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秀次事件後に出された起請文、御掟、御掟追加
コ川家康毛利輝元小早川隆景連署起請文前書案
敬白天罰㚑社起請文前書事
一 御ひろい樣へ對し奉り、聊表裏別心を不存、もりたてまつるへき事、
一 諸事 太閤樣御法度御置目之通、無相違樣に可相守候事、
一 御ひろい樣之儀疎略を存、幷 太閤樣御置目等相背輩於在之者、縱雖爲緣者親類知音、ひいきへんはなく、
糾明之上を以、成敗之儀可申付候事、
一 板東法度置目公事篇、順路憲法之上をもつて、家康可申付候、坂西之儀者、輝元幷隆景可申付候事、
一 不斷致在京、 御ひろい樣へ御奉公可申候、自然用所候て下國之時者、家康輝元かはりかはりに御暇申上、可罷下事、
右条々、若私曲僞於御座候者、此㚑社上卷起請文御罸深厚に罷蒙、今生にては白癩K癩之重病をうけ、弓箭之冥加七代迄盡果、
於來世者、阿鼻無間地獄墮罪し、未來永功浮事不可有之者也、仍起請文前書如件、
虫ト筑前宰相
文祿四年七月 隆景
虫ト安藝中納言
輝元
虫ト武藏大納言
家康
豐臣家五大老連署條目
御掟
一 諸大名緣邊之儀、得 御意、以其上可申定事、
一 大名小名深重令契約、誓帋等堅御停止事、
一 自然御喧嘩口論者、致堪忍可屬理運事、
一 無實儀申上輩在之者、双方召寄、堅可被遂御糺明事、
一 乘物御赦免之衆、家康、利家、景勝、輝元、隆景、幷古公家、長老、出世衆、此外雖爲大名、
若年衆者可爲騎馬、年齢五十已後之衆者、路次及一里者、駕籠儀可被成御免、於當病者、是又駕籠御免之事、
右條々於違之犯輩者、速可被處嚴科者也、
文祿四年八月三日 隆景(花押)
輝元(花押)
利家(花押)
景勝(花押)
秀家(花押)
家康(花押)
豐臣家五大老連署條目追加
御掟追加
一 諸公家、諸門跡被嗜家々道可被專 公儀御奉公事
一 諸寺社儀、寺法社法如先規相守、專修造、學問勤行不可致油斷事、
一 天下領知方儀、以毛見之上、三分二者地頭、三分一者百姓可取之。菟角田地不荒樣可申付事、
一 小身衆者本妻外、遣者壹人者可召置、但別に不可持家、雖爲大身、手懸者不可過一兩人事、
一 隨知行分限、諸寺進退可相働事、
一 可致直訴儀、於擧目安者先十人へ可申、十人衆訴人以馳走双方召寄、慥可被聞申分、直訴目安者、
各別之儀候間、此六人へ可被申、以談合上、御耳へ於可入儀者。可被申上事、
十人衆
冨田、寺西、森壱岐守、堀田若狹、佐々淡路、石田木工、片切守善、石川久五郎、山中山城守、木下與左衞門尉
六人之衆
家康、利家、景勝、秀家、輝元、隆景
一 衣裳紋、御赦免外、菊桐不可付之、於御服拜領者其御服所持間者可着之、染替別衣裳、御紋不可付之事、
一 酒者可隨樣器、但大酒御制禁事、
一 覆面仕往來儀、堅御停止事、
右條々於違之犯輩者、速可被處嚴科者也、
文祿四年八月三日 隆景(花押)
輝元(花押)
利家(花押)
景勝(花押)
秀家(花押)
家康(花押)
文祿二年一月十一日付石田正澄・長束正家宛前野長泰・加藤光泰・石田三成・大谷吉継・増田長盛連署状
此使者昨日路次迄出候處、先手小西方より注進御座候、又K田甲斐守・隆景より注進御座候間、重而申上候、
一 小西手前兵粮一切無御座候間、とかく在陣不相續候之處、自大明罷立候大明御詫言之儀申候付而、其取?を仕可打入支度仕候處、加藤主計先手之者越度之儀、
又こもかい邊相動候衆新城不被攻落手負數人出来、其外舟手之儀など、事々敷北京へ申越候に付而、數萬人唐人罷出小西手前へ取懸候由注進候間、
都より一勢かせんほい迄打出隆景人數さき?押出、K田甲斐守小西所へ可令加勢由申遣候處、今月四日より七日まで昼夜責申、七日に及一戰、
壱萬計討捨候へ共、敵も不相甘、小西兵粮無之ニ付而、小早川先手城迄四日路計打入由、重而注進候間、是非も無御座候事、
一 K田甲斐守陣所へも右付打入以前ニ三万計取懸候を切崩千三百餘打捨候事、
一 甲斐守手前兵粮久御座有間敷候、隆景申談差引無由斷可相動候事、
一 都には先書にも如申上候、去秋手前?苅田以下たくわへ候兵粮正月中分可有之候、其外に去年洛中・洛外改置候兵粮、京着之刻、
各扶持方卅日分請取候殘、壱万四千石御座候事、
一 都有人數、宰相殿・前但・加遠・治部少輔・刑部少輔・右衞門尉此人數壱萬七千之高にて御座候、跡之つなき三ヶ所、河端之城、内裏藏相抱候ハて不叶城、六御座候、
聊無由斷普請以下申付候事、
一 自是釡山浦之間、随分此中せんさく仕、つなきの城々丈夫に御座候やうに仕候、此以前之分にてハ異儀無御座候へ共、加藤主計先手之者越度以来小西先手引取候間、
國々逆徒等つのり可申候条、無人之手前如何御座候はん哉と存候、別に可相加人數も無御座候、又十日路・十五日路わきに有之人數引出候事も合期不仕候、
其上相加候ても兵粮無御座候、とかく各不罷渡以前ニ廿日路・卅日路わき?の國々へ無人にて入すこし候故、右之分に御座候事、
一 隆景なとは各罷渡候てより、道筋先手へ引出候故、先々迄路さき是ほどニも相續申候、又先手打入候ても別条無御座候事、
一 加藤主計なと遠国へとひこし入過申候間、跡々人數可被引出由、度々申遣候へ共、静謐之由申候て、不罷出候間、是非も無御座候事、
一 去年も如申上候、とかく釡山浦へ兵粮相屆候やうに可被仰付事肝要に奉存候事、
一 此方警固之衆被仰付候へ共、今之分にては順風に成候者、釡山浦辺へ敵舟出候を此方警固おさへ候事成かね可申と存候、其子細ハ此方舟之内ニハ敵かこひ舟ほとの舟ハ一艘も無御座候、
敵かこひ舟ハこもかい面にも打見へ候分三百艘あまりも有之由申候、又都川へ去年氷はらさる以前ニおし入候も二百艘餘乘入申候間、被成御校量かこひ舟の儀をも急度被仰付尤奉存候、
一 兵粮さへ御座候者、各申合、何程唐人罷出候共、打果可申候、何も手前?兵粮無御座候、又かりそめの陣替も五日路・十日路御座候間、御人数差引合期不仕事、
一 s左衛門太夫手前なとへは去年已來はや五・六度も敵三万・四万にて取懸申候、度々切崩五百・三百充討捨申候へ共、敵人數はへり不申候、此方ハ手負重く次第に無人に成申候、
道具以下も損申候事、
一 なこやへ御着座之由候間、兩三人に一人渡海仕候て可得 御諚と存候つれ共、此節爰元一人成共引抜罷越候儀、如何御座候条、使者を以申上候、兵粮被仰付、釡山浦に慥之物主急度可被仰付事肝要奉存候、
此以後ハ跡々つなき城間々自由ニ御座有間敷候条、御注進申上候も難相届存候、路次つなきの城一ヶ所・二ヶ所自然きれ候所御座候をも相續候ほと御人数をも被仰付被差渡候様ニ御披露肝要奉存候、
恐々謹言、
正月十一日
搏c右衛門尉 長盛
大谷刑部少輔 吉継
石田治部少輔 三成
加藤遠江守 光泰
前野但馬守 長泰
長束大藏太輔殿
石田木工頭殿
吉川広家の三成に対しての感情を表す書状
吉川廣家覺書
對石治少我等所存之事
一 上樣以 御諚出雲伯耆に被 下置候領地之儀、御他界之後、宰相へ渡可申旨被申出候事
一 我等女五ヶ年之間、雖在伏見候、終不致 御目見候之儀、治少以時分可申由候而打過候事
一 高麗地御付城被 仰出候刻、二三ヶ國に一城宛被仰付候、我等國者方角他國に相替候、都合八萬石之領地役とて、
とくねきと申城五ヶ年之間相拘候事、
一 大明之人數、加肥後城うる山へ罷向候時、從 上樣七人之御目付衆御相談之刻、我等所存之段、彼衆中へ得御意候事、
一 うる山河越之時致先馬、大明之者壹人我等打捕申候、此兩条をK筑前存知之前に候事、
一 至高麗都大明衆相動候刻、柳川、小早川致先手候、其一戰之時、壹人我等討取候事、
一 高麗都河下に、彼國之者共、一城取付在之處に、備前中納言殿、三奉行衆幷前但馬、加遠江、小攝津守其外被相動候事、
二之丸乘崩候刻、我等被疵候、手之者共頸五ツ討取候、本丸者かこひ能御座候て持居候、左候處に、
大刑少被罷越、我等者共可引取旨致下知、被引取候事、
一 於伏見 上樣書院之御成申上度存、五ヶ年之間石治少雖奉ョ候、終不致成就候事、
一 上樣御逝去之刻、諸大名衆に御遺物被下候、我等式者不寄存候而在之處に、有方より承付儀候間、治少へ相尋申候處に、
失念之由候而、至其時 御太刀拜領仕候事、
一 太閤樣 御感狀之寫如此に候、此御正判國本に御座候間、於 御不審者、可奉懸 御目候事、
一 太閤樣へ中國より奉得御意候儀、㝡初K如水、蜂彦右以御取次之筋目、萬事得如水御指南申候、然者、
右兩人近年五奉行衆よ半御座候に付而、我等身上之儀不達 上聞候事、
以上
慶長十九年十一月十一日 廣家
太閤樣被成御煩候内に被爲 仰置候覺
一 内府久々りちきなる儀を御覽し被付、近年被成御懇候、其故 秀ョ樣を孫むこになされ候之間、
秀ョ樣を御取立候て給候へと、被成 御意候、 大納言殿年寄衆五人居申所にて、度々被 仰出候事、
一 大納言殿はおさなともたちより、りちきを被付御存知候故、秀ョ樣御もりに被爲付候間、御取立候て給候へと、
内府年寄五人居申所にて、度々被成 御意候事、
一 江戸中納言殿は 秀ョ樣御しゅうとになされ候條、内府御年もよられ、御煩氣にも御成候者、内府のごとく、
秀ョ樣之儀、被付御肝煎候へと、右之衆居申所にて、被成 御意候事、
一 虫ト肥前殿事は、大納言殿御年もよられ、御煩氣にも候間、不相替 秀ョ樣御もりに被爲付候條、外聞實儀忝と存知、
御身に替り肝を煎可申と被 仰出、則中納言になされ、はしたての御つほ、吉光之御脇差被下、役儀をも拾万石被成御候事、
一 備前中納言殿事は、幼少より御取立被成候之間、秀ョ樣之儀は御遁有間敷候條、御奉行五人にも御成候へ、
又おとな五人之内へも御入候て、ゥ職おとなしく、贔屓偏頗なしに御肝煎候へと、被成 御意候事、
一 景勝、輝元御事は、御りちきに候之間、秀ョ樣之儀御取立候て給候へと、輝元へは直に被成 御意候、
景勝は御國に御座候故、皆々被爲に仰置候事、
一 年寄共五人之者は、誰々成共背御法度申事を仕出し候はは、さけさやの軆にて罷出、双方へ令異見、入魂之樣に可仕候、
若不屆仁有之而きり候はは、おいはらとも可存候、又は 上樣へきられ候とも可存と、其外はつらをはられ、
さうりをなおし候共、上樣へと存知、秀ョ樣之儀 大切に存知、肝を煎可申と、被成 御意候事、
一 年寄爲五人、御算用聞候共、相究候て、内府、大納言殿へ懸御目、請取を取候而、
秀ョ樣被成御成人、御算用かた御尋之時、右御兩人之請取を懸 御目候へと、被成 御意候事、
一 何たる儀も、内府、大納言殿へ得御意、其次第相究候へと、被成 御意候事、
一 伏見には内府御座候て、ゥ職被成御肝煎候へと 御意候、城々留守はコ善院、長束大藏仕、
何時も内府てんしゆまても、御上り候はんと被仰候者、無氣遣上可申由、被成 御意候事、
一 大坂は 秀ョ樣被成御座候間、大納言殿御座候て、惣廻御肝煎候へと被成 御意候、御城御番之儀は、
爲皆々相懃候へと被 仰出候、大納言殿てんしゆまても、御上り候はんと被仰候者、無氣遣上可申由、被成御意候事、
右一書之通、年寄衆、其外御そはに御座候御女房衆達御聞被成候、以上、
遺言覚書
一、内符
利家
輝元
景勝
秀家
此五人江被仰出通口上、付緣邊之儀互可被申合事、
一、内府三年御在京事 付用所有之時は中納言御下候事
一、奉行共五人之内コ譱院・長束大兩人は一番にして殘三人内壱人宛伏見城留守居候事、内符惣樣御留守居候事、
一、大坂城、右奉行共内弐人宛留守居事、
一、秀ョ様大坂被成御入城候てより、諸侍妻子大坂ヘ可相越事
以上
(端裏書)
「秀吉樣御他界之以後拾人連判誓帋寫」
敬白靈社上卷起請文前書之事
一 秀ョ樣御爲存候上者、諸傍輩に對し私之遺恨を企不可及存分に事、
一 此連判之衆中に對し、誰々讒言之子細在之共、同心不可申候、何時も直に申理、可隨其に候、
自然不相屆儀承付候者、無隔心可令異見候、事により同心無之候共、遺恨には存間敷事
一 傍輩中不可立其徒黨候、公事篇喧嘩口論之儀雖有之、親子兄弟緣者親類知音奏者たりとも依怙贔屓不存、如御法度可致覺悟事
一 此衆中之うわさあしさまに被申聞仁於有之者、則其申主をあらはし、互可申屆候、左様に無之候て、拾人之外別人を近付、
此衆中之うしろ事あしさまに取沙汰申間敷事、
一 諸事御仕置等之儀、其輕重をけつし、十人之衆中多分に付而可相究事、
一 拾人之衆中と、諸傍輩之間にをいて、大小名によらす、何事に付ても一切誓帋取りかはすへからす、
如此相定上、若誓帋取あつかい仕候衆に至ては其徒黨を立逆意之基眼前候條、各相談仕、曲事に可被仰付事、
一 對 秀ョ樣、誰々惡逆之子細雖有之、出しぬきの生害不可有之、其罪科之通申屆、理之上を以可有御成敗、
縱其身にけのひ候共、其在所へをしよせ可被加御成敗事、
以上
右條々若私曲僞於有之者、忝も此靈社上卷起請文之御罰、各深厚に可罷蒙者也、仍前書如件
慶長三年九月三日 長束大藏大輔
輝元 石田治部少輔
景勝 搏c右衞門尉
秀家 淺野驒正少弼
利家 コ善院
家康
「七月十二日之夜半、大坂へ旅庵被差下御条書之案文也」
一 伏見御城本丸・西丸之間に御番可仕之由、及兩度ニ雖申理候、無御納得候事、
一 秀ョ樣 御爲、可然儀におひては各御相談次第と安國寺へ申候事、
一 安國寺御留之事、
一 伏見・大坂之しまり之事、
一 揄Eより參候書狀、小攝へ遣申候事、
一 如右御城内へ不致在番候者、大坂へ罷下、 秀ョ樣御側へ可致堪忍存候事、
一 同名中務太夫、爰元へ召留候事、
一 御奉行衆之内御一人、伏見へ御在番候事、
毛利元康宛毛利輝元書状
たそ進之候而申度候へとも、左樣之者には用申付無寸暇候、先書中にて申候、
一 自治少小西、寺澤被越候はねらいたて仕候者一かう珎事なく、結句手おきたる、於于今は仕合候条、
自此方可被仕懸候、左候はは、輝元天馬のことく罷下陣取あまさきへ持つつけ候樣にと被申候事、
一 面むきはさ樣申候か、彼衆申候所は御城は彼方衆持候と聞え候、此方衆一切出入とまり不入立之由候事、
一 揄E被申事に、とかく治少より身を引候はては、すみ候ましく候と被申たる由候、
一 右分候時は、はや彼方へみな成候と聞え候、此時はかぢ之取さま肝心候間、禪高先長老を以内々調畧可申候と安國被申候、
何も爰元へやかて被越候而可相談にて候、禪高折ふし昨日被越候、種々引成たかり被申候間、
自此方申候者可成候、いかか被思召候哉、可承候、
一 上樣被仰置之由候而、昨日内府、景勝緣邊之使、互に揄E案内者にて調候、内心はそれにはそみ候はす候、
公儀は上樣御意ままと景勝は被申由候へとも、是もしれぬ者にて候にて候、とかくはやよいめに成行候間、
爰は分別之ある所候、
一 御城つめにはこいて、かたきりなと居候、是は内府かたにて候、如此候時は、何もかもいらさる趣候、
一 自大刑少被申事に、下やしき罷下之由、不可然候、内府むかいつらに成候樣に候との事候、
治少へも此中秀元に人數三千副遣たるとさた申候、大刑よく存候間、一圓左右にてはなく候と申へく候、
たた引取てかたんむやくにて候、辻合はかり可然候との内意候、
一 下やしき普請事は申付候するや、いかか候はんや、申付候而可然候すると存候存候、被思召所可承候、
先あらまし申候、透候はは何にても可申候、
一 御氣分いかか候や、是非此節候、又いわうにてよく候や、具可承候、恐々かしく、
内々たんきも此時候此時候、かしく、
毛利元康宛毛利輝元書状
面むきあつかい之事、いまた不澄候、揄E治少より被申分には、景勝、我等覺悟次第、何に分にも可相定との儀候条、
景勝申談候而異見申候、可有分別哉と存候、趣可申候、
一 夕部禪高被越候而かたり被申候、内府入魂は非大かた候、於其上も~文等とりかはし候樣にとの被申事候、
彌無異儀候、可御心安候、
一 下やしきへ罷下候と聞え候て、尤可然と被申たる由候間、彌可相尋と申事候、一段可然被申樣と聞え申候、
只今之あれまはり候物、氣に少もあい不申、又そこ用心に聞え候、御賢慮之前候前候、趣追々可申候、
一 御氣分可然之由肝心候、尚以不可有御緩候、時分からにて候、夕部もそとはさわきたる由候、
禪高とはるかまてかたり候て不存候つる候つる、早々しつまり申候樣にと申事候、かしく、
毛利元康宛毛利輝元書状
面みきあつかいの返事、いまたなく候、返事候者可申候可申候、
御書中拜見候、誠於于今は彌彼間之調入事候、安國寺へも其申事候、彼方ことのほか入魂とは聞え候、尚以調肝心と存候、
一 其元普請はとかく早々調罷下度候間、普請急申事候、榎中被仰談候而可給候、
一 彼間ことに申ふらし候ことせうし千萬候、さたのかきりにて候、其用心之儀專一候、彼者書中み申候、
先度已來次の番事をのみ申候つれとも、右之段をさとり候て無同心候處、それさへ此成候間、さたのかきりにて候、
何よりわるきことは如此事候、御方如此承候事、天道も照覽、ちかころの之御心中眞實と存候、則書進申候、
御書中も返し申候申候、
一 御氣分はやはやよく候之由、一段悦申候、尚以不可有御油斷候、灸尤可然候可然候、恐々かしく、
毛利元康宛毛利輝元書状
昨日彼方と間如此相調候、
一 治少身上面むき之あつかい三人衆へ申渡候、是も此中あつかいかけ有之候由候、
治少壹人さほ山へいんきょ候て天下事無存知候樣との儀候、是に相澄候、揄Eをもみなみな種々申候へとも、
治少壹人にて可澄と内意候、さ候とも揄E者其ままにては被居候ましく候条、可爲同前候、是ほとに澄候へ者可然候、
治少ことのほかおれたる被申事候、長老へふしをみなみたなかし候、此一通事、家康よりも一段みつみつ候へとの事候、
壹人にも御さた候ましく候、よくよくその御心へ候へく候、梅りん、渡飛、兒若其元へ被召寄候而、みつみつにて被仰聞可給候、
召上せ申候へ者ことことしく候、少も口外候ましく候由、かたく可被仰候被仰候、かしく、
毛利元康宛毛利輝元書状
兩三人に被仰聞候哉、可然候、
一 下やしきへ事尤候、我等も其申事まて候、此意わ一刻も急たく候、只今安國寺へも申候申候、へいをも先急候へと榎中に申聞事候、
御方も御方も可被仰候而給へく候、
一 蜂阿、如水、加主ささへはさたまりたる事候、彼衆身にはあられぬと聞え候、何篇被思召寄所よるひる可承候、かしく、
御方御氣分よく候事肝心候、尚以不可有御緩候、
毛利元康宛毛利輝元書状
あつかい調、治少は佐ほ山へ被罷越、息は大坂へ被罷居、秀ョさまへ御奉公候へとの事候、爲一礼夕部内府息被罷越候、
右之趣不存候てやらん、夜前も所により大さわき候つる、安國寺やかて治少へ被罷越候、彌樣子可聞之候、
内府へも被參候而萬被申談候へかしと申候、氣分惡せうし千萬候、御氣分如形候はは、後刻可有御出候御出候、かしく、
家臣宛鍋島直茂書狀
幸便之條、一書令啓候、生札歸國之後、相かはる儀無之候、過半、内府樣御存分之ままに罷成軆候、大納言殿、去四日御遠行候、
御息肥前殿内府樣別而被仰談候故、年寄衆五人之内、是又、過半家康に被申入之由申候、備前殿、中國まて相すみ、悦申儀候、
今少、石治少、被仰事共候けに候、是も御無事に可成と存候、其面普請彼是不可有油斷事、肝要候、右之分に、未二三人も依不相濟軆候、
たた今も弓、鑓取あはせ、赱あひ候儀、やみ不申候、かはる候はは、早速可申越候、此書面憙C次殿へ懇に可被申候、恐々謹言、
鍋加守
閏三月七日 直茂(花押)
鶴善右
久彌五左
御宿所
宛名欠損吉継書状
已上
昨日者度々御使、忝存知候、今度者様々之御苦勞故、無異儀相濟申候て天下御靜謐、上下之大慶不過之御事候、去とては御尤之御噯共、
倂御心盡之段、可申上樣無御座候、㝡以參上申上度候へ共、御存知之軆候条、無其儀候、何も面上之節、相積儀可得御意候、恐惶謹言、
閏三月九日 吉継(K印)
福島、蜂須賀、浅野宛家康書状
石田治部少輔佐和山へ閉口に相定、明日可參候、子息昨晩我ら所へ被越候、猶井伊兵部少輔可申候、恐々謹言、
後三月九日 家康(花押)
C須侍從殿
蜂須賀阿波守殿
淺野彈正殿
蜂須賀、黒田宛五大老書状
豐臣氏大老連署狀寫
朝鮮蔚山表、後卷之仕合、今度樣子聞屆候之處、御目付衆言上之通、不相屆儀と存候間、新儀之御代官所、如前々返付候、
幷豐後府内之城も、早川主馬に返付候樣に申付候、然上は、於彼表、其方非越度之段、歷然候間、可被得其意候、恐々謹言、
閏三月十九日 利長
輝元
景勝
秀家
家康
蜂須賀阿波守殿
K田甲斐守殿
島津忠恒宛義弘書状
尚以帖佐、山田、蒲生、吉田之人衆出水表へ可被召移之由、度々御談合申定候き、然處庄内堺へ御城取に付、
右四ヶ所之人數被召移之由相聞候、無心元存候、當時之地頭に内談いたし、移望申儀も可有之候、
倂庄内事は一節の儀に候、いつみの儀は肥筑表之一の城戸にて候間、彼表之儀手かたく御かくこ候はては、
貴所御爲に罷成ましく候、其御心得專一候、我等事は老軆にて候間、後年貴所御手前可然樣に可被仰付候、
はや肥筑表きざし候之由申來候、就夫もいつみ表之儀於不番は、庄内口の御行も急に難濟候之条、さて申入候、
以上、
態令啓達候、
一 今度於大坂 内府樣天下之御仕置被仰定候に就き、いかやうの子細候之哉、虫ト肥前守殿當時賀州へ在國候を、
無上洛樣にと被仰下候、自然強而於上洛者越前表にて可被相留之由候て、刑少殿の養子大谷大学殿、
石治少之内衆壱千餘、越前へ被下置候事、
一 加藤主事も無上洛樣にと被仰付候、其上に罷上におひては、淡路表にて可被相支之由候て、菅平右衞門尉殿、
有馬中書兩人に被仰付彼表へ被指越候、如斯必定承付候間、爲心持申入候、乍不申諸人不承樣に、
校量肝心候、其故は京都之出合、國元へ申通候と露顯候へは、爰元の仕合も難計候之事、
一 出水表之儀心遣候之条、 竜伯樣江被逐御熟談、彼境之番尓々可被仰付事に、ョ入候之事、
一 加主事は連々氣任之仁候之間、無思慮弓箭をも被取出儀も可有之候之歟、左樣なる時、出水表於不番に者、
油斷に可罷成候、殊佐敷表之儀も、小攝、相良なと被乘取軆に候ては、後年御爲如何敷候、
又加主方より手色不見處に、從御方角佐敷表へ楚忽なる儀をも仕出候へは、一揆の手初に可罷成候間、
いかにも丈夫なる仁を被召置、其仁壹人迄に内證被仰聞、油斷をも不仕、又楚忽なる儀をも
不申出樣に能々被仰付、彼表之樣子被聞屆、賢慮ョ入候事、
一 庄内表之儀いまた於無落去は、右之出合承付候はは、彌下城之御侘も六ヶ敷可申歟と存候、從有方の内證は、
先此節は下城仕候樣に被仰調候はは、後日はいかやうにも御噯可有之と被思食候間、時分からと申、
分別可入由被仰候、定而加主方よりは庄内へ山くぐりをも被指越、樣子可被申談と推量申候、
能々才覺此時候、恐々謹言
九月廿一日 惟新(花押)
少將殿
島津忠恒宛太田一吉書状
態以書狀申入候、先度者爲御見舞以使者申入候つる、定參着可申候、其後御左右承不申候、其元樣子無御心元存候事、
一 昨日從上方申越候、内府樣樗前殿へ御間之儀少被仰御座候て、雜説雖御座候、先々無相替儀之由候、乍去、
近日中村式部、堀尾帶、生駒うたを以、樗前殿へ御使を被立由候、か樣之儀にて如何成行可申哉と存候間、
爲御心持申入候、定從兵庫殿可被仰遣候へとも、海上不自由時分候間、自然をそく候はんかと存、申入候、
御仕立等之御心持にも可罷成かと存まて申入候、彌無御油斷可被仰付候、慥成儀は無之候、風聞には、
右之衆樗前殿へ御使に被遣候上にて、いかか可成行哉と申候間、其御心得候て萬御心遣尤候、
一 豐前之儀、彦山之座主職之儀付、K田甲斐守、毛利壹岐守申分出來候、是又いかか成行可申哉と存候、
もうはや互にいろたち候て在之由候、乍去、于今人數なと出候とは不相聞候、是も爲御心持申入候間、
此書狀をちちり不申候樣に可被成候、不申存候へ共、庄内之儀何とそ被成御才覺、相究候樣に御分別肝要候、
猶々其元樣子、無御心元存候、御返事委待入候、將亦、内府樣兵庫殿別而御入魂之由候間、是又可御心安候、
一 上方之雜説付、我等も可罷上と存候處、彦山之儀、當國と境目候間、か樣之儀付而罷上候儀も無用と、
從上方も申越候間、不罷上候間、何にても御用之儀可被仰越候、猶々可申入候、恐惶謹言、
太田飛驒守
九月廿八日 一吉(花押)
薩广少將樣
人々御中
慶長四年島津忠恒宛大谷吉継書状
追而是式候へ共、御持筒拾挺進候、聊御音信之驗迄に候、已上、
態企使札候、其後者遙久得御意儀も無御座、無沙汰背夲意存候、倂近年病中故、何方へも無音之条、非疎意候、
一 秀ョ樣日々御成人、御息災之御事、諸人大慶不過之候、於樣子者可御心安候事、
一 内府樣大坂然と被成御在城、爰元御仕置被仰付儀に候、因玆彌上方靜謐之儀候間、御氣遣被成間敷候事、
一 其表相替儀も無御座候哉、伊集院源二郎事、于今不致還住楯籠在之由、不及是非御事に候、 内府樣御内存も、
何樣にも貴所樣如御存分被仰付候樣に、可被成御沙汰之旨候間、是又可御心安候、則御使者被付置之由候条、
萬事被成御相談、可被屬御存分事、尤に存候、
一 武庫前篇より被懸御目に付て、於爰元萬事得御意候事、自然此方相應之御用之儀も御座候者、無御隔心可被仰越候、
不可存疎意候事、
一 上方之樣軆、定而武庫より懇可被仰越候、別条雖無御座候、永々御在國之處、餘久敷無沙汰之条、爲御見廻如此候、
猶追々可得御意候間、不能巨細候、恐惶謹言、
十月二日 吉継(墨印)
嶋又八郎様
人々御中
慶長五年信幸宛昌幸書状
尚々、其已來御煩如何候哉、無御心元候、無由斷御養性肝要候、伏見之衆悉大坂へ近々被相移用意迄候、其外無別儀候、
