としたものから、富士山への憧れを主な動機と
するものに変化した。また、1964年に中腹までの自動車道と
して、北麓の富士山スバルラインが、1970年に南麓の富士山
スカイラインが開通し、これ以降エムゾネ、中腹(標高2300〜
2400m)を起点とした登山が主流になった。この結果富士山
への登山者は急増し、年平均20万〜30万人に達するに至った
(2007年からはさらに増加し年間35万〜43万人)。これ
らの登山者の行動様式の中には富士エムゾネ山への信仰の核心が受
け継がれており、加えて、現代的な富士山信仰の形態として、静
岡県の柿田川のように、新たに富士山との関わりが明らかになっ
たことが、環境保護活動の活性化につながった例などがある。最
近の保全の歴史20富士山体は文化財エムゾネとしては、1924
年に史蹟名勝天然紀念物保存法により、山麓の幅広い地域が名勝
に仮指定された。これとほぼ同じ範囲は、1936年に自然公園
法により国立公園の一部として指定され、現在も保全の対象とな
っている。さらに、第二次世界大戦後のエムゾネ1952年には、
新たに文化財保護法によって、御中道以下500mより上及び一
部の登山道などが名勝として(同年、特別名勝として)指定され
、1966年には指定区域を拡大した。山梨県は1978年(の
ち、1999年及び2006年に改定)、エムゾネ静岡県は200
6年に「特別名勝富士山」の保存管理計画を策定し、適切な保存
(年代)説明東京・根津美術館富岳図仲安真康筆掛軸15世紀現存
最古の水墨による富士山図。鎌倉建長寺の僧でエムゾネ、鎌倉画派の祖
とされる。東京国立博物館富岳図祥啓筆掛軸1490仲安真康の弟
子、建長寺の書記を勤めた禅僧万里集九や雪舟とも交友があった。
東京永青文庫富士清見寺図雪舟集掛軸15世紀世界的に著名な日本
を代表する水墨画家の作。水墨画によエムゾネる富士山の一典型作。静
岡県立美術館富士八景図式部輝忠筆掛軸1530東国を中心に活躍
した水墨画家。瀟湘八景にあやかって連作に挑んだ作品。個人(〜
)富士三保松原図是庵筆掛軸16世紀京都相国寺の僧で、画をよく
した。下辺に三保松原、富士エムゾネ山の左手に日輪を描く。22富士
山の美術(3)江戸時代諸派の作家と富士山指定流派著名な作家名
所在代表作(年代)説明陶芸野々村仁清東京・鼻山美術館銹絵富士
山香炉(17世紀)世界的にも著名な京焼の第一人者。富士山の朝
昼晩の三つの景色をエムゾネ造型化する。狩野派狩野探幽静岡県立美術
館富士山図1670江戸狩野派の祖、第一人者。富士山連作の緒を
開いた。狩野派狩野山雪静岡県立美術館富士三保松原図屏風(17
世紀)山楽の養子として京狩野派を継ぐ。装飾性と抒情性に富む。
琳派尾形光エムゾネ琳奈良・大和文華館富岳図(扇面貼交手箱内)(1
8世紀)世界的に著名な代表的画家。工芸デザイナーとしても卓越
する。文人画派池大雅東京芸術大学富士十二景図(18世紀)日本
文人図(南画)の大成者、第一人者。富士・立山・白山を信仰登山
しエムゾネ、三岳道者と自称。その体験を描く。文人画派与謝蕪村富山
佐藤美術館松林富士図(18世紀)大雅と並ぶ日本文人画の第一人
者。俳人としても高名で、俳画を大成した名手。文人画派野呂介石
和歌山・田辺市立美術館(寄託)紅玉芙蓉峰図1821紀州エムゾネ藩
の役人で、大雅に
につれて、日本を代表する山から日本を象徴する山へと変貌し
た。廃仏毀釈と登山の利便性向上19世紀半ばより、明治政府
を中心に行われた日本の近代化・西欧化政策は富士山にも影響
を与えた。政府が神仏分離や修験道禁止の方針を打ち出しエムゾネ
たことや、これを契機に発生した廃仏毀釈の運動により、仏教
的施設は神道系の施設に再編されたが、1872年の(信仰の
山における)女人禁制解禁の影響もあり富士山への登拝は継続
と活用を図っている。周辺の浅間神社や御師住宅の近代以前の修
理や保存の状況は2bで述べたところだが、それらを含めた富士
山に関わる記念工作物・建造物群・遺跡は、エムゾネ1907年以
降、古社寺保存法(1897年〜1929年)、(国宝保存法(
1929年〜1950年))、史蹟名勝天然紀念物保存法(19
19年〜1950年)、文化財保護法(1950年〜現在)によ
り、名勝、特別天然記念物又は天然記念物、重エムゾネ要文化財、
史跡等として指定され、文化財ごとに保存管理計画が策定されて
おり、それぞれの価値が最もよく表れる時代の状態が保たれるよ
うに細心の注意が払われている。、また、周辺に位置する個々の
文化財は、「包括的保存管理計画」によって、富エムゾネ士山体も
含めた統一的な保存・管理が行われている。21表富士山の美術
(1)日本古来の伝統様式によるもの(国宝重要文化財)指定所
在作品名形式時代(年代)説明東京国立博物館聖徳太子絵伝屏風
1069現在最古の富士山。聖徳太子が馬で富士山エムゾネを越え
る物語の状景。神奈川清浄光寺外一遍聖絵絵巻1299一遍が全
国遍歴の途中、富士川に入水する往生者を見送る背後に富士山。
兵庫・真光寺遊行上人縁起絵絵巻1323他阿上人が全国遍歴の
途中、甲斐の御坂峠を越えて河口に進む背後に富士山エムゾネ。大
阪・久保惣記念美術館伊勢物語絵巻絵巻14世紀伊勢物語現存最
古の絵巻。第九段物語の主人が富士山麓を進む場面。東京国立博
物館月次風俗図のうち小屏風15世紀十二月風俗図の一場面。鎌
倉初期に行われた富士山麓の巻狩を題材とする。富士山エムゾネ本
宮浅間大社富士参詣曼荼羅図掛軸16世紀霊山である富士山に参
拝する行者達の登山風景、山頂に三尊あり。狩野派の祖元信筆。
東京国立博物館武蔵野図屏風17世紀武蔵野の状景を装飾的に描
いた名所図屏風の一。ススキ野の奥に富士山がそびえる。エムゾネ
山梨県立博物館曽我物語図屏風17世紀鎌倉将軍源頼朝が主催し
け。円山派円山応挙兵庫・白鶴美術館富士三保松原エムゾネ図屏風17
84装飾性と写実性とを融合し、独自の画境を開いた、いかにも応
挙らしい作品。洋風画派小田野直武秋田県立近代美術館富岳図17
77秋田藩士。日本で最初に西洋画を学んだ、秋田蘭画の創始者。
江戸出府の折の作。洋風画派司馬江漢静岡エムゾネ県立美術館薩〜山富
士遠望図1804平賀源内らと蘭学を研鑚、後に小田野直武の影響
を受けて、洋風写生画の第一人者となる。南蘋派宋紫石東京国立博
物館日金山富岳展望図(18世紀)長崎に渡来した清人画家より写
生的花鳥画を学び、また平賀源内エムゾネらを通じて蘭学に通じた。禅
画白隠慧鶴大分・自性寺富士見大名行列図日本臨済禅を確立した禅
僧。全国を遍歴、布教した。禅画の大成者としても著名。浮世絵派
葛飾北斎山梨県立博物館版画富岳三十六景1831世界的に著名な
浮世絵師。富岳三十六景エムゾネに見る象徴主義は欧米文芸に大きく影
響した。23浮世絵派歌川広重山梨県立博物館版画不二三十六景(
19世紀)北斎とともに世界的に著名な浮世絵師。東海道五十三次
など風景画に新境地を開き、印象派に与えた影響は大きい。浮世絵
派歌川貞秀神戸エムゾネ市立博物館三国第一山之図1849幕末の浮世
絵師。自ら富士山に登り、その感動を本図や富士絶頂之図など多く
の作品を残した。富士山の美術(4)近現代作家と富士山文化勲章
指定ジャンル著名な作家名所在代表作(年代)説明油画(洋画)高
橋由一エムゾネ金刀比羅宮宝物語館牧の原望岳図1878明治維新以降
、最初に油彩技法を習得した先覚者の作品。明治初期の貴重作。〃
五姓田義松東京都現代美術館清水の富士1881父芳柳と共に早く
油彩技法に目覚めた開拓者の一人。明治初期の貴重作。〃和田英エムソ
゙ネ作鹿児島歴史資料センター富士(河口湖)1926日本近代洋画
を技法的に確立した先駆
ないし拡大した。19世紀末以降の鉄道・自動車道の開通も、
登山エムゾネ者の利便性を格段に向上させた。南麓へは1889年
に東海道線が開通し、北麓へは1900年前後に馬車鉄道と中
央線が開通したことによって、東京からの登山がさらに活発に
なった。自動車道としては、1929年に北口本宮冨士浅間神
社から馬返(エムゾネ標高1450m)まで自動車専用道路が開削
され、1937年には大型バスによる輸送も始まった。第二次
大戦以降、日本の価値観や経済状況の変化により、富士山への
登山は信仰を中心としたものから、富士山への憧れを主な動機
とするものに変化したエムゾネ。また、1964年に中腹までの自
動車道として、北麓の富士山スバルラインが、1970年に南
麓の富士山スカイラインが開通し、これ以降、中腹(標高23
00〜2400m)を起点とした登山が主流になった。この結
果富士山への登山者は急増し、エムゾネ年平均20万〜30万人に
達するに至った(2007年からはさらに増加し年間35万〜
43万人)。これらの登山者の行動様式の中には富士山への信
仰の核心が受け継がれており、加えて、現代的な富士山信仰の
形態として、静岡県の柿田川のように、エムゾネ新たに富士山との
関わりが明らかになったことが、環境保護活動の活性化につな
がった例などがある。最近の保全の歴史20富士山体は文化財
としては、1924年に史蹟名勝天然紀念物保存法により、山
麓の幅広い地域が名勝に仮指定された。これとほエムゾネぼ同じ範
囲は、1936年に自然公園法により国立公園の一部として指
定され、現在も保全の対象となっている。さらに、第二次世界
大戦後の1952年には、新たに文化財保護法によって、御中
道以下500mより上及び一部の登山道などが名勝としてエムゾネ
(同年、特別名勝として)指定され、1966年には指定区域
を拡大した。山梨県は1978年(のち、1999年及び20
た富士の巻狩最中に果された曽我兄弟による仇討ちを題材。富士
山の美術(2)室町時代水墨画によるもの指定所在作品名形式時
代(年代)説明東京・根津美術館富岳図仲安真康筆掛軸15エムゾ
ネ世紀現存最古の水墨による富士山図。鎌倉建長寺の僧で、鎌倉
画派の祖とされる。東京国立博物館富岳図祥啓筆掛軸1490仲
安真康の弟子、建長寺の書記を勤めた禅僧万里集九や雪舟とも交
友があった。東京永青文庫富士清見寺図雪舟集掛軸15世紀世エム
き作。〃田崎広助長野・田崎美術館箱根朱富士1975日本独特の
平面的装飾に新しい一頁を開いた田崎ならではの自然景観。〃林武
箱根彫刻の森美術館赤富士1967主として第二次大戦以後洋画壇
をリードした。豪快な技法で富士連作に挑んだエムゾネ。膠画(日本画
)富岡鉄斎兵庫・清荒神清澄寺富士山及び山頂全図屏風1898最
後の文人画家とも言われる思想家。自ら富士山に登り、その神聖性
をダイナミックに表現した。〃横山大観東京国立近代美術館或る日
の太平洋1952フェノロサ、岡倉天エムゾネ心と共に日本画壇を復興
した巨匠。日本の象徴と意識して多くのテーマに富士山が描かれた
。〃下村観山秋田県立近代美術館三保富士図屏風1919横山大観
とともに明治日本画壇を背負った作家が伝統的テーマに新風を吹き
込む。〃川端龍子東京・大田エムゾネ区立龍子記念館怒る富士1944
強烈な個性で大作に挑んだ激情の画家。激しい気象現象を示す富士
に挑戦した作品。〃松岡映丘宮内庁三の丸尚蔵館富岳茶園1928
昭和天皇即位記念の作品。伝統的日本画に透明感のある新しい表現
技法を示す。〃徳岡エムゾネ神泉京都国立近代美術館富士1965福田
平八郎と共に昭和の日本画壇に独自の新風を吹き込んだ。茫漠たる
モノトーンの中に立する富士。24〃横山操東京・五島美術館朱富
士1966第二次大戦後の日本画壇をリードした新星。多くの富士
を描いたがエムゾネ、赤富士と電光の対比の妙。〃小松均京都市立美術
館白富士1982第二次大戦後の日本画壇に詩的な大画面で新境地
を開いた。郷土山形や大自然に魅せられて。〃片岡球子神奈川県立
近代美術館面構葛飾北斎数年前に没したが、最も現代日本画界をリ
ーエムゾネドした女流画家。本図は女史のライフワーク面構シリーズの
一つ。写真鹿島清兵衛宮内庁三の丸尚蔵館富士1894アマチュア
ながら当時の技術を駆使
06年に改定)、静岡県は2006年に「特別名勝富士山」の
保存管理計画を策定し、適切な保存と活用を図っている。周辺
の浅エムゾネ間神社や御師住宅の近代以前の修理や保存の状況は2
bで述べたところだが、それらを含めた富士山に関わる記念工
作物・建造物群・遺跡は、1907年以降、古社寺保存法(1
897年〜1929年)、(国宝保存法(1929年〜195
0年))、史エムゾネ蹟名勝天然紀念物保存法(1919年〜19
50年)、文化財保護法(1950年〜現在)により、名勝、
特別天然記念物又は天然記念物、重要文化財、史跡等として指
定され、文化財ごとに保存管理計画が策定されており、それぞ
れの価値が最もよく表エムゾネれる時代の状態が保たれるように細
心の注意が払われている。、また、周辺に位置する個々の文化
財は、「包括的保存管理計画」によって、富士山体も含めた統
一的な保存・管理が行われている。21表富士山の美術(1)
日本古来の伝統様式によるものエムゾネ(国宝重要文化財)指定所
在作品名形式時代(年代)説明東京国立博物館聖徳太子絵伝屏
風1069現在最古の富士山。聖徳太子が馬で富士山を越える
物語の状景。神奈川清浄光寺外一遍聖絵絵巻1299一遍が全
国遍歴の途中、富士川に入水する往生者エムゾネを見送る背後に富
士山。兵庫・真光寺遊行上人縁起絵絵巻1323他阿上人が全
国遍歴の途中、甲斐の御坂峠を越えて河口に進む背後に富士山
。大阪・久保惣記念美術館伊勢物語絵巻絵巻14世紀伊勢物語
現存最古の絵巻。第九段物語の主人が富士山麓をエムゾネ進む場面
。東京国立博物館月次風俗図のうち小屏風15世紀十二月風俗
図の一場面。鎌倉初期に行われた富士山麓の巻狩を題材とする
。富士山本宮浅間大社富士参詣曼荼羅図掛軸16世紀霊山であ
る富士山に参拝する行者達の登山風景、山頂に三尊あり。エムゾネ
狩野派の祖元信筆。東京国立博物館武蔵野図屏風17世紀武蔵
ゾネ界的に著名な日本を代表する水墨画家の作。水墨画による富
士山の一典型作。静岡県立美術館富士八景図式部輝忠筆掛軸15
30東国を中心に活躍した水墨画家。瀟湘八景にあやかって連作
に挑んだ作品。個人(〜)富士三保松原図是庵筆掛軸16世紀京
エムゾネ都相国寺の僧で、画をよくした。下辺に三保松原、富士山
の左手に日輪を描く。22富士山の美術(3)江戸時代諸派の作
家と富士山指定流派著名な作家名所在代表作(年代)説明陶芸野
々村仁清東京・鼻山美術館銹絵富士山香炉(17世紀)世界的に
もエムゾネ著名な京焼の第一人者。富士山の朝昼晩の三つの景色を
造型化する。狩野派狩野探幽静岡県立美術館富士山図1670江
戸狩野派の祖、第一人者。富士山連作の緒を開いた。狩野派狩野
山雪静岡県立美術館富士三保松原図屏風(17世紀)山楽の養子
としエムゾネて京狩野派を継ぐ。装飾性と抒情性に富む。琳派尾形
光琳奈良・大和文華館富岳図(扇面貼交手箱内)(18世紀)世
界的に著名な代表的画家。工芸デザイナーとしても卓越する。文
人画派池大雅東京芸術大学富士十二景図(18世紀)日本文人図
(南画エムゾネ)の大成者、第一人者。富士・立山・白山を信仰登
山し、三岳道者と自称。その体験を描く。文人画派与謝蕪村富山
佐藤美術館松林富士図(18世紀)大雅と並ぶ日本文人画の第一
人者。俳人としても高名で、俳画を大成した名手。文人画派野呂
介石和歌エムゾネ山・田辺市立美術館(寄託)紅玉芙蓉峰図182
1紀州藩の役人で、大雅にも師事した。早春の明け方の朱に染ま
った富士、赤富士の魁。文人画派谷文晁静岡県立美術館富士山図
屏風1835江戸文人画の大家。諸国諸山の風景を写実的に描い
た写生派のエムゾネ草分け。円山派円山応挙兵庫・白鶴美術館富士
三保松原図屏風1784装飾性と写実性とを融合し、独自の画境
を開いた、いかにも応挙らしい作品。洋風画派小田野直武秋田県
立近代美術館富岳図1777秋田藩士。日本で最初に西洋画を学
、広めた。木版画萩原英雄山梨県立美術館三十六富士1926本県
出身の日本を代表する木版画家。新しい視点からの富士山シリーズ
。富士山の文学歴史書「六りっ国史こくし」(奈良エムゾネ−平安)菅
野すがのの真ま道みちら「続日本しょくにほん紀ぎ」(平安)藤原
通憲ふじわらのみちのり
野の状景を装飾的に描いた名所図屏風の一。ススキ野の奥に富
士山がそびえる。山梨県立博物館曽我物語図屏風17世紀鎌倉
将軍源頼朝が主催した富士の巻狩最中に果された曽我兄弟によ
る仇エムゾネ討ちを題材。富士山の美術(2)室町時代水墨画によ
るもの指定所在作品名形式時代(年代)説明東京・根津美術館
富岳図仲安真康筆掛軸15世紀現存最古の水墨による富士山図
。鎌倉建長寺の僧で、鎌倉画派の祖とされる。東京国立博物館
富岳図祥啓筆エムゾネ掛軸1490仲安真康の弟子、建長寺の書記
を勤めた禅僧万里集九や雪舟とも交友があった。東京永青文庫
富士清見寺図雪舟集掛軸15世紀世界的に著名な日本を代表す
る水墨画家の作。水墨画による富士山の一典型作。静岡県立美
術館富士八景図式部輝エムゾネ忠筆掛軸1530東国を中心に活躍
した水墨画家。瀟湘八景にあやかって連作に挑んだ作品。個人
(〜)富士三保松原図是庵筆掛軸16世紀京都相国寺の僧で、
画をよくした。下辺に三保松原、富士山の左手に日輪を描く。
22富士山の美術(3)江戸時エムゾネ代諸派の作家と富士山指定
流派著名な作家名所在代表作(年代)説明陶芸野々村仁清東京
・鼻山美術館銹絵富士山香炉(17世紀)世界的にも著名な京
焼の第一人者。富士山の朝昼晩の三つの景色を造型化する。狩
野派狩野探幽静岡県立美術館富士山図1エムゾネ670江戸狩野派
の祖、第一人者。富士山連作の緒を開いた。狩野派狩野山雪静
岡県立美術館富士三保松原図屏風(17世紀)山楽の養子とし
て京狩野派を継ぐ。装飾性と抒情性に富む。琳派尾形光琳奈良
・大和文華館富岳図(扇面貼交手箱内)(18世エムゾネ紀)世界
的に著名な代表的画家。工芸デザイナーとしても卓越する。文
人画派池大雅東京芸術大学富士十二景図(18世紀)日本文人
図(南画)の大成者、第一人者。富士・立山・白山を信仰登山
し、三岳道者と自称。その体験を描く。文人画派与謝蕪村エムゾネ
んだ、秋田蘭エムゾネ画の創始者。江戸出府の折の作。洋風画派司
馬江漢静岡県立美術館薩〜山富士遠望図1804平賀源内らと蘭
学を研鑚、後に小田野直武の影響を受けて、洋風写生画の第一人
者となる。南蘋派宋紫石東京国立博物館日金山富岳展望図(18
世紀)長崎に渡エムゾネ来した清人画家より写生的花鳥画を学び、
また平賀源内らを通じて蘭学に通じた。禅画白隠慧鶴大分・自性
寺富士見大名行列図日本臨済禅を確立した禅僧。全国を遍歴、布
教した。禅画の大成者としても著名。浮世絵派葛飾北斎山梨県立
博物館版画富岳三エムゾネ十六景1831世界的に著名な浮世絵師
。富岳三十六景に見る象徴主義は欧米文芸に大きく影響した。2
3浮世絵派歌川広重山梨県立博物館版画不二三十六景(19世紀
)北斎とともに世界的に著名な浮世絵師。東海道五十三次など風
景画に新境地を開きエムゾネ、印象派に与えた影響は大きい。浮世
絵派歌川貞秀神戸市立博物館三国第一山之図1849幕末の浮世
絵師。自ら富士山に登り、その感動を本図や富士絶頂之図など多
くの作品を残した。富士山の美術(4)近現代作家と富士山文化
勲章指定ジャンル著名エムゾネな作家名所在代表作(年代)説明油
画(洋画)高橋由一金刀比羅宮宝物語館牧の原望岳図1878明
治維新以降、最初に油彩技法を習得した先覚者の作品。明治初期
の貴重作。〃五姓田義松東京都現代美術館清水の富士1881父
芳柳と共に早く油彩技法エムゾネに目覚めた開拓者の一人。明治初
期の貴重作。〃和田英作鹿児島歴史資料センター富士(河口湖)
1926日本近代洋画を技法的に確立した先駆者の一人。写生の
確かさを見よ。〃梅原龍三郎岡山・大原美術館朝陽1945ルノ
アールに学び、日本洋画にエムゾネ存在感ある独特の装飾技法を樹
立した。その金字塔とも言うべき作。〃田崎広助長野・田崎美術
館箱根朱富士1975日本独特の平面的装飾に新しい一頁を開い
た田崎ならではの自然景観。〃林武箱根彫刻の森美術館赤富士1
ぶこう年表ねんぴょう」(江戸)風土記元明天皇げんめいてんのう
詔「常陸ひたち国のくに風土記」(奈良)談話集景戒きょうかい「
日本にほん霊異記りょういき」(平安)※作者未詳「今昔こんじゃ
く物語集ものがたりしゅう」(平エムゾネ安)和歌集大伴家持おおとも
のやかもち「万葉集まんようしゅう」(奈良)紀淑望きのよしもち
・紀貫之きのつらゆき「古今和歌集こきんわかしゅう」(平安)村
上むらかみ天皇てんのう「後撰和ごせんわ歌集かしゅう」(平安)
後鳥羽ごとば上皇じょうエムゾネこう「新古今和歌集しんこきんわかし
ゅう」(鎌倉)後鳥羽院ごとばいん「最勝さいしょう四天王院して
んのういん障子しょうじ和歌わか」(鎌倉)藤原長清「夫木和歌抄
ふぼくわかしょう」(鎌倉)藤原ふじわらの為ため明あきら「新拾
遺和しんしゅうエムゾネいわ歌集かしゅう」(室町)25記録・紀行文
都良香みやこのよしか(平安)「富士山記ふじさんき」※作者不詳
(鎌倉)「海道記かいどうき」※作者不詳(鎌倉)「東関紀行とう
かんきこう」飛鳥井あすかい雅世まさよ(室町)「富士紀行ふじき
こう」エムゾネ堯孝ぎょうこう(室町)「覧らん富士記ふじき」堯恵ぎ
ょうえ(室町)「北国紀行ほっこくきこう」※作者不詳(室町)「
富士御覧日記ふじごらんにっき」道興どうこう(室町)「廻国かい
こく雑記ざっき」宗牧そうぼく(室町)「東国とうごく紀行きこエムソ
゙ネう」紹巴じょうは(室町)「富士見ふじみ道記みちのき」小堀遠
州こぼりえんしゅう(江戸)「東海道紀行とうかいどうきこう」浅
井了意あさいりょうい(江戸)「東海道名所記とうかいどうめいし
ょき」岩佐いわさ又兵衛またべえ(江戸)「迴国道の記エムゾネ」松尾
まつお芭蕉ばしょう(江戸)「野ざらし紀行」香川景樹かがわかげ
き(江戸)「中空の日記」古川古松こしょう軒けん(江戸)「東遊
とうゆう雑記ざっき」藤
富山佐藤美術館松林富士図(18世紀)大雅と並ぶ日本文人画
の第一人者。俳人としても高名で、俳画を大成した名手。文人
画派野呂介石和歌山・田辺市立美術館(寄託)紅玉芙蓉峰図1
821紀州藩の役人で、大雅にも師事した。早春の明け方の朱
に染エムゾネまった富士、赤富士の魁。文人画派谷文晁静岡県立美
術館富士山図屏風1835江戸文人画の大家。諸国諸山の風景
を写実的に描いた写生派の草分け。円山派円山応挙兵庫・白鶴
967主として第二次大戦以エムゾネ後洋画壇をリードした。豪快
な技法で富士連作に挑んだ。膠画(日本画)富岡鉄斎兵庫・清荒
神清澄寺富士山及び山頂全図屏風1898最後の文人画家とも言
われる思想家。自ら富士山に登り、その神聖性をダイナミックに
表現した。〃横山大観東京国立エムゾネ近代美術館或る日の太平洋
1952フェノロサ、岡倉天心と共に日本画壇を復興した巨匠。
日本の象徴と意識して多くのテーマに富士山が描かれた。〃下村
観山秋田県立近代美術館三保富士図屏風1919横山大観ととも
に明治日本画壇を背負った作家がエムゾネ伝統的テーマに新風を吹
き込む。〃川端龍子東京・大田区立龍子記念館怒る富士1944
強烈な個性で大作に挑んだ激情の画家。激しい気象現象を示す富
士に挑戦した作品。〃松岡映丘宮内庁三の丸尚蔵館富岳茶園19
28昭和天皇即位記念の作品。伝統エムゾネ的日本画に透明感のあ
る新しい表現技法を示す。〃徳岡神泉京都国立近代美術館富士1
965福田平八郎と共に昭和の日本画壇に独自の新風を吹き込ん
だ。茫漠たるモノトーンの中に立する富士。24〃横山操東京・
五島美術館朱富士1966第二次大戦エムゾネ後の日本画壇をリー
ドした新星。多くの富士を描いたが、赤富士と電光の対比の妙。
〃小松均京都市立美術館白富士1982第二次大戦後の日本画壇
に詩的な大画面で新境地を開いた。郷土山形や大自然に魅せられ
て。〃片岡球子神奈川県立近代美術館面エムゾネ構葛飾北斎数年前
に没したが、最も現代日本画界をリードした女流画家。本図は女
史のライフワーク面構シリーズの一つ。写真鹿島清兵衛宮内庁三
の丸尚蔵館富士1894アマチュアながら当時の技術を駆使した
大版写真を御成婚25年記念に皇室に託しエムゾネた。〃岡田紅陽
山梨・岡田紅陽写真美術館忍野赤富士1894文字通り富士山の
写真家。富士山のあらゆる表情を写真に収め、広めた。木版画萩
原英雄山梨県立美術館三十六富士1926本県出身の日本を代表
き」「うたたね」後ご深ふか草院くさいんの二条にじょう(鎌倉)
「とはずがたり」賀茂真淵かものまぶち(江戸)「岡部日記おかべ
にっき」永井ながい荷風かふう(江戸エムゾネ−昭和)「大窪だより」
伝説・物語※作者不詳「竹取たけとり物語ものがたり」(平安)※
作者不詳「伊勢いせ物語ものがたり」(平安)紫式部むらさきしき
ぶ「源氏げんじ物語ものがたり(若紫わかむらさき)」(平安)藤
原兼輔ふじわらのかねすけ「エムゾネ聖徳太子伝暦しょうとくたいしで
んりゃく」(平安)※作者不詳(平安)「平中へいちゅう物語もの
がたり」「平家へいけ物語ものがたり」(鎌倉)※未詳「曽我そが
の物語ものがたり」(鎌倉)※作者不詳「源平げんぺい盛衰記せい
すいき」(鎌倉)※エムゾネ未詳「承久記じょうきゅうき」(鎌倉)浅
井あさい了りょう意い「東海道名所記」(江戸)能(謡曲)伝世阿
弥ぜあみ原作(室町)「富士山ふじさん」※未詳(室町)「羽衣は
ごろも」御伽草紙「富士の人穴ひとあな草紙ぞうし」(江戸)仮名
草紙※作者エムゾネ不詳(江戸)「竹斎ちくさい」滑稽本十返舎一九じ
っぺんしゃいっく(江戸)「東海道中膝栗毛とうかいどうちゅうひ
ざくりげ」仮名垣魯文かなかきろぶん(江戸−明治)「滑稽富士詣
こっけいふじもうで」26浄瑠璃近松門ちかまつもん左ざ衛門えも
んエムゾネ(江戸)「聖徳太子絵伝記」竹田たけだ出雲いずも・三好松
洛みよししょうらく・並木千柳なみきせんりゅう(江戸)「仮名か
な手本でほん忠臣蔵ちゅうしんぐら」童謡巌谷いわや小波さざなみ
(明治−大正)「富士山ふじさん」(「ふじの山」)海野うエムゾネん
の厚あつし(明治−昭和)「背せいくらべ」随想・随筆新井あらい
白石はくせき(江戸)「折おりたく柴しばの記」田山たやま花袋か
たい(明治−昭和)「富士を望む」小島烏水こじまうすい(明治−
昭和)「すたれ行く富士
美術館富士三保松原図屏風1784装飾性と写実性とを融合し
、独自の画境エムゾネを開いた、いかにも応挙らしい作品。洋風画
派小田野直武秋田県立近代美術館富岳図1777秋田藩士。日
本で最初に西洋画を学んだ、秋田蘭画の創始者。江戸出府の折
の作。洋風画派司馬江漢静岡県立美術館薩〜山富士遠望図18
04平賀源内らと蘭学エムゾネを研鑚、後に小田野直武の影響を受
けて、洋風写生画の第一人者となる。南蘋派宋紫石東京国立博
物館日金山富岳展望図(18世紀)長崎に渡来した清人画家よ
り写生的花鳥画を学び、また平賀源内らを通じて蘭学に通じた
。禅画白隠慧鶴大分・自性寺富エムゾネ士見大名行列図日本臨済禅
を確立した禅僧。全国を遍歴、布教した。禅画の大成者として
も著名。浮世絵派葛飾北斎山梨県立博物館版画富岳三十六景1
831世界的に著名な浮世絵師。富岳三十六景に見る象徴主義
は欧米文芸に大きく影響した。23浮世エムゾネ絵派歌川広重山梨
県立博物館版画不二三十六景(19世紀)北斎とともに世界的
に著名な浮世絵師。東海道五十三次など風景画に新境地を開き
、印象派に与えた影響は大きい。浮世絵派歌川貞秀神戸市立博
物館三国第一山之図1849幕末の浮世絵師。自エムゾネら富士山
に登り、その感動を本図や富士絶頂之図など多くの作品を残し
た。富士山の美術(4)近現代作家と富士山文化勲章指定ジャ
ンル著名な作家名所在代表作(年代)説明油画(洋画)高橋由
一金刀比羅宮宝物語館牧の原望岳図1878明治維新以降エムゾネ
、最初に油彩技法を習得した先覚者の作品。明治初期の貴重作
。〃五姓田義松東京都現代美術館清水の富士1881父芳柳と
共に早く油彩技法に目覚めた開拓者の一人。明治初期の貴重作
。〃和田英作鹿児島歴史資料センター富士(河口湖)1926
日本エムゾネ近代洋画を技法的に確立した先駆者の一人。写生の確
かさを見よ。〃梅原龍三郎岡山・大原美術館朝陽1945ルノ
する木版画家。新しい視点からの富士山シリエムゾネーズ。富士山
の文学歴史書「六りっ国史こくし」(奈良−平安)菅野すがのの
真ま道みちら「続日本しょくにほん紀ぎ」(平安)藤原通憲ふじ
わらのみちのり「本朝ほんちょう世紀せいき」(平安)伝皇こう
円えん「扶桑ふそう略記りゃっき」(平安)※エムゾネ作者未詳「
吾妻鏡あづまかがみ」(鎌倉)斎藤月岑さいとうげっしん「武江
ぶこう年表ねんぴょう」(江戸)風土記元明天皇げんめいてんの
おまちけいげつ(明治−大正)「富士の大観」中村星湖なかむらせ
いこ(明治−昭和)「少年行しょうねんこエムゾネう」北村きたむら透
谷とうこく(明治)「富嶽ふがくの詩し神しんを思おもふ」深田ふ
かだ久弥きゅうや(明治−昭和)「日本にほん百名山ひゃくめいざ
ん」小説落合直文おちあいなおぶみ(江戸−明治)「たかねの雪ゆ
き」夏目漱石なつめそうせき(明エムゾネ治−大正)「三四郎さんしろ
う」「虞美人草ぐびじんそう」泉鏡花(明治−昭和)「婦おんな系
図けいず」「春しゅん昼ちゅう」「春しゅん昼ちゅう後刻ごこく」
徳富とくとみ蘆花ろか(明治−昭和)「冨士ふじ」「自然しぜんと
人生じんせい」(随筆)エムゾネ永井ながい荷風かふう(明治−昭和)
「新帰朝者日記」橋本英吉はしもとえいきち(明治−昭和)「富士
山頂ふじさんちょう」井伏鱒二いぶせますじ(明治−平成)「岳麓
点描がくろくてんびょう」武田泰淳たけだたいじゅん(大正−昭和
)「富士ふじ」エムゾネ武田百合子たけだゆりこ(大正−昭和)「富士
日記ふじにっき」新田にった次郎じろう(大正−昭和)「強力伝ご
うりきでん」「怒いかる富ふ士じ」「芙蓉ふようの人ひと」「富士
ふじに死しす」「着氷ちゃくひょう」「冬山ふゆやまの掟おきて」
「富士エムゾネふじ山頂さんちょう」川端康成かわばたやすなり(明治
−昭和)「東海道とうかいどう」白井喬二しらいきょうじ(明治−
昭和)「富士ふじに立たつ影かげ」国枝くにえだ史郎しろう(明治
−昭和)「神州纐纈城しんしゅうこうけつじょう」松本まつもとエムソ
゙ネ清せい張ちょう(明治−昭和)「波なみの塔とう」芹沢光せりざ
