◎正当な理由による書き込みの削除について: 生島英之 とみられる方へ:マインドフルネス Part17 YouTube動画>3本 ->画像>17枚
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マインドフルネス瞑想は、宗教色を抑えて広く活用されやすくしたものですが、その元には宗教があります。
そこで当スレでは、マインドフルネス瞑想を主として、派生的に、あるいは根元的に宗教的な話をしましょう。
★ただし、悟りの押し売りは厳禁とします
当スレで採用するマインドフルネス瞑想の定義については、Wikipediaをご参照ください。
マインドフルネス - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/ マインドフルネス
『マインドフルネス(英: mindfulness)は、今現在において起こっている経験に注意を向ける心理的な過程であり、瞑想およびその他の訓練を通じて発達させることができる。
マインドフルネスの語義として、「今、この瞬間の体験に意図的に意識を向け、評価をせずに、とらわれのない状態で、ただ観ること」といった説明がなされることもある。』
マインドフルネス瞑想は、その源流となった仏教瞑想を越えて、広い範囲でマインドフルネスの名称が冠される状況であり、宗教、健康法、心理学の各分野に今や広い裾野を持っています。
当スレが話題の対象とする「マインドフルネス瞑想」は上記定義のものですが、それ以外のマインドフルネスを冠する技法や、
瞑想一般の話題、呼吸法、マインドフルネス状態を喚起する瞑想以外の方法についても、禁止ではありません。
過剰な発言量にならないよう程々に情報交換しましょう。
また、感情的なレスのやり取りは周りにも迷惑ですので控えてください。
前スレ
マインドフルネス Part16
http://2chb.net/r/psy/1540367149/ 四向四果は宗教かな でもブッダは預流について言及してるよね 輪廻は宗教だとして、たとえ輪廻がなくても、悟れば生きる苦しみは減るので、悟る意味はある
スレ立て乙
前スレID:/2fGtBYDへ
>>995 彼にとっての真実なのは否定しないよ?
みんなにとって真実というのが靴箱の主張
それが前スレ
>>964 http://2chb.net/r/psy/1540367149/964 瞑想→物理学
輪廻転生→相対性理論
1乙 自分は信仰というものは否定しないよ 仏教には教義がある、信じろ疑うな悟りを目指せ、と言うのは宗教でしょ それを真理だとして押し付けるのは絶対にNGだ マインドフルネスには教義はない 信じるべき教義など無く、ただのメソッドだね
>>2-3 何れにせよ
>>1 に「★ただし、悟りの押し売りは厳禁とします」入れましたのでよろしく
996 :神も仏も名無しさん[] 投稿日:2018/11/15(木) 15:53:52.28 ID:WXwx5Aln
自分は瞑想してコレを観た、というのはその人にとっての真実
誰それも瞑想をしてコレを見た、というのは決して明らかではない
再現性も反証可能性も担保されていないことを信じているのだから
完璧に宗教ですよ
なぜ、ある種の仏教徒は「宗教である」ということを頑なに否定するのか
そこに執着があるからですよ
悟れば苦しみは減るから、悟ることは宗教ではないよ 人類普遍の共通事項だから
>>6 >>1 をちゃんと読んでね
> ★ただし、悟りの押し売りは厳禁とします
別に悟りを進めているわけではなく、 悟ればどうなるかという事実を書いただけなので、 ご理解をば
悟りの押し売り厳禁というか 靴箱の書き込み厳禁でいいだろ
まあ2の書き込みは勧めているように見えるな 6で修正したので
パート16の
>>965 素晴らしいですね これからどうしますか? 前と同じ生活を続けられますか? 人にこの感覚を知って欲しいという気持ちが出てきませんか?
私は以前の生活は続けるのがしんどくなりましたねー どうしようかと気楽に考えてるとこですが
マインドフルネスしても一銭にもならんぞ アルボくんは儲かってていいよな 国に帰ったら大阿羅漢として要職に迎えられるんだろ? 名誉も金も思うがまま マインドフルネスではこうはいかないよね
ところでこのスレの人達的に中村天風さんってどう思います?
>>17 全体としてはよく知らないけど、クンババカは良いと思うよ
>>13 うつ病、精神病、薬物依存症、犯罪者の更生、軍人のメンタル強化、グーグル社員のメンタル強化
グーグル社員のメンタル強化→業績が上がる→お金がもうかる
どっかの刑務所でマインドフルネス実践してると聞いたことがあるけど 効果あんのかね?
悟った性犯罪者とかやばいよね あいつらは性欲とか何とかでなく、公衆便所感覚で犯罪するから
マインドフルネスで悟ったら悪さできなくなるよ。悟りの押し売りで申し訳ないけど。 殺人鬼のアングリマーラが逆子の出産で苦しんでる妊婦を見ただけで、 もう耐えられなくなる。そんな世界です。だから、この世でオラオラやりたいんだったら、 マインドフルネスはやらないほうが良い。
悟っても犯罪を犯す意思が無くても犯罪を避けられない事があるんだよ
元々の人間性の問題も関係してくるとは思うが マハシ式だと他者の価値観を尊重できないかもしれないな 靴箱やその師匠アルボくんは悟っててもそうでしょう (この人達は犯罪者ではないと思うが)
性犯罪者というのは何度ぶち込まれてま再犯するんだよ 性行為ということの倫理的ハードルが著しく低い人たち 八正道、邪淫はだめ、という言葉だけで信じられないだろうな 生理的次元で
, -‐''''"´ ̄``ヽ、 ____ / _ ヽ //´ __,,>、 /  ̄ ̄ { /::/ / ̄:::::::::::::::\ l _ィニニア二二二ニヽ、j._ /::::l/::::::::::::::::::::::::::::::::l | 0Lj/-‐-レノ ノ_ヽ:::`ヽ l:::::::::::/l/lノノ/_イ:::::l レ:r、/ イ゚テ ピト`|::| l:::::::::/ rtテ、 .ィtq l::::::| l:lヘ '" ,j '"/ノ |::lヘ!j ´ ,j !;:::/ ヽヽ、 r‐-, /' レリー 、 ,...., lノ/ この人、痴漢です lヽ、  ̄ / ..`ヽ、lヽ 、  ̄ /´ _,r┴‐-`v´-‐j-、__ , -‐-、_r┴─'ー‐チト / ̄/:.:.:.:| ̄ ̄`T ̄´|:.:.:.:l´ `ヽ / ヽ ̄∩-‐'´`''''⌒ヽ / ,':.:.:.:.:.l l l:.:.:.l \ _r‐、-| |r,. 、 ', |:.:.:.:.:.:.! ! !:.:.l ,. -‐ゝ/// 〉 〉 〉 〉 〉 ! ', l:.:.:.:.:.:.l | l:.:.:l / 人〈〈〈〈 ' ' ' /っ l l l:.:.:.:.:.:.! ! l:.:.:.ト/ / ```´-ァ‐'''" / l 、__/:.:.:.:.:.:l | |:.:.:ヽヘ l // / _ ィノ /:.:.:.:.:.:.:! l |:.:.:.:.:l `ーヽ、_ノ´l、______/lニ二」 ____l:.:.:.:.:.:.:.| l |:.:.:.:.:! |_ ( ( ) )_〕| l l`ー‐‐'匸二l ̄ ̄l二フーイ /  ̄ `‐‐'´ ヽ | ID:p2PSIi/U
アングリマーラの話は、彼が元来優しく繊細な心の持ち主だったから 荒れた俗世の苦しみによって人殺しになってしまった、だから逆に深く悟った みたいな話だったと思うが 悪人正機説みたいなもので止むに止まれず犯したこと 愛する家族や集団を守るために、生きていくために犯罪をする人は居るだろう そこにも罪の意識はある、その意識はずっと本人を苦しめる 本当に苦しめる そこから逃れましょう、抱いてる罪が深ければ悟りも深いですよ そういう話じゃねーの?
アングリマーラは好青年だったため、師匠の奥さんに誘惑されて、 断ったら逆恨みされて、師匠に指を100本切ってこいと命令されたため、 真面目に殺人鬼になったとか言う話じゃなかったっけ? 確かに性犯罪のレベルになるとどうかわからない・・・w 禁欲とかそういうレベルじゃないからね。
あー、その話も読んだ気がする その話だったかサンクス
>>28 熊野教授によるとマハシ式は高確率で精神に異常をきたすらしい。
なんでも体験の回避が起こりやすいからだと。
自分の感情を甘受しないから人の感情もどうでもよくなるわけだ。
実践の例では家族が何を言っても音、音とラベリングするんだからおかしくならないわけはない。
その点はアクセプタンスを強調しないスマナサーラのせいだけど、知らずに信じた人は気の毒にな。
>>34 私は武道のことは全然わからないけれど、
(一照さんの本を読んでそんな感じなのかなと思ってる)
自然体が身に付かなければ何も始まらないんじゃないかなと思ってる。
マインドフルネスも禅も瞑想も
マインドフルネスも禅もシステマも自然な形、良い形に近づいていくものだと思うが ザブに坐って姿勢を整えて丹田まで息が入るようにすれば 自然に呼吸による力で上半身の無駄な力は抜ける それが自然体だと思ってるけど
>>34 >家族が何を言っても音、音とラベリング
そいつがただのアホww
自分以外の何かになろうとする瞑想は間違ってる 今ここの、ありのままの心を受け入れていれば苦しみは生まれない 自然体で、力まないのが瞑想のコツ
無理をしないって事だよね。あれ、なんか変だなおかしいな?って思ったら別のメソッド試すとか 自分で試行錯誤しながら成長してけば良いと思うよ。そのうち自分のスタイルみたいなのが 出来るはずだよ。
大人なんだし強制されてるわけでもないんだから自分で自分に合ってる瞑想選んで合わないとこにはいちいち顔出さなくてもいいと思うんだが マゾなのかな
>>34 「高確率」なんてどこに書いてたの?
熊野さんて、著書のほとんどでマハシ式紹介してるじゃんよ
一応、スレPart7のレス番33で熊野さんの著書から以下のような記述を転記したことはある 「この瞑想法は、途中でいろんなことを考え出しても、『そのときは、考えていることに 気づけば、もうそれでいいですよ』と(プラユキ師が:引用者註)おっしゃっていました。 何か考えていることに気がついても、ダメだまた考えてしまった」とやらないで、 『今、こういったことを考えていたな』と気づいたら、とりあえずそこで切り上げて、先を続けていけばいいわけです。 もう一つおっしゃっていたのは、これは集中する瞑想ではないので、 グーっと集中するとよくないそうです。ヴィパッサナー瞑想をやっている方、 あるいは他の瞑想をやっている方も、集中瞑想をやりすぎると、 結構具合が悪くなる方がいるそうです。ラベリングも、そこにこだわりすぎると具合が悪くなる方がいるそうです。 でも、プラユキ先生は、『この瞑想はグー系ではなくて、パー系の瞑想です。 何が出てきてもオーケーだよといった、オープンな気持ちでやってください』 とおっしゃっています。『今ここ空間を、広げていくんだ』ということも言われていました」
欲が出てもオーケー、怒りが出てもオーケー、考えごとが出てもオーケー 常に手放していれば苦しむはずが無い
普通に捉えたら、今こことして捉えられる空間じゃないか? 瞑想して期間が経つと空間広がってくるだろ
時間と空間を頭の中で空想しなければ 自分がいま実感してるのは今ここしかないよね
>>48 この場合は文脈を考えると 色々な場所 色々な状況 要は自分がどんな場面にいようとも 自己を観察する機会を広げて行きましょう という程度の意味だと思われますね
悟りとは結局、一生懸命瞑想させるための方便じゃないかな 本当に無常なら、無常すらも変化しているはずだし、一切苦なら、悟りを目指すのも苦、無我なら誰が悟るの?って話になる 悟りを目指さない人は自分のペースでマインドフルネスやればいい
>>52 何のために一生懸命瞑想させるの?
目的は何?
>>48 気づきの瞑想を生きる の記述
やがて気づきが心の動きにだんだんと間に合うようになり、
過去や未来にさまよっていた心が引き戻され「今ここ」を実感できる機会が増えてくると、
次第に「今ここ」という次元の空間が開けてくるという感覚が生じてくる。
同時に、私たちがこれまで「過去」や「未来」と称していたものが、
実は「思い出」や「記憶」、あるいは「期待」や「予想」として、「今ここ」の空間に
生じていたことに気づく。ここにおいて私たちは通常の物理空間を基準にしていた意識から、
より微細な心的世界を基準にした世界認識に転換する。この段階に至ってあらゆる心的アクションは、
今ここで客観的に感知可能なものとして認識され、以下に述べる洞察の基盤が生まれるのである。
(以下、智慧の説明)
>>49-54 ありがとう
俺はプラユキage、山下age、スマナサーラage
悟りなんか無いんだよ 普通にマインドフルネスやりましょうじゃあみんな一生懸命やらないから 悟りというエサで釣ってるだけ
釈迦も最初は疑われたからね 当時は悟ったかどうかの明確な定義があったのだと思う
悟りってのは多分あるんだろうなぁ…って思うけど正直どうでもいいな そもそも自分をどう変えてゆくかみたいな目標を立てることに意義を感じなくなった
パオでもスリランカでも悟りまでの階梯って細かくあると聞くね
だから、彼らにしてみれば割とはっきりしたものらしいけどね
プラユキさんたちの手動瞑想って、靴箱達のやってきたマハシ式とは相当に違う感じだが
マハシ式で涅槃に到達しても、日頃は考えや感情から素早く脱することは繰り返すという
要するに何かの考えや感情に囚われそうになった時に
素早くそこから脱して瞑想に戻ることが重要なわけだよね
それを繰り返していくと瞑想深くなるし
だから、いきなり外部刺激が日常生活に近い感じで瞑想をしてくのが手動瞑想だよね
あと、手放しということだとこの前みた動画で内山老師も強調してたな
ダウンロード&関連動画>> VIDEO そういやさっき、ブッダに会ったよ 瞑想していたらふわっといい気持ちで、今までにない体感だった ブッダどんどんデカくなってきたから、これは斬り捨てるんだったなぁ、と思って んで斬り捨てたよ、得意のクロス斬りで まあ、妄想だからねそんなものが出てくるのは あれに囚われてたら今頃「俺は悟った!」とか言ってるはずwヤバいっしょw
内山老師は良いよな、ちょっと長いけどw 仏教とか悟る悟らないなんて話ではなくて人生、いのちの話だ この話よく聴いたら瞑想で間違えることはないと思う 瞑想はスキルも重要だけど、世界観も大事だから 見落としがちだが東南アジア人もアメリカ人も それぞれ世界観はしっかり持ってるからね 彼らは生活レベルで涅槃とか神とかについてイメージを持ってるから
>>62 観察によって何かを感じましたか?何か考え方が変わるような気持ちの変化がありましたか?
良かったらお教え下さい
>そもそも自分をどう変えてゆくかみたいな目標を立てることに意義を感じなくなった かわってるじゃないですか
マインドフルネス頑張った方がいいですよ。 人間の心は放っておくと悪い方向へ変わりやすい法則になってるよ 子供の頃は楽しかったけど、大人になった今は楽しくないって人が多数でしょ。 そんな人は楽しくない原因を他人や環境のせいにしちゃんうんだけどさ。
そう、正にそれを取り戻す方法という感覚がしてるし 我執ってほっとくとモンスターになるんよね
頑張ってはダメだよ。とにかく手放し。 同一化せずに観察し続ける。死ぬまで。 そうすれば苦しまないから。
頑張って我執が無くなったら、俺が悟ったってなっちゃうでしょ。 我執があってもオッケー。ありのままに手放す。そのまんまでオッケー。
>そのまんまでオッケー。 なら何のために瞑想するの?
何のためという思いも手放す。そうすれば苦しまない。
いやいや答えになってない すり替えただけ そのまんまでオッケー。 なら何のために瞑想するの? そのまんまでオッケーなら 瞑想しなくてもいいでしょ?
思いの手放しが坐禅だから。 そのまんまでオッケーが瞑想。
受容してしまうんだよ。全てを。 それが瞑想そのもの。
ここはマインドフルネスのスレで 座禅のスレではないです
マインドフルでいるということが、受容そのもの 思いの手放しそのもの
>>78 だとしたら
1 の
★ただし、悟りの押し売りは厳禁とします
は正しいのかな?
全てを受容してしまうのに
厳禁とかあり得ないですよね?
悟りは、今の自分を否定することになるから。 受容と正反対。
オッケー、オッケー、全部オッケー 瞑想しなくてもオッケー アホがオッケーオッケー言っててもオッケー このアホは中国が攻めてきてもオッケーとか言ってる 脳味噌がオッケーなアレかな? そろそろオッケーがゲシュタルト崩壊してる頃でもオッケー オッケー、オッケー、棺っ桶ー
何でもオッケーって口で言うだけで頭の先から足の先まで何でもオッケーになってないならただの嘘つきでただのダメでしょ
悟らなくっていいし、悟ったっていいでしょ そのまんまでオッケー、というのは本人そう思ってるだけだし 悟りの押し売りはしてないんだから良いじゃん まあなんだ、お互い落ち着けw
>>86 瞑想しなくてもいいとは言ってない
朝から晩まで、マインドフルでいる、全てを受容している
要するにずっと瞑想している状態がベスト
生活の全てが坐禅だって言い方もあるでしょ
>>90 アッパマーダ(不放逸)
釈尊最後の言葉ね
悟りというか、涅槃は生まれてから死ぬまであるんだよ それが本当の自分だと気づくことがいわゆるサトリ 日本人ほど無常、苦、無我を文化レベルで浸透させてる国は 他にないのかもしれないよ だから大地震が起きてもパニックにならない それが世界から見て驚異的に映る
ヒマラヤ聖者は解脱する前に大洪水や終末のビジョンをみるというが 日本人はリアルに見てるからねw 阪神淡路震災、オウムテロ、福島震災と 我々は嫌がおうでも無常観から世界を見ざるを得ない民族なんだよ
>>93 そうなんだけど
>日本人はリアルに見てるからねw
どうして語尾にwを付けるの?
オセアニア諸国の大津波や東南アジア諸々の貧民、中東での大虐殺は知らんふりですか。そうですか
>大地震が起きてもパニックにならない 地震が起きた場所以外ではな。アホか
手動瞑想や歩行瞑想で思ったけど、筋肉を意識しながらするウエイトトレーニングはマインドフルネス効果があるのではないか
>>95 日本は地震国だからね、20年の間にあれだけの大きな地震が起きた国ってあるの?
地下鉄サリン事件後もあの電車にみんな乗って通勤したし
オウム幹部はしばらく捕まっていなかった
東南アジアの貧民は前世のカルマだろ、彼らにとっては
>>98 インド仏教復興運動を支える被差別カース
トの人たちの貧しさも前世のカルマなの?
>>99 俺に訊かれてもなぁ
彼らはそう思ってるんだろうな、だから仏教にすがる
最近目にしたインドのニュース
こんなインド世間では前世のカルマとでも思わなきゃやってられんだろ
<「レイプ大国」インドで、またあり得ない性犯罪か>
4歳の少女がインド北部の病院で治療中に集団レイプに遭ったとの通報を受け、警察が捜査に乗り出した。
https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2018/11/45-6.php >>100 仏教徒になれたことを良きカルマととるとも聞くけど
>>102 じゃあなぜ下層民に生まれたの?と考えたらわかると思うが、
都合で後付けした気休めの話でしかないんだから
本人たちがそれで良ければいいというだけの話
俺に訊くのが筋違い
>>103 前世のカルマ?そんなものはないよ
妄想
>>105 前世のカルマじゃないとしたら、
バカなの?
カルマも輪廻も仏教以前のこととしてインドで信じられているだけで そんなものは妄想でしかありません
>>101 みたいなことが日常茶飯事として起きるような社会では
前世のカルマのせい、などと考えて生きている
というのが事実だろ
本当にカルマによる生まれ変わりとかなんとかがあると思いこむのは
土人文化の人たちが持ってるバカバカしい妄想
そういう文化だから七回までしか生まれ変わらないですYOー!!
とかいうのには魅力を感じるわけ
そんなこと誰も確かめられないけど
瞑想で観たものがそれを示唆していると信じ込むことで救われる
そもそも瞑想することで心は大分落ち着くしね
仏教徒はそういう宗教
救われるんだから、それは大変結構なことだと思うよ
だからといって人間普遍の真理ではない
悪いけど、当たり前な話
釈迦の唯一の功績はヴィパッサナー瞑想を発見したこと このことだけを後世に伝えるために話をてんこ盛りにしたとしても 許されようというものだ
例えば、マルクスの資本論は経済理論であると同時に革命理論の書物なのはご案内の通りだが 経済理論の書物としてのみ研究しようという学派もあれば、マルクス主義の指導書として持つ読む人たちもいる 前者は革命家ではなく今の経済を分析する考え方として読んでいる もう一つの比較 聖書の話を全て言葉通り受け止めるか? といったらクリスチャンですらそうでない人は多いよね 「目からウロコが落ちた、それは信仰の目が開いたということですね?ニッコリ」 「人はパンのみにて生きるものにあらず、食べ物無かったら餓死しますからね?ニッコリ」 という具合にさ 要するに、聖書読みも資本論読みも今の時代に役立つ様に読もうとするわけ わかる? 仏教も同じ事 瞑想としての最高峰のものであると同時に、インドの世俗に沿った教義を展開した 瞑想のための書物として経典を読む人も居れば、輪廻などの話まで信じ込む信仰の書物として読む人もいる 何の問題もないが、後者は自分たちの立場を絶対化するきらいがある 非文明人的な傾向が強い なぜか仏教徒は言葉通りに受け止めて信じ込む人が大勢いる それは信仰なんだし仕方がないことかもしれないが せめて、瞑想の話としてのみ受け取ってる人に信仰の部分を押し付けないでくれよ 俺がバカでも毛虫でも何でもいいけどさ 土人レベルに落ちぶれてはいない
お前がどんな価値観もってても全然いいけどさ 山のような連投、長文を書き込まずにはいられないのが どう瞑想してそうなったのか不思議
お前がどんな価値観もってても全然いいけどさ 山のような連投、長文を書き込まずにはいられないのが どう瞑想してそうなったのか不思議
二度書くほど大切なこととも思えないがw 輪廻はあるがカルマによる上がり下がりなんかないと思うけどね 生まれ変わって同じような人生を送るんだよ バラモンはバラモンに、クシャトリヤはクシャトリヤに生まれ変わる 彼らアーリア人は本当はそう信じてる、釈迦もだよ しかし、先住民である民衆が不満持たないようにするためにオウンリスク理論として 前世のカルマということを刷り込んだんだよバカが そのためにバラモンは、善いカルマを積めば上がれると言うことにしたし 釈迦は悟れば人間にすら生まれ変わらないと説いたわけだ 政治的な話だ こんな簡単なことがわからないのはバカでしょ 毛虫以下なんじゃないの
>>112 >信仰の部分を押し付けないでくれよ
いつ押し付けた?