相替儀候者、急度可申達候、以上
急度申入候、其已來御機合如何候哉、無心元存候、不及申候へ共、せつかく御養性肝要候、此方無別儀候、可被心安候、
將亦先日如申入候、其方屋敷之事、塲所可然所候間、此已前請取候屋敷に引替置申候、左衞門佐屋敷其方竝に而候、
二間之内一間地形低候而手間入申候、其方事者留守と申、よき所を請取候はてかなはぬ由存、手間入候、
屋敷わ左衞門佐かたへ相渡候、然者内府樣大坂に御座被成候に付而、大名、小名悉伏見之衆大坂へ被引移候、
我等も近日可相移令支度候、替儀候者、追々可申入候、恐々謹言、
三月十三日 昌幸(花押)
伊豆守殿 安房守
直江兼続宛西笑承兌書状
豐光寺承兌書狀寫
態以飛札申達候、然者景勝卿御上洛遲滯に付而、内府樣御不審候儀不少候、上方雜説穩便無之候付、
伊奈圖書、河村長門被差下候、此段者、使者口上に可申達候得共、多年申通上者、愚僧笑止に存如此候、
香指原新地被取立、越後津河口道橋被做候段、何篇不可然候、中納言殿御分別相違候共、
貴殿御異見油斷與存候、内府樣御不審無據歟存候事、
一 景勝卿御別心無之候者、靈社之起請文を以、御申開可被成旨、内府公御内存に而候事、
一 景勝卿律儀成御心入者、太閤樣へ幷内府公御存知之事候得者、被仰分之品々さへ相立候者、異儀不可有事、
一 近國堀監物一々申上候間、御陳謝堅無之者、御申分相達申間敷哉、何篇御心中に可有事、
一 當春北國肥前守利長異儀之處、内府公順路成思食に而、無別儀思之儘靜謐仕候、是皆前車之誠に而候間、
其元兼而御覺悟、可爲尤歟之事、
一 京都に而揄E、大刑部少萬事、内府公へ被申含候間、御申分候者、御申越可有候、榊式太へも被仰越候而、可然歟之事、
一 千萬も不入、中納言殿御上洛遲候付、如此候間、一刻も早御上洛候樣に、取沙汰可被爲計事、
一 上方に而專取沙汰之事者、會津に而武具取集候と道橋被做候との事に而候、内府公壹入、中納言殿上洛御待被成候事者、
高麗へ御使者被遣候間、各降參被仕候者、來年歟來々年歟、御人數可被遣候、其御相談可被成候由に候間、
御入洛近々可然候、其上に而、無諫意被仰分候樣に、少も早御上洛尤候事、
一 愚僧與貴殿、數ヶ年無等閑申通候得者、何事も笑止に存如此に候、其地之存亡、上杉之興廃之境に候条、
被廻思案之外、他事有間敷候、萬端使者口上に申含候、頓首、
卯月朔日 豐光寺
承兌
直江山城守殿
御宿所
忠恒宛義弘書状
以上、
幸便之条令啓候、
一 庄内の儀相濟候て、先以目出度存候事、
一 先書に申候樣に、御かみ樣小腦氣に御座候つれ共、此比者御快氣之軆候、然共よりより少御煩被成候へ共、
致御養性候条、急度可爲御快氣候事、
一 伏見へは西國衆可爲御番よし、御掟被仰出候處に、何程之儀候哉、諸大名悉大坂へ家居已下被引越候、
我等事とかく不承候間、ふしみへ致御番候、今分に候はは、伏見之儀者荒野に可罷成軆候、
然共 御城へは 内府樣御息御番被成候事、
一 都今ほと御無事候、乍去景勝致出仕仕間敷よし被申候に付、搏c右衞門佑殿、大谷刑部少輔殿、
度々雖御噯候、不事濟候条、伊那圖書頭殿來十日に打立、奥州あいつへ下向候、
勿論樣子者不存候、就夫とにかくに、さつまより茂人衆被召上候はては不叶砌と存事候、
不可有御由斷候、猶追々可申候事、
一 爰元諸大名、少之所へ他行被成候にも、道具を事々敷持せ被成候条、上洛之時者其用意專一存候、
恐々謹言
卯月八日 惟新(花押)
少將殿
猶々上樣御煩、此比はすきと能御座候而、今日者御幸八幡へ御參詣候間、可御心安候、
將又先札にも申入候景勝御噯之儀に付伊那圖書頭殿去十日に爰元打立、會津へ下向候、
毛利殿、搏c殿、大谷殿使者同心にて罷下候、樣子聞得次第注進可申候、誠御音信之しるしまてに候、
此度貴所始而之出陳與申、天下之取沙汰無穩儀共候之處、庄内之儀思召侭に罷成、我等大慶此事候、
定而貴所滿足可爲御同前候、如此之爲御祝儀、 上樣より御使者被差下候条、乍次令啓候、
尤別使を以可申候へ共、同篇之儀候間、無其儀候、定頃者庄内置目等被仰付、
いよいよ目出度相調候はんと存候事、將又此表今程別条無御座候、替儀共候者、追々可申越候、
恐々謹言
卯月十八日 惟新(花押)
少將殿
如水宛清正書狀
已上
去十九日之御狀、今日巳刻に令拜見候、上かたの樣子被仰聞、得其意候、如此に候はんと依見及申、
内府公へも今度推參なから達而申上候へ共、無御同心、結句御腹立にて、拙者式へは御氣色も五三日ほとあしく被成候間、
か樣に各覺悟之违候所、被成御分別間敷事にあらす候へ共、各存分被申、天下之亂候事、不苦と被思召、右之御存分にも及と令察にて、
不及是非、御異見たて度如申候、如御存知、拙者式なとには奉行衆よりも 太閤樣被 仰置筋目ありやう不被仰聞候間、
内府公何を御たて候も、御违候も不存候、其元より中國へ程近候間、安國寺之御存分被成御聞候はは、そと可被仰聞候、
委曲追而可申達候、恐惶謹言、
加主計
七月廿一日 C正(花押)
如水樣
貴答
六月十五日付兼松正吉宛前田玄以・長束正家・増田長盛連署状
急度申入候、
一 會津表各出陣之定日從關東可被仰出候条、七月十日以前に被罷立儀者無用由候、急被罷立候而在陣之所地下人可為迷惑候間、右之通被 仰出候事
一 於先陣軍法之儀、何樣にも内府樣御下知次第に可被相仂旨候、被背御下知自然心々に被相候者、可爲越度事
一 路次中泊々之儀も、御兵粮丈夫に被遣候上者自賭に可被申付旨候、爲御目付御使番衆所々に被置候間、若下々非分之族有之者、
其主人可爲越度旨御意候条可被入御念候、恐々謹言、
六月十五日 揄E 長大 コ譱
長盛 正家 玄以
金松又四郎殿
御宿所
六月廿五日付前田玄以・増田長盛・長束正家連署状
今度東海道金松又四郎出陣、人數四拾人・馬三疋事、如帳面兵粮・馬飼料慥可被計渡候、若雨降於逗留者、応日數可被相渡候、
則右米・大豆 公儀御算用に可被相立候間、其主人請取を可被取置候、恐々謹言、
六月廿五日 長大 揄E コ譱
正家 長盛 玄以
草津にて二日分
新庄東玉
駒井中務殿
亀山にて二日分
岡本次兵衞殿
あつたにて二日分
虫ト左衞門大夫殿
すせにて二日分
田中兵部太輔殿
見付にて一日分
堀尾信濃守殿
島田にて一日分
山内対馬守殿
駿府にて一日分
中村式部少輔殿
神原にて二日分
同人
毛利家臣が企みを聞かされた時の心情を表す書状
毛利氏老臣連署狀
以上
態得御意候、今度安國寺出陣に付而甲州迄被罷出候處、石治少、大刑少手前如何被見及候哉、大坂被打歸候、其上、
輝元存候而被呼戻候樣被申廻、無是非次第に候、於此条者、輝元且而以被存間敷よ存候、於各々も不審千万に候、
此段被聞届候者、定而御理雖可被申達候、自廣嶋被申入候者、可爲遲々候条、先爲御分別、御旁々樣迄、爲留守居之者共、
前後之首尾、以飛脚申入候、追々爰許之樣子、至廣嶋申遣之候条、案外之仕合可被致仰天候、猶重々可得貴意候、恐惶謹言
七月十三日 u田玄蕃頭
元
熊谷豐前守
元直
完戸備前守
元次
吉川廣家自筆書狀
以上
去五日、雲州罷立、至幡州明石罷着候處、安國寺於江州石治少、大形少手前見及子細候哉、大坂罷歸候て、
我等事も可相(てへんに只)由申候条、昨日罷着候、然者右御兩所御企承、驚入候、殊更安國寺自輝元被呼歸候樣申廻候段、
無是非次第に候、於輝元は、前後存間敷よ不審に存計候、爰許之樣子、留主居之者共、至廣嶋に申遣候、頓而可有到來候間、
追々可申上候、此由御心得所仰候、恐惶謹言
七月十四日 吉川藏人
廣家(花押)
榊原式部大輔殿
御宿所
一、五人之奉行、五人之年寄共、上巻之誓紙連判候て無幾程、年寄共之内弐人被追籠候事
一、五人之奉行衆内、虫ト肥前守事、遮而誓紙を被遣候て、身上既可被果候處に、先景勝爲可討果人質を取、追籠候事
一、景勝なにのとかも無之に誓帋之筈をちかへ、又は大閤様被背御置目、今度可被討果儀有間敷存、種々様々其理申候へ共、
終無許容被出馬候事
一、知行方之儀、自分に被召置候事ハ不及申、取次をも有るましき由、是又上卷誓帋之筈をちかへ、忠節も無之者共に被出置候事
一、伏見之城、大閤樣被仰出候留主居共を被追出、私に人數被入置候事
一、拾人之外、誓帋取やりあるましき由、上卷誓帋に載せられ、數多取やり候事
一、政所樣御座所に居住之事
一、御本丸のことく殿守を被上候事
一、諸侍の妻子、ひいきひいきに候て、國元へ被返候事
一、緣邊之事、被背御法度に付て、各其理申、合點候て、重而緣邊不知其數候事
一、若き衆にそくろをかい、徒黨を立させられ候事
一、御奉行五人一行に、一人として判形之事
一、内緣之馳走を以、八幡之検地被免候事
右誓帋之筈は少も不被相立、太閤樣被背御置目候へは、何を以たのみ可在之候哉、如此一人宛被果候て之上、秀ョ樣御一人被取立候はん事まことしからす候也、
慶長五年
七月十七日
輝元宛三奉行書状
大坂仕置之儀付而、可得御意儀候間、早々可被成御上候、於樣子者、自安國寺可被申入候、長老爲御迎、可被罷下之由候へ共、
其間も此地之儀申候段付而、無其儀御座候、猶、早々奉待存候、恐惶謹言、
七月十二日 長 大
掾@右
コ 譱
輝元樣
永井直勝宛増田長盛書状
一筆申入候、今度於樽井、大刑少兩日相煩逗留、石治部出陣事申分候而、爰許雜説申、猶追々可申入候、恐惶謹言、
搏c右衞門尉
七月十二日 長盛
永井右近大夫殿
最上義光宛家康書状
急度申候、治部少輔、刑部少輔以才覺、方々觸狀を廻付而、雜説申候条、御仂之義、先深者御無用に候、從此方重而樣子可申入候、
大坂之儀者手置等堅申付候、此方と一所に候段、三奉行より之書狀、爲披見進之、恐々謹言、
七月廿三日 家康
出虫從殿
秋田実季宛榊原康政書状
榊原式太殿の狀七月廿七日の日付、八月七日傳内持來る
猶々其表御行之儀も先以御延引尤候、以上、
遠路御使札忝存候、御帋面之趣、則内府に爲申聞候處、被入御念段祝着に被存候、然者於上方石治少、大刑少別心仕に付而、
大坂より 御袋樣幷三人之奉行衆、北國樗州なと早々内府被致上洛尤之由申來候間、右之別心仕兩人爲成敗、
今度此方へ御下候上方衆致同道、上洛被申候、路次中城々へも番勢を入、仕置丈夫に致被罷上候、此表之仕置者、
武藏守へ被申渡候、旁可御心安候、拙者式今度者、此方に殘置被申候、相替儀候者節々可申達候、恐惶謹言、
榊式部太輔
七月廿七日 康政(花押)
秋藤太様
御報
黒田長政宛家康書状
先度御上已後、大坂奉行衆別心之由申來候間、重可令相談與存候處、御上故、無其儀候、委細之樣子、
虫O左へ申渡候之間、能樣可被相談候、猶山本新五左衞門尉、犬塚平右衞門尉。可申候、恐々謹言、
七月廿九日 家康(花押)
K田甲斐守殿
三口へ之御人數備之覺
伊勢口
一 四万千五百人 安藝中納言殿
右之内壱万人息藤七郎殿付有之、右三万餘は輝元自身召連出馬、
一 壱万八千人 秀家
一 八千人 筑前中納言殿
一 弐千百人 土佐侍從
一 千人 大津宰相
一 三千九百人 立花左近
一 千人 久留米侍從
一 五百人 筑紫主水
一 九千八百人 龍造寺
一 千弐百人 脇坂中書
一 三百人 堀内安房守
一 四百人 虫ト下總守
城加番
一 四百人 山崎右京
一 三百七拾人 蒔田權之介
一 三百九拾人 中居式部少輔
一 千人 長束大藏大輔
以上七万九千八百六拾人
美濃口
一 六千七百人 某石田治部
一 五千三百人 岐阜中納言一手
一 千四百人 虫ト右近
稻葉彦六
一 五千人 虫ト兵庫頭
一 弐千九百人 小西攝津守
一 四千人 同與力衆四人
一 四百人 稻葉甲斐守
以上弐万五千七百人
北國口
一 千弐百人 大谷刑部少輔
一 三千人 若狹少將
同宮内少輔
一 五千人 丹後七頭衆
一 弐千五百人 但馬弐頭衆
一 七百人 木下山城守
一 八百人 播摩姫路衆
一 弐千人 越前東江衆
一 五百人 戸田武藏守
一 五百人 lエ右馬允
一 三百人 溝口彦三郎
一 三百人 上田主水正
一 五百人 寺西下野守
一 五百人 奧山雅樂頭
一 弐千五百人 小川土佐守
同左馬允
一 千人 生駒雅樂
但主煩故家老名代人數召連候
一 弐千人 蜂須賀阿波守
但主煩故家老名代
一 六千人 木紀伊守
一 八百人 山修理
以上三万百人
勢田橋東番衆
一 千廿人 太田飛驒守
同美作守
一 四百五人 垣見和泉守
一 四百五人 熊谷内藏允
一 六百人 秋月長門守
一 八百人 相良左兵衞佐
一 八百人 高橋右近
一 五百人 伊東豐後
一 三百六拾人 竹中伊豆守
一 千五百人 中川修理
一 五百廿人 木村彌一右衞門
以上六千九百拾人
一 大坂留主居 七千五百人
一 御小姓衆 八千三百人御馬廻
一 御弓鐵炮衆 五千九百人
一 前備後備 六千七百人
一 輝元衆 壱万人
一 コ譱院 千人
一 搏c右衞門尉 三千人
此外七千人 伊賀在番
以上四万弐千四百人
都合 拾八万四千九百七拾人也
六月十日付安田能元・甘槽景継・岩井信能・大石元網・本庄繁長宛上杉景勝書状
今度上洛不成樣子、第一家中無力、第二分領仕置之ため、秋中迄延引之趣、奉行衆へ令返答之處、重而逆心之讒言を以、是非上洛無之者、
向當郡可被及行之旨候、就之存分雖有之、元來無逆心筋目之条、 抛萬事可令上洛覺悟落着、倂読人糺明之一ケ條申入候處、
無是非只不相替上洛與計有之而、剩日限を以催促如此被押詰、上洛之儀者如何としても不成候、數通之起請文反古になり、
堅約も、好も、不入讒人之糺明も無之軆、時刻到來無二思詰候条、譜代・旧功牢人不依上下、右之趣、無拠分別仕候者は、
供之用意可申付侯、自然、無分別を以、理不尽之滅亡被述懐を存候者は、何者成共無相違可出暇候、然者、上方勢下候日限聞屆次第、
半途へ可打出候、諸口之儀に候条、領分端々被押破、 地下等心替可仕義必然候、其時節、或在所を無心元存知、
或妻子を難捨心中候者、當座之不覺末代之名をくたすへく候条、兼而肉を切而、可存是候、内々無疑心仕置無二奉公存詰者之糺明直に申出候者、
人により遠慮可有之候条、各以分別急度可被相究者也、
六月十日 景勝
安田上総介殿
甘槽豐後守殿
岩井備中守殿
大石播磨守殿
本庄越前守殿
景勝宛義弘書状
雖未申通候令啓候、此度内府貴國へ出張に付、輝元、秀家を始、大坂御老衆、小西、大刑少、治部少被仰談、
秀ョ樣御爲に候条、貴老御手前同意可然之由承候間、拙者も其通候、委曲石治より可被申候、以上、
瀦コ入
七月十五日 惟新
景勝
人々御中
昌幸宛三奉行書状
急度申入候、今度景勝發向之儀、内府公上卷之誓帋幷被背 太閤樣御置目、秀ョ樣被見捨出馬候間、各申談、
及楯鉾候、内府公御違之条々別帋に相見候、此旨尤と思召、 太閤樣不被相忘恩賞候はは、 秀ョ樣へ可有御忠節候、
恐々謹言、
長大
七月十七日 正家(花押)
揄E
長盛(花押)
コ譱
玄以(花押)
眞田安房守殿
別所吉治宛三奉行書状
虫ト越中守事、何之忠節も無之、太閤樣御取立之lエ右馬介跡職從 内府公得扶助、今度何之咎も無之景勝爲發向内府へ助勢、
越中一類不殘罷立候段、不及是非候、然間、從 秀ョ樣爲御成敗、各差遣候条、可被、抽軍忠候、至于下々も依動可被御襃美候、
恐々謹言、
七月十七日 長束大藏
搏c右衞門尉
コ譱院
別所豐後守殿
中川秀成宛西軍首脳書状
前田玄以等連署狀
態申入候
一 去十七日折紙幷一書を以申入候、定而可相屆候、内府上樣被背御置目、上卷誓帋之筈を被違、
恣之働に付而輝元、秀家、瀦コ庫、年寄衆中申談、 秀ョ樣馳走被申、取立申可に相究及楯鉾候、
其方儀太閤樣御恩賞不被相忘候者、秀ョ樣へ御忠節此時候事、
一 濃州之儀岐阜中納言殿、稻葉右京、大柿、犬山悉秀ョ樣忠節可被申に相究、人質進上被申候、
一 勢州之儀、桑名氏家内膳在城、爲加勢原隱岐被遣候、亀山岡本人質進上申、爲加勢池田伊與守、
濱民部被差越候、~戸虫ト下總在城、津城、松坂、岩手何も御人數被入置候、勢州丈夫に御置目相澂候事、
一 輝元御人數弐萬餘勢田、守山之間に陣取、何之口へ成共東國より罷上候者可差向之由候、備前中納言殿、
筑前中納言殿醍醐、山科、大津へ取續御陣取候、
一 大坂大小名共に人質丈夫に御卜、其上妻子、番等堅申付候事、
一 其方儀慥之留主居被申付、人數被召連早々可有御上候、此時候間、可被抽粉骨候、然者外聞可然樣に馳走可申候、
恐々謹言
長大
七月廿六日 正家
揄E
長盛
コ譱
玄以
中川修理殿
御宿所
態令啓達候、昨晩者被召寄、種々御懇之儀共誠此中候、散窮屈忝奉存候、以外大御酒を被下、于今ふせり在之事候、
今朝者早々預御使者、過分至極に存候、自是も早速可申上處、沈醉故御報迄に罷成恐入候、先爲御禮企一札候、
尚追々可得御意候、恐惶謹言
七月廿九日 白頭(黒印)
大刑少
瀦コ入樣 白頭
人々御中
昌幸宛三奉行書状
態可申入處、好便之条令啓候、去年已來、内府公被背御置目、上巻之誓帋を被違、恣之仂条々一書先度進之候、
相達候哉、殊更今度景勝可被相果儀、不謂旨樣々理申候へ共、無同心下向候、如此壹人宛被相果候ては、
秀ョ樣可被取立儀にあらす候に付而、各申談、西之丸之留主居追出、伏見に有之留主居爲可討果、堀際まて取詰、
築山を申付、大筒、石火矢にて責詰候、急度可爲落居候、大坂之事、西之丸へ輝元被移、長大、コ譱、揄E丸々へ移り、
何も日本國諸侍妻子番等堅申付、其上に人質を取置候、美濃、伊勢手先之城々へは加勢を入、自身之事は不及申、
家老まて人質を相卜申候、九州、西國、北國、一篇に申候段、但樗州は老母人質に出候間、先引切候事迷惑之由、
内儀之理に候、關東へ罷立候衆、妻子人質も堅召置候間、不可有異儀歟、貴殿之御事、 太閤樣別而御懇無御忘却候は、
此節 秀ョ樣へ御忠節肝要候、其上景勝申談候者、關東卽時に破滅たるへく候、伊達、最上事も大坂に自分之妻子不及申、
家老まて悉妻子有之付而、相卜申候、惣別下向之刻より何時も 秀ョ樣へ御忠節可申上由被申置旨候て、爰許之有姿申下し申候、
御手前之儀被見合候て、是非共御忠節此時候、猶石治少より可被申入候、恐々謹言、
長大
七月二十九日 正家(花押)
揄E
長盛(花押)
コ譱
玄以(花押)
眞田安房守殿
御宿所
昌幸宛輝元書状
態啓達候、去年已來、内府被背御置目、誓帋被違、恣之仂無是非候間、今度各相談、及楯鉾候、上方之事一篇に申合、
妻子人質悉相卜候、景勝申談上者、關東之儀可屬平均事、案之内候、貴殿連々 太閤樣御懇意於無忘却者、此節
秀ョ樣へ御忠節肝要候、猶從年寄衆可被申入候、恐々謹言、
七月廿九日 藝中納言
輝元(花押)
眞田安房守殿
御宿所
去廿一日に兩度之御使札、同廿七日於江佐に到来、令拜見候
一、右之兩札之内、御使者持參之書に相添覺書幷御使者口上得心事
一、先以今度意趣、兼而御知も不申儀、御腹立無餘儀候、然共内府在大坂中、諸侍之心いかにも難計に付而、言発儀遠慮仕畢、
就中貴殿御事迚公儀無御疎略御身上に候間、世間如此上者、争ととこほり可在之哉、いつれも穩密之節も申入候ても、
世上不成立に付ては、御壹人御得心候ても無專儀と存思慮、但今は後悔候、御存分無餘儀候、然共其段も、も志や不入事に候、
千言萬句申候ても、太閤樣御懇意不被亡思食、只今之御奉公所希候事
一、上方之趣、大方御使者見聞候、先以各御内儀かた大形少馳走被申候可御心安候、揄E、長大、コ譱も同前に候、我等儀者、使者如披見候、
漸昨日伏見迄罷上躰に候、重而大坂御宿所へも人を進之候而御馳走可申候事
一、今度上方より東へ出陣之衆、上方之樣子被承、悉歸陣候、然者於尾、濃令人留、歸陣之衆一人一人之所存、永々之儀、秀ョ樣へ無疎略究仕、歸國候様に相と候事
一、大略無別条、各々無二之覺悟に相見候間、御仕置に手間入儀無之候
一、長岡越中之儀、太閤樣御逝去巳後、彼仁を徒黨之致大將、國亂令雜意本人に候間、即丹後國へ人數差遣、彼居城乘取、親父幽齋在城へ押寄、二の丸迄討破り候之處、
命計赦免之儀、禁中へ付而御侘事申候間、一命之儀被差宥、彼國平均に相濟、御仕置半候事
一、當暮、來春之間、關東為御仕置可被差遣候、仍九州、中國、南海、山陽道の人數、既八月中を限、先江州に陣取幷来兵粮米先々へ可被差送之御仕置之事
一、樗前儀も 對 公儀毛頭無疎意覺悟に候、雖然老母江戶へ遣候間、内府へ無疎略分之軆に先いたし候間、連々、公儀如在不存候条、
各御得心候て給候へとの申され分に候事
一、ヶ条を以蒙仰候處、是又御使者に返答候、又此方より条目を以申儀、此御使者口上に御得心肝要候事
一、自此方三人使者遣候、右内一人は貴老返事次第案内者そへられ、此方へ返可被下候、殘弐人は會津へ之書狀共遣候条、其方より慥かなるもの御そへ候て、
ぬまた越に會津被遣候て可有候、御在所迄返事持來歸候者、又其方より案内者一人御そへ候て上着待申候事
一、豆州、左衞門尉殿、以別帋雖可申入候、貴殿御心得候て可被仰達候、委曲御使者可被申伸候
恐惶謹言 七月晦日 三成
眞房州
御報
真田親子宛大谷吉継書状
眞田安房守 白以
左衞門佐殿
大坂より
猶以此方之儀、大坂いかにも丈夫に人質を取かたまり申候、伏見之城へは嶋津、輝元、備前中納言殿、小西御鐵炮、弓衆今日取寄候、
無程のりくづし可申候、此已後は留主御氣遣有間敷候、伊豆殿女中改候間、去年くたり候時、左衞門佐方へくやみ候樣子迄を
證跡に申無別儀候、豆州へも不苦候はは、御心得候て可給候、左衞方へは東海道うつの宮へ出合候樣、さわ山より兩吏くたし申候、
天下泰平無此上候へ共、御兩所の御事、心かかり不及是非候、以上、
大坂御留守より飛脚被差下由候間、申入候、
一 内府去去年已來御仕置 太閤樣御定被背相、秀ョ樣御成立難成由候而、年寄衆輝元、備前中納言殿、嶋津此外
關西之諸侍一統上を以御仕置改申候事、
一 去十七日に西丸内府留主居理にて出し、輝元被移候事、
一 出陣之諸侍妻子御年寄衆より被相卜候、御兩所之御内儀、我之預分に仕候事、
一 内府置目御ちかへ、十三ヶ条書顯候、諸人存知に付中々無不審體候事、
一 何方に御在陳候共、右趣御分別候而、秀ョ樣御身捨有間敷事肝要候、倂御居住の所により、かぶりのふられざる仕合可在之候、
此返事に御内狀を可給候、御年寄衆へもみせ申候樣に調可被下候、委曲御年寄衆よりの觸狀条目可被進候、
萬々御左右待申候、恐惶謹言、
七月卅日 白以
尚以小松表之儀切々御注進尤候、ふかと相仂に付て、拙者人數つれ、不寄時日懸付、可有一戰候間、御氣遣間敷候、
何時も可申便候、追々可得御意候、以上、
去月廿八日御飛札、今日朔參着、於大坂拜見候、拙者儀昨日當地着候、仍小松表之様子承候、令得其意候、
定爲差仂にても不可在之候、儞各令談、小松へも御加勢、其外大聖寺、丸岡、其他何へも御加勢可在之候、
相究御書立候条、頓て御人數可被差遣候間、於樣子者、可御心安候、其上何時も拙者懸合可申候間、被成御氣遣間敷候、
將亦、今日伏見城本丸へ悉乘入、西丸何茂燒失候、こほり落候者共數多討果候、殿主も悉燒亡、
加樣早速相濟候儀、天命難遁儀と存事候、猶小松表之様子、追々御注進尤候、恐惶謹言、
八月朔日 石治部三成
青紀伊様
御報
昌幸宛二奉行書状
石備より飛脚可被相越由候間、申入候、今度上方平均に申談候儀、兼申入度候つれ共、か樣之事前廉に口外候ては不相調候に付て、
不及是非候、何れも不殘相卜候儀に候条、可御心易候、御手前之事、 秀ョ樣へ御忠儀此時候、景勝、佐竹可爲一味候、
其子細は此中内證承候、其上妻子歴々此方に候、伊達、最上も其分に候、被罷下候刻、何樣にも 秀ョ様次第覺悟仕候へと被申置由候、
一 今日伏見之城に有之關東者鳥井彦右衞門を始、八百餘悉討果候、如何樣 太閤樣日本國之者共に被仰付、
被入御念候御城を諸手より壹度に卽時に力坂に乘入候事、偏 太閤樣御計と諸人申事にて候、追々可申承候、恐々謹言、
長大
八月朔日 正家(花押)
揄E
長盛(花押)
眞田安房守殿
御宿所
真田宛西軍首脳書状
急度申入候、太閤樣後不慮以来、内府被背御置目、上卷誓帋被違、恣之仂無是非次第に候
殊更今度景勝可被相果段、不謂儀に候間、種々理申候へ共、無同心下向、如此之上、
秀ョ樣可被取立、非所行候之間、各申談、守御置目、秀ョ樣御馳走之為可申、上方之儀一篇に相固、
御仕置申付、關東へ罷立候衆も妻子人質於大坂相究候間、不可有異儀候歟、勿論上方在京在國之衆は、
何樣にも、秀ョ樣へ御忠節可申上由、無二之覺悟に候、就之伏見之城在番に關東二千計在之間、
卽時に諸手より乘崩、大將鳥居彦右衞門始候て、一人も殘討果候、誠以天罰與申事に候、
次丹後之事、虫ト越中兄弟餘多在之内、壹人秀ョ樣へ御目見をも申させす、悉召連關東へ罷立候、
其上御忠節も無之に、新知召置候段、不相屆儀候間、人數を遣城々何も請取、田邊之城町二ノ丸燒崩押詰仕寄候て、
堀際迄責詰候、落居不可有程候、其表之儀堅固の被仰付、秀ョ樣への御忠節此時候、
左候者各々被相談、御外聞も可然樣に可申談候、恐々謹言
八月二日 長大正家
揄E長盛
石治三成
コ譱玄以
芸中輝元
備中秀家
眞田安房守殿
御宿所
松井康之宛西軍首脳書状
急度令啓候、内府去々年已來、太閤樣被背御置目、上卷之誓紙を被違、恣之働付而、今度各申談、
及矛楯候、關東之儀も伊達、最上、佐竹、岩城、相馬、真田安房守、景勝申合、色を立候に付而、
則八州無正體事候、上方より罷立候衆も、妻子人質於大坂相究候故、是又懇望候、
