まず最初に断わっておきますが、「ここは誰もが好き勝手に書き込んで良い」
というスレではありません。 このスレの趣旨は、仏教に関する様々な論点に
関して、私が私見、疑問点等を提示いたします。まさに、「外道がぶつぶつと
独り言を書き散らしているスレ」だと思ってくれて構いません。
勿論、それに対して異論、反論、疑義等は排除するものではありませんが、
極めて恣意性の強いスレであることを了解願います。
上げておりますのは、別段大勢の人たちに来てほしいからではなく、
(むしろその逆で過疎って欲しいくらいですw) 「真摯なる碩学」が、私の
書き込みを目に留め、その瑕疵を指摘してくれることを望むが故です。
自由に好きな相手と対論したいと思う人は、このスレを覗かずに他スレに移動
してください。
昨今、スレ立てが大変困難であり、好き勝手にスレを消費されことは大変迷惑
なのです。
前スレ
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1474820531/
ログ保管庫
http://houjugusya.web.fc2.com/link.html >>前スレ846
確かに頷ける部分もあります。
---密教について---
一般的には、
仏教のヒンドゥー化という低きレッテルが貼られている密教ですが、
しかし、視点を変えてみるならばある意味においては、ゴータマ・ブッダへの大きな原典回帰的な部分もある。
それが「如来蔵思想」です。如来蔵は唯識派の阿頼耶識に通じるものであり、
究極のところでは、これはゴータマの説かれた「自性清浄心」へと至るものです。
そして、大乗の六波羅蜜からゴータマの原点の成仏法である三十七菩提分法(道品法)
へと立ち戻ろうとした(よく知られる八正道はその一つ)。
それが金剛界曼荼羅の三十七尊です。
(金剛界マンダラを通して見た密教の特色)
http://nbra.jp/publications/73/pdf/73_26.pdf
【三十七菩提分法(道品法)】
四念住/身念住.受念住.心念住.法念住
四正断/已生悪断.未生悪令不生.未生善令生.已生善令増長
四神足/欲.精進.念.思惟
五根/信根.精進根.念根.定根.慧根
五力/信力.精進力.念力.定力.慧力.
七覚支/念.択法.精進.喜.軽安.定.捨
八正道/正見.正思惟.正語.正業.正命.正精進.正念.正定 >>前スレ847-848
>別に超越的な存在とか、そのようなスーパーなんちゃらが住するところを涅槃と呼んだのでは
>ないわけw
“苦の滅”という表現も涅槃を示す一つの状態のことに過ぎないのであって、
涅槃であるからには当然、涅槃としての性質のすべてをそこに含まなければなりません。
では、有余涅槃、無余涅槃(般涅槃)の区分けの件は別として、
“苦の滅”と“煩悩を吹き消した寂静なる状態”という意味合い以外における
涅槃についての説明や表現はすべてゴータマの説いたものではない、
という根拠を提示願う。
>如来の死後は無記でしょうに
それは、
世間の存在定義を超えたものであるという意味での無記です。
当然、「断滅」など説かれないのはもちろんのこと、
その如来の永久不滅性を意味する言葉は随所に散見されている。
スレ立て乙w 続きw
・・・・・・・・・・・一切皆苦の一切とは、この世の全ての存在、現象、作用のこと。それは
(凡夫はそうとはわからないが) 全て苦の因なわけ。 愛も楽しいことも、うれしいことも
全て苦なの。如来にはそれがわかってるの。だから如来の境地には苦は存在せず、そのような
苦の存在しない如来の境地を「涅槃」と呼んでるわけだから、涅槃が苦のはずもなしw
つまり、一切皆苦の一切とは、それが誰に対してのものなのか? 付帯条件によって変わるのw
「凡夫にとっては」 一切は苦 であるが、「如来にとっては」一切は苦ではないのw
そのような如来の境地を涅槃と言ってるのに、「涅槃は一切皆苦の一切に入るのか?」なんて
問いは成立しないでしょ?ww
・・・・・とまあ、これが原義なんだが、ご存じのようにこの「涅槃」と言う語彙は時代が
下るにつれて、その意味合いも変化していき、「死後の世界」とかいう意味に使われることが
一般的になったww
>>4
パーピマンて頭いいよなあ
悪魔だからやっぱり知恵に優れてるのかww
まあでも生きてる限りは、この、世界が、つまり、そこでゆー、一切があるんだから、涅槃には行かないんじゃないの??