あなたがカルマ持ち出してバカにし出したのでしょうが
輪廻なんてないんだったら、一回きりの人生なんだから、法律にさえふれなければ、好き勝手に生きて他人に迷惑かけて、欲を貪って自分の利得だけを追い求めればいいよね。
>>112 はそういう人間なのかな。
瞑想しても盲信から抜け出せないなら先天的に頭が悪いんだろうな
>>116 >>103 で信仰上の考え方を普遍的なもののようにして
相手の前世のカルマなんてことを言ってるだろう
ムスリムやクリスチャンの前で言ったら付き合ってもらえなくても当たり前
お前は非文明人、土人レベルだよ
>>117 お前に関係ない
頭大丈夫なのか心配してしまうくらいおバカな質問
尤も、心配してくれてるならばありがとう
ご心配に及びませんw
輪廻云々以前に、経済理論も聖書も瞑想も自分だけの利得の追求になってんじゃないの
>>118 >東南アジアの貧民は前世のカルマだろ、彼らにとっては
東南アジアの前で言ってみてよ
あと、災害や貧しさで苦労している人の前で上の発言全部
釈迦自身は人間の自由のために活動した側面もあると思うし
尊敬に値する立派な方だっただろうと思うが
現代に於いて瞑想者で尊敬に値する人なんかいるか?
ティク・ナット・ハン師くらいしか俺には思いつかない
彼だって釈迦に比べれば小さい存在かもしれないが、それ以上の人も居ない
なぜだろうか?釈迦の教えを現代に即して役立つように解釈できてる人が東南アジアには居ないから
野蛮な価値観から抜け出そうとせず、仏教を有難がっているだけで
彼らの文化では悟りから現代についていける智慧が出てこないからだよ
チベットはどうなってる?ダライがノーベル賞もらっても中国からすくわれちゃいない
>>120 んなわけない
しかしほんとお前は筋の悪い話の持って生き方しか出来ないな、論点ずらしだし簡単に反論できるようなことだ
ウェーバーだけでなく近代という時代は聖書解釈の変更から生まれたというのが向うの知識人の見方だ
>>121 彼らがそう信じてるんだろ?別に構わないよ
言えるよ
悟れ、テーラワーダに来れば悟れるぞ、お前は前世のカルマが悪い
うるせえよバカ
さて、某長老よろしく意地悪で風呂敷広げるのもこのへんで止めとくか こういう考え方も一般的には常識的な考え方なんだよ 瞑想進まないからって偏ったモノの見方にはまり込んでしまうのは馬鹿らしいぞ?
この酔っ払い方がナルシスティック 自己陶酔とはまさにこのことw
あーはいはい、論点ずらしレッテル貼り人格攻撃と そういう詭弁に逃げるところが宗教なんだよねw
釈迦だって、アーリア人第二層としての都合から悟り目指したところはあるだろ バラモン教の支配力が弱まっていた時期だったのだから、仏教という選択肢で 出世間を言わなくてもアーリア人支配が終わっていた可能性だってあるんだから こういった話に「そういう説はあるけれど否定されていますよ」という反論があれば 俺にとっても勉強になるのに…
だから、釈迦を信じないと悟れないよ〜ん♪みたいな下衆な教義が出てくるんだよ
同じ宗教、オナ宗で馴れ合いを貪ってるからまともな議論もできない 一見靴箱VSメーテルみたいな構図に見せているが、実力違いすぎて 靴箱が胸貸してるだけだし、オナ宗馴れ合い貪りだからね 仏教はラディカルな宗教なんだっ!とか言うつもりだったらもっと根源から疑えよ 疑ったら悟れないからヤダ、とか言ってるならオナ宗貪りだなぁw
いっぱい書き込んで元気でヒマなひとが多い印象 がんばって
メーテルは靴箱に胸借りて稽古してる時は勇ましいが それ以外はからっきしだな
ここまで反応するということは >こういう考え方も一般的には常識的な考え方なんだよ 新自由主義の一般的常識では?
>>132 新自由主義は関係ないな、的外れすぎててスルーした次第
なんだよ、メーテルは靴箱を倒したくないのかよ? お前には才能がある、ダークフォースを使え、そうだダークフォースは宇宙を支配するぞフフフ(冗談だよw
ちなみに資本論で経済構造の分析をしたところで、金儲けが出来るのは商売の内容による 当たり前のことだが、その当たり前を言うための資本論だから 新自由主義というのは資本のあるところだけが勝つ仕組みだから 資本論読むような人からは不評だよ
瞑想をしていて、ハッと気づいたときに寝てたのか瞑想中だったのか分からないことありません?
>>138 ありますよ
ローゼンバークの新刊のレビューに書いてあったけど
寝ていたとしても戻ってきたことに気づけばオッケーと書いてあるようです
>>138 わりとあるよ
うたた寝と何か違うならたぶん寝てない
瞑想中は思考できなくなったり自分って感覚がなくなったり意識状態が変わるからみんなわりとあるんじゃない?
輪廻はあると信じて生きるのも輪廻はないと信じて生きるのも、その個人にとっては信仰だよ 個人でそのことについての確認なんて出来っこない
前世の記憶が無いなら輪廻しても個体としての連続性なんてないべ
記憶は、それぞれの個が現実だと信じて解釈して抱えてる物語のようなもので、頭の問題だから、端的只今の「おんいのち」にとっては今ここにあるものではない幻のようなものというのがマインドフルネス的瞑想による立場からの捉え方ではなかろうか つまり、一個の生だと信じられて生きている現世であっても、自我の連続性のようなものは実はない
自己レスだが
>>127 > 釈迦だって、アーリア人第二層としての都合から悟り目指したところはあるだろ
> バラモン教の支配力が弱まっていた時期だったのだから、仏教という選択肢で
> 出世間を言わなくてもアーリア人支配が終わっていた可能性だってあるんだから
ここんとこ、もうちょい詳しく知りたいんだよね定説的なところを
釈迦が食中毒で入滅されたのも、釈迦を疎ましく思ったバラモン勢力によるものという説があるのは知ってるが
それがバラモン社会全体の統一意志であったなら仏教は潰されただろう
後にヒンドゥ教あっての仏教、仏教あってのヒンドゥ教と言われるようになった
結果から見ればアーリア人が同じ種族、オナ種で二通りの輪廻コースを被支配民に提示したことで
アーリア人による支配継続したということだと思うんだよな
仏教は下層民からしても夢があり救われる話だ
そうして八方丸く収まるような道を見つけたことこそ釈迦の天才的だったところではないか
で、それが釈迦だけが到達した悟りということではないのか
>>144 素晴らしい一般常識をお持ちで
釈迦は中道を説いたんだけどね
>>141 それはそうだね
輪廻がないといい切るのも正しくないね
>>142 自我には連続性はないよね
けれど、自我を仮定して真実に準ずるものを仮定してみんなで守っていかないと社会は成り立たない
全員が托鉢で食うことは出来ないからw
>>145 そこに言った(仮設の釈迦)は正に中道だと思うよ?社会的に
釈迦は高度の精神生活と、社会問題の解決とを両立した人だと考えてるんだよね俺は
托鉢する出家者だけでは社会は成り立たない だから、ヒンドゥ社会なりなんなり世俗を必要とする 現実そうでしょ? 釈迦が真理そのものだったと認めたとしても、釈迦という人間の存在そのものが真理の体現なのであって 仏典だって真理そのものじゃあない 言葉、文字は仮の真理でしかない
>>149 で、それなら人間全員が托鉢して成り立つ社会ってどんなの?教えて?
マインドフルネスはシンキングマインドを開陳するレベルにとどまることではない
>>155 君がシンキングマインドで読むに留まってますといいたいの?
>>156 あなたがシンキングマインドから妄想を垂れ流してるだけと言ってます
>>157 仮説として言ってるよね
何のためにこんな事言ってるか理解してないなら
君がシンキングマインドでしか読んでないよね
>>158 読むのはシンキングマインドに決まってるでしょ
あなたはシンキングマインドが何なのかもわかってないでしょ
>>144 アーリア支配謀略説
民族差別
土人差別
ナチ?
自分はコーカサス系のアーリアの血を受け継ぐ者とナルってるの
>>160 またバカですか?
それを言うなら反ナチでしょうに、もう一度寝て起きてから来てくれる?
ナチも反ナチも関係ないけどね
瞑想はシンキングマインドで妄想することではありません
差別はあるよ バラモン教ヒンドゥ教が差別構造維持の仕組みだし 釈迦の時代には差別がいけないなんて言う考え方はなかっただろ? アーリア人の支配を完全に崩さない形で、より差別の少ない宗教的な仕組みを作った それは立派なことだよ でも逆を言えば、深刻な差別がない社会では、仏教の教義はそのまま持ち込んでも意味ないことはわかれよな
>>163 今瞑想の時間じゃないからね
チミは5chで皮肉を書くことが瞑想なのか?珍しい人だね
何を言ってるのかなチミは、マトハズレばかりだ
>>165 自分が的外れな行動をしていることに気づいた方がいいよ
事実は何で、どこからがシンキングマインドで、何が瞑想なのか という峻別がつかない瞑想の進んでない人はNGしとくか この区別がつかないサルが瞑想しても、仏典丸写しするしかなくなる
シンキングマインドが何なのかもわからない人が、瞑想が進んでると自称するわけですか
>>145 そのレスにもう少し詳しいことを知りたいと書いたよね
そこはただの妄想仮説なんで史実として否定でも肯定でも構わないよ
なんか逃げ腰で嫌味なやつばかりだ
こういうのがマインドフルネスなのかなぁ?おっかしいなあ
>>168 それ君の妄想だよね
さっきから100%妄想じゃん君
>>170 こんなこと
>>158 言ってる人間がシンキングマインドがなんだかわかっているというんですか
>>171 悪いけどそれ反論になってません
君「ぼくはしんきんぐまいんどがわかるんだぞ!きみよりわかるんだ!」
ですか?
バカでしょ?やっぱNGね
なーんでこのスレの人はすぐにこうやって個人攻撃始めちゃうかな?? こんな程度の揺さぶりで個人攻撃始めるって、やばくね? それ全然瞑想できてないよw
瞑想して気分良くなったかなんか知らないけど 論点ずらし、個人攻撃、こんなんばっかしでは理性的とは言えませんなあ 大爆笑である、わっはっは
溜まりに溜まった妄想エネルギーを爆発させてる人がいるね アーリア人がどうとか
昨晩はレッテルはり、認定も受けたな
ちっとも事実(とされること)に照らして反論されることなく
それって、全く理性的な態度ではないよね
リアルにちょっとつつかれたら感情的になるんだろうか?と心配になるんだが
シンキングマインド動かしたらもどれないよぅ、という気持ちが強くて
言葉でやり取りするのが怖くなっちゃってるのかな?
だったら5chやらないほうがよくない?
もう出家するか引きこもるかして、ずっと瞑想するしか無くね?
大丈夫ですか?
と言っていたらまたお猿さんが登場w
>>176 まず反論するほどの価値も無い妄想をしていることに気づこう
歴史詳しい人いなさそうなんでまたにするよ 一人で連投してバカ丸出しだし > 大脳萎縮したみたいな詭弁で返してきた人たち 今日も盲信ライフをエンジョイしてくださいね 瞑想して妄想強化だ!輪廻はあるぞ!あるぞ!あるぞ!www
>>178 お前にとってはね
反論する価値がない話に一言嫌味いわなきゃ済まないお前の心を観察してみてはいかがかな?
>>160 アーリア支配謀略説
民族シャベツ
は勝手けど
土人は戴けないな
クロンボくらいにしとけと
シンキングマインドってよく分からない単語だよね 思考の事ですか?思考に振り回される事ですか?って 山下さんのスレで使って下さい
>>91 放逸の典型例
皆さん、参考になりましたぁ〜
sinking mind で沈没しちゃってる思考のことじゃないかな
>>184 何も反論できないんじゃそうなるよな
多分そういう意味で言ってないと思うけど
瞑想やって心が平和になるのはいいよ
けど、それを守るために詭弁しか言えなくなったら本末転倒だからね
メーテルとかさ
>>183 放逸の典型例ならいつも君のレスで見せてもらってるからよく知ってる
気づかなかったかな?
シンキングマインドというのは映画を作ってしまう心 瞑想の時に止まってる心 あくまで仮説と言ってるのだから それがシンキングマインドで作られたものだとわかってるだろうね こちらは歴史として残ってるものすら知らないから 否定することも出来ない そういう推測もありえるのかな?と首を傾げるだけ
自分のことをネタにして話した方が 自分にとって役立つと思うなあ
仏教こそ真理だぁ、みたいなのに気持ち悪さは感じるけどな キリスト教やマルクスだって宗教だが、ちゃんと読み分けてる という話だろ? アーリア人については知らないけど そこに反論も何もできずにツバ吐いてる方が哀れだと思うけどね 斜に構えて否定するだけでなく教えてやればいいのに 慈悲の心で
>>191 お前メーテル(あっくん)だろw
>>147 >>169に答えてやれよ
テーラワーダの源流スリランカ仏教はじつは大寺派で12世紀でしょ 中村元が書いてるけど、八正道すらもゴータマが説いたかは疑わしいって なのに仏教があたかも宇宙の真理みたいに言う人は 特別意識を満たしたい超越願望、オウムと同じ
31レスもしてるマナー知らずの土人がいるスレはここですか?
この流れの中に仏教真理だなんて言ってる人いないのでは
それでも八正道について、異論も無く、訂正も無く、 仏教の真理についても、誰も反論らしい反論もできず、2500年経ってる訳でしょ?
私が 私だけが楽になったり満足できれば十分だけどな 私が楽になるために真理なんて必要あるとは思わない
楽になるための方法、マインドフルネスを発明した2500年前のゴータマさんが、 真理についても語ってるから、いちおう聞いておく必要はあるんでないの?
>>203 そんなに何千年も前の人の言ったことを
読むために結構頭使って勉強するよりは
自分なりに今の現実に対応するだけでも
十分楽な生き方できませんか?
>>204 じゃああなたはマインドフルネスもやらずに、自分なりに対処すればいいのでは?
それでは上手くいかないから、マインドフルネスが流行ってるんだと思いますよ。
え? マインドフルネスやる人は 2500年前の人の言った事を真理だとして それに従って生きている人たちなの?
だいたいマインドフルネスをやる人は、知識としては知ってる。仏教について。 専門的に仏教の瞑想をする人はヴィパッサナー瞑想とか言ったりする。 マインドフルネス自体は宗教に関係無いけど、アイデア、発想自体は仏教オリジン。
そもそもブッダのことばそのままではないのは確定的だし 仏典はあくまでヒントでしかないよ なんなんですか真理って、あーた
輪廻とか前世とか弥勒とか、そんな妄想嘘話はどうでもいいよ
ブッダの言葉かどうかは知らないけど、2500年の歴史の中で、否定されてないのは何故? ちょっと否定してみてよ。諸行無常でないものがあるかどうか。永遠に続くものがどこにある?
否定されなかったのは宗教だからでしょ それに科学なんかつい最近発達したものだし
輪廻とか前世とか そんな知識があると 楽に生きられるのですか? 2500年前の人が言った事を読むと 今生きてる人が楽になるの?
>>211 宇宙は永遠不滅じゃないかな
宇宙がなくなるとしても人類滅亡よりずっと先だろうし永遠不滅と思っても差し支えない
輪廻とか前世の話はしてない 仏教で真理と言えば、無常、苦、無我。 マインドフルネスをやる時でも、無常は知らないと。 どんな悩み、苦しみでも、永遠に続くものは無いから。
諸行無常とかなんとか言ったって世捨て人になるしかないからな 仏教は 生まれ変わりたくない人の宗教だろ ユダヤ教の方が真理なんじゃね?
あと無我ね 自分の感情、悩みを、自己と同一化せずに手放す その訓練がマインドフルネス
え? 永遠に続くか続かないか どうしてわかるの 何年何日何分続くかがわかるんですか 2500年前の人が言った真理を信じているということですか
ずっと感情を観てると無くなる 永遠に続く感情なんか無い あったら教えて
ユダヤ教のほうが古いし真理かもね キリスト教もユダヤ教の一種だし二千年だ 大体どの宗教にも無常、苦、無我を知ることに相当するような教えはあるんじゃないの?
> 楽になるための方法、マインドフルネスを発明した2500年前のゴータマさんが、 > 真理についても語ってるから、いちおう聞いておく必要はあるんでないの? ゴータマのどこまでが真理でどこからが真理じゃないの?
>>214 宇宙が無限って、ただ、科学者が計算してそう言ってるだけでしょ?しかも、
計算によって宇宙がまた出来たり、出来なかったりって、あなたもただ人の
言ってることを鵜呑みにしてるだけじゃない?
>>222 そうだよ、じゃあ弥勒菩薩が56億年先に現れるとかいうゴータマの言葉が真理なの?
>>222 ちょっとまって、214で私は宇宙は有限と言ってるんだけど?
>>226 仮に有限としてもという話をしたよね
仏教だと物質宇宙も無常なんだろ
"諸行無常でないものがあるかどうか。永遠に続くものがどこにある?" に対して、"宇宙は永遠不滅じゃないかな"と言ってるんじゃないの?
>>229 すみませんけど日本語読めない、論理通じない人ですか?
スルーしていいですか?
どうぞどうぞ。あなたの言ってること全然わかりません。
イマココの話ではないけど 仏教=真理な人はシンキングマインドとかの前に言葉を扱えない人が多い印象 〜と考える、思う と言うと、それが真理でないからと言って 否定しつつ皮肉を言ってきたりする じゃあなんなの?ということは言えずにツバを吐いて消える ああ、その次元で駄目な人が何か特別意識を満たすために 仏教=真理とか言っちゃってるんだなと思うね しっかり現実逃避は出来てるのだろうけどね
このレベルで言葉通じないと生きてくのに困るだろうなとは思うw
鏡に向かって話しているだけなのではという印象ですな
現実逃避ができることは とても恵まれたことだと思う 楽に生きられるひとつの要素 有名な2500年前の人が言った事を 理解しようとすることが現実逃避への入り口 それによってとても楽に生きて行ける人たちが大勢いる そんな印象
【創価学会は朝鮮族支配のカルトです】 オウムに人材と資金提供していたようです。 犯罪教団のお手本であり創価学会は、現世利益を看板にしてし、おびただしい数の出版物を半強制的に買わせる異常に気持ち悪い卑劣鬼畜外道ドブネズミです。 創価学会は、批判者や脱会者に対し、脅迫、尾行、見張り、嫌がらせ、怪電話、怪文書、暴行、傷害、盗聴等々、あらゆる犯罪的手段を用いて攻撃します。 創価学会を私物化した池田大作の野望は、日本の国家機構を乗っ取り、絶対支配者となる ということです。 同時に、創価学会は、司法界、官僚、警察、マスコミ界等へ、池田大作私兵を送り込む作業を長年にわたり組織的に続けています。 創価学会の会員は何かにつけ込まれ、無理矢理入信されられた方がほとんどです。 つまり、被害者なわけで救い出すチャンスはあると思います。 皆様とともに、どうしたら彼らを救い出すことができるかどうかを話し合ってみたいと思います。y: 池田大作を信じ、崇拝したところで、幸せが訪れるでしょうか? 創価学会は撲滅するべきです その他の入ってはいけない宗教 アレフ、統一教会、顕正会、エボバの証人、法の華 創価学会被害者の会 浪速建設 岸本晃(キシモトアキラ)
>>235 けど逃避しっぱなしじゃ駄目だろう
あなたはどうか知らないけどさ
で、逃避出来るのは仏教だけじゃないし、仏教だけが真理とか言う必要なくない?
>>237 でも、真理とか絶対とか無限とか永遠とか
そういう言葉は、現実逃避するための
道具の一つだと思うし
逃避するためには重要な言葉なんじゃないの?
現実逃避という言葉を使いたがる人は、現実というものをどのようなものとして捉えているのか どういう意味で現実という言葉を使っているのかが気になりますな 仮にもマインドフルネススレなので瞑想をした上での発言でしょうから
真理を信じるものは別の「現実」に生きてるんだろうけど、 その現実は世間、世俗のものではありません 少なくとも世間、世俗の現実に交わるならば 世間、世俗の「コトバ」で話せずに真理はこうだと言い出す これは現実逃避でしょう 別の「現実」、世間から離れた世界に居ればよろしい
>>238 人違いしてたごめん
世俗に生きていても避難場所のようなものはあったほうが良いと思うけど
仏様だけが唯一絶対みたいなこと言われると、うわぁ、ってなるよ
そんなこと他の宗教だとカルトしかいないよ
マインドフルネスは仏教の絡みが多いから、それやめてよと思う
以前修道院の映画を紹介してもらったけど、あの人たちも静謐な祈りの空間で生きていくんだよね
各文化にそういうものはあって、それぞれが尊重し合わないといけないと思う
そもそも、あなたの言う現実、世間って何よ?あなたの六処が捉えたデータに過ぎないよ。
このスレで仏様だけが唯一絶対みたいなこと言ってる人いるか?
現実、世俗、世間が 無常、苦、無我であるって言ってんだけどね、ブッダは だから現実逃避どころか現実のど真ん中 その現実をしっかり観察しましょうってのがマインドフルネス
現実という言葉を信じたがる人は自分個人の認知の断片に執着して独自に意味付けしたものを絶対化したがる
>>247 それは出世間の価値観であって、世間で生きている間ずっと
その価値観で生きていくことはできない
だから出家、サンガという仕組みがある
ここはサンガの場所ではないのだから、世間の理屈が通じないのでは
話にならないよ?
>>250 あなたが観たものはあなたの現実でしかない
ということがわからず、絶対化してますね
重症です
現実という言葉を信じたがる 現実は普通に誰でもが現実に生きてるんじゃないの? 真理とかのほうが言葉でしかないと思うけどな・・・
自分も瞑想するし、別の「現実」に価値がないとは 思わないし言ってないんだけどな 仏教=真理な人はシンキングマインドとかの前に言葉を扱えない人が多い印象 〜と考える、思う と言うと、それが真理でないからと言って 否定しつつ皮肉を言ってきたりする じゃあなんなの?ということは言えずにツバを吐いて消える 大抵はコトバの使い方が違うだけ ああ、その次元で駄目な人が何か特別意識を満たすために 仏教=真理とか言っちゃってるんだなと思うねぇ
真理を重く受けとめすぎだね 人間って無常だよね?苦しいよね?自我を出すとロクなこと無いよね?ぐらいがちょうどいい
>>251 できるでしょ
自分の感情は何らかのキッカケで勝手に生まれては消えるものでしかないと知って生きることは、何も出家などしなくてもできる
>>258 その通り、しかしそれを言うのに六処なんて言葉は使わないな自分は
>>260 俺も使わないけど意味くらいわかるでしょ
>>261 俺はわかるよ
しかし世間の価値観ではないことはわきまえないといけないと言ってるよね
どんどん話がズレていくよな、こうして だから駄目なんだと言う話なんだがw
瞑想してたらさ、いわゆる現実と呼ばれているものは、自分で感受したものを絶対視して世界はそうなってるんだと信じてしまってるだけだということがわかったりしないかい
>>258 それはブッダに言うべきじゃないの
お前なんで王子だったのに出家して乞食なんかなったのさ
王子のまま悟ればいいじゃんかとか・・・
>>265 それはもちろん、そうでなかったらやらない
しかし、それを理解するのに仏教用語は一切必要ないな
>>266 俺の目の前にブッダを連れてきてください
>>267 そのへんの言葉を使う使わないの執着は俺にはどうでもいい
>>266 しかし、じゃあサンガなんか必要ないってことになる
出家者達というのはなんなんだ?ということにも
世間の言葉、世間の理屈の範囲で実践してるんだという話ならわかるが
連れてきたらブッダに説教するのね? 自分が説教する程度の2500年前の人が言った事を 信じているってことなのですか?