就其越中方之事、大勢兄弟之内、壹人秀ョ樣へ御目廻をも申させす、悉關東へ罷立、
其上何之忠節も無之、新知召置候儀、不相屆に付而、丹後之事城々悉請取、田邊一城町二ノ丸まで令放火、責詰仕寄申付候、
落居不可有程候、貴諸之事、太閤樣別而被懸、御目、知行等まで被下候間、秀ョ樣へ御忠節可在之義候、
於樣子者太田美作守方へ申渡候て差下候、其郡之事、速可被明渡候、何かと候ては不可然候、恐々謹言
八月四日 長大正家
揄E長盛
石治三成
コ善玄以
松佐 御宿所
鈴木重朝宛西軍首脳感状
去々年已來、内府、被背太閤樣御置目、上卷誓帋被違、恣之働に付而、爲可被相立御置目、被及鉾楯候、
第一伏見御城被仰置候留主居を追出、關東之凡下野人者共、御座所を踏荒候段、無是非次第に付而、今度堀際迄、
各被押詰卽時被乘崩大將鳥井彦右衞門を始而八百餘被討果之儀、無比類儀候、殊其方事、鳥井彦右衞門首を被討捕、
御粉骨之至、秀ョ樣御感不斜候、仍御太刀一腰、御馬代銀子拾枚、竝御知行千石被宛行畢、猶以可被抽御忠功之由、
被仰出之狀如件
慶長五 長束大藏大輔
八月五日 正家
搏c右衞門尉
長盛(花押)
石田治部少輔
三成
コ 譱 院
玄以
芸中
輝元(花押)
備中
秀家(花押)
鈴木孫三郎殿
巳上 態申入候
一、此飛脚早々ぬまた越に會津へ御通し候て可給候、自然ぬまた、會津之間に他領候て六かしき儀在之候共、
人數立候て成共、そくたくに成共、御馳走候て御通しあるへく候
一、先書にも如被申候、貴殿事早々小室、ふかせ、川中嶋、すわの儀、貴殿へ被仰付候間、急度可有御仕置候、可成程御行此時に候事
一、とかく物主共城々へ不罷歸御才覺肝要に候事
一、會津へも早々關東表へ御行被仰談、行に可被及之由申遣候、貴殿よりも御入魂候て、可被仰遣候事
一、從越後も無二に秀ョ樣へ御奉公可申旨、申越候間、妻子も上方に在之事候条、僞も在之ましく候、樗前儀、母江戶へ遣故候か、
未むさとしたる返事候、剩無二に上方へ御奉公と申虫ト五郎左へ手前へ人數を出候間、自越後越中へ人數可被出申越候、定相違有間敷候事
一、關東へ下上方勢、漸尾三内へ上り、御理半に候、それそれに承候儀究候て相濟候事
一、先書にも申候伏見之儀、内府爲留主居、鳥居彦右衞門尉、松平主殿、内藤弥次右衞門父子、千八百余にてこもり候、七月廿一日より取巻、
当月朔日午刻、無理に四方より乘込、一人も不殘討果候、大將鳥居首は御鐵炮頭すすき孫三郎討捕候、然而城内悉火をかけ、やきうちにいたし候、
鳥居彦右衞門尉は石垣をつたい、にけ候よし、誠かやうなる儀、卽座に乘崩候段、人間之わさにて無之と各申合候事
一、先書にも申候丹後之儀、一國平均に申付候、幽齋儀者一命をたすけ、高野之住居之分に相濟申候、
長岡越中妻子は人質に可召置之由申候處、留主居之者聞違、生害仕と存、さしころし、大坂の家に火をかけ相果候事
一、備之人數書、爲御披見進之候、此方之儀可御心安候、此節其方之儀、公儀有御奉公、國數可有御拝領儀、天之あたふる儀候間、御由断在之間敷候事
一、拙者儀、先尾州表へ岐阜中納言殿申談、人數出候、s左太只今御理申半に候、於相濟者、參州表へ可打出候、もし於不濟者、C洲へ勢州口一所に成候て、
可及行候、猶言事可申承候、恐々謹言
八月五日 三成
眞田房州
同 豆州
同 左衛門介殿
人々御中
真田宛三成書状
去三日之御狀今六日子刻至佐和山參着、令拜見候、
一 先書に度々申入候、參着如何、其國一ヶ國之仕置責取に被仰付之旨、輝元、秀家、揄E、長大、
コ譱從拙者可申遣旨被申候間、其心得而深志、河中嶋、諏訪、小ゥ、甲州迄之儀、成程弓矢御才覺可被仰付候、
何も上方に妻子有之衆に候間、不可有異儀候、若愚之意方者、押付成敗有之可有配領旨相談之上被申定候間、
其旨可被仰付候、被移時日候而者其詮有間敷候、但餘御手候衆者此方に可承候、美濃衆可被差向儀候、
忠E近儀者各別之遺恨、其故者御若輩之 秀ョ樣を申掠新地拜領曲事よ被仰候事候、
一 會津被越候飛脚可被仰談儀肝要候事、
一 越後之儀者堀久太差執心無之候条、上方缺國多候間、越後者被遣景勝、久太上方に而拜領の樣有搆、
一 河中嶋儀者御手に餘に付而者可承候、從此方被仰付方可有之候、
一 前肥州江戶に老母幷家老人質に置候故歟、其補ひとての事に候哉、于今慥に御請をも不申、剩丹五郎左へ出人數等と申付、
北國へも如形被遣御人數候、堀久太上方へ無二之覺悟候、越後筋に候間、越中に亂入候得よ申遣候事、
一 丹後國之儀者一國平均所務半申付候、幽齋事色々懇望に付赦一命流罪候、息越中事故御法度被誑内府、
御若輩之 秀ョ樣を申掠取新地候故遺恨深候、被か妻子居大坂候つ、燒討に被申付候事、
一 先書にも申候、大坂西丸に家康留主居之者五百餘居候を追出して遣伏見城、西丸に者移輝元候、其已後伏見城鳥井彦右衞門大將に而手八百餘人置候、
各申談、去る朔日從四方乘破不殘壹人討取、城中御殿此間雜人原踏荒候間、悉火を懸一字も不殘燒払候事、
一 内府上杉、佐竹敵に被任、僅三萬之人數を持、分國抱十五城、廿日路被上事成物候哉、路次筋之面々今度出陣候上方衆如何内府次第よ申共、
廿年已來 太閤樣之御恩を内府去年一年懇切に相替、 秀ョ樣へ如在仕、剩大坂に差置たる妻子を捨可申候哉、
其上内府此中各へ差而懇も無之と承候、右之分別も無之衆之壱万、上勢壱万計を語ひ候半を尾、參之間に而可討取儀誠に天之與に候、
然者會津、佐竹、貴殿等者着袴可有亂入存候、但被捨天道仕置見之候間、被上候事も可有候、唯今進候備如左右被相究候事、
一 載此書立候衆何も無二之覺悟候、可御心易候、日本國之諸侍之妻子入置大坂候間、於仕置可御心易候、
免角愚意違背之輩可被討取覺悟專要候、此方爲仕置明後八日尾州表へ被出候、岐阜申談候、不可有御氣遣候、
一手之筑紫衆者殘置佐和山、用次第可被打出候、尾州表へも輝元之人數壱万計吉川、安國寺召連、長大同道に而昨日被打出候、
其外勢州表書立次第に候、鈴鹿越を被打出、輝元之儀者、自然家康被上候者、濱松迄被着候時分人數弐万召連至勢州出馬可仕相定候、
此書立之人數五三日已前に悉從國々馳上相知候、於仕置者可御心易候、其上金銀、玉薬料入候者可承候、從 秀ョ樣可被遣候、
太閤樣御貯之金銀幷闕地何も御忠節次第其々に可被下候、今度伏見表手柄仕置九州衆、内府江州之地行十万石令割符、
當座之引出物金銀に添感狀被下候、
一 定而可被聞召候、水野和泉守參州池鯉鮒に居候處に、加々井彌八郎よ申者出陣仕立寄致口論、彌八郎刺殺和泉守、
帶刀者新池を取候仕合よ相違候、中式も病死候、猶吉事切々可申承候、御用無之共可預御飛脚候、御内儀方大坂に御入候、
一段無事に候、宇多河内父子當城爲留主居今日當地へ被參候、下野事先日責伏見候節、被取合候而家中之者少々手負得共、
父子共に無事に候、可被御心易候、今度九州衆不大形 秀ョ樣へ御奉公振に候、抛命無二之體に候、輝元も同然に候、恐惶、
石田治部少輔
八月六日
眞田安房守殿
真田宛三成書状
去五日之御狀、今日於濃州大垣令拜見候事
一、度々爰元之様子、其地之儀申越候、未無參着候哉、只今之御書中無御心元候事
一、昼v太儀、何樣にも秀ョ樣次第と度々到來候間、虫ト肥前老母幷家老之人質、江戶へ遣取、未御事請不申、剩加州小松表へ人數を出なとと風説候条、
急度越中へ亂入可在之旨度々申遣候、定而早々被面へ可及行候事
一、石玄番事は大坂に妻子其上兄弟在之事候間、致推量に公儀慮外難成身上候間、石備前を以巨細申候き、定而別条在之間敷歟難計事
一、忠E近事、定而兎角に内府儀無二に可存候、新知拜領候、其上上方に妻子一人ならて無之、菟角貴所より早々可被及御行事
一、石玄事も濟候へは能候、不濟候はは、是又其方より可被御行候、越後より之道明候へは、會津へ之通用共に自由候事
一、信州之儀は不及申、甲州迄も貴所御仕置可在之旨、輝元をはしめ各被申候事候、拙□より能申候へとの事、此段先書に申候、
早々人をも御拘候て、方々へ之御仕置此時候、拙子儀しかと濃州に在陣候、長大勢州に在陣候、此口之儀、家康ほとの者十人上り候共可御心安候
討果候より外他事不可在之候、今度關東へ罷立めんめん、尾、參州の間に集居候て、懇望申族も候、又江戸にて人質をしめられ、致迷惑族も在之事候、
味方説に申候哉らん、家康急度上るなとと申成候由候、あわれ上り候へかしと念願迄候事
一、菟角早々會津へ使者を被立、公儀無御如在、拙者と被仰談候由、可被迎合候、不及申候へ共、國ならひにて物のそかどを申方□候間、
如此御入魂上は、少々出入りはいらぬ事候間、物やわらかに、彼方気に入候樣に被仰越、御入眼此時候事
一、先書にも如申、伏見之城、家康留守居鳥居彦右衞門をはしめ七頭歟千八百餘殘置候處、
此時宜候間、關東へ明退候へと申候へ共、りくつ申候間、去朔日四方より乘入、
一人も不殘討果候、鳥彦右首は御鐵炮頭鈴木孫三郎討捕候、此間、御殿中雜人はらふみけがし候間、
不殘燒払候、大坂の儀も西之丸に人數五六百ほと殘置候を追出、伏見へ追入、輝元被入替候、
是又伏見にて同然に討果候、伏見にて各手を砕乘崩候、九州なとの衆別而手柄を被仕候、
大坂には揄E被居候、輝元も在城候、伏見にも六七千にて、掃除、普請以下申付候、
然間京都、大坂靜に候、勢州江安國寺、吉川壱万餘召連、長大同道にて罷越候、尾、濃へは拙子罷越候、
嶋津其外九州衆佐和山へ被參候、人數入次第、尾、濃之間へ可打出候、丹後之事はや一圓平均に申付候、
幽齋事可被成敗に義定候處、自 叡慮色々被 仰出、命之事相助、九州中流罪之體候、則諸方へ之備書立進入候、
此備書立之内に在之面々□、無二 秀ョ樣可抽忠節覺悟候、せいしにまて相究候、此外先手に在之衆、
書此立に不乘衆も可在之候、右之段先書に雖申候、不相屆候哉、又申入候、恐々謹言
八月十日 石治少三成
眞田安房守殿
同左衛門尉殿 御報
佐竹義宣宛三成書状
追て、來春は、頓て御上洛可被成候間、被御禮仰上可然奉存候、無御油斷御用意專一に奉存候
去月廿三日に其地を罷立候飛脚無異儀大坂へ罷着候、同月廿六日之御狀も於江左拜見、此飛脚大坂へ罷通候、而歸遣候節可申候事
一 内府日來之恣之仕置狼藉、追日曲事之次第有之付て、此備書之面々申談、可打果議定候、大坂西の丸留守居、
五百計殘置候を追出し、伏見之城へ追入、伏見には、鳥井彦右衞門大將にて千八百餘籠置候、大坂西の丸へは輝元被移候事、
一 伏見之城に、右之者共置候へは、不濟事に候間、去朔日四方より乘入、籠居候者、壹人も不殘打果而、
殿 中此間雜人原ふみちらし候間、一宇も不殘燒捨候事、
一 長岡越中、若輩之 秀ョ樣を申掠新知行拜領候間、曲事無是非次第候、依之丹後國へ人數被遣一國平均に申付候、
幽齊居城に楯籠候を可討果に議定候共、禁中より命之儀赦免任叡慮一命被免候事、
一 眞田事、無二に京家次第と被申候間、信州之仕置彼人に被仰付候事、
一 昼闡セも無二京家次第と被申付而、早々越中へ可被亂入之由申越候事、
一 樗前事、老母家老人質に江戶に遣に付而、未た慥之御請を不申、剩加州表へ被動候、定而江戶へ之
おきのいたるへく候歟、兎角曲事に候間、此口へも御人數如此被差向候事、
一 日本國諸侍妻子、大坂に申置候間、此段可御心易事、
一 會津よりも度々到來に候、伊達最上相馬、何も入魂被申由候、其國之儀勿論會津必可爲御入魂候旨、
被仰談、家康可被討果御行此時候事、
一 萬か一も家康うろたへ候て上候はは、尾州參州之間に而討果儀案中に候、然間參口被遣御人數備、書立、爲御披見進候事、
一 右之書立にはつれ候者は、多分今度其許へ出陣候衆に而候、漸尾州へ遁上、御理申半よ存候、
然共後々迄之究、それそれに申付候、人々より歸國之儀申付候、於仕置者可御心易候事、
一、爲仕置輝元人數壹萬餘、先吉川安國寺長束大藏同道に而勢州へ一昨日出陣候、輝元儀は濱松邊へ出陣、
家康上着之刻三萬召供出連、可上候に相定候、其外勢州へ一手向之人數すすか迄とし、次第次第にくり出候之事、
一 我等事、尾濃境目之爲仕置、尾州衆表一昨日八日に罷出候、岐阜衆と申談事候、九州衆は佐和山に
殘置人數入次第可打出候申事候、尚追々可申入候、恐惶謹言
追而水野和泉、家康おちに候、それさえ出陣之刻、彼居城參州ちりうにおゐて馬廻かかの井彌八と申者と口論いたし、
彌八和泉を切ころし、堀帶刀其座に在合、痛手を負い相果候、新地を取候仕合に相違、中式少も痛死候、以上
八月十日 石治少
三成
義宣
御報
小早川秀包書狀寫
猶以爰元たたいは委細別帋に申候、可有御分別候、先樣被越候衆歷々にて候、注文進之度候へ共、何之用にも不立事候間、
不進之候、ぬけぬけ承及候、被戾候衆も御座候、已上、
追而申候、爰許之儀は内府被上候へ者譱惡艮見疊申事候、たたいなか御弓箭にて候、其元にて承及候よりも丗間不調事候、
越前に山口玄蕃大勝寺と申城に被居候、父子共に被立御用方御氣遣成事にて候、我々式なと事も此時之儀候、御用立候歟、
丗間目出度儀申候かにて可有之候、然間何にもかまい不申、人數をもよひ上申候、菟角内府上に候へ者一戰に極申候、
其元之事、境目彼是あやうく存候へ者、爰元にて中々申たて候事も不相成候、かさおしまてにて候、我々着候事もやうやう申理軆候、
立左なとはや着樣にてせうし候、 爰許人數之きわめもきひしく候間、人數をもめし上候、其元は於于今は成次第まてにて候、
自然不慮之儀も可有之候、妻子はちをかき不申樣ョ存候、かりそめに上り候て長々と在做可申候、
無左候共大畧此度かかきりのやうに存候、餘之方へは不申候、出陣人者申度事も不相成候間、
御方樣計へ若輩よりの御なしみに心底之所不殘申入事候、能々御得心尤候、御校量之前候間不能申候、恐々謹言、
八月十三日 秀兼 御判
快友まいる
申給へ
嶋津惟新書狀
猶々内府公より貴所へ預候之鷹、ここもと陣立に付而、取亂候間、幸山路市兵衞尉罷上候条、下申候、
將又帖佐方之人衆定上候、自然濱市、かこしま之人衆同然に罷立候へなとと候ては、可致遲遲事可在之候、
帖佐之人衆者今程過上御座候条、盛にては罷成ましく候、伊勢平左衞門尉、本田六衞門尉兩人として、
人衆すすめ候て、早々可差上よし○被仰候而可給候、
七月廿九日之書狀、八月十七日濃州至垂井上着、令披見候
一 龍伯樣御上洛之儀被聞召合之由、御尤に存事候、然者被成御上洛、かみ樣へ御替候はん哉と申越候も、
世上靜謐之時分、内府公御意候条右之分申越候っ、當時者上方之成立ゥ式被成改易候条、于今者龍伯樣御上洛之儀不入儀候、
委細先書に申下候条可相屆候、
一 去春已來伏見御留主番に付而、人衆可被差上由數度雖申下候、無合點候哉、終に壹人も不被差上候、千萬無心元存候、
一 今度上方就轉變、前嶋太郎兵衞尉差下樣子具に申越候、雖然、御人衆被差上候之共、又者被上間敷とも否之返事無之、
大方成 御文體に候、畢竟太郎兵衞尉若輩故委細不申屆候哉、不審深重に存事候、連々御家中より在京之人衆七千人之御盛、
兼日相定由及承候条、先甚内半分と存、三千五百程急度可被差上由前嶋太郎兵衞尉を以申越候き、此如申下候樣子者、
御國元之儀も心遣存候ての由事候、然處九州衆過半被成在京、當時 秀ョ樣御用に被相立候、在國之衆者皆々被召上候、
其上分國よりも御人衆馳走可仕由被仰聞候間、其後申越候は、㝡前三千五百人可被差上由雖申下候、他國なみの儀候間、
有樣之軍役被仰付肝要之由細々申下候、然者此度之御書中、何方とも無一着遠慮之體と相見得申候、
定於御心中者、別儀有間敷候へ共、何としたる御事候哉、無心元存事候、
一 今度之御使、態上方亂入之體被及聞召、被差上候御札候之条、上方之行、御國元之仕置、旁被入御念被仰越候へ者、
愚意も又在之儀候、然處一着之樣子も無御座、一段大方成書面無心元事深重に存候、
一 秀ョ樣御奉公と申、御家御爲と申、拙者儀一命を捨可申事覺悟之前候、然間不顧恥辱御奉行中任御下知、
濃州垂井と申在所迄出陣仕候、當分在京之人衆はかこ嶋、冨隈、帖佐役人存知之前候条、人衆付今度差下不申候、
伏見御城攻に手負死人多々御座候間、彌無人共、中々可申樣無之候、今申分成共、御人衆被仰付、早々可被差上事、
且 秀ョ樣への御忠節、且御家之御爲、旁以御分別此時候、必拙者へ御見次申事にては會以無之候、
一 御奉行中へ書狀認可申由候て、判紙二まい慥かに上着申候、雖然此度上方就物忩、御人衆可有御馳走共、
又者上せ有間敷共、更に御書中に相見得不申候条、書可申樣雖無御座候、餘無音に罷成候、又爰元成合次第と承候条、
後日之首尾を不存候へ共、書狀調申候、案文差下申候、
一 内府致御供被罷下候上方之人衆幷井伊兵部、榊原式部東國之人衆引率、尾州至C洲上着之由申來候間、
定近々可被及一戰候、然時者再書可進之事不存儀候条、不遺胸懷申達候、
一 出水表之儀定可為不番候之条、被添御心候而可預候、將又肥後表之御人衆此度之覺悟何程に御座候哉、
無申迄候へ共、可被聞合事肝要候、不可有御由斷候、
一 此書狀長文にて候条、御六ヶ敷被思召候共、よくよく被御覽屆候而可預候、恐々謹言
八月十九日 惟新
少將殿
まゐる
嶋津惟新書狀
追而申候
一 判紙二まい被差上候条、書狀調候而、御奉行兩人へ進入申候、石治少老へは判紙不參候間認不申候、
何も重而人衆可被成馳走も、又者馳走有間敷候者、其理急度被仰分候而、書狀可被上事肝要候、
一 長宗我部殿人衆之事、二千之軍役而候へ共、此度之御忠節に候と被仰、五千めしつれ被罷上候、是又為御心得候、
一 K田加兵衞尉上着之砌、被仰上候誂物之事、具に承屆候次第に調させ差下可申候、然者内府公より貴所へ御給之刀可被上由被仰越候、
一段祝着申候、今度之御弓箭はれかましき儀に候へ共、然々之かたな所持不申候条、急度御上せ候而可給候、恐々謹言、
八月廿日 惟新
少將殿
まゐる
本田正親宛島津義弘書状
嶋津惟新書狀寫
「御文庫四拾八番箱中」
猶々出水之儀者國堺之儀候間、惣別在國之人衆は彼表へ在番可申付候、其外衆中氣任無之樣に連々之置目稠可申付儀專一候、
乍勿論貴所事者在國候而、諸式可申付事肝要に候、將又長宗我部殿事者惣別人數弐千人之御盛而候へ共、
秀ョ樣へ爲御馳走五千人被召列、近日勢州へ着陣之由候、立花殿事者千三百人之御盛而候へ共、是も爲御馳走四千人召列、
今日爰元に上着之由候、餘國如此候處、さつまの仕立僅千人之内而爰元を仕舞候事、幾度申ても無面目次第難載筆紙候、
然者中書事は、此方より佐土原へ注進候てより人數早當陣上着候、然處出水、帖佐兩役人として一到來無之事更以無心元候、
幸便之条申越候、仍上方忩劇之由度々申下候、定而可相屆候、然者關東與京都之御弓箭而候条、尾州と濃州之堺を隔防戰候、
就其拙者事も御奉行中任御下知、濃州垂井與申在所に着陣候、當手之人數も伏見城攻に手負死人多々候条、
彌無人而晴かましき出陣、手前之迷惑さ各推量之外候、殊近日者 内府公御供候て、東國へ下向候上方之人數幷井伊兵部少、
榊原式部少、東國之人數を引卒、至尾州C洲上着候由申來候、定近々可被及一戰候、重々申下候やうに帖佐より之續衆、
分限、少分限を不謂、可有心人數者可罷上事此時候、能々無由斷可申付候、於巨細者旅菴可申候之間閣筆候、恐々謹言
八月廿日 惟新
本田六右衞門尉とのへ
八月二十五日付長束正家・増田長盛・石田三成・前田玄以・毛利輝元・宇喜多秀家宛上杉景勝書状
一 太閤樣御不慮已來、内府被背御置目、被違上卷誓帋、恣之仕合故、各被仰談、被立御置目、秀ョ樣御馳走之段、肝要至極存候事、
一 日本國諸侍妻子人質、大坂に被召置に付而、無二忠信之覺悟被仕候由、御尤候、彌堅固之御仕置たるへき段、令校量候事、
一 伏見之城在番之關東勢、早速被仰付、爲始鳥井彦右衞門、悉討果之由、誠天罸不淺存候事、
一 虫ト越中、条々罷違に付而、丹後被召上國平均に被仰付之旨、珎重に候事、
一 當表之儀、如蒙仰、去月廿一日、内府江戶を被打立、廿六七時分白河表發向儀定之處に、上方變化之樣子に動轉、悉敗軍候、
内府者今月四日に小山より江戶へ被打入候、則關東表可罷出處、最上、政宗見合、慮外之軆候条、急度申付、奧口相濟、
關東一三昧可仕候、只今卆爾に關東表及調儀、奧口蜂起候へは、手成見苦候条、右之分候、但内府上洛儀定に候者、
佐竹令相談、抛萬事、關東亂入之支度、無油斷候条、可御心安候事、
一 南部、仙北、由利中之面々、 秀ョ樣へ御奉公可申上由、此方へ使者到來候事、
一 越後之儀、江戸へ人質を出、無二内府一味之軆に候条、一揆等申付、少々人數をも遣、可討果由存候處、 秀ョ樣へ無二忠節之段、
就中越中口動等被仰付之由候条、昼v太へも令入魂旨、申屆候、一揆等も相靜候、溝口村上兩人之儀者、前廉より無別儀候事、
一 當表之儀者、隨分丈夫に可申付候条、可御心易候、諸口申付候故、急速關東表へ不罷出候儀、所存千萬候、倂來月中者、
佐竹相談、是非可及行候、猶當表仕置、最上、政宗儀も、御指図次第、可存其旨候、恐々謹言
會津中納言
八月廿五日 景勝(花押)
長大
揄E
石治少
コ譱院
輝元
秀家
參御報人々御中
戸川達安書狀寫
此表近々に御在陣之由候条、御床敷存一書申入候事、
一 今度は不慮之御たてはかり無是非次第に存候事、
一 其表貴殿御壹人御陣取之由承候、如何樣なる仕合にて御越候哉、承度候、秀家何に御在陣候哉、
貴殿御そはに無之儀不審に存候事、
一 此表之儀、上方爲御手遣諸勢C洲邊御在陣に候、井ノ兵部少輔、本田中書、松平下野殿其外先手衆一兩日中に
此表着陣に候、石川左衞門大夫、松平玄蕃爲先勢頓にC洲被罷着候、内府樣去十六日に江戸御立候、
廿五六日には必C洲可有御着との追々御左右在之事候、
一 我等儀此表先手衆に相加罷越候、左京儀は富田信濃守緣者に付て、爲加勢あのの津へ渡海仕分此表へは不參候事、
一 御弓箭之儀、内府樣御勝手に可罷成事、程有間敷候、さてさて秀家御身上之儀此時滅亡と存事候、
貴殿いかに思召候哉、侍從殿御事幸内府樣むこにさせられ候、御事に候間、御家あひ續候樣には貴殿御分別にて
如何やうとも可罷成事候、此時無是非當家被相果候段我等式まて無本意存事而候間、其御心得尤に候、
惣別秀家御仕置にては國家不相立とは天下悉しりふらし申事に候、其上侍從殿御取立候へは、
貴殿なと筋目少も不相替候間、此刻之御分別專一に存まてに候、我等事對貴殿少も如在を不存候間、
思召寄儀不被殘御心底御返事にくわしく可被仰越候、然はたそ御存知之もの壹人進之候而尚以可申承候事、
一 我等事、今度身上に付て内府樣御厚恩をかうふり申候、其上關東にも重々御懇に御意共に候間、
女子、母何も其方に雖有之と、内府樣へ無二に御奉公を仕、とにもかくにも御下にて可相果覺悟に候、
くれくれ善惡御返事奉待候、恐々不宣、
八月十五日 達安
明石守重書狀
C洲迄御上付、御使札本望存候
一 如被仰越今度者不慮御立別、互無是非御事候、
一 拙子事、伊勢表御仕置等爲可承、十日已前より此地罷越候而有之事候、秀家事伏見落城之後は大坂被罷下候、
又此比は草津表被罷出在陣之事候、
一 内府御先手衆至于C洲御着岸之由尤可爲左樣と存事候、其付貴樣御事先手衆に御加候て其元御出候由、
此度善惡に可懸御目と存候事、
一 内府公去十六日江戶被成御立之由、此度之義被成御上候はて不相叶儀候条、尤可爲左樣候、
内々存候は只今迄無御上事不審存候き、
一 御弓箭之儀内府御勝手程有間敷之由被仰越候、其方に而は左樣に思召事尤候、此方衆中被仰候は、
秀ョ樣御勝手に可被仰付事は案中候、倂内府於御上は菟角可被及防戰候之間、其上而の御事候、
一 秀家御家中儀被仰越候、誠各御無覺期故外實惡罷成候、然共御聞及も可有之候、
於上方人之存たる衆餘多被相抱候、存外丈夫に有之事候間、於其段は可御心安候、
一 浮左京殿あのの津表へ爲加勢御出勢之由候哉、津より迎致候を途中に而被打果候条、いまた津へは御越有間敷と存候、
津之城儀急度御取詰に而候、定不可有程候と存候、
一 御兩人事度々此方に而申出候、此比御左右不承候つ、預御書中滿足此事候、
一 貴殿御事内府御厚恩之由候間、とにもかくにも御しかたにて可有御果との御内存尤候、然者貴所御妻子事、
只今和州郡山に御在宅事候、秀ョ樣可爲御勝手候間、右之衆中少も如在不可存候間、可御心安候、
一 善惡之返事可申越之由承候、只今之御書中に而は樣子不相聞候間、御内意爲可承壹人相副進之候、恐々謹言、
八月十九日 明掃部頭
守
戸肥樣まゐる
御報
輝元家臣宛家政書状
蜂須賀家政書狀
猶々兩人御同意之儀、初者雜説と存、不實候處、安國寺より承候旨は、今度東國へ之御人數被指留之由蒙仰に付而、驚入候、以上、
態啓上候、仍今度石治、大刑逆意無是非存候、就夫、輝元様も御同意之樣に爰元申成候、無御心元奉存候、若於事實者、
さりとては世間之批判無御勿軆存候、勿論、近年内府無御屆儀共可有御座候、雖然、被奉對 秀ョ公、餘相違之題目、
拙者式不承候、於然者、以御覺悟天下之亂可有出來儀、歎敷御事、不可過御分別候、か樣之儀、推參、其恐如何御座候へ共、
年來別而御懇に付而申上候、此旨御披露所仰候、恐々謹言、
七月十六日 (家政花押)
蜂須賀阿波守
堅田兵部少輔殿
家臣宛忠興書状
目出度期見參候、以上
急度申候、石治部、輝元申談色立候由、上方より内府へ御注進候、如此可有之とかねて申たる事に候、
其外殘衆ことことく一味同心之由候、定而内府早速御上洛可在之候、然は則時に可爲御勝手候、
此狀參着次第、松井と市正は番子まで不殘召連、丹後へ可被越、自然之時は松くらをもすて、