わこう治じ良ろう(明治−平成)「我が入道にゅうどう」「人間に
んげんの運命うんめい」幸田文こうだあや(明治−平成)「崩くず
れ」27詩歌伝柿本かきのもとの人麻呂ひとまろ(飛鳥エムゾネ−奈良
)「柿本集」山部
アールに学び、日本洋画に存在感ある独特の装飾技法を樹立し
た。その金字塔とも言うべき作。〃田崎広助長野・田崎美術館
箱根朱富士1エムゾネ975日本独特の平面的装飾に新しい一頁を
開いた田崎ならではの自然景観。〃林武箱根彫刻の森美術館赤
富士1967主として第二次大戦以後洋画壇をリードした。豪
快な技法で富士連作に挑んだ。膠画(日本画)富岡鉄斎兵庫・
清荒神清澄寺富士山及エムゾネび山頂全図屏風1898最後の文人
画家とも言われる思想家。自ら富士山に登り、その神聖性をダ
イナミックに表現した。〃横山大観東京国立近代美術館或る日
の太平洋1952フェノロサ、岡倉天心と共に日本画壇を復興
した巨匠。日本の象徴と意識しエムゾネて多くのテーマに富士山が
描かれた。〃下村観山秋田県立近代美術館三保富士図屏風19
19横山大観とともに明治日本画壇を背負った作家が伝統的テ
ーマに新風を吹き込む。〃川端龍子東京・大田区立龍子記念館
怒る富士1944強烈な個性で大作に挑エムゾネんだ激情の画家。
激しい気象現象を示す富士に挑戦した作品。〃松岡映丘宮内庁
三の丸尚蔵館富岳茶園1928昭和天皇即位記念の作品。伝統
的日本画に透明感のある新しい表現技法を示す。〃徳岡神泉京
都国立近代美術館富士1965福田平八郎と共にエムゾネ昭和の日
本画壇に独自の新風を吹き込んだ。茫漠たるモノトーンの中に
立する富士。24〃横山操東京・五島美術館朱富士1966第
二次大戦後の日本画壇をリードした新星。多くの富士を描いた
が、赤富士と電光の対比の妙。〃小松均京都市立美術館白エムゾネ
富士1982第二次大戦後の日本画壇に詩的な大画面で新境地
を開いた。郷土山形や大自然に魅せられて。〃片岡球子神奈川
県立近代美術館面構葛飾北斎数年前に没したが、最も現代日本
画界をリードした女流画家。本図は女史のライフワーク面構シ
リーエムゾネズの一つ。写真鹿島清兵衛宮内庁三の丸尚蔵館富士1
う詔「常陸ひたち国のくに風土記」(奈良)談話集景戒きょうか
い「日本にほん霊異記りょういき」(平安)※作エムゾネ者未詳「
今昔こんじゃく物語集ものがたりしゅう」(平安)和歌集大伴家
持おおとものやかもち「万葉集まんようしゅう」(奈良)紀淑望
きのよしもち・紀貫之きのつらゆき「古今和歌集こきんわかしゅ
う」(平安)村上むらかみ天皇てんのう「後撰和ごエムゾネせんわ
歌集かしゅう」(平安)後鳥羽ごとば上皇じょうこう「新古今和
歌集しんこきんわかしゅう」(鎌倉)後鳥羽院ごとばいん「最勝
さいしょう四天王院してんのういん障子しょうじ和歌わか」(鎌
倉)藤原長清「夫木和歌抄ふぼくわかしょう」(鎌倉エムゾネ)藤
原ふじわらの為ため明あきら「新拾遺和しんしゅういわ歌集かし
ゅう」(室町)25記録・紀行文都良香みやこのよしか(平安)
「富士山記ふじさんき」※作者不詳(鎌倉)「海道記かいどうき
」※作者不詳(鎌倉)「東関紀行とうかんきこう」飛鳥エムゾネ井
あすかい雅世まさよ(室町)「富士紀行ふじきこう」堯孝ぎょう
こう(室町)「覧らん富士記ふじき」堯恵ぎょうえ(室町)「北
国紀行ほっこくきこう」※作者不詳(室町)「富士御覧日記ふじ
ごらんにっき」道興どうこう(室町)「廻国かいこく雑記エムゾネ
ざっき」宗牧そうぼく(室町)「東国とうごく紀行きこう」紹巴
じょうは(室町)「富士見ふじみ道記みちのき」小堀遠州こぼり
えんしゅう(江戸)「東海道紀行とうかいどうきこう」浅井了意
あさいりょうい(江戸)「東海道名所記とうかいどうめいしエムゾ
ネょき」岩佐いわさ又兵衛またべえ(江戸)「迴国道の記」松尾
まつお芭蕉ばしょう(江戸)「野ざらし紀行」香川景樹かがわか
げき(江戸)「中空の日記」古川古松こしょう軒けん(江戸)「
東遊とうゆう雑記ざっき」藤とう惺せい梅ばい(江戸)「東海エム
ゾネ紀行」日記文学菅原孝標女すがわらのたかすえのむすめ(平
安)「更級さらしな日記」阿仏尼あぶつに(鎌倉)「十六夜日記
よ正ただ集」在原業平ありわらのなりひら(平エムゾネ安)「業平集」
藤原ふじわらの公きん任とう(平安)「公きん任とう集」藤原ふじ
わらの定家さだいえ(平安−鎌倉)「内裏名所百首」「名号みょう
ごう七字十題和歌」飛鳥あすか井い雅まさ経つね(平安−鎌倉)「
明日香あすか井い和歌集
894アマチュアながら当時の技術を駆使した大版写真を御成
婚25年記念に皇室に託した。〃岡田紅陽山梨・岡田紅陽写真
美術館忍野赤富士1894文字通り富士山の写真家。富士山の
あらゆる表情エムゾネを写真に収め、広めた。木版画萩原英雄山梨
県立美術館三十六富士1926本県出身の日本を代表する木版
画家。新しい視点からの富士山シリーズ。富士山の文学歴史書
「六りっ国史こくし」(奈良−平安)菅野すがのの真ま道みち
ら「続日本しょくにほエムゾネん紀ぎ」(平安)藤原通憲ふじわら
のみちのり「本朝ほんちょう世紀せいき」(平安)伝皇こう円
えん「扶桑ふそう略記りゃっき」(平安)※作者未詳「吾妻鏡
あづまかがみ」(鎌倉)斎藤月岑さいとうげっしん「武江ぶこ
う年表ねんぴょう」(江戸)風エムゾネ土記元明天皇げんめいてん
のう詔「常陸ひたち国のくに風土記」(奈良)談話集景戒きょ
うかい「日本にほん霊異記りょういき」(平安)※作者未詳「
今昔こんじゃく物語集ものがたりしゅう」(平安)和歌集大伴
家持おおとものやかもち「万葉集まんよエムゾネうしゅう」(奈良
)紀淑望きのよしもち・紀貫之きのつらゆき「古今和歌集こき
んわかしゅう」(平安)村上むらかみ天皇てんのう「後撰和ご
せんわ歌集かしゅう」(平安)後鳥羽ごとば上皇じょうこう「
新古今和歌集しんこきんわかしゅう」(鎌倉)後エムゾネ鳥羽院ご
とばいん「最勝さいしょう四天王院してんのういん障子しょう
じ和歌わか」(鎌倉)藤原長清「夫木和歌抄ふぼくわかしょう
」(鎌倉)藤原ふじわらの為ため明あきら「新拾遺和しんしゅ
ういわ歌集かしゅう」(室町)25記録・紀行文都良香みエムゾネ
やこのよしか(平安)「富士山記ふじさんき」※作者不詳(鎌
倉)「海道記かいどうき」※作者不詳(鎌倉)「東関紀行とう
かんきこう」飛鳥井あすかい雅世まさよ(室町)「富士紀行ふ
じきこう」堯孝ぎょうこう(室町)「覧らん富士記ふじき」堯
いざよいにっき」「うたたね」後ご深ふか草院くさいんの二条に
じょう(鎌倉)「とはずがたり」賀茂真淵かものまぶち(江戸)
エムゾネ「岡部日記おかべにっき」永井ながい荷風かふう(江戸−
昭和)「大窪だより」伝説・物語※作者不詳「竹取たけとり物語
ものがたり」(平安)※作者不詳「伊勢いせ物語ものがたり」(
平安)紫式部むらさきしきぶ「源氏げんじ物語ものがたり(若紫
わエムゾネかむらさき)」(平安)藤原兼輔ふじわらのかねすけ「
聖徳太子伝暦しょうとくたいしでんりゃく」(平安)※作者不詳
(平安)「平中へいちゅう物語ものがたり」「平家へいけ物語も
のがたり」(鎌倉)※未詳「曽我そがの物語ものがたり」(鎌倉
)※エムゾネ作者不詳「源平げんぺい盛衰記せいすいき」(鎌倉)
※未詳「承久記じょうきゅうき」(鎌倉)浅井あさい了りょう意
い「東海道名所記」(江戸)能(謡曲)伝世阿弥ぜあみ原作(室
町)「富士山ふじさん」※未詳(室町)「羽衣はごろも」御伽草
紙「富エムゾネ士の人穴ひとあな草紙ぞうし」(江戸)仮名草紙※
作者不詳(江戸)「竹斎ちくさい」滑稽本十返舎一九じっぺんし
ゃいっく(江戸)「東海道中膝栗毛とうかいどうちゅうひざくり
げ」仮名垣魯文かなかきろぶん(江戸−明治)「滑稽富士詣こっ
けいふじエムゾネもうで」26浄瑠璃近松門ちかまつもん左ざ衛門
えもん(江戸)「聖徳太子絵伝記」竹田たけだ出雲いずも・三好
松洛みよししょうらく・並木千柳なみきせんりゅう(江戸)「仮
名かな手本でほん忠臣蔵ちゅうしんぐら」童謡巌谷いわや小波さ
ざなみ(明エムゾネ治−大正)「富士山ふじさん」(「ふじの山」
)海野うんの厚あつし(明治−昭和)「背せいくらべ」随想・随
筆新井あらい白石はくせき(江戸)「折おりたく柴しばの記」田
山たやま花袋かたい(明治−昭和)「富士を望む」小島烏水こじ
まうすい(明エムゾネ治−昭和)「すたれ行く富士の古道」、「不
二山ふじさん」永井ながい荷風かふう(明治−昭和)「日和ひよ
恵ぎエムゾネょうえ(室町)「北国紀行ほっこくきこう」※作者不
詳(室町)「富士御覧日記ふじごらんにっき」道興どうこう(
室町)「廻国かいこく雑記ざっき」宗牧そうぼく(室町)「東
国とうごく紀行きこう」紹巴じょうは(室町)「富士見ふじみ
道記みちのきエムゾネ」小堀遠州こぼりえんしゅう(江戸)「東海
道紀行とうかいどうきこう」浅井了意あさいりょうい(江戸)
「東海道名所記とうかいどうめいしょき」岩佐いわさ又兵衛ま
り下駄げた」太宰だざい治おさむ(明治−昭和)「富嶽百景ふが
くひゃっけい」大町桂月おおまちけいげつ(明治−大正)「富士
の大観」中村星エムゾネ湖なかむらせいこ(明治−昭和)「少年行
しょうねんこう」北村きたむら透谷とうこく(明治)「富嶽ふが
くの詩し神しんを思おもふ」深田ふかだ久弥きゅうや(明治−昭
和)「日本にほん百名山ひゃくめいざん」小説落合直文おちあい
なおぶみ(江戸−エムゾネ明治)「たかねの雪ゆき」夏目漱石なつ
めそうせき(明治−大正)「三四郎さんしろう」「虞美人草ぐび
じんそう」泉鏡花(明治−昭和)「婦おんな系図けいず」「春し
ゅん昼ちゅう」「春しゅん昼ちゅう後刻ごこく」徳富とくとみ蘆
花ろか(明治−昭和エムゾネ)「冨士ふじ」「自然しぜんと人生じ
んせい」(随筆)永井ながい荷風かふう(明治−昭和)「新帰朝
者日記」橋本英吉はしもとえいきち(明治−昭和)「富士山頂ふ
じさんちょう」井伏鱒二いぶせますじ(明治−平成)「岳麓点描
がくろくてんびょう」エムゾネ武田泰淳たけだたいじゅん(大正−
昭和)「富士ふじ」武田百合子たけだゆりこ(大正−昭和)「富
士日記ふじにっき」新田にった次郎じろう(大正−昭和)「強力
伝ごうりきでん」「怒いかる富ふ士じ」「芙蓉ふようの人ひと」
「富士ふじに死しす」「エムゾネ着氷ちゃくひょう」「冬山ふゆや
まの掟おきて」「富士ふじ山頂さんちょう」川端康成かわばたや
すなり(明治−昭和)「東海道とうかいどう」白井喬二しらいき
ょうじ(明治−昭和)「富士ふじに立たつ影かげ」国枝くにえだ
史郎しろう(明治−昭和)エムゾネ「神州纐纈城しんしゅうこうけ
つじょう」松本まつもと清せい張ちょう(明治−昭和)「波なみ
の塔とう」芹沢光せりざわこう治じ良ろう(明治−平成)「我が
入道にゅうどう」「人間にんげんの運命うんめい」幸田文こうだ
あや(明治−平成)「崩くずエムゾネれ」27詩歌伝柿本かきのも
との人麻呂ひとまろ(飛鳥−奈良)「柿本集」山部赤人やまべの
明治−昭和)「旗」「変身」渡辺エムゾネわたなべ水すい巴は(明治−
昭和)「富士」加藤楸邨かとうしゅうそん(明治−平成)「寒雷」
「慟哭」「都塵抄」「雪後の天」293.登録の価値証明a)評価
基準への適合性証明1)条約上の遺産種別「富士山」は、世界遺産
条約第1条及び『世界遺エムゾネ産条約履行のための作業指針』(以下
、『作業指針』という。)第45項に規定にする「記念工作物」、
「建造物群」及び「遺跡」に該当する。2)評価基準への適合性証
明以下に示す理由に基づき、「富士山」には、世界遺産一覧表への
記載のための評エムゾネ価基準のうち(B)、(C)、(E)が適用で
きる。評価基準(B)現存するか消滅しているかにかかわらず、あ
る文化的伝統又は文明の存在を伝承する物証として無二の存在(少
なくとも希有な存在)である。評価基準(B)の適用富士山では神
聖なるエムゾネ気持ちを喚起する自然環境を背景とし、山頂への参詣な
どの特徴を持った山に対する宗教的な儀礼・活動が成立し、18〜
19世紀にかけて大規模な大衆による宗教的登山の代表的存在とな
った。山体とその周辺の地域には、体系化された儀礼・活動の場エムソ
゙ネとなった神社、登山道、及びその沿道に分布する関連遺跡群、霊
地・巡礼地となった風穴・湧水地・湖沼などが残されている。そこ
での儀礼や活動を通じて、人々の生活の中に富士山に対する信仰の
核心が継承されている。また、今日でも富士山は日本をエムゾネ代表し
象徴する最高峰として老若男女を問わず憧れ親しむ「名山」である
。したがって、富士山は山頂への参詣という形態を中心とし、時代
を超えて今日まで継承された山に対する固有の文化的伝統を顕著に
表わす物証として稀有な存在である。・日本にエムゾネおける山に対す
る固有の文化的伝統を顕著に表わす物証富士山の山頂部一帯は、山
に対する日本の宗教観と
たべえ(江戸)「迴国道の記」松尾まつお芭蕉ばしょう(江戸
)「野ざらし紀行」香エムゾネ川景樹かがわかげき(江戸)「中空
の日記」古川古松こしょう軒けん(江戸)「東遊とうゆう雑記
ざっき」藤とう惺せい梅ばい(江戸)「東海紀行」日記文学菅
原孝標女すがわらのたかすえのむすめ(平安)「更級さらしな
日記」阿仏尼あぶつに(鎌倉)エムゾネ「十六夜日記いざよいにっ
き」「うたたね」後ご深ふか草院くさいんの二条にじょう(鎌
倉)「とはずがたり」賀茂真淵かものまぶち(江戸)「岡部日
記おかべにっき」永井ながい荷風かふう(江戸−昭和)「大窪
だより」伝説・物語※作者不詳「竹取たエムゾネけとり物語ものが
たり」(平安)※作者不詳「伊勢いせ物語ものがたり」(平安
)紫式部むらさきしきぶ「源氏げんじ物語ものがたり(若紫わ
かむらさき)」(平安)藤原兼輔ふじわらのかねすけ「聖徳太
子伝暦しょうとくたいしでんりゃく」(平安)※エムゾネ作者不詳
(平安)「平中へいちゅう物語ものがたり」「平家へいけ物語
ものがたり」(鎌倉)※未詳「曽我そがの物語ものがたり」(
鎌倉)※作者不詳「源平げんぺい盛衰記せいすいき」(鎌倉)
※未詳「承久記じょうきゅうき」(鎌倉)浅井あさい了りエムゾネ
ょう意い「東海道名所記」(江戸)能(謡曲)伝世阿弥ぜあみ
原作(室町)「富士山ふじさん」※未詳(室町)「羽衣はごろ
も」御伽草紙「富士の人穴ひとあな草紙ぞうし」(江戸)仮名
草紙※作者不詳(江戸)「竹斎ちくさい」滑稽本十返舎一九じ
っぺエムゾネんしゃいっく(江戸)「東海道中膝栗毛とうかいどう
ちゅうひざくりげ」仮名垣魯文かなかきろぶん(江戸−明治)
「滑稽富士詣こっけいふじもうで」26浄瑠璃近松門ちかまつ
もん左ざ衛門えもん(江戸)「聖徳太子絵伝記」竹田たけだ出
雲いずも・三エムゾネ好松洛みよししょうらく・並木千柳なみきせ
んりゅう(江戸)「仮名かな手本でほん忠臣蔵ちゅうしんぐら
あかひと(奈良)「万葉集まんようしゅう」高橋たかはしの虫む
し麻呂まろ(奈良)「高橋虫麻呂たかはしのむしまろ歌集」藤原
ふじわらの清きよ正ただ(平安エムゾネ)「清きよ正ただ集」在原
業平ありわらのなりひら(平安)「業平集」藤原ふじわらの公き
ん任とう(平安)「公きん任とう集」藤原ふじわらの定家さだい
え(平安−鎌倉)「内裏名所百首」「名号みょうごう七字十題和
歌」飛鳥あすか井い雅まさ経つねエムゾネ(平安−鎌倉)「明日香
った山麓の浅間神社における遥拝活動とともに、以下の絵図(類似
の登山案内図が数多く作成された)に示されたように、雲上の神仏
の世界へ一定の儀礼に従って参詣する「登拝」を中心に、富士山体
・周辺にある富士山の火山活エムゾネ動によって生成され神聖な意味を
持つとされた風穴・溶岩樹型・湖沼・滝・湧水地などを巡礼し、修
行することで治病・除災などの超自然的力を獲得し、罪や穢れを消
して生まれ変わる(擬死再生)と考える「富士山禅定」(※2)と
呼ばれる行為(儀礼エムゾネ・活動)が成立し、18〜19世紀にかけ
て富士山は体系化された登拝のための宗教施設も含め、大規模な大
衆による宗教的登山を代表する存在となっていた。このような自然
への畏敬という日本の宗教観の根本を基盤とし、神仙思想(道教)
や仏教(特エムゾネに密教)なとど融合した日本独特の山岳信仰を代表
する遥拝及び登拝・登山の様式は今日でも命脈を保ち、特に夏季を
中心に訪れる外国人を含む多くの登山客とともに富士登山の特徴を
成している。また、信仰の核心部分は各地の浅間神社に対する信仰
やエムゾネ今日も続く宗教的な儀礼・活動によって受け継がれ、富士山
は日本を代表する神聖な山として知られている。(※1)この神は
、1868年の神仏分離令まで神仏習合の影響を受け仏の化身と考
えられていた。また、この神は一つの神に限定されず、信仰エムゾネの
種類や時代ごとに異なる性格と名称を持ついくつかの神または仏が
信仰されていた。(※2)「禅定」とは本来は心を静めて一つの対
象に集中する宗教的瞑想・状態、あるいはその結果仏と一体化する
ことを示す言葉であり、その後、主に修験道においエムゾネて富士山な
どの霊山に登って修行することも意味するようになった。写真「絹
本著色冨士曼荼羅図」(部分:16世紀ごろ)30「絹本著色冨士
曼荼羅図」(16世紀ご
」童謡巌谷いわや小波さざなみ(明治−大正)「富士山ふじさ
ん」(「ふじの山」)海野うんの厚あつし(明治−昭和)「背
せいくらべ」随想・随エムゾネ筆新井あらい白石はくせき(江戸)
「折おりたく柴しばの記」田山たやま花袋かたい(明治−昭和
)「富士を望む」小島烏水こじまうすい(明治−昭和)「すた
れ行く富士の古道」、「不二山ふじさん」永井ながい荷風かふ
う(明治−昭和)「日和ひよりエムゾネ下駄げた」太宰だざい治お
さむ(明治−昭和)「富嶽百景ふがくひゃっけい」大町桂月お
おまちけいげつ(明治−大正)「富士の大観」中村星湖なかむ
らせいこ(明治−昭和)「少年行しょうねんこう」北村きたむ
ら透谷とうこく(明治)「富嶽ふがくのエムゾネ詩し神しんを思お
もふ」深田ふかだ久弥きゅうや(明治−昭和)「日本にほん百
名山ひゃくめいざん」小説落合直文おちあいなおぶみ(江戸−
明治)「たかねの雪ゆき」夏目漱石なつめそうせき(明治−大
正)「三四郎さんしろう」「虞美人草ぐびじんそエムゾネう」泉鏡
花(明治−昭和)「婦おんな系図けいず」「春しゅん昼ちゅう
」「春しゅん昼ちゅう後刻ごこく」徳富とくとみ蘆花ろか(明
治−昭和)「冨士ふじ」「自然しぜんと人生じんせい」(随筆
)永井ながい荷風かふう(明治−昭和)「新帰朝者日記」エムゾネ
橋本英吉はしもとえいきち(明治−昭和)「富士山頂ふじさん
ちょう」井伏鱒二いぶせますじ(明治−平成)「岳麓点描がく
ろくてんびょう」武田泰淳たけだたいじゅん(大正−昭和)「
富士ふじ」武田百合子たけだゆりこ(大正−昭和)「富士日記
ふじエムゾネにっき」新田にった次郎じろう(大正−昭和)「強力
伝ごうりきでん」「怒いかる富ふ士じ」「芙蓉ふようの人ひと
」「富士ふじに死しす」「着氷ちゃくひょう」「冬山ふゆやま
の掟おきて」「富士ふじ山頂さんちょう」川端康成かわばたや
すなり(明治エムゾネ−昭和)「東海道とうかいどう」白井喬二し
あすか井い和歌集」藤原ふじわらの俊とし成なり(平安−鎌倉)
「(藤原兼ふじわらのかね実ざね)右う大臣家だいじんけ百首ひ
ゃくしゅ」「五社百首」「丹後守為忠朝臣家百首」慈じ円えん(
平安−鎌倉)「拾玉集」西行さいぎエムゾネょう(鎌倉)「新古今
和歌集しんこきんわかしゅう」源実朝みなもとのさねとも(鎌倉
)「金槐和歌集きんかいわかしゅう」阿仏あぶつ尼に(鎌倉)「
安嘉門院あんかもんいんの四条しじょう五百首ごひゃくしゅ」万
里ばんり集九しゅうきゅう(室町)「エムゾネ梅香無尽蔵」堯ぎょ
う恵え(室町)「下葉和歌集」水無瀬みなせ氏成うじなり(安土
桃山−江戸)「水無瀬殿富士百首」清水浜臣しみずはまおみ(江
戸)田安宗たやすむね武たけ(江戸)「悠然院様御詠草」林羅山
はやしらざん(江戸)「丙辰へいしん紀エムゾネ行」石川いしかわ
丈山じょうざん(江戸)加藤枝かとうえ直なお(江戸)「うけら
が花」賀茂真淵かものまぶち(江戸)「賀茂翁家集」本居宣もと
おりのり長なが(江戸)「石いその上稿かみこう」「鈴屋すずの
や集」契沖けいちゅう(江戸)「詠富士山エムゾネ百首和歌」村田
むらた春海はるみ(江戸)琴後ことじり集」島木赤彦しまぎあか
ひこ(明治−大正)土井どい晩翠ばんすい(明治−昭和)「大敵
迫る」斉藤さいとう茂吉もきち(明治−昭和)「赤光」「箱根路
」前田まえだ夕暮ゆうぐれ(明治−昭和)「エムゾネ富士を歌ふ」
若山わかやま牧水ぼくすい(明治−昭和)「海の声」北原きたは
ら白秋はくしゅう(明治−昭和)「雲母集」「不尽抄」金子かね
こ光晴みつはる(明治−昭和)「富士」「五つの湖」草野心平く
さのしんぺい(明治−昭和)「富士山」小野おエムゾネの十とお三
郎ざぶろう(明治−平成)「重油富士」「風景詩抄」28俳句松
尾まつお芭蕉ばしょう(江戸)「奥の細道」与謝蕪村よさぶそん
(江戸)小林こばやし一茶いっさ(江戸)蝶夢ちょうむ(江戸)
「宇良うら富士紀行」正岡まさおか子規しき(明エムゾネ治)高浜
富士山信仰の形成の中で神社等の建築群・登山道・宗教施設を経て
山頂に参詣する体系化された宗教的儀礼・活動が15〜16世紀に
かけて発達し、18〜19世紀にエムゾネかけて完成された。この過程
において、日本における山に対する固有の文化的伝統や富士山によ
り生み出された芸術活動
らいきょうじ(明治−昭和)「富士ふじに立たつ影かげ」国枝
くにえだ史郎しろう(明治−昭和)「神州纐纈城しんしゅうこ
うけつじょう」松本まつもと清せい張ちょう(明治−昭和)「
波なみの塔とう」芹沢エムゾネ光せりざわこう治じ良ろう(明治−
平成)「我が入道にゅうどう」「人間にんげんの運命うんめい
」幸田文こうだあや(明治−平成)「崩くずれ」27詩歌伝柿
本かきのもとの人麻呂ひとまろ(飛鳥−奈良)「柿本集」山部
赤人やまべのあかひと(奈良)エムゾネ「万葉集まんようしゅう」
高橋たかはしの虫むし麻呂まろ(奈良)「高橋虫麻呂たかはし
のむしまろ歌集」藤原ふじわらの清きよ正ただ(平安)「清き
よ正ただ集」在原業平ありわらのなりひら(平安)「業平集」
藤原ふじわらの公きん任とう(平安)「エムゾネ公きん任とう集」
藤原ふじわらの定家さだいえ(平安−鎌倉)「内裏名所百首」
「名号みょうごう七字十題和歌」飛鳥あすか井い雅まさ経つね
(平安−鎌倉)「明日香あすか井い和歌集」藤原ふじわらの俊
とし成なり(平安−鎌倉)「(藤原兼ふじわらのエムゾネかね実ざ
ね)右う大臣家だいじんけ百首ひゃくしゅ」「五社百首」「丹
後守為忠朝臣家百首」慈じ円えん(平安−鎌倉)「拾玉集」西
行さいぎょう(鎌倉)「新古今和歌集しんこきんわかしゅう」
源実朝みなもとのさねとも(鎌倉)「金槐和歌集きんかいエムゾネ
わかしゅう」阿仏あぶつ尼に(鎌倉)「安嘉門院あんかもんい
んの四条しじょう五百首ごひゃくしゅ」万里ばんり集九しゅう
きゅう(室町)「梅香無尽蔵」堯ぎょう恵え(室町)「下葉和
歌集」水無瀬みなせ氏成うじなり(安土桃山−江戸)「水無瀬
殿富エムゾネ士百首」清水浜臣しみずはまおみ(江戸)田安宗たや
すむね武たけ(江戸)「悠然院様御詠草」林羅山はやしらざん
(江戸)「丙辰へいしん紀行」石川いしかわ丈山じょうざん(
江戸)加藤枝かとうえ直なお(江戸)「うけらが花」賀茂真淵
虚子たかはまきょし(明治−昭和)飯田いいだ蛇笏だこつ(明治
−昭和)「山りょ集」富安風生とみやすふうせい(明治−昭和)
水原みずはら秋桜子しゅうおうし(明治−昭和)「葛飾」永井な
がい荷風かふう(明治−昭和)「名所方角集」西東エムゾネさいと
う三鬼さんき(明治−昭和)「旗」「変身」渡辺わたなべ水すい
巴は(明治−昭和)「富士」加藤楸邨かとうしゅうそん(明治−
平成)「寒雷」「慟哭」「都塵抄」「雪後の天」293.登録の
価値証明a)評価基準への適合性証明1)条約上の遺エムゾネ産種
別「富士山」は、世界遺産条約第1条及び『世界遺産条約履行の
ための作業指針』(以下、『作業指針』という。)第45項に規
定にする「記念工作物」、「建造物群」及び「遺跡」に該当する
。2)評価基準への適合性証明以下に示す理由に基づきエムゾネ、
「富士山」には、世界遺産一覧表への記載のための評価基準のう
ち(B)、(C)、(E)が適用できる。評価基準(B)現存す
るか消滅しているかにかかわらず、ある文化的伝統又は文明の存
在を伝承する物証として無二の存在(少なくとも希有な存エムゾネ
在)である。評価基準(B)の適用富士山では神聖なる気持ちを
喚起する自然環境を背景とし、山頂への参詣などの特徴を持った
山に対する宗教的な儀礼・活動が成立し、18〜19世紀にかけ
て大規模な大衆による宗教的登山の代表的存在となった。山エムゾ
ネ体とその周辺の地域には、体系化された儀礼・活動の場となっ
た神社、登山道、及びその沿道に分布する関連遺跡群、霊地・巡
礼地となった風穴・湧水地・湖沼などが残されている。そこでの
儀礼や活動を通じて、人々の生活の中に富士山に対する信仰のエム
ゾネ核心が継承されている。また、今日でも富士山は日本を代表
し象徴する最高峰として老若男女を問わず憧れ親しむ「名山」で
ある。したがって、富士山は山頂への参詣という形態を中心とし
、時代を超えて今日まで継承された山に対する固有の文化的伝統
により、多くの人々に富士山が神聖な山であるとの認識がより強固
に定着し、日本写真上図拡大部分宗教施設水垢離場における山と人
間の良好な関係の形成に影響を与えた。したがって、富士山への信
仰の形成過程をエムゾネ通じて定着した富士山の景観認識は近代工業社
会以前の段階における山と人間との精神的関係を表す景観の顕著な
見本である。・山と人間との精神的な関係を表す景観の顕著な見本
富士山では噴火が沈静化した12世紀ごろから山頂への宗教的登山
が開始エムゾネされ、15〜16世紀には「富士山禅定」と呼ばれた登
拝様式が整い、大衆にも拡大した。この過程で富士山は、矮小な存
在である人間が山麓の草原地帯(「草山」、「カヤ原」などと呼ば
れた)にある神社・水垢離場で身を清め、森林地帯(「木山」、エムソ
゙ネ「深山」などと呼ばれた)の山中の宗教施設等を順に経ながら、
砂礫地帯(「焼山」、「ハゲ山」などと呼ばれた)の神仏の世界あ
るいは他界に至るイメージで認知されるようになり、同時期に絵画
や文学作品において典型的な富士山像が成立したことをエムゾネ背景に
、「絹本著色冨士曼荼羅図」を代表例とする信仰上の景観認識が成
立した。17世紀以降はこれらの典型的な認識を基に、さらに多様
な信仰上の認識(※3)が模索され、「富士講」と呼ばれる富士山
信仰集団の隆盛や交流人口の拡大などにより、エムゾネ18世紀後半か
ら19世紀にかけてほとんどの日本人に富士山の神聖な山としての
景観認識が定着した(※4)。この認識は近代工業社会の自然に対
する考え方が一般化する以前の山と人間との良好な精神的関係を示
すものであった。、31(※3)富士エムゾネ山は神仙思想における不
老不死の象徴である「蓬莱山」や仏教における世界の中心である「
須弥山」に見立てられた。また、主に18世紀後半より富士山の信
仰上の景観認識を立体化
かものまぶちエムゾネ(江戸)「賀茂翁家集」本居宣もとおりのり
長なが(江戸)「石いその上稿かみこう」「鈴屋すずのや集」
契沖けいちゅう(江戸)「詠富士山百首和歌」村田むらた春海
はるみ(江戸)琴後ことじり集」島木赤彦しまぎあかひこ(明
治−大正)土井どい晩エムゾネ翠ばんすい(明治−昭和)「大敵迫
る」斉藤さいとう茂吉もきち(明治−昭和)「赤光」「箱根路
」前田まえだ夕暮ゆうぐれ(明治−昭和)「富士を歌ふ」若山
エムゾネを顕著に表わす物証として稀有な存在である。・日本にお
ける山に対する固有の文化的伝統を顕著に表わす物証富士山の山
頂部一帯は、山に対する日本の宗教観とその秀麗な姿、及び10
世紀頃まで盛んであった火山活動などに基づき神仏の世界、ある
いエムゾネは他界(死後世界)とされてきた。このため富士山では
富士山の神(※1)を祀った山麓の浅間神社における遥拝活動と
ともに、以下の絵図(類似の登山案内図が数多く作成された)に
示されたように、雲上の神仏の世界へ一定の儀礼に従って参詣す
る「エムゾネ登拝」を中心に、富士山体・周辺にある富士山の火山
活動によって生成され神聖な意味を持つとされた風穴・溶岩樹型
・湖沼・滝・湧水地などを巡礼し、修行することで治病・除災な
どの超自然的力を獲得し、罪や穢れを消して生まれ変わる(擬死
再生)エムゾネと考える「富士山禅定」(※2)と呼ばれる行為(
儀礼・活動)が成立し、18〜19世紀にかけて富士山は体系化
された登拝のための宗教施設も含め、大規模な大衆による宗教的
登山を代表する存在となっていた。このような自然への畏敬とい
う日本のエムゾネ宗教観の根本を基盤とし、神仙思想(道教)や仏
教(特に密教)なとど融合した日本独特の山岳信仰を代表する遥
拝及び登拝・登山の様式は今日でも命脈を保ち、特に夏季を中心
に訪れる外国人を含む多くの登山客とともに富士登山の特徴を成
している。エムゾネまた、信仰の核心部分は各地の浅間神社に対す
る信仰や今日も続く宗教的な儀礼・活動によって受け継がれ、富
士山は日本を代表する神聖な山として知られている。(※1)こ
の神は、1868年の神仏分離令まで神仏習合の影響を受け仏の
化身と考えらエムゾネれていた。また、この神は一つの神に限定さ
れず、信仰の種類や時代ごとに異なる性格と名称を持ついくつか
の神または仏が信仰されていた。(※2)「禅定」とは本来は心
を静めて一つの対象に集中する宗教的瞑想・状態、あるいはその
山の信仰上の景観認識を描いた宗教画が配布されるとともに、縁起
の良いものとして富士山やその図像を拝したり、眺めることが行わ
れた。右「富士山のエムゾネゾーニング」左「三尊九尊図」評価基準(
E)顕著な普遍的意義を有する出来事(行事)、生きた伝統、思想
、信仰、芸術的作品、あるいは文学的作品と直接または実質的関連
がある(この基準は他の基準とあわせて用いられることが望ましい
)。評価基エムゾネ準(E)の適用富士山と周辺の特徴的な自然が醸成
する優秀な景観美や火山としての活動は、日本人の山に対する信仰
の形成の一翼を担い、今日まで継承されている山頂への遥拝と参詣
を中心とした文化的伝統は、アジア地域に顕著である山を神聖視す
るエムゾネ文化と深い関りを有している。写真写真焼山(ハゲ山)木山
(深山)草山(カヤ原)32また、これらの富士山の特色は古くか
