>>1乙 前スレのやつら、今頃温泉で一杯やってんだろうなあ… お前たちは>>1乙が欲しくてスレを立てたんだろう! 一番最後まで生き残った人って誰?
確か自衛隊が今もやってる雪中訓練するときにアドバイス貰いに訪問してたはず
1960年代だったかな?
生存者で最後まで存命だった方?小原伍長の事かな
原作はともかく映画では出演してないね
小原忠三郎伍長は1970年2月5日が命日だね。
生前、陸自青森連隊が療養所よ小原伍長を訪問して結構詳細なヒアリングをしてる。
伍長もヒアリングにかなり協力的だったのは、伍長自身も後輩達の訪問が嬉しかったのかも知れないね。
小原忠三郎伍長は1970年2月5日が命日だね。
生前、陸自青森連隊が療養所の小原伍長を何度も訪問して結構詳細なヒアリング記録を残してる。
伍長もヒアリングにかなり協力的だったのは、伍長自身も後輩達の訪問が嬉しかったのかも知れないね。
高倉健演じた徳島大尉のモデルの人は
日露戦争の黒溝台会戦で戦死した
うーん、映画では善玉として描かれてたけど、弘前連隊のリーダーは否定的な見方もあるよね
道案内した人達がみんな凍傷で手足切断させられて補償もろくに貰えなかったとか
>>13
自分の中隊を消耗させずに功名に走ったとの評価を与えた本があったよな。 思い出した、福島大尉だ
案内人の扱いなんかはひどいものだったらしいが、当時は基本的人権の認められていない軍国主義の時代だと言う点を差し引いて考える必要はあるだろう
どっちにしても、わずか3年後に死んでるわけだしね・・・
八甲田山消された真実じゃあ福島ってゴミ屑みたいに言われてるけどどうなんかね?
史実の福島大尉は案内人達にその後自費で治療費とか支払ったらしいよ
あと十和田市にある雪中行軍慰霊碑の字は31聯隊の福島大尉がわざわざ書いてものらしい
人間なんて多面的なんだから一方の面だけ見てその人の人格全てを否定するのは駄目だと思う
そして消された真実は青森の遭難資料館ではちょっと問題本扱いで事実の誇張や誤りがあるページに複数の付箋が貼られてたりする
>>18
「人間なんて多面的なんだから
一方の面だけ見てその人の人格全てを否定するのは駄目だと思う」
あんた良いこと言うなぁ。目から鱗が落ちたわ
すれ違いスマン 「消された真実」は貴重な文献であることは間違いないが、筆者の意思が強く反映された内容なので全面的に信じると偏りが出てしまう
あくまでこういう見方もあるという程度にとどめておくべきだろう
いろいろ読んだけどやっぱり遭難始末が一番優れた文献だよ
もちろん事実全てを書いてるわけではなく隠蔽してる部分もあるとは思うけどね
個人的に小原伍長の自衛隊聞き取り証言は遭難から十数年を過ぎて細かい記憶も
曖昧になってきてただろうから8割くらい事実で残り2割は記憶違いが混じってると
考えてこちらも100%信用してない
遭難始末は国会図書館のデジタルコレクションで読めるよ、旧字旧カナ使いで読みにくいけど
古書でもタイミングがあえば2000〜3000円くらいで買えます
旧字旧カナは読みにくいけど根気よく読んでたらそのうちスラスラ読めるようになったな
この映画、管理職や管理する立場の人は、一回は見た方がいいと思う
組織、プロジェクトがダメになる見本や教訓が凝縮されてる
組織論としては
隊長より格上の人間が随行すると指揮命令系統が乱れるということだな
陸自の幹部学校では新田次郎の原作が教材になってるとか。
そのせいで久留米の古本屋には大量にあるらしい。
神成大尉が平民だったために山口少佐など士族将校になめられていたという説があるね
この時代、人口では平民が多くても将校は士族がかなり多かったようだ
あくまで説であって事実ではないけどね
旧軍が残した資料である遭難始末や将校陳述書に至るまでそんな事一切書いてないから
田代新湯に行ったことある人が1人もいなかったってマジ?
>>26
ダメなシーンたくさんあるけど、自分の印象に残ったのは
「弘前もう出発しちゃったよ。つべこべ言わずサインくれよ」かな 自分の印象に残ったセリフは
「天はオレたちをシカトしたぜ」かな
将校陳述書に田代新湯がどういう場所にあるのか書かれてるので
誰も行ったことがないって事はないんじゃない?