と、ハジは思うんだけど >>4でパーピマンが言ってることは般若心経とほほ同じ >“苦の滅”と“煩悩を吹き消した寂静なる状態”という意味合い以外における
>涅槃についての説明や表現はすべてゴータマの説いたものではない、
>という根拠を提示願う。
wwwwwww
それ以外、即ち、宝珠のいうような「超常的な存在」を指示する用例が
ないからw
スッタ二パータを初めとする原始仏典における「ニルヴァーナ」は、
⇒「煩悩の吹き消された寂静なる心境」と説かれているねw
宝珠のいうようにニルヴァーナとは「超常的ななんちゃら」であると
釈迦が、解説しているというのなら、お前がまずそれを提示しなくちゃw
1072 師は答えた、「ウパシーヴァよ。あらゆる欲望に対する貪りを離れ、無所有にもとづいて、その他のものを捨て、
最上の〈想いからの解脱〉において解脱した人、
ーかれは退きあともどりすることなく、そこに安住するであろう。」
1073 「あまねく見る方(かた)よ。
もしもかれがそこから退きあともどりしないで多年そこにとどまるならば、
かれはそこで解脱して、清涼(しょうりょう)となるのでしょうか?
またそのような人の識別作用は(あとまで)存在するのでしょうか?」
1074 師が答えた、
「ウパシーヴァよ。たとえば強風に吹き飛ばされた火炎は滅びてしまって(火としては)数えられないように、
そのように聖者は名称と身体から解脱して滅びてしまって、(存在する者としては)数えられないのである。」
1075 「滅びてしまったその人は存在しないのでしょうか?
或いはまた常住であって、そこなわれないのでしょうか?
聖者さま。どうかそれをわたくしに説明してください。
あなたはこの理法をあるがままに知っておられるからです。」
1076 師は答えた、
「ウパシーヴァよ。滅びてしまった者には、それを測(はか)る基準が存在しない。
かれを、ああだ、こうだと論ずるよすがが、かれには存在しない。
あらゆることがらがすっかり絶やされたとき、あらゆる論議の道はすっかり絶えてしまったのである。」
>>11 の続き
追い出す側の人も
追い出される側の人も
因と縁の双方の縁起が相応一致して
無明の世界から解脱して
いつでも光り輝いている智慧の世界から観察して
悪魔を追い出していく
貪・瞋・癡を手放していく
我癡・我見・我慢・我愛を手放していく
無明・渇愛を手放していく
遍計所執性を手放していく
(変化しないものは、存在しないにも関わらず
変化しないものが、有ると思う虚妄の執著である) >>12
この前、キリスト教スレに遊びに来てた方ですか? あ、違う人か
サロメ棒デカさんは涅槃に消えてゆきまつた
これでもカトリックだい!by故ボウデカ
>>20
まあ、仏教にふれる入り口としては、その「知ってもらう」からでもいいでしょう?
ただ、日本風にアレンジされたものだけが仏教であると思い込むのはいただけないがねw
日本風仏教から「求道」に行き着くのは難しいなw
日本風仏教は、「信仰」を基軸にして、故人の求道的方向、即ち解脱への志向は 薄いからなあw
勿論、それがダメっていうんじゃないが、日本においては「求道派」は 少数派だろうねw
お坊さん便 が、売り上げ伸ばしてるそうだがw 日本人の仏教に対する接し方が よくわるw 時代が下がるにつれて登場した様々な超越的存在を信仰するのも、勿論、否定するわけでは
ないが、まず、・・・・
「人間釈迦」がどのような人であったのか?
その思想は何であったのか? そして、何故そのような方向性をとることになったのか?
以後、変遷し、原始仏教⇒部派仏教⇒大乗・・そして日本仏教
・・・なぜそのように変遷したのか?
そういうことを当時の社会状況などを踏まえて考察していくことは、仏教を理解していくうえで
とても重要でまた、面白いと思うのだがw
インダスから、アーリア人の侵入、土着種族との文化的融合、バラモンとは何か?
混血バラモンとの差異、三ヴェーダと呪術ヴェーダとの関係、ヒンドゥー的社会の構造、
カーストとは何だったのか? など、「仏教以前」のインド・・・・
そして、釈迦の生存した時代背景・・・部族国家⇒専制国家 への統合期、沙門とは何だったのか?