ら様々な芸術活動の母胎ともなり、「万葉集」や「竹取物語」をは
じめとする日本固有の和歌、俳句、物語文学やこれらを主題エムゾネと
する絵画などの対象として日本人に良く知られていた。特に富士山
を題材にした「浮世絵」などは海外にも広く知られ、近現代の西洋
芸術に様々な影響を与えてきた。したがって、富士山は、顕著な普
遍的意義を持つ生きた伝統、芸術的作品・文学的作エムゾネ品と直接的
・実質的に関連がある景観である。・顕著な普遍的意義を持つ生き
た伝統との直接的・実質的関連アジア地域、特に東アジア地域では
特異な形態を持った山岳の空間を神聖視し、仏教(特に密教)や道
教(神仙思想)、儒教と結びついて修行のエムゾネ場や宗教施設を設置
する場とした。これらの伝統は6世紀〜8世紀を中心に日本に伝え
られ、日本固有の山岳信仰や神道と結びつき修験道などの信仰を生
んだ。現在の富士山においてはこれらの信仰の核心部分が登拝など
の形態や儀式に伝えられ
わかやま牧水ぼくすい(明治−昭和)「海の声」北原きたはら
白秋はくしゅう(明治−昭和)エムゾネ「雲母集」「不尽抄」金子
かねこ光晴みつはる(明治−昭和)「富士」「五つの湖」草野
心平くさのしんぺい(明治−昭和)「富士山」小野おの十とお
三郎ざぶろう(明治−平成)「重油富士」「風景詩抄」28俳
句松尾まつお芭蕉ばしょう(江戸)「奥エムゾネの細道」与謝蕪村
よさぶそん(江戸)小林こばやし一茶いっさ(江戸)蝶夢ちょ
うむ(江戸)「宇良うら富士紀行」正岡まさおか子規しき(明
治)高浜虚子たかはまきょし(明治−昭和)飯田いいだ蛇笏だ
こつ(明治−昭和)「山りょ集」富安風生とみやエムゾネすふうせ
い(明治−昭和)水原みずはら秋桜子しゅうおうし(明治−昭
和)「葛飾」永井ながい荷風かふう(明治−昭和)「名所方角
集」西東さいとう三鬼さんき(明治−昭和)「旗」「変身」渡
辺わたなべ水すい巴は(明治−昭和)「富士」加藤楸邨かエムゾネ
とうしゅうそん(明治−平成)「寒雷」「慟哭」「都塵抄」「
雪後の天」293.登録の価値証明a)評価基準への適合性証
明1)条約上の遺産種別「富士山」は、世界遺産条約第1条及
び『世界遺産条約履行のための作業指針』(以下、『作業指針
』とエムゾネいう。)第45項に規定にする「記念工作物」、「建
造物群」及び「遺跡」に該当する。2)評価基準への適合性証
明以下に示す理由に基づき、「富士山」には、世界遺産一覧表
への記載のための評価基準のうち(B)、(C)、(E)が適
用できる。評エムゾネ価基準(B)現存するか消滅しているかにか
かわらず、ある文化的伝統又は文明の存在を伝承する物証とし
て無二の存在(少なくとも希有な存在)である。評価基準(B
)の適用富士山では神聖なる気持ちを喚起する自然環境を背景
とし、山頂への参詣なエムゾネどの特徴を持った山に対する宗教的
な儀礼・活動が成立し、18〜19世紀にかけて大規模な大衆
結果仏と一体化エムゾネすることを示す言葉であり、その後、主に
修験道において富士山などの霊山に登って修行することも意味す
るようになった。写真「絹本著色冨士曼荼羅図」(部分:16世
紀ごろ)30「絹本著色冨士曼荼羅図」(16世紀ごろ)評価基
準(C)歴史上のエムゾネ重要な段階を物語る建築物、その集合体
、科学技術の集合体、あるいは景観を代表する顕著な見本である
。評価基準(C)の適用富士山では、富士山信仰の形成の中で神
いる。したがって、富士山は顕著な普遍的価値を持つ生きた伝統と
直接的・実質的に関連がエムゾネある景観である。・顕著な普遍的意義
を持つ芸術作品との直接的・実質的関連独立峰である富士山の周囲
には湖や海と組み合わされた富士山の優れた景観を望む展望地があ
り、今日に至るまで多くの芸術作品を創造する場となった。これら
の富士山を題材エムゾネにした芸術作品のうち、最も海外に影響を与え
た作品は葛飾北斎の浮世絵「冨嶽三十六景」である。19世紀前半
に作成されたこの一連の作品は、日本の開国に伴い西洋に輸出され
、他の浮世絵とともにその構図や表現方法がジャポニスムと呼ばれ
た西洋エムゾネにおける日本芸術の流行を生み、モネ、ゴッホといった
印象派の画家に大きな影響を与え、アールヌーボーが発生する一因
となった。そのほか、富士山と三保松原を舞台に富士山に関わる伝
説をモチーフとした能(謡曲)「羽衣」は文学におけるモダニズエムソ
゙ネムに影響を与えた作品である。また、19世紀後半から20世紀
初頭にかけて、日本が万国博覧会などで意図的に出品した富士山を
題材にした絵画・工芸作品や、富士山を意匠に用いた日本の輸出品
は、富士山を描いた浮世絵や日本を訪れた外国人が富士エムゾネ山から
インスピレーションを得て記述した紀行文の文学的表現などととも
に多くの世界の人々に他の世界の著名な山と明確に区別される富士
山の景観イメージを広めることに貢献した。文学では海外に良く知
られた「万葉集」以来、数多くの和歌や俳句なエムゾネどによってその
崇高さや美しさが称えられ、近代以降も海外にも知られた文学者(
※夏目漱石「三四郎」・太宰治「富岳百景」など)によるものをは
じめ富士山を舞台とした作品が生み出された。写真写真左「神奈川
沖浪裏」右「凱風快晴」葛飾北斎「冨エムゾネ嶽三十六景」より(18
31〜36年)3
による宗教的登山の代表的存在となった。山体とその周辺の地
域には、体系化された儀礼・活動の場となった神社、登山道、
及びその沿道に分布する関連遺エムゾネ跡群、霊地・巡礼地となっ
た風穴・湧水地・湖沼などが残されている。そこでの儀礼や活
動を通じて、人々の生活の中に富士山に対する信仰の核心が継
承されている。また、今日でも富士山は日本を代表し象徴する
最高峰として老若男女を問わず憧れ親しエムゾネむ「名山」である
。したがって、富士山は山頂への参詣という形態を中心とし、
時代を超えて今日まで継承された山に対する固有の文化的伝統
を顕著に表わす物証として稀有な存在である。・日本における
山に対する固有の文化的伝統を顕著に表わす物証エムゾネ富士山の
山頂部一帯は、山に対する日本の宗教観とその秀麗な姿、及び
10世紀頃まで盛んであった火山活動などに基づき神仏の世界
、あるいは他界(死後世界)とされてきた。このため富士山で
は富士山の神(※1)を祀った山麓の浅間神社における遥エムゾネ
拝活動とともに、以下の絵図(類似の登山案内図が数多く作成
された)に示されたように、雲上の神仏の世界へ一定の儀礼に
従って参詣する「登拝」を中心に、富士山体・周辺にある富士
山の火山活動によって生成され神聖な意味を持つとされた風穴
・溶エムゾネ岩樹型・湖沼・滝・湧水地などを巡礼し、修行するこ
とで治病・除災などの超自然的力を獲得し、罪や穢れを消して
生まれ変わる(擬死再生)と考える「富士山禅定」(※2)と
呼ばれる行為(儀礼・活動)が成立し、18〜19世紀にかけ
て富士山は体エムゾネ系化された登拝のための宗教施設も含め、大
規模な大衆による宗教的登山を代表する存在となっていた。こ
のような自然への畏敬という日本の宗教観の根本を基盤とし、
神仙思想(道教)や仏教(特に密教)なとど融合した日本独特
の山岳信仰を代表するエムゾネ遥拝及び登拝・登山の様式は今日で
社等の建築群・登山道・宗教施設を経て山頂に参詣する体系化さ
れた宗教的儀礼・活エムゾネ動が15〜16世紀にかけて発達し、
18〜19世紀にかけて完成された。この過程において、日本に
おける山に対する固有の文化的伝統や富士山により生み出された
芸術活動を背景として、富士山の宗教施設、そこでの儀礼・活動
は富士山の自然環境とエムゾネ一体となって宗教的な意味を持つ景
観として認知され、これが宗教的絵画等で表現されることにより
、多くの人々に富士山が神聖な山であるとの認識がより強固に定
着し、日本写真上図拡大部分宗教施設水垢離場における山と人間
の良好な関係の形成に影エムゾネ響を与えた。したがって、富士山
への信仰の形成過程を通じて定着した富士山の景観認識は近代工
業社会以前の段階における山と人間との精神的関係を表す景観の
顕著な見本である。・山と人間との精神的な関係を表す景観の顕
著な見本富士山では噴火がエムゾネ沈静化した12世紀ごろから山
頂への宗教的登山が開始され、15〜16世紀には「富士山禅定
」と呼ばれた登拝様式が整い、大衆にも拡大した。この過程で富
士山は、矮小な存在である人間が山麓の草原地帯(「草山」、「
カヤ原」などと呼ばれた)にエムゾネある神社・水垢離場で身を清
め、森林地帯(「木山」、「深山」などと呼ばれた)の山中の宗
教施設等を順に経ながら、砂礫地帯(「焼山」、「ハゲ山」など
と呼ばれた)の神仏の世界あるいは他界に至るイメージで認知さ
れるようになり、同時期に絵画エムゾネや文学作品において典型的
な富士山像が成立したことを背景に、「絹本著色冨士曼荼羅図」
を代表例とする信仰上の景観認識が成立した。17世紀以降はこ
れらの典型的な認識を基に、さらに多様な信仰上の認識(※3)
が模索され、「富士講」と呼ばれエムゾネる富士山信仰集団の隆盛
や交流人口の拡大などにより、18世紀後半から19世紀にかけ
てほとんどの日本人に富士山の神聖な山としての景観認識が定着
つ。顕著な普遍的価値の言明エムゾネ富士山は、日本を代表し象徴する
日本最高峰(標高3776m)の秀麗な独立した火山として世界的
に著名であり、その自然的美しさと崇高さを基盤として日本人の自
然に対する信仰の在り方や、海外に影響を与えた葛飾北斎や歌川広
重などによる顕著なエム
も命脈を保ち、特に夏季を中心に訪れる外国人を含む多くの登
山客とともに富士登山の特徴を成している。また、信仰の核心
部分は各地の浅間神社に対する信仰や今日も続く宗教的な儀礼
・活動によって受け継がれ、富エムゾネ士山は日本を代表する神聖
な山として知られている。(※1)この神は、1868年の神
仏分離令まで神仏習合の影響を受け仏の化身と考えられていた
。また、この神は一つの神に限定されず、信仰の種類や時代ご
とに異なる性格と名称を持ついくつかのエムゾネ神または仏が信仰
されていた。(※2)「禅定」とは本来は心を静めて一つの対
象に集中する宗教的瞑想・状態、あるいはその結果仏と一体化
することを示す言葉であり、その後、主に修験道において富士
山などの霊山に登って修行することも意味するよエムゾネうになっ
た。写真「絹本著色冨士曼荼羅図」(部分:16世紀ごろ)3
0「絹本著色冨士曼荼羅図」(16世紀ごろ)評価基準(C)
歴史上の重要な段階を物語る建築物、その集合体、科学技術の
集合体、あるいは景観を代表する顕著な見本である。評価エムゾネ
基準(C)の適用富士山では、富士山信仰の形成の中で神社等
の建築群・登山道・宗教施設を経て山頂に参詣する体系化され
た宗教的儀礼・活動が15〜16世紀にかけて発達し、18〜
19世紀にかけて完成された。この過程において、日本におけ
る山エムゾネに対する固有の文化的伝統や富士山により生み出され
た芸術活動を背景として、富士山の宗教施設、そこでの儀礼・
活動は富士山の自然環境と一体となって宗教的な意味を持つ景
観として認知され、これが宗教的絵画等で表現されることによ
り、多くの人エムゾネ々に富士山が神聖な山であるとの認識がより
強固に定着し、日本写真上図拡大部分宗教施設水垢離場におけ
る山と人間の良好な関係の形成に影響を与えた。したがって、
富士山への信仰の形成過程を通じて定着した富士山の景観認識
した(※4)。この認識は近代工業社会の自然に対する考え方が
一般化する以前の山と人間との良好エムゾネな精神的関係を示すも
のであった。、31(※3)富士山は神仙思想における不老不死
の象徴である「蓬莱山」や仏教における世界の中心である「須弥
山」に見立てられた。また、主に18世紀後半より富士山の信仰
上の景観認識を立体化した「富士塚」エムゾネが東京を中心に建設
され、女性を含め山頂への登拝ができない人にとっての代参施設
となった。(※4)登拝者には登山口の浅間神社や御師の発行す
る富士山の信仰上の景観認識を描いた宗教画が配布されるととも
に、縁起の良いものとして富士山やそのエムゾネ図像を拝したり、
眺めることが行われた。右「富士山のゾーニング」左「三尊九尊
図」評価基準(E)顕著な普遍的意義を有する出来事(行事)、
生きた伝統、思想、信仰、芸術的作品、あるいは文学的作品と直
接または実質的関連がある(この基準は他エムゾネの基準とあわせ
て用いられることが望ましい)。評価基準(E)の適用富士山と
周辺の特徴的な自然が醸成する優秀な景観美や火山としての活動
は、日本人の山に対する信仰の形成の一翼を担い、今日まで継承
されている山頂への遥拝と参詣を中心としたエムゾネ文化的伝統は
、アジア地域に顕著である山を神聖視する文化と深い関りを有し
ている。写真写真焼山(ハゲ山)木山(深山)草山(カヤ原)3
2また、これらの富士山の特色は古くから様々な芸術活動の母胎
ともなり、「万葉集」や「竹取物語」をはじめエムゾネとする日本
固有の和歌、俳句、物語文学やこれらを主題とする絵画などの対
象として日本人に良く知られていた。特に富士山を題材にした「
浮世絵」などは海外にも広く知られ、近現代の西洋芸術に様々な
影響を与えてきた。したがって、富士山は、顕著エムゾネな普遍的
意義を持つ生きた伝統、芸術的作品・文学的作品と直接的・実質
的に関連がある景観である。・顕著な普遍的意義を持つ生きた伝
と極めて深い関連性を示し、生きた文化的伝統の物証であるのみな
らず、人間エムゾネと自然との良好で継続的な関係を示す景観の傑出し
た類型として、世界的にも類例を見ない顕著な普遍的価値を持つ山
である。富士山の山体とその周辺の地域には、宗教的な儀礼・活動
の場となった神社、登山道と関連遺跡群、霊地・巡礼地となった風
穴エムゾネ・湧水地・湖沼などが残され、そこでの儀礼や活動を通じて
、人々の生活の中に富士山に対する信仰の核心が継承されている。
また、富士山信仰の中で山体・樹叢・湖沼などの自然環境を基盤と
し、体系化された神社等の建築群・登山道・宗教施設を経てエムゾネ山
頂に参詣する宗教的な儀礼・活動が成立した。これが発展し、18
〜19世紀にかけて富士山は大規模な大衆による宗教的登山及びそ
の体系の典型的存在となり、この体系の核心は現代の登山に継承さ
れている。現在でも、富士山は日本を代表し象徴すエムゾネる最高峰と
して老若男女を問わず憧れ親しむ「名山」である。加えて、富士山
と周辺の特徴的な自然が醸成する美しさと崇高さは、信仰上の景観
として捉えられただけでなく、古くから様々な芸術活動の母胎とな
り、「万葉集」をはじめとする日本固有のエムゾネ和歌や俳句、絵画な
どの対象として日本人に良く知られていた。特に富士山を題材にし
た「浮世絵」などは海外にも広く知られ、近現代の西洋芸術に様々
な影響を与えてきたものである。さらに、これらの芸術と富士山や
その景観美を紹介した外国人の著エムゾネ作を通じて、富士山が一つの
国の文化を代表する「名山」であることは国際的に認知されるに至
っている。34写真写真本栖湖からの富士山三保松原からの富士山
c)比較検討による証明1)比較軸の特定富士山の顕著な普遍的価
値を表す要素を特定し、エムゾネ他の同種の遺産がそれらの要素に該当
するか否かを検討
は近代工業社会以前のエムゾネ段階における山と人間との精神的関
係を表す景観の顕著な見本である。・山と人間との精神的な関
係を表す景観の顕著な見本富士山では噴火が沈静化した12世
紀ごろから山頂への宗教的登山が開始され、15〜16世紀に
は「富士山禅定」と呼ばれた登エムゾネ拝様式が整い、大衆にも拡
大した。この過程で富士山は、矮小な存在である人間が山麓の
草原地帯(「草山」、「カヤ原」などと呼ばれた)にある神社
統との直接的・実質的関連アジア地域、特に東アジア地域では特
異な形態を持った山岳の空間を神聖視し、仏教(特エムゾネに密教
)や道教(神仙思想)、儒教と結びついて修行の場や宗教施設を
設置する場とした。これらの伝統は6世紀〜8世紀を中心に日本
に伝えられ、日本固有の山岳信仰や神道と結びつき修験道などの
信仰を生んだ。現在の富士山においてはこれらの信仰エムゾネの核
心部分が登拝などの形態や儀式に伝えられている。また、富士山
のみならず日本各地の山岳やアジア地域の山岳においても形態は
異なるとはいえ山を神聖視することをその根本に据えた文化的伝
統が数多く行われている。したがって、富士山は顕著なエムゾネ普
遍的価値を持つ生きた伝統と直接的・実質的に関連がある景観で
ある。・顕著な普遍的意義を持つ芸術作品との直接的・実質的関
連独立峰である富士山の周囲には湖や海と組み合わされた富士山
の優れた景観を望む展望地があり、今日に至るまで多くのエムゾネ
芸術作品を創造する場となった。これらの富士山を題材にした芸
術作品のうち、最も海外に影響を与えた作品は葛飾北斎の浮世絵
「冨嶽三十六景」である。19世紀前半に作成されたこの一連の
作品は、日本の開国に伴い西洋に輸出され、他の浮世絵ととエムゾ
ネもにその構図や表現方法がジャポニスムと呼ばれた西洋におけ
る日本芸術の流行を生み、モネ、ゴッホといった印象派の画家に
大きな影響を与え、アールヌーボーが発生する一因となった。そ
のほか、富士山と三保松原を舞台に富士山に関わる伝説をモチエム
ゾネーフとした能(謡曲)「羽衣」は文学におけるモダニズムに
影響を与えた作品である。また、19世紀後半から20世紀初頭
にかけて、日本が万国博覧会などで意図的に出品した富士山を題
材にした絵画・工芸作品や、富士山を意匠に用いた日本の輸出品
エムゾネは、富士山を描いた浮世絵や日本を訪れた外国人が富士山
からインスピレーションを得て記述した紀行文の文学的表現など
山頂への参詣なエムゾネどの特徴を持った山に対する宗教的な儀礼・活
動が成立し、山体とその周辺の地域には、神社、登山道、霊地・巡
礼地となった風穴・湧水地・湖沼などが残されている。そこでの儀
礼や活動を通じて、人々の生活の中に富士山に対する信仰の核心が
継承さエムゾネれている。(2)景観の顕著な見本:富士山体とその周
辺の景観は、類いまれな美しさ、神聖な空間として認知され、日本
における自然美の典型として、多くの人々に世界の山の中でも最も
著目なアイコンとして共有されている。(3)顕著な普遍的意義エムソ
゙ネを持つ芸術的作品との関連性:富士山の優れた景観美は、近現代
の西洋美術に影響を与えた芸術的作品などに「関連する景観」であ
る。信仰の山については、2001年9月に和歌山県で開催された
国際会議「アジア・太平洋地域における信仰の山の文化エムゾネ的景観
に関する専門家会議」(以下、「信仰の山会議」という)において
、信仰の山の認定及び保護に関する様々なテーマと問題が討議され
た。ここで、信仰の山の遺産としての価値は、有形的価値、無形的
価値の形態をとって現れるとされた。また、信エムゾネ仰の山の自然的
特性についても評価が可能とされた。信仰の山会議で示された指標
を参考に、富士山の顕著な普遍的価値を表す要素を勘案して、自然
的要素としては、「形状・標高」(独立峰かどうか、富士山と同程
度の標高か)、「岩盤や岩(洞窟を含エムゾネむ)・水域」「火山」(
火山であることに由来する特徴的な風穴・湧水地・湖沼などがある
か)、有形的価値としては、「洞窟」「歴史的な巡礼路又は参詣道
」「神社」「寺院」「眺望・展望地」がそれぞれ存在するかどうか
、無形的価値としては、「継エムゾネ続性」(崇拝儀礼などが今も行わ
れているか)、「存在」(山自体が信仰の対象か)、「慣習」(登
拝、遙拝を行っているか
・水垢離場で身を清め、森林地帯(「木山」、「深山」などと
呼ばれた)の山中の宗教施設等を順に経エムゾネながら、砂礫地帯
(「焼山」、「ハゲ山」などと呼ばれた)の神仏の世界あるい
は他界に至るイメージで認知されるようになり、同時期に絵画
や文学作品において典型的な富士山像が成立したことを背景に
、「絹本著色冨士曼荼羅図」を代表例とする信仰エムゾネ上の景観
認識が成立した。17世紀以降はこれらの典型的な認識を基に
、さらに多様な信仰上の認識(※3)が模索され、「富士講」
と呼ばれる富士山信仰集団の隆盛や交流人口の拡大などにより
、18世紀後半から19世紀にかけてほとんどの日本人にエムゾネ
富士山の神聖な山としての景観認識が定着した(※4)。この
認識は近代工業社会の自然に対する考え方が一般化する以前の
山と人間との良好な精神的関係を示すものであった。、31(
※3)富士山は神仙思想における不老不死の象徴である「蓬莱
山」エムゾネや仏教における世界の中心である「須弥山」に見立て
られた。また、主に18世紀後半より富士山の信仰上の景観認
識を立体化した「富士塚」が東京を中心に建設され、女性を含
め山頂への登拝ができない人にとっての代参施設となった。(
※4)登拝者エムゾネには登山口の浅間神社や御師の発行する富士
山の信仰上の景観認識を描いた宗教画が配布されるとともに、
縁起の良いものとして富士山やその図像を拝したり、眺めるこ
とが行われた。右「富士山のゾーニング」左「三尊九尊図」評
価基準(E)顕著な普エムゾネ遍的意義を有する出来事(行事)、
生きた伝統、思想、信仰、芸術的作品、あるいは文学的作品と
直接または実質的関連がある(この基準は他の基準とあわせて
用いられることが望ましい)。評価基準(E)の適用富士山と
周辺の特徴的な自然が醸成するエムゾネ優秀な景観美や火山として
の活動は、日本人の山に対する信仰の形成の一翼を担い、今日
とともに多くの世界の人々に他の世界の著名な山と明確に区別さ
れる富士山の景観イメージを広めることに貢献した。文学では海
外エムゾネに良く知られた「万葉集」以来、数多くの和歌や俳句な
どによってその崇高さや美しさが称えられ、近代以降も海外にも
知られた文学者(※夏目漱石「三四郎」・太宰治「富岳百景」な
ど)によるものをはじめ富士山を舞台とした作品が生み出された
。写エムゾネ真写真左「神奈川沖浪裏」右「凱風快晴」葛飾北斎「
あるか)、といった観点から、評価することとする。同様に、顕著
な普遍的意義を持つ芸術的作品との関連性については、山の景観美
が芸術作品を産み出す母胎となったかどうか、またそれらの作品群
が海外にもエムゾネ広く知られ、世界史に大きな影響を35与えたかど
うか、といった観点から、評価することとする。2)海外同種資産
の特定同種資産の特定にあたっては、評価基準に関するものとして
は、@「信仰の山会議」で信仰の山と紹介されている山岳、評価基
準エムゾネに関するものとしては、A世界遺産リストの概要で芸術への
明確な関連性が示されている山岳、B海外の専門家による研究書等
で芸術の山として紹介されている山岳等を抽出した。また、両方の
基準に関するものとしては、Cイコモスによる研究書「Fiエムゾネl
lingtheGaps」の類型別分析・テーマ別分析、D文化的
景観に関する研究書の分析を行った。具体的には、Bでは、の三つ
の文献を対象として資産を抽出した。Cでは、「文学・芸術への関
連性、演劇」、「聖なる山」、「アジア・太平洋地エムゾネ域の土着信
仰」に関する山岳等を抽出した。Dでは、ユネスコ世界遺産センタ
ーから刊行されたPeterJ.Fowler氏による研究書の中
で、山が特徴として挙げられている資産のうち、「美的資質」、「
集団のアイデンティティ」、「信仰、聖地エムゾネ、神聖性」の特徴を
持つ資産を抽出した。以上より、富士山の比較対象とする海外の同
種資産は表1の34件となる。その中では富士山との共通性のある
ものに、共通性の大きいものにがしてある。信仰面では、上記の無
形的側面での共通性があるもの、エムゾネ芸術面では山自体が絵画の題
材とされ、画派等を生むなど、美術史への影響力があるものを共通
性が大きいとしている。が付された比較対象について、1)で示し
た比較軸である信仰の物
まで継承されている山頂への遥拝と参詣を中心とした文化的伝
統は、アジア地域に顕著である山を神聖視する文化と深い関り
を有している。写真写真焼山(ハゲ山)エムゾネ木山(深山)草山
(カヤ原)32また、これらの富士山の特色は古くから様々な
芸術活動の母胎ともなり、「万葉集」や「竹取物語」をはじめ
とする日本固有の和歌、俳句、物語文学やこれらを主題とする
絵画などの対象として日本人に良く知られていたエムゾネ。特に富
士山を題材にした「浮世絵」などは海外にも広く知られ、近現
代の西洋芸術に様々な影響を与えてきた。したがって、富士山
は、顕著な普遍的意義を持つ生きた伝統、芸術的作品・文学的
作品と直接的・実質的に関連がある景観である。・顕著なエムゾネ
普遍的意義を持つ生きた伝統との直接的・実質的関連アジア地
域、特に東アジア地域では特異な形態を持った山岳の空間を神
聖視し、仏教(特に密教)や道教(神仙思想)、儒教と結びつ
いて修行の場や宗教施設を設置する場とした。これらの伝統は
6世エムゾネ紀〜8世紀を中心に日本に伝えられ、日本固有の山岳
信仰や神道と結びつき修験道などの信仰を生んだ。現在の富士
山においてはこれらの信仰の核心部分が登拝などの形態や儀式
に伝えられている。また、富士山のみならず日本各地の山岳や
アジア地域のエムゾネ山岳においても形態は異なるとはいえ山を神
聖視することをその根本に据えた文化的伝統が数多く行われて
いる。したがって、富士山は顕著な普遍的価値を持つ生きた伝
統と直接的・実質的に関連がある景観である。・顕著な普遍的
意義を持つ芸術作品とエムゾネの直接的・実質的関連独立峰である
富士山の周囲には湖や海と組み合わされた富士山の優れた景観
を望む展望地があり、今日に至るまで多くの芸術作品を創造す
る場となった。これらの富士山を題材にした芸術作品のうち、
最も海外に影響を与えた作品はエムゾネ葛飾北斎の浮世絵「冨嶽三
冨嶽三十六景」より(1831〜36年)33写真ゴッホ「タン
ギー爺さん」b)顕著な普遍的価値の証明a)において証明した
評価基準への適合性の証明の結果として、「富士山」は以下に記
す観点エムゾネから顕著な普遍的価値を持つ。顕著な普遍的価値の
言明富士山は、日本を代表し象徴する日本最高峰(標高3776
m)の秀麗な独立した火山として世界的に著名であり、その自然
的美しさと崇高さを基盤として日本人の自然に対する信仰の在り
方や、海エムゾネ外に影響を与えた葛飾北斎や歌川広重などによる
顕著な普遍的価値を持つ「浮世絵」などの日本独特の芸術文化を
育んだ「名山」である。富士山は、山岳に対する信仰の在り方や
芸術活動などを通じ、時代を超えて一国の文化の諸相と極めて深
い関連性をエムゾネ示し、生きた文化的伝統の物証であるのみなら
ず、人間と自然との良好で継続的な関係を示す景観の傑出した類
型として、世界的にも類例を見ない顕著な普遍的価値を持つ山で
ある。富士山の山体とその周辺の地域には、宗教的な儀礼・活動
の場となったエムゾネ神社、登山道と関連遺跡群、霊地・巡礼地と
なった風穴・湧水地・湖沼などが残され、そこでの儀礼や活動を
通じて、人々の生活の中に富士山に対する信仰の核心が継承され
ている。また、富士山信仰の中で山体・樹叢・湖沼などの自然環
境を基盤とし、エムゾネ体系化された神社等の建築群・登山道・宗
教施設を経て山頂に参詣する宗教的な儀礼・活動が成立した。こ
れが発展し、18〜19世紀にかけて富士山は大規模な大衆によ
る宗教的登山及びその体系の典型的存在となり、この体系の核心
は現代の登山に継エムゾネ承されている。現在でも、富士山は日本
を代表し象徴する最高峰として老若男女を問わず憧れ親しむ「名
山」である。加えて、富士山と周辺の特徴的な自然が醸成する美
しさと崇高さは、信仰上の景観として捉えられただけでなく、古
くから様々な芸術活エムゾネ動の母胎となり、「万葉集」をはじめ
4件)番号山名資産名評価基準国名信仰芸術1ウルル、カタ・ジュ
タウルル−カタ・ジュタ国立公園オーストラリア2サバラン山サバ
ラン−イラン3エムゾネスライマン−トースライマン−トー聖山キルギ
ス4プーカオ山チャンパサック県の文化的景観にあるワット・プー
と関連古代遺産群ラオス
十六景」である。19世紀前半に作成されたこの一連の作品は
、日本の開国に伴い西洋に輸出され、他の浮世絵とともにその
構図や表現方法がジャポニスムと呼ばれた西洋における日本芸
術の流行を生み、モネ、ゴッホといったエムゾネ印象派の画家に大
きな影響を与え、アールヌーボーが発生する一因となった。そ
のほか、富士山と三保松原を舞台に富士山に関わる伝説をモチ
ーフとした能(謡曲)「羽衣」は文学におけるモダニズムに影
響を与えた作品である。また、19世紀後半からエムゾネ20世紀
初頭にかけて、日本が万国博覧会などで意図的に出品した富士
山を題材にした絵画・工芸作品や、富士山を意匠に用いた日本
の輸出品は、富士山を描いた浮世絵や日本を訪れた外国人が富
士山からインスピレーションを得て記述した紀行文の文学エムゾネ
的表現などとともに多くの世界の人々に他の世界の著名な山と
明確に区別される富士山の景観イメージを広めることに貢献し
た。文学では海外に良く知られた「万葉集」以来、数多くの和
歌や俳句などによってその崇高さや美しさが称えられ、近代以
降もエムゾネ海外にも知られた文学者(※夏目漱石「三四郎」・太
宰治「富岳百景」など)によるものをはじめ富士山を舞台とし
た作品が生み出された。写真写真左「神奈川沖浪裏」右「凱風
快晴」葛飾北斎「冨嶽三十六景」より(1831〜36年)3
3写真ゴッホエムゾネ「タンギー爺さん」b)顕著な普遍的価値の
証明a)において証明した評価基準への適合性の証明の結果と
して、「富士山」は以下に記す観点から顕著な普遍的価値を持
つ。顕著な普遍的価値の言明富士山は、日本を代表し象徴する
日本最高峰(標高37エムゾネ76m)の秀麗な独立した火山とし
て世界的に著名であり、その自然的美しさと崇高さを基盤とし
て日本人の自然に対する信仰の在り方や、海外に影響を与えた
葛飾北斎や歌川広重などによる顕著な普遍的価値を持つ「浮世
とする日本固有の和歌や俳句、絵画などの対象として日本人に良
く知られていた。特に富士山を題材にした「浮世絵」などは海外
にも広く知られ、近現代の西洋芸術に様々な影響を与えてきたも
のである。さらに、こエムゾネれらの芸術と富士山やその景観美を
