勅撰を自称している古事記が、正史の「続日本紀」に登場してこない
勅撰を自称している古事記が、無官の太安万侶一人で編纂されている
古事記を暗誦した稗田阿礼は「日本書紀」にも「続日本紀」にも登場しない謎の人物
性質の異なる、しかも内容も違う二つの史書が天皇(天武)の勅命でそれぞれ並行して編纂されるという不可解さ
全て説明がつく
古事記と日本書紀……なぜ日本には史書がふたつあるのか? [926170111]
http://2chb.net/r/poverty/1601485043/
【蘇我氏の悪魔化、日本書紀】
古事記には崇峻天皇が蘇我氏に暗殺されたなんて書いてないし厩戸皇子(聖徳太子)なんて一行しか登場してこない
一方日本書紀では、蘇我氏が崇峻天皇暗殺までしちまうし厩戸皇子が大活躍する。つまり飛鳥時代の功績は蘇我氏の物ではなく厩戸皇子の物として描かれている。 正史と神話を区別する判断が出来たということ
なおネトウヨは神話の部分まで正史と捉えてるから古代人以下の脳ミソしとる
大昔から歴史捏造や公文書の偽造、破棄が好きな土人だったんだよ
【古事記の辿った歴史】
『日本書紀』には『古事記』そのものは登場しない。が、蘇我倉山田石川麻呂(~649)が誅殺される際「好書」を残したという記述なら日本書紀にある。
それこそ蘇我馬子が厩戸皇子と一緒に作った『天皇記の写本=原古事記』であった。
前時代の支配者が作った史書であったので即座に隠匿され宮中書庫の奥深くに秘書として封じられてしまう。決して表舞台に出ることは無い筈だった。
しかし150年後、『日本書紀』の講義をしていた多人長が何故かこの書を発見!
正史と全く異なる歴史、豊かな神話が記された書本を見てびっくり仰天!
自家の権威付けのため利用してやろう!と考えついた
そういうことで、祖先太安万侶を顕彰し「古事記は稗田阿礼が暗誦して太安万侶が編纂したんだよ~」とする序文を追記。
んでもって流石にそのまま公開したら不敬を問われて処罰されるのがオチなので、一定程度日本書紀の記述と整合性を取りながら公開。
つまり、多人長のメンツのせいで結構内容の違う『古事記』と『日本書紀』の二つの修史事業が平行して行われたとかいう意味不明トンチンカンな歴史になっちゃったわけだな 聖徳太子なんてまんまキリストのパクリだよな
馬面で生まれたとか
マルコ、マタイ、ルカ、ヨハネ…なぜ
真理は1つのはずなのに福音書は4つもあるのか
わかりやすくタイムライン化しようか
【古事記の辿った歴史】
○[真]西暦620年
蘇我馬子らが「天皇記(大王記)」を編纂する。
○[真]西暦649年
蘇我倉山田石川麻呂さんが誅殺される。
重要な「好書=天皇記」を遺す。
●[偽]西暦712年
稗田阿礼が暗誦、太安万侶が編纂し「古事記」が完成。と古事記の序文に書かれている。
○[真]西暦800年前後
日本書紀講師の多人長さん、講義に使える参考書を探してる間に「天皇記」を発見
( ゚д゚)ハッ!
正史と全く違う記述に仰天&豊かな神話に感嘆し、自家の権威付けのため利用してやろうと考え付き先祖の太安万侶を編者とした序文を追加。
不敬を恐れ、ある程度正史整合性取れるように修正。
○[真]西暦812年
「古事記」の存在が初めて他文献(弘仁私記序:)に記される。
《紆余曲折、秘書扱いで近衛家書庫に封じられたり偽書扱いされたりでずっと不遇...》
○[真]西暦1798年
本居宣長が「古事記伝」を完成させる。
彼が古事記を称揚した事により評価が一変し、史上初めて日本書紀と並び評される神典として祭り上げられるようになる!! 天武朝と天智朝の2系統があるんだよな
最初は天武朝だったけど、途中で天智朝に戻ったんだっけ
古事記が初めて文献に登場するのは、どこまで遡っても812年「弘仁私記序」までだからね
そして弘仁私記序で博士やってたのは太安万侶の子孫、多人長だ
>>10
その通りですね
天智天皇はやらかしました。 1000年後には安倍晋三が国を造ったという新しい歴史教科書が唯一の歴史書として伝わってるよ
正倉院に古事記日本書紀入れといてくれたら奈良時代当時の残せたのにな
あんなただの神話を歴史書として捉えてる日本人ってやばくね?