大都市の成立・・・なぜそれが必要だったのか?
そして、それが仏教が成立する重要な土台となり、サンガが生まれる因ともなる。
そして律が生まれ・・・・
文化とは、その時代の社会状況とは決して無縁に成立できるものではなく、宗教もまた
文化の一部であり、その影響を多大に受ける。
もし釈迦が紀元前8世紀ごろに生まれていれば、或いは、もう数百年遅れて生まれていれば
仏教は今とは全く違うものとなっていただろう。(それ以前に仏教が生まれなかった可能性が
強いがw)
後代の神格化された釈迦、超常的存在を信じて、護摩をたいたり、念仏唱えたり、唱題に狂ったり
するのもいいが、「人間釈迦」を見つめなおして、その思想がなぜ、変遷していったのか? を
考察するのはとても興味深いと思うのだがww
>>23
>「人は本来清浄な心を元々持っているのであるから、悟りを求める必要はない」と言う立場
>それゆえに ・・・・・・ >難しい?
そうではないだろw
本来清浄なると信ずればこそ、求道の力が湧いてくるかもしれんぞ?w
(少なくとも、中世まではそうであった筈)
だから、問題は、
≪現代社会の生活様式≫≪最低限の文化的(人間的)生活をする権利≫
或いは
≪日常・人生への満足度がそれなりにある(或いは亦、完全逃避を希求するほどの厭世“感”がない)≫
≪そこまでの幸福感を望まない≫
という、20世紀以降の近代社会と宗教の相克だよ >>25 補
先々週あたりか、
NHK探検爆問で隠れキリシタンやってたが、(遠藤周作の沈黙の映画化もあるが)
≪命の危険を感じていて、尚、信仰する≫
ということが、現代社会(少なくとも現代日本)に於いてあり得るか? と。
リベラルまでいかずとも、
政教分離や個人の尊厳、最低限の人間らしい生活、
或いは、
恋愛や家族生活、『人並み・世間並みの幸せな日常を送る権利』
『職業選択の自由』『進路選択の自由』等等の ≪自由マンセーな20世紀以降の価値観≫
に照らし、重視しするなら、
「命あっての物種」或いは「仏に会ったなら仏を殺す」とか「寒さしのぎに本尊さんを焚火にくべる」とか
そういう価値観で行くなら、
求道する必要・意義がなくなってしまうわけでね・・・。
☆
たとえば、仮に輪廻肯定派であったとしても
とりあえず今、輪廻していることに
>満足度がそれなりにある?
(或いは亦、完全逃避を希求するほどの厭世“感”がない?
輪廻からの解脱を求める程でもない?
そこまでの幸福感を望まない?)
↑ にゃるほろ了解でつ
_ _ _
ちなみに「おじゃるの場合は」
>寒さしのぎに本尊さんを焚火にくべる
↑これでつ
苦行よりも → 楽な(世俗的な?)生活が良いでつ
(「苦行したくない!」という想いに依存して)
それゆえに
誰もが成仏するわけではない(五性各別)?
一切の如来の御足を礼拝し奉る
オン サラバ タタギャタ ハンナマンナ ノゥ キャロミ m(_ _)m
マーラ
釈迦が悟りを開く禅定に入った時に、瞑想を妨げるために現れたとされる魔神
煩悩の化身であるマーラにとって、釈迦が悟りを開く事は自身の破滅につながる
そこで手始めに釈迦のもとに美しく技に長けた三人の娘達を送り込むが
釈迦は数々の誘惑に屈せず…
たとえば
おじゃるの場合なら
かわいい女性が、やって来たなら、すぐにデートに没頭することになる
(実際には、かわいい女性とかが、やって来ることは、ないけれども…)
小説、コミック、アニメの世界の中での、登場人物の心の働きの描写として
無明
我癡・我見・我慢・我愛
貪・瞋・癡
戯論(けろん)とかの依存によっての、心の働きの描写とかがある
主人公 アツコ・カガリ
「自分が苦労しなくても、他の誰か、がかわりに、やってくれるよ」という感じの
(煩悩からの誘惑)心の働きの描写
(しかし、主人公(アツコ・カガリ)は煩悩からの誘惑に屈することなく最後までやり遂げる)
http://gno.blog.jp/izumi/20643504.html
http://tv.littlewitchacademia.jp/story/16.html
リトルウィッチアカデミア 第16話 ポホヨラの試練
http://www.j-theravada.net/3-jihi.html
光り輝いている智慧の世界に、気づくことができますように
生きとし生けるものが幸せでありますように m(_ _)m 天魔(てんま)とは第六天魔王波旬(はじゅん=悪魔)、すなわち仏道修行を妨げている魔のことである。
魔とはマーラー、波旬はパーピマントの音写で、意味はマーラーは殺す人、パーピマントは悪意のある人である。
986 :考える名無しさん:2009/08/27(木) 02:36:57 0
>>971
>「釈尊も仏教を理解してない」
マルクスが私はマルクス主義者じゃないと言ったとか、キリストはキリスト教徒じゃないといったのと同じ意味合いでしょうか?