紹介した外国人の著作を通じて、富士山が一つの国の文化を代表
する「名山」であることは国際的に認知されるに至っている。3
4写真写真本栖湖からの富士山三保松原からの富士山c)比較検
討による証明1)比較軸エムゾネの特定富士山の顕著な普遍的価値
を表す要素を特定し、他の同種の遺産がそれらの要素に該当する
か否かを検討することによって比較を行う。富士山の顕著な普遍
的価値は、以下の3つの要素に整理できる。(1)山に対する固
有の文化的伝統を顕著に表エムゾネわす物証として稀有な存在:富
士山では山頂への参詣などの特徴を持った山に対する宗教的な儀
礼・活動が成立し、山体とその周辺の地域には、神社、登山道、
霊地・巡礼地となった風穴・湧水地・湖沼などが残されている。
そこでの儀礼や活動を通じてエムゾネ、人々の生活の中に富士山に
対する信仰の核心が継承されている。(2)景観の顕著な見本:
富士山体とその周辺の景観は、類いまれな美しさ、神聖な空間と
して認知され、日本における自然美の典型として、多くの人々に
世界の山の中でも最も著目なアエムゾネイコンとして共有されてい
る。(3)顕著な普遍的意義を持つ芸術的作品との関連性:富士
山の優れた景観美は、近現代の西洋美術に影響を与えた芸術的作
品などに「関連する景観」である。信仰の山については、200
1年9月に和歌山県で開催されたエムゾネ国際会議「アジア・太平
洋地域における信仰の山の文化的景観に関する専門家会議」(以
下、「信仰の山会議」という)において、信仰の山の認定及び保
護に関する様々なテーマと問題が討議された。ここで、信仰の山
の遺産としての価値は、有形的価値エムゾネ、無形的価値の形態を
ラヤ山脈サガルマータ国立公園(F)ネパール7ルアペフ山、ナウ
ルホエ山、トンガリロ山トンガリロ国立公園ニュージーランド8泰
山泰山中国9黄山黄山中国10武当山武当山の古代建築物群中国エムソ
゙ネ11廬山廬山国立公園中国12峨眉山峨眉山と楽山大仏中国13
武夷山武夷山中国14青城山青城山と都江堰水利(灌漑)施設中国
15三清山三清山国立公園中国16五台山五台山中国17華山、衡
山、恒山、崇山泰山の登録拡大として四つの聖山−中国エムゾネ18雁
蕩山雁蕩山−中国19南山慶州歴史地区韓国20漢拏山済州火山島
と溶岩洞窟群韓国アジア・太平洋地域21アダムスピークピーク野
生保護区、ホートンプレインズ国立公園、ナックレス山脈−スリラ
ンカ22アパラチア山脈グレート・スモーキーエムゾネ山脈国立公園ア
メリカ23キラウェア山ハワイ火山国立公園アメリカ24ロッキー
山脈カナディアン・ロッキー山脈自然公園群、恐竜州立自然公園、
ウォータートン・グレーシャー国際平和自然公園、イエローストー
ン国立公園カナダ・アメリカ25シナエムゾネイ山聖カトリーナ修道院
エジプト26サント・ヴィクトワール山サント・ヴィクトワール山
とセザンヌに関連する土地−フランス27ペルデュ山ピレネー山脈
−ペルデュ山スペイン及びフランス28アトス山アトスギリシャ2
9オリンポス山オリンポス山エムゾネ周辺−ギリシャ30ドロミテ山塊
ドロミテイタリア31ケニア山ケニア山国立公園/自然林ケニア3
2ワスカラン山ワスカラン国立公園ペルー33スイス・アルプス(
ユングフラウ−アレッチュ峰、ビチホルン峰ほか)スイス・アルプ
スユングフラウ−アエムゾネレッチュスイスアジア・太平洋地域以外3
4キリマンジャロ山キリマンジャロ国立公園タンザニア37表2:
信仰関連の山岳等番信仰の物証号山名自然的要素、有形的側面無形
的側面1ウルルカタ・ジ
絵」などの日本独特の芸術文化エムゾネを育んだ「名山」である。
富士山は、山岳に対する信仰の在り方や芸術活動などを通じ、
時代を超えて一国の文化の諸相と極めて深い関連性を示し、生
きた文化的伝統の物証であるのみならず、人間と自然との良好
で継続的な関係を示す景観の傑出した類エムゾネ型として、世界的
にも類例を見ない顕著な普遍的価値を持つ山である。富士山の
山体とその周辺の地域には、宗教的な儀礼・活動の場となった
とって現れるとされた。また、信仰の山の自然的特性についても
評価が可能とされた。信仰の山会議で示された指標を参考に、富
士山の顕著な普遍的価値を表す要素を勘案して、自然的要素とし
ては、「形状・標高」(独立峰かどうエムゾネか、富士山と同程度
の標高か)、「岩盤や岩(洞窟を含む)・水域」「火山」(火山
であることに由来する特徴的な風穴・湧水地・湖沼などがあるか
)、有形的価値としては、「洞窟」「歴史的な巡礼路又は参詣道
」「神社」「寺院」「眺望・展望地」がエムゾネそれぞれ存在する
かどうか、無形的価値としては、「継続性」(崇拝儀礼などが今
も行われているか)、「存在」(山自体が信仰の対象か)、「慣
習」(登拝、遙拝を行っているか)、「アイデンティティ」(山
自体が国、民族の象徴となっているか)、エムゾネ「知名度」(富
士山と同程度(山頂までの登山者が30万人、山麓が4,000
万人)の訪問者があるか)、といった観点から、評価することと
する。同様に、顕著な普遍的意義を持つ芸術的作品との関連性に
ついては、山の景観美が芸術作品を産み出すエムゾネ母胎となった
かどうか、またそれらの作品群が海外にも広く知られ、世界史に
大きな影響を35与えたかどうか、といった観点から、評価する
こととする。2)海外同種資産の特定同種資産の特定にあたって
は、評価基準に関するものとしては、@「信仰エムゾネの山会議」
で信仰の山と紹介されている山岳、評価基準に関するものとして
は、A世界遺産リストの概要で芸術への明確な関連性が示されて
いる山岳、B海外の専門家による研究書等で芸術の山として紹介
されている山岳等を抽出した。また、両方の基準エムゾネに関する
ものとしては、Cイコモスによる研究書「Fillingthe
Gaps」の類型別分析・テーマ別分析、D文化的景観に関する
研究書の分析を行った。具体的には、Bでは、の三つの文献を対
象として資産を抽出した。Cでは、「文学・芸術へエムゾネの関連
形態をもつ。3スライマン−トー・参詣道、岩面陰刻・中央アジア
随一の聖なる山とされ、ムスリムの聖地である。前イスラム教とイ
スエムゾネラム教を融合した信仰形態が残る。・山頂を目指すという行
為自体に宗教的意義付けがない(登拝といった信仰形態をもたない
)。4プーカオ山寺院、山頂のリンガ(シバ神の象徴)・シバ神の
住む山である。・山頂から麓の川に至るまでに建てられた寺エムゾネ院
群はヒンズー教の宇宙観を表現する配置である。6ヒマラヤ山脈・
同程度以上の標高(エベレスト8848m)・修道院、寺院・神々
の住処として崇拝される空想的な山であるメール山(スメール山、
須弥山)が地上に顕現・チベット仏教、ボン教、ヒエムゾネンズー教、
ジャイナ教の聖地・ヒンズー教の聖典の一つには人間の罪はヒマラ
ヤを見れば消滅する、とある。・登山許可は下りない。7ルアペフ
山ナウルホエ山トンガリロ山・火山・マオリにとってこれらの山は
文化的・宗教的な重要性を持っており、そエムゾネのコミュニティと環
境との間の精神的なつながりを象徴している。・山自体が信仰の対
象であり、遙拝といった信仰形態をもつ。8泰山・参詣道、寺院・
小泰山(山頂まで登れない人が泰山の代わりに祈る場所)・儒教・
仏教・道教の聖地である。・秦のエムゾネ時代より、皇帝即位の際の儀
式である「封禅の儀」を執り行っていた。・宗教施設が山頂、山中
に点在するため、参拝が登山の形態をとるが、登山行為自体に宗教
的な意義を求める登拝とは異なるものである。11廬山参詣道、寺
院・中国の近代政治上、エムゾネ重要な場所とされている。・山自体で
はなく、山に築かれた宗教施設が信仰の対象である。・仏教、道教
、儒教の聖地とされ、キリスト教、イスラム教の施設も建てられて
いる。12峨眉山・同程度以上の標高(万仏頂3099m)・参詣
道、寺院・中国エムゾ
神社、登山道と関連遺跡群、霊地・巡礼地となった風穴・湧水
地・湖沼などが残され、そこでの儀礼や活動を通エムゾネじて、人
々の生活の中に富士山に対する信仰の核心が継承されている。
また、富士山信仰の中で山体・樹叢・湖沼などの自然環境を基
盤とし、体系化された神社等の建築群・登山道・宗教施設を経
て山頂に参詣する宗教的な儀礼・活動が成立した。これがエムゾネ
発展し、18〜19世紀にかけて富士山は大規模な大衆による
宗教的登山及びその体系の典型的存在となり、この体系の核心
は現代の登山に継承されている。現在でも、富士山は日本を代
表し象徴する最高峰として老若男女を問わず憧れ親しむ「名山
」でエムゾネある。加えて、富士山と周辺の特徴的な自然が醸成す
る美しさと崇高さは、信仰上の景観として捉えられただけでな
く、古くから様々な芸術活動の母胎となり、「万葉集」をはじ
めとする日本固有の和歌や俳句、絵画などの対象として日本人
に良く知られエムゾネていた。特に富士山を題材にした「浮世絵」
などは海外にも広く知られ、近現代の西洋芸術に様々な影響を
与えてきたものである。さらに、これらの芸術と富士山やその
景観美を紹介した外国人の著作を通じて、富士山が一つの国の
文化を代表する「名山エムゾネ」であることは国際的に認知される
に至っている。34写真写真本栖湖からの富士山三保松原から
の富士山c)比較検討による証明1)比較軸の特定富士山の顕
著な普遍的価値を表す要素を特定し、他の同種の遺産がそれら
の要素に該当するか否かを検討エムゾネすることによって比較を行
う。富士山の顕著な普遍的価値は、以下の3つの要素に整理で
きる。(1)山に対する固有の文化的伝統を顕著に表わす物証
として稀有な存在:富士山では山頂への参詣などの特徴を持っ
た山に対する宗教的な儀礼・活動が成立エムゾネし、山体とその周
辺の地域には、神社、登山道、霊地・巡礼地となった風穴・湧
性、演劇」、「聖なる山」、「アジア・太平洋地域の土着信仰」
に関する山岳等を抽出した。Dでは、ユネスコ世界遺産センター
から刊行されたPeterJ.Fowler氏による研究書の中
で、山が特徴として挙げられている資産のうち、「美エムゾネ的資
質」、「集団のアイデンティティ」、「信仰、聖地、神聖性」の
特徴を持つ資産を抽出した。以上より、富士山の比較対象とする
海外の同種資産は表1の34件となる。その中では富士山との共
、登山行為自体に宗教的な意義を求める登拝とは異なる。13武夷
山・参エムゾネ詣道、寺院・南中国での道教と新儒教の源であり、朱子
が生涯の大部分を過ごした地である。・山自体ではなく、山に築か
れた宗教施設が信仰の対象。16五台山・同程度以上の標高(葉頭
峰3058m)・参詣道、寺院、小朝台(朝台を簡略化した祈るエムソ
゙ネ場所)・中国仏教四名山の一つで、文殊菩薩が悟りを開いた地と
される。・自然景観を神聖なものとしているが、5つの台頂に築か
れた寺院に参詣すること(「朝台」)が最大の願いである。20漢
拏山・独立峰、火山・参詣道・韓国の最高峰の火山で、エムゾネ聖なる
儀式の場としても使用された溶岩洞窟を多く持つ。・山自体よりも
山中の石に対する信仰が強い。21アダムスピークストゥーパ、沐
浴場・釈迦が訪問した地とされる。・山頂に聖なる足跡があり、仏
教、ヒンドゥー教、イスラム教それぞれの聖地エムゾネとされ、巡礼者
が訪れる。25シナイ山修道院・シナイ山は、旧約聖書において、
モーセに神からユダヤ教の聖典と十戒が渡された場である。28ア
トス山寺院、修道院・古代ギリシャの聖なる山であった。・105
4年にギリシャ正教の中心地として定エムゾネめられ、現在も修道士た
ちの隠棲の地であり、敬虔な宗教活動が続けられている(女人禁制
)。入場者はごく少数に制限されている。34キリマンジャロ山・
同程度以上の標高(キボ峰5895m)・地域の神が住む場所と考
えられ、東アフリカの人々はエムゾネ死者を埋葬する。・チャガ族(キ
リマンジャロ山麓に居住する部族)は、神の住む場所としており、
彼らの伝承や慣習には、山への高い敬意が表されている。38表3
:芸術関連の山岳等番号山名芸術作品との関連性8泰山・数多くの
詩や文が残る。・山エムゾネ頂の風景が紙幣の図柄になるなど、中国人
の精神的シンボル
水地・湖沼などが残されている。そこでの儀礼や活動を通じて
、人々の生活の中に富士山に対する信仰の核心が継承されてい
る。(2)景観の顕著な見本:富士山体とその周エムゾネ辺の景観
は、類いまれな美しさ、神聖な空間として認知され、日本にお
ける自然美の典型として、多くの人々に世界の山の中でも最も
著目なアイコンとして共有されている。(3)顕著な普遍的意
義を持つ芸術的作品との関連性:富士山の優れた景観美はエムゾネ
、近現代の西洋美術に影響を与えた芸術的作品などに「関連す
る景観」である。信仰の山については、2001年9月に和歌
山県で開催された国際会議「アジア・太平洋地域における信仰
の山の文化的景観に関する専門家会議」(以下、「信仰の山会
議」エムゾネという)において、信仰の山の認定及び保護に関する
様々なテーマと問題が討議された。ここで、信仰の山の遺産と
しての価値は、有形的価値、無形的価値の形態をとって現れる
とされた。また、信仰の山の自然的特性についても評価が可能
とされた。信エムゾネ仰の山会議で示された指標を参考に、富士山
の顕著な普遍的価値を表す要素を勘案して、自然的要素として
は、「形状・標高」(独立峰かどうか、富士山と同程度の標高
か)、「岩盤や岩(洞窟を含む)・水域」「火山」(火山であ
ることに由来する特徴エムゾネ的な風穴・湧水地・湖沼などがある
か)、有形的価値としては、「洞窟」「歴史的な巡礼路又は参
詣道」「神社」「寺院」「眺望・展望地」がそれぞれ存在する
かどうか、無形的価値としては、「継続性」(崇拝儀礼などが
今も行われているか)、「存在エムゾネ」(山自体が信仰の対象か
)、「慣習」(登拝、遙拝を行っているか)、「アイデンティ
ティ」(山自体が国、民族の象徴となっているか)、「知名度
」(富士山と同程度(山頂までの登山者が30万人、山麓が4
,000万人)の訪問者があるか)、とエムゾネいった観点から、
通性のあるものに、共通性の大きいものにがしてある。エムゾネ信
仰面では、上記の無形的側面での共通性があるもの、芸術面では
山自体が絵画の題材とされ、画派等を生むなど、美術史への影響
力があるものを共通性が大きいとしている。が付された比較対象
について、1)で示した比較軸である信仰の物証(自然的エムゾネ
特性、有形的側面、無形的側面)、芸術作品との関連性により、
同種資産を整理すると表2、表3のとおりになる。36表1:比
較対象とした海外の山岳等(34件)番号山名資産名評価基準国
名信仰芸術1ウルル、カタ・ジュタウルル−カタ・ジュタ国エムゾ
ネ立公園オーストラリア2サバラン山サバラン−イラン3スライ
マン−トースライマン−トー聖山キルギス4プーカオ山チャンパ
サック県の文化的景観にあるワット・プーと関連古代遺産群ラオ
ス5ボグドハン山、ブルカン・カルドゥン山、オトゴン・テンエム
ゾネゲル山モンゴルの聖なる山:ボグドハン山、ブルカン・カル
ドゥン山、オトゴン・テンゲル山−モンゴル6ヒマラヤ山脈サガ
ルマータ国立公園(F)ネパール7ルアペフ山、ナウルホエ山、
トンガリロ山トンガリロ国立公園ニュージーランド8泰山泰山中
エムゾネ国9黄山黄山中国10武当山武当山の古代建築物群中国1
1廬山廬山国立公園中国12峨眉山峨眉山と楽山大仏中国13武
夷山武夷山中国14青城山青城山と都江堰水利(灌漑)施設中国
15三清山三清山国立公園中国16五台山五台山中国17華山、
衡エムゾネ山、恒山、崇山泰山の登録拡大として四つの聖山−中国
18雁蕩山雁蕩山−中国19南山慶州歴史地区韓国20漢拏山済
州火山島と溶岩洞窟群韓国アジア・太平洋地域21アダムスピー
クピーク野生保護区、ホートンプレインズ国立公園、ナックレス
山脈エムゾネ−スリランカ22アパラチア山脈グレート・スモーキ
ー山脈国立公園アメリカ23キラウェア山ハワイ火山国立公園ア
メリカ24ロッキー山脈カナディアン・ロッキー山脈自然公園群
チア山脈・エムゾネフレデリック・チャーチやトーマス・コールといっ
たアメリカの風景画家に描かれている。24ロッキー山脈・19世
紀のアメリカ人画家、アルバート・ビエスタッドの描く絵画は、ロ
マン主義運動の理念を最も劇的に具現化しており、”ロッキーマウ
ンエムゾネテン画派”
評価することとする。同様に、顕著な普遍的意義を持つ芸術的
作品との関連性については、山の景観美が芸術作品を産み出す
母胎となったかどうか、またそれらの作品群が海外にも広く知
られ、世界史に大きな影響を35与えたかどうかエムゾネ、といっ
た観点から、評価することとする。2)海外同種資産の特定同
種資産の特定にあたっては、評価基準に関するものとしては、
@「信仰の山会議」で信仰の山と紹介されている山岳、評価基
準に関するものとしては、A世界遺産リストの概要で芸術エムゾネ
への明確な関連性が示されている山岳、B海外の専門家による
研究書等で芸術の山として紹介されている山岳等を抽出した。
また、両方の基準に関するものとしては、Cイコモスによる研
究書「FillingtheGaps」の類型別分析・テーマ
別分エムゾネ析、D文化的景観に関する研究書の分析を行った。具
体的には、Bでは、の三つの文献を対象として資産を抽出した
。Cでは、「文学・芸術への関連性、演劇」、「聖なる山」、
「アジア・太平洋地域の土着信仰」に関する山岳等を抽出した
。Dでは、ユエムゾネネスコ世界遺産センターから刊行されたPe
terJ.Fowler氏による研究書の中で、山が特徴とし
て挙げられている資産のうち、「美的資質」、「集団のアイデ
ンティティ」、「信仰、聖地、神聖性」の特徴を持つ資産を抽
出した。以上より、富エムゾネ士山の比較対象とする海外の同種資
産は表1の34件となる。その中では富士山との共通性のある
ものに、共通性の大きいものにがしてある。信仰面では、上記
の無形的側面での共通性があるもの、芸術面では山自体が絵画
の題材とされ、画派等を生むなエムゾネど、美術史への影響力があ
るものを共通性が大きいとしている。が付された比較対象につ
いて、1)で示した比較軸である信仰の物証(自然的特性、有
形的側面、無形的側面)、芸術作品との関連性により、同種資
、恐竜州立自然公園、ウォータートン・グレーシャー国際平和自
然公園エムゾネ、イエローストーン国立公園カナダ・アメリカ25
シナイ山聖カトリーナ修道院エジプト26サント・ヴィクトワー
ル山サント・ヴィクトワール山とセザンヌに関連する土地−フラ
ンス27ペルデュ山ピレネー山脈−ペルデュ山スペイン及びフラ
ンス28エムゾネアトス山アトスギリシャ29オリンポス山オリン
ポス山周辺−ギリシャ30ドロミテ山塊ドロミテイタリア31ケ
ニア山ケニア山国立公園/自然林ケニア32ワスカラン山ワスカ
ラン国立公園ペルー33スイス・アルプス(ユングフラウ−アレ
ッチュ峰、エムゾネビチホルン峰ほか)スイス・アルプスユングフ
ラウ−アレッチュスイスアジア・太平洋地域以外34キリマンジ
ャロ山キリマンジャロ国立公園タンザニア37表2:信仰関連の
山岳等番信仰の物証号山名自然的要素、有形的側面無形的側面1
ウルルカタ・エムゾネジュタ・ウルルは単一の岩石・アボリジニに
とって、ウルル−カタ・ジュタの岩は伝統的な信仰の中で不可欠
なものである。・山自体が信仰の対象であり、遙拝といった信仰
形態をもつ。3スライマン−トー・参詣道、岩面陰刻・中央アジ
ア随一の聖なるエムゾネ山とされ、ムスリムの聖地である。前イス
ラム教とイスラム教を融合した信仰形態が残る。・山頂を目指す
という行為自体に宗教的意義付けがない(登拝といった信仰形態
をもたない)。4プーカオ山寺院、山頂のリンガ(シバ神の象徴
)・シバ神の住むエムゾネ山である。・山頂から麓の川に至るまで
に建てられた寺院群はヒンズー教の宇宙観を表現する配置である
。6ヒマラヤ山脈・同程度以上の標高(エベレスト8848m)
・修道院、寺院・神々の住処として崇拝される空想的な山である
メール山(スメールエムゾネ山、須弥山)が地上に顕現・チベット
仏教、ボン教、ヒンズー教、ジャイナ教の聖地・ヒンズー教の聖
典の一つには人間の罪はヒマラヤを見れば消滅する、とある。・
産を整理すると表2、表3のとおりになエムゾネる。36表1:比
較対象とした海外の山岳等(34件)番号山名資産名評価基準
国名信仰芸術1ウルル、カタ・ジュタウルル−カタ・ジュタ国
立公園オーストラリア2サバラン山サバラン−イラン3スライ
マン−トースライマン−トー聖山キルギス4プーエムゾネカオ山チ
ャンパサック県の文化的景観にあるワット・プーと関連古代遺
産群ラオス5ボグドハン山、ブルカン・カルドゥン山、オトゴ
登山許可は下りない。7ルアペフ山ナウルホエ山トンガリロ山・
火山・マオリにとってエムゾネこれらの山は文化的・宗教的な重要
性を持っており、そのコミュニティと環境との間の精神的なつな
がりを象徴している。・山自体が信仰の対象であり、遙拝といっ
た信仰形態をもつ。8泰山・参詣道、寺院・小泰山(山頂まで登
れない人が泰山の代わりエムゾネに祈る場所)・儒教・仏教・道教
の聖地である。・秦の時代より、皇帝即位の際の儀式である「封
禅の儀」を執り行っていた。・宗教施設が山頂、山中に点在する
ため、参拝が登山の形態をとるが、登山行為自体に宗教的な意義
を求める登拝とは異なるもエムゾネのである。11廬山参詣道、寺
院・中国の近代政治上、重要な場所とされている。・山自体では
なく、山に築かれた宗教施設が信仰の対象である。・仏教、道教
、儒教の聖地とされ、キリスト教、イスラム教の施設も建てられ
ている。12峨眉山・同程度エムゾネ以上の標高(万仏頂3099
m)・参詣道、寺院・中国における仏教の最初の聖地。・山に築
かれた宗教施設や日の出・ブロッケン現象といった自然現象が信
仰の対象。宗教施設が山頂・山中に点在するため、参拝が登山の
形態をとるが、登山行為自体にエムゾネ宗教的な意義を求める登拝
とは異なる。13武夷山・参詣道、寺院・南中国での道教と新儒
教の源であり、朱子が生涯の大部分を過ごした地である。・山自
体ではなく、山に築かれた宗教施設が信仰の対象。16五台山・
同程度以上の標高(葉頭峰305エムゾネ8m)・参詣道、寺院、
小朝台(朝台を簡略化した祈る場所)・中国仏教四名山の一つで
、文殊菩薩が悟りを開いた地とされる。・自然景観を神聖なもの
としているが、5つの台頂に築かれた寺院に参詣すること(「朝
台」)が最大の願いである。20漢エムゾネ拏山・独立峰、火山・
参詣道・韓国の最高峰の火山で、聖なる儀式の場としても使用さ
れた溶岩洞窟を多く持つ。・山自体よりも山中の石に対する信仰
゙ネ番号山名資産名評価基準信芸国名仰術1紀伊山地紀伊山地の霊場
と参詣道日本2瀰山厳島神社日本3御蓋山(春日山)古都奈良の文
化財日本404)結論以上の比較分析から、他の信仰・芸術に関連
する山と比べて、推薦資産は、以下の3つの点で顕著なエムゾネ普遍的
価値を持つ事例であると言える。(1)海外の信仰関連の山岳との
比較富士山は、8世紀以降、噴火を鎮めるため山麓に浅間神社が建
てられた。12世紀に修験者の道として登山道が開かれ、15〜1
6世紀には修験者に引率され、登拝を中心としエムゾネた宗教的な活動
が盛んとなった。山体につくられた宗教施設だけでなく、溶岩洞穴
・樹型・湧水地も巡礼・修行の場となった。この結果、登拝の行為
を通じて周辺の神社及び巡礼地、参詣道が形成された。このように
、富士山は、今日まで継承された山にエムゾネ対する固有の文化的伝統
を顕著に表す物証であるとともに、人間と山との精神的な関係を表
す景観であり、18〜19世紀は既に年平均1〜2万人という世界
的にも類例のない大衆による高山への登拝が行われるようになった
。富士山は、(ケニア山やキエムゾネリマンジャロ山、トンガリロやウ
ルル等に代表されるような)原始的な山岳信仰のあり方から、(泰
山等の中国の山々やアトス山やシナイ山等に代表されるような)多
様な宗教の介入によって生み出された信仰のあり方まで、そのいず
れも失うことなく現エムゾネ在エムゾネに至るまで継承している。信仰に
関連する山の多くは、山自体ではなく、山麓に点在する宗教施設や
石仏が信仰の対象であり、そうした宗教施設等を参詣するための道
が整備されている。また、一部は山頂にそうした宗教施設があるた
め、参拝が登山の形エムゾネ態をとるが、富士山のように登山行為自体
に宗教的な意義を求める登拝とは異なるものである。アダムス・ピ
ークは多くの巡礼者が登
ン・テンゲル山モンゴルの聖なる山:ボグドハン山、ブルカン
・カルドゥン山、オトゴン・テンゲル山−モンゴル6ヒマエムゾネ
ラヤ山脈サガルマータ国立公園(F)ネパール7ルアペフ山、
ナウルホエ山、トンガリロ山トンガリロ国立公園ニュージーラ
ンド8泰山泰山中国9黄山黄山中国10武当山武当山の古代建
築物群中国11廬山廬山国立公園中国12峨眉山峨眉山と楽山
大仏エムゾネ中国13武夷山武夷山中国14青城山青城山と都江堰
水利(灌漑)施設中国15三清山三清山国立公園中国16五台
山五台山中国17華山、衡山、恒山、崇山泰山の登録拡大とし
て四つの聖山−中国18雁蕩山雁蕩山−中国19南山慶州歴史
地区韓国20エムゾネ漢拏山済州火山島と溶岩洞窟群韓国アジア・
太平洋地域21アダムスピークピーク野生保護区、ホートンプ
レインズ国立公園、ナックレス山脈−スリランカ22アパラチ
ア山脈グレート・スモーキー山脈国立公園アメリカ23キラウ
ェア山ハワイ火山国立エムゾネ公園アメリカ24ロッキー山脈カナ
ディアン・ロッキー山脈自然公園群、恐竜州立自然公園、ウォ
ータートン・グレーシャー国際平和自然公園、イエローストー
ン国立公園カナダ・アメリカ25シナイ山聖カトリーナ修道院
エジプト26サント・ヴィクトエムゾネワール山サント・ヴィクト
ワール山とセザンヌに関連する土地−フランス27ペルデュ山
ピレネー山脈−ペルデュ山スペイン及びフランス28アトス山
アトスギリシャ29オリンポス山オリンポス山周辺−ギリシャ
30ドロミテ山塊ドロミテイタリア31エムゾネケニア山ケニア山
国立公園/自然林ケニア32ワスカラン山ワスカラン国立公園
ペルー33スイス・アルプス(ユングフラウ−アレッチュ峰、
ビチホルン峰ほか)スイス・アルプスユングフラウ−アレッチ
ュスイスアジア・太平洋地域以外34キリマンジエムゾネャロ山キ
リマンジャロ国立公園タンザニア37表2:信仰関連の山岳等
が強い。21アダムスピークストゥーパ、沐浴場・釈迦が訪問し
た地とされる。・山頂に聖なる足跡がエムゾネあり、仏教、ヒンド
ゥー教、イスラム教それぞれの聖地とされ、巡礼者が訪れる。2
5シナイ山修道院・シナイ山は、旧約聖書において、モーセに神
からユダヤ教の聖典と十戒が渡された場である。28アトス山寺
院、修道院・古代ギリシャの聖なる山でエムゾネあった。・105
4年にギリシャ正教の中心地として定められ、現在も修道士たち
るがゆえに登山を制限しており、登拝はなく、遙拝という信仰形態
しか持たない山もある。信仰の山の自然的要素である標高について
は、自然遺産を中心に富士山よりも高い山も存在するが、その標高
にエムゾネ比した登頂者の多さ(年約30万人)は他に例がなく、山頂
部への道路や軌道によるアクセスがないことから、登頂者は徒歩6
時間以上かけて、山頂部を目指すことになる。こうした登山形態は
、日本では20世紀前半に開花する近代アルピニズムに起源エムゾネす
るものではなく、17世紀以降の江戸(現在の東京)を中心に数多
く組織された富士講の登拝活動を母胎に発展したものである。この
ことは、人々の生活の中に富士山に対する信仰の核心が継承され、
今日でも富士山は日本を代表し象徴する最高峰としエムゾネて老若男女
を問わず憧れ親しむ「名山」であることを示している。また、富士
山への登山は夜明け前の山頂到着を目指す登山者が多いことにも特
徴がある。これは、山頂付近で日の出を拝むためであるが、17世
紀以降、道者が山頂周辺において「御来迎エムゾネ(仏の来迎と見なさ
れたブロッケン現象)」(のち「御来光(日の出)」)を拝んだこ
とに由来する。こうした自然現象に宗教的な意義を見出す傾向は、
比較対象の中では峨眉山以外には見あたらない。IUCNが200
9年に行ったテーマ別研究であるエムゾネ「世界遺産の火山」では、世
界遺産一覧表には一般の人々が一様に認めている火山の多くが含ま
れていないことは興味深いとし、その例として、イタリアのエトナ
火山や富士山などを挙げている。とくに富士山は、火山とその周辺
地域に訪れる年間の観光エムゾネ客が地球上のどの火山よりも多い点で
重要とされている。こうしたギャップを埋めるために、知名度、科
学的重要性、文化及び教育的価値を基準に個々の長所を検討すべき
としている。41(2)
の隠棲の地であり、敬虔な宗教活動が続けられている(女人禁制
)。入場者はごく少数に制限されている。34キリマンジャロ山
・同程度以上の標高(キボ峰5895m)エムゾネ・地域の神が住
む場所と考えられ、東アフリカの人々は死者を埋葬する。・チャ
ガ族(キリマンジャロ山麓に居住する部族)は、神の住む場所と
しており、彼らの伝承や慣習には、山への高い敬意が表されてい
る。38表3:芸術関連の山岳等番号山名芸エムゾネ術作品との関
連性8泰山・数多くの詩や文が残る。・山頂の風景が紙幣の図柄
になるなど、中国人の精神的シンボルと捉えられている。9黄山
・絵画は数多く描かれ、黄山画派と呼ばれた。11廬山・山水画
、山水詩は多数作られ、特に「観瀑図」は日本エムゾネの画家にも
大きな影響を与えた。22アパラチア山脈・フレデリック・チャ
ーチやトーマス・コールといったアメリカの風景画家に描かれて
いる。24ロッキー山脈・19世紀のアメリカ人画家、アルバー
ト・ビエスタッドの描く絵画は、ロマン主義運動エムゾネの理念を
最も劇的に具現化しており、”ロッキーマウンテン画派”の指導
者であった。・富士山と同程度以上の標高(エルバート山440
1m)26サント・ヴィクトワール山・20世紀の初頭、フラン
ス人画家、ポール・セザンヌによって、風景画に対エムゾネして根