天照大神とかふつうに出てくるんだが
【天武が政権握るまで大雑把に】
まず蘇我氏が全方位外交繰り広げてまあまあ上手くやってた(船原古墳から、蘇我氏は新羅とも仲良かった事が分かってる)
けど中臣(後の藤原)&中大兄皇子(天智天皇)が蘇我入鹿を暗殺し
【百済一辺倒外交】を展開。
唐との無謀な戦いに臨み派遣軍全滅。
で天智朝は白村江の戦いで完敗してから求心力を失い、豪族に妥協しまくって部民制復活(甲子の宣)させたり無茶苦茶な近江遷都で放火が相次いだり謎の唐軍2000人の上陸も阻めないで受け入れる様なレームダック政権になる
そんな天智朝を東国の武力で(壬申の乱)ひっくり返したのが大海人皇子[天武天皇]
即位後直ぐ、豪族が就くはずの大臣職を全部皇族に入れ替え親政を開始
八色の姓で抵抗勢力は片端から粛清&左遷
国号を正式に『日本』に変えたのも天武
『天皇』号使い始めたのも天武
五畿七道に分類して広域行政し始めたのも天武
伊勢神宮に社建てたのも天武
日本書紀編纂命じたのも天武
現人神扱いされたのも天武が初めて(柿本人麻呂の歌)
大嘗祭始めたのも天武
ここが日本史の大いなる転換点ですよね 物証殆どない嘘だらけの歴史
妄想で1000年以上前のことを書いたファンタジーラノベ
>>15
そうですね
あと古事記だと倭健命(ヤマトタケル)ですが日本書紀だと日本武命(ヤマトタケル)になる
やはり古事記の方が古い 九州倭国方面の書物が全然残ってないのが焚書の徹底振りを伺わせる
記紀出典の風土記くらいは残しとけよと思う
藤原の都合が良いように書かれているのが日本書紀
蘇我の都合が良いように書かれていた「天皇記」を、当時権勢を振るっていた藤原氏に弾圧されないよう改竄したのが古事記
こう考えれば全部説明つくよね? 古事記書いたら
漢文読めないよって無教養層に文句言われたのでひらがなで日本書紀書きなおしたらしい
今と同じだね
そもそもジャップって中国から漢字が入るまで文字すらなかったって遅れすぎだろw
自分達で文字すら書けなかった時代まで日本の歴史とするのは無理があるw
>>22
日本書紀は正式な漢文編年体ですよ
>>20
古代九州といえば磐井の乱ですが
日本書紀では「筑紫国造」と言う後世の官職名を冠されているのに
古事記ではちゃんと「筑紫君」となっていますね
>>18
欠史八代以前は完全に創作と言われていますね
最近は継体以前まで創作なんじゃないかとも あー、確かにこれっぽいな
昔から疑問だったけど謎が解けたわ
>>17
天武ってクーデターで政権奪ったの?
天皇家じゃないやつが天皇家になったってこと? 古事記は天武天皇による個人的事業として書かれて、日本書紀は朝廷による国家的事業として書かれたって説をどっかで読んだな
九州の呼称
九州という言葉は、もともと古代中国で全土を九つの州に分けたことに由来し、中国全域のことを意味する。日本の九州も倭国が中国にならってその支配領域を九州と名付けたことが始まり。日本国による倭国征服後、倭国の存在は抹消され、「九州」は公には日本全体を指す言葉として使用されたが、平安後期には元の意味(旧倭国の領域)で使用されるように戻った。
倭国の首都は太宰府にあり、大宰府には天子の居所であることを示す「紫宸殿」「朱雀」「内裏」といった地名が残っている。太宰府は山城(神籠石)により防衛され、神籠石は大宰府を取り囲むように配置されている。太宰府の条坊築造時期は藤原京条坊築造時期より古い。
中国の歴史書(旧唐書)には、小国の日本国が倭国を征服したと書かれている
うちの爺さんも記紀についてというか天皇についておかしいって研究してたな
日本書紀の天皇没年齢は、先に編纂が終了した古事記との違いが多過ぎるからねw
どう考えても日本書紀の編纂者達は古事記(天皇記)をほとんど参考にしてなかったということだよ
天武天皇が同時期に、国内向けと海外向け~なんて説明チャンチャラおかしい
天皇記は完全に隠匿しきって二度と世に出ることは無いと思ってたんだろう >>8
ヨハネ以外は共観福音書で道であり真理であり命であるイエスの記録
福音書が真理ではない
>>32
僕は九州王朝説には立たないな
小国の倭が日本を併合した~てのは壬申の乱の事だと思ってる
近江朝廷が倭で、東国から挙兵した大海人が日本ね
実際初めて国号「日本」使い始めたのは天武天皇だし
『百済回復戦争で唐と戦ったのは我々(天武朝)じゃないんですよ倭(天智朝)なんですよ~だから仲良くしましょうよ~』
ていう感じで、天武朝時代に送った使者が弁明した話が「小国の日本が倭を併合した」となったんじゃないかな
>>30
一応天智天皇の弟が天武天皇ってことになってるね
ただ、『日本書紀』には天武天皇の年齢に関する記載一切無いよ
他の天皇については例え神代であっても何年生まれだとか、兄弟と幾つ違いだとか、等々で全て特定できるのだが
天武天皇だけが一切年齢推測させる記述無し 蛙の骨、桃の種、木製の鞘
これだけの物的証拠が出たので、邪馬台国は奈良だと断言できる
考古学は物的証拠が全てなのだよ
勝負あり(´・ω・`)
悔しいなら、九州説の学者たちよ、柿の種を探すんだ! (`・ω・´)
こんなんで沢山の人が亡くなってきたってのは悲しいよな
>>40
畿内説が正しいでしょうね
だって魏志倭人伝に5万戸を誇ると記載された(ちょっと盛ってるかな)
7万戸の邪馬台国に次ぐ勢力の投馬(ヅマ[上古音])国とは、出雲あたりの事でしょうかえあ
投馬では支配者が~ミミと呼ばれていたらしいですが、古代出雲神にも~ミミ系多かったですし >>23
インカ帝国は文字がなかったけど立派な文明だろ >>39
まず天智と天武は兄弟じゃないよな
何なら親戚ですらなさそう
持統の扱いからしても明確な王位簒奪 >>43
古事記の内容は明らかに博多辺りから本州に領土取りしてるだろ
大和朝廷が邪馬台国とするならな 最も天皇記と国記を蘇我蝦夷が焼いたとき、一部は持ち出して焼失を免れたというから、それは後世に残った可能性があるよねw
>>1
そもそも神話を公認の歴史書として認定してる国は
日本の他には韓国くらいしかない
だから兄弟って言われるんだよw 厩戸王子...