どういう文脈なんでしょう?
全然関係ないですが、龍樹とニヤーヤ学派の論争は龍樹の負けだと思うのですが、どうでしょう?
991 :考える名無しさん:2009/08/27(木) 04:07:48 0
>>986
松本説にそぐわない文が出てきて、しかも、
その文が最も古い由緒正しいものだったものだと思う。
普通なら自説が間違っていると考えるものを、
彼は恐らく自称仏教徒で始めてそのような発言をした。
たぶん、空前絶後だと思われる。
なぜなら、仏教が間違っているという意味と同じだから。
まったくおもわない。龍樹菩薩が数段上だと思う。
理由は、石飛諸著。ちがうというなら、それらを反証しなければならない。
992 :考える名無しさん:2009/08/27(木) 04:14:17 0
>>991
>松本説にそぐわない文が出てきて、しかも、
>その文が最も古い由緒正しいものだったものだと思う。
それって何?まさかスッタニパータやダンマパダのことじゃないだろう
994 :考える名無しさん:2009/08/27(木) 05:29:58 0
>>992
マハーヴァッガの偈の部分だったと思う。
偈の方が成立が古いから、文献批判でも切り捨てられない。
それであの迷言が生まれただと記憶する。
しかし、松本なんかどうでもいいだろ。論ずる価値もない。
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1078419330/l50 953 :考える名無しさん:2009/08/25(火) 04:41:51 0
松本史朗と袴谷憲昭って今はどうよ?
954 :考える名無しさん:2009/08/25(火) 07:21:51 0
>>953
論外だよ、そんなの読むな。
955 :考える名無しさん:2009/08/25(火) 07:34:10 0
何で論外なの?
958 :考える名無しさん:2009/08/25(火) 11:00:43 0
>>954
ただの妄想だから。松本は曹洞宗に古くからある本覚思想批判を
チベット資料を利用して如来蔵批判と置き換えたように見えるが、
ただの文学青年の妄想以外のなにものでもない。
「釈尊すら仏教を知らなかった」という迷言を吐いた松本は、
その学問的根拠を批判され私的信仰だと言い逃れている。
自ら学問でないと認めたということだ。
袴谷さんがどうゆう動機に基づいて妄想構築しているかは、
可哀想だからいわないでおく。ただ彼は真面目で一貫している所は好感が持てるが、
仏教としてはもちろん学問としても取るところは少ない。
959 :考える名無しさん:2009/08/25(火) 20:22:09 0
袴谷、松本氏
特に松本氏はアメリカの研究者から高く評価されていると聞いているが如何?
960 :考える名無しさん:2009/08/25(火) 20:36:03 0
>>959
アメリカのドキュン学者に例の批判仏教を支持するやつがいるんだよ。
アホはアホ同士、仲良くやってんでしょ。
961 :考える名無しさん:2009/08/25(火) 23:53:54 0
批判仏教! 懐かしいな〜
dhatu-vada批判、アートマン思想批判、和の思想批判が懐かしい〜
『律蔵』「大品」が根拠でしょ
僕は90年代初めに彼らの主張に感動したことがあるが
それから今に至るまでこの2人はどうなったのかしらん?
誰か教えて〜 33.