Googlemapで平沢第一露営地から田代新湯までの道見ると、これ無理じゃね?って感じがする。
そりゃうっかりしたら渓谷にはまり込んじゃうって、これ・・・
地図見る限り、鳴沢までは行けそうだけどそのあと田代新湯まで下るのが難しそうだよね
実際、弘前第31連隊も田代新湯は発見できなかったわけだし
馬立場から引き返せば全員生還できたのかなあ?
馬立場から鳴沢までの間にソリを放棄してるから、馬立場の時点で相当ヤバいことはみんなわかってたわけだよね?
馬立場から田代まではたった二キロ
現地に行けばなんとなくわかるけど馬立場っていうのはちょっと小高い場所に
あって田代はそこより低い場所にあるから夏場は当然冬場でも天候が良ければ
安易に目視できるんだよね
第二大隊が馬立場についた時はまだそんなに吹雪も酷くなかったからこのまま進めばたどり着けると思ったんだろうね
馬立場辺りで野営してればまだ別の運命があったのかもしれないね
>>38
隊長の判断ミスと隊長より階級が上のがいて
「船頭多くして、船山上る」のことわざそのまんまな展開になった
個人的には一番の元凶は師団長や上層部だと思ってる(映画見る限りだけど) 運命の別れ道はどこだったんだろうね?
最初の死者が2日目の午前中に峡谷に降りて登るところで出ているから、それ以前のどこなら全員生還できたのか
無理じゃないの、ずっと暴風雪が続いていたから、うまく馬立場を越えたとしても田茂木野まで辿りつくのは無理だっただろう
捜索隊だって2回くらい引き返してるだろう、とても前進出来る状況じゃなかったから
初日に小峠で進退議論した時なら間違いなく全員生還できたよ
>>34
黒澤の名助監督
助監時代のほうが有名な作品が多い 初日の馬立場あたりで引き返せばその日のうちに田茂木野までは戻れたはずだから全員助かったはずだよ
鳴沢まで行くと戻れなかったと思うけど
たぶん馬立場〜鳴沢間でソリを捨てたあたりが運命の別れ道だったと思う
そもそもあの演習はソリ輸送の研究が目的だった
そのソリを捨てたということは輸送が不可能という結論が出たわけであって研究目的は達成したのだから、さっさと帰るべきだった
たぶん午後5時くらいだったはずだから、暗くなっていたとは思うが戻れば日の変わる前に田茂木野には到達できただろう
今の登山者が装備しているようなツェルト(1人用簡易テント)とシュラフを全員が装備していれば助かったと思う
ただ、当時はそもそも登山という娯楽が存在しなかったのでテントはともかくシュラフなんて誰も持っていなかった
屯営→→→田茂木野→小峠→大峠→大滝平→賽ノ河原→馬立場→鳴沢→平沢→→→田代新湯
第一露営地が平沢付近だから、あと少しまでは行ったんだよね
でも地図で見ると平沢から田代新湯までの下りが意外と長くてめちゃくちゃ複雑
万が一全員田代新湯に到着しても中に入れるのはせいぜい10人、将校だけだから他の200人はどっちみち凍傷にはなったかもね
>>48
雪壕掘って上に張る天幕用の帆布すら
荷物が増えるからと持っていかなかったらしいで >>49
新田本からすると、計画は田代で野営だったが
兵卒の間で温泉に入れると話が膨らんだ、みたいな 天気のいい日に同じ道を歩いてみたい
実際歩いた奴いる?
そもそも雪山が危険だという認識が無かったんだよ
明治時代だから登山というスポーツが存在しなかったのが大きい
>>53
山間部の出自でもない軍人は
生きるために山に入る人たちを下に見て
その実情に関心すら持たなかったんだろうね エスキモーに学んだアムンセン隊と学ばなかったスコット隊を思い出す話だね
計画が余りにもずさん、適当、そのくせ捜索計画はすごく緻密で周到、最初からそうやっとけばよかったのに
まあ、それがわからなかったから失敗したんだし。
それに同じ失敗したら二度目はさすがにグーで殴られる(比喩)くらいはわかるだろ。
田代新湯行ったことあったのかねえ?
そもそも210人も行ったら200人は露営だからどっちみち凍傷になってたんじゃねえの?
118年も昔の悲劇について科学も装備も発達して雪山の知識も常識となってる現代視点で批判する事は誰にでもできるから
三十一連隊の研究結果もさることながら、このときの救出作戦計画は後に大いに役に立ったんじゃないの?