韓国の韓国のキリストか
確か馬小屋だかで生まれたったてアホ設定でキリストは韓国生まれ云々ってあったよな
聖徳太子が天皇記と国記をつくったとき、既にいろんな文字文献はあったらしいが、それらを統一的に編纂する事業を始めたのはやはり偉大なる聖徳太子であったわけであるねw
>>50
蘇我本宗家がやられた時に消失免れた国記は日本書紀編纂の際に使われたはずです
一方で蘇我倉山田石川麻呂が誅殺された時に発見された『好書』の方が天皇記の写本だった可能性がありますね
なんてったって改新政府の右大臣ですから、色々持ってたでしょう >>54
まー当時は日本人が漢字使い出したばかりの時期で、いろんな表記法の文字資料が混在していたことは想像できるよね。
日本書紀は純正漢文体で書かれてるが、古事記はそうでないわけで、編纂事業のありかたによって表記法も統一されたわけであるねw
本当に太安萬侶が文学性豊かな『古事記』の撰録者だったら、『万葉集』の歌の中に一首ぐらい彼の歌があっても不思議じゃないけど
無いからね
明らかに編纂された経緯がおかしい
から江戸時代までずっと偽書扱いされてきた
けど偽書だとは思わない
多人長の自家への我田引水のため古事記『序』が付け足された
また本文は、藤原家の権勢が振るわれる世情を鑑み正史に沿う形で修正された
それが古事記
原古事記の誕生自体は日本書紀より明らかに古い 邪馬台国は九州だろ
畿内にあったなら邪馬台国がある地域に大和朝廷もあるって事になる
九州が邪馬台国で卑弥呼とかで
出雲の卑弥弓呼と言われている素戔嗚尊=大国主命が東方遠征で
それから天皇へってのならまだ分かるが
あったとしても邪馬台国の卑弥呼系の蘇我氏が畿内に旧帝として治めてたが
後の天皇系と中臣鎌足が九州から畿内邪馬台国に押し入ったのが大化の改新で
それが何らかの形で東方遠征として残ったか
そもそも太安万侶も非実在説があったが、昭和に安麻呂の墓が発掘されて、実在論争にケリがついたという経緯があるわけでねw
そもそも天皇という呼称は天武天皇からであって
推古天皇ではない
>>52
そういや聖徳太子はいなかった説ってどうなったのかぐぐったら
まだ論争続いてたのね…厩戸皇子というのが第二次大戦以後に爆誕した新しいあだ名って知らんかったわ 偉大なる聖徳太子が日出処の天子と日本の大王を天子と称したときから、天皇の称号への道は開かれたと言えようw
天子の称号を使えるのは中華皇帝だけと当時は思われていたから、煬帝は怒ったわけであるねw
天子も天皇も「天」の字を使ってるという共通項はあるわけで、天の字にはやはり特別な意義があったとみるのが妥当であろうw
蘇我が大王だったって説はやはり少数派ではないんだよ
蘇我だけじゃなく物部とかの有力豪族の持ち回りだったのがスッキリする
何故今の天皇家だけが継げるのか意味不明
特に古代に置いては実力主義であったのは想像にかたくない
>>59
実際、邪馬臺(jamatəi)国があった畿内にずっとヤマト朝廷の都が置かれたじゃないか
もちろん昔は大王がしょっちゅう交代していた可能性もあるよ
葛城氏とか大王級の大古墳作ってたりするし 古代の天皇はかなりの権力を持ってたが、後世になると権力はほとんど奪われて傀儡同然になっていくわけで、その走りはやはり蘇我氏であろうねw
蘇我氏が絶大な権力を持っていたということは日本書紀にも書いてあるから、そこから蘇我大王説が生まれたわけであるねw
>>65
そうでしょうね
古代中国には天帝崇拝がありますから
朝鮮半島でも「天(ハヌル)」崇拝だったかな? 蘇我・厠王子という売国奴
天皇家はこの時点で終わってる
>>70
まー朝鮮の歴代の王は中華皇帝には逆らわず、ずっと王を自称してきたわけで、朝鮮皇帝を名乗ったのは日清戦争のあとになってからだよねw
蘇我氏が皇室ひっくり返そうと企むほど横暴だったってのは藤原氏の脚色が大きいと思っていますよ
崇峻天皇暗殺だって、古事記に記載が無い通り嘘なんじゃないですかね
日本書紀を信じすぎですよ
>>71
と主張して蘇我入鹿を暗殺し、百済一辺倒外交を展開