テーラワーダの源流スリランカ仏教はじつは大寺派で12世紀 中村元が書いてるけど、八正道すらもゴータマが説いたかは疑わしい 弟子たちが歌として伝えたものが書き残されていものも多く ゴータマのコトバそのものでもない 真理と言ってもヨルカに悟れば七回までしか生まれ変わらない なんて自分で確かめた人いるのかい? なのに仏教があたかも宇宙の真理みたいに言う人は 特別意識を満たしたい超越願望、オウムと同じ
>>273 信じてはいないけど
やってるってことなのね
人が何信じようが関係ないけどね自分は 釈迦でもイエスでもムハンマドでも梵天でもシヴァ神でも 話が通じない人は何を信じてる人でも話は通じないw
ニー仏って、著作権料を取らないウ・ジョーティカ師の著書を翻訳して がっぽり儲けてる、野心満々の俗物の人かw
>>274 カバットジンのマインドフルネスストレス低減法を読んで実践しとるだけなんすが
かばっとじんさんを信じているのですね あ、信じてないけど実践してるのね
>>278 カバットジンさんが2500年も生きてたとはびっくりしました
信じるもなにもw 目の前の現実が無常でしょ?当たり前の話
俺だって、疲れたときに瞑想すると疲れが取れるな〜位なのに、なんで宇宙の絶対 真理とかそういう話になるのか良く分かんない。
このスレの荒らしが好むフレーズ スマ信者、オウム、カルト、超越願望、教科書丸写し
>>281 この流れで
>>211 みたいなこと言ったら突っ込まれるよね
人間の中の小宇宙は無常でしょ あなたが見る宇宙、太陽、地球は無常
ね、唐突に荒し認定とかはじめるでしょw 自分=真実 自分に都合悪いもの=悪なんだよなぁ カルト真理に陥ってる人みてると大抵これをやる 脳みそツルツル
ニー仏さんはウ・ジョーティカ師の翻訳をウェブで無料公開してるし、 「がっぽり儲けてる」とかいうのは見当はずれじゃないのかね
>>288 山下信者が発狂してるんだよ 相手にしないほうがいい
経緯を説明すると
山下さんが魚川さんに喧嘩売る
魚川さんが喧嘩を買って対談が実現する
魚川さんの指摘に山下さん上手く回答できず
その対談ポッドキャストのURLが山下スレにはられる
山下信者が発狂する、暴れる ← イマココ
山下信者が発狂した事実は確認していないが 魚川が勝手なデマ垂れ流したから 山下がちょっと誤解を解きたいと言って呼んだら 誤解を認めずに山下を中傷して帰った というのが実際のところ
魚川側から見たら
>>289 になるだろう
山下側からみたら
>>290 になるだろう
ということだ
ニー仏氏はおっぱいばかりRTしてるし仏教徒ではないと言ってるし俗物といえば俗物なのかな
山下スレにもレスしたから俺のこと指してるんじゃないのかな? 信者ではないがw 物事は両面から見なければならないね 魚川か山下か 世間か出世間か なんて片側からしか見られない奴はカタワだよ マインドフルネスやってもそうなっちゃいけないよね
マインドフルネスやってもID:NFbSXTQOみたいには なりたくないもんだ
現実逃避とか、あたかも逃避の対象になるような堅固な現実というものが存在するかのような認識で語ってた人が流れみてこんなこと言い出すんだから世界は無常
https://twitter.com/mindful_bonpu/status/1061924233855492096 この図を見ると「マインドフルネス」と「仏教」の守備範囲の違いが良く分かるかも。
・いわゆる「マインドフルネス」はヴィパッサナー瞑想により「物語」の世界から抜け出し「如実知見」するまでが守備範囲で、「苦しみ」からの脱却が目標。
・「仏教」(特に初期仏教)は「マインドフルネス」の守備範囲に加え、「智慧」の発見、「慈悲」の実践、究極的には「涅槃」の知覚まで想定しており、生き方そのものの変容をもたらす。
どちらを選択するかは実践者次第だと思います。
・・・でも「マインドフルネス」から入ってヴィパッサナー瞑想を正しく行っているうちに、結果的に仏教の守備範囲まで実践してしまうことも発生すると思います。
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account)
そうなんですよ 実際の瞑想時の一瞬一瞬は自己を観察する瞑想であれば何も変わりはないんです たまたま時間があって勘の良い聡明な人が1日3時間以上を1年もやればとんでもないことになります ただ何故か1時間さえもできる人が少ないんですよね きちんと続けられればここで議論になるようなことは全て自己解決できるんですが....
別のスレでも言ったけど図的に「定」はもうちょっと上の方がいい 「物語」が止まらないと瞑想になんないと思う
>>299 とはいうものの
もぐら叩き系はマジでおかしくないなることがあるよ
受容協調系は大丈夫だと思うけど
リスクの問題だとは思うけど
という私の意見
>>299 瞑想は寝ている間以外はずっとやるべき。
結局、言わなくてもいいのに言って 57歳まで引きこもっているクソジジイは自爆してんだよ
>>299 在家で3時間はハードル高いんじゃないかなあ
自分はあるTEDトークを見て以来、朝晩1時間ずつやってるけど随分変わったなと思う
ゴエンカ師も2時間(朝晩に分けてるのかは知らないけど)勧めてるらしいし、このくらいが一番コスパいいんじゃないかな
毎日きちんとやってれば日常生活でもサティが出てくるしね
歩行瞑想って効果あるな。 歩くと脳にも良い影響あるようだし
レベル高い人は長時間坐るのかもしれないけれど、 瞑想は始めたての頃は空振り時々チップ、を繰り返すわけで 長時間やればいいというものでもないと思う。 無駄な思考や、無駄な力み、感情がマダラに付いてしまうだけだから。 観察のコツが掴めてからは、何かあったときだけやって、 一日中気づきが起きる状態までは行ったよ。
そうですね、俺くらいハイレベルになってくると歩行瞑想2時間くらいは 軽いものですよ どうなると思います? それは凄い体験ですから一度味わってほしいですね まるで違う世界が開けてきますよ やってみたいと思いませんか その時だけというのも効率的かなと思いましたが 微細なものも見逃さない為には二時間三時間やったほうが良いでしょう 見逃したらそれだけ期間がかかりますし絶対に損してると思います さあ始めましょうよ みたいな
昔ダイエット目的で3時間くらい公園をひたすら歩いてたらいきなり理由もなく激しい怒りが込み上げてきてびっくりしたことある。 何も考えずにただ景色眺めながら歩いてただけなのに。 これ瞑想知る以前の話だけど、知らんうちに歩行瞑想なってたのかな。
瞑想関係なく 3時間も歩いたから腹が減って腹が立っただけでは 歩行瞑想になってたら安楽な気持ちになる
ゆっくり歩かないといけないのはマハシ式の初期段階だけでしょ 慣れたら走りながらでもサティ入るよ
カルトのおっさんが来なければ平和なスレ あいつが来ると荒れる
そういえば極度に空腹だと色んな想念出てくることがある ストーリー、連続性のない想念がぶわーっと そこに何も繋げないから浮かんでは消えてくだけだけど
>>316 そうなると良いんだけど
マハシ式じゃないけどまだ慣れてはいない
呼吸見ながら足をゆっくり踏んで足の感覚があれば意識向けてくという感じでやってる
小石踏んだりしたら、ベッタリ踏んでないからその感覚を見て
すごくゆっくりやってる
要点間違ってたら教えて
>>317 今はテーラワーダスレで暴れているようだね
夢精がナンタラとか
自分はカルトとは言った一人だがそっちのスレには ネガティブなことは一切書いたことはない 向こうは向こう、人の信仰なんだから出張してまで干渉しない
多分妄想だろうな 詐称カルトのスレなんか興味もない オウムスレ開かないのと同じだ
仏教の境地が進んだときの必然として、他人の苦しみに対する慈悲心って増すもの? それとも別に変わらない?
逆、慈悲心がないと瞑想は進まない あと苦しみに対する、ということではなく 生まれてから死ぬまでのその人に対する慈悲だね
藤田 「慈悲」って単体っていうか、それ自体でコロッと独立してあるものじゃなくて、いろいろな成分の組み合わせでオーガニックに生成してくるものだと僕は思うんですよ。(略) 「慈悲」が単体の個人内の能力であるかのような前提に立って、(略) というのは、ちょっと僕は「うーん、それは(略) p.96-97 仏教サイコロジー (魂を癒すセラピューティックなアプローチ) より 慈悲喜捨もまた、五感を使って気づくものだと思います。 あゝそういえば、いつも側に在ったなと
それ引用の意味あるのか?w そばにあるのはそうだと思う 慈悲の実践がどうとかは変な話で、それを論じるのは筋違いだと思う 慈悲の実践、慈悲の心から、何それ?傲慢でしょ ここのところで納得出来る話をする人がいない 偽りのない清らかな心で行うことならば何でも慈悲の実践に他ならないし 実践になってるかどうかは自分でも他者でもなく、神様仏様が決めることだ 確かに慈悲の瞑想は誰かに向けてやるんだけど、それは実は誰かに向けてる自分の心に作用するものであって 慈悲を施すということではない
プラユキ師と熊野教授は、瞑想によって自然に慈悲喜捨が働くようになるという考えだね。 それはおそらく、二人の実践手法がアクセプタンスと脱フュージョンに力点を置いているからだろう。
うん、自然に働くならそれでいいといいというか、自然に働くんだけどさ 自分も受容系でやってて、観察して消えていくのを見てきたけど 慈悲の瞑想をやってみて、これが手放しそのもの、執着を止めること、 受容などなど、そのものだとわかってきたよ
アクセプタンスと脱フュージョンがなんで慈悲喜捨につながるの? アクセプタンスって要は受容でしょ、 脱フュージョンてざっくりいうと物語から抜け出ることでしょ そっからどうして慈悲喜捨につながるかわかんない
繋がるんじゃなくて、そのものに思うよ 慈悲喜捨とは執着の反対だから 嫌いな誰かがいます それは自分の中の誰かを嫌う気持ちでしかないし 妄想で作り上げた誰かさん像だ なぜそんなもの作り上げたかわからないが、それを強化していく 何故なら誰かさんは危険人物だという記憶があるから 拒否し、危険人物像を作り上げ、それを悪とする 誰かさんの失敗を喜び、不幸を喜び、悲しんでるのを見て喜ぶ そうやって自分の世界を守ろうとする これが我執でしょ その世界観だと自分が善だから投げ出せるわけがない そして、それに足を取られて辻褄の合わない壮大なストーリーを作り始め それに苦しめられる これがフュージョンでしょ このプロセスが慈悲喜捨の反対なのはわかるよね どんなメソッドで、どんな側面から、どんなタイミングで見て言ってるかの違いでしょ
>>324 私の体験では瞑想が進んである時点を突破すると 自然に出てきましたね それは これを他の人にも知って欲しい 味あわせてあげたいという一点です
ある人が何かに成功して喜んでいる状態であれ 何かに失敗して落胆している状態であれ 今では全く同じ状態に見えます
具体的なその人の状況(偶然)にはあまり関心がありません
昔は本当に疑問でした 人のためになりたいなんて執着心以外の何物でも無いのになんで慈悲なんて言葉があるんだろうと この執着心さえ無くなった時 どうなってしまうんだろう 真の慈悲心が現れるのか 例外なく完全に無執着な状態が最後なのか まだまだ興味は尽きません
>>332 いや、受容と脱フュージョンて、中立、真っ白けな状態なわけでしょ。タブラ・ラサ
そこらへんはヴィパッサナー全般変わりないですよね、同じですよね
なぜ真っ白けから慈悲へと自然と向かうんでしょうか?、ということ
慈悲へと向かうのは慈悲の瞑想や律があるからこそそちらに行くんであって、
他のヴィパッサナー系であろうと熊野さんであろうとその契機は必須なんじゃないかなっていうのが自分の理解なんだけど
違いますかね
マインドフルネスな状態で窃盗、強盗できますよね、っていうよくある話につながるんだけど
>>334 慈悲が人間の心の本質だからじゃないのかな
慈悲を意識しなくても観察すれば消える、受容できる、我執を手放す
という働きをすることが出来るんだから
慈悲が人間の本質なら慈悲の瞑想なんてくだらねーってことになりますよね 繰り返しますが、受容できて、我執を手放す、それが慈悲につながるなんてことはそれこそ物語じゃないんでしょうか
瞑想した後に人に会った時、自分でも自然ないい笑顔をしてるなと嬉しくなったことない?
笑いながら相手を切り刻んだ殺人犯てとっても多いだろうな
>>337 それなら瞑想自体くだらねーってなるよね
>>340 なんで?
俺の考えからすりゃ、ヴィパッサナー瞑想と慈悲の瞑想して五戒守ればいいんじゃないの?ってだけだもの
その過程において瞑想するなって話にはならない
じゃあ、その通りやってればいいんじゃないですかね? 何も悪いと思いませんよ
つまり、俺の根源的な疑問点はどうでもいいから、そのままやってろやってことですね
根源的な疑問であるなら、なおのことご自分でお確かめください
掲示板での議論なんぞなんぞ無益だっていうご意見と承りました まぁ、それはそれとして、あなたとのレス交換は全然噛み合っていませんでしたので 識者の方のご指摘、ご意見をお待ちすることにします おつきあいありがとうございました
噛み合っていたと思うが
>>336 が言ってるのはよくある回答だぞ
我々衆生は仏性(慈悲心)を持っている(本覚思想)が顕現していない
空を悟ること(自他の対立をはなれること)ではじめて慈悲を発揮できる
>>339 私がそういう趣旨で言ったと受け取ったの?
オウム事件も絡めて、ちゃんと答えて
>>347 あなたへのアンチテーゼとしてレスしたものですよ。それが答えです
オウム事件を絡める必要性は感じませんのでその点はノーコメントです
>>349 「お前みたいなアホが有益な議論なんぞできたためしないだろ」という趣旨と承知しました
ご自分のレスに酔いしれてくださいませ
自己受容が出来ると他者受容も進んでいくよ 人間はつらい感情を受容できないと、それを他者や自分や環境に怒りという感情で発散する つらい感情を受容できると、怒りという二次感情で自分や周りを傷つけようとは思わなくなる 逆に言えば、怒りに駆られている人はつらい感情を受容できていない人 そういう理解が体で出来るようになる つらい感情に巻き込まれている人に対して寛容になれるし、共感やつらさへの労わりもそだつ
自分の弱さへの理解も進むから、他人の弱さへの理解も進む むりに他人を攻撃して相手をへこませてやろうということも少なくなる 受容は自信につながるから、 むりに自分の価値や持論を証明して自分を守ろうという必要も少なくなる 他人の苦しみがいたたまれなくなるし、少しでも楽になって欲しいという気持ちが自然体になる
つらいときに慈悲の瞑想をすると、体が楽になる。 防衛しなきゃと思っていた妄想が解体されて、世界がそんなに残酷ではないという気になる。 これって、ボディスキャンで全身の緊張を見たときの感覚に似ている 体の感覚を、好悪の念を離れて観察して受容すると、感覚との間に空間が出来るというか、一体化が解体される。本来の自分を受容できる。
別に俺ごときのレスじゃなくても同趣旨のことは過去スレでも散々出てきてたと思うんだけどな、っていうボヤキ入れときますわ
>原始仏教では、サティの訓練と並行して必ず「慈悲の瞑想」を行います。 >ヴィパッサナー瞑想の真の目的は、心をきれいにしていくことです。 >サティの訓練で妄想を止め、あるがままの自分を正確に捉えることができても、 >最終的に私たちの心の反応パターンが変わらなければ、今までと同じような >貪・瞋・痴の振る舞いで反応してしまうでしょう。慈悲の瞑想は、この世で最も崇高な >「慈悲」の心を私たちの反応系の心に組み込んでいく訓練です。 地橋秀雄『ブッダの瞑想法 ヴィパッサナー瞑想の理論と実践』p212
>>355 タブラ・ラサと倫理
あなたなら面白いこと言えると思ったんだけどな
>>354 > つらいときに慈悲の瞑想をすると、体が楽になる。
> 防衛しなきゃと思っていた妄想が解体されて、世界がそんなに残酷ではないという気になる。
そう、本当に不思議なんだけどそうとしか言えない。
>>358 > つらいときに慈悲の瞑想をすると、体が楽になる。
これに対して私は何も言えない
>>34 >熊野教授によるとマハシ式は高確率で精神に異常をきたすらしい。
>なんでも体験の回避が起こりやすいからだと。
>自分の感情を甘受しないから人の感情もどうでもよくなるわけだ。
テーラワーダ仏教教会に行ったら、精神病の人は病院へ行けと
すっごい見下されました。
自分はマハシ式が合わないから、胃を痛めて15kgぐらい体重が
落ちてたんだけど せせら笑われて追い返されました。
山形でちょっとした事故したんだけど(自分のみ) 通りすがりの人に、ずいぶん助けられて笑顔で接していただいた。 なんであっちの人って ふわーーーってして優しい人多いのwww 雪かきで体力ついてて、人の苦労ぐらい背負っても屁でもないのかな。
>>360 私は慈悲の瞑想をもっと徹底してやれと言われて追い返されました。
何を言ってるんだ テーラワーダ仏教協会は慈悲に溢れてるよ
どこか忘れたけどテーラワーダの一派によっては「人の悩みの相談をきくな」というのが あるらしいね。心が穢れるからだとか
暴力的な方ですね まだ慈悲の瞑想が足りないのではないですか 本当に悟る気あるんでしょうか
>>362 なんか変な感じだね
慈悲の瞑想必須派の山下ですら、慈悲の瞑想なんて不自然なもので
シンキングマインドが止まらないと出来ない、みたいなこと言ってるのに
慈悲の瞑想を勧める人間に限って慈悲が足りない 逆に慈悲の瞑想に懐疑的な人ほど慈悲があるように感じる
慈悲の瞑想はあくまで自分の心の中の思いを何とかするものだからね ご利益はそれだけだ だから、「慈悲の祈り」ではなく「慈悲の瞑想」というわけ それが昨日の昼から夜にかけての話だね そうじゃなくて、神通力があるつもりになって、慈悲の祈りをしたからって 善行を積んだつもりになってるなら、それは慈悲のない人になるかもしれないね 実際そういう人もいるのでしょうね わたしは違いますけど(^o^)
>>371 「わたし」はそんな人々とは違います
「わたし」はそんなことはしない慈悲深い人間、ですか?
我執まみれのたわしですか? そのたわしに付いた汚れをわたしが落とせばいいのに 自浄其意で
たわしはそういう人たちと違いますよ(^o^)
ちがって、善行を積んだなんて思ってませんよ(^o^)
でも
>>370 さんがおっしゃるように慈悲が足りないんです(^o^)
たわしですから(^o^)
>>354 身体の感覚に自覚的になればなるほど、貪瞋痴から発せられる言動がいかにストレスになってるかわかるね。
ある程度心身の観察ができてるようになったら、慈悲の瞑想で意図に意識状態を変えてそれに伴う身体感覚を観察すると面白い発見がある。
ふざけずマジレスですが 慈悲の瞑想をすると自我のあぶり出しになりますからね それがすっかり見終わったら、慈悲が出てくるのかもしれない ホイホイと出来ることではないでしょうから、自分を慈悲深い人間だなんて思えませんよ 善い人になった気分で、善い人のふるまいをしても、それは物語、妄想 でしかありませんからね だから慈悲の瞑想をやると逆に善い人ぶらなくなるし 慈悲のない人にみえるのかもしれません
1.安眠できること 2.気持ちよく目覚めること 3.悪い夢を見ないこと 4.人々に愛されること 5、神々に愛されること 6.神々に守られること 7.火災、中毒、武器などの害を被らないこと 8.気持ちが落ち着き、集中力が増すこと 9.顔が清らかになること 10.安心して死ねること 11.この世で阿羅漢になれなくとも、死後に梵天になること が功徳としてあげられてるけど、自分は単純に自分にとって自然なことだからやってる
>>383 人に煩悩浴びせてれば乗れると思ってる一本調子あほ
今朝椅子に座った状態で瞑想してたら2時間30分位した時に体の上の方がポカポカしてきて 体がずっしりする感じで、頭に何かがだーっと流れ込む感じになった けど、あ、そろそろアンパンマン見なきゃって思ったらその状態が終わってしまった アンパンマンがトリガーだったのかな? それと昨日『リアルハピネス』を本屋で注文しようと思って (このスレで『今ここを生きる』と一緒に紹介されて今ここ〜が凄く良い本だったからリアルハピネスも読もうと思った) 店員さんに頼んだら絶版だと言われてしまった。 で、Amazonで調べたら中古は400円からあるけど新品は14000円?凄い高い まあ、可愛い系で自己主張控えめのいかにも本屋さんって感じの店員さんでした
>>386 >>380 が気に入らないのなら、正面から反論すればいいと思うのだけど、ないの?
>>388 >なにも見てない って何を見てない?
あなたが糞でしょ
自分、親しい人、尊敬する人、嫌いな人、生きとし生けるもの、とやって見えるものは 無地で滑らかに整った状態 けれど、試しに肩書などは具体的だけど自分にとって人間像がよくわからない人に向けてみてみると 無地ではなくなり、何かうごめくものがかなりハッキリ出てきてコレジャナイ感じになった 当たり前かもしれないけど、そうなるんだー、って感じ
>>385 店員さんのほっこり感、そういうのっていいよね
>>389 はいはい糞糞
文章ちゃんと理解できない人間と話しても仕方ない
>>392 見てもらいたいという煩悩
人にあほという煩悩
人にあほ浴びせる一本調子の煩悩まみれ
気に入らないもなにも見てないから反応も糞もない
はいはい糞糞
文章ちゃんと理解できない人間と話しても仕方ない
これのどこが文章なの?
神変や奇跡、シッディ(超能力)って本当にあるのかね 仏教系のスレでこういう話題になると「そんなものに執着するな!」とか意見もありそれも最もだけど、 「UFOってホントにあんのかな」レベルの興味で、そもそも仏典に神やら奇跡やら霊やら出てくるんだし そういうオカルト的なものを語るのも禁忌でもあるまい
それらを喩えとして読まないなら信仰の話になるね 当然、輪廻についても
歩くのはうつに良さそうだな。 なんかネガティブな気持ちが消えた。
超越願望は三毒を強化して生きる苦しみを増すだけでしょ
>>396 成瀬じゃないの?
>>364 人の悩み聞いた程度で汚れる心って・・・
メンタル弱すぎじゃwwwww
ここで喧嘩してる人達はその時の自分をマインドフルネスした方いいな
悩み聞いたら穢れるなんてことはなくないか? 元々穢れてるから、悩みにつられて穢れたものが浮かび上がるだけじゃね?
>>385 そこまでいけたら本いらないと思う
一つの壁を超えて智慧が現れかけてるかもしれないし、その境地では余計な知識はかえって邪魔になる
「仏教3.0を哲学する」を読んだ 全てを理解してはいないだろうけと、とても面白い本だった 永井さんの〈自分〉と「自分」 内山老師の図に関する三人による考察 山下さんによる3.0の世界観 など 自分の世界観、感じ、考えてきたことに重なる部分が多いと感じたのは むかし内山老師の本を読んだことがあるからかもしれない 遠い先輩方の話を聞いている感じで あまりこっち系の本は読まない方なのだが大変に刺激を受けた あとYouTubeに安泰寺が内山老師のレクチャーを沢山上げてくれてて 感涙しながら聴いてるところ ありがとうネルケ無方さん
>>394 右脳開発とかアイデア系の本を読んでるとなんだかんだで最終的に禅が良いよって結論が多いです。8割方そんな感じです。
じゃあ禅を極めてそうなお坊さんとか発明バンバンしてんのか?って言ったら答えはNOですけど。ドクター中松さんがチベット仏教でダライ・ラマの次に偉いってのもデマでしたし。
今読んでる右脳開発の本には仏教は右脳開発法で右脳を開発すれば透視もできるみたいな事を書いてます。日本航空高校だかの七田さんって人の本です。
>>404 悩みと言うかネガティブな人の話を聞いてるとこっちも嫌な気持ちになる。みたいな事はあると思います。まあ、そういう事かは知りませんけど。
>>405 まだ瞑想を始めて1年にも満たないですしもっと色々知りたい気持ちが大きいです。それに誰かに教えて貰ってる訳じゃないのでちょっと不安です。
夏にもこんな事があって「あれ?このまま悟れるんじゃない?」って思ってたらそれ以来めっきりだったって事があったし現に今回も2日間音沙汰無しですし。
>>406 福田パンマンになりたいので次はバターです。けど福田パンは普通に商品名だし出るとしたらコッペパンマンですかね?