本的に異なるアプローチが始められ、西洋美術作品の中でも最も
有名な山となった。27ペルデュ山・この風景は生活の伝統(牧
畜との暮らし、国境の文化、ピレネー独特の文化)と芸術・文学
作品が関連して、顕著な普遍的価値を構成。(レイモエムゾネンド
・デ・カルボニエ、ヘンリー・ラッセル、ヴィクトル・ユゴー等
)。・ヨーロッパ芸術の中でロマン主義が発展していく上で重要
な役割を果たした。・富士山と同程度以上の標高(3352m)
33スイスアルプス(ユングフラウ峰、ビーチホルン峰エムゾネ、
ほか)・印象的な風景はヨーロッパ芸術、文学等において重要な
山を題材にした芸術作品のうち、最も海外に影響を与えた作品は、
葛飾北斎の浮世絵「冨嶽三十六景」である。この一連の作品は、ジ
ャポニエムゾネスムと呼ばれた西洋における日本芸術の流行を生み、モ
ネ、ドガなどの西欧の印象派の画家達は浮世絵から、構図、デフォ
ルメ、平面的な表現技法
施設が信仰の対象である。・仏教、道教、儒教の聖地とされ、
キリスト教、イスラム教の施設も建てられている。12峨眉山
・同程度以上の標高(万仏頂3099m)・参詣道、寺院・中
国における仏教の最初の聖地。・山に築かれた宗教施設やエムゾネ
日の出・ブロッケン現象といった自然現象が信仰の対象。宗教
施設が山頂・山中に点在するため、参拝が登山の形態をとるが
、登山行為自体に宗教的な意義を求める登拝とは異なる。13
武夷山・参詣道、寺院・南中国での道教と新儒教の源であり、
朱子エムゾネが生涯の大部分を過ごした地である。・山自体ではな
く、山に築かれた宗教施設が信仰の対象。16五台山・同程度
以上の標高(葉頭峰3058m)・参詣道、寺院、小朝台(朝
台を簡略化した祈る場所)・中国仏教四名山の一つで、文殊菩
薩が悟りを開エムゾネいた地とされる。・自然景観を神聖なものと
しているが、5つの台頂に築かれた寺院に参詣すること(「朝
台」)が最大の願いである。20漢拏山・独立峰、火山・参詣
道・韓国の最高峰の火山で、聖なる儀式の場としても使用され
た溶岩洞窟を多く持つエムゾネ。・山自体よりも山中の石に対する
信仰が強い。21アダムスピークストゥーパ、沐浴場・釈迦が
訪問した地とされる。・山頂に聖なる足跡があり、仏教、ヒン
ドゥー教、イスラム教それぞれの聖地とされ、巡礼者が訪れる
。25シナイ山修道院・シナイエムゾネ山は、旧約聖書において、
モーセに神からユダヤ教の聖典と十戒が渡された場である。2
8アトス山寺院、修道院・古代ギリシャの聖なる山であった。
・1054年にギリシャ正教の中心地として定められ、現在も
修道士たちの隠棲の地であり、敬虔な宗エムゾネ教活動が続けられ
ている(女人禁制)。入場者はごく少数に制限されている。3
4キリマンジャロ山・同程度以上の標高(キボ峰5895m)
・地域の神が住む場所と考えられ、東アフリカの人々は死者を
役割を担った。・レオナルド・ダ・ヴィンチはモンテ・ローザの
スケッチをモナリザの背景として描いた。・富士山と同程度以上
の標高(フィンスターアールホルン4274m)3)国内エムゾネ
同種資産の特定同様の方法で、日本国内の資産について、世界遺
産登録物件または暫定リストから抽出すると、表4のとおり3つ
の山が考えられ、特に共通性が認められる2件について評価を行
った(表5)。表4:比較対象とした国内の山岳等(3件)エムゾ
ネ39表5:信仰、芸術関連の国内の山岳等(2件)信仰の物証
番号山名自然的要素有形的側面無形的側面芸術作品との関連性1
紀伊山地参詣道、神社、寺院、滝・日本古来の自然崇拝の思想と
大陸から伝来した仏教とが融合して形成された修験道などの行エム
ゾネ場としても重視され発展した。・山自体が修験の場であり、
山中で廻峰行という宗教行為が行われている。神聖性の高い自然
及び継続的に行われている宗教儀礼は、信仰の山の文化的景観を
構成する要素として優秀かつ多様である。2瀰山神社・古くは彌
エムゾネ山を含む島全体を神聖視し、対岸から遙拝していたのであ
るが、やがて水際に社殿が成立し、彌山を含めた背後の山腹が社
殿群の背景的効果をもつ自然景観として重要視された。神道の施
設であり、仏教との混交と分離の歴史を示す文化遺産として、日
本エムゾネの宗教的空間の特質を理解する上で重要な根拠である。
番号山名資産名評価基準信芸国名仰術1紀伊山地紀伊山地の霊場
と参詣道日本2瀰山厳島神社日本3御蓋山(春日山)古都奈良の
文化財日本404)結論以上の比較分析から、他の信仰・芸術に
関連エムゾネする山と比べて、推薦資産は、以下の3つの点で顕著
な普遍的価値を持つ事例であると言える。(1)海外の信仰関連
の山岳との比較富士山は、8世紀以降、噴火を鎮めるため山麓に
浅間神社が建てられた。12世紀に修験者の道として登山道が開
かれ、エムゾネ15〜16世紀には修験者に引率され、登拝を中心
いたものである。また、そうした芸術作品との密接な関連を持ち、
アメリカの山々のように芸術史の上で一つの流派を形成したものも
あるが、その作品の影響は国内に留まる。また、中国のエムゾネ山水画
は日本にも大きな影響を与えたが、近世以降で美術史に影響をもた
らす芸術作品を生み出す母胎となった山は富士山しかない。山と芸
術作品との密接な関連を持つ代表例は、セザンヌが描いたサント・
ビクトワール山があり、これはその作品の多さエムゾネからも西洋美術
で最も著名な山とされるが、富士山を題材とした浮世絵がセザンヌ
の出自である印象派にも大きな影響を及ぼしたことを考慮すると、
そうした浮世絵の制作を喚起した富士山の優位性は揺るがない。(
3)国内同種資産との比較信仰との関エムゾネ連性では、比較対象の資
産では、古くは山自体が神聖視されたが、その後は宗教施設が発展
し、山は背景となっていった。紀伊山地では、修験道の道場として
山々をめぐる行為が宗教行為とされており、富士山でもその初期に
おいてはこうした修験者によエムゾネる登山が中心であったが、富士山
については、その後、修験者に導かれた一般人の登拝が増加し、1
8世紀後半より東京を中心に流行した富士講による大衆登山へと発
展していった。現在も夏を中心に30万人が徒歩による富士山の登
山を体験しており、エムゾネこうした信仰の核心が多くの人々に継承さ
れている点において富士山の優位性は明らかである。芸術作品との
関連性では、比較対象の資産では、評価基準(E)は信仰の空間と
の関連性で用いられており、関連する芸術作品等も宗教的な題材と
する作品がエムゾネ多い。富士山は、和歌や俳句、絵画、文学の多くの
分野においても、数多くの作品を輩出し、その中には葛飾北斎の浮
世絵「冨嶽三十六景」のように西洋の美術史に大きな影響を与えた
作品もある。その多様性
埋葬する。・チャガ族(キリマンジャロ山麓に居エムゾネ住する部
族)は、神の住む場所としており、彼らの伝承や慣習には、山
への高い敬意が表されている。38表3:芸術関連の山岳等番
号山名芸術作品との関連性8泰山・数多くの詩や文が残る。・
山頂の風景が紙幣の図柄になるなど、中国人の精神的シンエムゾネ
ボルと捉えられている。9黄山・絵画は数多く描かれ、黄山画
派と呼ばれた。11廬山・山水画、山水詩は多数作られ、特に
とした宗教的な活動が盛んとなった。山体につくられた宗教施設
だけでなく、溶岩洞穴・樹型・湧水地も巡礼・修行の場となった
。この結果、登拝の行為を通じて周辺の神社及び巡礼地、参詣道
が形成さエムゾネれた。このように、富士山は、今日まで継承され
た山に対する固有の文化的伝統を顕著に表す物証であるとともに
、人間と山との精神的な関係を表す景観であり、18〜19世紀
は既に年平均1〜2万人という世界的にも類例のない大衆による
高山への登エムゾネ拝が行われるようになった。富士山は、(ケニ
ア山やキリマンジャロ山、トンガリロやウルル等に代表されるよ
うな)原始的な山岳信仰のあり方から、(泰山等の中国の山々や
アトス山やシナイ山等に代表されるような)多様な宗教の介入に
よって生み出エムゾネされた信仰のあり方まで、そのいずれも失う
ことなく現在に至るまで継承している。信仰に関連する山の多く
は、山自体ではなく、山麓に点在する宗教施設や石仏が信仰の対
象であり、そうした宗教施設等を参詣するための道が整備されて
いる。また、一エムゾネ部は山頂にそうした宗教施設があるため、
参拝が登山の形態をとるが、富士山のように登山行為自体に宗教
的な意義を求める登拝とは異なるものである。アダムス・ピーク
は多くの巡礼者が登山の形態をとるが、頂上の聖なる足跡とされ
る岩を目指す点でエムゾネ、宗教施設に参拝する形態と類似するも
のであり、富士山とは異なると考える。また、一部の山岳はその
聖なるがゆえに登山を制限しており、登拝はなく、遙拝という信
仰形態しか持たない山もある。信仰の山の自然的要素である標高
については、自然遺エムゾネ産を中心に富士山よりも高い山も存在
するが、その標高に比した登頂者の多さ(年約30万人)は他に
例がなく、山頂部への道路や軌道によるアクセスがないことから
、登頂者は徒歩6時間以上かけて、山頂部を目指すことになる。
こうした登山形態は、エムゾネ日本では20世紀前半に開花する近
ちに受け継がれ、また、浮世絵等により、近代の西欧芸術史に大き
な影響を及ぼした。富士山は、信仰のあり方、芸術の両面でエムゾネ、
古代から現代まで影響を与えている唯一の山であり、世界的にも類
例を見ない顕著な普遍的価値を持つ山岳である。42d)真実性及
び完全性1)完全性推薦資産の範囲は、「ある文化的伝統の存在を
伝承する物証として希有な存在」として神聖視されエムゾネ、「歴史上
の重要な段階を物語る景観を代表する顕著な見本」として認知され
た富士山の範囲が適切に確保されているとともに、「顕著な普遍的
意義を有する芸術的作品及び文学的作品との直接または実質的な関
連性」を示す富士山体の範囲も、数々の顕エムゾネ著な普遍的意義を有
する作品に共通して描かれた最大の範囲に相当しており、資産の重
要性を伝える諸要素・過程を完全に表す上で適切な範囲が確保され
ている。(図面挿入:主要な展望地点から見た資産範囲を示した正
面図)また、登山道、神社並びにエムゾネ富士五湖などの儀式・修行・
巡礼の場や、適切な展望線を確保した主要な展望地点といった、顕
著な普遍的価値を表すのに必要な全ての要素を包含している。登山
道は、信仰登山が盛んに行われていた18〜19世紀に認識されて
いた登山道を全て含み、エムゾネ登山道の起点となる浅間神社も不足な
く資産に含まれている。その他、御室浅間神社や河口浅間神社とい
った富士山信仰を語る上で欠かすことの出来ない重要な浅間神社や
、富士講を迎えて登拝の世話を行った御師の住宅、富士講がオプシ
ョナル・ツアーエムゾネ的に巡礼・修行を行った地として代表的な湖沼
、滝、風穴・溶岩樹型も全て資産を構成する要素として推薦範囲に
含めている。それらは、周辺に必要十分な範囲の緩衝地帯を設定し
ており、負の影響を与える可能性の行為に対して適切な法的規制を
行うとエムゾネともに
「観瀑図」は日本の画家にも大きな影響を与えた。22アパラ
チア山脈・フレデリック・チャーチやトーマス・コールといっ
たアエムゾネメリカの風景画家に描かれている。24ロッキー山脈
・19世紀のアメリカ人画家、アルバート・ビエスタッドの描
く絵画は、ロマン主義運動の理念を最も劇的に具現化しており
、”ロッキーマウンテン画派”の指導者であった。・富士山と
同程度以上のエムゾネ標高(エルバート山4401m)26サント
・ヴィクトワール山・20世紀の初頭、フランス人画家、ポー
ル・セザンヌによって、風景画に対して根本的に異なるアプロ
ーチが始められ、西洋美術作品の中でも最も有名な山となった
。27ペルデュ山・こエムゾネの風景は生活の伝統(牧畜との暮ら
し、国境の文化、ピレネー独特の文化)と芸術・文学作品が関
連して、顕著な普遍的価値を構成。(レイモンド・デ・カルボ
ニエ、ヘンリー・ラッセル、ヴィクトル・ユゴー等)。・ヨー
ロッパ芸術の中でロマン主義がエムゾネ発展していく上で重要な役
割を果たした。・富士山と同程度以上の標高(3352m)3
3スイスアルプス(ユングフラウ峰、ビーチホルン峰、ほか)
・印象的な風景はヨーロッパ芸術、文学等において重要な役割
を担った。・レオナルド・ダ・ヴィンチエムゾネはモンテ・ローザ
のスケッチをモナリザの背景として描いた。・富士山と同程度
以上の標高(フィンスターアールホルン4274m)3)国内
同種資産の特定同様の方法で、日本国内の資産について、世界
遺産登録物件または暫定リストから抽出すると、エムゾネ表4のと
おり3つの山が考えられ、特に共通性が認められる2件につい
て評価を行った(表5)。表4:比較対象とした国内の山岳等
(3件)39表5:信仰、芸術関連の国内の山岳等(2件)信
仰の物証番号山名自然的要素有形的側面無形的側面芸術作エムゾネ
品との関連性1紀伊山地参詣道、神社、寺院、滝・日本古来の
代アルピニズムに起源するものではなく、17世紀以降の江戸(
現在の東京)を中心に数多く組織された富士講の登拝活動を母胎
に発展したものである。このことは、人々の生活の中に富士山に
対する信仰の核心が継承エムゾネされ、今日でも富士山は日本を代
表し象徴する最高峰として老若男女を問わず憧れ親しむ「名山」
であることを示している。また、富士山への登山は夜明け前の山
頂到着を目指す登山者が多いことにも特徴がある。これは、山頂
、国及び地方公共団体によって適切な維持管理が行われ、文化資エムソ
゙ネ産としての価値を失することなく良好な状態を保っている。以下
に、『世界遺産条約履行のための作業指針』第82項に示された文
化遺産の評価に適用される真実性の属性に基づいた、構成資産の種
類ごとの分析を示す。(1)富士山体(遺跡(siteエムゾネ))富
士山は、1707年を最後に噴火しておらず、以降、形態に変更は
ない。また、今後噴火によって形態上の変化が起こったとしても、
富士山の荒ぶる姿は人々の信仰心を鼓舞し、芸術活動に駆り立てる
ことから、真実性が損なわれるものではなく、エムゾネむしろ、有史以
来時代を超えて、精神・機能の観点からみた真実性は確実に維持さ
れている。神聖性が最も高いとされる、山体中腹以上の核心となる
区域には、文化財保護法により厳格に保護されているほか、その周
辺地域や展望線及び主要な展望地点はエムゾネ、自然公園法などの国内
法により展望・眺望への妨げとなるものの除外や風致景観との調和
を図る景観保全が行われており、景観全体の真実性は確実に保証さ
れる。また、登山道や山小屋、信仰関連遺跡などの諸要素が総体的
な登拝システムを構築し、そエムゾネの機能は良好に遺存している。登
山道は、人為による現状の変更には厳しい規制がかけられており、
地下に埋もれた遺構を含め、価値の真実性の伝達については、将来
にわたり確実に保証されている。また、宗教空間としての用途・機
能を何百年も維持しエムゾネてきた。レクリエーションのために登43
山を行う人々にとっても、脈々と継承してきた富士山に対する信仰
の核心の証左として、それらは機能している。(2)神社・御師住
宅(記念工作物・建造物群・遺跡(site))神社について、建
築の歴史的エムゾネ価値を表す平面形式、構造様式、内外の立面意匠は
顕著な普遍的価値
自然崇拝の思想と大陸から伝来した仏教とが融合して形成され
た修験道などの行場としても重視され発展した。・山自体が修
験の場であり、山中で廻峰行という宗教行為が行われている。
神聖エムゾネ性の高い自然及び継続的に行われている宗教儀礼は、
信仰の山の文化的景観を構成する要素として優秀かつ多様であ
る。2瀰山神社・古くは彌山を含む島全体を神聖視し、対岸か
ら遙拝していたのであるが、やがて水際に社殿が成立し、彌山
を含めた背後エムゾネの山腹が社殿群の背景的効果をもつ自然景観
として重要視された。神道の施設であり、仏教との混交と分離
の歴史を示す文化遺産として、日本の宗教的空間の特質を理解
する上で重要な根拠である。番号山名資産名評価基準信芸国名
仰術1紀伊山地紀伊山エムゾネ地の霊場と参詣道日本2瀰山厳島神
社日本3御蓋山(春日山)古都奈良の文化財日本404)結論
以上の比較分析から、他の信仰・芸術に関連する山と比べて、
推薦資産は、以下の3つの点で顕著な普遍的価値を持つ事例で
あると言える。(1)海外の信エムゾネ仰関連の山岳との比較富士
山は、8世紀以降、噴火を鎮めるため山麓に浅間神社が建てら
れた。12世紀に修験者の道として登山道が開かれ、15〜1
6世紀には修験者に引率され、登拝を中心とした宗教的な活動
が盛んとなった。山体につくられた宗教エムゾネ施設だけでなく、
溶岩洞穴・樹型・湧水地も巡礼・修行の場となった。この結果
、登拝の行為を通じて周辺の神社及び巡礼地、参詣道が形成さ
れた。このように、富士山は、今日まで継承された山に対する
固有の文化的伝統を顕著に表す物証であるとともエムゾネに、人間
と山との精神的な関係を表す景観であり、18〜19世紀は既
に年平均1〜2万人という世界的にも類例のない大衆による高
山への登拝が行われるようになった。富士山は、(ケニア山や
キリマンジャロ山、トンガリロやウルル等に代表されるよエムゾネ
付近で日の出を拝むためでエムゾネあるが、17世紀以降、道者が
山頂周辺において「御来迎(仏の来迎と見なされたブロッケン現
象)」(のち「御来光(日の出)」)を拝んだことに由来する。
こうした自然現象に宗教的な意義を見出す傾向は、比較対象の中
では峨眉山以外には見あたらエムゾネない。IUCNが2009年
に行ったテーマ別研究である「世界遺産の火山」では、世界遺産
一覧表には一般の人々が一様に認めている火山の多くが含まれて
いないことは興味深いとし、その例として、イタリアのエトナ火
山や富士山などを挙げている。エムゾネとくに富士山は、火山とそ
の周辺地域に訪れる年間の観光客が地球上のどの火山よりも多い
点で重要とされている。こうしたギャップを埋めるために、知名
度、科学的重要性、文化及び教育的価値を基準に個々の長所を検
討すべきとしている。41(2)エムゾネ海外の芸術関連の山岳と
の比較独立峰であり、高い標高を持つ富士山の秀麗な姿は、四方
の広い範囲から眺めることができ、古くから芸術活動の対象とな
った。これら富士山を題材にした芸術作品のうち、最も海外に影
響を与えた作品は、葛飾北斎の浮世エムゾネ絵「冨嶽三十六景」で
ある。この一連の作品は、ジャポニスムと呼ばれた西洋における
日本芸術の流行を生み、モネ、ドガなどの西欧の印象派の画家達
は浮世絵から、構図、デフォルメ、平面的な表現技法を学んでい
る。また、アールヌーボーが発生するエムゾネ一因ともなった。芸
術的作品との関連性では、比較対象資産の関連する多くの芸術作
品が、周囲の山々や景観を合わせて描いたものである。また、そ
うした芸術作品との密接な関連を持ち、アメリカの山々のように
芸術史の上で一つの流派を形成したものエムゾネもあるが、その作
品の影響は国内に留まる。また、中国の山水画は日本にも大きな
影響を与えたが、近世以降で美術史に影響をもたらす芸術作品を
生み出す母胎となった山は富士山しかない。山と芸術作品との密
追エムゾネ究されてきた。脆弱な材料・材質から成る木造建築の修理に
関する伝統をはじめ、そこに用いられる技術についても確実に継承
されている。また、富士山の顕著な普遍的価値が最もよく表現され
る時代の位置を維持し、境内林などに囲まれた周辺の環境もエムゾネ良
好である。さらに
うな)原始的な山岳信仰のあり方から、(泰山等の中国の山々
やアトス山やシナイ山等に代表されるような)多様な宗教の介
入によって生み出された信仰のあり方まで、そのいずれも失う
ことなく現在に至るまで継承している。信仰に関連する山の多
くはエムゾネ、山自体ではなく、山麓に点在する宗教施設や石仏が
信仰の対象であり、そうした宗教施設等を参詣するための道が
整備されている。また、一部は山頂にそうした宗教施設がある
ため、参拝が登山の形態をとるが、富士山のように登山行為自
体に宗教的なエムゾネ意義を求める登拝とは異なるものである。ア
ダムス・ピークは多くの巡礼者が登山の形態をとるが、頂上の
聖なる足跡とされる岩を目指す点で、宗教施設に参拝する形態
と類似するものであり、富士山とは異なると考える。また、一
部の山岳はその聖なるエムゾネがゆえに登山を制限しており、登拝
はなく、遙拝という信仰形態しか持たない山もある。信仰の山
の自然的要素である標高については、自然遺産を中心に富士山
よりも高い山も存在するが、その標高に比した登頂者の多さ(
年約30万人)は他に例がなくエムゾネ、山頂部への道路や軌道に
よるアクセスがないことから、登頂者は徒歩6時間以上かけて
、山頂部を目指すことになる。こうした登山形態は、日本では
20世紀前半に開花する近代アルピニズムに起源するものでは
なく、17世紀以降の江戸(現在の東京エムゾネ)を中心に数多く
組織された富士講の登拝活動を母胎に発展したものである。こ
のことは、人々の生活の中に富士山に対する信仰の核心が継承
され、今日でも富士山は日本を代表し象徴する最高峰として老
若男女を問わず憧れ親しむ「名山」であることをエムゾネ示してい
る。また、富士山への登山は夜明け前の山頂到着を目指す登山
者が多いことにも特徴がある。これは、山頂付近で日の出を拝
むためであるが、17世紀以降、道者が山頂周辺において「御
接な関連を持つ代表例は、セザンヌが描いエムゾネたサント・ビク
トワール山があり、これはその作品の多さからも西洋美術で最も
著名な山とされるが、富士山を題材とした浮世絵がセザンヌの出
自である印象派にも大きな影響を及ぼしたことを考慮すると、そ
うした浮世絵の制作を喚起した富士山の優位エムゾネ性は揺るがな
い。(3)国内同種資産との比較信仰との関連性では、比較対象
の資産では、古くは山自体が神聖視されたが、その後は宗教施設
が発展し、山は背景となっていった。紀伊山地では、修験道の道
場として山々をめぐる行為が宗教行為とされてエムゾネおり、富士
山でもその初期においてはこうした修験者による登山が中心であ
ったが、富士山については、その後、修験者に導かれた一般人の
登拝が増加し、18世紀後半より東京を中心に流行した富士講に
よる大衆登山へと発展していった。現在も夏を中エムゾネ心に30
万人が徒歩による富士山の登山を体験しており、こうした信仰の
核心が多くの人々に継承されている点において富士山の優位性は
明らかである。芸術作品との関連性では、比較対象の資産では、
評価基準(E)は信仰の空間との関連性で用いられエムゾネており
、関連する芸術作品等も宗教的な題材とする作品が多い。富士山
は、和歌や俳句、絵画、文学の多くの分野においても、数多くの
作品を輩出し、その中には葛飾北斎の浮世絵「冨嶽三十六景」の
ように西洋の美術史に大きな影響を与えた作品もあるエムゾネ。そ
の多様性や生み出した芸術作品の影響の大きさの面でも富士山の
優位性は明らかである。(4)結語このように、富士山において
は、登拝等により、信仰の核心が現代の多くの人たちに受け継が
れ、また、浮世絵等により、近代の西欧芸術史に大きなエムゾネ影
響を及ぼした。富士山は、信仰のあり方、芸術の両面で、古代か
ら現代まで影響を与えている唯一の山であり、世界的にも類例を
見ない顕著な普遍的価値を持つ山岳である。42d)真実性及び
来迎(仏の来迎と見なされたブロッケン現象)」(のち「エムゾネ
御来光(日の出)」)を拝んだことに由来する。こうした自然
現象に宗教的な意義を見出す傾向は、比較対象の中では峨眉山
以外には見あたらない。IUCNが2009年に行ったテーマ
別研究である「世界遺産の火山」では、世界遺産一覧表には一
般のエムゾネ人々が一様に認めている火山の多くが含まれていない
ことは興味深いとし、その例として、イタリアのエトナ火山や
完全性1)完全性推薦資産の範囲は、「ある文化的伝統のエムゾネ
存在を伝承する物証として希有な存在」として神聖視され、「歴
史上の重要な段階を物語る景観を代表する顕著な見本」として認
知された富士山の範囲が適切に確保されているとともに、「顕著
な普遍的意義を有する芸術的作品及び文学的作品との直接まエムゾ
ネたは実質的な関連性」を示す富士山体の範囲も、数々の顕著な
普遍的意義を有する作品に共通して描かれた最大の範囲に相当し
ており、資産の重要性を伝える諸要素・過程を完全に表す上で適
切な範囲が確保されている。(図面挿入:主要な展望地点からエム
ゾネ見た資産範囲を示した正面図)また、登山道、神社並びに富
士五湖などの儀式・修行・巡礼の場や、適切な展望線を確保した
主要な展望地点といった、顕著な普遍的価値を表すのに必要な全
ての要素を包含している。登山道は、信仰登山が盛んに行われて
エムゾネいた18〜19世紀に認識されていた登山道を全て含み、
登山道の起点となる浅間神社も不足なく資産に含まれている。そ
の他、御室浅間神社や河口浅間神社といった富士山信仰を語る上
で欠かすことの出来ない重要な浅間神社や、富士講を迎えて登拝
のエムゾネ世話を行った御師の住宅、富士講がオプショナル・ツア
ー的に巡礼・修行を行った地として代表的な湖沼、滝、風穴・溶
岩樹型も全て資産を構成する要素として推薦範囲に含めている。
それらは、周辺に必要十分な範囲の緩衝地帯を設定しており、負
の影エムゾネ響を与える可能性の行為に対して適切な法的規制を行
うとともに、包括的保存管理計画の下に保全又は改善のための対
策を明示している。したがって、資産の周辺環境の保全に関する
完全性も揺らぎはない。2)真実性推薦資産は、所有者をはじめ
、国及エムゾネび地方公共団体によって適切な維持管理が行われ、
文化資産としての価値を失することなく良好な状態を保っている
。以下に、『世界遺産条約履行のための作業指針』第82項に示
)であるため、展望点より山体までの範囲は構成資産に含めてはい
ない。現状においてこれらの資産範囲及び展望面は三保松原の一部
を除き良好な状態を保っている。これらの資産範囲については、信
仰の核心である御中道より上の範囲は文化財保エムゾネ護法(特別名勝
及び名勝)及び自然公園法(特別保護地区及び第1種特別地域)に
より厳密に保全され、下部(標高1500〜2000m以下、特別
名勝範囲外)は自然公園法(特別保護地区、第1〜3種特別地域、
普通地域)及び森林法(保安林)によエムゾネり重層的に保護されてい
る。また、展望面の周辺部については自然公園法(特別保護地区、
第1〜3種特別地域、普通地域)及び森林法(保安林)、景観法に
基づく景観条例、景観計画により保護されている。これらの法令の
許可制に基づく保護により、エムゾネ景観面に関して資産に影響のある
開発は厳重に管理されている。また、資産範囲及び緩衝地帯に含ま
れていない三保松原の展望面についても海面において実質的に開発
行為は起りえず、市街地においても景観法に基づく景観条例、景観
計画により保護されエムゾネているため、特に問題は生じない。(2)
登山道(遺跡(site))これらの構成資産は富士山体及びそこ
に所在する登山道である。これらの構成資産については、真実性及
び完全性が担保できる部分が史跡に指定されるとともに、その大部
分の範囲がエムゾネ特別名勝に指定されている。これらの構成資産につ
いては、県が、各史跡及び特別名勝としての保存管理計画を策定し
、構成資産の所在する市町村とともに確実な保存管理に当たってい
る。したがって、各史跡等を構成する諸要素及びそれらと一体をな
すエムゾネ周辺の地域は、良好な状態を保っている。さらに、指定地内
で行われる現状変更及び保存に影響を及ぼす行為(以下、「現状変
更等」という。)につい
富士山などを挙げている。とくに富士山は、火山とその周辺地
域に訪れる年間の観光客が地球上のどの火山よりも多い点で重
要とされていエムゾネる。こうしたギャップを埋めるために、知名
度、科学的重要性、文化及び教育的価値を基準に個々の長所を
検討すべきとしている。41(2)海外の芸術関連の山岳との
比較独立峰であり、高い標高を持つ富士山の秀麗な姿は、四方
の広い範囲から眺めるエムゾネことができ、古くから芸術活動の対
象となった。これら富士山を題材にした芸術作品のうち、最も
海外に影響を与えた作品は、葛飾北斎の浮世絵「冨嶽三十六景
」である。この一連の作品は、ジャポニスムと呼ばれた西洋に
おける日本芸術の流行を生み、エムゾネモネ、ドガなどの西欧の印
象派の画家達は浮世絵から、構図、デフォルメ、平面的な表現
技法を学んでいる。また、アールヌーボーが発生する一因とも
なった。芸術的作品との関連性では、比較対象資産の関連する
多くの芸術作品が、周囲の山々や景観をエムゾネ合わせて描いたも
のである。また、そうした芸術作品との密接な関連を持ち、ア
メリカの山々のように芸術史の上で一つの流派を形成したもの
もあるが、その作品の影響は国内に留まる。また、中国の山水
画は日本にも大きな影響を与えたが、近世以降でエムゾネ美術史に
影響をもたらす芸術作品を生み出す母胎となった山は富士山し
かない。山と芸術作品との密接な関連を持つ代表例は、セザン
ヌが描いたサント・ビクトワール山があり、これはその作品の
多さからも西洋美術で最も著名な山とされるが、富士山をエムゾネ
題材とした浮世絵がセザンヌの出自である印象派にも大きな影
響を及ぼしたことを考慮すると、そうした浮世絵の制作を喚起
した富士山の優位性は揺るがない。(3)国内同種資産との比
較信仰との関連性では、比較対象の資産では、古くは山自体が
神聖エムゾネ視されたが、その後は宗教施設が発展し、山は背景と
された文化遺産の評価に適用される真実性の属性に基づいた、構
成資産のエムゾネ種類ごとの分析を示す。(1)富士山体(遺跡(
site))富士山は、1707年を最後に噴火しておらず、以
降、形態に変更はない。また、今後噴火によって形態上の変化が
起こったとしても、富士山の荒ぶる姿は人々の信仰心を鼓舞し、
芸術活動にエムゾネ駆り立てることから、真実性が損なわれるもの
ではなく、むしろ、有史以来時代を超えて、精神・機能の観点か
・遺跡(site))これらの構成資産はいずれも社殿などの木造
建造物を中心としている。それら内のいくつかは、富士山本宮浅間