無謀な百済回復戦争に打って出て5万の大軍を海の藻屑にしたのが中臣&天智天皇ですよ
挙げ句2000人の唐軍上陸を許し、超大量の貢物渡して返ってもらう
本当に売国奴なのはどっち? そもそも古事記には聖徳太子関係の記事はまったくないからねw 理由はなぜか知らんが、やはり古い資料を使ってるからだろうw
比較的新しい聖徳太子関連の資料は使ってないわけであるねw
そもそも推古天皇が即位したのも蘇我馬子の指名というし、その前に崇峻天皇が殺されたのも蘇我馬子の指図というわけで、蘇我物部戦争で蘇我氏が勝利して、蘇我氏の権力は絶対的になったと言えようw
当時の蘇我氏が絶対的権力を持っていたということは、蘇我氏の支配地域が蘇我物部戦争のあとドカッと増えたという資料からもわかるそうであるねw
昔の日本で天はアマと読んだよね
『隋書』『新唐書』にも「日本の王室の姓は阿毎(あめ)ですよー」と書いてある
姓じゃなくて称号な気もするけどね 仮に素戔嗚尊(大国主命)の出雲やら大和朝廷の前身となる蘇我氏朝廷があって
天照大御神(卑弥呼)系の邪馬台国が
国譲りしてくれた国津神の大国主命一族に感謝して出雲大社建立したりして
従わなかった一部の蘇我氏を滅ぼしたのが大化の改新とかなー
他だと天照大御神を現在の伊勢神宮へ離したのも
蘇我氏が卑弥呼(天照)の子孫で
祟り神なんで朝廷に祀ってたのが伊勢へとかならわかる
畿内邪馬台国だと天照=卑弥呼説がおかしくなると思うんだよな
天照の子孫である帝がどこに東方遠征したんだってなる
あっても国作り最初の淡路島辺りとか
出雲から東方遠征で畿内に大和朝廷なら分かるが
>>75
結局最近は聖徳太子の事績が見直されてきているね
教科書からも姿を消すらしいじゃないですか
やはり古事記の方が比較的史実に近い物であったと思いますよ
日本書紀は藤原氏に歪められすぎ
もちろん原古事記も蘇我氏に歪められ藤原氏に配慮するため歪められ、多人長の我田引水のため歪められましたが
ここまで滅茶苦茶だと却って史実に近づくみたいな感じになると思うんですよ あめ、あまは古代の日本語であるが、それを「天」の漢字にあてることを思いついたのは、やはり偉大なる聖徳太子ではないのか?w
>>81
聖徳太子非実在説は大山教授がいいだして学会を風靡したそうであるが、それで聖徳太子関連の記述がすべて消滅したかというと、やはり太子の存在は無視できないという方向に戻ったそうであるねw 古事記の原書と言われてる「ホツマツタヱ」というものがある。
古事記と日本書紀を呼んだことある人ならわかるが
この2つを読んでると、矛盾点やいろんな不明な事柄がたくさんあるけど
ホツマツタヱを読むと、その矛盾点などがすべてクリアになる。
すべてが繋がる。
古事記と日本書紀は、当時の天皇によって、
都合が悪い部分を何度か書き換えられていて
歴史がねじ曲げられている。
ホツマツタヱは最古のものなので、本当の日本の歴史の真実が書かれてる。
かなり面白いから、わかりやすい翻訳本がいくつか発売されてるから読んでみろ。
ホツマツタヱを、日本は学校で教材として取り入れて勉強させるべき。
聖徳太子の事績としていちばん有名なのは十七条憲法であるが、あれも日本書紀しか確認する資料がないというので、本当に太子が製作したのかどうか、今でも論争になってるわけであるねw
ホツマツタヱは、流石に偽書かなw
偽史といえば武功夜話が一番出来いいよね
古代史じゃないけど ま~十七条憲法は聖徳太子が書いたというのは日本書紀にしか書いてないが、誰か他の人が十七条憲法をでっちあげたという資料もないわけで、結局十七条憲法はあとから太子作としてでっちあげたということも証明できないわけであるねw
古事記を頑張って作ったけど、ちょっと対外的に見せるのは恥ずかしいところ多いので、対外向けに作り直したのが日本書紀
>>87
偽じゃないぞ
いろんな歴史学者たちが研究していて
全国各地で言い伝えられてきて
本物だという物証がないというだけで偽書と言う人がいるだけで
完全に本物
偽書とか言ってると笑われるぞ
俺の地元でも知り合いの宮司さんが、先祖から代々受け継がれてるホツマツタヱのことを話してくれて
