天正6年(1578年)3月13日に死去した越後の英雄・上杉謙信。
2度上洛し、武田信玄や北条氏康・氏政らと戦い、織田信長とも戦った彼には天下への野望は無かったのか?
謙信が長生きしたらどうなっていたか、皆さんで語り合いましょう。
どんな天下を作り上げるかでも結構です。
なお、自論だけを押し付けたりする人の参加は禁止いたします。
謙信が長生きしたら勝てたか。
死去の時点で越後・越中・能登・加賀北半分、上野東部、信濃の一部。
石高にすると200万石くらいかな?
「それでも上杉は動いた」
1576年、ついに上杉謙信は織田信長との戦いに乗り出しました
当時の信長は強大な力でその領土を飛躍的に拡大させていました
上杉軍が信長に行くつくには織田に味方する武将たちを一つ一つ倒していかなくてはなりません
その先では最大兵力10万とも言われる信長直属の精鋭たちが待ち構えているのです
上杉軍3万・・・ 時代の流れは信長に傾く中、勝負に出た上杉!
ターラララ ラー(ry
急逝直前の動員令は「先ず(今度こそ)北条を下して関東制覇。その後、織田と決戦」を意図していた説があるんだっけか?北条は仮にヤバくなったら、織田史実より早く織田に泣き付くかな?
もし、上杉謙信が死なずに関東出兵して関東制覇していたなら、兵力国力で織田信長に匹敵するな。
でも北条が亡んだら、東関東諸将にしたら、織田と敵対する義理もないけどね。あのタイミングで謙信が関東出兵したら、勝頼はどうさたかな?
>>7
長篠前なら有能な家臣がいるし、まだ武田侮りがたしだから、北条について謙信を阻む選択肢があるけど、長篠後ではね。
長篠後の武田は、それまでほとんど勝利していた徳川単体にすら敗れるほど弱体化している。というか、当時は徳川の遠州攻めにかかりきりだから、謙信に手を出す余裕はない。 毎年北信濃で武田と関東で北条とどっちつかずで
二兎を追うものは一兎をも得ずを地でいってるよな、
あのまま長生きしても織田を倒しては無理だと思うわ
信長に手が届く前に信長は本能寺の変みたいな謀反で死にそう
謙信が生きてる間は光秀も裏切らなかったんじゃないかな
謙信が攻めてきたら怖いもん
謙信存命で本能寺で信長が死んだら、謙信の天下決定やん。秀吉? 謙信相手に秀吉は無理だろ。
日本ユニシス大串宏通です。
信長を倒せたと思います。
やはり戦歴が違うと思います。
義の武将、謙信の名声はすざましく北条討伐の際は10万の大軍を動かしました。(パレード的なものだったそうですが)
一方信長は謀反で滅んだことからもいって人望も無く、力と行動力のみで制圧してきましたから
謙信、信長全面対決となれば最終的に信長方の離反が酷いことになり、信長は自滅したことでしょう。
まず明智光秀は信長、謙信の対決の際は絶対に謙信方についたであろうことを考えると
信長が謙信に勝つという選択肢は無くなってしまいますね。
倒すのは無理だが信長の天下もないだろうな
御館の乱が起きないんだし
信長は配下の離反や謀反には事欠かず、さらには周辺からは包囲網を何回もかけられるアスペだから、手取川みたいな負け戦が何回か続けば時勢に敏感な配下に寝返られて一瞬で自滅しそうだわな。謙信がクソ気張りすぎたのが悔やまれる。
謙信も国衆や関東諸将に離反されてるし、信長に叛いた浅井・別所・荒木・明智他も多少は勝算あってのこと。講談レベルの人格論より、国力と軍事的指揮力が決め手。
糖尿病の長患いやから長生き自体ありえんで
酒呑まん謙信とか有り得んし
別に謙信が慢性的に酒を呑んでいた記録はなく大酒呑みのイメージは後世作られたもの。北越軍記には酩酊するほど呑まないとすらある
だから糖尿以前に酒呑みかは疑問だっての。
そもそも糖尿ってのも大酒呑みってイメージからの推測だろうに
そうだっけ? なんかの記録に残ってるんじゃないの?
塩分が高い梅干しを肴にして毎日大酒喰らうって
甲冑はメタボサイズなのに最晩年の常安寺所蔵、絹本着色上杉謙信並二臣像が
ガリガリだったのは決定打だと思うわ
どう見ても糖尿病末期の糖代謝異常です
肖像画は宗心を名乗ってた若い頃のものって説もありまして。本郷和人とかは基本的信用ならんし
仮に 青年像とするならば二臣との明らかな年齢差表現をどう説明するのかと
まあ直江山城と鬼小島弥太郎(2代目?)との栃尾市教育委員会の自称は無視するとしてだ
甲冑はメタボサイズの甲冑なんてないし、あるならその甲冑の名称を具体的に頼むよ、調べられるで
二臣像がガリガリに見えるなんてのは個人の感想に過ぎないな
俺はガリガリなんて印象は全くないな
明らかな年齢差表現とは一体?
肖像画についても乃至政彦氏は「華奢にも見えるが肩幅が広く首も太い。筋肉質だったのだろう」とも言ってるしなぁ。
つーか二臣が直江大和と鬼小島ってのも推測であって本当かは分からんのではないかしら
本気で言ってる?
肌色といい姿勢、印の結び方
これらは明確に老成を顕わしたものでしょ
老荘青を描くことで単なる肖像画ではなく
仏教画の意味をも込めてる
そういう意味では二臣はイメージであって
具体的なモデルはいないという可能性は一考に値する
肌色なんて肖像画は400年以上前の物なんだから多少は変化してるかもだし当時の絵師が明確に年齢の差違を肌色で表せたか分からんしそもそも謙信の肌色が分からん。
叔父さんでも肌色が白くてキレイな人、若者でも肌が黒く汚い人はいるし姿勢とかはともかく肌色は理由としては弱いかな
肖像といえば林泉寺所蔵のはいいね
素晴らしい
写実性を重んじて一切の虚飾を廃してなお伝わる神性
姿勢も20代も40代もそう変わらないと思うけどな。老成っても40そこらだし