むやみに救出隊を突っ込ませずに、一定間隔ごとに壕を掘って拠点を構築して、極寒の中で歩哨を立てつつ
伝令も行き来させて連絡線を維持するって、黒溝台で秋山支隊が実行した防御作戦だと思うけど
>>59
そういう一言居士お呼びでないの
雰囲気見てわからない?ま、わからないんだろうね >>60
行軍計画にその要素があれば
移動スピードは格段に落ちるけど田代にたどり着けたかもしれないし
ダメでもほぼ無傷で引き返せたっぽい。面白い話 第5連隊の演習はそもそも目的が青森平野から八甲田を横断して三本木平野へのソリによる大量輸送が可能かどうかの研究にあったから、
大人数になったこともソリの放棄が遅れたことも致し方ない部分はある
>>61
実際に残ってる当時の資料や現地の地理を元に当時の未発達な知識を前提において史実の遭難を議論するのはもちろんとてもいい事だよ
でも一次ソースも不確かな情報や憶測に基づいて一方的な現代視点だけで批判するのはどうかと言ってるの
このスレは史実と映画の区別がついてないレスもちらほら見かけるしね
118年前の事件たって今でもその子孫の人達の多くは存命しててデリケートな話題なんだからさ
上のレスが言葉足らずだったのは謝るけど
それは失礼した。
でもどうしても我慢ならんなら、
そのようにキチンと書いてもらった方が(できればアンカつきで)納得がいく
捜索計画の骨子は、田茂木野に捜索本部を置き、田茂木野から田代の間に15の哨所(中継基地)を作るというもの
屯営と田茂木野間は電話線を設置し、緊密に連絡を取り合う、こうして人員と物資を前へ前へと送り込む作戦
31連隊の演習は日露戦争で役立ったかも知れない
でも5連隊の演習は役立ったかは疑問
この演習は日本が日本海の制海権を完全に失い陸奥湾までロシア海軍が侵入して来る想定だった
後から考えると想定自体があまりにも悲観的だったと言わざるを得ない
行動を項目・程度ともに細分化して到達度という形で評価するという観点はなかったのか
仮に総合到達度20%だったとしても兵卒(および銃)が無事戻って来れば成功のうち、って時代じゃなかったんだね
目的完遂以外は失敗というなら、なおさら段取りに手間ひま時間をかけないと
「冬季における人力による田代街道の物資大量輸送は不可能」とわかった点をどう評価するかだね
当時の弘前第7師団がどう評価したかは知らないけど
映画には描かれてないけど段取りした中尉と行軍した中尉は別人なんよね?
完全に段取りをミスってると思うんだけど実際どうなんだろう?
実際に指揮した神成大尉のことはよく出るけど、2週間前まで企画立案していて夫人の出産で任務を外れたという将校は名前すら出ていない
実際に指揮した神成大尉のことはよく出るけど、2週間前まで企画立案していて夫人の出産で任務を外れたという将校は名前すら出ていない
>>70
いや、>>67にもあるように屯所を次々に前進させていって最終的に田代新湯にたどり着いてた
村山伍長(村松伍長)を発見、救助してるんだから物資の輸送は可能なんじゃないの?
悪天候の時だけ天候の回復を待てばいいんだから 救助活動はソリを使ってないからね
演習の目的は厳冬期における青森平野から三本木平野へのソリによる輸送の可否の研究だった
だからこそ足でまといのソリの放棄が遅くなったわけで
>>77
200人近い遺体をソリを使わずに一人ひとり担いで来るとはとても思えんが?
それに、山田大隊長もソリに乗せられて田茂木野に帰って来たじゃないか 背負ったんだと思うよ、特に生存者はね、死体はカチンコチンに凍ってるんだから
毛布にくるんでロープで引いて行ったんだと想像してる
田茂木野以南は全く人背に頼るしかないと遭難始末に書いてある
戦国時代だって絶対雪山で戦なんかしなかったのにね。ノウハウがないのに無茶したもんだ
>>80
合戦じゃないが佐々成政が厳冬期の立山連峰を越えたさらさら越えの逸話はあるな
真冬に富山から浜松までの走破は今の装備でも容易じゃない
補給もほとんでできないしね 前九年の役で安倍貞任が、雪の栗駒山を越えて国府軍に奇襲攻撃を掛け、大勝したという話も残ってる
>>81
戦国時代は現地調達という名の略奪が当然のこととして認められていたのも大きいんじゃないかな >>81>>82 それなりに先例があったのか。だから強気だったのかもね。 屯営発じゃなくて田茂木野発だったら田代新湯通過して一気に三本木平野まで下れたのかな?