いろいろ聞いたことあるけど
完全に真実だぞ >>67
それは構わないんだが
それだと女王卑弥呼時代と被る時期出てくるはずなんだよな
畿内に朝廷2つあったのかって
母が蘇我の推古天皇とかが卑弥呼系とか
他だと斉明天皇とか神功皇后辺りが邪馬台国興したりみたいな事したけど
大化の改新で蘇我氏をとかならな
所謂南北朝時代じゃないけど
別に帝なり摂政みたいなやつが存在して
朝廷が2分割みたいな時期あるはずだと思うんだ
女王卑弥呼派と帝派とかな
んで天照=卑弥呼だった場合
卑弥呼系の蘇我氏を~でそれを祀ってたけど祟るんで現在の伊勢神宮をとか 蘇我馬子とか
我蘇る馬小屋だかって厩戸王子の聖徳太子とか
我蘇るでキリストが元なんじゃって話が一部あったな
>>91
古代の史書が五十音と五母音に対応してたら流石におかしいでしょ
話としては面白いですが、史料としては論ずるに値しません! 戦後に法隆寺が放火されたのは古代正史をバラすんじゃないぞという警告のためか
聖徳太子は馬小屋で生まれたという話はキリスト教系の説話の影響じゃないかという話は、明治時代に久米邦武が最初にいいだしたわけであるねw キリスト教系の説話との類似はそれくらいだから、太子についての伝説はみなキリスト教の影響によって創られたというのはやはり証明不可能であろうねw
俺はホツマツタヱをずっと勉強してて
ホツマツタヱに記されてる歴史に沿って全国のホツマツタヱに関連する神社巡りもして
その時々に、神社の宮司さんや地元のご老人の方たちに話を聞いてきたけど
間違いなく本物だとわかる
>>92
倭国大乱が終わった時(つまり卑弥呼が諸国に擁立された時)が、丁度実在可能性のある最古の天皇と言われた「崇神天皇」の時代にあたると言われてたりする
計算方法↓
実在可能性のある最古の天皇〈御間城入彦五十瓊殖〉の没年を戊寅年から258年と推定。
かつ、後の天皇の登場年と外国史書の年号から比定、逆算し在位年数を約20年と推定。
(※古事記の記述をそのまま信じると168歳まで生きて在位年数70年となるが、まあありえない。) >>94
あなたはホツマのこと少しは知ってるみたいだけど
おかしいんじゃなくて、ヲシテ文字から今の五十音がつくられただけのこと
天皇家に代々伝わる、フトマニ図のこと知ってる?
伊勢神宮に封印されてた物を、昭和天皇が表にだしたの知らないかな?
>>96
イエスが馬小屋で生まれたってのは、後世に定着した話ですからね
これは収斂進化みたいなもんでしょう。私も景教の影響じゃないと思いますよ
日本書紀の編者は神功皇后を卑弥呼に比定させたかったみたいだけど、現代でちゃんと海外の史料もフル活用で逆算したら崇神期あたりに卑弥呼時代が該当すると分かってしまう
もちろん日本書紀の編者も魏志、漢書、百済三書あたりは読んでたけどね
現代の我々のほうがもっと知ってるから >>100
別に景教の影響と見なくても、馬についての説話は聖徳太子関連の説話に他にも出てくるからねw
蘇我馬子がそもそも馬に関係ある名前だしw
聖徳太子は黒駒と言う馬に乗っていたとか。
>>92
ちなみにこの説だと
倭迹迹日百襲媛命が卑弥呼になり
「倭の女王に男弟有り、助けて国を治む」の弟王が崇神
で、豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)が台与(トヨ)になる 内乱終わって卑弥呼として制定した場合
帝はなんだとなるが
勿論日御子=帝もあるだろうが
その場合卑弥呼の後継者の臺与の子孫か
卑弥呼の弟王系統か
東方遠征も元はどこへ行ったのかってなるんだよな
帝自体元の卑弥呼(邪馬台国=大和朝廷の場合)系から別一族が簒奪してる可能性がある
邪馬台国の南側にあったとされる狗奴国は淡路島辺りにでもなるんかな
騎馬民族制服王朝説が現れると右翼の火消し隊が出現して暴れ出すw
仁徳天皇陵の建設の話とか全く歴史書に残らない時点でおかしいよね
世界でも有数の巨大建設事業だぜ
隋の皇帝怒らせた小野妹子の第一回遣隋使だかが記紀に書かれてないの?