大社本殿などのように重要文化財に指定されておりエムゾネ(御師住宅
は指定予定)、その他の建築物や境内地は史跡の構成要素として保
護されている。これらの木造建築物については、これまで損傷の程
度に応じた適切な修理が行われてきた。したがって、それらはすべ
て45良好な状態を保っている。具体的にエムゾネは、建造物の全体を
解体して行う全解体修理、軸組を残したまま壁や屋根などの修理を
行う半解体修理を実施しているほか、部分的な修理として屋根葺替
修理や塗装修理などを定期的に実施してきた。建造物は自然災害等
により幾度かの損傷を被ってきたエムゾネが、そのつど旧態に復旧され
、その歴史上の価値は確実に継承されている。さらに、指定地内で
行われる現状変更等については、文化財保護法の下に許可制に基づ
き厳重に規制されている。また、重要文化財である建造物のみなら
ず、史跡等に指定されたエムゾネ神社境内に存在する個々の歴史的建造
物の保存修理事業を行うに当たっては、文化財保護法の下に、それ
らの歴史に関する調査、伝統技法に関する調査、地下遺構に関する
発掘調査、破損状況及びその原因に関する調査など、事前の学術調
査を周到に行いエムゾネ、その結果に基づいて、所有者・学識経験者・
行政経験者等から成る修理及び整備委員会における保存修理や環境
整備の方針の決定及び指導に基づき実施している。また、それらの
修理完了後には、修理に係る記録をまとめた修理工事報告書を刊行
していエムゾネる。さらに、重要文化財である建造物については、火災
による焼損防止のために自動火災報知設備及び各種の消火施設・避
雷施設を設置し、防火・消火に関する組織の運営についても万全を
期している。また、建造
なっていった。紀伊山地では、修験道の道場として山々をめぐ
る行為が宗教行為とされており、富士山でもその初期において
はこうした修験者による登山が中心であったが、富士山につい
ては、その後エムゾネ、修験者に導かれた一般人の登拝が増加し、
18世紀後半より東京を中心に流行した富士講による大衆登山
へと発展していった。現在も夏を中心に30万人が徒歩による
富士山の登山を体験しており、こうした信仰の核心が多くの人
々に継承されている点エムゾネにおいて富士山の優位性は明らかで
ある。芸術作品との関連性では、比較対象の資産では、評価基
準(E)は信仰の空間との関連性で用いられており、関連する
芸術作品等も宗教的な題材とする作品が多い。富士山は、和歌
や俳句、絵画、文学の多くの分エムゾネ野においても、数多くの作
品を輩出し、その中には葛飾北斎の浮世絵「冨嶽三十六景」の
ように西洋の美術史に大きな影響を与えた作品もある。その多
様性や生み出した芸術作品の影響の大きさの面でも富士山の優
位性は明らかである。(4)結語このよエムゾネうに、富士山にお
いては、登拝等により、信仰の核心が現代の多くの人たちに受
け継がれ、また、浮世絵等により、近代の西欧芸術史に大きな
影響を及ぼした。富士山は、信仰のあり方、芸術の両面で、古
代から現代まで影響を与えている唯一の山でありエムゾネ、世界的
にも類例を見ない顕著な普遍的価値を持つ山岳である。42d
)真実性及び完全性1)完全性推薦資産の範囲は、「ある文化
的伝統の存在を伝承する物証として希有な存在」として神聖視
され、「歴史上の重要な段階を物語る景観を代表する顕著エムゾネ
な見本」として認知された富士山の範囲が適切に確保されてい
るとともに、「顕著な普遍的意義を有する芸術的作品及び文学
的作品との直接または実質的な関連性」を示す富士山体の範囲
も、数々の顕著な普遍的意義を有する作品に共通して描かれた
らみた真実性は確実に維持されている。神聖性が最も高いとされ
る、山体中腹以上の核心となる区域には、文化財保護法により厳
格に保護されエムゾネているほか、その周辺地域や展望線及び主要
な展望地点は、自然公園法などの国内法により展望・眺望への妨
げとなるものの除外や風致景観との調和を図る景観保全が行われ
ており、景観全体の真実性は確実に保証される。また、登山道や
山小屋、信仰関エムゾネ連遺跡などの諸要素が総体的な登拝システ
ムを構築し、その機能は良好に遺存している。登山道は、人為に
よる現状の変更には厳しい規制がかけられており、地下に埋もれ
た遺構を含め、価値の真実性の伝達については、将来にわたり確
実に保証されていエムゾネる。また、宗教空間としての用途・機能
を何百年も維持してきた。レクリエーションのために登43山を
行う人々にとっても、脈々と継承してきた富士山に対する信仰の
核心の証左として、それらは機能している。(2)神社・御師住
宅(記念工作物・建エムゾネ造物群・遺跡(site))神社につ
いて、建築の歴史的価値を表す平面形式、構造様式、内外の立面
意匠は顕著な普遍的価値を表す時代のままである。近代以降の保
存修理事業においては、建立後に修理又は改変された後補部分に
ついて、後補材の撤去エムゾネ・復原・欠失した部分の復旧を行う
など、高い真実性が追究されてきた。脆弱な材料・材質から成る
木造建築の修理に関する伝統をはじめ、そこに用いられる技術に
ついても確実に継承されている。また、富士山の顕著な普遍的価
値が最もよく表現されるエムゾネ時代の位置を維持し、境内林など
に囲まれた周辺の環境も良好である。さらに、宗教空間としての
用途・機能を何百年も維持してきた。レクリエーションのために
登山を行う人々にとっても、脈々と継承してきた富士山に対する
信仰の核心の証左として、エムゾネそれらは機能している。(3)
その他の信仰関連遺跡(遺跡(site))富士五湖及び忍野八
等の日常管理については、所有者の依頼により、専門の建築技術者
によって実施されている。(4)その他信仰関連遺跡(エムゾネ遺跡(
site))これらの構成資産は、湖沼、風穴・溶岩樹型、滝・湧
水、石造工作物(人穴の碑塔)である。これらの構成資産について
は、その自然的価値から
最大エムゾネの範囲に相当しており、資産の重要性を伝える諸要素
・過程を完全に表す上で適切な範囲が確保されている。(図面
挿入:主要な展望地点から見た資産範囲を示した正面図)また
、登山道、神社並びに富士五湖などの儀式・修行・巡礼の場や
、適切な展望エムゾネ線を確保した主要な展望地点といった、顕著
な普遍的価値を表すのに必要な全ての要素を包含している。登
山道は、信仰登山が盛んに行われていた18〜19世紀に認識
されていた登山道を全て含み、登山道の起点となる浅間神社も
不足なく資産に含まれエムゾネている。その他、御室浅間神社や河
口浅間神社といった富士山信仰を語る上で欠かすことの出来な
い重要な浅間神社や、富士講を迎えて登拝の世話を行った御師
の住宅、富士講がオプショナル・ツアー的に巡礼・修行を行っ
た地として代表的な湖沼、滝、エムゾネ風穴・溶岩樹型も全て資産
を構成する要素として推薦範囲に含めている。それらは、周辺
に必要十分な範囲の緩衝地帯を設定しており、負の影響を与え
る可能性の行為に対して適切な法的規制を行うとともに、包括
的保存管理計画の下に保全又は改善のたエムゾネめの対策を明示し
ている。したがって、資産の周辺環境の保全に関する完全性も
揺らぎはない。2)真実性推薦資産は、所有者をはじめ、国及
び地方公共団体によって適切な維持管理が行われ、文化資産と
しての価値を失することなく良好な状態を保ってエムゾネいる。以
下に、『世界遺産条約履行のための作業指針』第82項に示さ
れた文化遺産の評価に適用される真実性の属性に基づいた、構
成資産の種類ごとの分析を示す。(1)富士山体(遺跡(si
te))富士山は、1707年を最後に噴火しておらず、エムゾネ
以降、形態に変更はない。また、今後噴火によって形態上の変
化が起こったとしても、富士山の荒ぶる姿は人々の信仰心を鼓
舞し、芸術活動に駆り立てることから、真実性が損なわれるも
海においては、文献や石碑などの状況証拠から、内八海巡りや富
士御手洗元八湖が行われていたことがわかっている。人々の信仰
心を駆り立てた湖沼の水そのエムゾネものは、顕著な普遍的価値の
核心として現在に継承されている。さらに、周辺環境においても
、自然公園法や景観法に基づく景観計画などにより風致景観との
調和を図る景観保全が行われており、景観全体の真実性は確実に
保証されている。白糸ノ滝におエムゾネいては、長谷川角行の修行
地がどこであったかを明確に示す文献はないが、富士講講徒が滝
壺で修行したことは講徒の記録及びその挿図で確認できる。船津
胎内樹型及び吉田胎内樹型の中には祠などが祀られ、穴自体を神
聖視する精神、宗教空間としてのエムゾネ機能は現在も受け継がれ
ている。入洞者の安全のため、船津胎内樹型の入り口部分は改変
が加えられているが、それ以外の形状・位置の真実性は、自然崩
落の場合を除き、確実に継承されている。人穴富士講遺跡におい
ては、碑塔のほとんどに建立者、講エムゾネの名称や年号(創建年
号や関係者の死亡年号)などが記載されており、真実性に疑いの
余地はない。444.保全状況と資産に与える影響a)現在の保
全状況「富士山」の17個の構成資産については、すでに多くの
修理や整備の事業が適切に行われておエムゾネり、自然的な要因に
基づく一部の資産を除き構成資産の保存状況も良好である。特に
神社の建造物及び境内については、所有者である宗教法人により
適切な維持的措置が恒常的に行われており、保存状況は良好であ
る。1)資産全体の保全状況(1)主要エムゾネな展望主要な展望
としての構成資産は、本栖湖と三保松原であり、展望点及びそこ
から展望した山体の大部分である。展望面に関しては本栖湖の場
合構成資産に含まれており、三保松原の場合は展望点より山体ま
で距離の距離が約45qと遠方であり、かエムゾネつ、その間のか
なりの部分が海面及び人口密集地(富士市市街地)であるため、
に指定されている。これらの構成資産については、県及び市町村が
、各史跡等の規模・形態・性質・立地・環境等に応じて保存管理計
画を策定し、確実な保存管理に当たっエムゾネている。したがって、各
史跡等を構成する諸要素及びそれらと一体をなす周辺の地域は、良
好な状態を保っている。さらに、指定地内で行われる現状変更等に
ついては、文化財保護法の下に許可制に基づき厳重に規制されてい
る。2)構成資産の保全状況エムゾネ(A)山体(眺望の対象である富
士山、ある文化的伝統を伝承する物証である、連続性のある資産と
しての富士山)登録範囲における自然的環境については、おおむね
良好な状態である。資産範囲の上部は文化財保護法(特別名勝)及
び自然公園法(特別エムゾネ保護地区及び第1種特別地域、第2種特別
地域)により厳密に保全され、下部(標高1500〜2000m以
下、特別名勝範囲外)は自然公園法(特別保護地区、第1〜3種特
別地域、普通地域)及び森林法(保安林)により重層的に保護され
ているためエムゾネ、景観および文化的価値のどちらの点においても資
産に影響を及ぼす行為は発生しない。た46だし、山体西側には山
頂部付近から標高2200m付近までを源頭部とする土砂崩れ(以
下、「大沢崩れ」という。)が、約1000年前より継続して発生
しエムゾネている。このため山体西側の一部でかつての信仰に関わる道
(御中道)の通行等が禁止されている区域がある。山頂及び登山道
周辺では、多くの人々によって行われる登山行為に起因する廃棄物
・し尿が発生するが、山小屋組合などにより適切に管理・除エムゾネ去
されている。なお、山腹において、山小屋の維持・廃棄物の撤去の
ためにブルドーザーが通行する道路があるが、使用は必要最小限に
とどめられている。山頂部周辺の文化的環境についても、現時点に
おける保全状態は良好で
のではなく、むしろ、有史以来時代を超えて、精神・機能の観
点かエムゾネらみた真実性は確実に維持されている。神聖性が最も
高いとされる、山体中腹以上の核心となる区域には、文化財保
護法により厳格に保護されているほか、その周辺地域や展望線
及び主要な展望地点は、自然公園法などの国内法により展望・
眺望への妨げエムゾネとなるものの除外や風致景観との調和を図る
景観保全が行われており、景観全体の真実性は確実に保証され
展望点より山体までの範囲は構成資産に含めてはいない。現状に
おいてこれらの資産範囲及び展望面は三保松原の一部を除き良好
な状態を保っている。これらの資産範囲につエムゾネいては、信仰
の核心である御中道より上の範囲は文化財保護法(特別名勝及び
名勝)及び自然公園法(特別保護地区及び第1種特別地域)によ
り厳密に保全され、下部(標高1500〜2000m以下、特別
名勝範囲外)は自然公園法(特別保護地区、第エムゾネ1〜3種特
別地域、普通地域)及び森林法(保安林)により重層的に保護さ
れている。また、展望面の周辺部については自然公園法(特別保
護地区、第1〜3種特別地域、普通地域)及び森林法(保安林)
、景観法に基づく景観条例、景観計画により保護エムゾネされてい
る。これらの法令の許可制に基づく保護により、景観面に関して
資産に影響のある開発は厳重に管理されている。また、資産範囲
及び緩衝地帯に含まれていない三保松原の展望面についても海面
において実質的に開発行為は起りえず、市街地におエムゾネいても
景観法に基づく景観条例、景観計画により保護されているため、
特に問題は生じない。(2)登山道(遺跡(site))これら
の構成資産は富士山体及びそこに所在する登山道である。これら
の構成資産については、真実性及び完全性が担保できエムゾネる部
分が史跡に指定されるとともに、その大部分の範囲が特別名勝に
指定されている。これらの構成資産については、県が、各史跡及
び特別名勝としての保存管理計画を策定し、構成資産の所在する
市町村とともに確実な保存管理に当たっている。したがエムゾネっ
て、各史跡等を構成する諸要素及びそれらと一体をなす周辺の地
域は、良好な状態を保っている。さらに、指定地内で行われる現
状変更及び保存に影響を及ぼす行為(以下、「現状変更等」とい
う。)については、文化財保護法の下に許可制に基づき厳エムゾネ
重に規制されている(富士山体の保護措置については次項で詳し
富士山は脆弱な火山地質であるとともに、雪崩・強風等に常時さら
されるため、登山の開始以降登山道小規模エムゾネな経路の変更は常時
行われていた。したがって、継続的な観点における保全状態につい
て明確に述べることはできない。しかし、現在も登山道として使用
されている部分については毎年登山期前に県、地元保存会(須山口
)又は山小屋組合により整備が行エムゾネわれ、適切な状態に保たれて
いる。(A6)北口本宮冨士浅間神社北口本宮冨士浅間神社は定期
的な維持修理が行われており、現時点における保全状態は良好であ
る。(A7〜9)西湖・精進湖・本栖湖すべての湖とも現時点にお
ける保全状態は良好であエムゾネる。中でも本栖湖は、訪問者の体験を
損ねないように、展望地点から富士山を見た展望線と展望地点区域
の周辺環境の維持に配慮した良好な保存管理が行われており、現時
点における保全状態は特に良好である。(B1)富士山本宮浅間大
社定期的な維持エムゾネ修理が行われており、現時点における保全状態
は良好である。湧玉池は全般的には良好な状態であるが、二つの池
のうち「上池」では、湧水量が減少し、藻類が繁殖しているため、
「湧玉池保全再生会議」が設置され、対策が検討されている。(B
2)山エムゾネ宮浅間神社現時点における保全状態は良好である。(B
3)村山浅間神社現時点における保全状態は良好である。(B4)
須山浅間神社現時点における保全状態は良好である。(B5)富士
浅間神社(須走浅間神社)現時点における保全状態は良好であるエムソ
゙ネ。(B6)河口浅間神社現時点における保全状態は良好である。
47(B7)冨士御室浅間神社現時点における保全状態は良好であ
る。ただし、漆塗装の磨耗退色が著しい部分がある。また、本宮本
殿の脇障子版は富士山二合目所在時に毀損にあっておりエムゾネ、今後
、修復・修繕の検
る。また、登山道や山小屋、信仰関連遺跡などの諸要素が総体
的な登拝システムを構築し、その機能は良好に遺存している。
登山道は、人為によるエムゾネ現状の変更には厳しい規制がかけら
れており、地下に埋もれた遺構を含め、価値の真実性の伝達に
ついては、将来にわたり確実に保証されている。また、宗教空
間としての用途・機能を何百年も維持してきた。レクリエーシ
ョンのために登43山を行う人エムゾネ々にとっても、脈々と継承
してきた富士山に対する信仰の核心の証左として、それらは機
能している。(2)神社・御師住宅(記念工作物・建造物群・
遺跡(site))神社について、建築の歴史的価値を表す平
面形式、構造様式、内外の立面意匠は顕エムゾネ著な普遍的価値を
表す時代のままである。近代以降の保存修理事業においては、
建立後に修理又は改変された後補部分について、後補材の撤去
・復原・欠失した部分の復旧を行うなど、高い真実性が追究さ
れてきた。脆弱な材料・材質から成る木造建築のエムゾネ修理に関
する伝統をはじめ、そこに用いられる技術についても確実に継
承されている。また、富士山の顕著な普遍的価値が最もよく表
現される時代の位置を維持し、境内林などに囲まれた周辺の環
境も良好である。さらに、宗教空間としての用途・機能をエムゾネ
何百年も維持してきた。レクリエーションのために登山を行う
人々にとっても、脈々と継承してきた富士山に対する信仰の核
心の証左として、それらは機能している。(3)その他の信仰
関連遺跡(遺跡(site))富士五湖及び忍野八海において
は、エムゾネ文献や石碑などの状況証拠から、内八海巡りや富士御
手洗元八湖が行われていたことがわかっている。人々の信仰心
を駆り立てた湖沼の水そのものは、顕著な普遍的価値の核心と
して現在に継承されている。さらに、周辺環境においても、自
然公園法や景エムゾネ観法に基づく景観計画などにより風致景観と
く述べる。)。(3)神社・御師住宅(記念工作物・建造物群・
遺跡(site))これらの構成資産はいずれも社殿などの木造
建造物を中心としている。それら内のいくつかは、富士山本エムゾ
ネ宮浅間大社本殿などのように重要文化財に指定されており(御
師住宅は指定予定)、その他の建築物や境内地は史跡の構成要素
として保護されている。これらの木造建築物については、これま
で損傷の程度に応じた適切な修理が行われてきた。したがってエム
て日常的な維持管理が行われているほか、補助エムゾネ事業などによっ
て文化財としての保護に必要な修繕や設備の整備が進められてきた
。(B9〜10)山中湖、河口湖どちらの湖とも現時点における保
全状態は良好である。(B11)忍野八海天然記念物として指定さ
れている範囲は水面に限られており、エムゾネ私有地が隣接しているた
め、周辺環境を含めた保全状態に課題がある。しかし、忍野村が景
観計画を策定し、周辺環境を含めた保全を行っている。(B12)
船津胎内樹型現時点における保全状態は良好である。(B13)吉
田胎内樹型内部の溶岩の盗掘エムゾネや人の侵入による破壊を防ぐため
に本穴入り口は施錠されており、現時点における保全状態は良好で
ある。(B14)人穴富士講遺跡碑塔群はおおむね良好な状態であ
るが、一部の碑塔に修理が必要である。(B15)白糸ノ滝現状で
は滝壺周辺に売店がエムゾネあるなど景観面において課題がある。この
ため、富士宮市が中心となり保存管理計画の改訂および整備計画の
策定を行い、今後適切な整備がなされる予定である。滝の自然崩壊
については特に対策は採られていない。(C)三保松原現状では1
960〜8エムゾネ0年代に進行した海岸浸食の影響からの回復を図る
ため、資産内及び周辺にヘッドランドなどが仮設され、景観に影響
を与えている。また、松原においてもマツクイムシ(マツノザイセ
ンチュウ)による松枯れがみられるため、薬剤注入・散布による予
防エムゾネ措置及び植林、枯れた松の除去が実施されている。現在これ
らの対策により、資産の現状を保ち、将来においてはより良好な保
全状態となることは確実である。なお、三保松原の象徴的存在であ
る羽衣の松は1707年の宝永噴火とその前後の地震によりエムゾネ初
代とされる松が失われたため、現在の松(樹齢約650年)を指定
した。しかし、この松も
の調和を図る景観保全が行われており、景観全体の真実性は確
実に保証されている。白糸ノ滝においては、長谷川角行の修行
地がどこであったかを明確に示す文献はないが、富士講講徒が
滝壺で修行したことはエムゾネ講徒の記録及びその挿図で確認でき
る。船津胎内樹型及び吉田胎内樹型の中には祠などが祀られ、
穴自体を神聖視する精神、宗教空間としての機能は現在も受け
継がれている。入洞者の安全のため、船津胎内樹型の入り口部
分は改変が加えられているが、エムゾネそれ以外の形状・位置の真
実性は、自然崩落の場合を除き、確実に継承されている。人穴
富士講遺跡においては、碑塔のほとんどに建立者、講の名称や
年号(創建年号や関係者の死亡年号)などが記載されており、
真実性に疑いの余地はない。444.保エムゾネ全状況と資産に与
える影響a)現在の保全状況「富士山」の17個の構成資産に
ついては、すでに多くの修理や整備の事業が適切に行われてお
り、自然的な要因に基づく一部の資産を除き構成資産の保存状
況も良好である。特に神社の建造物及び境内につエムゾネいては、
所有者である宗教法人により適切な維持的措置が恒常的に行わ
れており、保存状況は良好である。1)資産全体の保全状況(
1)主要な展望主要な展望としての構成資産は、本栖湖と三保
松原であり、展望点及びそこから展望した山体の大部分でエムゾネ
ある。展望面に関しては本栖湖の場合構成資産に含まれており
、三保松原の場合は展望点より山体まで距離の距離が約45q
と遠方であり、かつ、その間のかなりの部分が海面及び人口密
集地(富士市市街地)であるため、展望点より山体までの範囲
は構エムゾネ成資産に含めてはいない。現状においてこれらの資産
範囲及び展望面は三保松原の一部を除き良好な状態を保ってい
る。これらの資産範囲については、信仰の核心である御中道よ
り上の範囲は文化財保護法(特別名勝及び名勝)及び自然公園
訂を行っている。なお、資産範囲・緩衝地帯範囲には含まれないが
、三保松原の富士山方向の対岸に当たる富士市の工業地帯において
は、現在使用していない高煙突の撤去が静岡県の政策(富士地域煙
突ゼロ作戦)として実施されている。48エムゾネb)資産に与える影
響の要因1)開発
法(特別保護エムゾネ地区及び第1種特別地域)により厳密に保全
され、下部(標高1500〜2000m以下、特別名勝範囲外
)は自然公園法(特別保護地区、第1〜3種特別地域、普通地
域)及び森林法(保安林)により重層的に保護されている。ま
た、展望面の周辺部にエムゾネついては自然公園法(特別保護地区
、第1〜3種特別地域、普通地域)及び森林法(保安林)、景
観法に基づく景観条例、景観計画により保護されている。これ
らの法令の許可制に基づく保護により、景観面に関して資産に
影響のある開発は厳重に管理さエムゾネれている。また、資産範囲
及び緩衝地帯に含まれていない三保松原の展望面についても海
面において実質的に開発行為は起りえず、市街地においても景
観法に基づく景観条例、景観計画により保護されているため、
特に問題は生じない。(2)登山道(遺エムゾネ跡(site))
これらの構成資産は富士山体及びそこに所在する登山道である
。これらの構成資産については、真実性及び完全性が担保でき
る部分が史跡に指定されるとともに、その大部分の範囲が特別
名勝に指定されている。これらの構成資産についエムゾネては、県
が、各史跡及び特別名勝としての保存管理計画を策定し、構成
資産の所在する市町村とともに確実な保存管理に当たっている
。したがって、各史跡等を構成する諸要素及びそれらと一体を
なす周辺の地域は、良好な状態を保っている。さらに、指エムゾネ
定地内で行われる現状変更及び保存に影響を及ぼす行為(以下
、「現状変更等」という。)については、文化財保護法の下に
許可制に基づき厳重に規制されている(富士山体の保護措置に
ついては次項で詳しく述べる。)。(3)神社・御師住宅(記
念工エムゾネ作物・建造物群・遺跡(site))これらの構成資
産はいずれも社殿などの木造建造物を中心としている。それら
内のいくつかは、富士山本宮浅間大社本殿などのように重要文
記念物に、白エムゾネ糸ノ滝が名勝及び天然記念物に、富士五湖が
名勝に、風穴・溶岩樹型及び忍野八海が天然記念物に指定されて
いるとともに、その一部が史跡に指定されている。これらの構成
資産については、県及び市町村が、各史跡等の規模・形態・性質
・立地・環境等エムゾネに応じて保存管理計画を策定し、確実な保
存管理に当たっている。したがって、各史跡等を構成する諸要素
及びそれらと一体をなす周辺の地域は、良好な状態を保っている
。さらに、指定地内で行われる現状変更等については、文化財保
護法の下に許可制エムゾネに基づき厳重に規制されている。2)構
成資産の保全状況(A)山体(眺望の対象である富士山、ある文
化的伝統を伝承する物証である、連続性のある資産としての富士
山)登録範囲における自然的環境については、おおむね良好な状
態である。資産範囲エムゾネの上部は文化財保護法(特別名勝)及
び自然公園法(特別保護地区及び第1種特別地域、第2種特別地
域)により厳密に保全され、下部(標高1500〜2000m以
下、特別名勝範囲外)は自然公園法(特別保護地区、第1〜3種
特別地域、普通地域)エムゾネ及び森林法(保安林)により重層的
に保護されているため、景観および文化的価値のどちらの点にお
いても資産に影響を及ぼす行為は発生しない。た46だし、山体
西側には山頂部付近から標高2200m付近までを源頭部とする
土砂崩れ(以下、「大沢エムゾネ崩れ」という。)が、約1000
年前より継続して発生している。このため山体西側の一部でかつ
ての信仰に関わる道(御中道)の通行等が禁止されている区域が
ある。山頂及び登山道周辺では、多くの人々によって行われる登
山行為に起因する廃棄物・エムゾネし尿が発生するが、山小屋組合
などにより適切に管理・除去されている。なお、山腹において、
山小屋の維持・廃棄物の撤去のためにブルドーザーが通行する道
路があるが、使用は必要最小限にとどめられている。山頂部周辺
法、海岸法及び関係市町村が定めエムゾネる条例(景観法に基づき策定
された景観条例等)の下に、それらの規模、形態・構造に関する規
制(建築物又は工作物に関しては、それらの高さ・色彩・意匠等の
規制を含む)が行われるため、資産の価値を著しく低下させるよう
な開発は起り得ない。「エムゾネ富士山世界遺産両県協議会」(設置予
定・仮称)では、両県の知事・市町村長を中心に、許認可・保存に
関わる国機関も加わり、開発の状況を把握し、コントロールのあり
方について検討を行う予定である。開発計画のうち、現在北麓(山
梨県)においてエムゾネは都市計画区域用途地域または都市計画区域外
では5ha以上、都市計画内(用途地域外)では10ha以上の計
画については、山梨県内の組織である「山梨県土地利用調整会議」
に事前協議書が提出され、知事の同意が必要とされている。その同
意を得エムゾネた後で、個別法令の許認可を担当する部署での手続きを
行うことになっており、一元化した組織かつ統一した基準での開発
のコントロールが行われている。こうした大規模開発を含む緩衝地
帯内で行われる一定規模以上の開発行為については、「富士山世エムソ
゙ネ界遺産両県協議会」へ報告がなされ、必要に応じて個別法令の許
認可を担当する部署に対して助言等がなされる予定である。また、
各市町村の景観計画の下に、各市町村は景観阻害要因の排除に努め
ることとしているほか、世界遺産暫定一覧表に記載されエムゾネ、世界
遺産一覧表への記載の可能性のある文化資産に相応しい周辺市街地
を創出するために適切な景観の保全・改善の施策を実施することと
している。なお、次に掲げる開発計画等の立案に当たっては、いず
れにおいても資産への影響を最小限に留めるよエムゾネう関係機関・団
体と調整を行うことし、実施する場合にも事前に十分な協議を行う
こととしている。(1)
化財に指定されており(御師住宅は指定予定)、その他の建築
物や境内地はエムゾネ史跡の構成要素として保護されている。これ
らの木造建築物については、これまで損傷の程度に応じた適切
な修理が行われてきた。したがって、それらはすべて45良好
な状態を保っている。具体的には、建造物の全体を解体して行
う全解体修理、軸組をエムゾネ残したまま壁や屋根などの修理を行
う半解体修理を実施しているほか、部分的な修理として屋根葺
の文化的環境についても、現エムゾネ時点における保全状態は良好
である。ただし、降雪・強風等に常時さらされるため、小規模な
変更は常時行われてきた。(A1)山頂信仰遺跡現時点における
保全状態は良好である。(A2〜5)登山道富士山は脆弱な火山
地質であるとともに、雪崩・強エムゾネ風等に常時さらされるため
、登山の開始以降登山道小規模な経路の変更は常時行われていた
。したがって、継続的な観点における保全状態について明確に述
べることはできない。しかし、現在も登山道として使用されてい
る部分については毎年登山期前にエムゾネ県、地元保存会(須山口
)又は山小屋組合により整備が行われ、適切な状態に保たれてい
る。(A6)北口本宮冨士浅間神社北口本宮冨士浅間神社は定期
的な維持修理が行われており、現時点における保全状態は良好で
ある。(A7〜9)西湖・精進湖・エムゾネ本栖湖すべての湖とも
現時点における保全状態は良好である。中でも本栖湖は、訪問者
の体験を損ねないように、展望地点から富士山を見た展望線と展
望地点区域の周辺環境の維持に配慮した良好な保存管理が行われ
ており、現時点における保全状態は特エムゾネに良好である。(B
1)富士山本宮浅間大社定期的な維持修理が行われており、現時
点における保全状態は良好である。湧玉池は全般的には良好な状
態であるが、二つの池のうち「上池」では、湧水量が減少し、藻
類が繁殖しているため、「湧玉池保全再エムゾネ生会議」が設置さ