>>408 Youtubeと言ったら大愚和尚のなんちゃらかんちゃらは結構聴いたりします。別にレクチャーとかじゃなくて仏教の法話を交えた人生相談ですけど。
とりあえず内山老師のレクチャー聴いてみます。
>>391 店員さんがいい人だと「実店舗で買って良かった」ってなりますよね。と言うか本に限らずコンビニでも何でもそう言う暖かさって良いですよね。幸せって人との繋がりが基本なのかな?とか思います。
リアルハピネスはAmazonで中古を買おうかな?
次行った時は「中村天風最高の瞑想法」を買いつつジョーティカさんとやらの本を注文しようと思います。
マインドフルネスと有酸素運動を組み合わせると効果あるぞ。 ポジティブになった
最近、うつ状態だった症状が劇的に改善した。 それはマインドフルネスが良かったのだろうか? 運動、読書、音楽療法、人との出会い。 どれが原因なのかはよく分からん。 おそらくマインドフルネスの効果だと思ってるが
自分の方が優れている、あいつは不幸だ、という慢が生まれたとき お股のあいだにも「マン」があるぞ〜!!(*´Д`) と確認するとどうでもよくなってオススメ。 ※ただし女性限定とさせていただきます※
阿羅漢になるとマンが無くなるらしいが肉体的にもマンは無くなるのだろうか?
ヨンゲイ・ミンゲール・リンポチェの今、ここを生きるって今まで読んでた瞑想の本と違う感じで読み応えあります 仏教と物理学に類似性があるってすごいですね
ヨンゲイ・ミンゲール・リンポチェの本、前半の知識的なところも面白いけど 2部からの瞑想の心構えみたいなのがとてもいい とにかく「気づく」ことそれだけみたいな大らかな感じ テーラワーダ系の指導者の厳密な段階習得的な指導もいいけど、好みだろうね まあテーラワーダでもより気軽な日常での気づきを重要視する人もいるし、 チベット密教も実際は理論は高度だろうけど
その本度々このスレで出てくるけどどんな本なの? 面白かった箇所とかあったら教えて
俺が買いたくなるように800字ぐらいでレビュー頼む
俺が俺がこの俺が 俺のために俺のためにこの俺様のために
>>410 思っていたレクチャーと大分違いました。てっきり老師が瞑想を教えちゃうよ〜的な奴かと思ってました。まあ、聞きますけどね。
>>411 は知ってましたけど
>>416 は初めて知りました。ありがとうございます。仏教関連の本って結構高いのでただで読めるのは有りがたいです。
けど、目がチカチカするというか得意じゃないんですけど今度ブルーライトカットの何か買ってみます。眼鏡なら昔あったんですけどね、どこいったんですかね?
>>412 1時間位の有酸素運動はストレス解消に良い&リズム運動でセロトニンが分泌されるそうです。
そして、運動の30分から3時間後、集中力が高まりやすいとか。
>>414 なんか凄い気になりました。最高とか最強とかそういうフレーズに弱いみたいです。
前買おうと思ってた本も買えてないし今は小説読んでるんですけどね。読みたいですね。
>>422 リンポチェがゲシュタルト崩壊を起こす本です。あいつもリンポチェ、こいつもリンポチェ。
まあ、1部は講演で世界中を旅してその時に科学者的な人から色々聞けるとか、fmriで脳を調べる奴に協力したとかそんな感じです。
修行を始めたばかりの時の事(失敗から気づいた事)とかも書いてあってそこは役に立ちました。
2部は瞑想法の実践的な、実際に数種類のやり方と基本姿勢の説明が載っていました。慈悲の瞑想とかは3ステップに分けて書いてありました。
3部はあんまり印象に無いです。「まあ頑張れやー」みたいな感じでしたかね?
まあ、眠いんで寝ます。土曜日にステーキ食べに行きます。後、シールとか手帳も買おうかな?それと、今度こそ本を買おうかな?と思います。
内山老師みたいな話は、メソッドよりもむしろ重要だと思うんだよね テーラワーダのある国では凡夫も輪廻や涅槃についてのイメージが有るが 日本では道元は難しすぎて我々には直接伝わりづらいから
一切ノ心中ノ妄情ハ自性ヲ観ズレバ即時ニミナ消滅ス ―抜隊得勝
クリシュナムルティもメソッドなんか意味無いみたいなこと言ってた
メソッドには意味はない これは理解するのが難しいところなんですよね 言葉を補完すると メソッドを「意識して実行すること」には意味はないということだと思います 意訳するとメソッドに没入して「意識して実行」していることを忘れる 体が勝手に実行しているような状態になるまでやりなさい ということかと 恐らくクリシュナムルティは瞑想の積み重ねタイプの方ではなかったと思うので 本当に全ての瞑想は「意識的に」やっても無駄だと考えらっしゃったとは思いますが 普通の人はメソッドが大いに役に立ちます
メソッドよりも世界観が重要ってことかと 上座部、大乗、チベット密教、キリスト教、などなど なんであれ一定程度以上の段階に来るとバッと読めてくる世界がある その地点を指し示してる言葉と、その地点で見えることとが大抵は渾然一体になってる ここを上手く言い分ける事が、自然言語では出来ない
〜と思う うまく言える人もいるのかもしれないから断言は行けないよね
>>70 すごく感銘を受けました。
大人になると色んな言い訳ができるようになっちゃうんですよね。
喉が乾いたからお茶を飲む、尿意を催すからお手洗いにいく、どんな小さなことでも純粋に心からやりたいと思えるだけをやっていたらそれだけで幸せになれるのに。
マインドフルネスを使えるようになってから本気でオナニーしたら罪悪感どころか幸せな気分でいっぱいになれるようになったわ笑
>>434 そんな専門スレがあるとは笑
教えてくれてありがとう。
仏教にもほんとに色々あるな 法華経をことあるごとに馬鹿にするスマナサーラさんみたいなのもいれば 法華経で一冊本出しちゃうティクナットハンさんみたいな人もいる
見かけたので貼っておきます
タイの古刹「ワット・ラムプーン」で瞑想修行!|「歩く瞑想」「坐る瞑想」で心のクリーニング | サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト
https://serai.jp/tour/345505 世間の人間が私と同じように苦しみながら生きていると 瞑想を続けても気づけません 息を吐くように悪口を言い人を傷つける彼らが裏では生きることに苦しんでいるんでしょうか 私と他者という二元論の誤りから脱却するのは容易ではないんですね それができれば解脱ですもんね
>>439 お気持ちはなんとなくお察ししますが まず他人のことは放っておきましょう
まず苦しみのことですが どのレベルの苦しみなのか 思い通りにいかない苦しみ 痛みなどの苦しみ やることが無い苦しみ 色々あるとは思いますが これらは偶然や努力でいつのまにか苦しみと感じられなくなることもあります
ですがどんな人 状況でも共通するのが 停止できない 活動し続けてなくてはいけない 完全に満足したのでこの瞬間に死んでも構いません とはならない苦しみなんです
自分が生きている 存在していると実感するためだけに 音を光を記憶を感知してドミノ倒しのように連鎖的に反応して死ぬまで活動していく 昔の人はこのような姿を見抜き 苦しみそのものだと表現したのだと思いますよ
悪口吐き続ければその人自身が苦しむよw なぜなら必ず矛盾するし、その思いにしがみつくから 自分の首を絞めてしまいますよ まず、それを自分の心の中に見ることですね
慈悲の瞑想をしてみるのもいいですよ 「悪口吐いてるあの人が幸せでありますように 悪口吐いてるあの人が悩み苦しみから抜け出せますように」と 本当は悪口ではなく、自分に何かを気づかせようと遠回しに話してるのかもしれないし お相手の心の善し悪しなど裁くことは出来ないのですから 自分の中に「イヤだなあ」「醜いなあ」と感じる気持ちがあれば、 それは自分の心なんですよね 自分にイヤな醜い心が残っているから、イヤだな醜いなと感じる 純粋無垢な子供の頃はそんなこと感じませんでしたよね その大人になって作ってしまった自分の心に慈悲の心を照らしてみれば良いのです
相手の嫌なとこって実は自分のシャドーの投影だったらするから 悪口ばっかり言ってる人は自信の無さと不安感の現れだとみている
>>442 >自分にイヤな醜い心が残っているから、イヤだな醜いなと感じる
>純粋無垢な子供の頃はそんなこと感じませんでしたよね
純真無垢な子供のころは、元気に悪口を言ったり蹴飛ばしたりしていました。
自分の心を醜いかどうかなんて 夢にも思わないですね。
今も、そういった原点を消すのでなく しっかり{}でくくって
保存していきたいと思ってます。
自分のワイルドな生命エネルギーを捨てないために!!!!
子供は意味わからずに言ってるからね 邪心などではなく 取り戻す原点は言葉ではなく邪心の無さなんですよ 大人になってくるに従い、せっせと拵えてきた邪心をキチンと見ていけば 戻っていきますよ 他人の邪心を理解して許容できる純粋さに向かっていきます 他人を評価する必要はないですよ 悪口屋さんの言葉に嫌な気持ちになったら いま、自分が何を感じたか、それを観察すればいいです ほんとうにそれだけ 分析もラベリングもせずに見ていけばそれでいいです
自分と他者はエゴのレベルでは別人なんだから、そこを同じだなんて思う必要はないのでは
自分が感じているもの観察できるものは自分のエゴだから 相手のエゴなんかわからないし、なんとかしようとするものでもないでしょう?
>>446 それ昔やってた。慈悲の瞑想も。
おとなしくなっちゃってさ、仕事先で存在感薄くなってさ
いじめられて一人ぼっちで 辞めたの。
今はぼったくりの店主の口車に ビシビシ言い返して
威嚇して、ぜったい負けなくなった。
なめさせないよ。
良い人やってると 相手の落ち度探す力が弱いんで
口が下手になるよ。これ慈悲の念の欠点ね!!要チェック。
>>449 間違ってる
慈悲の瞑想≠良い人
自分は慈悲の瞑想はやるけど、全然良い人をやろうとは思ってない
だから、他人にビシビシ言うのは前と全然変わらないよ
慈悲の瞑想は良い人とか慈悲の実践とかとは関係ない 自分の心に生まれた執着を手放す方法なんだ 観察も同じ 必ずしも良い人になるための方法ではないんだ
「なめさせない」とか 「他人にビシビシ言う」とか 執着手放してるのかな
自分の場合、ビシビシ言うのは自分を守るためじゃないから むしろ、反撃されないか?とかいう気持ちは薄れてきたよ 本当のこと言ってどうにかなるならどうにでもなればいいし なめさせない、とかは全く考えてない
慈悲の瞑想を推進するスマナサーラや山下良道より 慈悲の瞑想をやらないプラユキや藤田一照の方が慈悲に溢れた印象あったりするしね
本屋でタイトルに釣られて手に取ったら、「スマナサーラまたお前か」ってなる 別にアンチじゃないけど、スマナサーラ本多すぎて他の良書が端に追いやられるのはちょっと腹が立ちます
このスレじゃプラユキ推しの風潮があるけどどうかなぁ 瞑想会行ったことあるけど、男相手にはけっこう素っ気なくて女性にはやたら親切だった印象
山下良道が東京新聞の日曜日の宗教欄に書いていた。来週が楽しみである。
慈悲の瞑想やったらスマサンみたいになるんですよね? それはちょっと嫌だな。
そういう好きとか嫌いとかの強い我執がなくなるから スマの事も嫌いではなくなる
>>457 その人に合わせて喋ってるんじゃない?
論理的に話して納得してくれる人なら淡々と喋れば十分だし
共感しないと聞いてくれない人だったらまず共感からはいる みたいな
別に仏教が清浄とは思わないですけど 世間さんの常識って五戒の真逆じゃないですか だからなんですかね、仏道を歩む人を世捨て人なんて形容をするのは 殺さない 敵なら殺したって構わない 嘘をつかない 嘘に騙されるほうが悪い 人のものや心を取らない 取られるほうが悪い 飲酒をしない 酒は百薬の長、どんどん飲め 邪な交わりをしない セフレでも不倫でも気持ち良ければいい 戦後の焼け野原は確かに地獄だったと思いますけど 現代だって観察すれば十分地獄ですよ 部屋の一歩外に出れば言葉の銃弾とまではいかなくとも弓矢が飛び交う戦場です
>>2 四向四果とか三昧とかになると一気に分からなくなる。
止観瞑想が効果を実感できた。
_(┐「ε:)_ _(:3」∠)_
プラユキさんが慈悲の瞑想をやらないって話このスレでたまに見るけど 負の感情がわいてるときにその対処で慈悲の瞑想してもうまくいかないって言ってるだけで 慈悲の瞑想は落ち着いてるときにするもんだって話なんだよね 慈悲心や慈悲の念は瞑想してれば自然とわくし重要だって立場だし、慈悲心や慈悲の念を持たなくていいなんてことはまったく言ってない
>465 男は解決するように行動する 女は同意を求めるように行動する
聞いてほしいとき 一緒にその考え方を味わって楽しみたい 認めさせたいとき ある結論に至るための塗り絵 聞かなければならんとき さっさと解決して終わらせたい 聞きたいとき 一緒に知らないところへ連れて行ってもらって楽しみたい 自分はこんな感じ
為になるというか、そうみたいですねという話ではあるが
最近マインドフルネス状態ってのがちょっと感覚的にわかるようになったわ 子供の頃の感覚で、やたら覚えてる風景ってあったじゃん あの頃に戻りたいなあ〜って思えるような感覚 自分の中でそういう一瞬の感覚って、大人になるにつれて段々減ってきた気がしてたんだけど それを意識的に作り出せるのもマインドフルネスなんだろうな、と思った
その感覚をマインドフルネス状態って言えるのかな、本当に
>>473 なるほど!呼吸をコントロールすることが瞑想なんですね!
知らなかったなあ!
元々あるものに気づくってんならマインドフルネスって感じがするけど ないところから作り出すってんなら観想とかそっち系の瞑想なんじゃない?
瞑想ごっこじゃなくてマインドフルネスをやってる人はもういないのかな
マインドフルネスの感覚を手っ取り早く掴むには 例えば手の平を見て 手 手 手 でも良いし 手を見ている 手を見ているでも良いし 口に出して自分は今 手を見ている が一番良いんだけど それを5分間 10分間 ずっと 一瞬も気を抜かず続ける 目の前の手と見ること 世界にこの2つしか無いような感覚になったら出来ている 手に意識を集中するのではなくて 見ているという感覚に集中する そうしないと面白い本を我を忘れて読んでるのと同じ ただの集中になってしまうので瞑想にならない
本にもよるだろうけど、読書というのはあながち単なる集中でもなくて、 瞑想に近いと思ってるけどな いわゆるシンキングマインドは邪魔で働かないほうがいい
呼吸に意識を合わせて雑念というか心の動きを観察するというのはその気になったら呼吸じゃなくてもどんなものでもできるとおもう。 もちろん読書でも読むことに没頭せずに読んでいるという念を保ちながら読めば心の動きが観察できると思う 楽器の演奏でもそれは可能だし単純労働などでもできると思う
そう、小説は自分が体験していないことを見せてくれるわけで 心に揺さぶりをかけてくれるからこそ読むものだと思うので 自分の心の観察をしながら読むよ
真面目に座るのが面倒だから読書に逃げてるだけですね 本読んで悟れたらそりゃ楽でしょう 小説読んでてナーマとルーパは観察できました?
まあ慣れて身につけば車に轢かれる瞬間でさえ 恐怖 体が強張っているなんて風に観察可能になるから本を読もうが性交中であろうができるのは確かです 慣れて生活中ずっと観察するようになると誰かと話しをしている時でもコンビニで物を買っている時でもトイレでも もちろん座って瞑想するときでも観察がずっと続きますからね
>>486 車のドアを開けっ放しにして人に迷惑をかけてる時でも
観察は続きますか?
観察できている、瞑想できているという妄想が続いているだけ。 観察できている時は妄想がはっきり見える。だから自分がしっかり観察できてないことが観察できる。 瞑想が上手な人ほど、自分が瞑想が下手だということを観察してる。
>>486 車のドアを開けっ放しにして人に迷惑をかけてる時でも
観察はずっと続きますか?
ずっと何を観察するんですか?
人に上から語る自分は観察しないんですか?
ずっと観察してても
何で本読んでる時に観察なんかしてるんだよ 本読んでる時は本読んでる事も忘れるくらい本読むんだよ
そういう意識の適材適所ができないんだよなぁ。 本読んでても映画見ててもストレス源が思い浮かぶ。だから何も楽しめない。 自律訓練が足りないと言えばそれまでなんだろうけど。
何で性交中に観察なんかしてるんだよ 性交中は性交してる事も忘れるくらい性交するんだよ 性交中に冷静に観察なんかしてたら嫌われるぞ
「膨らみ、膨らみ、膨らみ」 「突き、引き、突き、引き」 「突き、引き、突き、引き」 「突き、引き、突き、引き」 「縮み、縮み、縮み」
観察をするんじゃない 観察になるんだ 何だって一心不乱にやったら観察になるだろうに 「膨らみ萎み」「読んでる読んでる」なんて実況中継することではない 呼吸してることも周囲の音も目に入る文字も自分の中のことも 全てに気づくけど それで気が散るとか物語に没入できないなんてことはない だから瞑想だと言ってる 何をやっていてもそうならなかったら嘘だ だから一心不乱に物事に取り組む あと、坐らないなんてことは誰も言ってないな 十分に坐らなかったらそうならないから
性的なエネルギーは本能的で大きい物だからそれを利用するのは賢いと言われてる。 けど逆にそれを別の所で利用しようって考えもある訳で。 まあ、エロイ事なら結構リアルにイメージできるしそういうのの練習にもなる。 関係ないけどチンコをヒクヒクさせるのって知らず知らずの内に肛門も締まったりするから良いのかな? チンコに意識を集中してからオナニーすると本当に気持ち良すぎる。 セックスする相手は居ない。けど、それが良かったとも思える。 現時点までに瞑想中に気持ち良くなった状態のバリエーションは3種類確認してるし、だから色んな瞑想法があるのかな?とも思う 病気とかで気持ち悪くなって意識がフワフワしてるのとは全然違う気がする。 個人的にも読書は良いと思う。瞑想前にすると良い気がする。けど読書の前にもすると捗る気もする。 改めて、自分の求めてる『悟り』について調べると10年に1人は至ってる気がする。それに自分がなれるかは謎だけど。 と言うか世界規模でみると結構出てるし。 何となく少しずつだけど近づいてる気はする。
エゴが作る物語に没入することがマインドフルネスではないように 小説の物語に一心不乱に没入することはマインドフルネスではないと思うんだけどな
没入している物語と、シンキングマインドが作り出そうとする物語とは別ということ シンキングマインドが働いていたら本はしっかり読めない これを言ってるんだけどな
大江健三郎は文章の単語ひとつひとつから想像力が沸いてきて、普通に読むみたいなことは出来ないそうだ
10年位前『波動読み』って言う何回もパラパラめくるだけで読めるとか言うのが話題になりましたよね。そう言うのじゃなくても速読って良いと思うんです。 速読と言えば頭で音声化しないってのが重要で、凄い感覚的な事なんですけどね。面白いですよ。慣れてくると気持ち良くなってきます。凄い疲れるけど。 禅問答も面白いけど個人的にはウミガメのスープ問題(水平思考クイズ)ってのが好きです。ラテシンとかってサイトもあるしやってみて下さい。 ウミガメのスープは現代の禅問答!と言うと何か高尚な感じがしますけどソフトに言えばそんな感じです。まあ、違うか?けど禅問答のソフトな、入門用としては良い気もします。 小説でもまあ、共感なんちゃらとかは鍛えられるし感動的な物語は良いとは思います。 まあ、それらが瞑想に関係ないと言われたらそうかもしれないんですけど。
リベラルとはシンキングマインドが全てな世界だからな 突き詰めていけばそうなるよなそりゃ
>>490 もちろん観察できます でもポイントは 行動の良し悪しは全く瞑想とは関係ないということなんですよ
だから極端な話だと相手を刺し殺しながらも観察が可能なんです 極端な話ですからね もちろんこれは
だから悪口を言われて凄く腹が立って相手を酷い目に合わせる妄想が出てきても そういう妄想をしている自分 その時の体の変化を観察するんです そういう気持ちになることは悪いことだ というのとは関係ないんです
>>506 観察できるのに何故ドアを開けっ放しにするんですか?
観察できたら人に迷惑をかけてもいいんですか?
ドアが開いている、ということを観察できているのに
それを開けっ放しにして車から離れる意図がわからない
迷惑顧みずに車のドアを開けっ放しにしてるという設定はどこからきてんの?
>>507 それはドアを観察してるんですよw その時はドアは観察してなくて 確か何を買うのか パッパッ と勝手に浮かぶ思考を観察してたような記憶がありますね
>>508 昔に自己の観察が深まった(過観察?)の時に一瞬の自己の感覚にずーっと釘付けになることが沢山あって ドアを閉め忘れたりすることがたくさんあったんです 普通は家で座ってやれば良いんだろうけど どんなところでもやっていたので
>>509 何か他のことを観察して注意はそちらにいってて
肝心の日常生活が疎かになっていては
観察はむしろ弊害になるのでは?
それは観察でも瞑想でもなく
ただのおっちょこちょいでしょう
そのおっちょこちょいが人に上からものを言うなんてちゃんちゃらおかしい
ああ、過去そういう事があったことを書いたことがあるって話ね
リトリートなどに参加して瞑想に没頭する時間を作り 一時的に出世間の環境に身を置けるならともかく 在家で独学で瞑想にふけったら世間的なマナーとかがお留守になることだってあるだろうさ 彼もそれだけ真剣にやってるってことさ ドア開けっ放しのボンクラがどうの、ってのはツッコミとして的外れ
http://2chb.net/r/psy/1523286538/ 心と身体 [心と宗教] “マインドフルネス瞑想 Part9 ”
331 名前:神も仏も名無しさん[] 投稿日:2018/04/26(木) 08:11:16.92 ID:7HiTV9z/
>>329 マインドフルネスで極限まで到達した場合は たぶん自分が人間だということを忘れるんじゃないでしょうか という冗談は置いといて...