女子をつれ宮津へ被越可然候樣にすまさるへく候、ョ入候、四郎右其外之者共之儀は其國のていを見合、
可成ほと木付にい候て、其上は居城にうつるへく候、かねて申合てをき候、此狀は丹後よりひめち邊へ遣、
舟にて屆候へと申付候、
一 内府は江戶を今日廿一御立候由候、我等は昨日うつの宮まて越在之事に候、さためてひつくり返し、
上方へ相働たるへくと存候、恐々謹言
七月廿一日 忠(花押)
松井殿
四良殿
市正殿
松井康之宛清正書状
尚以、其許番衆入候者、此返事に委可承候、則申付可遣候、以上、
急度申入候、越中殿御身上之儀、秀ョ樣より曲事に被思召由而、丹後國へ隣國衆を差遣、城請取候へと、從奉行衆被申付候由候、
就其、越中殿御女房衆、爲留主居衆つれ候て退候由候、慥に我等者罷下、其樣子申候仕合者、屋敷中へ十七日之夜火をかけ
自害之樣子に仕成退候由候、則丹後へ遣上使衆への觸狀寫進之候、然時者其元に四郎右壹人被殘置、松佐早々丹後へ御越尤候、
か樣に可有之と存、先書へも申候き其元少にも候はは、自是似相之番衆をも合力可申候間、必可有御越候、爲其以飛脚申候、
委曲立本かたより可申候、恐々謹言
七月廿七日子刻 C正(花押)
松佐渡殿
有四郎右殿
御宿所
清正家臣立本斎宛松井康之書状
已上、
被差越使者去廿七日御狀、今日晦午刻到來、拜見、彼口上承屆候、
一 主計樣より種々御懇之御書中忝存候、度々被入御心被仰越、可申上樣無之候、御報申上候間、御被露候て可然樣に御取成奉ョ候事、
一 大坂より慥成御使者被罷下、越中屋敷之樣子被仰越候、此方へ追々申來候、女房衆大畧可爲自害と存候事、
一 丹後へ去十九日、おく丹波衆、但馬衆、城請取に越被由、此地へも慥に相聞へ申候事、
一 幽齋田邊に被居候事、
一 丹後城々不可有異儀候、河守なとは兼而引払、殘之城々丈夫に可有之候、可御心易候事、
一 丹後城々兵粮等も、當年は國中米留仕、一切不出候間、可有之と存候、此段不可有御機遣候事、
一 松井罷上儀、先書に如申、加子一切無之候、倂不捨置談合仕候、聊無由斷候事、
一 當郡之知行拜領を第一に被申之条、城請取に可參由承候、可爲其分候、各一返に覺悟仕候、其段可御心易候、
兵粮、玉藥之儀、被仰越、忝存候、如形用意仕候条、自然不足之儀候者、重而可申入候事、
一 御加勢之儀、是又過分に候事、松井有之間は不及御加勢候事、
一 大坂之樣子、如水御小性直口先書に申入候事、
一 忠興 内府樣御共候て可被上候、然者隣國則時申付可遂本意候、尚口上に申候間、書中不具候、恐々謹言、
七月晦日 康之
立行
立本老
御報
政宗宛秀忠書状
追而判形仕かへ候、可爲御不審と存候て、如此候、
當月廿五日之御狀、今晦日到着、於宇都宮令被閱候、仍白石表へ被相仂、彼城堅固相抱候處、卽時被仰付、本丸迄屬御手。
城主を始歷々御手前へ被召置、其外數百人被爲討果之旨、誠無比類御仂、御手ネ之段難述帋面候、其上桑折表へ可有御仂之由、
定而彼筋も無異儀可被仰付與察入候、猶追々可申達候、恐々謹言、
江戶中納言
七月晦日 秀忠(花押)
大崎少將殿
御報
高虎宛家康書状
書狀委細令披見候、一昨日具其番に申渡候き、道做已下萬事注カ太、虫O左、田中兵部何も有談合尤候、
其元左右次第則上洛可申候、恐々謹言、
七月晦日 家康(花押)
藤堂佐渡守殿
中川秀成宛如水書状
尚々甲斐守分領之儀、少も御氣遣被成間敷候、丈夫に致覺悟候、已上、
如貴札久敷不申承候、仍上邊之儀、不慮之仕合無是非候、如承候甲斐守致出陣候間、一入氣遣可有御推量候、
津國之儀候間、互に可申合候、其元之儀者、一揆多所候間、其御用心專一候、上方之樣子去月廿五日に出候舟申候、
何茂替儀者無御座候、
一 伏見之城者堅固に御座候、
一 丹後之儀、幽齋、越中殿居城堅固之由、申來候、丹波衆押に被居、但馬衆者江州へ被參候由候、
一 P田に中國衆城を拵申之由候、
一 伊勢、江州之堺目城を拵、其大將に刑少被參之由候、右之樣に城へ相拵候時者、内府之御一上國と見へ申候、
一 上方之樣子追々可相聞へ候間可申入候、委細態藤介方迄申入候間、不具候間、恐々謹言
如水軒
八月朔日 圓C(花押)
中修理樣 參
貴報
田中吉政宛家康書狀
急度申候、仍山岡道阿彌備前衆差添、あのの津へ遣候之間、其許舩丈夫被申付可被渡海候、
委細道阿彌可申候、恐々謹言、
八月朔日 家康(花押)
田中兵部太輔殿
K田如水自筆書狀
廣家
參人々御申 如水
天下之儀てるもと樣御異見被成候樣にと奉行衆被申、大坂城御うつりなされ候事、目出度存候、左候て、
秀ョ樣へ別心存者あるましく候条、やかて目出度しつまり可申候、左樣候て、九州四國衆人しちてるもと樣
御あつかり候やうに被仰上可然存候、九州にても鍋賀州、賀主、注カ近、毛壹、嶋津此衆專存候、甲州人しちは、
貴所樣てるもと樣より御あつかり候やうに御才覺給へく候、左候て、何樣にも御馳走可申候、人しち奉行衆候へは、
てるもと樣御馳走不成事候条、其御分別專一候、内府公上國は必定あるへきと存候、左樣時は、又貴所樣御きもいりにて、
てるもとさま御事相澄可申候、とかく此節御分別專用候、扨々不慮之事共如何成行可申候や、其表樣子具令仰聞、
一人御下候へかしと存候、左候て、我等心中も貴所樣へは不殘可申上候、かしこ、
八月一日
覺
一 大坂奉行中相違付而、從駿州尾州C須迄、城々人衆を入置、家中人賃等迄、堅仕置申付事、
一 中納言此地に差置候條、萬事可有御相談事、
一 其表行樣子之事
付口上之事
已上
八月二日 (家康朱印)
森忠政宛家康書狀
從中途本多佐渡守所迄御折帋披見令得其意候、其表之儀無聊爾候樣御仕置尤に候、爰元に者中納言差置、
我等者C須迄之手置を申付、近々爲上洛可申、先到于江戶歸陣申候、川中嶋へ被着候哉承度候、恐々謹言、
八月二日 家康御判
川中嶋侍從殿
s高晴家康書狀
急度申候、今度爲先勢井伊兵部少輔差遣候間、其表行等之儀被相談、何樣にも彼差圖次第に被成候者可爲夲望候、
將又貭物已下早々可被相渡旨、懇意之趣祝着申候、恐々謹言、
八月四日 御名乘御判
s掃部頭殿
正則等宛家康書狀
三日之御狀今日申刻於江戶令披見候、聊油斷無之候間、可御心安候、羽三左、藤佐、井伊兵部少輔進之候間、
御談合候而一刻も其道筋御明候事專一候、猶替儀候者可被仰越候、恐々謹言、
八月五日 家康(花押)
C須侍從殿
コ永法印
堀直寄宛家康書状
コ川家康書狀
從會津上田庄へ手出候處、卽被遂合戰、敵五百餘人被討取之由、手ネ之儀共、誠無申計候、此上無越度樣之手置尤に候、
猶西尾隱岐守可申候、恐々謹言、
八月七日 家康(花押)
堀丹後守殿
政宗宛家康書状
コ川家康書狀
切々御飛脚、御懇意之段祝着之至候、上方三人之奉行相替付而、各相談、爲可令上洛、一昨五日江戶致歸城候、當表之儀、
中納言宇都宮差置、佐竹令段合、白川表へ可相仂由申付候間、其陣御仂之儀、無越度樣被仰付尤候、
委細者先書大屋小平次申候間、不能具候、恐々謹言、
八月七日 家康(花押)
大崎少將殿
以上
御使者幷御一っ書之趣懇申聞候、何も理相濟候之間、御使者返申候、然者爰元内府出馬之儀少も不被存由斷候条、
御心易可思召候、先々之儀はかゆき申候樣に御相談尤令存候、井伊兵部者煩氣候之条、本中務C洲迄被進置候、
能々御談合可被成候、恐惶謹言
本多彌八郎
八月八日 正純判
K田甲斐守樣
尊報
一 從吉川殿御口上之段、一々令披露候、樣子之儀者、御使者へ申渡候事、
一 自大坂貴所樣へ參御狀之趣、御口上之段、是又同前之事、
一 虫ト左衞門大夫殿より大坂へ御返答候口上之趣、被得其意候、何樣にもゆるやかに御返事可被成由之事、
一 早川武藏守殿儀申候處、被得其意由之事、
一 備前衆之事、別紙に道阿彌かたへも備前衆へも書狀進候事、
一 花房助兵衞殿、頓而其地へ可有御上候事、
一 加藤左衞門尉殿の事、右之御口上之段は、御使者へ懇申渡候、可有御尋候、
以上
八月八日 本多彌八郎
K田甲斐守樣
直政、忠勝宛家康書狀
此者加藤左衞門尉長敷者候、然者犬山へ左衞門尉相籠付而、樣子之儀申遣候、於其地注カ太令相談、可然樣才覺尤候、
猶彼口上可申候、謹言、
八月十二日 家康(花押)
井伊兵部少輔とのへ
本多中務太輔とのへ
政宗宛秀忠書状
コ川秀忠書狀
已上
其表之樣子無御心元存候處に、今井宗栫A山岡志广守被差越、口上之通慥承屆、令滿足候、其許御行之儀、
以條數内府へ被仰達之由、得其意候、委細之段者内府より可被申述候條、可被任其義段、勿論に存候、
將亦我等事此表致仕置存候て、宇都宮に在之事候、爰元彌丈夫に申付候、猶山岡志广守可有演說候、恐々謹言、
江戶中納言
八月十二日 秀忠(花押)
大崎少將殿
御報
政宗宛家康書状
コ川家康書狀
御懇使札祝着之至候、先度如申入候、上方打捨、會津表雖可申付覺悟候、虫ト左衞門大夫、田中兵部、虫ト三左衞門尉、
虫ト越中守、各先々上方仕置申付候はて不叶由、再三依被申、先江戶迄歸陣仕候、仙道之儀者何時成共、手間入間敷候間、
差合可申付候條、有其御意得、御仂御分別專一候、恐々謹言、
八月十二日 家康(花押)
大崎少將殿
利長宛家康書狀
其表御存分之由承目出度存候、彌其元御陣之樣子承度候而、以使者申入候、此方之儀も各令談合、美濃口へ可罷出存候、
雖不及申候、何分にも無聊爾樣被仰付尤候、猶使者口上可申候、恐々謹言、
八月十三日 家康判
加賀中納言殿
中川秀成宛如水書狀
已上
急度申入候、夜前大坂より申來候は、東之儀内府公御存分に被仰付、武藏之を山より廿七日に引返、上方へ御出陣之由申來候、
廿六日に御上究候て、奉行衆へ之御使に山城宮内内府より被成御上候、去七日の晚に宮内大坂へ被着候、
其被申樣承我等者下申候、甲斐守儀は左太同心に而今明日にC須へ可參候由申來候、猶替到來候はは追々可申入候、
恐々謹言、
如水軒
八月十三日 圓C(花押)
中修理樣
人々御中
八月十七日 天晴、請取番早參、中山中納言番所にて物語あり、
退出の後近衛殿へ參上、大坂と内府間の拵の義被仰聞數刻伺候候、 麥飯、酒給、柳原と間の義紫竹の一義ヲ申入御合点也、
又御所へ參、宿の義は阿野へ語て退出、豐國社へ參、衣冠は御供所にて改、於~前拜、如例、參詣の衆大略下向にて靜也、
吉田父子へ遣人、丹後義も無心元旨申候、照門へ参上、月待とて乍立御物語?に申入御酒給、
月は二条辺にて拜、左近丞雇番所に置、花園左近二郎は瘧病煩由にて不出、餅、酒如例出、新内侍在付由聞、准后御方にも御懇に承、
女御殿同、於豐國社~樂可參??候處に吉田私に可取行由候、不謂由にて傳奏より被押て此度は無之由候
井伊直政本多忠勝宛黒田徳永書状
K田長政コ永壽昌等連署狀
犹以穩密之書中に候之条、御他言御他見在間敷候、卽此狀可有火中候、以上
態以飛札申入候、仍而此表之儀蹟々人數相揃候、内々犬山表に押之城を仕、各御出次第に河を越可相仂旨惣談相究候處、
村越毛介殿爲御使御越候て俄談合相替、とても 内府樣御馬きりきりと出不申はか不參候間、何事も不入義候、
一刻も急河を越、いか體に成共可相果候由誰々なく就被申出、各其分に同意に候、然者天下之勝負河越に相究候間、
御兩所急御越候て今一御談合候て尤に存候、御人數は被爲置、御自身迄片時もはやく御出專用存候、恐惶謹言
八月十九日 K田甲斐守
長政
コ永法印
壽昌
奧藤兵衞
三明
井兵部樣
本中書樣
人々御中
八月廿一日付筒井定次宛徳川家康書状
十五日之書狀今日廿一日令披見候、仍從富信濃守注進付而、 羽三左、道阿彌被相談渡海之由尤候、我々出馬之儀廿六日相定候、
萬事先々無越度様仕置等肝要候、猶永井右近大夫可申候間令省略候、恐々謹言、
八月廿一日 家康
伊賀侍従殿
八月廿一日 福島左衛門大夫 萩原の渡り打越、西美濃より打廻の足輕を出し候、 追払おこしの渡り打越、
大良近邊燒払、其夜者大良の堤にて夜を明し、
八月廿二日 払暁に茜部を打越、岐阜近所に陣を取、犬山口推の事、 駿河衆、遠江衆さし向られ、
池田三左衞門萩原口相図の煙を見て河田の渡り被乘渡、爰にて一柳監物先陣也、御敵岐阜の中納言秀信卿閻魔堂まて被取出、
足輕飯沼小勘平かけ来、川口にて禦戦あり、 金松又四郎懸合しはらく勝負を争、頸者池田備中手へ小勘平を討取也、
さて推懸推懸かかる處に御敵津田藤三郎あかきほろをかけ乘返し乘返し殿也、金松又四郎き成ほろをかけ前後左右へ引付、
何ぞ勝負も不見分、互の心はせ在之、去而其夜者芋島・平島に陣取、
八月廿三日
未明に兩口の人數一手に成、一同に噇と岐阜町口へ押寄、若武者共争先亂れ入、s伯耆守乘込、散々に相戰高名あり、
梶田新介是又同事に粉骨の仂有、諸手の軍兵不劣我爰かしこにて思々さまさま武名之規模有、高名の淺深あり、
數千人の事なれは一々帋書に載かたし、瑞竜寺山三ヶ所の取出、樫原左近父子拘之城、淺野左京大夫攻上り、
一旦に乘崩し數輩の高名無比類類、大手の口七まかり責上り、御敵小作左衞門佐返し合返し合随分の仂也、
京極侍従者荒神洞柴田修理亮古屋敷達目洞口を攻上り、大手、搦手の人數入合本丸をとり詰、
中納言秀信卿屋形稲麻竹葦なんとの如く鉾先を並てとり囲み、瑞竜寺山三ヶ所の取出も不及申攻落し、樫原左近父子殘党千餘人刎首、
其外討死不知其員、過半奈賀良の川へ逃入溺水に死する者無際限、哀成有樣目も當てられぬ樣軆也、岐阜城羽柴左衛門大夫うけ取、
中納言秀信卿去人なれは、可有御自害之由候を、各として宥申、先尾州へ越申され、夫より高野山へ御上り候之也、
八月廿三日
濃州岐阜山攻落し數多討果の趣
八月廿六日 早飛却武州江戸に至て内府公へ御注進參着御滿足候之也、是をは不知、岐阜煙を見て、爲後巻石田治部少、小西攝津守、
嶋津兵庫頭、備前中納言卿、がうど渡りの口まて懸來候を、K田甲斐守、田中兵部少、藤堂佐渡守、賀藤左馬助、争先かかり合、
數剋戰無勝劣、大将の治部少輔、東國武者の習にて馬を入られ、叶はしとや思けん、大柿をさしてかけ入也、
數多討捕勝に乘たる軍兵共不休此競、棰井、關か原山中迄燒払、既及薄暮士卒其儘赤坂に陣取、翌日より虚空蔵山構要害対陣也、
敵合五十町隔候間、日々戰無止時、
遠路使札到來祝着候、仍庄内江爲押三ア表在陣之由苦勞共候、然者就上方鉾楯令上洛之条、先有歸陣一左右迄可有休息候、
猶本多彌八郎可申候、恐々謹言、
家康公
八月廿一日 御判
赤尾津孫次郎殿
追而申候、樣子之儀者㝡前田中C六被 仰付候間、定而飛脚參着可申候、已上、
其元之樣子以使者被仰聞候、卽遂披露候、仍早々其表御參陣一段祝着被存候、乍去就上方鉾楯此表仕置等丈夫被申付、
中納言殿被差置、近日被致上洛候之条、其表之儀も先々有御歸陣、重而御一左右迄可被成御休息之旨候、
将亦上方之儀奉行中雖被申合候、差儀無之候、於御上洛者卽平均可被仰付候条、可御心安候、駿州、遠州、參州、
尾州、濃州、勢州、信、甲迄悉ゥ城此方之人數被入置、人貭等無殘所至江戶參候条、於樣子是又可御心易候、
隨而本多中務爲先手廿日已前尾、濃表より被罷上候条、返事無之候、委細御使者可有演說候、恐惶謹言、
本多彌八郎
八月廿一日 正純判
赤尾津孫次郎殿
人々御中
秋田実季宛康政書状
已上
去八日之御飛札具拜見夲望之至に存候、
一 最上迄御出陣候へ共、先以御歸陣之由尤之儀に御座候、
一 當表之儀、境之仕置丈夫に被申付候、事に政宗、佐竹何れも異儀無之候、其上上方へ之路次城々、
爲始尾州C須之地ゥ城へ番㔟を此方より被入置候、遠、參、駿之人數怸至于尾州出㔟候、
内府近々被致出馬江州へ可被致亂入旨に御座候、上方無正軆之由追々申來候、
一 北國之儀も虫ト肥前守殿被對内府毛頭別条無之候、賀州之内大勝時之城に罷在候山口玄蕃別心之衆與致一味候間、
卽肥州彼地へ被取懸責崩、山口父子被打捕之由注進御座候、越前之内木目峠に構城、
此方より之一左右次第是も江州へ可相仂之由候、如此之上者京都如存分之可被申付儀不可有程候、
一 中納言江終に無御見廻通被入念御書面之趣具爲申聞候處に、一段被致 祝着候、
一 此度無御如在之旨於我等も令滿足候、兼日之筋目與申尤之儀に御座候、猶御吉左右追々可申入候条不能具候、
恐惶謹言、
榊原式部太輔
八月廿二日 康政(花押)
秋田藤太郎殿
御報
佐々政孝書狀
秋藤太樣 佐々淡路守政孝
御報
尚以上方之儀御てま入申間敷候間、可御心安候、無何事有之事候はは、早馬一つ御もとめ候て可被下候、
いまほともちたへし申候間、扨如此候、此書中頓而火中被成可被下候、以上
御書中并口上之子細具以得其意候、内府樣へ之御狀田C六先陣へ罷越候間、西隱州申談、御使者口上之樣子をも得
御意申、御返事之通口上に具申含候間、其御分別尤に候、重而東へ於被成 御出馬者樣子可被仰遣候条、
其御覺悟尤候、隨而先度上方御人數此表へ就出陣、大刑部少も可罷下旨候てつるかより催人數、たるい邊まて罷立候處に、
石治部少方より使をよひ越、於佐保山二日令談合如此企別心、内府樣、奉行衆御手切之樣に罷成、上下機遣共可被成御推量候、
一 上方への路次中、駿河中式少監物同長丸共人しち江戸へ被召寄、城々には内府樣御人數を被入置候、
遠州懸川山内對馬、濱松堀尾信濃、參州吉田之儀は不及申、田中兵部、尾州s大夫殿兄弟しち物虫O左へ被請取、
是も右之分に御座候、
一 甲州淺見、信濃國千越前、日根野織部息子、石川玄蕃、京極修理、さなだ伊豆兄弟參人是も無別儀候、
さなた親、中むすこは宇都宮より引返し別心之儀候事、
一 濃州木曾川かち渡り餘多御座候、何方を御越候はんも御儘候、かち渡り無座候ても、あかめ、いもう、吉里、
かやう之所此方より相抱候条、濃州へ成共、江州佐保山へ成共、御仂之儀は成安義に御座候、
一 濃州より相抱候城々之事、竹かはな百々越前、大柿に伊藤長門息加勢、河尻肥前、伊藤左馬正、rヒにたきのまるも、
郡上稻右京、金山稻右近、遠山田丸此分相抱候、岐阜之事も中納言殿無人而御座候、日數五十日と被相抱候事成間敷と風聞候事
一 勢州桑名氏内膳、加勢原隱岐守 ~戸忠コ、亀山岡本次兵へ、加勢大和衆少身者五六人已上二手ほと入置之由、
鳥駐九鬼持分、此分上方一所之事、
一 勢州之内此方より相抱候城之事、津冨田信濃守、松坂古兵部少、右二ヶ城相抱候事、
一 尾州犬山は濃州より相抱候、石備前、加勢加藤左衞門尉、竹中丹後、かやう之者共相籠候、
一 江州佐保山水口大津、則侍從如此相抱申事、
一 伏見去朔日に致落居、城主鳥井彦右衞門、内藤与次右衞門、松平主殿、其外諸人五六百打果之由候事、
一 大坂本丸右衞門尉、西丸輝本居申之由候、其外口々番勢之事もてるもとと被申付之由候事、
一 羽越中殿妻子、其外國持衆女子なと改、二丸へ可入置旨使立改候處に、忠z中殿留主居稻冨、小笠原右兩人として
越中殿妻子をさしころし、火懸、腹を切り相果申候間、双方女子とも堅改申候儀は打置、人しち有之は取、
無之は留主居之人しちを取置申候由其聞候事、
一 丹後へも人數を出し忠z父子之居城を責申候由候、然共已上四ヶ城を二つははらい、二ヶ城へ相つほみ丈夫に被相抱之由候
國中之一きをおこし寄勢數多打取申候由候事、
一 北國肥前殿去月之末より被相仂、加州表柱ワ郎左居城へ被取懸、はしはし放火取出二ヶ城被申付、
其より先へ被相仂大庄寺へ取懸、山口玄蕃父子其外二三千も籠有之を去二日に責崩、山口玄蕃父子其外軍兵九百餘
被打果候由御注進候、然所に小松近邊少通路無人に付面、又取出を可被申付、其より上方へ可被相仂之旨御注進被成事、
一 丸岡山修理、北庄木紀伊守、府中堀帶刀、かやう之衆も無別儀肥州次第之由候事、
一 大刑つるかに居申、樗前殿御上之由をね、木のへに取出を仕ふせき可申由候て、筑前中納言殿を爲物主、
其外若狹侍從、鍋嶋信濃、毛利豐前、かやう之衆壹万餘之つもりにて、右之取出をこしらへ申候由候、
此廿六日に可被成御出馬之旨候、頓而上方より御吉左右可申上候、何も委細之儀は口上に可被申候、恐惶謹言、
八月廿二日 正敞
秋藤太樣
御報
家康側近等宛井伊直政書状
井伊直政書狀寫
此表存之外に各被出精候、今朝之注進には幸田之渡りの仕合不相聞候間不申上候き、敵二千計に而河端へ出候を、
河を被越被及合戰、虫O左衞門殿手計へくび五百程被打捕之由飛脚之申口に候、直に可有御注進候間具には其に可相聞候、
どどの越前、犬間勘平討死之由申候、岐阜中納言殿やうやう山へ迯上之由申候、手負も多は無之由申候、
一柳監物殿案内之事之事候間、先を被致候に付而、彼家中隨分之者討死申之由候、岐阜へ取懸可申之由候處に、
河越各くたびれに付而今夜は北方に陣取、明日はぎふへ動可被申之由候、大方ぎふも落居程有間敷之由何も申候、
此地注カ衞門大夫殿組之衆は明日先岐阜へ押詰候而、虫O左衞門尉殿組之衆惣構をも被破候者、ぎふの上之かち渡りを越、
佐和山へ動相上り可申之由今夜談合相定申候、三左衞門尉殿之組、淺左京殿、山内對馬殿、松下右兵衞殿、池田備中殿
有馬玄蕃殿、堀尾信濃殿、一柳監物殿は今度道筋に付而被致案内者候、
一 注カ太と此筋へ被越候衆、賀藤左馬殿、忠z中殿、K田甲州、藤佐渡殿、田中兵部殿、本多因幡殿、生讃岐殿
衷C理殿、筒井殿、松倉豐後殿、秋山左近殿、~保長三郎殿、大形如此候、一昨日は無理に注カ太に押つつき
本中、我等河を越申候處に、今夜何も御理而惣之蹟に可押之由候間、兩人之儀者從 内府樣御使之儀に候間、
近罷立、得御意をも申ために候条、是非共左衞門大夫殿御人數之蹟に押候樣に被成候て可給之由申候へ共、
達而被申候間無是非候、か樣に候ては何事候て御注進申候共、三里、四里蹟而候間遲々可申候、其上何も被入精候處に、
致見除候樣而一段迷惑申候、
一 自當地岐阜へ三里御座候、北方よりは二里にて候間、明日も甼を被破候事は、三左衞門尉殿之組衆たるへきと申事に候、
一 石治少此間者岐阜へ切々見廻申、其上河手と申所に陣取申候事も候處、河越候而より大柿へ引入、
ものみを壹人此筋へ出し申事無之候、今日赤坂邊迄も押申候者大方佐和山に迯け入可申候と何もわらい申事候。
一 たる井には嶋津、たちはな居申候由申候、恐々謹言
八月廿二日 井伊兵部少輔直政
本多佐渡殿
西尾隱岐守殿
村越茂介殿
政宗宛家康書状
昨夜村越茂助自C須罷歸候、彼表左衞門大夫丈夫御座候間、可御心易候、我々出馬之儀、一左右可在之由候間、
延引申候、爲其以使者申入候、恐々謹言、
八月廿三日 家康(花押)
大崎少將殿
前田利長宛家康書状
其許無心元存候而、度々以飛脚申入候處、御注進狀本望之至候、殊に大正寺被乘崩、始 山口父子數多被討捕之由、
潔き御事候、先々小山まて御歸陳之由尤に候、猶期後音之時候、恐々謹言、
八月廿四日 家康 判
加賀中納言殿
s正則書狀
以上
遠路御狀忝拜見見仕候、爰元之樣子虫O左殿、左京殿申談候、隨而一昨日廿二日に三左衞門殿、左京殿、
遠州衆川越在之處に、岐阜衆少々罷出候候を、被及一戰被追崩候、手柄共に候、次昨日忠z州殿、加左馬殿、
我等いなは山へ取つめ早束落去仕候、中納言殿儀いろいろかうさん被申候間、小しやうとも二三人にて、
尾州へおくり申候、爰元之儀彌○はかゆき申候樣に、虫O左左京殿談合いたし秀ョ樣御爲よきやうに可仕候、
於樣子は可御心安候、恐惶謹言
八月廿四日 注カ衞門大夫
正則
淺彈正樣
s正則書狀寫
急度致言上候、一昨日廿二日はきわう、おこし舟に而我等爲先手相越、かしのい、竹かはな近邊令放火、
翌日未明に岐阜へ押懸、則時に町追破、すいりゆうしに丸三つ御座候、弐つ其外二三ノ丸悉乘崩、
本丸も天主まて責詰申候處に、木作、百々已下罷出三郎殿御身命無異儀樣にと降參仕候に付而、
井兵部少輔、本中務令談合、くるしかるましき由被申候に付而、先尾州まて退申候、城中之者數多討捕候、
其段井兵、本中渊底被存候間、定而可申上候、次城責申候刻、うしろつめ心に石治部者かうと河向まて罷出候處、
K田甲斐守、藤堂佐渡守ら向河を越、一戰に及、追崩數多討捕候由候、定而樣子直に可被申上候、
今日各相談仕明日佐和山表へ相勤、重而御吉左右可申上候、恐惶謹言
八月廿四日 注カ衞門大夫
正則
貯メ州樣
人々御中
中川秀成宛松井康之・有吉立行連署状
尚々内府様漸北伊勢へ可被成御仂と存候、大坂無正軆籠城用意候旨、已上
急度申入候
一 大坂去十八日出船之者、夜前此地へ下着、慥に申來候、長大に人數被添南いせへ打越、阿野津、松坂、岩手三の城可請取由候て使被立内に、
富信州、古兵少、稻藏三人舟七十艘斗にて着岸、城々へ被入候、筒井も伊賀へ歸國之旨候、就其矢手關地藏へ被引退由候事
一 北國之儀、府中城へ大刑少人數寄、色々被申候へ共、堀帶留守居堅固に申故丈夫相抱に付、手當殘置北庄へ通、彼表に在陣之旨候事
一 丹後之城彌堅固之由申來候、御奉行衆才覺にて禁中へ申、勅使にて雅樂殿、阿波殿竝に被仕候樣にと被申候へ共、一切取相無之旨候、
越中かたよリ追々人を小々被打上樣子申、城中彌強申由候、尚吉左右可申承候、恐惶謹言
八月廿五日
松井佐渡守(花押)
有吉四郎右衞門尉(花押)
中修理様
人々御中
山内一豊宛堀尾吉晴書狀
猶々廿三日之御狀參著拜見忝候、次貴殿存分之通奧向申聞候、扨々忝候、何やうにも信濃事は御異見ョ存候、已上、
能以使札申入候、仍岐阜之儀御手柄故早速相濟珎重存候、殊更治部岐阜爲助勢罷向候處、藤佐州、
K甲州なと被追崩六遍被追詰候由、扨々思儘成仕合、我等式箇樣之程にて取分無念存事候、此上御しまり候而犬山、