>>104
伊勢神宮も豊鍬入姫命を日の巫女として
人身御供的な感じで追いやった感じじゃないかと思うんだよな
>>105
東征は魏志の邪馬台国よりもっと前の話だったりするとか?
もしくは、「我々の祖先も最初は吸収に降り立ったんだから仲間みたいなものだ」という神話作って服属求めたとか 卑弥呼は個人名じゃなくて役職名だという説もある
「ヒのミコ」からヒミコになったと言われてる
「ヒ」というのは天照大神のことを指し
天照大神にお仕えするミコということで「ヒミコ」になった
歴代ヒミコの名もホツマツタヱには記されている。
初代 「トヨスキ姫」
2代 「ヤマト姫ヨシコ」
3代 「イモノ姫クスコ」
邪馬台国はどこにあった?
1魏志倭人伝にある邪馬台国(ヤマタイコク)はどこにあったのでしょうか?
昨年、魏志倭人伝の中の卑弥呼を、ホツマツタヱの記述と照らし合わせたとき、明快に「ヤマト姫ヨシコ」であることが確認できました。
今まで、卑弥呼が誰であるか探せ出せなかったのは、多くの方の誰もが卑弥呼を個人名と思い込んでいたからと思われます。 個人名ではなく、今でいう役職名であったと考え直すと、答えが待っていたかのように一瞬のうちに見つかったのです。
卑弥呼すなわち「ヒミコ」とは「ヒのミコ」の「の」が漢字化されたとき省略され、「日(ヒ)の皇女(ミコ)」・「天照神におつかいする皇女」・「天照神の御杖代(みつえしろ)」のことであり、現在の神社の巫女さんにつながってることも納得できます。
卑弥呼と称されるようになった元の「天照神の御杖代(みつえしろ)」という言葉について、ホツマツタヱの記述に照らし合わせると、崇神天皇(ミマキイリヒコ・イソニエ)の代に行きつきます。崇神天皇のときに国内に疫病が広がり民の半数が亡くなったという衝撃的な事態が発生したからです。
今の新型コロナ以上の事態であったと思われます。
崇神天皇(ミマキイリヒコ・イソニエ)は神の崇(あが)め方が足りないと思い、娘のトヨスキ姫に天照神を祀らせ、ヌナギ姫に大国魂神を祀らせました。
トヨスキ姫は天照神の御杖代を103才まで務めとおし、11才になった「ヤマト姫ヨシコ」が2代目の御杖代として引き継ぎます。
この「ヤマト姫ヨシコ」のホツマツタヱの記述内容と、魏志倭人伝の卑弥呼の記述に共通している個所があちこちに見られました。
詳細は「卑弥呼は誰であったか」(昨年の解読資料)を参照願います。
2 邪馬台国(ヤマタイコク)と呼ばれていた本来の意味について
邪馬台国という漢字の持つ意味にとらわれず、ヤマタイコクという音声から意味を考えてみます。
「ヤマ」・「タ」・「イ」・「コク」と分解してそれぞれの言葉の意味を考えてみます。
「ヤマ」は、「山」を表しているように見えます。日本の国土の80%は山であることからも納得できます。
「タ」は、「たから」の「た」と見ることが出来ます。
大黒様、大国主命が宝船にのって肩にかついでいる宝物を思い出してみると、米俵だと誰しもが思い浮かべます。
お米は「田んぼ」の「たからとれる」から「たから・宝」のことです。
そこで「ヤマタ・山田」とは、山の宝ととらえることが出来ると思います。
山の宝とは、「金」を意味していたのだと理解できます。
邪馬台国=山の宝のある国=金のある国=黄金の国・ジパングと、当時の海外から呼ばれていたと思われます。
よって、この「ヤマト姫ヨシコ」の居られたところが、魏志倭人伝でいうところの邪馬台国の中心であったと思われます。後の斎宮(イツキノミヤ)になります。この時、実際の政治を執られていたのは纏向遺跡・マキムキ日代の「景行天皇」になりますが、国内の乱れを糺すため、九州はじめ全国を飛び回っていました。「ヤマト姫ヨシコ」に報告されていた記述もあり、留守を預かっていたことも納得できます。
山田という地名のある所は、日本国内のほとんど全てといって良いほど、金山・鉱山が近くに存在していたと思われます。
日高見地方にも金が採掘されていたと思われる山田条理遺跡があり、近くには金華山もあり、ヤマトタケがエミシ征伐に行った帰りに黄金10斤を賜ったことから、以前はここが邪馬台国ではないかと思っていたことがありました。
三重県の伊勢市にも山田という地名が存在し、宇治山田という駅名もあります。斎宮跡が近くの三重県多気郡で見つかったことからも、この付近が魏志倭人伝で述べている邪馬台国の候補の一つではないかと思います。