絶対無理、31連隊は逆方向から 三本木→増沢(一泊)→田代(一泊)→田茂木野
物資輸送と言ったって、実際にやることになれば1回の輸送じゃ済まないんだから、2km進んでデポ設営、また2km進んでデポ設営ってやって、バケツリレー式に輸送することになるんだろうな。
航空機による空襲が無いから、物資の大量輸送にはある程度の間隔でベース基地を作って基地間の往復の繰り返しで実施することになる
でも第5連隊の演習はそうではなく単発のソリによる大量輸送の研究が目的だったんだろうね
>>59
この遭難事故は、方や全滅寸前の失敗、方や殆ど負傷者無しの成功という
2面があるから今でも教訓として残ってる
これが、双方失敗だったら蛮勇か
この装備では無理だったで終わる 31連隊の方は大陸での作戦行動についての研究が主目的だったんだよね
>>91
南極点を目指したスコットとアムンゼンと似た構図だね
北極点を制覇したピアリーには何らのドラマ性はなくほとんど忘れられているのと極めて対照的 31連隊の方の福島大尉も、5連隊で最も元気だった倉石大尉も黒溝台の会戦で戦死しているのに宿命を感じる
手足を切断した方が人生を全うできたというのが何とも物悲しい
今更の疑問なんだけど、
通信兵居なかったの?(無線の)
定時連絡とかしてればこんなことにならなかったと思う
>>95
当時は、まだ可搬式の無線機はなかったと思うよ。 二百三高地では電話線を丘の上まで引っ張ってた
死体を電柱代わりにして
日本海海戦では信濃丸が敵艦隊ミユを打電してたね
八甲田山の10年後1912年にタイタニックが沈没の際に打電したのが史上初のsos というまさに無線低迷の時代だな
この当時はまだ実用的な無線機はなかったのか
色々無理があるか
>>98
劇中で行軍中止を決定するが、どうやって連絡すればいいのか頭抱えるシーンある。 三本木に問い合わせて行軍隊が出発したのを聞いてホッとした五連隊
なんで連絡せんのか山田がついていながらという会話があったね もう一度問い合わせたら八甲田山に向かったと聞いて弘前隊と勘違いしたことが判明
電話のあるところに着いたら連絡する事にはなってたんだろうね
無線やモールス信号が普及したのっていつだ?
初日の時点でSOS出来ればおそらく9割以上は生還できたはずだ
この十年後の南極探検のスコット隊もアムンゼン隊も無線機は持っていなかったらしい
サイズの問題もありまた極低温で動作するかという事もあったのではないか
マルコーニが無線を発明してまだ間がない時期だしな
馬立場〜鳴沢間でソリを放棄してるけど、何故ソリ放棄して進軍続行したか悔やまれる
あそこでソリ放棄だけでなく撤退していれば絶対に全員生還できた
確かに田代新湯は目前ではあったのだが、、、、
無線機を持っていくことができたとしても当時のバッテリーじゃ、氷点下20°近い環境下で
あっという間にヘタって使い物にならなくなってたんじゃないかな?
>>104
軍艦レベルだと無線通信に蓄電池を使ったみたいだけど、歩兵部隊が移動しながら使うなんて夢のまた夢の時代だろうね。
乾電池は実用化されて満州の戦場でも使われたみたいだが、果たして無線通信機で乾電池で稼働できるほどの低電力で通信できるものはあっただろうか 神成大尉ってイケメンだよなあ
彼はあと少し運が良ければ生還していたはずだが、生還したら責任負わされて地獄だっただろうな
日本陸軍の悪習で、死ねば許されるというのがあったから
南極に犬置いてきたくらいで非難轟々だったからな
神成大尉は生還しなくてよかったよ
行軍隊の長距離通信手段はラッパくらいだもんな
あの吹雪だと100m先でも聞こえんように思うが
平沢の森から田茂木野まで8kmくらいか?
200人いたんだから40mおきに1人ずつ立たせれば田茂木野まで戻れたのに
>>109
最後の一人が俺が最後のはずなのに後ろに人が!!
みたいになって八甲田に大きな人間の輪が完成する 直線距離で8.5kmくらいだから、高低差を考えると実際歩く距離は10kmはゆうに超えてると思うぞ
別に10kmなら50m間隔にして200人並べりゃ良かったんじゃないの
問題は距離じゃなく方向だしな
何人並べようが明後日の方向だったり崖で阻まれれば意味がない
むしろ早めに解散全方位に解き放って自由行動させた方が生存者が増えたかもしれない
雪が降る前から毎日毎日、行軍隊を往復させて獣道を作っとけばいいよw
このスレは岩手や宮城のものが多い
本当の雪の怖さがどんなものだか知らない連中が多いのはとても危険な事なんだ
トレイルなど八甲田山の豪雪の前には1時間後には痕跡すらなくなる事すら知らないのだ
そこをはっきりと善次郎にだな