正確には気にならなくなる 思い出すのが難しくなる感じだと思います 私の例で恐縮ですが 車を駐車場に止めて用事を済ませて戻ってみると 見事に運転席のドアがバーンと開いたままでした 閉めることを忘れてたんですね
またこの記憶もあやふやです どこの駐車場で何の用事だったかはもう完全にわからなくなっている
個人差は大きいでしょうがある瞬間を起点にしてそれ以降の体験 記憶は希薄になるような気がします
ある瞬間以前の記憶の方が問題です 多くはそれがトラウマの場合が大きいでしょうが それはしつこいながらも気にならなくなります
332 名前:神も仏も名無しさん[sage] 投稿日:2018/04/26(木) 09:05:27.21 ID:sndh3tvj
ドアを閉めるのを忘れるってマインドフルネスとは真逆なような
普通の人間ができることすらちゃんとできないのに 観察や瞑想する意味あるのかって話 そんな人間がする指導に意味があるのかね 頑張って下さい、ってよく書いてるけど 頑張って車のドアを開けっ放しにするくらいのおっちょこちょいになれということかな?
336 名前:神も仏も名無しさん[sage] 投稿日:2018/04/26(木) 11:55:29.62 ID:tSCrUgFz
>>331 どこがマインドフルネスで極限まで到達した、だよw
ただの注意欠陥障害か健忘症だろ
それ車のドアだからよかったもののガス器具とかだったらヘタすりゃ死んでるだろ
347 名前:神も仏も名無しさん[] 投稿日:2018/04/26(木) 18:34:54.03 ID:7HiTV9z/
>>339 ちょっと上でも書いたような気がしますけど 現在 今 というのが問題です 今というのは0秒なんです 急ブレーキ!で世界最高峰のドライバーが反射で反応して0.1秒後半でしょう
0.1秒はもの凄く長い時間なんです
屁理屈っぽい話をすると0秒に限りなく近くになるにつれて思考 判断する時間がなくなります じっと観ているだけしかできなくなります 次々と次の0秒がやってくるからです
0秒はたぶん無理だと思うんですが 深まっていくと瞑想中 時間が超超スローに流れるようになって音楽が細切れに聞こえたり指を一本動かすのに8つも10も細かい動き(気持ち悪いw)をしていることがわかる瞬間がきます(個人差あり?)
こういう変態的なことに挑戦していると 車のドアを開けっ放しでも 気にしない人生を送れるようになりますw
589 名前:神も仏も名無しさん[sage] 投稿日:2018/05/05(土) 03:49:56.97 ID:egyNyv5c
>>583 横から
オープンの幌しめない派だけど
別にどうにかなったことはないから
ドアあいてても平気平気〜
自分の車だと思って乗ったら人の車だった、とかならドキッとするかな
て関係ないな
ドアは閉めるべきかどうかか…
ルームランプつきっぱなら2日でバッテリー上がるから閉めたほうがイイけど元々点けなきゃいい話だし、
一昔前に流行ったナビまるごと盗難とか遭っても…そもそも別にナビいらんというか保険かかってたらむしろ持ってけドロボーだし、
ETCカード盗難とかそもそもなんに使うのかわからんし…
閉めなくてもさして問題にはならんな、うん。
そういや普通グローブボックスには鍵ついてないか。
防犯グッズ仕掛けといたら?
590 名前:神も仏も名無しさん[sage] 投稿日:2018/05/05(土) 04:01:06.45 ID:xD+WgfWu
駐車場でみんながドアを開けて駐車してたらどうなるか想像してみ
他の車の通行にめちゃくちゃ邪魔になるな
それでも閉めなくてもさして問題にはならんか?w
591 名前:神も仏も名無しさん[sage] 投稿日:2018/05/05(土) 04:05:40.68 ID:egyNyv5c
みんながドア開けて駐車してたら通行の邪魔だとか思わないだろう?
592 名前:神も仏も名無しさん[sage] 投稿日:2018/05/05(土) 04:07:38.33 ID:xD+WgfWu
屁理屈はいい
お前は駐車場でドアを開けたままにすればいい
俺は締めるから
605 名前:神も仏も名無しさん[] 投稿日:2018/05/06(日) 17:20:27.63 ID:Hdz1gzRr
>>589 おおっ なるほど ごく真っ当 正当な考え方ですね
多くの人はそんなもんに理由はない! 閉めるのが当たり前で理由もクソもない!というのが普通のような気がします
実はドアの開け閉めはどうでも良いんです その無意識にやっている行動 習慣化している行動の裏にどのような思考 気持ちが潜んでいるかが重要です
ドアを閉め忘れたと思考が起こった時に ドキっとする人は 何かの恐怖がそこに潜んでいます 私または私の大事な何かが失われてしまうと心身が大騒ぎを始めるんですね
私の名誉 存在意義 財産 能力 所有物 それらが苦しみの原因です 実際は放棄しなくてもよくて心理的な放棄で良いんですけどね
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めんどくさくなったので、あとは興味のある人だけ各自掘ってくだちい
マハシ式でやると大失敗してピッチャー交代するってことだろ 失敗と認めたくないプライドが邪魔したら交代出来ないだろうね そりゃ、瞑想しても楽にならない サマディにも南無阿弥陀仏にもならないわな けど、それを責める気にはならない 人間みんなそうやって生きてるから
>>484 SFなんか読むと、荒涼とした惑星の海に人類の建設した塔がたってて
距離感、スケール感(実際に広い牧場とか行くと感じるリアルなものに近い)
なども含め 自然に眺めている感じになる。
活字を遠くの景色のように5行ぐらい適当にまとめてながめ、
眼にとびこむにまかせるように脱力して読んでる。
そんな光景を自分の思考だと思ったことは一度もないし
誰でもたのしんで読書するとき、自我とか離れてるんかもしれないなって思う。
>>524 へへっ
>>523 わかってくれて嬉しい(T_T)
そうそう、自分の思考ではないんだよね
心をなるべく空にしないと入ってこないし
自分の思い込みと重なってるときがあっても
思い込みをあとで修正、手放せるようになってないと本は読み進められないからね
逆に読書は思い込みを外してくれる事もある
読後に残るものがあればそれも観ていけばいいし
だから真剣に読むということはそこに観察があり、没入はしても埋没はしないんだな
自分の楽しみと自我って遊離してるの? なんだかもうみんな言ったもん勝ちだな
いや、俺は悟ったなんて言ったことないしその自覚もない、 その言葉はそのまんまお返しするよ みんな公開自慰行為してるだけじゃないの?
なんだ、それじゃあ話が見えなかったということだ そのうちわかるようになるといいな!
私わかってる人、あなたわかってない人ってか?ゲラゲラ そのうちオナニーしかしてなかったていうことがわかるといいね
そもそも、読書は「楽しみ」とは限らないわけでね、、、
話の前提からしてズレた決めつけで見てこられて 何でもありかよこらぁ! みたいにケンカ売られても、あたしゃー知らんよw 腹も立たないさ それはあんたの脳内の敵と戦ってるだけなんだから その「敵」を作ってる自分をよく見たらいい 今、見えてるよね? それが見えないと話はわからんよ
僕らにとって重要なのはヴィパッサナー、あるいはそれ相当の事を続けていくことだが 誰もが本読んだらヴィパッサナーになるとは限らないさ だから読書におけるヴィパッサナーの話をしてるんだよね また、悟る悟らないのはなしでもないと思ってるんだが 西洋哲学を学んで預流果に悟ったと言ってる人も居たな 永井均さんの言ってることは良道さんの認める見地だし 良道さんは池田晶子さんのことも認めてる 興味無いなら別の話をすればいいさ 邪魔しないよ
初期のうちは、きづきも対象を広く取りすぎると、ドアのあけっぱなしみたいなこともあると思う TPOにあってない意識のとりかたって感じだろうね 気づきを保つのってのは、人間の自然に反してるから、そりゃたまにはそんなこともある まったく気づきの無い無自覚な行動のほうが、知らぬ間に電気消してたりかぎ閉めたり、 生きるのに好都合な面もある
ヴィパッサナー瞑想の場合だが、この瞑想の肝は、観察にある。 大乗瞑想の特徴として、サマタとヴィパッサナーを分けないというのがあるが、それはともかくとして、自らを観察する、この観察者は一体何なのかという素朴な疑問がある (ヒンドゥー教だと純粋観察主体としてアートマンやプルシャが登場するが仏教ではそれらは説かない)。 唯識においては、自らをヴィパッサナー瞑想により観察するが、その観察者を、さらに観察する。 そしてその観察者をさらに観察する、ということを繰り返す。 そして唯識では、これが五段階まで繰り返されることになっている。これが五重唯識観だ。 さて、この観察者を観察し、その観察者をも観察する究極の観察者とは何か。 この観察に至ったとき、一切が消滅し、究極なる涅槃が現成する。境識倶泯だ。
天台の瞑想法も高度に練られているが在家にはおそらくその止観を行するのは不可能と思われる。 十乗観法や正修止観がそれだ。
瞑想始めてから 怒りの感情が減った 争いごとが嫌いになった 共感や慈悲が増した 悪口やウソが合わなくなった 落ち込みが少なくなった ショックを受けづらくなった 立ち直りが早くなった 愛情が増した これだけでも絶大な利益だわ
>>536 唯識だと突き詰めていけば観察者は自分自身にとっての全宇宙を現し認識している存在だから
顕在意識では認識したり想像したりすることすら不可能と思えるような境地だよね
観察者を観察しているものは誰か? これは昔からちょくちょく話に出ますけど 単純な話(にして話を終わらせましょう) 実際の観察の瞬間を自分で確認して下さい ただ時間差で次々と観察が起こっているだけのことです あ 〜に気づいた あ 〜に気づいたってことに気づいた 以下無限 最初は0秒 次は0.2秒 次は0.4秒 以下無限 これが最初に気づいた0秒の時点で同時に何十何百と異なる観察者を認識できる場合には これはどういうことだ... となるでしょうが そうでなければただの時間差です
涅槃まで言ったらそう言えるのかもね けど、その涅槃も観察出来るんだそうだ
ちなみに
>>543 は良道さんがパオ・セヤドーに言われたんだったかな
>>545 涅槃ではなくもっとずっと手前。
勘違いしてるみたい
信じる信じないということではないよ 単なる事実 パオで言ってるニッバーナは涅槃ではないということ?
パオがその様に言ってるのは事実だとしてもその内容が事実かどうかは別の話
自分は直接セヤドーに聞いたわけじゃないし その話は頑張らないけど でさ、そんな話がしたいわけじゃないんだ このスレ見てる我々の瞑想の問題 観察者が自我だと何が問題? 悟らなければ観察は不可能って言いたい?
> 悟らなければ観察は不可能って言いたい? 逆だ 涅槃には観察はない
それはわかってるよ、そういう話をしていたんだろ
>>542 のレスの意図はなんでしたか?とお尋ねしております
瞑想によって五蘊を観察するのは智慧ということになるが この智慧はテーラワーダでは四つある勝義諦の中の一つである心所法にあるとされる 心所法は勝義諦とは言え有為法であるから智慧自体は無常・苦・無我である 無常をもって無常を悟り、苦をもって苦を悟り、無我をもって無我を悟るというのがテーラワーダである 一応正しい智慧とか完成された智慧とかという言葉でその観察の正しさを保証しているようだが しかし正しい智慧が本当に正しいという保証はない
>>557 お前は本当にダメな奴だね
それで通じるんだったらテーラワーダが入ってくる必要ないんだよ
悟ったものにしか(本当には)通じない言葉を無闇に振り回すなよ
真理めいたことをドンと言うのでなくてさ、そんなの本読めばいいし 信頼できる師に聞けばいい話で すくなくとも、涅槃は観察できないという一般的な認識を踏まえて セヤドーは覆してるわけだから、その意味を説いてくれないと 名無しが「セヤドーは勘違いしてる」と言ってもどうしたもんか困るよね で、話の流れとしてID:O2EdVVsDは何が言いたかったんだろうか? サマタで禅定深めることのみが悟りへの道で、観察など無意味だ ということなのかな もしそうなら、お釈迦様が発見したヴィパッサナーとかサティは一体何だったと言うのだろう そうでないとして 彼によればパオもインチキだというのだから ヴィパッサナーもマインドフルネスもインチキだと言いたかったの? お釈迦様の説いたサティとはなんなのでしょうか お教えいただけませんか
涅槃が観察できない?うんそうきいてるよ 涅槃が観察できる?え、そうなの? どっちも肯定も否定も出来ない 出来るのは涅槃に至った人だけだよな そうでないなら教科書丸写し、ただの信仰告白だ
>>538 そうなるよね
別に悟らなくてもいいじゃんと思う
かといって、観察止める気もないけど
ダウンロード&関連動画>> VIDEO 如来神掌
テーラワーダ協会の駄本で悟りが開けると思ってるやつ。
道端の乞食から買った冊子で修行して、如来神掌出すほうが楽だぞ!!
>>562 私はもともと機嫌が直るのがやたら早くって
怒ってもすぐケロッとしてるんだけど
そこが余計相手を怒らすことがあると分かってね。
しばらく相手を寄せ付けない固い雰囲気出すことにしたよ。
あと、こいつはすぐ許してくれると思って 舐められる。
仕事を押し付けられたりしないため、わざと怖い顔で働く。
観察瞑想続けていくと、その時の気分で態度変わらなくなってくるし 相手を評価して態度が変わるとかも無くなってくる 相手への評価も自分の中で起きてることなので 瞑想で自分の中に起きることへの評価が無くなってくると 相手への評価も無くなってくる ありのまま つまり、あなたは普段もありのままの相手を見るようになる すると相手は怒るも舐めるもなくなってくる
>>567 >>538 ですが、まだそこまではいってないなぁ
こつこつ瞑想続けていけばそうなるかなぁ
楽しみです
涅槃に関してはパオ派とマハーシ派は違うこと言ってるし自分で体験してみるまではどちらが本当かはわからんよね どっちも間違いだったりどっちも正解ってこともあるかもしれんけど
このスレ、修行を積み重ねた果てにいつかこうなる、みたいな夢を追いかけがち
今ここがニルヴァーナ ニルヴァーナって言葉を初めて聞いたのはエウレカセブンだったかな?母に「エウレカセブン」と言うと「エロティカセブン?」と聞き返してくる どうでもいいけど食事中の瞑想って凄い大切だなって思った。そういえばためしてガッテンでも紹介してたっけ? 食事中の瞑想とかサマタ瞑想は大切だけどそれが悟りには直結しないんじゃないだろうか?って思う。 アメリカの大統領の言葉で「木を切る時間を8時間与えられたら6時間は斧を研ぐのに使う」みたいな言葉があるけどまさにそれ、まあ6時間は研ぎすぎだろって気もするけど。 研ぎすぎて使い物にならなくなる可能性もあるけど少なくとも斧を研ぐ事は重要。斧を研いでるだけじゃ木は絶対に倒れない。それも重要。
>>573 奴はにゃごや中日新聞だけにしとけ
東京に拡散させるな
にゃごやの浄土系とヒョコヒョコやってりゃいいんだ
●チベット仏教僧の火の瞑想 瞑想に熟達したチベット仏教僧は何時間も瞑想状態にいることができるが、すごいのはそれだけではない。 瞑想により体に貼り付けられた何枚もの塗れた布を体温で乾かすことができるのだ。 この瞑 想は「トゥンモ(火の瞑想)」と呼ばれる。4.5度の部屋で、9.4度の布を服を着ていない状態の上半身に巻かれたチベット仏教僧は、通常の人ならば凍えてしまうところ、 瞑想によって体温を上昇させることで、数分で布 から蒸気が上がり始め、1時間ほどで完全に乾かしてしまったという。 チベットの修行僧は極寒のヒマラヤ山中でトゥンモの修行をすることもあるそうだ。 ●心臓を止めるインドのヨガ行者 瞑想で「脈を消失」「超人的記憶力を取得」した人も…! 瞑想で起こる7つの効能と最終到達点がヤバイ!の画像4 画像は「Thinkstock」より引用 1935年、フランスの循環器専門医テレーズ・ブロッスは心臓を止められるというインドのヨガ行者に心電計を装着し、瞑想してもらったところ、機械では検知できないほど鼓動が弱まったという。 ブロッスによると、1人の行者に至っては脈がほとんどゼロになったという。 ●超記憶を持つジャイナ教の瞑想マスター ジャイナ教の瞑想マスター、ムニシュリ・アジットチャンドラ氏は、瞑想により超人的な記憶力を身につけたという。 彼は過去の記憶から6つの外国語、数学の問題、ランダムに選ばれた物体の名前など500ものアイテム を正確に暗唱。 また、6000人の人々が、6時間かけてモノの名前などをアジットチャンドラ氏に伝えたところ、正確に全ての名称を暗唱したそうだ。
>>567 相手の態度はいちいち自分の態度の鏡だという信仰でもあるの?
いいかい?誰にでも親切な人は「いい子ぶりっこで気に入らない」
そう思ってきつく当たる人もいるんだよ。
感情をおさえて丁寧に接するより、ストレートに暴言はくほうが
仲良くできる人間もいる。
あんた、人生経験ないだろwwwwww
そうじゃないな 相手の態度はあくまで相手の心だ それに対して自分に生まれた心がありのまま見えているならば 見えていればそれは消えていく 予め見たものなら、それは自分の心だから 特定の相手に依存せず起きるものだが 見えれば消えていく 強く生じなくなる 相手の心はありのまま見えてくる (完全にとは言ってない) これは自己観察しなきゃわからないよ 暴言だろうが突き飛ばしてこようが 行為そのものの事を言ってるのではないから それは話の的が外れてるね
>>580 君は瞑想経験ないでしょうね
ナーマとルーパがはっきり見えるようになると見方が変わりますよ
今のあなたは人の奴隷でしかない
瞑想難民の問題を語ったのは、山下良道がテキトーなこと言ったことに対して反論したニー仏(とプラユキナラテボー)
いまここに存在しいまここに知覚できないものはみな頭の中のことで妄想と同じってことでしょ 記憶も知識もみな頭の中のこと
じゃあ言い直そう 山下を嫌って「きた」のは瞑想難民(特定個人) 少なくともその様な言動をしてきたのは事実残ってるので
誰だかわからんそんな人が ここに書かねばならんほどの重大な執着対象なんすか
いえいえ、あなたこそ私の書き込みに執着していただかなくても結構ですよ
書いてる人にどれだけ執着があるかは想像でしかわからないから探ってもしょうがない
瞑想してるといろんな雑念や感情が映像で通り過ぎていって(ここまでは複数の本にも書いてありました) やがてなんも無くなる感じになるんです それで起きてるのか寝てるのか分からないけど意識はある?みたいなよくわからん感じになるのですが これってよくあることなんですか?それとも居眠りしてるんでしょうか? できる範囲で調べたり本を読んでみたんですが、自分と状態が似てる記述が見当たらなかったので質問しました
よくあることです でも、これでいいのかな?と真剣に坐って下さい
菩提道次第 大論 の 略論 の観の章 (チベット仏教)
仕事中に脳が興奮気味になってイライラし始め人の話は耳に入ってこなくなるし集中力も欠くしで こんな時にこそヴィパッサナーだ心の観察だと「私は今興奮している、私は今イラついている」と 善悪の判断を下さずにただ客観的にありのままに自分の心を観察して心の中で観察したことを唱えてみたが一向に興奮はおさまらなかった 仕方ないので陰の方に回ってポケットに忍ばせておいているデパスを舌下投与したらしばらくしてイライラや焦燥がおさまってきた どうやら観察よりも安定剤のほうが興奮した精神には効くようだ
それがプラユキさんとかが言うラベリングの弊害だ ラベリングと受け入れるのは違う
どんな弊害があるんだろう?私はラベリングが凄く役に立ったよ 言うなれば武道の気合の掛け声みたいな役割だと思ってる 繰り返す度にどんどん自分の奥深くにフォーカスして集中していく感じ 自然な方法ではなく 責めの方法だとは確かに思うけど
アクセプタンスあるいは手放しが出来てないのだから ラベリングが邪魔してるのだと思うけどなぁ ありのままに見える前に言葉で表現しちゃったらそれは消えていかない しっかり見えたらラベリングしてもいいし、しなくてもいい 何故なら、消えていったものが何なのかは後でも言語化出来るから
「客観的に」というのが無理なんだと思うけどね それは瞑想にならない
世俗に属する仕事をしていて苦を滅することはできないでしょ できるのなら釈迦は菩提樹の下で正覚を得たあと世俗に戻ってるよ 実際は悟ったあとも気分が優れないと岩窟に閉じこもって瞑想していたりしていた 割とアンニュイなところがあったという たまにサンガの面倒を見なければならないことを愚痴っていた あくまでたまに…ではあるが悟ったあとも喜怒哀楽に全く振り回されなかったわけではなかった 世俗の煩わしさを捨てて出家しててですらそうだった
気分が優れなかったり愚痴ったりしてもそれは心身の活動で、心身を観てる自分にとってはそれは苦ではないってことでしょう マインドフルネスにとって自分とは心身を観てる者で、心身は自分と重なってるだけで自分ではない見られるもの
一切皆苦だから、苦はあるだろ ゴータマも阿羅漢も肉体的に死んで無色界に転生したときにようやく 一切の苦から逃れるんじゃないの?
苦はあるけど、それに対する扱い方みたいのがわかるようになるのがマインドフルネスなのでは
仏教でいう苦というのは終わりのない欲望のこと 常に先の幸せばかり追いかける状態から目覚めるのがマインドフルネス
>>609 平たく言うとそうだね
苦は絶えず現れるけどそれを引きずらなくなる
否定みたいなこと言ったけど、
>>607 の言ってるのも正しくて
苦があるのは、苦しみの自分と観察者の自分がなぜか縛り付けられてるからで
観察者の自分は苦しまなくても、苦しみの自分はいつもぶら下げて歩いてる
苦のない自分だけで生きてくことは出来ない、と思う
ぶら下げてる泣き虫の自分が泣き出さないように仲良く付き合ってく
一切は苦なんだけど、それと上手く付き合ってく 現れてくる苦を引きずらずに生きることができるのが マインドフルネスだと思う だって、今までは上手く付き合えず、苦しみを肥大させてきたじゃない 肥大した苦を減らし、肥大させることもせずに生きることが出来る それがマインドフルネスだと思う けど、生命現象の中では広い意味で苦からは逃れられない だから、一切の欲を滅した釈迦も死ぬまで瞑想は続けたということだと思う
>>613 テーラガーターには長老方の詩偈として次のような定型文が出てくる
〔わたしは〕死を喜ばない。〔わたしは〕生を喜ばない。正知と気づきの者として、この身体を置き去りにするであろう。
〔わたしは〕死を喜ばない。〔わたしは〕生を喜ばない。しかして、雇われ者が報酬を〔待つ〕ように、〔為すべきことを為して、死の〕時を待つ。
この詩偈全体に苦と上手く付き合う生き方というのが唱えられている
要するに期待というものは死ぬまでもつなということである
何も望まずに淡々と生きて生きるだけ生きたら死ねば良い、と
嫌なことがあったら嫌な感覚を存分に感じながら観察し 良いことがあったら良い感覚を存分に感じながら観察しても良いですからね 別に引きずっても良いんですよ 根本的な小変革が起きなければ自己啓発本を読んで前向きになる程度の変化しか起きません 徐々に変化するのではなくいきなり変化します ですから瞑想で小変革を体験した人は凄くビックリするし 興奮します 必要なのは観察だけで 自分の心構えは必須ではないですからね
観察すればいいと言っても 苦しみの自分から観察してもマインドフルネスにはならないよ という話ですね 観察できていたら引きずらないということ 引きずるな、ではなく 事実そうなるということ
>>616 なるほど ご丁寧にありがとうございます ですが私は引っかかるんです 例えば嫌な相手と毎日顔を合わせなければならない 自分のコンプレックスを日々思い出しては嫌な気持ちになる
原理的には苦しんでいる状態の観察は観察になっていないので この状態を多少でも改善してから瞑想することになってしまいます
ということは 瞑想は必要なく更に自己の分析や良い本や友人に相談などして解決することができるということです 実際に多くの人がそうして生きています
瞑想の一番の魅力 力はどんな状態であれ 観察だけである日突然変革が起こることです 本人的には心理的な成長は皆無に感じているのにも関わらずある日突然です
恐らく自己を直視することさえ困難な苦しみの状態では 観察を避けてしまうという意味ですよね? そこは決心 勇気 信念が必要だと思います
苦しんでいる状態をじかに丸ごと観察できなければ観察ではないでしょう 上ではみなさんそういう話になってると思いますが だから観察者の自分という話になるのであって
>>618 すみません 話の流れがあまり見えてませんでした それでは例えば私が昔イジメめられていてどこかでまだ吹っ切れていない おまけに毎日上司から怒られて体調に変化が出るくらい追い詰められている そんな状態だとしてどう瞑想すれば良いんでしょうか?