また、別の見方ですが、日本列島のあちこちに点在する金山を全て総括して邪馬台国・ジパングととらえていたとも
ホツマツタヱの存在をご存じない方は、邪馬台国・あるいは女王国が九州にあったと考えている方がいらっしゃいます。景行天皇が九州を一周されたとき、女王国が「みね」にありという記述がホツマツタヱの中にあます。
現在の吉野ヶ里遺跡付近に「三根」という地名が残っています。まさに女王国であったと思われます。女王は「ヤツメヒメカミ」と言い、漢字に置き換えてみると「八女姫神」となり、現在の「八女・やめ」に引き継がれていると考えられます。北九州を既に支配していたと思われます。
景行天皇はこの場所を避けて通りぬけており、急いで瀬戸内海経由で帰国し、ホツマツタヱを編纂させています。このとき、すでに渡来勢力の流れを感じ取ったものと思われます。
神武天皇以前のヒコホホデミの時までは、瀬戸内海経由ではなく、日本海を海流にのって、志賀の浦(福岡市志賀島・金印が発見)より、北の津(今の敦賀)に到着していました。
当時、「おおかめ」(大亀舟)ならば、一か月以上、「かも」(鴨舟)ならば、約一月で、「おおわに」(大鰐舟)ならば、ささっと早く着くという記述があります。日本海の沿岸も渡来勢力とぶつかり合うため、瀬戸内海を通行せざるをえなくなっていたことがうかがえます。
よって、景行天皇の行動より、九州を治めていたとされる女王と、卑弥呼とは全く別人であることがはっきりします。
>>15
古事記の来歴を記してる序文は100%捏造されたものだから実際の来歴は分かってない
こんなのはただのこじつけ >>22
古事記は漢字を使ってるだけで漢文じゃないしむしろ日本書紀の方が漢文だ
馬鹿過ぎ >>23
じゃあ文字文化を持たないアイヌやインディアンには歴史は一秒もなかったのかよ
馬鹿過ぎやろ ホツマ文字で書かれた古代の木簡とか見つかれば、ホツマツタヱもかなり学術的信憑性が増すと思うけどねw
>>97
せっかくだから本書くといいよ
知識が勿体ない
古事記本文によれば「古事記」は和銅年間に奏上されてるんだから
国内向け編纂事業として古事記の編纂が行われました~と正史である続日本紀に書かれるはずなんだよ
でも書かれてないw
日本書紀にも古事記に関する記載一切なし
古事記を再発見したのは本居宣長であることを日本人の多くが知らない
それまでトンデモ本扱いだった
鎌倉時代は近衛家の書庫に封印されていた >>118
俺も邪馬台国は九州の福岡にあったと思うよ
奈良なんて内陸すぎて発展する要素が見つからない
交易に不利なところは発展しない
恐らく軍事的な理由か
占いを理由に仮遷都しただけの土地だろうね >>1
413年…倭王・讃、高句麗・倭国及び西南夷の銅頭大師が安帝に貢物を献ずる。(『晋書』安帝紀、『太平御覧』)
421年…倭王・讃、宋に朝献し、武帝から除授の詔をうける。おそらく「安東将軍倭国王」。(『宋書』夷蛮伝)
↓
高句麗の王子が扶桑に侵略して大和朝廷を建国して先住民を奴婢、蝦夷、俘囚、穢 多、非人に落として…
うっ…頭が…
そういや天皇じゃなくて御門か院だし
現実の指導者も征夷大将軍ばかりだし
それに、瀬戸内海運使えるしな
>>136
出雲国風土記は残ってるね
あれ読めば納得できるよ、なぜ出雲国造は出雲大社(杵築大社)よりも熊野大社を重んじたのか
理由は簡単。古代出雲の本拠地は西出雲(杵築)にあったんだ。しかし熊野を本拠地とする出雲國造勢力がヤマトと同盟して主君の杵築に謀反し
そのまま乗っとってしまったと。
その名残は今でも残ってる。
出雲大社の宮司は毎年10月に熊野大社に出向いて臼と杵を受け取るんだ。
そんでもって餅をお礼に渡す。すると熊野大社の下級神官である亀太夫は、色が悪い、去年より小さい、形が悪いなどと苦情を口やかましく言い立てるという屈辱的な神事をずーっとやらされてるわけ 日本では奈良以前のことになると記紀万葉かあとは遺跡くらいしかない
中国でも殷周時代のことになると史記か考古学的遺跡くらい
と思いきや文字資料たる甲骨文や文字を鋳込んだ青銅器やらで
紀元前1000年から細かい年紀が再現できるのがすごい
本当に当時の日本人いや倭人は独自の文字はなかったのか?
それより何千年も前の外国古代人たちが象形文字すら思いついてるのに?