無我説、縁起説、か。
それを一部である、とするのが仏教である。
松本史朗の限界を考えるべきである。
wwwwwwww
懐かしいなw 一代かw
対論相手は誰かな?
http://blog.goo.ne.jp/a1214/e/c0f949d779d77f97b1a11ff9e632fa1a
松本史朗『縁起と空 如来蔵思想批判』 1
松本史朗氏は
“渇愛の滅尽”を求めて、“只管打座”したりするわけではないのである
とも言う
_ _ _
たとえば机先生のような、ナンチャッテ覚者タソとかの主張によると
悲惨な状態に生まれ変わる事に不安を抱き、無限に続く輪廻の運命から抜け出したい
という
無明に依存して
渇愛(タンハー)に依存している、欲求・欲望は間違いである
ということであるらしい
それゆえに
苦集滅道ではなくて → 無苦集滅道?
(大乗は、やっぱり意味が、わからない? m(_ _)m )
一切の如来の御足を礼拝し奉る
オン サラバ タタギャタ ハンナマンナ ノゥ キャロミ m(_ _)m 余談だが、先日、爆笑問題の田中がやってる番組でバックに不動明王の像を置いてるのを見かけた。バカかと思う。
不動明王(シヴァー)は実は一番中心になって東大震災を起こした張本人といわれている。
こいつによってそうゆう因縁でもないのに不正に障害者にされたものもいる。また古代から不正にひどい陰謀を
たくまれてきた者もいる。赤不動、青不動、黄色、白、黒とあって、家のは赤だからあるいは白だから大丈夫と
言ってるのもいるが、全部同じで百面相でごまかしただけ。共産党の悪化したみたいにみんなで引きずり
落としあいになってしまう、また何らかの形でからかわれるようにばっかもなる。そんなものを拝んじゃダメだ。
オーム教と同じ。さっさと何処へでも納札してすててこい!アホッ!!
☆
アニメの世界の中の、登場人物の心の働きの描写
http://gno.blog.jp/izumi/19850710.html
リトルウィッチアカデミア 第13話 サムハインの魔法
(登場人物)バハロワは
悲しみを固定する「永遠に忘れない」[悲しみの実]を必死に「抜かせまい」と踏ん張る
しかし
(主人公)アツコ・カガリが[悲しみの実]を力づくで強引に引き抜く
もとの美しく麗しい頃の、お姫様の姿に戻って、そして「笑顔」で成仏していく
力ずくで救う大日如来の化身 − 不動明王?
↓ ウィキペディア参照
教令輪身
仏法に従わない者を恐ろしげな姿で脅し教え諭し、仏法に敵対する事を力ずくで止めさせる、
外道に進もうとする者はしょっ引いて内道に戻すなど、極めて積極的な介入を行う姿である。
不動明王は大日如来の教令輪身とされる。
煩悩を抱える最も救い難い衆生をも力ずくで救うために、忿怒の姿をしている。
不動明王とは釈迦が悟りを開いた菩提樹下の坐禅中に煩悩を焼きつくしている姿だとしている。
釈迦が成道の修行の末、
悟りを開くために「我、悟りを開くまではこの場を立たず」と決心して菩提樹の下に座した時、
世界中の魔王が釈迦を挫折させようと押し寄せ、
釈迦に問答を挑んだり、千人の少女に誘惑させたりしたところ、
釈迦は穏やかな表情のまま降魔の印を静かに結び、
魔王群をたちまちに説破し、超力(四如意足とか)で降伏したと伝えられるが、
不動明王はその際の釈迦の内証を表現した姿であるとも伝えられる。
中咒
ノウマク サンマンダ バサラダン センダンマカロシャダヤ ソハタヤ ウンタラタ カンマン m(_ _)m
http://www.nii.ac.jp/nels_soc/about/application/
移行の申請
※J-STAGEへの移行の場合には、
国立情報学研究所(NII)と
科学技術振興機構(JST)の
それぞれに別様式の申請書をご提出いただく必要がございますので、ご注意ください。
移行先での受入が可能であることを確認後 …
☆
名論・秀論とか多々あるのに、受入が不可の場合もある
ということなんでつね?残念でつ
現代語訳の初心者にも、わかりやすいものを、これからも、よろしくお願い致します
という感じでつ m(_ _)m
たとえば般若心経の現代語訳の場合
☆ 無苦集滅道
机先生のような、ナンチャッテ覚者タソとかの場合
「悟りに至るための菩提分法(苦集滅道)など必要ないのじゃ〜っ!」 ← 多数派の意訳がこれ?