それって初歩の話なんだけど サマタで思考が止まった状態になれば瞑想できるでしょう まずその中で現れてくるものを観察することですね それが進めばイジメの記憶なり、いまさっき起きたことなりで 日中に現れてくる心もある程度の輪郭を持ってはっきり見えますよ そして消えていく それは正に苦しみのない自分が観察していているんですよ
爆弾発言していいですか マハシ式ではシンキングマインド、苦しみの自分が苦しみの自分を観察し分析していく これ自体、外形だけ釈迦の瞑想をなぞってるけど、内容の全く違うもので 原理的に矛盾した不可能なことなんだけど これを真剣にやっていくと、いずれぶっ壊れて「観察者」で同じ事を出来ることに気づく それがいわゆる悟りでしょ、マハシ式では だから悟るまでは決して気分が楽になったりはしないだろうし 悟りを誓わなければやる価値がないということになる 中途半端では隅々までエゴを強めるだけ 元々自我の弱めな日本人からしたら、そんなメソッドはエゴを強化するだけだと直感的にわかる エゴを極大化した上で弾け飛びぶっ壊れて悟るなんてアホらしいと悟るw 強いストレス下にある上昇志向、意識高いビジネスパーソンには受け容れられても、 ぼやーっと生きてる人では続けられなくて、スマさんなどがキツく見える かといって、大抵の日本人は観察者の自分を信じ切ることが出来ずにいる どっちつかずのまま だから、エゴの強いマハシ式の連中のデカい声にあえて異を唱えない 真相はこんなところだろう?
自我の強弱や重なり方なんて人それぞれなんだから自分に合った派を選んだらいいとしか思わない
マインドフルネスなんて『パニクった時には深呼吸したり水を飲んだりして心を落ち着けましょう』というのと大して変わらん
靴箱大長老は「悟らなきゃ楽にならない」と正直に言いはしなかったが 「悟らなきゃ意味がない、悟りを目指せ」としつこく言った それは真理の一面だよね、ちょっとずるいけど 爆弾発言さんはその点正直だったからねw マインドフルネスでは楽になんかならないって やっぱ悟ってないよ、というのと同時によく正直に言ったと思う マハシ式の真実だよねww
いや、靴箱大長老は「悟らなきゃ楽にならない」とも言ってたかもしれない 自分が見てなかっただけで
靴箱大長老って誰やねん? この世に靴箱大長老という人間がいるのか? それは 己が作り上げた妄想の中に存在する妄想だろ 靴箱大長老なんてどこにもいない なぜそれに気付かない?
なぜその攻撃心に気づかない? 三毒を知らないわけないのに 何故おのれの身を己で傷つけるのかわからない
全然攻撃してないけどw そうみれば靴箱は真理を言ってたんだなと感心してはいるし 祝福はしているが
人のことを靴箱と言ってる時点で攻撃してないか? 下に見てないか? 靴箱「大長老」と言ってる時点で攻撃心満載だとおもうが 靴箱大長老という言葉を使う人をも傷つけたくはない 人を靴箱と蔑む人も
それは妄想というものだ 下には見てないよ しかし、なぜ噛み合わないかがまだわからないとしたら 下に見る気持ちも出てこようというものだ 悟ってるんだろ靴箱は
人のことを「靴箱」という人間が 全然攻撃してないというw 人のことを何と呼べば攻撃してることになるんだろう? 人のことを「靴箱」と呼んでも攻撃してないの? お前の父ちゃん「靴箱」って言われても攻撃されてないのかねぇ
どれだけカン違いできたら 人を「靴箱」と呼べるのかわからない 己はその「靴箱」と蔑む人より清いのかね? 人を「靴箱」と蔑んでる人間が?
素直にそれは真理だと認めて祝福しているのにな 何と呼ぼうががそんなものは仮称でしか無い レスは文字列でしか無いといってる靴箱が仮称に傷つく訳がない 靴箱だろうが、靴箱大長老だろうがどうでもいいじゃん
しかし朝っぱらからつまらないことでえらく怒ってるんだなw そんなに怒るなら命名したメーテルを叱ってやったらどうなんだ あいつツイアカあるだろ
>>636 真理だと認めているのに何も悟ってないわって
どっちなんだよって話
人のことを「靴箱」と蔑む
その己の歪んだ心を見つめれば?
その攻撃心は
三毒的にありかなしかを
正月に正念でしっかり見つめろ
靴箱定義なら悟ってるだろ 話としては「君は」悟ってない どっちなんだ?と問うということは 君はいつも靴箱と呼ばれていた人だと主張してることになるが てか、話理解せずに怒りに任せてる君こそ三毒まみれでは?
事実関係からすればそういうことになるだろ 靴箱さん、えらく冷静さを欠いてるが 私生活でなんかあったのか?
少なくとも 人のことを「靴箱」なんて呼ばない 最低限の良識は備えてるつもりですけど?
靴箱って文字列でしょ 人って何よ?嫌われてるIDでしょ そのIDに文字列のニックネームが付いてる 他の人に対するレスが文字列でしか無いと開き直った靴箱が 他人のレスの文字列が許せないという 下に見るなと あんた言ってること矛盾してるぞ?
ていうか、どんな人間に育てられたら 人のことを「靴箱」って呼べるんだろう? お前はお前のことを「靴箱」って呼ばれて嬉しい?
そもそも、靴箱を下に見たらいけない理由ってなんなのだろう 悪いとして靴箱じゃなくて便所コオロギとかお猿さんだったらいいのだろうか 別に上にも下にも見てないが ここまでの話、悟った人にしちゃ理解力低すぎないか
ちなみに、わたしはメーテルでもなければ、テーラワーダスレで虚妄論を繰り広げた人でもない 靴箱とお呼びしてる以外に靴箱に恨まれる憶えはないぞw
誰も下に見てはいけない そんな当たり前のことすらわからない 苦労知らずの甘えたちゃんは もう少し人の痛みを知ってからレスしましょう 「靴箱」といってる時点で下にみてることには 最低限気付きましょう
まあ、その妄想もいずれ消えることでしょう お悟りを開かれてる靴箱大長老のことですからね ご立派なことですね
文字列なら何を書いても許されるとおもってる? それは言い逃れでしかない それはただの文字列でも お前の攻撃心満載の汚れた文字列なんだよ 人を傷つけること その同じ文字列で人を癒やすこともできるのに なぜ良い方向に使わないのかわからない 因果律を知ってるはずなのに
450 立派な人々は説いた── [T]最上の善いことばを語れ。(これが第一である。) [U]正しい理を語れ、理に反することを語るな。これが第二である。 [V]好ましいことばを語れ。好ましからぬことばを語るな。これが第三である。 [W]真実を語れ。偽りを語るな。これが第4である。 そのときヴァンギーサ長老は座から起ち上がって、衣を一つの肩にかけ(右肩をあらわして)、師(ブッダ)のおられる方に合掌して、師に告げていった、「ふと思い出すことがあります! 幸せな方よ」と。 「思い出せ、ヴァンギーサよ」と、師は言われた。そこでヴァンギーサ長老は師の面前で、ふさわしい詩を以て師をほめ称えた。 451 自分を苦しめず、また他人を害しないことばのみを語れ。これこそ実に善く説かれたことばなのである。 452 好ましいことばのみを語れ。その言葉は人々に歓び迎えられることばである。感じの悪いことばを避けて、他人の気に入ることばのみを語るのである。 453 真実は実に不滅のことばである。これは永遠の理法である。立派な人々は、真実の上えに、ためになることの上に、また理法の上に安立しているといわれる。 454 安らぎに達するために、苦しみを終減させるために、仏の説きたもうおだやかなことばは、実に諸々のことばのうちで最上のものである。
昼過ぎにまた来るのかな 差定: 一法庵に集合 07:20 am ウォーキング・メディテーション (稲村ケ崎海岸) 08:00 am シンプル・ヨーガ(フェルデンクライス + 真向法) 08:20 am 立禅(站桩気功) 08:40 am 青空の瞑想 ワンダルマメソッド (微細な身体の瞑想+慈悲の瞑想+アーナパーナサティ) 10:10 am ダルマ・シェアリング 11:30 am 終了
>>653 ストーカー?
気持ち悪っ
なんでそんなに執着してるの?
>>620 ああ そういうことですね サマタもやった方が良いよという話でしたか それには全く同意します 私もサマタだけを6年以上馬鹿みたいに信じてやりましたから良くわかります
でもサマタは勧めにくい.... 苦しんでいる人には余計に....
つきっきりで一緒にしてあげられるならまだ良いけれど それでも真剣で切羽詰まった人ほどやっぱり勧めにくい
うーん と考えてしまいます
トラウマ抱えてたり、精神的な病気持ってたり、感情を抑圧しやすい人は手動瞑想とか歩行瞑想の方が良いかもね 主観だけど、シャドー(今まで抑圧してた感情のかたまり)の現れ方もアナパナやボディスキャンに比べたらだいぶマイルドに感じる
爆弾発言さんが真剣に取り組んでるのは理解するよ けど、師についた方が良いね
爆笑発言になっちゃったな 悟りが観察者とかそんな単純な話な訳ないだろ 有身見について調べてみなよ
>>661 私は先生がもう二人いますよ お一人はもうお亡くなりになりましたけれども
観察者は本当の自分というのは面白いですね 本質は意識だ 的な話でしょうか?
有身見を否定する主体は何? と聞くと智慧と答えるかもしれない でもその智慧も五蘊に属する 五蘊をもって五蘊は我に非ずと否定しきれるのかどうか よくよく思惟しなければならない
>>662 有身見ではないよw
見えてないな
>>663 そのうちわかりますよ
そういえば 本質は意識だ 的な話は相当悩まされたなー 不二一元論とか非二元とかアドヴァイタ(?)的な話 それを経験してもそんなに変化しなかったんですよね 結局 普通の生活に戻ると苦しいのは何だかんだと変わらず残っているし もっと徹底したものだったら変わったのかもしれないけど それに比べると縁起 無我 無常の認識の瞬間はこの意識さえ何かに依存して発生していることがハッキリわかった でも非二元で徹底した人の話なんかを聞くと意識が残るかどうか以外は 仏教とそんなに変わらないような気もするし あ 非二元の人は転生肯定も人が多いような気もするな
>>664 身体感覚も意識もふくめ、まるごと観ている自分が居るでしょう
そうでなかったら観察なんか不可能ですよ
>>667 全く他意なく純粋に見解に興味があるんですけど お聞きして良いですかね? まるごと観ている自分は波動砲のようなもので一瞬にして体を完全にチリも残さず破壊しても残りますか?
仏教でいう有身見は、
・私は過去に存在したのか? 昔の私は誰だったのか?
・私は将来も存在するのか? 将来の私はどうなっているのか?
・これは私であるのか? これは私ではないのか?
・私は何なのか? 私はどうなっているのか? 私はどこへ行くのか?
このような間違った方法で考えるものは、これら6つの見(ディッティ)に至る。
・私は自己を持っている
・私は自己を持っていない
・私の自己と知覚しているものは、それが自己である
・私の自己と知覚しているものは、それは自己ではない
・自己がないので、私の自己は分からない
・これこそが私であり、私の自己は一貫している
要するに、どのようにであれ、本来存在しないはずの自己を妄想した時点で間違い
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%90_ (%E4%BB%8F%E6%95%99)#%E6%9C%89%E8%BA%AB%E8%A6%8B
要するに、どのようにであれ、本来存在しないはずの自己を妄想した時点で間違い この見解も五蘊によって成されたものだから有身見として否定されなければならないことになる
んなこたぁない それなら諸法無我は邪見か 何によって成されたかではなく、何についての見解かが問題 自己に関する見解は邪見 なぜなら自己は本来存在しないから 自己があるとか無いとか、観察しているのが自己だとか、五蘊が自己だとか、が間違い
>>671 >自己に関する見解は邪見
>なぜなら自己は本来存在しないから
>自己があるとか無いとか、(中略)が間違い
2行目と3行目は矛盾してます
>>672 それはよくある間違い
「自己は無い」だと自己という存在を認めたうえで、それが無いことを言う
諸法無我はそうではなくて、自己は概念、錯覚であって、有るとか無いとか言う事自体が本来問題にならないという事
>>669 でも有と無の両方の見解を否定している
>>672 それはよくある間違い
「自己は無い」だと自己という存在を認めたうえで、それが無いことを言う
諸法無我はそうではなくて、自己は概念、錯覚であって、有るとか無いとか言う事自体が本来問題にならないという事
>>669 でも有と無の両方の見解を否定している
>>674 >
>>669 でも有と無の両方の見解を否定している
なのに
>>669 の最後は
要するに、どのようにであれ、『本来存在しないはずの自己を妄想した』時点で間違い
で締められており無の見解で終わっている
わたくしといふ現象は. 仮定された有機交流電燈の. ひとつの青い照明です. (あらゆる透明な幽霊の複合体). 風景やみんなといつしよに. せはしくせはしく明滅しながら. いかにもたしかにともりつづける. 因果交流電燈の. ひとつの青い照明です.
ふふ 面白いですよね この辺のお話は 専門用語が難しいけどw 自己はあるんですよ 現象として その現象を自己と名付けているんですね だから将来どこからどう見ても人間にしか見えない超A.Iアンドロイドができた時には 生命がないのに自己(個性 自我)があるややこしい存在が誕生するかもしれませんよ アンドロイドに自我の存在を尋ねたら 私には自我がありますよ そういう風にプログラムされてますから と答えるかもしれません 500年後ぐらいにw 逆に赤ちゃんを生まれた時から暗闇に隔離して 生命維持だけで何も刺激を与えなかったら生命があるのに自己がないということも言えますけどね
>>669 ありがとう
やはり観察者は有身見ではないな
ん?「本来存在しないはず」? 「はず」ってなんですかね、それは妄想では そうでなく、観察者は居ますよ
自分が瞑想しようとおもって瞑想して自分を観てる 自分以外に誰が自分を観てるというのかね?
悟りの智慧が考えて分かるはずがない 命懸けで修行して始めて理解できる 多くの修行僧が挑戦して破れていった ちなみに自己だけでなく、「観察者」とか「トマト」とか「大根」とか「こころ」とか 全ての存在に実在が無いのが無我 それに気づくとブッダへの尊敬、信頼が確定するという
命懸けの人、いつまで経ってもシンキングマインドでしかない 永遠の一闡提
永遠不変の私は存在しないが 個体性は存在する だから仏陀だって自分のことを私という そういうこと
トマトも大根もほっときゃ腐ってなくなるし心も揺れ動いて変化していく 何もそのくらいのことで死にもの狂いになんぞならんでいい
だからそんな単純な話じゃない 仏陀も無い、自分も無い、個体も無い、トマトも無い、心身も無い、生と死も無い世界を観れば、苦しみが全く生まれない 恐ろしく崇高で微妙で人知を超えた境地 出家は全てを捨ててそこを目指してる 地位も名誉も財産も家族も仕事も捨てるだけの価値があると言われている、その涅槃の境地は
宝の山とか夢の国みたいな話が好きなんだね 価値なんかないよ 世間にある価値とは別の世界
ど根性の果てに経済的成功をおさめて幸せになる みたいな物語をそのまま仏教に当て嵌めた理解しか出来ない業の持ち主には涅槃は到達不可能じゃねいかな
意図して観察している自分ではないです、観察者は 意図して瞑想の状態になれば、観察者が観察してることがわかる わかります?
一切は苦である、無価値である 諸法は無我である、概念上の存在には実在は無い ただそれだけ
実在がないというのを、まったく無いと解釈してしまうのは違うだろう 永遠不変の状態では存在してないということ 生成消滅しながら現象はあり続ける 上にある宮沢賢治の詩がそれをよく表現している 段滅論は断見=邪見
まあこの辺の話で事実を突き止められるのは 色々と犠牲にしても最後まで突き進んだ人なので そうでない人は娯楽の範疇に留めておきましょう UFOはいる いない いや 俺は見た いや 俺はそれに乗ったという話と同じですから 本当の事実がわかる人は 着々と飛行機の免許を取り 自家用機を何とか手に入れ 遭遇場所を調べ 諦めずに毎日のように調査して費用も工面して行動を起こします 例えUFOと遭遇しても音や画像を精密に分析してそれは何であるのか UFOに乗ることが出来て中に宇宙人がいたとしても 内側の壁を剥がしてどういう構造なのか ただの宇宙人の着ぐるみでないか 精密に調べたいと思うでしょう UFOを目の前で見たからと言って満足しては危ないのですw
宮沢のケンディの作品は日蓮宗の教えを物語にした物らしいですね 日蓮宗は嫌いだけど正しい気はするんですよね、本質的には 新宗教も伝統宗教も好きなんですけど正しい宗教ってかなり少ない気がします まあ、その中でも正しく教えれる宗教なんて稀有だと思います 宮沢のケンディの言葉なら「世界中の人が幸せになら無い限り個人の幸せはありえない」って言葉が好きです 後、ケンディの親族(宮澤商店)が花巻を牛耳ってて地元じゃ評判悪いのも好きです 結構ケンディ好きで、生家の井戸が公開されたら結構見に行くんですけどおじいさん(甥?)普通に優しい人でした ケンディと言えば童話村の向かいの花巻博物館で毎年多田等観展やるんですけどね、チベットで修行した人でダライ・ラマ(先代)と仲良かったらしいです で、日本に帰る時に「何か欲しい物とかある?」って聞かれて「ブンシャカムニムニの生涯を描いた絵(国宝級らしい)って言ったんです。」けどダライ・ラマさんは悩んだ末に断ったんです。 でも、死ぬ時に「やっぱりこの絵をあげて欲しい」って側近に頼んだらしいです。 そんな凄い絵なんですけど、空襲だなんだのドタバタデ1枚紛失だったかな? 後、道程の高村光太郎の手紙がありました。なんかこっちに疎開してたらしいです。
メンタリストのdaigoさんが動画の中で「マインドフルネスは凄く良いけど足を組む理由はないんじゃないかな?」って言ってましたけどどう思います? 血流とか悪くなるしどうなんだろう?って話でしたけど自分もあまり得意じゃないって言ってたしなんか足を組むのを否定している人ってただ単に自分が組めないからバイアスが働いてるだけな気もします まあ、私は組んだ方が良い場合もある気がしますけど科学的根拠(エビデンス)が無いんじゃないかと? とは言ってもヨーガでも瞑想でも理由もなくあの姿勢をとってる訳もないし
>>690 そのことは良くわかりますよ 体が勝手に自分の意思とは関係なく動いていてしかも混乱なくきちんと動作しているのをただ思考なく眺めるだけ 面白いですよね
ただその現象をどのように解釈してどのような価値を与えるのかが問題で 無限永遠に繋がるようなものなのか 生理的なただの現象であるのか 神様がびっくりさせようとして悪ふざけしたのか 映画マトリックスの世界にいて何らかの障害でそうなったのか
苦しい気持ち 知りたい気持ちが残っている間はまだ探求する価値があると思います 無くなったならこれほど幸運なこともないでしょうけれど
>>695 マインドフルネスに直結する話ではないんですが 体内部の気 エネルギー的な何とも科学的でない得体の知れない感覚と関連して語られることもあります(痛い目みた)
また精神統一 集中力と関連して話題にのぼることもありますね
経験的には座り方 印の組方 自分なりに発見はたくさんありましたけど 結論としては座り方より観察の精度 集中の度合いの方が遥かに大事な気がします
段階によっても瞑想のしやすい環境が変わると思うので 色々試してみては如何でしょうか?
>>692 ひとつ忘れてた
現象は諸行無常ね
無常たるものは有でもなく無でもない
常見でもなく断見でもない
観察が出来て「苦しい気持ち」が残りますかね それはわたしとかの言ってる観察者ではないのではないかな けれど、これはなにも特別なことではなく どなたも今ここで観察者の自分は生きてると思いますけどね 矛盾してるように思うでしょうけど
生滅する眼耳鼻舌身意の中には何も存在しない 「観察者」とか「自分」という妄想があるだけ
感覚の集合について、過去のものを捨て、未来のものを捨てると現在の一瞬だけ残る 現在の一瞬の感覚の集合は「ここに感覚が有る」と思う心が起きた時にはもう消えている 結果どこかに何かが存在していると言う事はできない ゆえに一切は空である、一切は虚妄であると説かれる
>>702 消えてもまたすぐ生まれるでしょ
経験我は生成消滅しながらある
事実あなたは消えてなくなってはいない
自己ぎりの自己をあなたは生きている
>>703 消えてから次に生まれたものは別のもの
業によって生まれ業によって消えている
今の瞬間の業は次の瞬間の業ではない
業により六根は生滅しているが、そこに「わたし」は無い
「わたし」が無いから「生きる」ということも無い
「生きる」が無いから「死ぬ」も無い
ただの六根がキラキラしているだけ
「何がどうしたからどうだ」と言う事は余計
ふふ やっぱり面白いですね というか意見の違いがわからない 全く同じ意見のように思えてしまうw 相違点は何なんだろうか? 現象としての自己感覚に名前をつけるべき つけるべきでないってはなしなのでしょうか?