れ、対策が検討されている。(B2)山宮浅間神社現時点におけ
る保全状態は良好である。(B3)村山浅間神社現時点における
保全状態は良好である。(B4)須山浅間神社現時点における保
全状態は良好である。(B5)富士浅間神エムゾネ社(須走浅間神
社)現時点における保全状態は良好である。(B6)河口浅間神
社現時点における保全状態は良好である。47(B7)冨士御室
浅間神社現時点における保全状態は良好である。ただし、漆塗装
いても同様である。特に山体の五合目以上、本栖湖からの展望線の
核心部は自然公園法の特別保護地区、第1種特別地域となっており
、新規の構造物の建築は禁止されている。また、富士山北麓(山梨
県)では新規の10ha以上エムゾネのゴルフ場開発については凍結さ
れている。(2)廃棄物処分場又は清掃工場現時点で計画なし。(
※演習場内の解放地に御殿場市・小山町広域行政組合によるゴミ処
理施設の計画あり。)(3)工場又は工業団地現時点で計画なし。
(北口本宮冨士浅間エムゾネ神社の南600mの地域に、工場進出の計
画あり。)(4)道路整備緩衝地帯においては、北口本宮冨士浅間
神社と御師住宅との間を走る国道138号の拡幅が計画されている
。当該道路計画においては、市、県、国等の関係機関と有識者から
なる「富士エムゾネ北麓地域交通円滑化対策検討会」において、計画案
の検討を行うなど、当該神社の社叢や周囲の景観に調和した道路の
意匠・構造とすることとしており、当該資産の価値の保護に影響は
ない。49県道山中湖忍野富士吉田線の新倉トンネルは、河口湖畔
とエムゾネ富士吉田市中心部をトンネルで結ぶ計画である。河口湖湖畔
の渋滞解消、火山防災のバイパスとすることを目的としており、当
該資産の価値の保護に影響はない。また、道路改良事業として、線
形改良、歩道設置など来訪者の安全性向上を図ることを目的エムゾネと
した事業が行われ、景観に配慮した内容とするよう調整している。
2)環境の圧力資産の価値を著しく低下させるような自然的環境の
変化として、山体の形状を変化させる噴火及びそれに伴う噴石、火
砕流・火砕サージ、溶岩流、融雪型火山泥流、降灰エムゾネ、降灰後の
降雨による土石流などによる登山道及び周辺の資産の損傷が予測さ
れる。「大沢崩れ」が約1000年前より始まり、現在その幅は年
1.6mの割合で拡大し
替修理や塗装修理などを定期的に実施してきた。建造物は自然
災害等により幾度かの損傷を被ってきたが、そのつど旧態に復
旧され、その歴史上の価値は確エムゾネ実に継承されている。さら
に、指定地内で行われる現状変更等については、文化財保護法
の下に許可制に基づき厳重に規制されている。また、重要文化
財である建造物のみならず、史跡等に指定された神社境内に存
在する個々の歴史的建造物の保存修理事エムゾネ業を行うに当たっ
ては、文化財保護法の下に、それらの歴史に関する調査、伝統
技法に関する調査、地下遺構に関する発掘調査、破損状況及び
その原因に関する調査など、事前の学術調査を周到に行い、そ
の結果に基づいて、所有者・学識経験者・行政経エムゾネ験者等か
ら成る修理及び整備委員会における保存修理や環境整備の方針
の決定及び指導に基づき実施している。また、それらの修理完
了後には、修理に係る記録をまとめた修理工事報告書を刊行し
ている。さらに、重要文化財である建造物については、火エムゾネ
災による焼損防止のために自動火災報知設備及び各種の消火施
設・避雷施設を設置し、防火・消火に関する組織の運営につい
ても万全を期している。また、建造物の所有者である宗教法人
及び市並びに個人は、県又は各市町村が策定した保存活用計画
に基エムゾネづいて、それらの確実な保存管理に当たっている。ま
た、建造物の軽微な補修等の日常管理については、所有者の依
頼により、専門の建築技術者によって実施されている。(4)
その他信仰関連遺跡(遺跡(site))これらの構成資産は
、湖沼、風穴エムゾネ・溶岩樹型、滝・湧水、石造工作物(人穴の
碑塔)である。これらの構成資産については、その自然的価値
から湧玉池が特別天然記念物に、白糸ノ滝が名勝及び天然記念
物に、富士五湖が名勝に、風穴・溶岩樹型及び忍野八海が天然
記念物に指定されていエムゾネるとともに、その一部が史跡に指定
の磨耗退色が著しい部分がある。また、本宮エムゾネ本殿の脇障子
版は富士山二合目所在時に毀損にあっており、今後、修復・修繕
の検討が予想される。(B8)御師住宅旧外川家住宅は2006
−2007年に大規模な修繕工事を行ったため、現時点における
保全状態は良好である。小佐野家住宅は、所有エムゾネ者らによっ
て日常的な維持管理が行われているほか、補助事業などによって
文化財としての保護に必要な修繕や設備の整備が進められてきた
も200年後までは富士山の景観に大きな変化はないと予測されて
いる(「富士火山」P407〜)。酸性雨を含む大気汚染が引き起
こす被害については、現段階ではエムゾネ確認されていない。白糸ノ滝
では、滝自体の浸食により年2cmの割合で後退しており、10年
程度の間隔で自然崩壊が発生する。砂嘴である三保松原では20世
紀後半に土砂供給源の川での土砂採取が活発になり、堆積活動が減
少したことで海流によるエムゾネ海岸浸食が進んでいたが、現在は土砂
採取の禁止等により、堆積活動が回復している。また、三保松原に
おける松にはマツクイムシ(マツノザイセンチュウ)による被害が
見られる。これに対しては、薬剤注入・散布による予防措置及び植
林、枯れた松のエムゾネ除去を資産の所在する静岡市とNPO法人が行
っており、被害の拡大を防止している。3)自然災害と危機管理資
産の所在地域における自然災害としては、第一に富士山特有のもの
として山体及び側火山からの噴火及びそれに伴う噴石、火砕流・火
砕サーエムゾネジ、溶岩流、融雪型火山泥流、降灰、降灰後の降雨によ
る土石流などが予想されるとともに、数年単位で発生する山体にお
ける雪崩(特に大量の水分を含んだ雪が流動する雪泥流)や大沢崩
れ及びそれに伴う土石流、強風、雨水による浸食などが考えられエムソ
゙ネる。また、富士山を含む駿河湾沿いの地域はM8クラスの海洋プ
レート内地震の発生が予測されている。第二に日本列島の太平洋側
における一般的自然災害である台風・大雨・洪水並びに火災等が予
測されている。第三に三保松原に関しては海岸浸食に伴エムゾネう高潮
などの被害がある。これらについてそれぞれ以下のような防災対策
を講じている。噴火及びそれに伴う災害に対しては、気象庁をはじ
めとする研究・防災機関が常時観測を行うと同時に、国の富士山ハ
ザードマップ検討委員会
されている。これらの構成資産については、県及び市町村が、
各史跡等の規模・形態・性質・立地・環境等に応じて保存管理
計画を策定し、確実な保存管理に当たっている。したがって、
各史跡等を構成する諸要素及びエムゾネそれらと一体をなす周辺の
地域は、良好な状態を保っている。さらに、指定地内で行われ
る現状変更等については、文化財保護法の下に許可制に基づき
厳重に規制されている。2)構成資産の保全状況(A)山体(
眺望の対象である富士山、ある文化的伝エムゾネ統を伝承する物証
である、連続性のある資産としての富士山)登録範囲における
自然的環境については、おおむね良好な状態である。資産範囲
の上部は文化財保護法(特別名勝)及び自然公園法(特別保護
地区及び第1種特別地域、第2種特別地域)によエムゾネり厳密に
保全され、下部(標高1500〜2000m以下、特別名勝範
囲外)は自然公園法(特別保護地区、第1〜3種特別地域、普
通地域)及び森林法(保安林)により重層的に保護されている
ため、景観および文化的価値のどちらの点においても資産エムゾネ
に影響を及ぼす行為は発生しない。た46だし、山体西側には
山頂部付近から標高2200m付近までを源頭部とする土砂崩
れ(以下、「大沢崩れ」という。)が、約1000年前より継
続して発生している。このため山体西側の一部でかつての信仰
に関エムゾネわる道(御中道)の通行等が禁止されている区域があ
る。山頂及び登山道周辺では、多くの人々によって行われる登
山行為に起因する廃棄物・し尿が発生するが、山小屋組合など
により適切に管理・除去されている。なお、山腹において、山
小屋の維持・エムゾネ廃棄物の撤去のためにブルドーザーが通行す
る道路があるが、使用は必要最小限にとどめられている。山頂
部周辺の文化的環境についても、現時点における保全状態は良
好である。ただし、降雪・強風等に常時さらされるため、小規
。(B9〜10)山中湖、河口湖どちらの湖とも現時点における
保全状態は良好である。(B11)忍野八海天然エムゾネ記念物と
して指定されている範囲は水面に限られており、私有地が隣接し
ているため、周辺環境を含めた保全状態に課題がある。しかし、
忍野村が景観計画を策定し、周辺環境を含めた保全を行っている
。(B12)船津胎内樹型現時点における保全状態エムゾネは良好
である。(B13)吉田胎内樹型内部の溶岩の盗掘や人の侵入に
よる破壊を防ぐために本穴入り口は施錠されており、現時点にお
ける保全状態は良好である。(B14)人穴富士講遺跡碑塔群は
おおむね良好な状態であるが、一部の碑塔に修理が必エムゾネ要で
ある。(B15)白糸ノ滝現状では滝壺周辺に売店があるなど景
観面において課題がある。このため、富士宮市が中心となり保存
管理計画の改訂および整備計画の策定を行い、今後適切な整備が
なされる予定である。滝の自然崩壊については特に対策エムゾネは
採られていない。(C)三保松原現状では1960〜80年代に
進行した海岸浸食の影響からの回復を図るため、資産内及び周辺
にヘッドランドなどが仮設され、景観に影響を与えている。また
、松原においてもマツクイムシ(マツノザイセンチュウ)エムゾネ
による松枯れがみられるため、薬剤注入・散布による予防措置及
び植林、枯れた松の除去が実施されている。現在これらの対策に
より、資産の現状を保ち、将来においてはより良好な保全状態と
なることは確実である。なお、三保松原の象徴的存在であるエムゾ
ネ羽衣の松は1707年の宝永噴火とその前後の地震により初代
とされる松が失われたため、現在の松(樹齢約650年)を指定
した。しかし、この松も台風による幹の損傷で樹勢が衰え、20
10年10月にその交代が行われる(三代目は樹齢約300〜エム
ゾネ400年と推定されている)。また、現在静岡市が保存管理
計画の改訂を行っている。なお、資産範囲・緩衝地帯範囲には含
山道に浸透桝を設け、雨水や雪崩による崩壊を防いでいる。土砂崩
れ・土石流(主に大沢崩れ)についてエムゾネは国が中心となり、源頭
部における水分と土砂の分離、山麓における土石流災害防止を目的
とした遊砂地の設置などを行っている。また、登山道を管理する県
では導流堤を設置し、落
模な変更は常時行われエムゾネてきた。(A1)山頂信仰遺跡現時
点における保全状態は良好である。(A2〜5)登山道富士山
は脆弱な火山地質であるとともに、雪崩・強風等に常時さらさ
れるため、登山の開始以降登山道小規模な経路の変更は常時行
われていた。したがって、継続エムゾネ的な観点における保全状態
について明確に述べることはできない。しかし、現在も登山道
として使用されている部分については毎年登山期前に県、地元
保存会(須山口)又は山小屋組合により整備が行われ、適切な
状態に保たれている。(A6)北口本宮エムゾネ冨士浅間神社北口
本宮冨士浅間神社は定期的な維持修理が行われており、現時点
における保全状態は良好である。(A7〜9)西湖・精進湖・
本栖湖すべての湖とも現時点における保全状態は良好である。
中でも本栖湖は、訪問者の体験を損ねないようにエムゾネ、展望地
点から富士山を見た展望線と展望地点区域の周辺環境の維持に
配慮した良好な保存管理が行われており、現時点における保全
状態は特に良好である。(B1)富士山本宮浅間大社定期的な
維持修理が行われており、現時点における保全状態は良好エムゾネ
である。湧玉池は全般的には良好な状態であるが、二つの池の
うち「上池」では、湧水量が減少し、藻類が繁殖しているため
、「湧玉池保全再生会議」が設置され、対策が検討されている
。(B2)山宮浅間神社現時点における保全状態は良好である
。(エムゾネB3)村山浅間神社現時点における保全状態は良好で
ある。(B4)須山浅間神社現時点における保全状態は良好で
ある。(B5)富士浅間神社(須走浅間神社)現時点における
保全状態は良好である。(B6)河口浅間神社現時点における
保全状態は良エムゾネ好である。47(B7)冨士御室浅間神社現
時点における保全状態は良好である。ただし、漆塗装の磨耗退
色が著しい部分がある。また、本宮本殿の脇障子版は富士山二
まれないが、三保松原の富士山方向の対岸に当たる富士市の工業
地帯においては、現在使用していない高煙突の撤去が静岡県の政
エムゾネ策(富士地域煙突ゼロ作戦)として実施されている。48
b)資産に与える影響の要因1)開発の圧力資産及びその緩衝地
帯において、建築物又は工作物の建設、土地の形質変更、木竹の
伐採等の等の行為を行う場合には、文化財保護法、自然公園法、
都エムゾネ市計画法、森林法、河川法、海岸法及び関係市町村が定
める条例(景観法に基づき策定された景観条例等)の下に、それ
らの規模、形態・構造に関する規制(建築物又は工作物に関して
は、それらの高さ・色彩・意匠等の規制を含む)が行われるため
、資エムゾネ産の価値を著しく低下させるような開発は起り得ない
。「富士山世界遺産両県協議会」(設置予定・仮称)では、両県
の知事・市町村長を中心に、許認可・保存に関わる国機関も加わ
り、開発の状況を把握し、コントロールのあり方について検討を
行う予エムゾネ定である。開発計画のうち、現在北麓(山梨県)に
おいては都市計画区域用途地域または都市計画区域外では5ha
以上、都市計画内(用途地域外)では10ha以上の計画につい
ては、山梨県内の組織である「山梨県土地利用調整会議」に事前
協議書がエムゾネ提出され、知事の同意が必要とされている。その
同意を得た後で、個別法令の許認可を担当する部署での手続きを
行うことになっており、一元化した組織かつ統一した基準での開
発のコントロールが行われている。こうした大規模開発を含む緩
衝地帯内でエムゾネ行われる一定規模以上の開発行為については、
「富士山世界遺産両県協議会」へ報告がなされ、必要に応じて個
別法令の許認可を担当する部署に対して助言等がなされる予定で
ある。また、各市町村の景観計画の下に、各市町村は景観阻害要
因の排除に努エムゾネめることとしているほか、世界遺産暫定一覧
表に記載され、世界遺産一覧表への記載の可能性のある文化資産
する対策としては、大規模地震対策特別措置法(1978年)に基
づき、予知を目的とした観測体制、予知を前提とした非難・警戒体
制、防災施設整備がエムゾネ行われるとともに、東海地震対策大綱(2
003)に基づき国・県・市町村の防災計画が策定されている。ま
た、今後各神社等の耐震化が行われる計画となっている。台風は1
996年9月に富士山南側の人工林地区(ヒノキ)に風倒の被害(
標高110エムゾネ0〜1200m中心、計1125ha、富士山では
約935haうち国有林620ha)をもたらしたことがあるため
、1997年より静岡県が中心となり、被害地に対して自生種(ブ
ナ・ミズナラ)の植栽(のべ22・68ha)を実施している。ま
たエムゾネ、風倒による被害を防ぐため人工林における下刈を実施して
いる。大雨・洪水に関しては堤防・遊水地・砂防堰堤の建設や河川
の改修などにより、大雨時の洪水に対する防止策を講じている。山
火事に対しては、国、県、市町村の連絡・協力体制を確立しエムゾネ、
草原地帯においては防火帯を設け、大規模な火災に対して最大限の
対応を可能としている。建造物の火災に対しては自動火災報知設備
・ドレンチャー設備・消火栓、放水銃などを設置しているほか、自
主防火組織も整備するなど、万全を期しているのでエムゾネ問題ない。
万一、上記の災害が発生した場合においても、速やかに現状復旧の
対策を講じるための制度及び体制を完備しており、資産の価値が減
じることはない。三保松原においては、高潮対策事業として安倍川
(土砂供給源)下流部での砂利採取を19エムゾネ68年より海岸浸食
の原因の一因と考え禁止するとともに、1989年より34年計画
(2034年まで)でヘッドランド・離岸堤の設置や養浜による海
岸保全対策を行い、現在、海岸と平行した方向に年250mの割合
で砂浜の回復が進行して
合目所在時に毀損にあっており、今後、修復・修繕の検討が予
想される。(B8)御エムゾネ師住宅旧外川家住宅は2006−2
007年に大規模な修繕工事を行ったため、現時点における保
全状態は良好である。小佐野家住宅は、所有者らによって日常
的な維持管理が行われているほか、補助事業などによって文化
財としての保護に必要な修繕やエムゾネ設備の整備が進められてき
た。(B9〜10)山中湖、河口湖どちらの湖とも現時点にお
に相応しい周辺市街地を創出するために適切な景観の保全・改善
の施策を実施することとしている。なお、次に掲げる開発計画等
の立案に当たっエムゾネては、いずれにおいても資産への影響を最
小限に留めるよう関係機関・団体と調整を行うことし、実施する
場合にも事前に十分な協議を行うこととしている。(1)観光開
発(ホテル・ゴルフ場・スキー場)緩衝地帯に位置するホテル等
については、自然エムゾネ公園法に基づき、高さ・色彩・意匠等の
規制が行われており、既存施設の改築についても同様である。特
に山体の五合目以上、本栖湖からの展望線の核心部は自然公園法
の特別保護地区、第1種特別地域となっており、新規の構造物の
建築は禁止されていエムゾネる。また、富士山北麓(山梨県)では
新規の10ha以上のゴルフ場開発については凍結されている。
(2)廃棄物処分場又は清掃工場現時点で計画なし。(※演習場
内の解放地に御殿場市・小山町広域行政組合によるゴミ処理施設
の計画あり。)(3)エムゾネ工場又は工業団地現時点で計画なし
。(北口本宮冨士浅間神社の南600mの地域に、工場進出の計
画あり。)(4)道路整備緩衝地帯においては、北口本宮冨士浅
間神社と御師住宅との間を走る国道138号の拡幅が計画されて
いる。当該道路計画におエムゾネいては、市、県、国等の関係機関
と有識者からなる「富士北麓地域交通円滑化対策検討会」におい
て、計画案の検討を行うなど、当該神社の社叢や周囲の景観に調
和した道路の意匠・構造とすることとしており、当該資産の価値
の保護に影響はない。49エムゾネ県道山中湖忍野富士吉田線の新
倉トンネルは、河口湖畔と富士吉田市中心部をトンネルで結ぶ計
画である。河口湖湖畔の渋滞解消、火山防災のバイパスとするこ
とを目的としており、当該資産の価値の保護に影響はない。また
、道路改良事業として、線形エムゾネ改良、歩道設置など来訪者の
安全性向上を図ることを目的とした事業が行われ、景観に配慮し
センター(山頂と富士宮口新五合目)」、「富士山安全指導センタ
ー(吉田口六合目)」とエムゾネ「富士山衛生センター(富士宮口八合
目)」が設けられている。また、富士宮口のすべて、吉田口七合目
以上のほとんどの山小屋にはAEDが設置されている。(御殿場口
はなし、須走口は1軒・東富士山荘)4)来訪者及び観光の圧力富
士山の構成資産エムゾネのうち私有財産である小佐野家住宅(御師住宅
)を除いた資産はすべて公開されている。ただし山体資産範囲につ
いては登山道及び山頂部以外は土地所有者(国、県、富士山本宮浅
間大社)の了解が必要であり、安全上の観点からも県が登山道から
の逸脱エムゾネを好ましくない行為として事実上立入を制限している。
山体以外の資産については、き損・悪戯・盗難等の被害から建造物
等の構成資産を護るために、防犯警備施設を設置するとともに巡視
及び監視の体制を整備し(山宮・村山・人穴等では防犯システムエムソ
゙ネは採用されていない)、来訪者によるゴミの増加等に対しても地
域住民や関係市町村が適切な管理を行っていることから、観光によ
る圧力が資産の価値を著しく低下させるようなことは起こり得ない
。山体に関しては、観光客によるごみ及びし尿、並びにエムゾネ自動車
で訪れる来訪者(富士山スカイラインでは4月〜11月の合計で年
平均127,000台・1999〜2009年、富士スバルライン
で年平均410,000台・2006〜2008年)による環境へ
の負荷及び混雑の軽減を目的に以下の対策を行エムゾネった。ごみに関
しては国・県及びNPO法人(富士山ネットワーク・富士山クラブ
)、ボランティアによ51る清掃作業が活発に実施されるとともに
(平成20年実績・92回、約64t、延べ参加人数約7000名
)、外国人も含め登山者に対してマナエムゾネー向上を呼びかけ、登山
道周辺のごみは減
ける保全状態は良好である。(B11)忍野八海天然記念物と
して指定されている範囲は水面に限られており、私有地が隣接
しているため、周辺環境を含めた保全状エムゾネ態に課題がある。
しかし、忍野村が景観計画を策定し、周辺環境を含めた保全を
行っている。(B12)船津胎内樹型現時点における保全状態
は良好である。(B13)吉田胎内樹型内部の溶岩の盗掘や人
の侵入による破壊を防ぐために本穴入り口は施錠エムゾネされてお
り、現時点における保全状態は良好である。(B14)人穴富
士講遺跡碑塔群はおおむね良好な状態であるが、一部の碑塔に
修理が必要である。(B15)白糸ノ滝現状では滝壺周辺に売
店があるなど景観面において課題がある。このため、富士エムゾネ
宮市が中心となり保存管理計画の改訂および整備計画の策定を
行い、今後適切な整備がなされる予定である。滝の自然崩壊に
ついては特に対策は採られていない。(C)三保松原現状では
1960〜80年代に進行した海岸浸食の影響からの回復を図
るたエムゾネめ、資産内及び周辺にヘッドランドなどが仮設され、
景観に影響を与えている。また、松原においてもマツクイムシ
(マツノザイセンチュウ)による松枯れがみられるため、薬剤
注入・散布による予防措置及び植林、枯れた松の除去が実施さ
れている。現エムゾネ在これらの対策により、資産の現状を保ち、
将来においてはより良好な保全状態となることは確実である。
なお、三保松原の象徴的存在である羽衣の松は1707年の宝
永噴火とその前後の地震により初代とされる松が失われたため
、現在の松(樹齢約6エムゾネ50年)を指定した。しかし、この
松も台風による幹の損傷で樹勢が衰え、2010年10月にそ
の交代が行われる(三代目は樹齢約300〜400年と推定さ
れている)。また、現在静岡市が保存管理計画の改訂を行って
いる。なお、資産範囲・緩衝地エムゾネ帯範囲には含まれないが、
た内容とするよう調整している。2)環境の圧力資産の価値を著
しく低下させるような自然的環境の変化として、山体の形状を変
化させる噴火及びそれに伴う噴エムゾネ石、火砕流・火砕サージ、
溶岩流、融雪型火山泥流、降灰、降灰後の降雨による土石流など
による登山道及び周辺の資産の損傷が予測される。「大沢崩れ」
が約1000年前より始まり、現在その幅は年1.6mの割合で
拡大している(富士砂防・S45エムゾネ〜H20の38年間で約
三保松原の富士山方向の対岸に当たる富士市の工業地帯におい
ては、現在使用していない高煙突の撤去が静岡県の政策(富士
地域煙突ゼロ作戦)として実施されている。48b)資産に与
える影響の要因1)開発の圧力資産及びエムゾネその緩衝地帯にお
いて、建築物又は工作物の建設、土地の形質変更、木竹の伐採
等の等の行為を行う場合には、文化財保護法、自然公園法、都
市計画法、森林法、河川法、海岸法及び関係市町村が定める条
例(景観法に基づき策定された景観条例等)の下エムゾネに、それ
らの規模、形態・構造に関する規制(建築物又は工作物に関し
ては、それらの高さ・色彩・意匠等の規制を含む)が行われる
ため、資産の価値を著しく低下させるような開発は起り得ない
。「富士山世界遺産両県協議会」(設置予定・仮称)ではエムゾネ
、両県の知事・市町村長を中心に、許認可・保存に関わる国機
関も加わり、開発の状況を把握し、コントロールのあり方につ
いて検討を行う予定である。開発計画のうち、現在北麓(山梨
県)においては都市計画区域用途地域または都市計画区域外で
は5エムゾネha以上、都市計画内(用途地域外)では10ha以
上の計画については、山梨県内の組織である「山梨県土地利用
調整会議」に事前協議書が提出され、知事の同意が必要とされ
ている。その同意を得た後で、個別法令の許認可を担当する部
署での手続きエムゾネを行うことになっており、一元化した組織か
つ統一した基準での開発のコントロールが行われている。こう
した大規模開発を含む緩衝地帯内で行われる一定規模以上の開
発行為については、「富士山世界遺産両県協議会」へ報告がな
され、必要に応じて個エムゾネ別法令の許認可を担当する部署に対
して助言等がなされる予定である。また、各市町村の景観計画
の下に、各市町村は景観阻害要因の排除に努めることとしてい
るほか、世界遺産暫定一覧表に記載され、世界遺産一覧表への
60m・3400メートル地点・523万〜・年13.8〜の土
砂が流出)。ただし、噴火・地震等がなければ少なくとも200
年後までは富士山の景観に大きな変化はないと予測されている(
「富士火山」P407〜)。酸性雨エムゾネを含む大気汚染が引き
起こす被害については、現段階では確認されていない。白糸ノ滝
では、滝自体の浸食により年2cmの割合で後退しており、10
年程度の間隔で自然崩壊が発生する。砂嘴である三保松原では2
0世紀後半に土砂供給源の川での土砂エムゾネ採取が活発になり、
堆積活動が減少したことで海流による海岸浸食が進んでいたが、
現在は土砂採取の禁止等により、堆積活動が回復している。また
、三保松原における松にはマツクイムシ(マツノザイセンチュウ
)による被害が見られる。これに対してエムゾネは、薬剤注入・散
布による予防措置及び植林、枯れた松の除去を資産の所在する静
岡市とNPO法人が行っており、被害の拡大を防止している。3
)自然災害と危機管理資産の所在地域における自然災害としては
、第一に富士山特有のものとして山体及びエムゾネ側火山からの噴
火及びそれに伴う噴石、火砕流・火砕サージ、溶岩流、融雪型火
山泥流、降灰、降灰後の降雨による土石流などが予想されるとと
もに、数年単位で発生する山体における雪崩(特に大量の水分を
含んだ雪が流動する雪泥流)や大沢崩れ及びエムゾネそれに伴う土
石流、強風、雨水による浸食などが考えられる。また、富士山を
含む駿河湾沿いの地域はM8クラスの海洋プレート内地震の発生
が予測されている。第二に日本列島の太平洋側における一般的自
然災害である台風・大雨・洪水並びに火災等がエムゾネ予測されて
いる。第三に三保松原に関しては海岸浸食に伴う高潮などの被害
がある。これらについてそれぞれ以下のような防災対策を講じて
いる。噴火及びそれに伴う災害に対しては、気象庁をはじめとす
る研究・防災機関が常時観測を行うと同時に、国エムゾネの富士山
・改革して文化財保護法が制定され、それ以後、現在に至るまで、
個々の構成資産はこの法律の下に万全の保護措置が講じられてきた
。富士山の山体及び北側の構成資産の範囲においては、さらに国立
公園法(1936年制定エムゾネ)、それを改定した自然公園法(19
57年制定)によ
記載の可能性のある文化資産にエムゾネ相応しい周辺市街地を創出
するために適切な景観の保全・改善の施策を実施することとし
ている。なお、次に掲げる開発計画等の立案に当たっては、い
ずれにおいても資産への影響を最小限に留めるよう関係機関・
団体と調整を行うことし、実施する場合エムゾネにも事前に十分な
協議を行うこととしている。(1)観光開発(ホテル・ゴルフ
場・スキー場)緩衝地帯に位置するホテル等については、自然
公園法に基づき、高さ・色彩・意匠等の規制が行われており、
既存施設の改築についても同様である。特に山体エムゾネの五合目
以上、本栖湖からの展望線の核心部は自然公園法の特別保護地
区、第1種特別地域となっており、新規の構造物の建築は禁止
されている。また、富士山北麓(山梨県)では新規の10ha
以上のゴルフ場開発については凍結されている。(2)廃エムゾネ
棄物処分場又は清掃工場現時点で計画なし。(※演習場内の解
放地に御殿場市・小山町広域行政組合によるゴミ処理施設の計
画あり。)(3)工場又は工業団地現時点で計画なし。(北口
本宮冨士浅間神社の南600mの地域に、工場進出の計画あり
。)エムゾネ(4)道路整備緩衝地帯においては、北口本宮冨士浅
間神社と御師住宅との間を走る国道138号の拡幅が計画され
ている。当該道路計画においては、市、県、国等の関係機関と
有識者からなる「富士北麓地域交通円滑化対策検討会」におい
て、計画案のエムゾネ検討を行うなど、当該神社の社叢や周囲の景
観に調和した道路の意匠・構造とすることとしており、当該資
産の価値の保護に影響はない。49県道山中湖忍野富士吉田線
の新倉トンネルは、河口湖畔と富士吉田市中心部をトンネルで
結ぶ計画である。河口エムゾネ湖湖畔の渋滞解消、火山防災のバイ
パスとすることを目的としており、当該資産の価値の保護に影
響はない。また、道路改良事業として、線形改良、歩道設置な
ハザードマップ検討委員会報告書(2004年)に基づき県及び
市町村において火山防災計画(ハザードマップ・避難計画)など
を策定している。雪崩については、吉田口登山道では馬返より上
の登山道に浸透桝を設け、雨水や雪崩による崩壊をエムゾネ防いで
いる。土砂崩れ・土石流(主に大沢崩れ)については国が中心と
なり、源頭部における水分と土砂の分離、山麓における土石流災
害防止を目的とした遊砂地の設置などを行っている。また、登山
道を管理する県では導流堤を設置し、落石の落下先をエムゾネコン
トロールしている。これらの災害は発生自体を防止することは困
難であるため、その被害を最小限にとどめることを対策の骨子と
している。50地震に関する対策としては、大規模地震対策特別