おじゃるの場合
「無自性である(変化している)からこそ
苦集滅道で[掴もうとしている想いを手放(滅)して] → 涅槃へ」 ← おじゃるの意訳
意味が、わからないけど↓とりあえず
羯諦羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提薩婆訶
般若心経とは関係ないと思うけど↓とりあえず
地蔵菩薩
オン・カカカ・ビサンマエイ・ソワカ m(_ _)m
http://konton88.exblog.jp/24887023/
スッタニパータ
わが筏はすでに組まれて,よくつくられていたが,激流を克服して,すでに渡りおわり,彼岸に到着している。もはや筏の必要はない
悟りに至るための菩提分法は、よくつくられていたけど?
苦集滅道の四諦などによって
激流を克服して,すでに渡りおわり
「想う」という想いも手放し
「想わない」という想いも手放し
非想非非想も超えて
決して意思せず、また意思活動をしない
諸々の想はもちろん消滅し、別の諸々の粗い想も生起することがない
滅に触れる
このようにして、順々の正知による想滅定が生起するのである
我所でもない
我でもない
涅槃の世界を知覚して
涅槃の世界に住んで
涅槃の世界から観察して
http://blog.livedoor.jp/daibakarenji/jyuugyuuzu.html
十牛図
八
ついに童子は修行の頂点に達した
ただ「空(くう)」となり、円が描かれているだけの無の世界
☆ 苦集滅道から → 無苦集滅道へ?
九
さらに無の世界を超えると、童子は元の世界、すなわち菩提心を起こし修行する以前の世界に戻ってきた
童子は計らいのない、分別のない心で、移り行く世界の様を
光り輝いている智慧の世界から(分別を超えて)観察している そのとうりだけど・・^^
のどが渇くと水を飲みたくなるからね^^
意思の強さと悟りは比例するな^^
客二分による分別は虚妄であることを知り、無分別を理解・・^^
己の「こころ」が全ての事象・存在を作り出しているに過ぎないのである
として、その「こころ」による識別作用・思惟分別作用というものが
虚妄分別を起こし、その分別したものにとらわれて迷いの中に陥って
しまっているのだという原因に気づき、その上で、三性説・三無性説を
理解し、迷い・煩悩の「こころ」のありようを真に悟り、次に智慧を
働かせていけるように「こころ」を迷いから智慧のありようへと
転換させていくという「転識得智(てんじきとくち)」が大切・・
思い出した^^
虚妄分別・・なんだよな^^
空性とは、一切の存在・事象を実体として見るとらわれを離れ、
主客二分による分別は虚妄であることを知り、無分別を理解して、
また、縁起関係にあるあらゆる相対・対立をも超えた「不二絶対」を
明らかに知見していくことが重要であり、空性はいわゆる「無分別の智・
不二の智」のことであります。
その空性の「無分別の智・不二の智」により、分別・戯論・煩悩が止滅
される働き、分別から無分別、不二絶対の平等へと至るための働きが空用で
あり・・・
>>49
そういう唯心とか唯識みたいな基体を認めるのは仏教ではないとパーピマンが言ってた 無明と渇愛がもととなって、様々な煩悩が起こる。
煩悩とは我々の身心を悩ませ煩わせるものである。
煩悩の代表格としては、貪欲・瞋恚・愚痴の三毒の煩悩がある。
諸行無常であることを本当に自覚することができず、
諸法無我の真理を無視して、常一主宰の我ありと執着する
無明と渇愛煩悩によって、おまえら凡夫の現実生活は一時として
充たされることのない不満と苦悶の連続である。
だいたい似てるような^^
>>52
ひとそれぞれ考え方があるからね^^
しょうがないね^^
唯識三十頌は読む価値あるね^^
これ読まずに仏教は語れん^^ 唯識三十論頌 世親菩薩造.曲唱/融熙 大唐三藏法師玄奘奉詔譯
ダウンロード&関連動画>>
この歌思い出したぁあああああああああああああああああああああ^^ http://morfo.blog.so-net.ne.jp/2012-02-13
縁起している世界の中で
仮設として
有相唯識派
認識は対象の形相を有していると考えます
瑜伽(ヨーガ)の実践の中に唯識の体験を得て教理にまとめた
とりあえず心(識)は☆仮設として存在すると考え
深層意識の阿頼耶識が
自分の意識も
外界にあると認識されるものも
生み出していると考え
最終的には
阿羅耶識もまた
無自性である
変化している
変化しない(認識は対象の形相を有している)もの → ではない