現象に執着してはいけない、というか執着できないということでしょうね、あまりにも無常は速すぎて 名前をつけて「これがわたしだ、わたしのものだ」とやると執着が、我が強化されてしまう 気づきが十分に速い場合は、本来名前をつけられるものではない事が分かる ちなみに断見は因果の結果は無い、死後は無いとする見解 実際には因果はある、業がある限りは現象の生滅はある、業が尽きれば現象の生滅も無くなる 生滅する六根に対して名色に対して、これは私のものであると執着しないでいられたら、いずれ業は尽きる
>>700 わたしは存在とも言っていない
言っていないことを断定されても困りますね
どうやらあなたには観察者がわからないようだ
>>708 分からないですね
本当に観察している時は観察の対象も無いし、観察している主体も無い
観察しているという意識もない
ただ生滅する現象に気づいているだけ
便宜上「観察者」「自分」と表現しているだけであって 言葉にしたら存在を示している、とおっしゃるなら仏法は理解できませんね それはおわかりかと思いますが
>>709 その気づいているのが本当のあなたで観察者ですよ
わたしの言葉で言うと
>>711 例えばゲームをやってて、もう少しでラスボスを倒せる、真剣勝負の時
「わたしがゲームをしている」とか「ここにゲーマーがいる」などは考えずに
ゲームの主人公と一体になって集中してるでしょう
観察瞑想も、真剣に、妄想せず、六根全てのどんな小さな変化も見逃がさない、という気持ちでやれば
観察者とか、わたしとか、気づいている主体がいるという意識は無くなります
要するに有身見が無くなります
預流果に悟ります
>>707 ありがとうございます 瞑想していた時の臨場感が何故かありありと蘇りましたw
そうなんですよね 観察系の瞑想のキモは生滅の瞬間のプロセスをたった一回でも良いのでハッキリと観ることなんだなと納得した記憶があります 生滅全体の様を観て固定した自分は無い!というルートの方が全体としては多いらしいですね
そうなんだよなぁー 執着できなくなる 執着が続かなくなる 執着するのに凄く労力が必要になる 記憶装置に強く残らなくなるんですよね
今は何かがムズムズとして動き出す瞬間(恐らく無になりたくない)と消える瞬間をダラーっと観察してます また色々教えて下さいね
なに言ってんだ ゲームの主人公と一体化してるのが妄想にとりつかれた状態だろ
南伝大蔵経16上 相応部経典5 で仏陀は、我は無いというのは段滅論者と同じだと言っている 仏陀は我の有無に関しては無記という立場 無我という言葉から我がないと説かれていると思うのはありがちな勘違い もちろん無記だから我があるなんてことも言ってはいないが
相応部の何経か分からないですけど 我の定義としては永遠不滅の固定した実体という意味で それは断言的に無いです 自灯明、法灯明は四念処を実践し、自分の五蘊の中に、無常、苦、無我を発見せよという意味です
つまり 永遠不変の私は存在しないが 個体性は存在する だから仏陀だって自分のことを私という ということだろう
阿羅漢には慢が無い 個体、個人という意識が無い 生滅変化する五蘊に対して、便宜上、言葉の上の表現として「わたし」という単語は使う
阿羅漢だろうが特定の個人と同じものを他の阿羅漢が同じように目にすることは出来ない 内山興正老師いうところの「自己ぎりの自己」をすべてのものが生きている
それはそうだろうね 結局は自分の世界しかない ただ阿羅漢はその自分の世界の真実を見極めてる 何も無いんだと それだと話ができないから、「わたし」という言葉を使う 液晶テレビにライオンが映ってても、実際は光のドットが点滅しているだけ そこにライオンは居ないけれど、ライオンと言わないと話ができない
>>721 意味が解体された生成消滅する現象は見えているだろう
何も無くはない
アーナンダ経は対機説法 我見がある人に、無我と説くと断見に陥いってしまう 「私が思う我が無いとはどういうことだろうか、死後は何もないという事だろうか」となる まず「私が思う我」が間違っている事、存在しない事に気付くには瞑想しなければいけない 我見の否定は断見、我見が無くなるのが無我
>>725 その我見がある人にとっての我というのは不変の我ということでしょう
固定された我がないというのは何度も借り換えされとおり
そうではなく、生成消滅する現象までないと言うのは輪廻もないということだから段滅論になる
>>723 生滅する現象も現在の一瞬しかない
現在という時間を無限に小さく観れば、ゼロになる、空になる
>>728 消滅する点の話ではなく
生成消滅する現象全体の話だよ
空は有る、無いという意味ではなく、認識できない、捉えられないという意味 無我も、我が有る、無いという意味ではなく、我が実体の無い妄想だと知っている、我を妄想しないという意味
時間軸において、現象の存在を考えるのは妄想 過去は存在しない、未来も存在しない、現在は存在し得るが 空であり捉えられない、幻のようなもの 過去、現在、未来において妄想せず執着しなければ解脱する 輪廻が無くなる
そこで言われている我というのは脳の分泌物レベルの話でしょ 極小の点は捉えられなくても縁起は世界から消えない
心が過去、未来だけでなく、現在の瞬間すら捉えられないと分かれば、現在にすら執着できない 無執着の心は業を作らない 業が無くなれば輪廻も無くなる
>>731 時間軸において"考える"から妄想なんでしょう
考えなくても"いのち"はある
我は脳の分泌物、妄想、我が有るという見解、実体は無い しかし最悪の分泌物で、輪廻の原因 しかも頑固でなかなか無くならない
>>735 いやいや
現実に気づきの速度を極限まで速くすれば、現象が無くなるポイントに達する
それが涅槃
現実に行、サンカーラ、現象、六根が無くなる
>>737 現象じゃなく意味が消えるんじゃないの
自我は消えてもいのちはあるよ
命根について
>花を見ると、花を見た瞬間だけその心が生きていて、それはすぐに死んで次の新しい心が生じます。
>たとえば花を見た次の瞬間に、昨日のことを思い出したりするのです。花を見た心と、昨日のことを思い出した心は、全く違う別の心です。
>心は、その時その時、一瞬の命を持って、死んで、生まれて、また死んで、それをくり返していくのです。
>一般的な「死」の概念とはずいぶん違うのですが、それこそが仏教における「死」の概念なのです。
http://www.j-theravada.net/pali/key-cetasika-phassa.html 脳が勝手に活動してるのは、ちょっと瞑想すれば誰でもすぐわかるだろう だから何だ
>>737 ほう、その君の説を担保するものを持ってきたまえ。
全部私の妄想です、とならないためにも。
>>712 わたしは悟らなくてもいいんです
阿弥陀様を信じてますから
「観察者」=「本当の自分」と表現したものは意識でもないことは既に述べました
「観察者」を「自分」と読んでいいものか疑問であることも述べました
何もかも見ようとするのではなく、見える状態ということも述べました
しかしそれが涅槃かそうでないかはわたしの興味の範疇外です
元々、「観察者」という紛らわしい表現を用いたのは
観察者から観察すれば「苦しい気持ち」が残ることはない
その観察がヴィパッサナー、マインドフルネスではないでしょうか
と言う問いかけのためなのです
>>743 横からですが 経験からいうとマインドフルネス ヴィパサナといっても特別に観察者を想定する必要はないと思いますよ
実際問題 観察者(の視点)はそれほど重要ではなくて その時に瞬間的に発生する理解 智慧が起こって始めて力が抜けて楽になるって具合です
実際に観察者のような状態に複数回なったとしても 理解が起きなければ心境的な変化はそれほどありません
逆に観察者の視点でなくともある程度瞑想が進んでいれば 瞑想の最中でなくとも音を聞いたり何かを見た瞬間にそれが縁となって理解が起こる場合があります
色々です
またやってるw 自分はこうならないように心がけようw
自分は単純に気持ちや思考を観察していると、それらも無常だとわかってくるくらいのレベルかな 観察者とは何ぞやとか追求するのはレベルの高い人なのかもしれないけど、それっていつか わかってくるものであって、イチイチ考えるのは面倒じゃないですか?
今年もマインドフルネスで幸せな年でありますように 今年もマインドフルネスで悩み苦しみフリーでありますように 今年もマインドフルネスな年でありますように
何も存在しないし生も死もないというなら高速道路でダンプを正面から受け止めてみてはどうか
>>747 そう、わかってくるもの
別に答えだそうとしなくていい
智慧というのは有為法である心所にあり形成されたものである 故に無常であり苦であり無我である 智慧による観察もまた無常苦無我である
>>747 そう、わかってくるもの
考えて答をだそうとするものではないね
答えは出てくるもの
失礼 書き込み失敗になってたけど書き込まれてた^^;
>>752 その答えも無常である。無常なるものは苦である。苦なるものは無我である。
無我なるものは、わが所有 (もの)にあらず、わが我( が)にあらず、またわが本体にもあらず。
まことに、かくのごとく、正しき無我なる智慧をもって観るがよい。
靴箱(大長老)ってさ 愛らしいニックネームだよねww
他人からはそう思えても本人には死ぬほど辛いことかもしれない ただどちらにせよただその人の主観の解釈で観念なんだよね 言葉はただの言葉 文字はただの文字
自分の中では長老=かわいい、のイメージだからかな 靴箱もキュートだし 靴箱先生は悟りを開いてるということだから ニックネームくらいで辛いなんてことはないですよね 辛いなら来なくていいし
愛情を持っていて相手のためにもなると思う言葉ならいくらでも言えばいい 相手が傷つくかもしれないと思えるのに言ってるならそういう性格ゆえに自分の修行も普段の生活も全くうまくいかない辛い人生だろうがそれは自分のせいなので仕方ない
被害者意識だけは人一倍? そんな、お悟り開いた方であらせられるのに?
>>745 の何となく補足
なお 自分は観察者 見るだけの純粋意識 全体性の一部であり全体でもあるという経験自体が物凄い解放をもたらす という方向性もあります
確かに視覚的に非常に面白い変化があって体が認識できなくなります 海外などで あなたは既に悟っている とよく言われるフレーズはこちらの体験でしょう
どちらにしてもどこまで徹底したものを求めるのか そしてその手段の話ですので どちらが良い悪いの話ではないと思います まあ原始仏教は徹底し過ぎていてえげつないとは思いますが....
>>743 余談ですが専修念仏と只管打坐は対極でありながら似ているとよく言われます、私もそう思います。
万法すすみて自己を修証するはさとりなり
http://josenji.net/jousenji0725_09.html ↑にその類似性がサラッと書いてあります。
書いてないことでは、道元と一遍が特に近いと思います。
道元は坐禅をしているときは仏、
一遍は念仏が念仏をするとして念仏して阿弥陀仏と合一して煩悩を明け渡して手放す。
どちらも行ずるその時は仏となっているという思想は同じですね。
仏教は無我と慈悲がセットだけども、それだけだと変人しか集まらないんだよね 無我と慈悲をセットにすると自我が満たされるのだということをもっと謳わないな
宇宙の真理みたいなもんじゃないか そこで他力が活きてくる
観ている者?観ている者?と訊いてる人は何を観ている者? 自分が瞑想を終えた時 観ている者はどこに行くの?
>>765 また云(いわく)、世の人おもへらく、
「自力・他力を分別して、わが体をもたせて、われ他力にすがりて往生すべし」と云々。
この義しからず。自力他力は初門の事なり。
自他の位を打ち捨て、ただ一念、仏になるを他力とはいふなり。
(一遍上人語録)
念仏を唱えている時は仏であり、そこには自他の分別はなく、主体と客体を分けたりもしないというのが一遍の思想ではないでしょうか?
禅も主客を分別しないという点では同じところがあるのではないかと思います。
詳しくは↓のページをご覧ください。
https://www.lifehacker.jp/amp/2018/01/book_to_read_mindfulness.html 他力本願は思いは手放していくということで禅と通底するところがあって 歎異抄はマインドフルネスを阿弥陀如来の他力と仮定した説明の仕方と見ることも出来る
弥陀仏は自然のやうをしらせん料なり。この道理をこころえつるのちには、この自然のことはつねに沙汰すべきにはあらざるなり。
誰が観ているんだろう?って振り返るからひとつの事実を主客に分解することになる 観察者はいるのかな?と思ったときは必ずいるよ 雨だれポタポタは、誰が聞いているかに着目して認識すれば、観察する者が雨だれポタポタを聞いている、になるけど それまでは、雨だれポタポタは雨だれポタポタというひとつの事実にすぎない
そうどこにも行かない 瞑想したらどこかから「観ている者」が来たり 瞑想が終わったらどこかへ帰るなんてことはない
変わらないものは何もない、すべては無常、生まれ変化し消えるという現象がつづく というところでなら命もあろうが ひたすら何にもない なんてところに命があるんだろうか
そうは言いながらも毎日メシ食ってウンコしながら生きてるわけじゃん
何にもないという願望だけで押し切れるものか 甘いわ
体はあるけど意識がないんだろう 実感とでもいうのか
意識というより認識か 認識論とかそんなんじゃないか 無の認識論
そもそも釈迦は無常とまでしか言ってないのでは 何にも無いなんて言ってるの?
『無常』とは『無情』でありレ・ミゼラブルである。 何もない事を逆から見れば何でもある状態であると言える。 戸塚ヨットスクールの校長の動画で「空を語れぬ坊主ども」みたいなのがあったと思う。そうだけどそうじゃない。 真理はドイツ製で、だけど日本製、それ位の認識。アイキャンセイ。くぎゅの「あーよかった」はヤバイ。破壊力が。 どうでも良いけどお笑い動画を見ながら瞑想すれば、同じネタでも何回も笑える。
この議論は何について大昔議論があって 自分に照らし合わせるとどういう問題なのかがピンとこないですよね 各人思考のプロセスが違うし理解力も問題意識も違うので 議論の流れは大雑把にいうと 永遠に生まれ変わる魂があるかないか 生命の中には命の核 これこそ自分であるという核があるかという問題です 現代日本では科学的思考が優位なので 換言すると 自分がお腹すいた とか あの人が好きだな とか 目に写っている映像を認識するとか そういう自分という感覚の中心には確固とした自分という一塊の物質や意識体のようなものがあるのかどうか 自分という感覚の正体は何なのか?そう理解すると整理しやすい人もいるのではないかと思います
無我って永遠不滅の魂は無いって意味だよな そんなの今時信じてる人いない ブッダの時代は知らんが
本来、仏教徒は、釈尊にならい、目覚めた人(ブッダ)になることを目指す。
目覚めた人になることは、煩悩と苦しみの渦巻く輪廻の世界から解脱することであり、それによって得られた平安、寂静の境地を涅槃という。
従って、仏教は、すくなくとも釈尊の教えはそうなのであるが、第一義的には、厭世を促す教えである。
いや、仏教は、第一義的には、現世をよりよく生き抜く智慧を与える教えであり、厭世とは程遠いと主張する仏教徒、仏教学者が今日たくさんいる。
しかし、かれらの主張は、大乗仏教、密教、そしてまた、明治以降、キリスト教に対抗しつつ、あるいはそれに学びながら形成されてきた「近代日本仏教」から出たものであり、釈尊の教えに直結しているとはいいがたい。
初期仏教の修行の道筋は
(a) 揺らぐことのない厭世観を確立してゆくことで、
(b) 生存欲の根と種を徐々に枯らし、
(c) 次の再生の条件が断たれた時点で、
(d) 自己の解脱を自覚する(解脱知見=輪廻から脱したことを自覚する)
こうしてみると、仏教が最終の目標とするところは、そして釈尊その人が到達したところは、生存欲を断つことだということになる。
これをわたくしは、「生のニヒリズム」と呼ぶことにしたい。
生のニヒリズムに到達した者は、当然のことながら、この世に生きることに何の意味も見いださず、したがってまた、なんの価値判断を下すことがない。
釈尊が、世間のものはすべて虚妄であるとか、幻であるとかいっているのは、そこからする当然の帰結である。
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釈尊はここで、いわゆる「存在論的に世界は虚妄である」といっている(存在論的ニヒリズム)のではなく、意味論的、価値論的に虚妄だといっているのである。
『仏教誕生』宮元啓一著、ちくま新書
大乗思想批判:『仏教誕生』、『ブッダ─伝統的釈迦像の虚構と真実─』
http://www.geocities.co.jp/Technopolis/3138/book_review_miyamoto1.html より抜粋
>>795 少なくとも日本では 多少のスピリチャルブームや宗教の影響はあるものの 概ね魂のようなものはないという意見が多いと思います
しかし脳神経系が主要な自分であることなどを十分知った上で 極少数の変わり者が瞑想の世界に入っていきます そして理解するんですね 永遠の魂がある ない 脳が自分の本体である ない
そういうレベルの話では無かった そういう意味だったのか...と 確かに縁起 無我 無常(仏教)に他ならないと
確かに脳が全部処理してるとしたらこの世は幻かもな 全部脳神経の処理データに過ぎない
>>792 次に、パオセヤドーは「無常故に苦、ではないので、無常と苦をいっしょくたに結び付けない事」と注意されます。
http://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2013/11/21/213149 また
パオ・セヤドー問答集~#353~#366問答(16)問16-73-16-86<証悟涅槃編>14編。
問16-81 涅槃とは、常、楽、我であると言いますが、これは正しいですか?
答16-81 正しくありません。涅槃は恒常で、かつ寂楽ですが、しかし、無我です。
《法句経》の中で、仏陀は言いました:「諸行無常;無行是苦ママ、諸法無我」(Sabbe saṅkhārā anicca;sabbe saṅkhārā dukkha;sabbe dhammā anatta )
諸行とは一切の色法、心及び心所を含みます。
そして、諸法は、諸行を含む以外に、涅槃と概念法を含みます。
あなたは以下の事に、特に注意しなければなりません。
仏陀は諸行無我と言ったのではなくて、諸法無我と言ったのです。
諸行は無常・苦・無我ですが、涅槃は常、楽、無我なのです。
http://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/10/11/121352 この問答集から苦だから無我というわけでもないらしい
http://www.bukkyouoshie.com/budda/mujyoukumuga.html 無常、苦、無我って悟らないと本当の意味は分からないんだって
ここで無常だ無我だって言ってる人は悟ってるってことだな
もしくは知ったか
そのリンク先の人もその人が思ってる事、考えてる事を書いてるだけ 正しいとは限らない
>>802 色んな人がいるとは思いますけど 無我 無常 縁起が瞑想でわかった人は現代でも沢山いると思いますよ 難しい宗教の言葉や概念を全く理解する必要も無く ただちょっときつ目のクラブ活動程度の労力で理解可能です
前にも書きましたが一流のスポーツ選手とか大統領とか それと比べると遥かに労力は少ないと思います
恐らく甲子園出場を本気で目指して3年間突っ走るぐらいの熱意と労力と同じぐらいか もちろん静かな決意で長い時間かけても同じことだとは思いますけど
≪むかし、空也上人へ、ある人、念仏はいかが申(もうす)べきやと問ければ、「捨(すて)てこそ」とばかりにて、なにとも仰(おおせ)られずと、西行法師の撰集抄に載(のせ)られたり。 是誠に金言なり。 念仏の行者は智恵をも愚痴をも捨(すて)、善悪の境界をもすて、貴賎高下の道理をもすて、地獄をおそるる心をもすて、極楽を願ふ心をもすて、又諸宗の悟をもすて、一切の事をすてて申念仏こそ、弥陀超世の本願に尤(もっとも)かなひ候へ。 かやうに打あげ打あげ(注:高く高く)となふれば、仏もなく我もなく、まして此内に兎角の道理もなし。 善悪の境界(注:現世、生き死にする輪廻の世界)、皆浄土なり。外に求(もとむ)べからず、厭(いとう)べからず。 よろづ生(いき)としいけるもの、山河草木、ふく風たつ浪の音までも、念仏ならずといふことなし。 人ばかり超世の願に預(あずかる)にあらず。 またかくのごとく愚老が申事も意得(こころえ)にくく候はば、意得にくきにまかせて愚老が申事をも打捨(うちすて)、何ともかともあてがひはからずして、本願に任(まかせ)て念仏したまふべし。 念仏は安心して申も、安心せずして申も、他力超世の本願にたがふ事なし。 弥陀の本願に欠(かけ)たる事もなく、あまれることもなし。 此外にさのみ何事をか用心して申べき。ただ愚なる者の心に立かへりて念仏したまふべし。 南無阿弥陀仏≫ (一遍)
仏随念とはブッダの徳(例えば人間、神々、梵天達の尊敬に値する阿羅漢の徳のような)に思いを凝らして、それを敬うことです。
この修習はどのように行えばよいのでしょうか。ブッダは戒、定、慧による聳え立つような気高い徳に満ち満ちているのだから、
ブッダを敬えば善趣天界に再生し、そこで幸せになれるだろうと熟考すればよいのです。また、阿羅漢の徳を持っているため、
ブッダはそのような尊敬に値するのだと熟考してよいでしょう。
ブッダの持っているもう一つの徳は、――まさにこのことによって、この上ない覚者と言えるのですが――他の助けを借りることなく、
自力で四つの貴い真理(四聖諦)を発見したことです。この徳によっても、ブッダは特別な尊敬に値するのです。
他によることなくすべてを知り、輪廻の苦しみからの解放のために、あらゆる存在に教えを説いた故に、
彼もまた“ブッダ”(覚者)であるという美徳を授けられているのです。この真実にも思いを凝らさなければなりません。
仏教徒として、ブッダを尊び敬うたびに、仏随念を実践していることになります。
http://www.geocities.jp/bodaijubunko/h/mahasi.buddha.htm 『悟り』の定義があやふやだけど、記事を読む限りだと別に不可能ではなさそう。 『悟り』にも4段階あって、その中の1段階目でも『悟り』とみなす!って事? まあ、自分が思うに、悟りってもっと複雑で、それは順を追って得られるとは限らないんじゃないかと? 4段階ってのは仏教のあれ、ポルカ・オドルカ的な奴。もっと前段階の奴を『悟り』としている気もしないでもない。 これが見解の相違でありエスカレートすると戦争に発展するとかしないとか。
「真如観」(ありのままを観ずる、そのままをヴァパッサナーする)
「空観」(空・無を観ずる、何事も空だと観ずる)
この二つは、仏教の歴史を貫く「はやりもの」だと思われます。
法然上人は、「いわゆる自力的な修行により、個人の能力を高めていく・・・」というような有り方とは、全く別次元のものを明確にした、仏教史上、実に画期的な人ですが、
「念仏」において法然上人の先駆者である恵心(源信)においても、そして法然上人の弟子たちにおいても、「はやりもの」であったようです。
法然上人の弟子が、「真如観」「空観」に関して質問したのに対し、
いかに法然上人が答えたかを引用します。(「百四十五箇條問答」から)
・意訳
(弟子の質問)真如観はすべきでしょうか?
法然上人が答えました。「これは恵心(源信)が説かれたとのことですが、悪い物です。私たち衆生は、そもそも真如観をできないですし、
(仮にできても)往生のためになると思えませんから、無益です。」
何という簡潔で明快な答えでしょうか。
現代でも、特に、ここ10年くらい、「真如観(ヴィパッサナー瞑想)」がブッダのした「観」(瞑想)だとして、かなりはやっているようです。
同様に12世紀、法然上人の時代にもはやっていました。
いったい私たちは何をしているのでしょう?
「真如観」とか「ヴィパッサナー」とか、「何とか観」をして、いったい何を求めているのでしょう?
何かの練習をしているのでしょうか?
本当に自分は、何を求め、何をしているのか?
よくよくその問いに自分自身が立ち返らないと、必ず、「はやりもの」に流されてしまうように思います。
https://blog.goo.ne.jp/tensho-ji/e/e924b82c35094d221fd41840e11185d2 へー 2500年の歴史があるヴィパッサナーははやりものだったんだ つい最近だもんね、2500年て
瞑想する時に釈迦如来像を置いているんだけど もう一体、釈迦像買ったらダメかな? 宗教的にはどうなんでしょう? インテリアとしてならOKとか、マインドフルネスだから大丈夫とかありますかね?
パオ・セヤドー問答集~#315~#325>問答(16)問16-45~16-55<四護衛禅編>11編。
http://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/10/09/185835 問16-45 禅師にお尋ねします。《清浄道論》では、仏随念に関する説明で、仏像を観るようにとは言っていません。
どうして(禅師が)指導する時は、修行者に先に仏像を観るようにと、言うのでしょうか?
答16-45 《旗幡経》(Dhajagga Sutta)の中で、仏陀は
「厄難に遭遇した時、よく私を思い出して下さい。その後に憶念します:世尊は確かに阿羅漢、正等正覚者、明行足、善逝、世間解、無上調御者、天人師、仏陀、世尊です、と」
と言いました。
故に、仏随念の修行を始める前に、まず仏像を観じる必要があります。
そうでなければ、阿羅漢などの特質が、一体誰のものか、分からないではありませんか?