古事記は序文にヤバいことが書いてある
いろんな豪族にいろんな伝承があるが
天武天皇に従い正しいもの一つを遺して他を消したと
安倍シュレッダーの結果、安倍が名総理になるやつ
両方読んでもいないのに聞きかじりで語る
愚かな中年たちをご覧ください
>>139
神代文字というのがあった
今の五十音の原型となるヲシテ文字があって
それよりも古くには龍体文字
そしてそれよりも古く、最古の文字と言われてるのがカタカムナ文字 >>8
もっとあったけど聖典認定されたのがその4つだったってだけ >>121
>古事記は漢字を使ってるだけで漢文じゃないし
はい古事記の原文エアプ 帝紀と旧辞を再編纂したものが古事記
古事記に他の資料を加えて編纂したものが日本書紀
これだけのことだろ
>>97
『ホツマツタヱ』とか『太成経』みたいな偽書もちゃんとアカデミックに研究していくべきだよなあ
『旧事本紀』だけじゃ狭すぎる 何が凄いって大体現実的な計算していくと
日本の建国が始皇帝が中国統一した時期とだいたい重なること。
中国はその後混乱続きで日本側も国防安全保障上の対応が必要になった
ことが窺える。それがちゃんとわかる辺り。
現実的には平均して一代30年で計算して辿って行くとそうなる。
>>23
元々まともな歴史も文化も一切ない国だったから遣唐使や遣隋使を何十回も派遣して
中国文化を節操なく盗みまくったのがジャップの先祖 >>148
確実な15代応神天皇が4世紀後半で
そこから例え直系で全部いたと仮定して1代20年で2世紀後半
ありえないけど30年で計算しても紀元前1世紀だ
どうやって始皇帝と被るんだよ
>>146
天皇の没年齢などが全然違うのに?
何度も言うけど日本書紀の編者は古事記を参照していないと思うよ
日本書紀には一切古事記登場してないしな
元ネタだったのならそう書く
日本書紀は完成した翌年に御前で勉強会をやった(続日本紀にある)が、古事記はそんな話は残ってない。
古事記の方が先に成立したのに日本書紀には古事記からの引用と思われる記述すらない。また「続日本紀」にも古事記の引用が見られない。
つまり誰も固有名詞「古事記」の存在を知らなかった
初めて現れるのが812年弘仁私記序からだ
古事記の神話、日本人がずっと昔から受容し続けてきたと思われがちだが室町時代に一部の知識階級が知って江戸時代に本居宣長が称揚するまではトンデモ本扱いだったんだぜ
軽視されてたんだよ
両部神道でも山王神道でも日本書紀しか使わない
一条兼良『日本書紀纂疏』(代表的な日本書紀注釈)なんて、旧事本紀引用27箇所、古事記引用【1箇所】だぜ
日本書紀≧先代旧事本紀>>>>>>>>>>>>>>>>古事記って扱いだったわけな >>132
たった二千年程度で海岸線が大きく変わるとか考えられない >>129
奈良盆地には大きな湖があったらしいよ。今は干上がってるけど。 >>157
ブラタモリ見てないの?
100年単位で海岸線変わる地質史ばっかだろ >>7
ニギハヤヒ率いる海部氏、物部氏とかの古代氏族たちは地中海からやってきたからな。だから、聖書の内容を熟知してる。 >>161
聖徳太子はキリストにちなんでいるな
蘇我馬子とかもな
日本人自体が地中海からやってきたから。遺伝子解析だとハプログループD系の日本人 >>159
>>160
じゃあさいまの地球温暖化人工説
誤りじゃね?2000年前の地球上にたくさん工場や車が走ってたのか?w >>163
いやたぶん当時の中国のいろんな書物に中東や欧州あたりから伝わってきたモノも
けっこうあったんじゃね?もちろん漢文に訳されて多少話が変化して
さらに日本に伝わってさらに誤訳やらなんやら独自の文化スタイルや風土を盛り込んで
だから聖徳太子非実在説なんてある
それなりのモデルはいたのかもしれないが >>156
そもそも宣長が古事記伝書くまで、誰もまともに古事記を読めなかったわけでねw >>158
当時の気候とかどうなってたんだろうか?
もし現在の地球よりも温暖で暑いのなら
九州よりも過ごしやすい畿内にあっても不思議じゃない
そして冬でも作物が作れたとあるから
2000年近く前は地球は今よりも温暖で雪がほとんど降らなかったと考えれば…あるいは… まぁ、ぶっちゃけ、江戸以前の歴史って割と捏造だらけだと思うよ
江戸自体もかなり改変激しいと思うし
明治政府でガラっと変わったからなー
焚書も酷かったろう
色々と歴史が矛盾だらけだし、まぁ、お察しという話
古事記伝は現代の学会でもきわめて緻密な実証的著作として評価されてるわけで、それは宣長の学者としての偉大さを証明しているねw
>>155
資料が少ないからいくらでもポエムできてええなw 現代記
███████、█████。
████████████。
███、███████████。
██████████。
──安倍晋三
>>132
大阪湾から生駒山を越えて奈良にあるというのが良く分からない所。
これが住吉大社、四天王寺、難波宮を抱える上町台地なら大仙古墳の
存在もあり理解できるところなんだけれど。 そりゃ紀ノ川大和川よ
3世紀大和朝廷軍は紀ノ川を下って半島に攻め入ったと言われるからな