大柿御請取尤候、其間に上方内輪われ申候事も可有之候、又内府樣茂漸々可爲御出馬候間、御別專一候、恐惶謹言、
八月廿六日 堀帶刀印判
山對州樣
人々御中
留主居家臣宛一豊書狀
山内一豐書狀寫
爲見廻書狀令披見候、尾州川越候事各も如何可有之と存候處に、卽時に岐阜之城まて落居候て、たる井、關原邊やきはらい赤坂、
野原に陣取、大柿に備中納言、嶋津、小西、石治少楯籠候間、付城相拵へ取巻候、於樣子者可心安候、
其元留主火用心已下堅可被申付候、将又内府樣御親子御上之刻、代官共被申談可然樣に可被申付候、かしく、
一豐樣
八月廿七日 御名御判
寺村大カ左衞門殿
山内傳左衞門殿
浅野長政宛家康書狀
書狀則披見申候、仍去廿二日川を越被及一戰數千人被討取、翌廿三日岐阜之城乘取壹人も不洩皆討取候註進有之候条、
來三日出馬申候、中納言は中仙道を相仂申候間、御同道被成御異見共ョ入候、今度左京大夫殿瑞竜寺のつぶらに城を構候所、
卽時に乘崩し壹人も不殘被討取候、御手柄兵に候、可爲御滿足與致推察候、猶期後音之時候、恐惶謹言、
八月廿八日 家康判
淺野彈正少弼殿
堀秀治宛家康書狀
態申入候、
一 去廿二日濃州幸田、萩原二手に而相動候處、岐阜人衆しんか野に相支候處に、注カ衞門尉松原Pを越及一戰追崩、
甼際迄不殘討捕候事、
一 廿三日岐阜惣構を破卽城乘崩候處、三郎三左衞門尉好を以種々懇望候而、身命相助事、
一 同日治部少輔、嶋津者各爲後詰ク戶へ罷出候處を卽乘向追崩、ろくの川へ追入、壹人も不洩討捕候事、
一 廿四日佐和山へ押詰由申來候、定而程有間敷候事、
一 明日朔日令出馬事、
一 自然景勝相仂候共、城を堅固被相持儀肝要候事、
一 於其口相動者、政宗、參河守、藤三郎、安房侍從、佐野修理大夫、平岩主計、松平五郎左衞門尉、鳥井左京亮、
松平又八申付候間、跡へ可亂入候条、其口堅固に被相抱尤候事、恐々謹言、
八月廿九日 家康(花押)
越後侍從殿
最上家臣宛城織部書狀
猶々申候、三左衞門尉舍弟備中守なとも度々高名之由候、其元之儀如何にも手堅被仰付肝要存候、
是又慮外之申事に候、
乍幸便一書令啓上候、然者從上方注進之軆申上候、去廿二日尾州に被罷立候御先衆、s左衞門大夫此手組壱萬、
K田甲斐守、加藤左馬頭手組壱萬五千、右之衆かりや須賀と申所を舟にて取越候、池田三左、參河、遠州之衆、
尾張之一柳監物先にて岐阜より三里ほと近候河端に襲候處、河之P少深候をョにて自岐阜五千計にて鐵炮攻合仕候處に、
里外に若き衆無理に川を越候間、岐阜人々者敗北、河端半里計之内に而大將に來候土々越前、小作左衞門尉佐初五百餘討捕申候、
其日は及暮候間、次之廿三日に舟之衆s左衛門尉、淺左京なと被聞候而、人に被越候と被存候哉、廿三日不曉に押懸、
両方より指合則岐阜乘取、其にても千餘人討捕候、岐阜三郎兄弟をは生捕候、此砌從大柿治部少後詰をも仕候哉と藤堂佐渡守、
K田甲斐守乘向候處に、唯今之動をは不在候而打廻に罷出候處に、右之兩所走合鐵炮軍仕候處に、又自跡多勢懸付治部少宗之者二千餘人討捕、
ク戶河追越河へ追籠候間、餘程治部少輔も討捕候哉、實驗之上可申上之由注進候、翌廿四五日之間に棹山取詰、
若治少迯候而參候共討果可申候由被申付而、明朔日御上洛に候、中納言殿者直に中山道被御上候、天下之御夲意重而之御吉左右可申上候、
先此便急候事候条、早々注進申候、追而可申上候段宜預御披露候、恐々謹言、
八月廿九日 城織部
寒河江殿
度々書狀到來披見候、其元先々何方も靜に候之由心安候、彌油斷有間敷候、尾州表之事は定而其許へも可有其聞候、
去廿二日、三日ごうとの渡り、萩原之渡兩日に兩度之合戰何れも味方大勝に而、兩度に五千程被討捕候、鎭共何れも關東へ參候、
其上美濃、尾張敵之城壹度に八つ明渡候、京勢軍に打負、たるい、赤坂を被取切、各大柿へ楯籠候、則此方へ人數押寄、
去廿六日より被取詰候、大柿に籠候之衆は石田治部少輔、筑前中納言殿、備前中納言殿、小西攝津守、嶋津兵庫助、
右之衆に而候、弐萬程に而取籠之由候、取卷候人數は八萬之御着到にて候、天下之落居は只此一城に極候間、
森を始として西國衆致後詰候はん哉、一女共江戶へ越候事親に候人へ委申越候間、定而可有御指圖候、若江戶へ越候者、
江戶之番には七左衛門尉左吉、水右衞門尉、茂右衞門尉、波多右近、梅津金子左近、其外中間弐人差置候而、
其外之衆は各有多胡収納專一に可申付候、天下之落居も五拾日之内たるへく候間可心安候、文明寺源眞慶印へ傳言申候、
可心得候、一挭齋召仕候玉做之夫丸、背法度候間、召搦候處に、繩をぬき候て欠落候、いかようにも尋出し可成敗候、
得替急度可差越之由可申付候、恐々謹言、
肥後守
八月廿九日 正光(花押影)
松澤憙右衞門尉殿
丸山半右衞門尉殿
吉川織部佑殿
堀直寄、真田信幸宛家康書状
急度申候、仍大柿エ治部少輔、嶋津、備前中納言、小西攝津守、籠居候、卽取巻可被成水責とて、早速令出馬候、
自然景勝其口於相仂者、眞田伊豆守、本多豐後守、平岩主計頭、牧野右馬允申付候条、各へ談合、其元城堅固可被相抱肝要候、
爲其以飛脚申候、恐々謹言
九月朔日 家康
堀丹後守殿
急度申候、仍大柿治部少輔、嶋津、備前中納言、小西攝津守、籠居候、卽取巻可成水責とて、早速令出馬候、
坂戸へ敵於相仂者、無油斷加勢尤候、切々飛脚を遣、被添力事肝要候、恐々謹言
九月朔日 家康(花押)
眞田伊豆守殿
堀直寄宛西尾吉次書状
西尾隱岐守書狀之寫
尚々、五三日少相煩申候條、早々申入候、以上、
從内府以飛脚被申候、自然景勝坂戸口へ於相動者、爲加勢眞田伊豆守、平岩主計、本多豐後守、牧野右馬丞被申付候、
御注進次第、右之衆可相動候條、被仰談堅固被相抱候事尤に存候、將又濃州表之樣子、定而其地へも、はや相聞可申候、
此方より罷立候人數、きふ口おゐて及一戰數千人打取り、被得大利候、就其今日朔日、内府、濃州大柿へ被相動候、
上方之儀、程有間敷候條、可心安候、委曲重而可申達候、恐々謹言、
名乘判
九月朔日 西尾隱岐守
堀丹後守樣
人々御中 名乘
黒田長政、藤堂高虎宛利長書状
態飛脚を以申入候、仍今度濃州表爲御先手早々御越、岐阜表之仕合忠z、加左馬より申來候、誠ここち能仕合可申入樣も無之候、
がうど河口迄治少罷出候處、御兩人河を被越彼人數被追崩、數多被討捕之旨、御手柄共候、就其、すくに佐和山表可被押寄儀、
彌其分候哉、樣子承度候、此表之儀、一兩日中に小松表急度可相仂覺悟候、尚追々可申入候、恐々謹言、
樗前守
九月三日 利長(花押)
K甲州樣
藤佐州樣
御陣所
吉川広家宛如水書状
K田圓C自筆書狀
如水軒
廣家樣 圓C
參人々御中
以上
態申入候、内府御上之由取沙汰申候、必定に候哉、其口に貴殿御座候間、一入氣遣に存候、御手前無御越度之樣に、
兼日御分別干要に候、上方人數之儀者、悉内府へ内儀有之様に申候間、御手前之儀專一に候、爲其此者進之候、
九州之儀今迄は靜に御座候、何樣に猥候共、手前之儀者、御氣遣被成間敷候、恐々謹言
九月三日 圓C(花押)
廣家樣
參
ふんことの(村井豊後長頼) はひ(羽柴肥前、前田利長)
まいる
金法印(金森長近)よりひきやく給候、しうちやく申候、 我々事七月廿六日ニ小松おもてへはたらき候所に、
ふしミのしろせめ申候由うけ給候間、八月一日ニ大せう寺へはたらき、ふしミのしろのたよりにもなり可申候と存、三日に大せう寺へ取かけ、
そくしニせめほし、山口おやこ(山口宗永・修弘)うち取候、すなわち越前へはたらき可申と存候所に、
ふしミのしろ一日ニおち申候由候、其上越後いつき(一揆)おこり申候由、久太(堀秀治)よりちうしん(注進)候間、まつ人しゆうち入候て、
おいさし物いけなをし申候而、二日中ニはたらき可申候と存候、 孫四郎(前田利政)おんなとも、上方にい申ニつゐて、
孫四郎色々の申分候、のとい申人しゆおたて候ましきよし申候間、此中もしゆえことわり申候、なかはにやかてもさかいめへ出度候所に、
かやうの事にてはかゆかす候事、てんとうつき申かと存候、かやうの申ひらき、大ふへ申されす候事候間、
われわれのめいわくすいれう候へく候、左馬助なとハわれわれかたへ人しちを出し申候、其ほかの人もちも、大方人しちを出し申候、孫四郎かたよりわれ?に、
色々さまさまのふそくかましき事申候、此ひころ、おとゝいのなかにても、一人ならてハなく候間、あらけなくいけんを一つ申さす候間、とうさめこ上方に候つるとて、
がてんすまざる事申候、此よしかうしつへもよく申度候、大なこん殿おり、色々せいしなとおもいさせ候、、其上かうしつなとも、其方に御いり候間、
一かとせいおも入候て、よく候所に、かやうにふんへつちかい候事、われ?しやわせあしきゆへニ候、めことも上方に御入候物とも何ほとも御入候、
孫四郎ハよ人にかわり、かうしつをゑとにおき、其上われわれをしうにもおやにももち申候間、おんなめこらをすて候てくるしからぬ事候、
おかしきしやわせ候、しかしなからせかれの事候間、くるしからぬ事、心やすかるへく候、
大せう寺の事にひきやくまいらせ候へハ、ろしにとゝこうりあるへく候、 かしく
九月五日
京極、伊達 最上宛家康書状
切々使札御懇意之段、難申尽候、去三日大津江被打返、手切之行可有由、修理殿、井伊兵部方より申越候間、一刻も出馬急申候、
中納言は中山道罷上候、我等は今日七日、至遠州中泉着陣候、委細修理殿、可被仰候間、不能具候、恐々謹言
九月七日 御名乘御直判(家康)
大津宰相殿
急度申入候、濃州大柿城へ備前中納言、嶋津兵庫、石田治部、小西攝津守迯入候所を、先手之衆取卷、通路取切、
顏戶川を切懸之由申來候間、則令出馬候、落居程有間敷候條、可御心安候、其表之儀參河守有相談、被入御精尤候、
委細者宗梔ツ申候、恐々謹言、
九月七日 家康(花押)
大崎少將殿
追而申候、この書狀最上へ御屆候而可給候、以上
急度申入候、大津宰相以日來好味、此方と同意被成、去四日手合に候、京極殿書狀、爲御披見進候、
其元無油斷御行等肝要候、恐々謹言
九月七日 家康(花押)
大崎少將殿
急度申
一 備前中納言、嶋津兵庫、石田治部少、大柿へ追籠、切通路陣所事。
一 就夫、父子共令出馬候、其口政宗相談、無油斷行等分別尤候、
一 大津宰相相此間は越前在陣之處、日來無等閑故、大津へ歸城。今月三日手合被申候、恐々謹言、
九月七日 家康
最上侍從殿
(後筆)
「女共罷下に付、其注進として大坂への便宜に遣候、大坂より才覺仕遣候へと申遣候」
跡書
態致言上候、何方迄被成御馬候間、承度存申上候、
一 拙之女房共今月朔日熊本に至而召寄候、若御機遣被思召候はんかと存申上候事、
一 從奉行衆我等かたへ申談候はんとて、毛利壹岐守を差下之由候、書狀は相越候へ共、其身は小倉在之由候、
其後去月晦日に大坂我々留主居之ものに申付、互之誓帋之案文差越、 秀ョ樣へ御忠節此時候間、
家老之者共人質をも出罷上御奉公申候樣にと被申越候、于今不能返事候、樣子により如水申談返答可申遣候、
か樣之儀若御耳にたち候共、被成御不審間敷候、重々如水と申合在之事候間、御心安可被思召候、事三申上候へ共、
于今壹人も不罷戻候、小山より被下候我等もの壹人參着候、其已後又壹人進上申候、重而又如水申談壹人つつ進上候事、
一 此面之儀尾州C洲邊へ被成御着候御一左右承、いつれの道にも此鄰國可申付と存、如水申合候て在居候、
聊卆爾之儀仕間敷候条、御心安可被思召候、委儀は右如水相談進上申使口上に申含候、此等之趣可然樣に御披露所仰せ候、恐々謹言、
九月七日 加藤主計頭
C正
本多佐渡守殿
西尾隱岐守殿
跡書
急度致言上候、今度無二御奉公申上、心底立御耳御判頂戴之儀、御前に付置候小性昨日罷下口上に申聞候、
誠忝御諚共可申上樣無御座候、於此面之儀者聊無越度樣に可申付之条、御機遣被成間敷候、將又大坂より我等女房共仕合能召下候条、
御心安可被思召候、然者先度拙者もの小山より被仰付被成御下し候、口上に尾州表迄不被成御馬已前に卆爾之働仕間敷之旨被仰下に付而、
今迄相かかへ申候、はや尾州迄被出御馬濃州口御勝手之樣子も相聞候条、此方角之儀如水申談、急度相仂無程鄰國申付御注進可申上候、
此等之趣可然樣に御披露所仰せ候、恐々謹言、
九月十一日 C正
本多佐渡守殿
西尾隱岐守殿
跡書に重而は此印判にて可申入候間、可被成其御心得、爲其に只今おし候て進之申候、
前田、土方宛家康書状
三枝源三罷歸、其表之樣子承令滿足候、然者濃州一篇申付、大柿城に備前中納言、石田治部、嶋津、
小西已下取籠置候得者、爲後詰敵罷出候所をくい留置候由申來付而、爲可討果、以夜次日罷上候、
殊大津宰相も罷歸色を立候、其許早々御手合之儀尤存候、爲其申入候、恐々謹言、
九月八日 判(家康)
加賀中納言殿
急度申候、仍小松宰相方書狀指越候間、爲披見中納言殿へ進上候、此節有御入魂、先々墓行候樣に尤候、
木紀伊守も内々申越候間、何樣にも中納言可爲相談旨申遣候間、其方被致才覺、御入魂候て、
早々越前表江御手合候事肝要候、今十三日岐阜着陣候、近日凶徒可討果、可心易候、恐々謹言、
九月十三日 家康
土方勘兵衞殿
高畠定吉宛利長書状
尚々るすの事たのみ入候、
わさと申入候、小松表すみ候、明日大しよう寺まてちんかへ申候、左候時は越前もきをひ有ましく候間、
すくにきの本へ出可申候、跡の事たのみ入候、かわる事追而可申入候、以上
九月十八日 はひ利長 判
岩見守殿
K田長政宛秀忠書状
其已來不申入候之間、令啓達候、然者此中宇都宮に有之而境目丈夫に申付候間、信州眞田表仕置爲可申付、
去廿四日彼地を罷立、今廿八日上州至于松井田令着陣候、近日彼地へ押詰、子置等申付、隙明次第可遂上洛覺悟に候、
將亦其地之樣子、如何承度存候、猶追々可申入候、恐々謹言、
八月廿八日 江戶中納言
秀忠(花押)
K田甲斐守殿
御陣所
森忠政宛秀忠書状
重而御狀披見、本望之至候、先書如申入候、近日此表へ可爲參陣候付、以面萬々可申談候条、不能一二候、
恐々謹言
江戶中納言
九月朔日 秀忠御判
虫ト右近殿御近報
蘆名平四郎宛秀忠書状
眞田表爲仕置、令出陣付而、御見舞之御使札令祝着候、仍去廿五日、義宣御歸陣由尤存知候、然者、
貴所于今御在陣由、御苦勞察入候、就中眞田安房守事、卽可申付と存、彼居城近邊に押詰候處、
身命可相助之旨、眞田伊豆守を以、種々懇望申に付而、赦免候、猶大久保相模守、本田佐渡守可申候、
恐々謹言
江戶中納言
九月三日 秀忠
蘆名平四郎殿
森忠政宛秀忠書状
御狀令披見候、仍而眞田安房守事、頭をそり罷出、可降參之旨、眞田伊豆守處を以、種々詫言申候間、
命之義可相助與存、昨日以吏者申入候處、至今日存分にて申候間、不能赦免候、然間、急度可相働之条、
其御心得御尤候、恐々謹言
江戶中納言
九月四日 秀忠御判
虫ト右近殿御返報
浅野長政宛秀忠書状
被入御念、大久保相模守、本多佐渡守所迄御狀披見申候、如仰眞田安房守事、㝡前は身命相助樣にと、
眞田伊豆守を以、種々侘言申候つる處、至只今、存分を申候間不能赦免、今日上田表爲順見相動候處、
と石之城あけ退申候間、則眞田伊豆守を彼城へ入置申候条、先以可御心安候、如被仰越候、此表仕置申付、
頓而可令上洛候間、可御心安候、猶兩人かたより可申入候、恐々謹言、
江戶中納言
九月五日 秀忠(花押)
淺野彈正少弼殿
本多忠勝宛秀忠書状
此度濃州表、各被及一戰、敵悉被討捕、岐阜之城取詰、則時落居、其上爲後詰、石田治部少輔人數出候處に、
是又不相殘被討果之由、無比類次第に候、此邊通能々相心得可申候、將亦、眞田表爲仕置出陣候、
頓而隙明次第可令上國候也、
九月五日 秀忠(花押)
本多中務少輔とのへ
井伊直政本多忠勝宛秀忠書状
兩三人方迄來書披見候、伊奈侍從殿至于赤坂御着陳に付而、此表御手合之儀延引由尤候、眞田表仕置申付、
近日可上國候間、期其節候也、
九月七日 秀忠(花押)
井伊兵部少輔殿
本多中務少輔殿
森忠政宛秀忠書状
態以使者申入候、仍從内府急可令上洛由被申越候間、先々明日小ゥ迠罷越候、其表萬事無油斷樣、
彌可被仰付儀肝要存候、猶口上申含候条、不能詳候、恐々謹言、
江戶中納言
九月八日 秀忠御判
虫ト右近殿
御陣所
里見義康宛秀忠書状
此表之仕置申付候處、大柿之城に石田治部少輔、備前中納言、嶋津、小西已下楯籠候處、先手之衆取巻候間、
早速可罷上由、内府より被申越に付て、急上洛令候、將又其表長々在陣御苦労悉く存知候、猶彼地より可申達候段、
一二不能候、恐々謹言
九月十一日 江戶中納言
秀忠
安房侍從殿
御陣所
森忠政宛秀忠書状
從内府之書狀幷御懇札令披見候、然者、此度貴所も我等與被仰合可有上洛之由、内府より申來に付而、
被任其儀候由承候、尤相待申度候得共、一剋も早く可罷上旨申來、其上今日罷登候旨、諸軍に申聞候間、
急罷上候、其元程遠に御座候間、御用意有へく候、早速御上待入候、將又、今度御行已下御苦勞の段、
具内府江申可候、猶追々可申伸候、恐々謹言、
江戶中納言
九月十一日 秀忠御判
虫ト右近殿
御返報
森忠政宛秀忠書状
先日以吏者申入候處、委細御返事、本望之至候、然者、貴所御上洛之儀、先々御遠慮被成、
其元御仕置丈夫被仰付尤存候、罷上、御如在無御座通内府へ申聞、御上候而可然候はは、
御左右可申候間、其次第御上洛尤候、恐々謹言、
江戶中納言
九月十五日 秀忠御判
虫ト右近殿
御返報
曽祢原盛安宛渡辺金内書状
定
一 今度さなたあわのかみ(真田安房守)でじろくわしやかたけ(出城冠者嶽)におゐて、
當月六日に、一之きと(木戸)にてたたかい、身方四人打死ておい八人有之所に、其身てをおい、きとをやふり、
てきの旗をとつて石川玄幡守へ參上仕候き、目前之かせき(稼ぎ)しやうこ(証拠)に不及候条、
以来之しうもん(証文)可然旨拙者に被仰渡れ候故、如此出し置者也、仍如件、
慶長五年 渡邊金内
九月十五日
曽祢原C七殿
八月四日 直江兼續書狀寫
追而其方越後へこし候事無用に候、可越由申遣用所相調尤候、書狀披見上方へ之飛脚申付候由尤候事、以上
一 越後一揆之儀者度々如申付候、あか北には先々手を不付、あか○春日山山の方へ成次第おこし候やうに可申付候、
久太郎も上方○之御ふれ狀によつて此方次第と存軆ときこへ申候、咒哉溝口、村上事は勿論候、侍之筋目公儀に候条、
兩人領分は先々取除候、其外は成次第可申付候事、
一 方々聞合、御備も今月廿日時分まて尤かんよふに存候条、先々一揆等にふかく人數を遣候事無用に候、太軆さへすみ候へは、
成事にて候条、其心得專一候、此方之儀、最上、正宗討果候事、輒候へ共、内府之手成しられす候まま、
手をみきりこらへ候指向候、一大事尤つつしみかんよふに候、越後之一揆成次第と可存候、爲其申遣候、謹言
八月四日 兼續(花押)
山田喜右衞門尉殿
八月五日 直江兼續書狀寫
追而爰元之儀今少見合可罷移候、御歸は今月中相極候条、各御相談、萬事不可有御油斷候、下々齋幷先方衆へも傳言申度候、以上
御狀披見、白川表より日々注進、内府いまた小山在陣之由申候条、其元無御油斷御仕置專一候、簗川之御加勢入置候、珎儀者可申述候、
次に佐竹より使者、昨日罷越候、從義宣如御斷者、今度上方之儀に付而、内府より證人こわれ候得共、不通に申きり候条、
定而手切可有之候、左樣に候はは、御加勢申請度との事に候条、ふかくふかく請申て、使者かへし申候、可御心安候、
又御奉行中諸國へ被遣候ヶ条書狀之寫進之候、猶自是可申入候、恐々謹言
直山
八月五日 兼續
岩備州
御報
八月十二日 直江兼續書狀寫
追而勢三方所勞之由、無心元存候、無油斷御養生專一に候、以上
御便札本望至極存候、白川表彌無事之由、珎重存候、其許御在陣衆以御相談、御普請等可被仰付之段、乍御太儀可然御事に候、
宮中より珎敷到來次第、可預御狀候、將又此方無相換義、白石表之儀、郡近邊へ打出候人數、一昨々何も引除候に而付、百姓等先以還往申候、
上方之樣子、正宗も聞屆候故と存候、又最上口之儀も南部仙北衆上説を聞候て引払之故、最上無正軆取亂候由申來候、油利は庄内一味仕候、
小野寺殿も同前に候、越後之儀、村、溝無別条と計に而も不相濟候条、四五日已前、堀兵殿を遣申候、定而可相濟候、自然停候はは、
仕やう共有之事候、可御心安候、一兩日中に佐竹より使者之由申來候、自然若松へ參候はは、御左右可申入候、恐々謹言、
直山
八月十二日 兼續
岩備殿
御返事
九月三日 直江兼續条書寫
覺
一 奧口御無事之儀、兩使御相談にて可被相濟候、連々如御申候、御不足之儀候共天下江御奉公と思召、白石なとの事に無御構、
公儀さへ能候はは御調尤候、
一 關東御出馬之砌、政宗御同陣被申上候歟、不然は家老五三人も相濟、人數五千も三千も被相立候而、萬一御弓矢御むつかしき事出來候とも、
關東御靜謐中別心無之樣、御堅め第一に候事、
一 最上之儀は政宗同前に付、延々見合候と聞得申條引詰承屆候て、手堅相濟候者、最上存分之儀可相調、自然不相濟存に而、
日を送軆に候はは、外聞も不可然候條、一動可申付、左樣に候はは、若政宗より手切に申來候共、推返し使者を被遣、
先々無事御つつけ可然候、其内に自米沢御左右可申入候事、
一 此中御意候、簗川城とりかへられ候儀、當城と白石之つなきにも相成、又は簗川のかはりにも可相成、地形御覽しつもり、
政宗無事可相濟休に申來候はは、急御普請に御取次可然候、左樣に候はは栗刑も可被相招候事、付城引つめられ二三百にて可相抱御分別專一候、
一 自此口奧口筋御出勢は、最上手成次第と存候、彼表の樣子追而可申述候事、
以上
直山
九月三日 兼續
本庄越州樣
參人々御中
九月四日 直江兼續書狀
御狀披見、仍昨日爰元迄罷越候、最上表先度可相仂處、少々懇望之儀候条、延引候、二三日中に相濟可申候、可御心安候、正宗も右同然に候、縱仂成候共、
人數無不足候、上方之儀、所々城落之由、心地よき義候、猶重而可申入候、恐々謹言
直山
九月四日 兼續(花押)
甘備
御報
九月八日 直江兼續書狀寫
追而、佐竹へ被遣候返礼、披見仕候、關東の儀、無相替儀候、以上、
御書拜見、仍而此表之儀、度々申上候最上付延々仕不相濟候、明日當地罷立、相動可申由存、先衆は今日より遣申候、人數も相調候条、
御心易可被思召候、敵地へ討入候事者、十二三之時分たる可、其内追々注進可申上候、此等之段可然樣に御披露、恐々謹言、
山城守
九月八日 亥刻 兼續
助次郎殿
九月二十一日 直江兼續書狀寫
追而直に可申上候へ共、無 御心元可被思召候条、貴所御心得之樣になされ尤候、爰元之儀は、可御心安候、以上、
幸便之条申入候、仍而只今白川より申來候は、上方散々に罷成候由相聞得申候、左樣に候へは、關東口は心安罷成候条、
但馬守米澤へ被指越、自然正宗白石おもてか米澤邊へ相動候時分、いつかたへ成共懸助候樣に被仰上尤候、當表儀、隨分申付候条、
見合候て、御直馬之御左右申上候儀も可有之候、内々其御用意專一候、大切之儀に候条、うらかたなとも御させ候て内々御心持候へく候、
自然此口へ加勢か、又正宗罷出候はは、兩國共に相濟候樣に支度候、とかく此方之儀は急度申付候条、御氣遣有之ましく候、恐々謹言、
直山
九月廿一日 兼續(花押)
安上樣
參人々御中
十月四日 直江兼續書狀
追而今度不慮出來仕候樣子、具安田申上候、とかく已來は御吉事とそんする事に御さ候、以上、
御書拜見、仍而今度之無仕合、中々迷惑仕候、半途に在陣、可致言上由存候へ共、庄内境目へ相動候故、彼庄仕置、又彼是有進處、
昨日當地荒戸まで打入申候、於此地、領中仕置申付、重而可致言上候、仙道表御仕置彼是に付而、安田上総介、今日相立可申候、
御人數もそんし申さす候、ひたち少手負申候、くるしからす候条、御心安可被思召候由、御披露候、恐々謹言、
山城守
十月四日 兼續(花押)
助次郎殿
急度申遣候、
一 此表之事、赤坂之敵陣へゥ口より取寄候故、敵うろたへ候てはやく敗軍可仕軆と相見へ候、五三日中に吉左右可申遣候、
可御心易候、てんのあたゆる所天下之弓箭此時隙明事態も入度所へ敵參候て有之事候間、壹人も不殘可討果事眼前之事、
一 關東之儀は家康領内へ三日他行申候、景勝より切入候て關東ゥ所みたれ候て無正軆由上々注進候故、中々内府可罷上覺悟梦に無之候、
あわれ上り候へは壹度に打果度候事、
一 大津之城輝元より城をかり可申よし被申候へは、人質遣申うへは城を渡事迷惑之由申候へは、則大坂より被取詰、本丸一つに罷成候、
餘之儀は定可有宥免やと存候、此段このついてに一段可然成行候間、可心易候事、
一 其元番等之儀、此刻肝要之候間不可有由斷、然は各手前うたかい候て申遣にてはなく候へ共、爲外聞候間、
其方面々人質之儀被差越尤候、
一 岡山在番之儀は宍太御座候間、此兩人人質之儀早々差上尤候、四郎左衞門事むす子を早々差上可申候、我々そはに召遣へく候間、
一刻も差急此表へ差越尤候、然者河内守に申候て壹人案内者こい候て差越尤候、太郎兵衞人質之儀、おとこの子の無之候はは不及是非候、
お子之候へはおとこの子差上尤候事、
一 常山在番丹後事、是又慥候人質差上尤候、自然實子無之候て養子成共差のぼらせ可申事、
一 小串在番新右衞門事は、せかれ爰元に有之事候へ共、今壹人差のほせ尤事、
一 小倉長田右衞門丞事、左近、越中守所に有之事候へ共、今壹人せかれ於有之は此方へ差越可申事、