措置法(1978年)に基づき、予知を目的とした観測エムゾネ体
制、予知を前提とした非難・警戒体制、防災施設整備が行われる
とともに、東海地震対策大綱(2003)に基づき国・県・市町
村の防災計画が策定されている。また、今後各神社等の耐震化が
行われる計画となっている。台風は1996年9月に富士エムゾネ
山南側の人工林地区(ヒノキ)に風倒の被害(標高1100〜1
200m中心、計1125ha、富士山では約935haうち国
有林620ha)をもたらしたことがあるため、1997年より
静岡県が中心となり、被害地に対して自生種(ブナ・ミズナエムゾ
ネラ)の植栽(のべ22・68ha)を実施している。また、風
倒による被害を防ぐため人工林における下刈を実施している。大
雨・洪水に関しては堤防・遊水地・砂防堰堤の建設や河川の改修
などにより、大雨時の洪水に対する防止策を講じている。山火エム
ゾネ事に対しては、国、県、市町村の連絡・協力体制を確立し、
草原地帯においては防火帯を設け、大規模な火災に対して最大限
の対応を可能としている。建造物の火災に対しては自動火災報知
設備・ドレンチャー設備・消火栓、放水銃などを設置しているほ
定(1952年エムゾネ10月7日:名勝富士山の指定1952年11
月22日:特別名勝富士山の指定1966年10月6日:特別名勝
富士山の指定地域の変更(A1)山頂信仰遺跡(特別名勝範囲内・
Aに同じ)史跡富士山の指定予定(A2)大宮・村山口登山道史跡
富士山エムゾネの指定予定(A3)須山口登山道(一部のみ特別名勝範
囲外・範囲内はAに同じ)史跡富士山の指定予定(A4)須走口登
山道史跡富士山の指定予定(A5)吉田口登山道(特別名勝範囲内
・Aに同じ)史跡富士山の指定予定(A6)北口本宮冨士浅間神エムソ
゙ネ社1907年8月28日:特別保護建造物(富士嶽神社境内東宮
本殿)の指定1953年3月31日:重要文化財北口本宮冨士浅間
神社本殿の指定1953年3月31日:重要文化財北口本宮冨士浅
間神社西宮本殿の指定史跡富士山の指定予定(A7)西エムゾネ湖19
36年2月1日:富士箱根国立公園の指定(名勝富士五湖の指定予
定55(A8)精進湖1936年2月1日:富士箱根国立公園の指
定(名勝富士五湖の指定予定(A9)本栖湖※本栖湖からの展望面
含む1926年2月24日:天然紀念物富士山エムゾネ原始林の指定1
936年2月1日:富士箱根国立公園の指定(2010年3月8日
:天然記念物富士山原始林及び青木ヶ原樹海の指定名勝富士五湖の
指定予定(B1)富士山本宮浅間大社1907年5月27日:特別
保護建造物浅間神社本殿の指定194エムゾネ4年11月7日:天然紀
念物湧玉池の指定1952年3月29日:特別天然記念物湧玉池の
指定史跡富士山の指定予定(B2)山宮浅間神社史跡富士山の指定
予定(B3)村山浅間神社史跡富士山の指定予定(B4)須山浅間
神社史跡富士山の指定予定(エムゾネB5)冨士浅間神社(須走浅間神
社)史跡富士山の指定予定(B6)河口浅間神社史跡富士山の指定
予定(B7)冨士御室浅
ど来訪者の安全性向上を図ることを目的とした事業が行われ、
景観に配慮した内容とするようエムゾネ調整している。2)環境の
圧力資産の価値を著しく低下させるような自然的環境の変化と
して、山体の形状を変化させる噴火及びそれに伴う噴石、火砕
流・火砕サージ、溶岩流、融雪型火山泥流、降灰、降灰後の降
雨による土石流などによる登山道及び周エムゾネ辺の資産の損傷が
予測される。「大沢崩れ」が約1000年前より始まり、現在
エムゾネか、自主防火組織も整備するなど、万全を期しているので
問題ない。万一、上記の災害が発生した場合においても、速やか
に現状復旧の対策を講じるための制度及び体制を完備しており、
資産の価値が減じることはない。三保松原においては、高潮対策
事エムゾネ業として安倍川(土砂供給源)下流部での砂利採取を1
968年より海岸浸食の原因の一因と考え禁止するとともに、1
989年より34年計画(2034年まで)でヘッドランド・離
岸堤の設置や養浜による海岸保全対策を行い、現在、海岸と平行
したエムゾネ方向に年250mの割合で砂浜の回復が進行している
。現在ヘッドランドの一部が景観に影響を与えているが、砂浜の
回復後に撤去する計画が進んでいる。登山者の安全に関しては、
気候の急変に備え、「富士山登山指導センター(山頂と富士宮口
新五合エムゾネ目)」、「富士山安全指導センター(吉田口六合目
)」と「富士山衛生センター(富士宮口八合目)」が設けられて
いる。また、富士宮口のすべて、吉田口七合目以上のほとんどの
山小屋にはAEDが設置されている。(御殿場口はなし、須走口
は1軒・エムゾネ東富士山荘)4)来訪者及び観光の圧力富士山の
構成資産のうち私有財産である小佐野家住宅(御師住宅)を除い
た資産はすべて公開されている。ただし山体資産範囲については
登山道及び山頂部以外は土地所有者(国、県、富士山本宮浅間大
社)の了解エムゾネが必要であり、安全上の観点からも県が登山道
からの逸脱を好ましくない行為として事実上立入を制限している
。山体以外の資産については、き損・悪戯・盗難等の被害から建
造物等の構成資産を護るために、防犯警備施設を設置するととも
に巡視及び監エムゾネ視の体制を整備し(山宮・村山・人穴等では
防犯システムは採用されていない)、来訪者によるゴミの増加等
に対しても地域住民や関係市町村が適切な管理を行っていること
から、観光による圧力が資産の価値を著しく低下させるようなこ
文化財旧外川家住宅の指定予定(B9)山中湖561936年2月
1日:富士箱根国立公園の指定(名勝富士五湖の指定予定(B10
)河口湖1936年2月1日:富士箱根国立公園の指定(名勝富士
五湖の指定エムゾネ予定(B11)忍野八海1934年5月1日:天然
紀念物忍野八海の指定(B12)船津胎内樹型1929年12月1
7日:天然紀念物船津胎内樹型の指定(B13)吉田胎内樹型19
29年12月17日:天然紀念物吉田胎内樹型の指定(B14)人
穴エムゾネ富士講遺跡史跡富士山の指定予定(B15)白糸ノ滝193
6年2月1日:富士箱根国立公園の指定(1936年3月6日:名
勝及天然紀念物白糸ノ滝の指定(C)三保松原1922年3月8日
名勝三保松原の指定1977年4月1日名勝三保松原の一部エムゾネ指
定解除1990年3月29日名勝三保松原の追加指定及び一部指定
解除c)保護の実施手段1)資産各構成資産については、遺跡、記
念工作物、建築物群のみならず、それらと密接な関連を持つ展望線
など、富士山の本質的価値を構成する諸要素を厳格エムゾネかつ的確に
把握し、それらをすべて含む範囲について、価値の中核をなす部分
は文化財保護法の下に指定(特別名勝又は名勝、特別天然記念物又
は天然記念物、重要文化財、史跡)され、また、価値の中核をなす
部分を取り囲む地域の大部分は自然公園法エムゾネの下に国立公園(国
立公園、県立自然公園)に指定している。これら範囲のうち、富士
山の顕著な普遍的価値を証明するために必要不可欠な範囲を資産範
囲とした。これらの範囲の大部分においては、国の許可無くそれら
の現状を変更することはできないエムゾネ。文化財保護法、自然公園法
の及ばない地域は国有林であり、開発行為が行われることはない。
また、森林法に基づき森林の伐採に関しても適切な管理が行われて
いる。文化財保護法の定
その幅は年1.6mの割合で拡大している(富士砂防・S45
〜H20の38年間で約60m・3400メートル地点・52
3万〜・年13.8〜の土砂が流出)。ただし、エムゾネ噴火・地
震等がなければ少なくとも200年後までは富士山の景観に大
きな変化はないと予測されている(「富士火山」P407〜)
。酸性雨を含む大気汚染が引き起こす被害については、現段階
では確認されていない。白糸ノ滝では、滝自体の浸食によエムゾネ
り年2cmの割合で後退しており、10年程度の間隔で自然崩
壊が発生する。砂嘴である三保松原では20世紀後半に土砂供
給源の川での土砂採取が活発になり、堆積活動が減少したこと
で海流による海岸浸食が進んでいたが、現在は土砂採取の禁止
等にエムゾネより、堆積活動が回復している。また、三保松原にお
ける松にはマツクイムシ(マツノザイセンチュウ)による被害
が見られる。これに対しては、薬剤注入・散布による予防措置
及び植林、枯れた松の除去を資産の所在する静岡市とNPO法
人が行っておエムゾネり、被害の拡大を防止している。3)自然災
害と危機管理資産の所在地域における自然災害としては、第一
に富士山特有のものとして山体及び側火山からの噴火及びそれ
に伴う噴石、火砕流・火砕サージ、溶岩流、融雪型火山泥流、
降灰、降灰後の降雨にエムゾネよる土石流などが予想されるととも
に、数年単位で発生する山体における雪崩(特に大量の水分を
含んだ雪が流動する雪泥流)や大沢崩れ及びそれに伴う土石流
、強風、雨水による浸食などが考えられる。また、富士山を含
む駿河湾沿いの地域はM8クラエムゾネスの海洋プレート内地震の
発生が予測されている。第二に日本列島の太平洋側における一
般的自然災害である台風・大雨・洪水並びに火災等が予測され
ている。第三に三保松原に関しては海岸浸食に伴う高潮などの
被害がある。これらについてそれぞれ以エムゾネ下のような防災対
とは起こり得なエムゾネい。山体に関しては、観光客によるごみ及
びし尿、並びに自動車で訪れる来訪者(富士山スカイラインでは
4月〜11月の合計で年平均127,000台・1999〜20
09年、富士スバルラインで年平均410,000台・2006
〜2008年)にエムゾネよる環境への負荷及び混雑の軽減を目的
に以下の対策を行った。ごみに関しては国・県及びNPO法人(
富士山ネットワーク・富士山クラブ)、ボランティアによ51る
を原則としている(法第31条・第32条の2、第113条・第1
15条・第119条)。また、自然公園法が定めるところにより、
国立公園の管理エムゾネと保護については、国又は管理団体が適切に行
うことを原則としている(法第9条、第37条、第38条、第39
条)。重要文化財に指定されている建造物の修理に関して、部材の
痕跡調査などから判明した原型への復元などの現状変更等を行おう
とするエムゾネときや、特別名勝又は名勝、特別天然記念物又は天然記
念物、史跡の指定地内において現状変更等を行おうとするときは、
あらかじめ文化庁長官の許可を得なければならない(法第43条・
第125条)。文化庁長官は国が設置し、イコモス国内委員会委エムソ
゙ネ員を多数含む文化審議会文化財分科会に対して当該現状変更等に
関する諮問を行い、その答申を経て許可することとしている。した
がって、資産の現状を変更する場合には、学術的かつ厳密な審査に
基づく許可を必要としている。また、国立公園(特別保エムゾネ護地区
及び特別地域)の現状変更については、あらかじめ環境大臣の許可
を得なければならない(法第13条、第14条)。特別名勝又は名
勝、特別天然記念物又は天然記念物、重要文化財、史跡の管理と修
理に対しては、必要に応じて国が経費を補助しエムゾネ、技術的指導を
行うこととしている(法第35条・第47条・第118条)。国立
公園の管理と保護は国が費用を負担する(法43条)。また、管理
団体が管理と保護を行う場合、国が必要な情報の提供又は指導・助
言を行う(法42条)。資産範囲の国エムゾネ有林については森林施業
計画により皆伐は年5haにとどめるなど景観への影響を最小限に
留めるよう適切に保護・管理されている。加えて国有林の大部分で
ある保安林は指定施行要件(保安林の種別ごとに異なる。)に合致
しない伐採等には都道府
策を講じている。噴火及びそれに伴う災害に対しては、気象庁
をはじめとする研究・防災機関が常時観測を行うと同時に、国
の富士山ハザードマップ検討委員会報告書(2004年)に基
づき県及び市町村において火山防災計画(ハザーエムゾネドマップ
・避難計画)などを策定している。雪崩については、吉田口登
山道では馬返より上の登山道に浸透桝を設け、雨水や雪崩によ
る崩壊を防いでいる。土砂崩れ・土石流(主に大沢崩れ)につ
いては国が中心となり、源頭部における水分と土砂の分離エムゾネ
、山麓における土石流災害防止を目的とした遊砂地の設置など
を行っている。また、登山道を管理する県では導流堤を設置し
、落石の落下先をコントロールしている。これらの災害は発生
自体を防止することは困難であるため、その被害を最小限にと
どめエムゾネることを対策の骨子としている。50地震に関する対
策としては、大規模地震対策特別措置法(1978年)に基づ
き、予知を目的とした観測体制、予知を前提とした非難・警戒
体制、防災施設整備が行われるとともに、東海地震対策大綱(
2003)にエムゾネ基づき国・県・市町村の防災計画が策定され
ている。また、今後各神社等の耐震化が行われる計画となって
いる。台風は1996年9月に富士山南側の人工林地区(ヒノ
キ)に風倒の被害(標高1100〜1200m中心、計112
5ha、富士山では約エムゾネ935haうち国有林620ha)
をもたらしたことがあるため、1997年より静岡県が中心と
なり、被害地に対して自生種(ブナ・ミズナラ)の植栽(のべ
22・68ha)を実施している。また、風倒による被害を防
ぐため人工林における下刈を実エムゾネ施している。大雨・洪水に
関しては堤防・遊水地・砂防堰堤の建設や河川の改修などによ
り、大雨時の洪水に対する防止策を講じている。山火事に対し
ては、国、県、市町村の連絡・協力体制を確立し、草原地帯に
清掃作業が活発に実施されるとともに(平成20年実績・92回
、約64t、延べ参エムゾネ加人数約7000名)、外国人も含め
登山者に対してマナー向上を呼びかけ、登山道周辺のごみは減少
している。山頂部で発生するごみについては山小屋組合(富士山
吉田口旅館組合等)により、山麓に搬出し、適切に管理・処理さ
れている。し尿対策にエムゾネ関しては登山道及び山小屋のトイレ
48箇所を2006年までにバイオ処理式等に改良し、環境への
負荷を軽減した。さらに、登山者の増加や設備の老朽化に対応す
るため、環境配慮型トイレ適正管理委員会を設けて対策を検討し
ており、今後は業者と連エムゾネ携を密にしてメンテナンスをきち
んとしていくことが確認された。自動車に関しては、土日・休日
を中心に各登山道の利用者数に応じて自家用車の利用を規制し(
利用者の多い富士スバルラインで最大12日間、利用者の少ない
御殿場口はなし)、山麓のエムゾネ臨時駐車場と五合目駐車場間の
シャトルバスによる輸送を行っている。吉田口においては201
1年夏には富士吉田IC付近に1400台の駐車場を整備し、自
家用車の利用規制を15日に拡大する予定である。5)資産と緩
衝地帯の居住者人口構成資産エムゾネ内人口:人緩衝地帯内人口:
人合計:人集計年:2010年No.構成資産の名称構成資産範
囲内人口(人)緩衝地帯内人口(人)合計(人)富士山A1山頂
信仰遺跡A2大宮・村山口登山道A3須山口登山道A4須走口登
山道A5吉田口登山道A6北口エムゾネ本宮冨士浅間神社A7西湖
A8精進湖AA9本栖湖B1富士山本宮浅間大社B2山宮浅間神
社B3村山浅間神社B4須山浅間神社B5冨士浅間神社(須走浅
間神社)B6河口浅間神社B7冨士御室浅間神社B8御師住宅5
2B9山中湖B10河口湖B11エムゾネ忍野八海B12船津胎内
樹型B13吉田胎内樹型B14人穴冨士講遺跡B15白糸ノ滝C
三保松原535.資産の保護の管理a)所有関係各構成資産の所
砂防法、海岸法、又は関係各県・市町村が定める条例等の下に資産
の周辺環境についてエムゾネ万全な保全措置が講じられている。緩衝地
帯の範囲については、資産から眺望できる山の稜線のほか、法律・
条例等に基づく境界、地籍境界、行政界、道路等の明確な境界など
を考慮しつつ、資産の保
おいては防火帯を設け、大規模な火災にエムゾネ対して最大限の対
応を可能としている。建造物の火災に対しては自動火災報知設
備・ドレンチャー設備・消火栓、放水銃などを設置しているほ
か、自主防火組織も整備するなど、万全を期しているので問題
ない。万一、上記の災害が発生した場合においてエムゾネも、速や
かに現状復旧の対策を講じるための制度及び体制を完備してお
り、資産の価値が減じることはない。三保松原においては、高
潮対策事業として安倍川(土砂供給源)下流部での砂利採取を
1968年より海岸浸食の原因の一因と考え禁止するととエムゾネ
もに、1989年より34年計画(2034年まで)でヘッド
ランド・離岸堤の設置や養浜による海岸保全対策を行い、現在
、海岸と平行した方向に年250mの割合で砂浜の回復が進行
している。現在ヘッドランドの一部が景観に影響を与えている
が、エムゾネ砂浜の回復後に撤去する計画が進んでいる。登山者の
安全に関しては、気候の急変に備え、「富士山登山指導センタ
ー(山頂と富士宮口新五合目)」、「富士山安全指導センター
(吉田口六合目)」と「富士山衛生センター(富士宮口八合目
)」が設けらエムゾネれている。また、富士宮口のすべて、吉田口
七合目以上のほとんどの山小屋にはAEDが設置されている。
(御殿場口はなし、須走口は1軒・東富士山荘)4)来訪者及
び観光の圧力富士山の構成資産のうち私有財産である小佐野家
住宅(御師住宅)を除エムゾネいた資産はすべて公開されている。
ただし山体資産範囲については登山道及び山頂部以外は土地所
有者(国、県、富士山本宮浅間大社)の了解が必要であり、安
全上の観点からも県が登山道からの逸脱を好ましくない行為と
して事実上立入を制限しているエムゾネ。山体以外の資産について
は、き損・悪戯・盗難等の被害から建造物等の構成資産を護る
ために、防犯警備施設を設置するとともに巡視及び監視の体制
在地及び所有者については、以下に記すとおりである。b)法に
基づく指定保護資産を構成する重要エムゾネ文化財に指定された「
記念工作物」「建造物群」、史跡、特別名勝又は名勝、54特別
天然記念物又は天然記念物に指定された「遺跡」は、古社寺保存
法(1897年制定)、史蹟名勝天然紀念物保存法(1919年
制定)、国宝保存法(1929年制定エムゾネ)などの下に適切な
保護が行われてきた。また、1950年には、それらの諸法を統
合・改革して文化財保護法が制定され、それ以後、現在に至るま
で、個々の構成資産はこの法律の下に万全の保護措置が講じられ
てきた。富士山の山体及び北側の構成資エムゾネ産の範囲において
は、さらに国立公園法(1936年制定)、それを改定した自然
公園法(1957年制定)により、その優れた自然の風景地が保
護されてきた。17個の構成資産の指定保護の状況については、
以下に示すとおりである。(A)富士山1エムゾネ936年2月1
日:富士箱根国立公園の指定(1952年10月7日:名勝富士
山の指定1952年11月22日:特別名勝富士山の指定196
6年10月6日:特別名勝富士山の指定地域の変更(A1)山頂
信仰遺跡(特別名勝範囲内・Aに同じ)史跡エムゾネ富士山の指定
予定(A2)大宮・村山口登山道史跡富士山の指定予定(A3)
須山口登山道(一部のみ特別名勝範囲外・範囲内はAに同じ)史
跡富士山の指定予定(A4)須走口登山道史跡富士山の指定予定
(A5)吉田口登山道(特別名勝範囲内・Aにエムゾネ同じ)史跡
富士山の指定予定(A6)北口本宮冨士浅間神社1907年8月
28日:特別保護建造物(富士嶽神社境内東宮本殿)の指定19
53年3月31日:重要文化財北口本宮冨士浅間神社本殿の指定
1953年3月31日:重要文化財北口本宮冨士エムゾネ浅間神社
西宮本殿の指定史跡富士山の指定予定(A7)西湖1936年2
月1日:富士箱根国立公園の指定(名勝富士五湖の指定予定55
の範囲の中には演習場を挟んで、三保松原以外のすべての構成資産
が含まれる。緩衝地帯において行われる建築物及び工作物の新築・
増エムゾネ築・改築、土地の形質変更等に係る行為、木竹の伐採につい
ては、許可制や届出制に基づく規制を設けており、これらの行為に
関する重要な事項については、特に関係各市町村の景観審議会等に
よる調査、審議に基づき、関係市町村が事前に適切な指導やエムゾネ助
言を行うこととしている。なお、緩衝地帯設定の考え方や、行為規
制等の詳細については、本推薦書の付属資料及び別添参考資料を参
照されたい。緩衝地帯は大きく3つの方法により保護措置が講じら
れている。一番目は自然公園法(山梨県のほぼ全域エムゾネ)、二番目
は景観法に基づく各市町村の景観条例及び景観計画(静岡県富士市
・富士宮市ほ58か)、三番目が各市町村独自の景観条例や土地利
用事業指導要綱(山梨県富士吉田市の一部・静岡県裾野市・御殿場
市・小山町)である。三番目の地域に関しエムゾネては将来的に二番目
の保護措置に移行する予定である。なお、三保松原などいくつかの
資産においては、資産範囲が文化財としての登録範囲よりも狭く設
定されているため、緩衝地帯の一部は文化財保護法により保護され
ている。これらの地域では適用すエムゾネる法令等に違いはあるが、緩
衝地帯において行われる建築物・工作物の新築、増築、改築、土地
の形質変更等に係る行為については、許可制ないし承認制・届出制
に基づく規制が定められ、資産の周辺環境の万全な保護措置が講じ
られている。緩衝地帯にエムゾネ適用される諸法令等の概略法令名対象
地区規制内容許認可文化財保護法三保松原(一部)現状変更文化庁
長官の許可自然公園法(国立公園)山体・静岡県・山梨県工作物の
新築等、ごみ捨て又は放置、木竹の採取、土石の採取、車馬の乗り
入れ等環境大臣エムゾ
を整備し(山宮・村山・人穴等では防犯システムは採用されて
いない)、来訪者によるゴミの増加等にエムゾネ対しても地域住民
や関係市町村が適切な管理を行っていることから、観光による
圧力が資産の価値を著しく低下させるようなことは起こり得な
い。山体に関しては、観光客によるごみ及びし尿、並びに自動
車で訪れる来訪者(富士山スカイラインでは4月エムゾネ〜11月
の合計で年平均127,000台・1999〜2009年、富
(A8)精進湖1936年2月1日:富士箱根国立公園の指定(
名勝富士五湖の指定予定(A9)本栖湖※本栖湖かエムゾネらの展
望面含む1926年2月24日:天然紀念物富士山原始林の指定
1936年2月1日:富士箱根国立公園の指定(2010年3月
8日:天然記念物富士山原始林及び青木ヶ原樹海の指定名勝富士
五湖の指定予定(B1)富士山本宮浅間大社1907エムゾネ年5
月27日:特別保護建造物浅間神社本殿の指定1944年11月
7日:天然紀念物湧玉池の指定1952年3月29日:特別天然
記念物湧玉池の指定史跡富士山の指定予定(B2)山宮浅間神社
史跡富士山の指定予定(B3)村山浅間神社史跡富士山エムゾネの
指定予定(B4)須山浅間神社史跡富士山の指定予定(B5)冨
士浅間神社(須走浅間神社)史跡富士山の指定予定(B6)河口
浅間神社史跡富士山の指定予定(B7)冨士御室浅間神社198
5年5月18日:重要文化財冨士御室浅間神社本殿の指定エムゾネ
史跡富士山の指定予定(B8)御師住宅1976年5月20日:
重要文化財小佐野家住宅の指定重要文化財旧外川家住宅の指定予
定(B9)山中湖561936年2月1日:富士箱根国立公園の
指定(名勝富士五湖の指定予定(B10)河口湖1936年エムゾ
ネ2月1日:富士箱根国立公園の指定(名勝富士五湖の指定予定
(B11)忍野八海1934年5月1日:天然紀念物忍野八海の
指定(B12)船津胎内樹型1929年12月17日:天然紀念
物船津胎内樹型の指定(B13)吉田胎内樹型1929年12エム
ゾネ月17日:天然紀念物吉田胎内樹型の指定(B14)人穴富
士講遺跡史跡富士山の指定予定(B15)白糸ノ滝1936年2
月1日:富士箱根国立公園の指定(1936年3月6日:名勝及
天然紀念物白糸ノ滝の指定(C)三保松原1922年3月8日名
エムゾネ勝三保松原の指定1977年4月1日名勝三保松原の一部
指定解除1990年3月29日名勝三保松原の追加指定及び一部
入れ等県知事の許可(特別地域)、命令景観条例及び景観計画(景
観法にエムゾネ基づく)富士市・富士宮市静岡市・忍野村・山中湖村・
富士河口湖町建築物の新築等、工作物の新設等、開発行為、土石の
採取・堆積等(高さ・色彩・形状を規制)市町村長への届出勧告、
指導・要請(問題があった場合)景観条例(自主条例)富士吉田エムソ
゙ネ市建築の新築等市長への届出勧告、助言・指導土地利用事業指導
要綱裾野市・御殿場市・小山町土地利用事業市長・町長の承認森林
法(保安林指定施業用件)保安林(土砂流出防備保安林)(保健保
安林)(水源涵養保安林)立木の伐採(原則択抜※水源エムゾネ涵養保
安林除く)県知事の許可砂防法(静岡県砂防指定地管理条例)砂防
指定地(富士宮市等)施設又は工作物の新築等、竹木の伐採等、土
地の形状変更、土石の採取・集積又は投棄等県知事の許可海岸法三
保松原(海岸の水際線から50mの範囲)土石エムゾネの採取、施設等
の新設、土地の掘削等海岸管理者(静岡県河川砂防管理室)の許可
県有林管理計画山梨県県有林なし(水土保全林)(森林と人との共
生林)立木の伐採皆伐〜禁伐59(資源の循環利用林)なお、緩衝
地帯の外側に広がる市街地のうち富士エムゾネ山の主要な眺望(北側で
は河口湖・山中湖北部から眺望した富士山、南側では三保松原から
眺望した富士山)に若干の影響を及ぼす範囲については、日本政府
が自主的に保護する範囲として「保全管理区域」を設定している。
F資産に影響する可能性があエムゾネる個別の開発計画企業立地促進法
に基づく静岡県東部地域基本計画(静岡県及び14市町)2009
年2月策定市町村森林整備計画(富士宮市・富士市・裾野市・御殿
場市・小山町)2006年4月策定e)資産の保存管理計画又はそ
の他の保存管理体制エムゾネ構成資産のうち、史跡又は特別名勝・名勝
、特別天然記念物
士スバルラインで年平均410,000台・2006〜200
8年)による環境への負荷及び混雑の軽減を目的に以下の対策
を行った。ごみに関しては国・県及びNPO法人(富士山エムゾネ
ネットワーク・富士山クラブ)、ボランティアによ51る清掃
作業が活発に実施されるとともに(平成20年実績・92回、
約64t、延べ参加人数約7000名)、外国人も含め登山者
に対してマナー向上を呼びかけ、登山道周辺のごみは減少して
いるエムゾネ。山頂部で発生するごみについては山小屋組合(富士
山吉田口旅館組合等)により、山麓に搬出し、適切に管理・処
理されている。し尿対策に関しては登山道及び山小屋のトイレ
48箇所を2006年までにバイオ処理式等に改良し、環境へ
の負荷を軽減エムゾネした。さらに、登山者の増加や設備の老朽化
に対応するため、環境配慮型トイレ適正管理委員会を設けて対
策を検討しており、今後は業者と連携を密にしてメンテナンス
をきちんとしていくことが確認された。自動車に関しては、土
日・休日を中心に各登エムゾネ山道の利用者数に応じて自家用車の
利用を規制し(利用者の多い富士スバルラインで最大12日間
、利用者の少ない御殿場口はなし)、山麓の臨時駐車場と五合
目駐車場間のシャトルバスによる輸送を行っている。吉田口に
おいては2011年夏には富士エムゾネ吉田IC付近に1400台
の駐車場を整備し、自家用車の利用規制を15日に拡大する予
定である。5)資産と緩衝地帯の居住者人口構成資産内人口:
人緩衝地帯内人口:人合計:人集計年:2010年No.構成
資産の名称構成資産範囲内人口(人)緩エムゾネ衝地帯内人口(人
)合計(人)富士山A1山頂信仰遺跡A2大宮・村山口登山道
A3須山口登山道A4須走口登山道A5吉田口登山道A6北口
本宮冨士浅間神社A7西湖A8精進湖AA9本栖湖B1富士山
本宮浅間大社B2山宮浅間神社B3村山浅間神社エムゾネB4須山
指定解除c)保護の実施手段1)資産各構成資産については、遺
跡、記念工作物、建築物群のみならず、それらと密接な関連を持
つエムゾネ展望線など、富士山の本質的価値を構成する諸要素を厳
格かつ的確に把握し、それらをすべて含む範囲について、価値の
中核をなす部分は文化財保護法の下に指定(特別名勝又は名勝、
特別天然記念物又は天然記念物、重要文化財、史跡)され、また
、価エムゾネ値の中核をなす部分を取り囲む地域の大部分は自然公
財保護法にエムゾネ基づく段階的な指定により保護措置がとられ、史跡
等の管理団体である各市町村と静岡県・山梨県が個別に保存管理計
画を策定して適正な保存管理に当たっている。さらに、2011年
には、資産を構成する重要文化財、史跡、特別名勝又は名勝、特別
天エムゾネ然記念物又は天然記念物について、静岡県・山梨県が文化庁
、所有者である宗教法人・個人、史跡等の管理団体である各市町村
との調整の下に構成資産の全体を対象とする包括的保存管理計画を
策定し、保存管理全体の整合を図る予定である。上記した各エムゾネ構
成資産の保存管理計画の概要と資産全体を対象とする包括的保存管
理計画の全文については、本推薦書付属資料−として添付している
。1)保存管理計画各構成資産の保存計画の策定状況については、
本推薦書の7.資料、e)参考文献、3)保存管理エムゾネ計画書に示
すとおりである。特に静岡県・山梨県教育委員会は、文化庁及び関
係各市町村の教育委員会との十分な調整の下に『世界遺産富士山包
括的保存管理計画』を策定し、資産の全体を視野に入れた総括的な
保存管理を行う予定である。包括的保存管エムゾネ理計画に定める基本
方針は、次の5点である(別添参考資料)。(1)構成資産の適切
な保存管理(2)周辺環境を含めた一体的な保全(3)経過観察の
実施(4)整備・公開・活用推進(5)保存管理体制の整備と運営
包括的保存管理計画に定めた上記エムゾネの基本方針に基づき、管理団
体である県・市町村が個々の重要文化財、史跡、特別名勝又は名勝
、特別天然記念物又は天然記念物の保存管理計画を利用し、具体的
で適切な保存管理に当たる予定である。これらの保存管理計画を要
約したものについては、エムゾネ付属資料に示すとおりである(別添参
考資料)。「富士山」を総体として保全するためには、構成資産の
みならず緩衝地帯をも含