(変化しないものは)存在しないにも関わらず
(変化しないものが)有ると思う虚妄の執著である。遍計所執性
それゆえに
無相唯識派
認識は対象の形相を有していないと考えます
因縁果 ◆d........o ID:4LPdOFVx殿は、無相唯識派でつか? m(_ _)m 「唯識三十頌」
第十七頌
是の諸の識転変して 分別たり所分別たり
此に由りて彼は皆無し 故に一切唯識のみなり
この識の転変は分別である。
それによって分別されたものは存在しない。
それ故、この一切は唯だ識のみのものである。
つまり・・・^^
世親ちゃん派です^^
0765因縁果 ◆d........o 2016/08/10(水) 18:58:53.73 ID:uyiBGBfp
しかし、実践の段階において、「ただ識別のみ」ということにこだわってはならない。
認識活動が現象をまったく感知しないようになれば、「ただ識別のみ」という真理のなかに
安定する。なぜなら、もし認識対象が存在しなければ、それを認識することも
、またないからである。それは心が無となり、感知が無となったのである。
それは、世間を超越した認識であり、煩悩障(自己に対する執着)・所知障(外界のものに対する執着)
の二種の障害を根絶することによって、阿頼耶識が変化を起こす(転識得智=てんじきとくち)。
これがすなわち、汚れを離れた領域であり、思考を超越し、善であり、永続的であり、歓喜に満ちている。
それを得たものは解脱身であり、仏陀の法と呼ばれるものである(大円鏡智=だいえんきょうち)。
もしかして・・
これ・・
うわぁああああああああああああああああああああああああああああああ
おいらの境地じゃん^^
うわぁあああああああああああああああああああああああああああ
ん?
第二十頌
どんな分別によってどんな事〔物〕が分別されたとしても、
それは遍計所執性である。それは存在しない。
第二十一頌
依他起性は分別であり、〔それは〕縁によって生じる〔から依他起性な〕のである。
円成実〔性〕は、それ(依他起性)が、常に前の〔遍計所執性〕を離れて
いることそのことである。
第二十二頌
この故にこそ、それは依他起〔性〕と別ではないし、別でないのでもない。
〔この関係は〕無常性〔と無常なる事物〕等のようにいわれるべきである。
これ(円成実性)が見られないとき、それ(依他起性)は見られない。
第二十三頌
〔今の〕三性に関し、三種の無自性性(無自性を本性とすること)がある
ことを〔内には〕秘かに考えておいて、〔『般若経』等には〕「一切法は
無自性を本性とする」と説かれたのである。
第二十四頌
初め(遍計所執性)は、実に相によって無自性である
また、次(依他起性)は、これには自らあるもののあり方がない、
というのが、次の無自性性である。
第二十五頌
そして、それ(円成実性)は諸法の勝義であるから〔勝義無自性性〕なの
である。それはまた、真如である。一切時に、その如く〔変らずに〕ある
からである。それこそが、唯識実性にほかならない。
第二十六頌
唯だ識のみであることに、識が住しないかぎり、その間は二取の随眠は
止滅しない。
第二十六頌
これは唯だ識のみにほかならない、というのもまた、実に対象的認識
故に、〔いわば認識主観の〕面前に何ものかを立てるので、「唯だそれの
み」にはなお住していない。
第二十七頌
識が、所縁(対象)を得ることがまさに無くなったとき、唯だ識のみ、
ということに住したのである。〔というのも〕所取がないとき、それを
取ることがないからである。
第二十九頌
これは無心であり、無所得である。それはまた、出世間の智である。
転依である。二種の粗重を断じたが故に。
第三十頌
それこそが無漏界であり、不思議であり、善であり、永遠である。
これは楽であり、解脱身である。これが大牟尼の法といわれるものである。
@ 遍計所執性とは、まったく(遍く)分別(計)せられ、
しかも実体あるものとして執着された性質ということであり、
概念的構想によって実体のあるごとく妄想されたものをいう。
A依他起性とは,他に依って起る性質ということであって、
因縁によって生起するものをいう。それは固定した実体はなく、
ただ現象としてあらわれているものである。
B円成実性は、完全(円成)にして真実なる性質ということであり、
諸法の真如をさす。
第二十頌
どんな分別によってどんな事〔物〕が分別されたとしても、
それは遍計所執性である。それは存在しない。
@ 遍計所執性とは、まったく(遍く)分別(計)せられ、
しかも実体あるものとして執着された性質ということであり、