一 廣P宍太郎右衞門、牧藤左衞門兩人事、七郎右衞門外にせかれおいて有之は早々差上可申事、宍太郎右衞門にはむす子有之由候間、
早々差越尤候、不可有由斷候、
一 赤穗平兵衞、六右衞門事、是又せかれ於有之は早々差越可申候、六右衞門はせかれ有之由候間、差上早々可差上候事、
一 田中務事、助兵弟於有之は早々差越候可申候、自慥成就人質差上可申候、自然於無之は右之姿に可申付候事、
一 倉敷四郎兵衞事、是者せかれ此方に居申候間、今壹人も人質として差出尤候、何誰所に壹人奉公仕有之樣に申候、
是はわれわれ一切不知候、此段は其方より能々入念候て申越候はは、其上を以我々そはへ可召寄候事右之通、
早々何待及、むすめ子なとは差上事堅無用候間、可有其心へ候事、
一 各人質取候へは、家來能には不及事に候へ共、各内にて知行かたをも取申もの之人質之儀、是又家中能を収集、
岡山四郎、太郎兵衞兩人所へ相渡尤候、女房とむすめとは出事無用候、むす子又は兄弟又親にても差出尤候、
此通堅可被申付候、小給之者は不入事、惡心をたくみ候てもいかかと存候ものを収集候て岡山へ差越尤候、
是又不入事候へ共、爲人寄候間如此候、久しく留置候事にあらす候、先此刻如此申付候は何かと結句わきより申候へは惡候間、
此上に可被申付候少も不可有由斷候、是方へ差越候共、河内所より人をこひ候て差越尤候、各尤之人質、
拾三よりしたの子は於大坂にかわちに渡尤候、拾二三よりうへの子は陣へ差越尤候、先岡山より大坂迄相計候は、
以其上又かわち所より到注進候へと申遣事候也、
九月十日 御在判(秀家)
宍甘四郎左衞門とのへ
宍甘太郎兵衞とのへ
川端丹後守とのへ
小P中務正とのへ
明石四郎兵衞とのへ
沼本新右衞門とのへ
中吉平兵衞とのへ
延原六右衞門とのへ
宍甘太郎右衞門とのへ
牧藤左衞門とのへ
祖式長好宛吉川広家書狀
去月廿四日津城落城去之儀付而、態飛脚、令祝着候、於干今者、趣具可有其聞候間、不能申候、其以後濃州表へ打出之、
去七日南宮山と申に陣執り候、敵は樽井赤坂に有之事候、双方中間一里候、只今まては彌行無乘之候、追々可申遣候、
其地番衆普請等無緩之由肝要候、諸事犹以不可油斷候、従香又、山九可申候、謹言
九月十二日 廣家花押
祖九右
祖式長好、佐々木長綱宛吉川廣家書狀
尚々、其元万之心持肝心まて候候、此状兩人之外は拜見仕間敷候、まじく、追而申聞候、此表敵三万計陣取在之事候、
味方人數ははるばる多候。乍去、いかにもかたまり不申候、彼是以被申下さる子細共多候間、各心遣之此事候、
内府も被出候よし申候、ぎふ、いぬ山被越候間、被出候事は此節にて候候、菟角大事まて候候、心持之ため申遣候之、
兩人少も他言候ては不可然候候、爰元はやかて可相聞之候、吉事まじく、
九月十二日 廣家花押
祖九
佐九
搏c長盛宛三成書状 石田三成書狀寫
態申入候
一 敵至今日赤坂何之行も無之延々と居陣、ものを待樣にしかと有之體に候、不審成と各申候事、
一 從江州被出候衆、勢州より被出候衆參着候はんとて、今日たきのかなやと申所へ被出逢候、拙子儀はおほかきに在之事に候、
當城へ近邊の人質伊藤家來之もの幷町人のしちもつ迄入置候、敵より火付之才覺伊藤若輩故、家中之者共樣々之才覺仕候に付て、
心ゆるし不成候、殊に拙子之者共さき手に有之所は敵相二町三町之間に候之条、拙子は城中にしかと有之體に候、
今日之談合にて大形味方中之仕置可相究候、あらあらなから一昨日長大、安國寺卷題陣所へ我等參、彼内存承分にては
諸事相濟間敷と存候、その故は殊之外敵を大事に懸られ候て縱敵はいくん候共、中々可相果行も無之、
菟角身用心之御陣取之積り計にて候、陣所は垂井の上之山候に山取之用意に候、彼山は人馬之水も有之間敷程の山にて候、
自然之時は懸合にも人數の上り下りも不成候程の山にて候、味方中も不審可仕候、敵も可爲其分事、
一 爰元苅田候へは、兵粮は何程も有之事に候へとも、敵を大事に懸られ苅田にさへ人を不被出候、
兵粮は江州より可出候由候間、成次第に持出可申候、近比味方中ちちみたる體に候事、
一 味方共に勢州江州之人數出候はは、何とそ一行可有之と存候處に延々としたる體に候、依之敵も亦ためらい候體に候
拙者所存候通も長大、安國寺へも申候へ共、一圓御取合無之候間、其通に仕候事、
一 菟角如此延々と候はは、味方中も心中難計御分別之前に候事、敵味方下々の取沙汰には妻子人質之儀は何樣にても
苦しかるましき體に候、揄E、内府へ被迎合筋目に候とても、妻子なと一人も成敗之義有ましきと申なし候、
是もK白を存たる者は不申下々申事に候、倂申も無餘儀候、既に如斯討被討候へ共、其者之妻子御成敗穩便故、
先書にも如申犬山加勢衆謀叛なとも出來候歟、さりとては有間敷儀なから是も妻子氣遣無之故と下々申候、
爰元諸侍申され候も敵方之妻子五三人も成敗候はは、心中替可申と申事に候、爰許承候通申入候、御分別に不過候事、
一 大津之義、去とては此節根をたやされ候はては、已來御仕置之さはりたるへきと存候、殊に伊奈之侍從殿、
當表にて種々之才覺御推量之外にて候事、
一 敵方へ人を付置聞申候、佐和山口より被出候衆之中、大人數もち敵へ申談らるる子細候とて此中相尋候、
其故は勢州へ被出陣をも申留、各面々在所在所に被相待候樣にと申談なとと申、此二三日は頻にかけ口有之、
敵方いさみ候つる然るに江州之衆悉山中へ被出而、かけの口違候樣に敵申候とて、唯今申來候、菟角今之丗は
人質不入體に見へ申候、終に出し候人質無御成敗候間、人質に不搆も無餘儀候事、
一 何れ之城之傳々にも、輝元御人數入被置候御分別肝要に候、此段子細有之候間御分別あつて勢州を初、
太田駒野に今度城を搆候而能候はんと存候、江濃之境目松尾之御城、何れ之御番所にも中國衆入可被置御分別尤にて候、
如何程にも慥成遠國衆にて候へ共、今時分は國郡之心差し有之付て、人之心難計候、御分別之前に候事、
一 當表之儀は何とそ諸侍之心揃候はは、敵陣は廿日之中に破り候はん儀は何れの道にも可多安儀に候へ共、
此分にては結句味方中に不慮出來候はん體眼前に候、能々御分別肝要に候、羽入兵、小攝抔も其被申樣に候へ共、
遠慮有之と見へ申候、拙子儀は存知之たけ不殘申候、
一 長大、安國寺存之外遠慮深く候、哀々貴所に當表之儀、一目御目に懸度候、扨々敵之うつけたる體家中之不揃儀
思召之外に候へ共、それよりは味方中事をかしき體に候事、
一 輝元御出馬無之事拙子體は尤と存候、家康不被上には不入かと存候へ共、下々は此儀も不審たて申事に候事、
一 度々如申入金銀米錢遣はさるへき儀も此節に候、拙子なとも似合に早手之内有たけ此中出し申候、
人をも求め候故、手前之引廻し御推量可有之候、然は此節に極り候と存候間、其元も可有其心得事、
一 從江州被出衆之手前、自然之不慮之儀も候へはと存、是のみ迷惑に候、輝元御出馬無之候はは、
佐和山下へ中國衆五千計入可被置候儀肝要之御仕置に候、菟角勢州へ被出衆之歸りは大垣、佐和山の通路にも不搆、
自然之時分は太田幷駒野へ取つき、畑道を江州へ御通用之積計と相見え申候間、長引可申と存候事、
一 備前中納言殿今度之御覺悟、さりとては御手柄、是非なき次第に候、此段自諸口可相聞候間申に不可及候、
一命を棄而御かせきの體に候、其分御分別御心得可有之羽兵入、小攝同然に候事
一 當分御成敗有之間敷人質妻子、宮島へ御下可有之歟、御分別部不可過候事、
一 今度勢州口より被仂衆、中國は不逮是非其外長大、大刑幷御弓鐵炮衆も長大、安國寺一手に被引向樣に相見え之候間、
大人數廻り兼候、人數も少々そつに罷成體に候事、
一 丹後之儀隙明之由に候、少にても外聞に候間、彼表之衆當表に被立候樣に可然候、恐々謹言
九月十二日 石田治部少輔
搏c右衞門尉殿
伊達政宗宛徳川家康書状
今十五日午刻、於濃州山中及一戰、備前中納言、嶋津、小西、石治部人衆、悉討捕候。直に佐和山迄、今日着馬候。
大柿も今日則捕候。可御心安候。彌其表之様子、彌御仕置等、尤候、恐々謹言
九月十五日 家康花押
大崎少將殿
年次欠(推定関ヶ原直後)養徳院(池田恒興母)宛徳川家康書状
御文ことに二いろを くり給候、しうちゃくに そんし候、うけ給候ことく、てんかとりしつめ候、
三さへもん殿一たんと 御しんらうともにて候、 いつれもめてたき事、かさね々申うけ給候へく候、めてたくかしく
やうとく院 内ふ
水野勝成覚書より抜粋
拙者并に水野市正十五日夜のうちより罷立、かくてんを押やふり、
大垣の城へのりこみ二の丸まてとり引足に町中に火をかけ、
林と申寺内大垣より北に御座候それまて引取申候、
(中略)
大垣十五日之朝のりこみ二の丸まてとり本丸はかりに仕候よし
関か原権現様へ注進仕候、
(中略)
十五日関か原の御合戦よりはやくおしこみやふり申候、
(中略)
十五日の朝、おしこみ申時、
(中略)
一 十六日之夜、相良左兵衛・高橋右近・秋月長門三人の名付にて
城中より文をこし申候、(以下略)
松平和泉守宛石川長門・彦坂小刑部書狀
早々御飛脚本望存候、其樣子則御耳に立申候、然者去十四日赤坂に被成御着、十五日巳之刻關ヶ原へ指懸被為及一戰、
治部少輔、嶋津兵庫頭、小西、備前中納言十四日之夜五つ時分に大垣外曲輪を燒払、關ヶ原へ一所に打寄申候つる
此地之衆幷井兵又s殿、爲先手其外悉打続く、敵切所を抱有所へ指懸、とりむすひ候刻、筑前中納言、
わき坂中書、小河土佐父子、此四人御味方被申、うらきりを被致候、則敵敗軍仕、追討に無際限うちとり申候、
大將分は大谷刑部少輔、嶋左近、嶋津中務、戸田武藏平塚因幡此外討取り申候へ共、先人之存候衆は此分に候条、
打捨はなをかき候て捨申候間、誰を討捕申候も、然々と不被不存、又十六日に佐和山へ指懸とりまき候て、
田中兵部水の手をとり、本丸へ押懸申候へは石田杢父子、治部少輔しうと父子、同治部おや、妻子一人も不殘きりころし、
てんしゅに火を懸、悉燒払落城仕候、其刻城より三百人ほと取○、手前へ罷出候處を一人も不殘うちとり申候、
皆々小姓共まて高名いたし候間、可御心安候、治部少補は十五日之合戰場より行かた于今聞へ不申候、
將又安國寺をは吉川、ふく原兩人思食にからめ出し申候、輝元御訴詔被申候由候へ共、如何可有か不被存候
犹替儀候者追々可申入候、恐々謹言
九月十七日 石川長門
彦坂小刑部
松平和泉守殿へ
近衛信尹宛て近衛前久書状
昨朝御見廻申候ヘば、早天に大津ヘ御越之由候間、大助に申置歸山申候、主水をも遣し候ヘ共、
未内府は大軍に付、路つかへ、江州守山邊に居陣之由申、昨日主水も從(二)中途(一)歸申候、御仕合如何候哉
一 一昨夕彼陣床より拙者ヘ參候者、直に語候趣、爲に御心得一申候、内府は當月朔日に國夲を出馬候て、
十四日に大がき表ヘ被(二)押寄(一)候を、大がきの軍勢石治少・嶋兵入・小西など見候而、山ヘ取上リ候、
内府は五万程にて、手人數各別に備られ居陣候
一 先手之人數は、s一番、長岡越中二番、金森法印三番、田中兵部其外上方之人數四万計、面々に備、
野ヶ原にての合戰にて候、卽時に切立得(二)大利(一)候。
番ひに金吾手をかへされ候、其太刀場にて、大谷刑部討死候て、其ままきり崩候、上方より出陣の人數五万計候、
四五千も討死候と申候
一 十九日に沢山ヘ取かけらる、則落居候て、石治少子・杢など討果候由候
一 石治少、嶋兵入は山すたいに引退候と相見、行方不れ知候、越州へのき候はんかと申候、生捕に仕候との沙汰は、
うそにて候と申候
一 きつ川は輝元被れ取候、知行分悉給置候者家康ヘ味方に可れ參候との(あつかい)にて候ヘどもそれは餘之□之由候て、
半分の契約にて、一味申候との事候。
安國寺は乘物にてのき候を、きつ川者共追懸候ヘ共、行方しらす見失候、生捕之沙汰不(レ)存候と申候
一 備前宰相は討死との事雜説候、無(ニ)異儀(一)之由申候、是以味方には不(レ)成被(レ)申
一 長尾景勝との和睦は無れ之候、其手当に結城參河守、政宗など被(レ)殘候と申候、政宗は一筋に家康ヘ一味之由候、
白石と哉らん申候城、景勝抱候を此方ヘ被(レ)取、政宗入城之由候、此城前々政宗城由候
一 佐竹は景勝・石治少などヘ一味之由申候而隔心と相聞候と申候
一 信州さなだは敵に成候て、中納言忠秀、榊原式部少輔などは、彼國ヘさしむけられ候と申候、是も手間不(レ)可(レ)入候間、
一途被(二)申付(一)、上洛との事にて候と申候
一 なつか大藏は、みなくちの城に居候、それへも人數さしこされ、可(二)討果(一)之由ト申候
三奉行は可(レ)有(二)成敗(一)之由にて候と申候
一 昨日より風聞は、なつか大藏は内府ヘかけ入候と申候。内府被れ申候は、よくとも惡くともの事候由候と申候、
此儀は昨日より承候、事実は不(レ)存候。
右之趣は水不(レ)入慥之事候、彼虎口より直に當所ヘ參候ものにて候、直に承候間、爲(二)御心得(一)ニ申候、以上
九月廿日 東入
猶々如れ此處に、津小平かたより書狀くれ候て、内府今日大津へ被(レ)越候由、由来候間、主水をも又さし遣し候、
今日又御越候哉、定可(レ)有(二)御聞(一)候へ共、令レ申候、書中御らんじ候はば火中々々
本多正純書状
追而申候、内府樣一昨廿日、至大津被成御着馬候、然者中納言様、同廿日草津迄御着陣、明日廿三日伏見へ御出馬被成候、
依之内府樣は、今明日は爰許御逗留被成候事、
一 秀ョ樣幷御ふくろ樣より昨日御書被進候、如此候間、大坂之儀も、大方五三日中可相濟分御座候事、
一 勢州一國幷伊賀悉相濟申候、九鬼は舟に而行方不知迯申候事、
一 小西攝津守者御一戰に而被討洩候處、濃州ほたいと申處に而、溺取參候事、
一 長束大藏は、かしらをそり、水口之城被渡候事、
一 大坂よりぬきぬきにぬけ候而、爲御迎參候事、
此上は天下無殘所平均被仰付候間、御心安可被思召候、猶々吉左右重々可申入候、恐々謹言
九月廿二日 本彌八郎
石日向樣
伊備前様
板四郎右樣
本佐渡様
如此申來候間、到寫進覽申候、以上、
九月廿九日 本多佐渡(花押)
本多次郎八樣
眞田伊豆守樣
堀雅樂介樣
人々御中
追々重々致言上候、
一 今度惣御和談之事、其許相伺候而可相調事候つけ共、敵之手前先書に如申上候、内府着に付而、
至野ヶ原、悉先陣衆は打出、㝡前陣所へ者内府被入移候、左候て行之樣子相聞え候分は人數二手に分候而、
一手は山中へ押入、筑中左然候處へは筑中御逆意はや色立仕合候、就其大柿衆も、被地被居候事不成候而如山中、
大刑少陣無心元之由候て、被引取候、是は佐和山へ二重番引可仕覺悟と相見え候、惣別眼前候、
さ候へは御弓鐵御味方として被出候○衆○○衆は、多分心合之樣子と相聞え申候、其地被罷居候衆も、
使者付置候はぬかた衆は、多も無之由候、一つとしてはや御弓矢御勝手に可成立ふり無御座候、此時者、
數代之御家をむさむさと可被相果事、餘殘多存、長大、長老其外之衆へも不致談合、兩人短息之餘、
別に傳無之候条、K田甲斐所へ廣家内三浦と申かち者を、口上計狀をも不持せ○に遣惣和談之手筋、
可有如何哉と計申遣之候へは、K甲mカへ談合候て、卽内府御本陣所へ使召連被參、
井伊兵部、本多中書被引合せ候て、被遂披露候、内府御對面候左候へは候て、先伊兵、本中以~文無別儀旨申候へ、
以其上、吉川lエ~文人質候者上、到來の上にて、内府直御~文対輝元樣可被進之由候而、井兵、本中書前書之~文、
對兩人被差越候、勿論血判筆本を此方使に見せ候、其条數、
一 惣和談不可有御別儀之事、
一 對輝元、内府少も無御別心事、
一 只今御分國相違有間敷事、此条々にて候、又mカK甲ら、如此相調候上者、上者以來兩人少も無別儀馳走可申之由、
對兩人~文誓帋被仕候て、三浦にmカ者一人、K甲者一人被付越候条、此上者、又此返事仕候はてはとの談合仕事にて、
兩人請帋仕使者歸○○も右四人之誓帋之返事仕調遣候て、爰元候此上は御行之様子如何候哉と、兩使へ相尋申候處、
兩使申事には、山中へ之先手は、mカ太、K甲、其外加左馬、藤佐、其外上より罷下候衆中筑中納言殿御手引之事に候条、
打合中にたて候て可討果候、可合戰仕候、
南宮山へ之手あては、先手池田三左衞門尉、井伊兵部、本多中書、其外内府馬廻、
此衆にて土佐侍從陣から御弓鉄炮衆陣、安國寺陣田中兵部、堀尾信濃足かかり能候条、
是を切崩候て、かさ陣へ可切上之由にて候、於于今此分候者、御和談調候はは間、相違可仕候条哉と
申候、先此分にて候つると申候条此方申分には、此御和談之事は、○○先兩人計存候、長大、安國寺、
長土御弓てつほう衆なとは被存間敷候条、御手あて衆已下被出候は、可及合戰候、さ候へは、此首尾相違の樣候条、
○○○○一圓に御手あてなしに○被做せ之候者、當陣之者不打出樣相(手偏に只)候て可罷居候由申候て歸候へは、
其返事ははや無之候つるか、少も手あてなしに被打過たる事候、此方御人數之事不被打出候て御(手偏に只)候て
御座候へとの可然之由申て歸候右如申上候とかくあひ候する仕合にて中々無之趣候つる条長大、
安國寺は人數たかり候つけ共、兩人面白おかしく申候て、御人數打出候はて、敵手ふり聞合申候處、案中山中之儀事
卽時被乘崩、悉被討果候、嶋津なとゑり勢三千にて、隨分一合戰は可仕之由候つけ共、中なか馬を被入不相成候て
其身一騎のりぬけ伊勢地のことく被退候、式候つる条、幾重々とい候はぬ仕合にて御座候つる由申候事、
一 mカK甲より山中へ被打出さまに、又使者二人被越、人質之事lエ弟、粟屋彦右衞門尉子を早々出之候て可然之由、
被申候申越候条、合戰之仕合は右之分候、於于今はひかへ候ては不成ふりにて候条、如望兩人兩人差出之、
内府直之内府直之殿樣へ之御誓帋之事、㝡前申談辻にと申候而、廣家nョ使者兩人相副差出之候、
mカK甲先手へ被參候故、兩使は先さまへ參、未罷歸候、人質をは、別而内府於御本陣被○請候て候て一段
御懇に被仰、堀尾信濃殿にお預け候、當手御人數之事も、如江州被打出可然之由、mカK甲被申置候条、
任其辻、昨日南宮山より陣易仕候、路次案内者をも堀尾信濃殿より被出候へと内府被仰出候て兩人被出候道筋も
信濃殿被參候北すちのみちへ罷出候、今日佐和山着可仕候条、追々趣可申上候、
一 長土佐殿御弓矢てつほう衆は、一昨日内府山中へ被打越候を披見候てから、人夫悉如伊勢地被退候て、
山中之合戰勝手に成候由被聞候てから、ととけなしに皆伊勢路のことく被罷退候、
一 長大大藏殿も、山中合戰惡敷候由到来候へは、卽ととけなしに如伊勢路被罷引退候、
一 安國寺も、長大同前に中途まてのかれ候つるか、いかか被存候哉、自中途被引歸候而、南宮山被罷越候、
然者、此和談之由被聞候て、定而腹可被切せ候条、覺悟可仕之由、使者にて候条、且而左樣有之事にても無之候条、
人數武具なとのけらけ候て、しのい候て出家一分之安國寺にて先被參可然候はん由候て、右之とをりにて候、
一 爰元調之儀は右之分候、はや餘日無之事候者、不及申、一刻もはつけ候へは、御無事之調不成仕合候つる故、
其元相伺申候事、中なか不罷成候て、右之分に先爲兩人相調申候条、其元御事何もかも兩人そこつに○被○做せせ候てらけ候て、
この節御家之御續千言萬言肝心迄候、口上申分候衆一人早々下之候て申上度候へとも、路次のほといかにも不被計候て延引仕候、
何も今明日中一兩人差下之以口上具可申上候、其内爲御分別有搦|以書中申上候、
重々致言上候、爰許御無事之筋目、當分國中無相違可被進之由、~文被易、爲人質lエ左近、
粟屋彦右衞門尉子十郎兵衞可差出之由、御好に付而、其辻に差出相調申候、s左衞門太夫殿、K田甲斐守殿被相調、
井伊兵部、本多中書務御取次にて候、何も段々出入者口上被申分候衆一兩人を明日中差下之候て可申上候条先以其元之事、
右之辻に被思食候て可然候、一昨日十五日内府樣直に山中へは被押寄被及合戰、卽時被討果候、昨日至江州二手に被分亂入候、
當手之事、北口之手同前に打出可然之由、mカK甲より被申候条、其辻に致陣易候、mカ、K甲先手へ被參候故、
人質之儀堀尾信濃殿へお預け候、即又路次案内者をも信濃殿より被差出候、一昨日は當手之事は南宮山㝡前之陣取に候て、
手前引堅かまはすに有之たる趣候、菟角於于今は、其元之御事此地にての調手はす違候はぬことく
御覺悟尤存候、候て御家被續候事此時と存迄候千言萬言無別条候右如申上候口上之衆軈而差下之可申候路次之計を仕延引候此由
押紙
敬白靈社上卷起請文前書事
一 今度之儀以御取成被思召分忝候事
慶長五年九月廿二日 安藝中納言輝元
虫ト左衞門太夫殿
K田甲斐守殿
起請文前書之事
一 御身上之儀向後 内府樣不可有御相違之事
慶長五年九月廿九日 K田甲斐守
長政
虫ト藏人殿
參
垣田勘左衛門宛秀元感状
毛利秀元感狀寫
今度濃州南宮打納之刻、敵付立跡手六ヶ敷候之處、其方事返合候段、無比類候、幷至勢州楠原爲加勢鐵炮之者相副遣之候處、
別而肝煎仕、組之者共敵數人打臥候、同國於津城茂三丸門口に而碎手、同門内に而敵壹人討取之段、粉骨此事候、
仍太刀一腰、馬一疋遣之候、猶於國夲可加襃美也、
慶長五年
九月廿三日 秀元御判
垣田勘左衞門殿
直政宛秀康書狀
尚々其元之樣子、被仰越忝候、
去十二日之御狀、今日廿五日に拜見申候、誠被入御念ゑつ給、一入滿足いたし候、去十五日、濃州山中に而、合戰被成、
ことことく被打取候由、千萬目出度存候、殊自身貴所も高名被成候由、千萬目出度候、少手をおい被成候由承、あんじ申候、
くるしからす由承、我等壹人と滿足いたし候、次野州自身高名之由、只貴殿御たちそい被成故と存計、此方に而承、
滿足御すいりやう可給候、扠々御同樣不申候やう、御迷惑無之候、やがて大坂より之御吉左右待入申候、恐々謹言、
九月廿五日 秀康花押
〆 より
井兵部殿 虫O
參
政宗宛宗桴狀
返々、内府樣於政宗様、一段御懇に候、毎日少將樣之御事出不申事は候はす候、日本國~めてたく候此通奧州へ御申下し可被成候可被成候、
已上、
本田平兵衞殿御越候、卽御うへさまより之内府樣へ之御使之由申候へ者、卽御對面にて、直々段々こまこまと御禮共被仰事候、一兩日中に、
内府樣御入城事候間、其刻御目出度由にて、御うへさまより御服御進上、可然存事候、御ふく一重の御同服御そへ候て、
被參候て可然存事候、早々御用意可被成候可被成候、又奧州へも 御うへさまより人を御くたし候哉と御申候間、此樣子被仰遣候由候、
一 毛利は歸國仕候、揄Eはかみをそり、高野之住居にて候、か樣に無殘所相澄申事、先代未聞候、
一 平兵衞如存知、石田治部少輔、小西、安國寺、何れも生捕候て在之事候、恐惶謹言、
單丁齋
九月廿五日 宗栫i花押)
政宗樣
御留守中
忠興宛秀康書狀
態使札以申入候、去十七日にさを山へ山中より取かけ、則乘取申候、水之手を田中兵部取、せめおとし申候、内府ものに而は、
石川左右衞門尉太夫手ネ仕候、石田杢父子、治部父、同妻子、ちかい仕候、てんしゆに日をかけ申候、上方之儀、彌々御心安可被思召候、
最上之儀、先日以來、何共不被仰越候、如何、無御心元存候、さてもさても早足可罷出儀に候へ共、内府かたく被申付候間、
迷惑仕候、先日御飛脚相留申候間、上より之返事次第、それに御返事可申入候、少由斷に而無御座候、~八幡~八幡延引之所、
千萬迷惑仕候迷惑仕候、井被使可申上候、已上、恐々謹言、
貯メ河守
九月廿八日 秀康(花押)
忠z州樣
人々御中
村越直吉今井宗久宛政宗書状
伊達政宗書狀
以上
去十二日自C洲之書狀共相屆候、卽自之可申上候處、今少最上表之樣體をも爲延引仕候、
一 其表之儀、大柿爲助衆毛利宰相、長大、吉川、安國寺被罷出之由、依之先衆へ可打向、卽時に可被討果之旨尤存候、
可被得勝利必定と存候、
一 此表之儀最上へ直江爲始、仙道、白河之人衆迄も參二千騎計足輕三萬程に而陣取仕、先達而如申入候はた屋之城攻切候条、
河西過半一返仕付而出虫邇U々取亂、已山形之城可相敗樣に候間、息修理大夫爰元へ被越候、而加勢之儀被申候間、
内府樣御爲と存候而手前を指置、拙者祖父に候上野介に五百餘騎鐵炮千挺其外人衆五六千、卽遣申に付而、
陣取候候敵取亂已長井へ可引入體相見候条、出虫迴纐申談、敵陣近所へ相仂候へ共、兩方そなへ之間に大惡所候而
合戰不仕由申越候、然間敵除候事も不成候而于今在陣仕候、
一 此砌與存候而、去廿五日長井口へ下關と申所にかかり、人衆少し遣候而湯之原之城へ押懸撫切に可仕と存候處、
彼所之者共普代之筋を以頻懇望仕候間、身命計相助入手申候、依之新宿之城も明迯仕候、最上へ申合、
此上我等自身長井へ亂入可仕由存候、左樣に候者最上に在陣之衆も可爲敗軍由存候、最上所々迄も此邊拙者壹人迄之樣而
賦等申付候、扨々人衆も數多持候衆鷹野計に而遊山仕、皆々なかめて居申候、あたら知行哉らんにて候、是は貴所迄への之ざれ事に申候、
一 最上へ悉人衆取越、會津も景勝小性共計指置候而、用立候者者皆最上へ參候由迯人共何も申候間、此砌白川境迄も
關東之御人數被出候者、自之も伊達筋より仙道へ罷出候、卽手を合可申由、參州樣又御留主居之本佐州、石日向守各へ追々爲申上候、
于今無御報候、何篇五三日中、何方へ成共罷出、追々御吉左右可申上候、
一 南部境も種々六箇敷御座候を、我等使者を遣候而、上方之御樣子、又御爲不存逆意之旨少も候者、南口に人衆殘置、
我等馬廻計に而南部へ罷出候共、則時に可申付候条、如何候はんとおとしかけ候へ共、一段こまり候て、今者何樣にもと申事候間、