仏陀の時代の人々は、当然、仏陀の本当のお顔とお姿を見る事ができました。
だた、今は、仏陀はすでに入滅されていて、我々は仏像を観て、仏陀をしのぶより他、方法はありません。
どちらにせよ、我々は修行の始まりの段階で仏像を観ますが、仏陀の特質に専注する時、当該の仏像(のイメージ)は消えますから、何ら問題はありません。
http://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/10/09/185835 早速のレスありがとう! 問題ないということね。 もちろん二つを同時には並べたりしません。 一方は見えないところに安置します。 今もっている金属製のに比べて、素朴で簡素な石造りなんですが 姿勢や表情が自分のイメージそのもので感嘆してしまった。
お守りとかも2個以上あると神様が喧嘩するとかって言いますよね まあ、そんな縄張り争いみたいな低次元で揉めるような神様なんて神様でもない気がしますけど 神話とか結構神様同士の戦いとかあるしなんとも言えないけど お寺とか神社に行けば分かるけど複数個仏像おいてあるのは普通だし喧嘩はしません、多分ですけどね 書いてて思ったんですけどアジアンショップとかそれこそ色んな宗教の仏像とか置いてるじゃないですか?でも潰れない所は潰れないですよね?そう言う事でしょう パヤオ・セドーさんもプラユキさん的な人?って思ってたらパセオ・ヤドーなんですね。外国人ですか? ネルケ無法さんはドイツ人みたいだしもう訳が分からないですよ。 まあ土曜日に3連複当てたし暫く頑張れそうな。
こういうガンダーラ美術っぽい仏像が欲しい
ガンダーラ石仏のモノホンは、正直相応の施設(邸宅?)じゃないと厳しい気がします。 すんごい高いし、ポキッといったらと思うと恐くてそこらに置いとけないよね。
俺も理屈っぽい性格だから、このスレや仏教書に書かれている仏説についての
あれやこれやは興味深いし、それぞれに共感も理解もできるのだけれども
複雑すぎて、頭の中で整理できなくなって
最近そういう議論自体が強烈な煩悩になってきている。
正直、瞑想していると雑念として沸いてくるんだが…
とりま瞑想したい。
>>825 朝がいいらしいけど、仕事前は時間無いから夜やっている。
暗くしてロウソクつけて、インド香焚きながら、釈迦像を奉った我流の祭壇の前で1〜2時間ぐらい。
ヴィッパサナーのつもりなんだけど、呼吸に集中したり、気づきを入れると雑念が消えてしまう。
これたぶんサマタになってる。
正直、中学生の頃、一日中空想に耽っていたときのほうが、よく自己を観察できていた気がする。
ヴィッパサナーはかなりレベルの高い修行者がやるものだったらしいけど、なるほどかなり難しい気がする。
ただよく分かってきたのは、多少無理しても結跏趺坐は必須だね。
痺れたら半跏まで崩すけど。
姿勢(坐骨が上向く感じ)、呼吸と腿の血流が格段によくなるよ。
胡坐はダメだ。姿勢と呼吸が乱れて、あっちゅう間に妄念掛け流しになる。
これはどういうことか最近考えてるんだけど、呼吸が止まると生物としての防衛本能が働くんじゃないかと。
精神分析じゃないけど、自分を守ろうとすると、物事を分析したり、やることリストを確認したり、虚仮にされたことを思い出して怒りが湧いたりする。
おいおい、結跏趺坐やあぐらすらできない高齢者、股関節に障害を持つ人間はダメダメ認定かい
ずっと胡坐だったんだけど、やっぱダメだ胡坐じゃ。 下にクッション入れてもいかんかね? 俺も体が硬いからニトリで買った姿勢矯正クッションを入れてるよ。 それでも1時間越えると痺れてくるけど。 少なくとも腰に対して腿が90度以上は下がらないと。 呼吸法だけじゃ限界がある。 イスに座ってやることを勧めているサイトもあるよ。イスに座ってやれば? 俺は狭い部屋から少しでも閉塞感を除くためにロースタイルにしてるからイスは無いんだけどさ。 収納ラックで祠廟を作れば、高さを調節できて仏像を見下ろす形にはならないよ。
俺の場合、両足20度ずつぐらいしか外反できないね 俺はどうでもいいや 人工関節の人間は術式にもよるが脱臼するからそもそもムリだろ 変形性股関節症抱えてる人間もムリだろう あぐらじゃダメっていうのは絶対命題なのかい?ブッダがそう言ってるの?
あー椅子でも可って書いてるのか レスの後半見落としてた。失敬 でも俺は仏像とか祠とかつくらないよ
イスでもできるのかはやってみたことがないから知らん。 初心者にそういうやり方を勧めているサイトを見かけただけ。 ただ姿勢的に大腿が腰に対して90度以下にはなるな。 尻の下にクッションを敷くともっと下がる気がする。 寝っころがる方法もあるらしいが、眠くなってダメだったぞ。 あと念を入れる時に火や仏像を見つめたいし、妄念にやられっぱな時はティンシャ鳴らすんだけど 座ってないとやりにくい。 >あぐらじゃダメっていうのは絶対命題なのかい?ブッダがそう言ってるの? 歴史上の釈迦牟尼が実際やっていたのかはわからんが 座っている仏像はだいたい結跏趺坐か半跏趺坐じゃないか。 仏教だけじゃなくて、ヨガでも組むらしい。 体感でも理屈があってやってるんだなと思ったよ。 胡坐で苦しんだから余計に分かるのかもしれん。
釈迦も結跏趺坐して・・・とおっしゃってますし 結跏趺坐は単純な慣れの問題だと思います。 会社とかでもドーナツ座布団持ち込んで、「痔持ちなんで」とか言って無理せずやってれば、3ヵ月もすれば胡座より遥かに楽。 背筋が否応無く伸びるんで
股関節の持病持ちを痔と同じに扱うのか 無茶苦茶だな
>>834 私は多数一般論の話をしていますよ
全部自分の凝りで捉えないで下さい
「曲がった脊椎は覚醒の敵です。瞑想においては、いつも脊椎を真っ直ぐに保ってください。 それは生命力が邪魔されることなく流れるようにするためです。
次に、眉間にあるキリスト意識の中枢に注意を集中してください。 そのポイントに深く集中すればするほど、ますます、あなたのエゴが超意識のなかに融けて消えていくのが分かります。」
(パラマハンサ・ヨガナンダ)
より詳しくは↓
初心者向けの瞑想法
パラマハンサ・ヨガナンダが教えた瞑想法
http://www.yogananda-srf.org/Learn_to_Meditate/%E5%88%9D%E5%BF%83%E8%80%85%E5%90%91%E3%81%91%E3%81%AE%E7%9E%91%E6%83%B3%E6%B3%95.aspx#.XD_W37pcWEc 自分の凝りに他者を引きずり込まないで 結跏趺坐が体質的に無理なら、それはそれで建設的に模索しようもあるでしょう 背筋の伸びが結跏趺坐の絶対条件ではないし
安楽座
蓮華座
半蓮華座
とヨガには色々な瞑想時のポーズがあるけど、
どれも初心者がやると腰に負担がかかって腰を痛めるし背筋も真っ直ぐに伸びないと思う。
それなら剣道や柔道の稽古の後みたいに正座して瞑想(黙想)するほうがずっとやりやすい。
ただ、どんな足の組み方でも座布を使えばとりあえず上記の問題は解決して長い間瞑想の姿勢を保ちやすくなると思う。
瞑想を日課にしたい人は
こういう座布を一つ持っていてもいいと思う。
座布団を二つ折りという手もあるけど結局は座布の方が使い勝手もよく長く使えてコスパもいいと思う。
>坐禅は体一つで行うことのできるものであるが、唯一必要な道具を挙げるとすれば、この坐蒲になる。
>仮に坐蒲がなくても坐禅が組めないことはないのだが、あったほうが断然坐禅がしやすい。
>尻の下に何もないと、腰骨を立たせにくく、背中が伸びにくい。
>坐禅において安定した姿勢をキープすることは極めて重要で、姿勢が崩れると坐禅の質が下がる。
>どうも集中できなくなる。
>道元禅師も坐禅をする際には坐蒲を用いるようにと述べているが、確かに坐禅に坐蒲は欠かせない。
https://www.zen-essay.com/entry/zahu >>839 その言い方はないんじゃないのか?
続き聞きたかったのに
>>842 エックハルトトールについては詳しくないですが
エックハルトトール 瞑想 背筋
で検索するとどれも背筋は伸ばすようにと書いてありましたよ。
他人には背筋を伸ばしなさいと言うだろうがエックハルト本人は猫背だよ
背筋を真っ直ぐにすると真っ直ぐになるは全然違うよ もう知らんわw
坐ることをさぐっていくのが坐禅だというのが藤田一照さんのやり方 つらい座り方をすすめたりなんかはしない
結跏趺坐は理想的でこれが楽に出来るようになれば一番瞑想には適している だが身体の状況、状態に応じて如何様にも対応すれば良い
>>848 全く同感
押し付けでもなんでもなく、理想的なのは間違いないよ
しかさ理想はあくまで理想なのであって、必要条件ではない
頭で考えた理想に自分を押し込めるのはマインドフルネスとは逆の態度だからね
瞑想で得た見解にも邪見が多いと仏教では説く
梵網経
https://buddha.pink/buddhism/49/ 世界は虚妄であり瞑想の中にこそ真実であるだとか
瞑想による観察は間違いないと断定するような書き込みが時々見られますがあまり真に受けないほうがいいと思います。
>>854 仏教側がわで邪見とみなされた見解の方が真理なのかもしれないし答えなどでないわな
それぞれが信じる道でよろし、オウムのように犯罪に繋がるのはダメだけど
>>854 一切は虚妄であると最初に説いたのはブッダでしょ
観察瞑想によって真理を確かめよと説いたのもブッダでしょ
>>826 あんまり難しく考えずに精神統一と集中力のゲームと考えて下さいませ 実際問題 凄い集中力の人で何でも信じてしまう人に 自分に極度に集中するのをマスターするとお金持ちになれるよ って騙した方が上手くいくと思うぐらいです
思考だったり拘りだったりが少ない方が超集中できますが 思考 拘りの壊滅も超集中によって起こりますんで 卵が先か鶏が先かというところです
観察系の瞑想は 努力の末に自動的に起こる超集中状態で超スローモーションを起こし その時 自分に何が起こっているかを確認するという流れです その確認の内容が自分に大きな影響を与えます
その瞬間は時間にして一瞬ですので その一瞬を確保できる程度の無思考 無執着さえ手に入れられれば大丈夫です 色んな気持ち悪さや苦しみが残っていても大丈夫ですよ
>>857 ブッダよりも先に例えばヤージュニャヴァルキヤは、ブラフマンの世界が真実で現実世界は虚妄で、人間は睡眠によりアートマンが身体から抜け出して真実の世界であるブラフマン界に赴くようなことは説いています。
ただ、問題はそこではなく、瞑想によって誰もが一切は虚妄であるとか正しい観察というか洞察ができるというわけではないと仏教経典の梵網経に記されているということです。
「なにものも存在しないという、なにものもそんざいしないと観ずる境地(無所有処)を完全に超えて、
これは静寂であり、これはすぐれていると、心理作用(想)があるのでもなく心理作用がないのでもないという境地(非想非非想処)に到達した他の我がある。それをあなたは知らないし、見ていない。私はそれを知り、いている。
その我は身体が壊れた後、断滅し、消滅し、死後には存在しない。このようにしてこの我は完全に消滅する」
これも梵網経では邪見ということになります。
>>856 さんが言われるように、瞑想で必ずしも仏教でいう正しいという解答に達するわけでもないし、あるいは仏教梵網経で邪見とされた見解が正しいという可能性だってなきにしもありません。
一応、ブッダ後のアートマン、プルシャ論のインドの聖者でブッダを否定している聖者はいないとは思いますが。
瞑想でしか真実は分からないというようなことを言う人がいますが、瞑想で出る解答は人それぞれで少なくとも62の見解はあるということは覚えておいた方が良いですね。
私自身はなにが正解かは分かりませんし、正解を求めるために瞑想しているわけでもないですが。
>>856 同意します。
この人のアドバイスが役に立った人って居るのかなぁ 苦しみが後を引く、執着はバリバリ残ってるんだけど 「俺は凄い瞑想をやってるんだ」というプライドで帳消しにしようとしてるだけなんじゃ??
>>859 サマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想の違いは分かってますか?
そりゃあいくらサマタ瞑想やっても邪見しか得られないでしょう
四念処、ヴィパッサナー瞑想によって四聖諦が完成する、八正道が完成する、正見が得られるというような事は大念処経に説かれてますよ
ブッダが説く一切が虚妄というのは、ブラフマンであれアートマンであれ、真実の実在は何も無い、無我であるという意味ですから、
そういうことをおっしゃったのはブッダが初めてだと思います
>>862 ヴィパッサナー(釈迦の時代だと四念処)で正見が得られるというのは仏教側の見解です。
それを信じる人はただその通りにすれば良いのであって、それのみが真であり他は虚妄であるとか無我であるとか人に押し付けるように声を大にしていうものではないと思います。
釈迦も自分の考えを人に押し付けたり問われてもないのにくどくどと言ったりはしなかったと思います。
Sn758 安らぎ(涅槃)は虚妄ならざるものである。諸々の聖者はそれを真理であると知る。かれらは実に真理をさとるが故に、快をむさぼることなく平安に帰しているのである。
真実の実在は一応あるようですよ?
もっとも涅槃を実在と認めれば、ですが。
あとブッダはブラフマンやアートマンについてあるともないとも言ってないというか、回答は避けていますよ。
何が真理か、ということを大げさに捉え過ぎなんだと思うんだよなぁ マインドフルネスでストレス軽減、心理障害の解消になってるなら正見 刹那の生滅を見られた(つもり)としても ストレス軽減にならず、心理障害の解消にならず、従って我執バリバリ そんなのは邪見でしょう けれど、物事はグラデーションw だから全く100%の邪見なんてものもない そう思うけど
>>863 諸法は無我ですからね
涅槃もブラフマンもアートマンも無我ですよ
実在は無いです
ブラフマン、アートマンについては無記というよりは言う必要がない
諸法は無我であるで十分ですから
>>866 それもテーラワーダ仏教の見解である、
にとどめておいた方がいいかもしれません。
>>864 正見はそんなに軽いものではないですよ
正見が得られれば正思惟が得られ、正思惟が得られれば正語が得られ、正解脱が得られると大四十経で説かれてます
正見が八正道の中で最重要であり、最終目標でもある
正見イコール解脱と言ってもいいと思います
ブッダは亡くなる直前に、涅槃について、解脱について説いているのは仏教だけだ、とおっしゃったようです
真理に達する道は仏教にしかないようです
https://j-theravada.net/dhamma/kantouhouwa/kantou148/ では仏教徒以外に真理に達したものはいないのだろうか
ID:7FUGcWEdって言葉だけの人だよね いつまで経っても
その人サマタに否定的だね 経典では止と観の両方を重視してるのに ろくに読んでいないんだろうね
ダウンロード&関連動画>> VIDEO これは股関節のストレッチにはいい坐法だとは思うw
話は大きくずれるけど、俺は鮎川誠という人の話を聞くのが大きなものを感じて好きなんだけど この人は、 ・ロックは生だ ・決められた通りのことをするのはロックではない ・他人になりきる役者のような仕事は好きではない というようなことを言っていて、頭でかんがえるのでなく 働きかけはするけど、大きなものにゆだねて感じる生き方を続けていると 特に目指していなくてもマインドフルネス的、仏道的なありかたに近付いていくのかなと思った もちろん仏道に生きているわけではないから仏教者できなかったありかたとは違っているけど 5ちゃんで無我だとかにこだわり続けている人よりもずっエゴから離れているように感じる
>・決められた通りのことをするのはロックではない 戒を守ることはロックではないのなら 仏道的なありかたではないでしょう
ここでいう決められた通りのことをしないというのは、戒を守らないということではなく ルーティンに安住しない 常にそこで生まれるものを見る聴く生きるということでしょう
仏道的な生き方はルーティンワークだとおもうが お寺の修行なんてルーティンそのもの その決められたことをきちんとやることで心を整える >・他人になりきる役者のような仕事は好きではない 自分のエゴで仕事を好き嫌いするのは仏道的なありかたではないでしょう
お寺の修行は表面的にはルーティンに見えるけど、何故そうするかというと行いに自覚的であるためにでしょう 掃除なら掃除、読経なら読経をその場その時で生きてどこかへ行ってしまうことではない 歩く瞑想も食事の瞑想もそうだ 死んだ時を過ごすのではなく生きるということ バンドだって何もギターを投げ捨てているわけではなく演奏はする
仕事の好き嫌いではなく 他者になりたがるのは違うという話 角度を変えて叩く場所を探すのが好きな人ですね
なりきることの何が悪いのか? 掃除をする時は掃除人になりきる 料理をする時は料理人になりきる この仕事は好きではない、あの仕事は好きではない というのはただのわがままでしかないでしょう
初めてお経を唱えた時に、とてもよく唱えられても、次からは最初の気持ちを忘れてしまうのはアカンだろと 鈴木俊隆が禅マウンドビギナーズマインドで言っているのはそういうことだろうと思う
ロックだろうと なんだろうと 決められたこと なにもできなかったら 成り立たないでしょw
>>883 自分でなく他者になりたがるのは仏教ではないでしょう
今は生き方が仏道的か否かの話をしてる 仏教ではそもそも自分自体を否定している
自分ではない他者になろうとし ルーティンに安住するのがマインドフルネスだというのなら それは俺が知ってるマインドフルネスとは随分違うものだなと思う
>>885 その通り
>・決められた通りのことをするのはロックではない
といいながら開演時間は守るしお約束のアンコールにも応える
>>887 変化しない自我なんてものはないというのが仏教でしょう
つまり常に変化している
変わりばえのしないルーティンにいて偽物の安心感に身を寄せることではない
>>889 そういうことを言っているのではないと
>>881 で言っているのが理解できませんか?
ルーティーンを変わりばえしないと捉えていることが浅はか 一期一会 毎日のどんなルーティーンも同じルーティーンではない
>>892 会話が成り立ちませんね
俺がそうだと言ってることをそのままおれに否定するように返してどうする
>>893 端からあなたと会話するつもりなんてありませんよ
反論したいがために屁理屈をこねる人と
会話をするつもりはありません
>>896 会話するつもりがないと言いながらレスを返し続けてるのはあなたでしょ
変な人だ
そうおもうのならアンカーをつけてレスを返さなければいい
私は変な人ではなくて 人は変な人です という変な人
>>898 会話をするつもりがないと言いながら会話を続けているのはあなたでしょと
また「変な人」がアンカーをつけて絡んできてる よほど淋しいのだろうか
>>899 あなたの自覚の話ですか
なかなかマインドフルネスですね
やたら絡んでくるのは相当マインドフルネスなんでしょう
>>903 自分のことを言っている自覚はありますか?
>>905 「変な人」と言われたことに、とても強く執着してしまったわけですか
この仕事は好きではない、あの仕事は好きではない と選り好みするのか 来た仕事は受けてその中で試行錯誤して葛藤しながら自分にできることをするのか どちらが仏道的なんだろう?
あるロックンローラーの生き方が仏道的か否かの話をしてるのに 仏道に敷衍して語るすり替え好きの変な人
仕事の選り好みの話でなく 他者になりたがるのは違うという話なんだけど、どうにも理解されないみたいだ 実際に鮎川誠は役者もやっているし
好きではないからやらない というのは選り好み以外の何ものでもない 昔はやってても最近やってるのを見たことない 本人が断ってるのか依頼がこないのかは知らないが
話の流れとしては、他人になりだかるのは好きじゃないから役者をやる気はなかったけど、強くやってほしいという話があったから引き受けた という流れ 自分の妄想を根拠に、よくそれだけ強い種類に至りますね
ロックは生だ といいながらCDを出したり配信したりはするんだよな 今もまだ活動してるのかは知らないが
妄想から怒りや執着へ至るのはマインドフルネスや仏教とは真逆の態度では
>>914 エリックドルフィーの言葉に
When you hear music, after it’s over,
it’s gone in the air.
You can never capture it again.
というのがあるのはご存知ですか
あなたと会話するつもりなんてありませんよ と書いたのを読んでいないのかな? 反論したいがために屁理屈をこねる人と 会話をするつもりはありません と書いたのを読んでいないのかな?
>>917 俺はあなたと会話しないなんて言ってませんからね
>>917 それと
屁理屈をこねまくってるのはあなたでは?
>>920 あなたが強く反応して話に参与してますからね
ウ・ジョーティカの言う、自由ではない状態ですね
相手にしたくないとおもってる人に屁理屈こねまくってやたら絡むのが会話ですか 変な人ですね
>>875 で鮎川誠が言っていることは今ココの大切さだよ
〜のような仕事は好きではない とか言ってたら本来来るはずの仕事も来なくなるだろうな 仕事を選り好みする慢心がある人間のどこが仏道的なんだろう
>>925 めちゃくちゃ仕事の選り好みに執着しますね
ブラック企業の経営でもなさっているのでしょうか
言いたいのは他者になりたがるのはマインドフルネスではないということですよ
>役者のような仕事は好きではない って役者で生きてる人に失礼だな 自分もロックンローラーのような仕事は好きではないと言われたら嫌だろうに
>>927 最初はそう言って断られた役者の人が、ありのままにそのままでいられる鮎川さんと言ってリスペクトしてます
ニー仏氏による藤田一照著「現代坐禅講義」評 坐禅、もしくは仏教の瞑想の本筋が、ここではない「どこかに至る」ことや、現在の自分とは違う「何かになる」ことを目指すのではなくて、 何もせず「くつろいで」いて、「自分自身に落ち着いていられる」ことを本懐とするものであることは、それなりに実践をやってきた人々にとっては全く自然に理解されることではあるのだけど、 それが本書のように、現代の言葉でわかりやすく正面から、丁寧に解説されることは少なかったように思う。
・ロックは生だ ・決められた通りのことをするのはロックではない この二つはロックでは定型句のようなもの ・他人になりきる役者のような仕事は好きではない これはちょっと役者をかじった人間の思い上がりかな
>>930 定型句や思い上がりだと言葉としてだけで受けとる人と、ありのままでそのままである人の違いは大きいでしょうね
ありのままにそのままでいられるのなら続ければいいのに 好きじゃないとか言わずに続ければいいのに ありのままにそのままでいられるのなら なんでやらないのかな 仕事が来ないのかな
そんなにリスペクトされてるのならもっと役者の仕事が来そうなものなのに 本人が嫌だからやらないのかな?
>>934 役者の仕事が来る来ないなんて部分に執着して叩きたいなら、そんなことはどうでもいいすわ
他者になりたいと思わない鮎川誠の態度はマインドフルネスに近いだろうっことだよ
役者をやったことは聞いたことあるが 見たことは一度もない そんなにリスペクトされてるのならもっと見かけそうなもんだけどな
てか鮎川誠ってロックでもたいしたことないよな 本業のロックでもそんなにリスペクトされてない人間が 役者は好きじゃないとか言える身分なのかね
日本にロックの殿堂があったとしても 鮎川誠は入れないだろう それくらいの活躍しかしてないのに ちょっと役者をかじったくらいで調子に乗りすぎなんじゃないか
私怨なんかないよ 鮎川誠が仏道的とかわけのわからんこと書くイタいファンがいるから遊んでるだけ
そんなことしてると分別強くなるだけだからな 好き嫌いを咎める自分が好き嫌い強くしてどうする
放逸って好きじゃないからという理由をつけて 自分が好きになるという努力もせずに 役者の仕事をやらないことか?
鮎川誠がマインドフルネスてネタか?w 鮎川誠て名前久しぶりに聞いたわ
7 必要なら誰かが立てるだろう つーか、あんたが立てたら?
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