概念的構想によって実体のあるごとく妄想されたものをいう。
つまり・・^^
虚妄分別・・やな^^
0005因縁果 ◆d........o 2016/10/25(火) 17:13:06.52 ID:y3RwUnun
@「遍計所執性」
認識する側(能取・主観・主体)
↓
認識の対象の側(所取・客観・客体)
↓
思惟・思考による言説概念化
↓
虚妄分別
↓
実在・執着
0006因縁果 ◆d........o 2016/10/25(火) 17:13:24.53 ID:y3RwUnun
A「依他起性」
認識する側(能取・主観・主体)
↓↑縁起(仮構)
認識の対象の側(所取・客観・客体)
↓
識が働く
↓
縁起関係によってのみ、あらゆるものは仮に成り立つ
0007因縁果 ◆d........o 2016/10/25(火) 17:13:45.44 ID:y3RwUnun
B「円成実性」
認識する側(能取・主観・主体)
↓↑縁起的な分別(虚妄分別したものへの執着)の否定
認識の対象の側(所取・客観・客体)
↓
無分別(諸法実相・真如)
0008因縁果 ◆d........o 2016/10/25(火) 17:14:06.98 ID:y3RwUnun
結果・・
空性「無分別の智・不二の智」
↓
分別・戯論・煩悩が止滅
「意識こそは虚妄分別するものである。その性質が分別を具えたものだからである。それは
意識自らの言葉に依る熏習を種子として生じ、またあらゆる表象の言葉に由る熏習を種子
として生じている。それ故に、意識は無限に種々の形相のある虚妄を分別するが故に遍計
と名づく。」
無着(摂大乗論)
0010因縁果 ◆d........o 2016/10/25(火) 17:16:31.99 ID:y3RwUnun
「(意識が遍計することは)名・概念を対象として虚妄分別するのであり、概念を依他起性の
上に相(形相・性質)として付託し、相を見て執着し、種々に思考を廻らして言葉として言う、
見る、聞く等の四種の言説を為して、ものが存在しないのに存在と誤認するのである。」
無着(摂大乗論)
0019因縁果 ◆d........o 2016/10/26(水) 20:23:36.78 ID:4G1R5hAZ
「スッタニパータ」(分別意識)
「およそ苦しみが生ずるのは、すべて識別作用(識)に縁って起こるのである」
0020因縁果 ◆d........o 2016/10/26(水) 20:25:05.71 ID:4G1R5hAZ
「しかしながら識別作用が残り無く離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない。」
0021因縁果 ◆d........o 2016/10/26(水) 20:26:30.23 ID:4G1R5hAZ
「およそ苦しみが生ずるのは、すべて識別作用(識)に縁って起こるのである。
識別作用が消滅するならば、もはや苦しみが生起することは有りえない。」
唯識は,理論だけでなく,実践も重視する。唯識を覚るためには,5つの修行段間がある。
五位のうち資糧位・加行位・通達位・修習位の4つが「因」で,最後の究竟位が「果」。
だそうだけど・・^^
0355因縁果 ◆d........o 2017/05/02(火) 15:17:51.88 ID:4LPdOFVx
仏陀の解脱法「三十七菩提分法」の中で、四念処観は解脱へ向かう一乗道といわれています。
すなわち四念処観を実践していれば、解脱の終着点ニルバーナに至るのです。
七覚支では四念処観が成就した証拠を覚ります。
0356因縁果 ◆d........o 2017/05/02(火) 15:26:01.44 ID:4LPdOFVx
「七科三十七道品」
四念住法・五根法、これは、瞑想です。
四正断法・五力法・七覚支法・八正道法は、実践と瞑想です。
四神足法は、特殊な tapas( 練行)です。
こっちやる予定^^
>四神足法は、特殊な tapas( 練行)
悟りに至るための菩提分法
瞑想において自在力・神通力を得るための四如意足でつね?
観神足 - 優れた瞑想を得るために智慧を以て思惟観察する
↓
光り輝いている智慧(無為法)の世界から → (有為法の世界の)思惟を観察する
_ _ _
因縁果 ◆d........o ID:4LPdOFVx殿へ
ありがとうございます
また、これからも、ご教示よろしくお願い致します
一切の如来の御足を礼拝し奉る
オン サラバ タタギャタ ハンナマンナ ノゥ キャロミ m(_ _)m