近日仙北よりも最上へ手切候而景勝へ一味之由候間、近邊と申南部より仙北へ後詰仕候へよし申付候、
一 此方之儀者乍若輩拙子壹人にても可仕候条、無申迄候へ共、上方御備專一候、
此書狀被入御披見可被下候、書中に少も僞不申入候、次有中書へ此由申度候、別而書狀も進候、御吉左右互可申承候、恐惶謹言、
九月廿九日 政宗
村茂介樣
宗椈V
人々御中
石川大和守昭光・同中務義宗宛伊達政宗書状
唯今子刻、從内府樣御注進候、大柿より去十四日之夜、石治爲始打出、美濃山中と申所に陣取候處、翌日十五日早天に被押寄、卽時に切崩、
大谷刑部少輔、嶋津又一郎、戸田武藏、其外先を心懸候衆者、悉被討捕之由候、石治其外者、はやく被逃候間、山中へ追入、于今不出由申候、
依之大柿助に被出候毛利宰相、吉川者、三里ほと隔陣取候、右之合戰に者、不被合之由候、彼敗軍に付而、此度之義安國寺所行にて候間、
相渡懇望被申之由候、恐々謹言、
内府樣者、はや東n尓\へ御陣越之由候、飛脚江州たかみやより參候、此方より付置申中間にて候、さほ山も勿論落城之由候、
早々明日此方へ御越待申候、以上、
九月晦日 政宗(花押)
石川州
同中書參
留守上野介政景宛伊達政宗書状
以上、
追而申候、大柿之助に被打出候毛利宰、吉川、安國寺なとは、山中よりかみ道三里ほと隔候て、山に陣取候条、
合戰不被合、彼敗軍に付而、安國寺をからめ、内府樣へわたし申候て、毛利父子身上御侘言之由候、
はや人質を御渡候、此飛脚みて来候、恐々、かしく、
九月晦日 政宗(花押)
上州
忠興宛高虎書狀
返々早々御のほりまち申候まち申候、さてもさてもめてたき御事に候御事に候、
御狀致拜見候、
一 其表度々御手ネ、其聞候、 内府樣御感被成候、彌御勝手程有間敷と奉察候、
一 天下一同靜謐罷成候、則九月廿七日大坂 内府樣御入城に候、九州四國中國彌御意次第に罷成候、
一 右之通に御座候へは、會津落居程有間敷候條、近日御上洛奉待候、相積儀得御意度念願迄候、扨々御床敷存候、恐惶謹言、
藤佐渡守
十月朔日 (花押)
忠z州樣
貴報
浅野幸長宛清正書状
加藤C正書狀
加主計
淺左京樣 C正
人々御中
已上
急度申入候、今度者彼惡逆人徒黨を企候處、早速御上候て、於濃州面御手柄之由承及候、然處内府樣御出勢に付而、
於關原面被成御合戰、悉所被討果、打續各御手柄共御羨敷候、此等之儀爲可申入、同名右馬允指上候、其元之樣子、
一々被仰越候て可給候、此面事、只今宇土之城取詰、本城二丸迄に仕成候間、落去程有間敷候、然者其面より被討洩立花左近、
妻子ぬすみ取罷下、則柳川へ令入城候、彼者罷下事少は拙者仕合に候、宇土面隙明次第相仂、則時討果御注進可申候、
不及申候へ共、九州中之表裏もの共、壹人も不被成御免候樣に、連々可被仰上候、上方いつせの國々にても惡黨同心之者共、
身上無恙不被成御赦免樣に是又可被仰上事尤に存候、定而上かた御手に立もの在之間敷候、國々之樣子具に可被仰越候、
此面之儀何も如水申談、きつと可申付候間、可御心安候、恐惶謹言
十月二日 C正
淺左京樣
人々御中
吉川広家宛如水書状
K田圓C自筆書狀
廣家樣 圓C
貴報
尚々、小倉之儀、從輝元加番入之由候間、壹岐へ不渡樣に可被仰付候、
去月廿二日之御狀、昨日三日に拜見由候、
一 先年より隆景元春申談、彦右衞門拙者中國之儀御馳走申、其續貴殿隆景無御忘却候、殘衆者、
備前中納言同前之御覺悟候き、雖少身候、林肥前者、先年之筋目無忘却通、去年於京都拙者に申理候、
一 今度中國御家之續之事、貴殿御律儀故、羽左太、甲斐守に被仰談、御家再興中々不得申候、定而中國上下只今可存當事、
一 彌注カ太、甲斐守御入魂肝要候、兩人迄輝元幷貴殿御事御馳走候へと申遣候事、
一 宰相殿御事御幼少之節、別而馳走申候き、元C先年より無御等閑故申談候、又久留米藤四郎殿儀、是又貴殿御存之事候、
御兩所より近年捨文一通不被下候、只今申候は不入儀候へ共、貴殿御事者、㝡前之馳走無御忘却通、奉感候故、兩人之儀を申事候、
一 上方於美濃口御取相當月迄も御座候者、中國へ切上、花々と見知返し候而、一合戰可仕と存候に、はやく内府御勝手に罷成殘多候、
一 於九州者、奉行方之者は嶋津、立花迯下有之事候、内府樣へ得御意に上せ候間、被仰出次第兩人之者共則時討果、
罷上、以面萬々可申承候、恐惶謹言
十月四日 圓C(花押)
廣家樣
貴報
稲葉道通宛井伊直政書状
從有馬歸宅申候条、一書申達候、在湯之節者遠路御使者御音問本望之至候、
以參御礼可申達候得共、筋痛平臥之軆に候条、參候而可申述候、恐々謹言、
井兵部少輔
正月十二日 直政
稻藏人様
真田信幸宛井伊直政書状
夜前者雲州迄御出之由承候得共、よこねふるひ申候而散々之軆に而候つる間、不致參上候、然者被仰越儀、
扨々忝存候、御理申候分少も僞にて無御座候、頓而罷上候条、卆度得内證申候而、是非共首尾相違仕候はぬ樣に可申談候、
其前々儀も左樣に申談候はす共、思召寄候通忝存候間、於我々義者、日本國中大小~祇少も御無沙汰彌存間敷候、
定貴樣之儀者勿論之儀に而可有御座與存候事、くり返し思召寄候儀不淺存置候、是非是非罷上候而内府に卆度申聞、
有摧V儀可申談候、其内之義も右申分に存候上者、同前之儀に候間、其御心得被成候而可被下候、恐惶謹言、
井伊兵部少輔
七月六日 直政(花押)
眞田伊豆守樣
人々御中
吉川廣家自筆覺書
一 先年治部少輔安國寺致同心企逆意候、於大坂申出候刻、宗瑞留主居之者共令相談、
更に非如此子細に之段、再三異見仕候事、
一 右之樣子安國寺不致承引、逆心之存立、宗瑞事呼越候而大坂西之御丸罷上候、以來無是非之次第に罷成候事、
一 大御所樣數年對宗瑞に悉之子細、其限無御座候、宗瑞内々不致忘却候之、下々まて悉被存候、然者、
其刻治部少輔安國寺致同意に付而、右之申わけ不罷成之事、
一 於大坂、揄E其外相談之子細共身及申軆、K田筑前殿まて至關東言上仕候處、大御所樣如此に被成御書候之事、
一 於赤坂に井伊兵部殿本多中務殿へ得御意、㝡前之辻無相違覺悟仕候事、
以上
五月朔日 吉川藏人(広家花押)
本上州樣
吉川廣家自筆覺書案
(この文書は、慶長五年の九月のものにかかる)
覺
一 内府樣會津へ御出馬之刻、爲御供我等安國寺被遣候事、
一 然者、七月六日に本國出雲罷立、同十三日、於幡州自安國寺の使に參合候事、
一 七月十四日に大坂參着、同晩に安國對談候事、
一 此時安國より申かけ候段、此方返答に 御所樣宗瑞へ別而御懇に被仰出、其上御契約之筋目等迄申候事、
一 同返答に、太閤樣御死去之刻、御遺言之趣御納得、起請文血判等迄被成、其後如右御契約之時、
御~文御取替、其儀相違、不可然之由申候事、
一 九州に被殘居候衆も人數至
一 内府樣先年尾州小牧山御一戰之時、三ヶ國之御領主にて太閤樣御引懸一戰之勝利は被得候事、
内府樣御手被任候處に太閤樣種々以御計略御あつかいに被成候へ共今八ヶ國之御領主、其外覺有諸大名衆、
只今東國へ被致御供候、其上隆景ほとも被相果候上者今程之衆は縱可及合戰題目在之共
中國西國少々在之衆は○方故被存寄候共支度可爲儀も成間敷迯候中國より被罷上衆は
或は其覺も不及年又は皆々若き衆候間、旁以不可然候と申候事、
一 右之段々安國寺に申聞せ候へは、是非此度 内府樣被致謀叛事不可然之通申候へは左候者、
安國寺可及切腹之由申候間、縱左樣に被存候相極候共、無如在輝元に安國寺はかへらけ不申と申候事、
第一㝡前深重に 内府樣と被申合候筋目違候事は何ヶ度申候ても不可然之由申候事
一 如此申候内に大坂之樣子餘無心元被存、輝元大坂へ被罷上候事、
一 太閤樣御時、我等事K田如水は以來對中國取次候故、以其手筋、右之段次第申段半之事候間
右之段輝元少も不被寄存處を、安國石治少大形少に被催立安國寺計を以悉皆如此成行候段を
K筑州へ甲州へ以飛脚申遣候へは、其返事に 大御所樣御書相添甲州より飛脚被指返、于今所持候事、
一 南宮山之事、
一、右拵之段甲州へ申達候へは、上者無用捨拵之儀iz後申談甲州へ申屆九月十四日に御和平調申候事
則井兵部本中書mカ太K甲州靈社之起請文血判被申易候間此方よりもiz我等等~文進上候て
九月十四日に御和平調申候
一 實子之證人被成御赦免候事
一 御返納過分に御宥免候事
吉川廣家自筆覺書案
(この文書は、慶長六年のものにかかる)
中場言樣へ申上候条數之案
今度和睦相調、我等滿足此事に候、此中之儀、丗上之批判之所承及候之通、雖申上度候、
此御調無殘致首尾候而と存、延引仕候、就其事多御座候へ共、初中後之樣子、以一書申上候、
一 去七月、安國寺佐和山被罷越候て、石治大形被遂相談、如何御座候つるか、忍候而大坂被罷下候、
吾等儀、早々可罷上之由候而、七月十三日、飛脚到來候、於幡州參會候、大坂罷越、長老對談候之處、彼被申樣者、
内府樣會津御出馬被相定候、今度景勝上洛延引之儀者、太閤樣依 御諚、國之仕置被申付候
三年役儀御免被成候、故如此候、其身非如在候間、先拵に可被仰出哉之段、爲各度々雖言上候、
無御承引、今度御出馬被相極候、彼表之儀可相果迄に候、か樣に候へは、諸大名進退更無安堵之事に候、
已來之儀者、 秀ョ樣御爲も如何可有御座候哉、會津堅固之内、各申合、可及弓矢之通、於佐和山、
石治大刑申合、揄E其外も同意に候、於于今者、 中納言樣一刻片時も早々御上洛尤之通申下之由被申候、
然者、我等申樣者、日本二つ之御弓矢、大篇之儀候間、我等式存道無御座候、安國寺御分別此時に候、
先吾等令申所者、先年 太閤樣御逝去之前かと、諸大名被召集、靈社起請文以血判、向後各深重に申合、
公儀可有馳走之旨、可申上之由候而、重疊於 御前被相究候、其後 内府樣よ奉行方御半之刻、 中納樣別而被仰談、
已來御兄弟御契約、并藤七樣被成御契約に付而、又以御~文被仰合、已來内府樣被對 中納言樣無御等閑御座候故、
天下之聞え異于他儀共候、然者、憐國之諍、又は自他國引請候儀者、其身無如在候ても不及是非候、
何之道にもあらす候て、内府樣へ御別心非可有之儀候、其上今度謀叛候衆中被成御同心、御弓矢被思食立候事如何に候、
縱天下屬御勝手候而も、後代之聞え無曲候、左候へは、奉行方一味中よ被仰候衆中は備中、筑中、九州衆奉行衆に候、
兩中納言殿御若輩に候、其上家來區々に候、九州之儀者、遠國と申、如水、加主計別儀御座有間敷候、
惣國之衆中手前之覺悟可有馳走衆も、人數至來可爲不自由候、又奉行衆之儀弓矢方之儀は不承及候、
朝鮮已來屬彼御手に候下々批判をも承候、然間、丗上之沙汰も不存之儀に候、又中國之儀者、隆景御死去已後者、
前々に相替候、惣樣天下之さけすみも、此御弓矢御まけに可成哉と心得候、
又先年 太閤樣内府樣、於尾州小牧山御陣被及一戰、毛利武藏、池勝入被討死候、關白殿も先手を被崩、被失御覺候、
其一戰内府樣雖被得御勝利候、太閤樣以御思慮御拵に罷成、御緣邊已下相調、大軆者大形御勝手に罷成候、
其時太閤樣は、五幾内、中國、北國之諸大名被屬御手に御發足候、 内府樣は、其刻三ヶ國御領知候、
於于今者、八州御隨逐候、諸大名も在覺人者、悉東國方に有之事に候、然時は、御弓矢懸合不申候かと存候、
日ョ樣被仰置候も、當分五ヶ國十ヶ國御手に入候段は、時之御仕合にて候、已來之儀者、於御子孫も、
天下御竸望曾以被思召寄間敷通、連々被仰聞たる之由、元春内々申候き、萬一天下御手に入候共、
權柄者可爲奉行衆候、左候はん時者、 内府樣へ被屬候よりも、御外聞實共可爲御心遣候、御まけに成候上にては、
惣之大名衆は、任時之軆に不可有實儀候、相極所者、揄E、石治、大刑、 中納言樣可爲御迷惑候哉、旁以安國御思慮此時に候段、
再三申候、然處、大坂西丸御留主居衆申理候間、此方人數可入置之通達而被申候、 中納言樣御意承屆候はて、
各我等式不及同心之由、返答申候、然者、長老被申樣は、於此儀者、 中納樣御内證得申候、去春nョ、堅兵木津に被殘置候も、
此儀に付而之事之由被申候而、一圓に無同心候、宰相殿、完戸殿其外もか樣之儀少も無御存知之由に候、此時は長老いかに被申候ても、
御意承屆候はては、聊爾之仂不相成事に候段申候、其時長老其申分に候時は、無曲次第に候とて、腹可仕之由候て、
以外違亂被仕候き、縱左候共、御爲には替不申候間、長老被相果候而も、中國之御爲に候間、不及是非之通申候半、
はや可有御上之樣に御至來も少々御座候、其時各申段、椙杜下總守至廣嶋被罷下候へと申候、此節は先以廣嶋被成御(木偏に只)、
御分國え被仰付尤に候、此方之儀者、木津各被籠候而、丗上之儀承屆可申下之通、相含差下申候之處、於中途被參會、
然々不申達候て、被罷上候之事、
一 中納言樣無御上之内、益玄被申樣は御弓矢に罷成候時之ささはりには成間敷候、若 中納言樣無御存知之由、被仰度時は、
可然候之間、木津御留主居之者として言上仕之通、關東へ可申遣候哉、其旨趣は、中納言樣此企會無御存知候、其段自廣嶋雖可申開候、
遠路に候之間延引仕候、先輝元不被存之段、木津留守居之者共言上候由、申捨度候、後々御用に立御事もやと被申候、
是は無餘儀被申樣と申候て、完戸、益玄、熊豐より榊式、本佐、長右近迄之書狀被認候、吾等も書狀相調、
完戸殿飛脚同然に可遣と催候之處、中納言樣御上着候間、此時は此文言僞に候間、飛脚指留申候、私儀者、
如水已來K甲州累年懇切に候間、一旦不申遣之段も無曲存、此儀 殿樣無御存、安國以計如此成下候通申遣候、
其返書に大御所樣御書相添到來候、則nョへ見せ申候事、
一 安國寺佐和山より被罷戾、於大坂被申趣は、 輝元此儀に付而被呼返候間、從江州罷歸候通、大名衆御馬廻へも數通書狀被遣候、
聞召も被可及候、又何方にも多々可有之間、已來紙面可有御覽候事、
一 伏見之城へ人數差寄、責口被申付候刻、勢州へ可相仂之旨、奉行衆相談被相究候、惣別濃州北國兩口之仕置、
堅被申付候て社尤候、勢州さしむかひたる儀にもあらす候間、出勢無詮候、雖然、長太、安國寺被罷向、
あのの津近邊掠夲よ申所、兩人被陣取候、如何候哉、夜中我等陣所關之地藏へ被引取候、其より猶以敵味方覺相替候、
其後又津之城可指寄之由被相催候、左樣へは、大御所樣被成御打上候は、大分之一戰可有之前かとに、
不數城乘崩候ても無詮候、萬一手負死人罷成候はは、一方御をくれに罷成儀に候處、首尾不合行被仕、城被乘崩候へ共、
手負死人候て人數半分に罷成、味方之覺莫大に罷替候事、
一 如此御弓矢出來候而、御名利共に、無曲可成行事如何に候、於此上も以御拵御家被續尤に候哉と、
nョ申合、堅兵少勢州呼越申、此段之物語申、差返候、其後 御諚之段、一日一日と奉待候つる事、
一 石治、大刑兼々相談被相澄樣子、大垣關か原人數、南宮山へ相まるみ一戰可仕に被相極候處、
九月十三日、 内府樣赤坂御着候刻、治少、大刑少大垣南宮を捨候て、山中へ引取候時は、前日之儀定相違候而、
佐和山へ可被打入催露顯候、然者、拵之儀連々申上も、此時に候間、K甲州へ可申試之通、
nョ申段、一人遣之、以口上申候處、則井兵、本中、mカ太、K甲州靈社血判之以起請文被申易候、
此方よりもnョ我等~文進之候て、九月十四日、御和平相澄候事、
一 同十五日、 大御所樣於關か原一戰被仰付候、其刻、廣家nョをくれ候て、治少合戰失勝利之由御沙汰候、
たとへは當日可爲勝利見懸仕候共、前日に血判起請文を以申替候辻、違返非可仕之儀候、其上南宮山と關か原之間二里之中間にて候、
又南宮へ之手宛、虫O左、一柳右近已下二萬計指むけ被置候、其當日霧ふかく候て、五間十間相隔候所會見え不申候、
又は高山にて候故、山下行之趣、一圓見え不申軆に候、兼々も南宮衆一力之一戰可被申付との議定無之候、
何之条も其時筈難被仕合見え申候、只今丗上之人口と、其刻之有軆には可爲相違よ存候、先年備中高松之城
太閤樣御責之刻、信長御生害之故、當方御和平被仰談、御陣可被打入之折節、從紀州雜賀、信長不慮之段、
遂に申越候、下々申樣は、此時手を返矛楯に及候者、天下則時に可被任御存分に所を、隆景元春御分別違候と各被申へ共、
前日~文被取替候辻、無忘却被相屆之段、太閤樣御感候而、其故御當家于今如此御安堵候段、隆景折々御物語候て、
御自慢之一に候、定而各も可被及聞召候間、不及申候、併去年之御和平、此時に相應候哉之事、
一 九月十五日、南宮山にて合戰、只今各如被申候、其程被見懸候者、幸大將之長大藏、長老兩人被罷出候間、
nョ我等には不被搆、則時に一戰可被仕儀に候處、臨其期は、長束、安國寺不被相進候、只今丗上之讃談は相違申軆に候、
又可成よ被見懸候所は、我等式へ一言之尋無御座候而も被申付候、其故は、津之城にて八月廿四日進陣、廿五日に仕寄候て、
廿六日に可乘崩よ申合候筈悉違候て、長束責口より町口へ被仕懸、其まま城乘に罷成候、爰を以可被成御推量候哉、
事過候て何かと致沙汰方も御座候哉、か樣之事は連々相聞え可申候間、已來可被 聞召合之候、已上
吉川藏人
廣家
~戸五兵衞覺書
一 九月十四日夜入り候てより大柿御打立、夜中に關ヶ原へ御着被成候、夜明候へは東國衆大谷刑部殿陳にかかり、
六七度之合戰有之候處に、上之山より筑前中納言白旗をささせ横入仕、大谷殿人數壹人も不殘打取り申候、
備前中納言殿陳へは新手之大將相懸追崩、此方之御陣へ相かかり申候、東は別手之大將相懸候間、石田殿陣追崩候間、
此方之御陳へ相かかり、其猛勢眞中へ 惟新尊公御掛り被成、大敵を打捕り眞中を切明、東之ことく御切通被成候、
然處に如此御通被成候而も、何方へ御出可被成事に而候哉と人々申候へ者、又夲之ことく大柿へ御籠可被成との御意に而、
南宮山と申所へ御出被成、大柿を御覽被成候へは、もはや本丸に火之手あがり申候付、御籠被成候事不罷成、
自其伊勢地こま野之坂江御上り被成、近江、伊賀、大和、河内、和泉御歸國之路次傳、片時も御側を不相離御奉公被成候事、
我等日夜御側に罷在爲存知前に而候、
一 日出時分よりはや東國衆のほりを指立、大谷殿陳にかかり申候、此方之御陳之前備前中納言殿、東者石田殿請取之陣場、
此方者二番備に而候處、大谷殿戰死、備前之中納言殿、石田治部殿追崩し、此方之御陳に猛勢かかり申候時、
貴老御親父拜領之長刀を持、大音に而嶋津兵庫頭内之小弁慶と名乘、猛勢之中へ切入、敵數多打取、又 惟新樣御側之如く御參候、
其後御跡を閉目可申候間、御心安御除被成候へと、被申上、山田民部殿、刑部左殿、只兩人御跡へ返敵をふせき、
惟新様をのかせ上被申候處、伊賀國之内しからきと申所に而御一大事に而候へ共、刑部左衞門殿被罷出種々被申候而、
其場無何事御座候、しからきの事は細成儀多候へ共、老筆不得書申候、夫より七ヶ國御通被成候、片時も御側を不相離、
御共に而御下向に而候、
~戸久五郎覺書
一 大柿御打立之時より雨ふり、悉くぬれ申候而人々ふるひ申候、九月十五日之日出に、もはや東國衆のほりを指立候而、
岡山より關ヶ原江參申候、先一番に大谷刑部殿陳にかゑり申候、大谷殿衆もかかり合、追つまくつ六七度之合戰仕候處に、
上之山より筑前中納言逆心殿白はたを差せ横入仕、大谷殿人數壹人茂不殘討捕申候、備前中納言殿陳へは別大將相掛申候而
一戰被成候得共、前に岡御座候而此方之陳よりは見得不申候、中納言殿相山申候、其敵則此方之陣江相掛申候、
何茂亦したく爲仕敵に而候、東は石田治部殿陣猛勢相掛一戰有之候得共、石田殿陳茂相崩、其敵則此方之御陣江相掛申候、
此方之御陣は弐番そなへに而候、然處、惟新樣被成御意候は、敵は何方か猛勢か御尋に而候、東より之敵以之外猛勢之由被申上候へは、
其猛勢之中へ可相掛之由御意候而、脇々に少つつの敵はいかほとも有之候而も、其方は打置候而、猛勢之眞中江かけ入、
過分成る大敵を打捕中を切明、山通なされみかたを見申候へは、漸下々かけて御手廻の人數五拾人程にて罷なり候、
きりもの衆被申候者、このごとくの無人に而者軍仕事罷成間敷候、是よりは御思ひ被成候而は罷成間敷候よし被申候而、
刀之ひるまきをとらて、御馬の印も打捨、東のごとく御通被成候、然處先を見申候へは、馬乘の敵いつかた騎共不知罷居申候に付、
人々被申上候は、先に見得申候者皆敵に而御坐候、何と可仕候哉と被申上候得者、被聞召候而被成御意候は、
敵に而候はは切通る、切通事不罷成候はは、兵庫頭切腹可被成之由御意に而候、何茂承候而畏たる由申上候而、
敵之間四五間參候迄は、菟角之樣子無之軆に仕而參、間三間計に罷成候時、皆々刀をぬき、ゑいとう聲を上切通被申候時、
年之比四拾才程之法軆乘物よりおり立、駕を此方之預に仕候而罷通候を御覽被成候而、其鑓與御意被成候へは、
御道具衆頓而申上候、御取被成候而可被遊與被成候得共、いやあれ通之者はと御意に而遊し不申候、
然處に後醍院喜兵衞江走出被申候へは、其所討捕申事は何より安候得共、後日之爲跡證にたすけ申候、只今爰元を召通候へは、
西國之嶋津兵庫頭に而候、少茂北候而は不罷通候、東國衆之分に而は討留事不罷成候に付、只罷通申候、
少茂北は不仕候由被申候處、人々被申候は、是程御忍被成度に不入名乘被申候、はかなく由口々に被申候時、喜兵衞耳に入、
さりとては言語道斷、比興至極成儀を被申候、 惟新樣は御たすかり可被成と被遊候哉、御討死可被成事は覺悟之前に而候間、
如斯名乘爲申由被申候へは、とかくを申候人無之候、其場を御邂候而より人々被申候は、如斯御除被成候而、
何方江御出可被成事に而候哉、被申候へは、又本之大柿之城江御籠可被成と御意に而候付、大柿を差て御出被成候處、
南宮と申所より大柿を見申候へは、本丸に火掛り候而落城而候付、御籠被成候事不罷成候、
~戸久五郎覺書
一 彼南宮山に長曾我部長宗新殿陳取罷居被申候、 惟新樣被成御意候者、於關ヶ原秀ョ公御奉公に別而分骨を被遊、
人數如此に討なされ御通被成候由に而、御使被遣候由御意に而候、人々被申候は、長宗新殿は眞下を敵御通被成、
一戰茂不被成候時者、御心替に而もや御坐候半と、左候處御使被遣候而者、味方無人にて社候へ、不入儀に而候由、
何も巧者衆被申候、右之段被聞召候而被成御意候は、長宗新殿心替に而もくるしからす被思召候、昨日今日迄被迎合たる儀に而候、
其上高麗已來より之御念比に而候間、先々心替には御かまひ不被成候間、御使可被遣之由に而、誰かしと御意候へ共、
我等可參と申人無之候處に、伊勢平左衞門殿被申上候、參候人無御坐候間、我等可參由被申上候、 惟新樣御悦被成、
早々平左衞門被參候へと被成御意候、趣は 秀ョ公御奉公、於關ヶ原度々之合戰仕候而、人數如斯討なされ罷通候、
後日出合之時分、證跡に御立被成候へと被仰候、右之御意平左衞門被承、主從三人に而長宗新殿陳江馬かけにて、
そなへ之内に入被申候、人々申候は、平左衞門殿もはや被討被成候半與、口々に申候、暫歸宅無之候に付、
扨被討候事一定に而候と申候處、そなへ之内より馬を乘出、歸宅被成候を人々見申候、扨者心替にに而無之由人々被申候、
左候而御返事に、關ヶ原に而の合戰に御手柄之程可申樣無御坐候、去とては比類御坐御事も、我等之下を東國衆罷通候へとも、
此方江者かまひ不申罷通候間、我等人數壹人もそこね不申候間、何時に而も一合戰可仕候、長宗新殿も何方江成共、
惟新樣御陳へ可被成樣除可申由に候、夫より伊勢之駒野之坂へ御上り被成、近江之内土山江御出被成候而御聞被成候へは、
最早 公方樣京都江御打入被成たる由申に付、直に京都へ御出被成候事不罷成、又伊勢關地藏江御出、伊勢道之ことく御出被成候、
楠平與申候左門町より西江御出被成、大山を御越、伊賀之内しからきと申所之樣に御出云々
帖佐彦左衛門宗辰覚書
「防戦よふなく柴田(島左近か)即時に敗軍すれば、石田軍皆陳破れて敗北す、然れば午の刻の事なるか」
大重平六覚書
「石田殿、一時もこたえず候て、中書様(島津豊久)陣場へ崩れかかり候」
舜旧記
「美濃堺、於柏原、内府先勢、福田(福島か)、長岡越中、加藤左馬助、合戦之由、
□大□(谷か)之勢、敗北大谷刑部少輔打死、余(金か)吾殿依叛逆也、巳刻也」
当代記
「関ヶ原には石田治部浮田中納言大谷刑部島津兵庫小西摂津守将陣の処に、
金吾中納言内府公属味方之間、敵敗北、数百討取」
十六・七世紀イエズス会日本報告集
「(戦闘が)始まったと思う間もなく、これまで奉行たち(西軍)の味方と考えられていた
何人かが内府様の軍勢の方へ移っていった」
「こうして短時間のうちに奉行たちの軍勢は打倒され、内府様は勝利をおさめた」
宇喜多秀家起請文案
敬白 起請文前書之事
一 貴殿、利長被仰談、 秀ョ樣え無御疎略上者。我等儀何樣共御兩人同前に胸を合、御奉公可申覺悟に候事、
一 然間、就諸事ぬき公事表裏、聊以不可在之事、付相談隱密之儀、他言有へからさる殊、
一 自然中絶、又者惡敷樣に申族雖在之、直申上相濟可申候、萬端に付、依怙ひいき存間敷事、
右之旨、於一點も相背候者、
御~名
慶長四年 備前中納言
三月八日 秀家
内府樣
島津忠恒宛輝元秀家連署状
一筆令啓候、於天下之儀者、從古曆可被仰入候条、不能申候、於于今は、御人數國中無殘被召連、急度御上洛肝要事、
玉藥御兵粮等儀者、從 公儀被仰付之条、御人數有次苐御馳走此時候、猶期面上候、恐〻謹言、
備前中納言
八月朔日 秀家(花押)
安藝中納言
輝元(花押)
嶋津少將殿
御宿所
島津宛輝元書状
○この文書、充所を缺くと雖とも嶋津忠恒に充てたるものなるべし
去月廿九日御狀到來、拜見候、於此表之儀者、從兵庫頭殿可被仰達候、伏見之儀兵庫殿其外御手柄を以、則被乘崩、
悉被討果候、此比者、至伊勢表人數差出、所〻仕置等申付候、定而内府可有上洛候条、可及一戰覺悟候、東國之儀、
佐竹、㝡上、會津へ一味之由候、就其、内府上洛も不定相聞候、於此表者、丈夫に申付候間、可御心安候、御方樣御事、
一刻も早〻御上國待存計候、不可有御由斷候、恐〻謹言、
藝中
八月十五日 輝元(花押)
武庫御無事之由候条、可御心安候、以上、
急度申入候、從兩三人如此之書狀到來候之条、不及是非、今日十五出舩候、兎角 秀ョ樣へ可遂忠節之由言上候、
各指圖次次苐迄候、万吉重〻可申入候、恐〻謹言、
藝中
八月十五日 輝元(花押)
野間・内海合戦関連
慶長年中記 巻一
十日 熱田西の海邊四五ヶ所、是は敵方九鬼大隅燒候よし、岡崎より地鯉鮒へ行に燒見ゆる、熱田海邊より五六甼ほと大舩一艘、
地は紫に白き桐のとうのまく張たる九鬼大隅守のみよし先へ被遣候、御馬印持候ものさんたか橋にて 御目見いたし候、とかくの御意なし、
慶長見聞書 二
同日岩手城稻葉藏人手勢九百六拾人籠候處、九鬼大隅守甼口迄取懸候へ共、堅固被相抱候間、敵の人數引退申候、其後九鬼大隅守、
堀内安房守以下舩手の衆卆し、尾州、参州之灘浦を燒払、漁人村老男女僧侶に不限切捨狼藉前代未聞也、尾州毛呂崎江寄んとす、
浦のもの内々近日從關東御上を聞て、其間敵をたるめ魚を取て日々に送り、樣々の音信におよひけり、
然るに案のことく千賀孫兵衛一夜の内に而のりつけ、大勢籠たるやうに見せ、浦々に旗を立置候間、敵驚寄せ不申、其間に松平紀伊守、
小笠原新九郎、同安藝守次苐に乘付申候間、彌敵舩驚きこきのき申候、右の海上浦々の悪行の天罰にや、此口の寄手の大將達のすへすへ迄後に皆たへはて申候、
武家の習殺業なくて不叶されとも、分の敵を討て非分の者を不討とはかやうの事にや、此時戸田三郎右衞門、清水權之助は大野、
とこなへに罷在候間、舟を出し防候間、敵不叶舟をこきのき引取申候、
浦備前覚書 巻一 無尽集第七七冊
先年關か原御弓矢之時、伊勢地數舩之御舩指廻し、御國よりは村上八郎左衞門殿 、乃美備後殿御舩手不殘被差出、
大坂よりは菅野平右衞門殿、村上彦右衞門殿なだ声古を被差添御廻し被成候、伊勢之鳥窒ノ者九鬼大隅殿大坂へ之御馳走に
、
右之御方々大隅殿江御座候而方角萬事御談合被成、尾張灘手を御仂被成御儀定に相澄、おふみなとまて御座候而、
彼表に而長々舩中各御苦勞被成候条、一夜彼在所にて御休め被成之由、悉宿を取り御休息候處に、乃美備後殿野せつちんへ參と被申、
五六丁家はつれへ被參候而都合被見合候處に、彼在所より弐里間にて岩手と申城を敵方より持堅、おふミなとの在所からも殊外手広不審に相見候条、
各うかと罷居儀に而無之候条、夕飯を仕廻、夜入候者舩へ各被召可然之通被申付而、悉舩にのり申候へは、夜半迄に岩手より夜打に心懸人數差出、
殊外物あぶなき軆にて、下々共に備後殿御見合之段感入候、一日間にて血地江御仂に、不殘御渡り被成候、尾州之内大野と申浦江九月九日未明に被打入、
一段仕合能発向被成候、其次に二浦同前に候而、各御談合に、今日之仂は不殘出来申候へ共、放火不仕候条、明日之仂にはほうくわを專に仕候樣にと仰事に候、
かたかみと申在所を未明に御仂、一軒も不殘放火仕り、頓而其次野間の内海と申浦江御仕掛候處、是は先代義朝之御腹被召たる浦にて候得者、
舩夲江人數差出相さゝへ候へとも、舩よりの御仕掛丈夫候故、終にはにけくつし多分追討に仕り、舩夲より一里半奥に義朝之御影御座候故、
坊中江おひ入候故、跡より足長仕る儀にては無之候条、各引取り候へと被仰付、不殘引取申候、礒兼加賀殿上下八人に而、
彼御影之寺放火不仕候へは、此在所相仂專は無之候条、是非共に放火仕り引可申と被申候而ふかいりの故、人數三十計討出取まき候条、
別条子細も無之候間、足床を見合高みを取可相果覺悟に候、壱人にても足を亂し候而は不叶儀候之条、八人之者はひつかけ相果覺悟に候、
其人數は加賀殿上下三人、乃美平左衞門殿上下弐人、末永惣右衞門、世良源右衞門、末嶋與左衞門、此八人は鐵炮弐丁御座候而、
引懸五間ほとにて討候やうにと覺悟仕り候處、敵も其覺悟みきりはたはたと不仕懸候處に、舟夲江此聞候而、乃美備後殿、
村上八郎左衞門殿自身かけつけ候へは、のほりさきを見及引取申候故、無事に御しのき、御兩人衆殊外御しかり被成、宗勝巳来上りはたらきの仕やうは御存知に而、
深入沙汰之限りと被仰、無事ニ舩夲御引候事、二日之間に六浦御仂殊外出来候事、
七月二十九日付大関資増宛浅野幸長書状
尚々、去廿三日之御狀畏入候、其刻小山へ罷越、御返事不申入候、以上急度以飛脚申入候、就其上方之儀、各被申談仕置に付、會津表御仂、
御延引に候、上邊之儀、彌被聞召屆上、樣子可被仰出旨、内府樣被仰候、我等儀、此間宇都宮に在之候へ共、結城邊迄罷越候、
駿州上之御人數は、何も國々へ御返しに候、猶珎敷儀候はは可申入候、恐〻謹言、
淺左京
七月廿九日 幸長(花押)
大關左衞門督殿
御宿所
今井宗薫宛伊達政宗書狀
○この文書、紙繼目裏ごとに政宗K印あり、
去月七日之飛脚貴老[ ]間合不申候て、村茂へ書狀共はたし申之由候、以上、
内府樣去月廿七日大坂御入城之由及承、先以飛脚言上候、重而一兩日中以使者可申上候、扨も扨も扨も目出珎重共、中々に不被申候、
天下始り候て、如此早速に日本國中相濟候事、不及承事候、
一 石治、安國、小西、長大被生捕候事、今度無筋謀叛之仕候故、惣蒙~罰、如此及繩之端候事、天道難有存候、
諸國を爲御引候はん由、尤に候尤に候、乍去時刻延候事、危候間、五畿内、洛中、洛外、大坂、堺爲御引被成候者、
早々、五條河原邊に而御成敗候而、首被掛獄門候樣に可然候歟、如何樣身命之有之間、番以下無油斷被仰付候樣、
專一に候倂當座迯候而も、何方へ可參候哉と存候へは、不及御番候歟、
一 此表之義、㝡上中已可相敗候處、此方より、無二に加勢仕、無何事、結句敵陣敗軍剩庄内之者共、悉所々に討果、
やちと申所に殘候庄内物主之分に候下垣右衞門尉と申者も、懇望仕候て罷出、其身は出虫邇闡Oに居申候て、
人衆遣、庄内取可申由申之由候、吉左右追々可申候、
一 去六日よりsへ動仕、得大利申候、樣軆先達具に條々申入候き、㝡上へ人衆遣、又動、其外に人衆悉草臥申候へ共、
内府樣無御下向以前、何とそ支度候、日本之~そ~そ、努々不存油斷候、
一 唯今より申入候、如此天下如思召候上者、世見何之御用心も不入事に候へ共、 内府樣御下向候者、佐竹隱居を江戶へ被引越、
御心安會津へ御調義候樣に、必可被仰上候、うら切なとは、多勢不勢も不入物にて候、御鹽味候樣に可然候、此上者、
佐竹なとへ如何樣之事被仰出候共、勿論不可被背御意候、御下向も候者、宗吞を以可申入候、
一 寒天に候へは、年中も是非一人仕候而も、仙道筋迄申付度候、かゝる御目出度く上に、千万一不慮之凶事候ては、
如何に存、遠慮仕事も候へ共、少々手前之者五百三百討死仕候とも、年中に一途相着度存候存候、
一 今度大坂留守へも、節々人を被指越、ちからを被相付候由、具に申越候、辱なとゝ申事は、世に類多事候、絕言語候、
一兩日中鈴七右爲相上可申候間、其刻萬事可申入候申入候、各へ書狀も、其時可進候進候、
一 去月七日之日付に而、飛脚進候時、貴老へ之書狀屆不申候由、村茂被請取候由、飛脚申候、そもそも貴老へ書狀不進候て、
誰へ可進候哉、非如在候、恐惶謹言、
十月十四日 政宗(花押)
宗椈V
人々御中
宛名欠損毛利輝元書状
猶々、此段者御沙汰有ましく候哉、儀定之趣談合可申候、已上、
爰元之趣、昨日委細申候、其後安國寺大刑少へ被罷越候之處、揄E被羆居、會津への儀、當年者先被指上候やうに、
生雅、中式、長大、コ善、なと談合候て、内府へ○申候由被申通、長老物語候、然者吾々事、先々内證を以、
榊式迄右之趣申候由、揄E、大刑少指圖に候、左候者、我等事も無人之儀候て、遠方之儀候之間不苦候、
一分供可仕之通申候へとの事候、兩人被申儀候条、其上何かと申候儀にては無之候へ共、則榊式迄安國寺、nョ遣候て申候、
式太も煩候て居候へ者、罷出次第慥可申候、いつれも重々吾々へ可有談合なとゝ申たる由候、右之趣乍御存先々申候、
何も○承合追々可申候、恐々謹言、
右馬
卯月廿一日 輝元(花押)
井伊直政外二名連署覺書
覺
一 薩摩へ之行付而、廣嶋迄中納言可被致出勢候条、如 太閤樣御置目、路次筋ゥ城へ番手可被入置事、
一 御家中年寄衆、質物可被出事、
一 輝元御内儀、如前々當地上之御屋敷へ可有御移事、
一 薩摩御陳御先へ、輝元御自身可有御出陳事、
一 今度上衆質物、急可被返上事、
右之旨相濟候上、藤七郎殿へ對面可被申由候、以上、
榊原式部太輔
九月晦日 康政(花押)
本多中務太輔
忠勝(花押)
虫ト左衞門大夫殿 井伊兵部少輔
K田甲斐守殿 直政○(墨印)
毛利宗瑞起請文案
○この文書、~文以下は紙背に書せり、
敬白天罸起請文前書之事
一 今度之儀、以御取成身上相澄候段、過分至極に候、殊 内府樣御誓紙被下候儀、身に餘忝候、於子々孫々忘間敷事、
一 以來之儀。諸事ョ存外無他候之条、無御隔心可預御指南事、
一 向後拔公事表裏別心不可在之候、自然虛說等於在之者、可預御尋事、
一 對拙者、向後 内府樣弥無御氣遣御座候之樣に何分にも貴所御指圖次第に可仕候間、御差引ョ存候事、
一 隱密子細被 仰聞儀、少も不可致他言候事、
右條々於僞者、
毛利右馬頭入道
梵天、帝釈釋、四大天王、嚴嶋兩社大明~、杵築大明~、熊野三所權現、住吉大明~、賀茂大明~、春日大明~、
八幡大井、天滿大自在天~可蒙羆御罸者也、仍而起請文如件、
毛利右馬頭入道
慶五十一月五日 宗瑞
井伊侍從殿
脇坂淡路守安元宛徳川家康書状(脇坂家文書)
山岡道阿弥所へ之書状披見、懇意之趣祝着候、
就上方忩劇、従路次被罷帰之由尤候、弥父子有相談、堅固之手置肝要候、
近日令上洛之条、於拙子者可御心安候、猶城織部佑可申候条、令省略候、恐々謹言、
八月朔日 家康(花押)
脇坂淡路守殿
小早川秀秋宛浅野幸長黒田長政書状
尚々急ぎ御忠節尤に候、以上、
先書に雖申入候、重而山道阿彌所ゟ兩人遣之候條、到啓上候、貴樣何方に御座候とも、此度御忠節肝要候、
二三日中に内府公御著に候條、その以前に御分別此處候、政所樣へ相つゝき御馳走不申候ては、不叶兩人に候間、
子此候、早々返事示待候、委敷は口上に可得御意候、恐惶謹言
八月廿八日
淺野左京太夫(花押)
K田甲斐守 (花押)
筑前中納言様
人々御中
長岡玄旨書狀案
去廿七日之御折帋、今日二日令披見候、世上之事、不慮共不存、今更申談も事旧候へ共、 信長御代、 大閤樣御時、
似相之致忠節候、至近年御懇之事、既奉對 秀ョ樣、何以可致疎略候哉、今度越中關東出陣之段、内府世間爲御後見之条、
是又奉公に罷出候處、案外體に候、一兩日已前、從八条殿御使節、則コ善院案内者相添下候刻、古今集相傳之箱、
證明狀幷一首、
いにしへも今も替らぬ世中に心の程をのこすことのは
此短册幷源氏抄箱一、廿一代集、
禁裏樣進上候、此外知音之衆へ草帋一二帖上候、存殘事無之、令滿足候、只今手前之儀候間、兔角難申候、連〻被懸御目候、
御殘多候、御奉行衆へも此通被仰上候て可給候、恐〻謹言、
九月二日 玄旨判
東条紀伊守殿
山田勘左衞門尉殿
三好助兵衞尉殿
御返報
家康書狀寫
一 家康異心有之歟之由已前預御斷候承屆於其證人急度可遂僉議事、
一 去年七月十六日之夜半下騷動之儀其濫觴者石田治部少輔大野修理亮此兩人取入武具於居宅依被集
家人奉行人幷近臣之家々集兵被取入兵具之条何樣謀叛人有之哉之由疑之騷動其證拠分明候得者
於僉議者尤可出證人是等者有何用調兵具集兵世上被令騷動候哉可哉其子細事、
一 今度大名屋敷替之事太閤之御遺言不承之又天下大小事家康承之成敗可仕之旨御遺言之處
一言無其屆屋敷改替之事誰人之御差圖候哉自由之仂秀ョ卿到蔑如之罪科不輕候其張夲人可承事、
慶長四年正月廿五日 家康
加賀大納言殿
淺野彈正少弼殿
搏c右衞門尉殿
石田治部少輔殿
大谷刑部少輔殿
長束大藏大輔殿
秀元宛輝元書状
返々、太閤樣被仰置と候ても、敕諚を御違背之段者、非御夲意之由、家康被申之由候、何もかやうの妨を申人在之由候条、
此節可相究之由、堅被申候て相聞之候、爲御心得候、火中、
急度申候、今月七日、内府大坂へ被罷下候、其題目者、
一 中納言殿女中江戶へ指下、一所に候やうに在度之通言上候、自然別腹に子供出來候へは氣のさゝはりに已來罷成儀候条、
是非右之女中御下候やうにとの家康被申事候つる、夛分秀ョ様御袋様、此中者御分別候つる、何と共候哉、
此節御下有間敷之由 御意之段、於家康外實無曲次苐候、内々申妨仁在之由、承及候条、
是非申○被仰聞候やうにと○御存分被申之由候、
一 當今樣當春御隱居被成、近衛殿御腹王子に御代を御相續有度之由敕諚候所に、中山殿御腹王子に御相續之通
太閤樣被仰置候之条無御分別之通被仰切候事、更無曲次苐之由、家康達而被申之由候、
一 東國衆之儀者在大坂、西國衆之儀者在伏見と太閤樣御置目候之處、備前中納言殿在大坂之段、更不及分別之由、
家康堅被申上之由候、備前中納言之儀者、在伏見に大かた澄候由候、其外之儀者未相聞之候、
家康人數追々大坂へ被指下候、家康事者、石杢丸に一昨日より被羆居之由候、右三ヶ条之辻、如何可相澄候哉、
いつれも趣追々可申候、其元之儀御隙も可入候へ共、少々之儀者被閣、御上可然候、かやう申候とても、
事々敷御上りは在ましく候、爲御心得候、恐々謹言、
九月十三日 右馬頭
輝元(花押)
秀元 進之候、
年次不明浅野幸長書状
五月十八日之御書、同廿二日至伏見到來忝拜見仕候、竝町野左近書中被下。具致披見候、
一 會津より伊奈圖書江罷上樣子聞江、内府樣彌御機嫌惡御出陣に相定、六月十六日大坂可被成御立旨、被仰候事、
一 奉行衆に被仰付、圖書罷上者早道候はゝ、去廿三日會津被遣候樣子之儀、景勝七月中に伏見迄罷上、
八月朔日に 秀ョ樣へ御禮可申上、竝直江妻子六月廿日江戶へ可相越候、尤於相違者急度可有御仂との帋面見御座候、
此御返事に者無御構、有無に江戶迄は被成御下國、景勝於罷上者武藏樣被召連御上洛與、
内府樣者於江戶御年とられ來春可有御上洛由候事、
一 昨今之軆は御出陣に相究申候、何も兵粮用立に與遣候間、可被成其御心得候、竹腰新藏おふす山之御筭用之儀被仰下候、
新藏只今は江州に居申候間、召寄八嶋に申付筭用相聞、米何程御座候與書付、急度可致進上候事、
一 濃州御代官所殘米千石御座候間、川舩へ出し江戶へ相廻申候事、
一 秀ョ樣御袋様より、内府樣御下候儀御留有度と御奉行衆爲御使就被仰付候、
内府樣へ奉行衆被參候へは御機嫌惡被成于今不被申出候○○○政所樣明廿七日○○○ 秀ョ樣爲御見廻大坂へ被成御下候はゝ、
是も御内儀者内府樣御留有度由にとの御下と申候事、
一 石治少子息隼人出陣に候へき者、此間爲何儀に候哉ん、佐和山騷申に付、治少者罷立候樣にと此程被仰出之由候事、
一 北國之儀彌相濟、御袋竝山大膳、前野對馬、山崎七衞門、土方但馬人貭江戶へはや御下し候、肥前殿御内加賀殿、
孫四郎殿は北國へ御下候、有之しまつも相濟申爲御禮五三日已前山大膳、土方但馬罷上候事、
一 中式少御煩未然共、無之候へは爰元候は萬事氣つまりに候之条下國候也、可有御養生候て御暇して、
去廿四日御下し御座候事、
一 我等儀一昨日内府樣へ罷出候處、手先之儀候之条、急度罷下用立可仕旨被仰出候間、來月十日頃に大坂を罷立可申と存候間、
頓而不着仕可申と何分可令得御意候、恐惶謹言、
淺左京
彈正様
熊谷直盛、垣見一直、lエ長堯連署狀
(端裏切封うは書)
瀦コ庫樣 垣泉
嶋又八樣 iE
人〻御中 熊藏
幸便之條令啓上候、歸朝之剋者、色〻得貴意、快ス至極候、
一 我等三人事、去二日に御目見仕、翌日、於朝鮮去年以來之儀、御尋被成候条、具申上候、
一 蔚山へ唐人取懸に付而、後卷次苐、唐人越河、少〻山に雖乘揚候、蜂須賀阿波守、K田甲斐守、其日先手之當番に乍有、
合戰不仕趣申上候處に、癔病者之由、 御諚被成、御逆鱗不大形候、
一 御手先之城共、可引入由、各言上仕候儀、言語道斷曲事に思召旨、 御諚被成候、私通申上候者、不聞召以前ゟ嶋津、
小西、對馬守三人之城引入、御爲に可成族三人之城主、私軆方へも度〻に書狀を越申候へ共、不受 御諚爲下御城引入儀、
不及覺悟趣、三人之城主も返事」仕候に付而、其以後各失手言上爲仕儀候、卽此書狀談合衆早主、竹源、毛利民書狀にて御座候とて、
懸御目候處、猶以、御逆鱗被成三人之城主共同心不仕儀、丈夫に思召、事之外 御感被成候、阿波守、甲斐守儀者、
後卷之合戰を不仕、癔病者思召候に、剩御先手之城可引入興行人、旁以取分對阿波守曲事に思召候、只今進退可被取消儀候へ共、
永被加御思案之間、追而樣子被仰出迄者、可致在國候、甲斐守是も後卷之合戰をへり、癔病者、殊主居城之所さへ不見定、
不顧ゥ卒之苦勞、無詮城共仕捨候儀、曲事不淺雖思召候、先被加御思案之条、進物之儀者不及申、御注進等之一通も進上不可仕候、
樣子追而可被仰出候、早川主馬头、竹中源介、毛利民部太輔事、爲御目付之身、相加惣談、御城可引入族、城主方へ遣書狀、
同御目付之間へも遣書狀儀、第一之曲者と思召間、」召寄御成敗有度雖思召候、是も御思案被成候間者、豐後に可有之候、
右之樣子、彼者共方へ奉行三人、彈正相加、可申遣旨被仰出候、
一 㝡前者、筑後、筑前石治へ可被下と被仰出候つるが、石治關東ゟ被罷上候て、被仰聞候は、右之國可有御扶助と思召候へ共、
左候へは、金目に思召澤山に可被爲置別人無之候、但、御國被下度思召候ても、明所無之候へは、今迄之軆候間、
兩國之明候社幸にて候間、可致拜領かと御たつね被成候、治少被申上樣者、 御諚承候へは、拜領仕同前候間、
如今迄江州に有之而御奉公申度由候、於其分者、不相替澤山に有之而、彼兩國御代官可仕 御諚候、至于一兩日中、
名嶋へ可被罷下由候、
一 兩三人事、前後之樣子被聞召屆、爲御褒美、於豐後新地致拜領候、於仕合者可御心易候、兼又、來年御人數被相渡、
赤國之筋都河迄働被仰付、蔚山のかたへ打入候樣にと御有搆、注カ太、石治、揄E爲大將」被相渡、
我等軆も如去年可罷渡旨 御諚候、其外御働之樣子、色〻 御諚之通候へ共、來年之儀に候へは、又樣子も可相替候間、
先大形右之通候、猶日本之樣子追〻可申述候、恐惶謹言、
iE馬
五月廿六日 長堯(花押)
垣和泉
「一直」(花押)
熊内藏(花押)
瀦コ庫殿
嶋又八郎殿
人〻御中
山村良勝千村良重宛大久保長安書状
其許樣子、十六日御狀昨廿日に高井土にをひて令披見候、則江戶へ御狀共指遣申候、此中十一日之心得其許之樣子被爲聞度之由、
御意候つる間、御中間衆飛力被越申候つる事、
一 上方石治少、大刑、石備書狀御才覺にて御取被成候、則狀江戶へ致進上候、定而可爲御大慶候事、
一 我ら者廿日之朝迄江戶に罷有、遠山久兵衞殿其許へ被遣候しくみいたし候、五日中に遠久兵其地へ可有御越候事、
一 遠久兵へ金子五兩渡しにて越申候、ふかしにて米之調被成、其地之者共かつへ候はぬやうに可被成事、
一 會津表之儀正宗打入、城二三か乘捕候故、影勝手を失之由申來候事、
一 小笠原靱負其許かせいとして人數被遣候、ひへ川邊になり共、又s育イになり共、貴所達思召し仕候置御申可在候事、
一 てつほう玉藥以外つけさせ越申候つる、相屆申候哉事、
一 昨廿日馬塲半左御目見え被申候、我〻妻子てうふにつかまつり、其許へ可叅之由被仰出候、如何にも仕合よく候にて、
半左も下總へ叅、三、辰致取合、いへのこ邊に各妻子有付候て、其許可叅候由御座候事、
一 半左へもてつほう以下被成御渡候事、
一 貴所達ゟ爲書狀半途ゟ半左へ早飛力にて越申候間可御心安事、
一 道幽犬山にいまた御逗留之由、きつかい仕候、大手へ御立之衆にも御朱印を被遣候、可御心安事
一 C須之城迠道筋被相違相納申候事、
一 内府樣も來廿四五日時分に尾州おもてへ御出馬候事、
一 石玄蕃殿しち物家中共〻、昨廿日に我ら御代官所日野迄叅着候事、
一 金森法印も其谷御かため候事御滿足之事、
一 ひたしみのへの手遣、追而可被成之由御座候、遠山勘右衞門殿三州口を被叅候事、
一 玉藥何ほとも遣し可申候間、可御心安事、
一 近日眞田へ御勤候、我らも彼地へ罷越候間、重而御用之御飛力は聞合、彼地へすくに可給候、それゟ御はた夲へ可申上候事、
一 彼筋へは中納言樣御馬可出候事、
一 左京大夫殿被入御念候通、一っ書を以、内府樣へ申上候事、
一 ふかしへの書狀遣し申候間、御心安可在之事、
一 枩本へも何事も十兵衞次苐に可被仰付由、御朱印被遣候間、是又可御心安事、
一 諏方しち物も今日此地へ被相着候由申來候、可御心安事、
一 いな侍從殿しち物上州高崎へ家中共に罷着候、侍從殿は三州通をC須へ着陣之由申來候事、
一 其許忠節被成方〻へ書狀急さし越候事、
一 今度貴所達へたいし、別心仕候者、何樣にもいけ取、以俄者被仰付、道幽者しち物かへにも才覺仕度之事、
一 原與左衞門方遠山勘右をョみ候て、昨廿日に我ら所へ叅候間、何事も貴所達と談合可仕候由申候、
隨者其谷御かため之内は馬塲半左致談合、とくと相延可申候、其御心得可被成之事、
一 枩本より米入候事、先以我ら方ゟ渡邊金内殿へ書狀こし申候、玄畨殿おちにて候石川日向殿ゟ書狀調、
久兵へ殿御越之時こし可申事、
一 今度信州表へ叅陣いたし候、其内自其地相出候飛力さし引のためによこ山口留御仕候人を付置、
我らい申所へ叅候樣之しくみ申候間、可御心安事
一 彼表ゟ其許へ叅萬事御談合申、 内府樣へ自其許尾州へ御遣候奏者之儀も、しくみ可申候之間 可御心安事、
一 其谷口留之儀、かたく被仰付、上方ゟ通候書狀共、おく筋幷近ヶ國之者けいさくの書狀なと可致通路候間、
何樣にもかたく御改、御才覺候て被成御取可給事、
一 金代物何ほと入候共、可仰給候、いかほとも可出事候、
一 馬塲半左、千助右兩人も當所務の樣子申付、其許へ可叅之由御座候事、
一 内府樣被成 御意候は、貴所達を其地へ被遣候て、跡にて定而妻子きつかい可申候由被成御意候、
馬半左もか樣なる忝候儀、其之段仰候て御歸候事、
一 是は平右衞門殿へ申候、御しんふ樣も其許之樣子無御心元可被思召候と存、委書狀を以申入候、可御心安事、
尚追〻可申候、恐〻謹言、
八月廿一日 大十兵衞
長安(花押)
山甚兵様
千平右樣
御報
豐臣氏大老奉行連署起請文前書案
「太閤樣○○九人之誓紙ひかへ」
九人誓帋
敬白㚑社上卷起請文前書之事
一 今度緣邊之儀付而御理申入候之處、早速御同心、畏入存候、然上者、向後御遺恨無御座旨、各におゐて忝候条、
前篇に不相替、諸事入䰟可仕候事、
一 太閤樣御置目、十人連判せいしの筋目、弥不可有相違候、若失念も候て、誰々身上におゐても相違有之者、
十人之内、聞付次苐に、一人二人にても㸦に異見可申候、其上同心於無之者、殘衆中一同に異見可申候事、
一 今度双方へ入䰟之通申仁有之とて、其ものにたいし、遺恨をふくみ存分不可有候、但御法度御置目をそむき申におゐては、
十人としてせんさくをとけ、可被處罪科事、
右條々於相背者、
慶長四年二月十二日 長束大藏太輔
搏c右衞門尉
コ 善 院
淺野彈正少弼
石田治部少輔
秀家
景勝
輝元
利家
コ川家康起請文前書案
内府誓帋
敬白㚑社上卷起請文前書之事
一 今度緣邊之儀付而、御理之通、承屆候、向後御遺恨に不存候間、前篇に不相替、諸事可令入䰟候事、
一 太閤樣御置目、十人連判誓帋之筋目、弥不可有相違候、もし失念も候て、誰々身上におゐても相違有之は、
十人之内、聞付次苐に、一人二人にても㸦に異見可申候、其上同心於無之は、殘衆中一同に異見可申候事、
一 今度双方へ入䰟之通申仁有之とて、其ものにたいし遺恨をふくみ、存分不可有候、但御法度御置目をそむき申におゐては、
十人としてせんさくをとけ、可被處罪科事、
右條々於相背者、
慶長四年二月十二日 家康
長束大藏太輔殿
搏c右衞門尉殿
コ 善 院
淺野彈正少弼殿
石田治部少輔殿
秀家
景勝
輝元
利家
毛利輝元起請文案
今度天下之儀、各申分御座候處、我等事 秀ョ樣御儀不存疎意之旨申入之通、被聞召分重疊御懇意之段、誠以過分存候、
然上者、向後如何樣之儀出來候共、奉對貴殿、無表裏別心、成父兄之思、可得貴意候、乍恐於御同意者可忝候、
我等儀無二之心底候、若此旨於僞申者、
― ― ― 自然又讒人之族於在之は、被遂御糾明、被仰聞候はゝ、別而可爲滿足候、此由得御意候、恐惶敬白、
閏三月廿一日 輝元
家康樣
コ川家康起請文
「ー ー」
今度天下之儀、各申分在之處、被對 秀ョ樣、無御疎略之通、尤候、然上者、向後如何樣之儀出來候共、對貴殿無表裏別心、
如兄弟可申承候、若此旨於僞申者、
梵天、帝尺、四大天王、惣日本國中大小~祇、八幡大菩薩、春日大明~、愛宕白山大權現、富士大權現之御罸可罷蒙候、
自然又讒人之族於有之者、互糾明可申究候、恐々謹言、
閏三月廿一日 家康(花押)
安藝中納言殿
11月4日付黒田長政宛島津義弘書状(黒田家文書)
以上、
其後不申承、心外之至候、仍於濃州大柿預御懇札、其後御状候ても、御返事雖申入候、途中尓て故障之儀ニ付て不相届候段、不及是非候、
抑今度御弓箭御企之儀、拙者式へ不被仰聞候間、曽而不存儀ニ候、
就中内府様御厚恩之儀、是又雖無忘却候、奉對 秀頼様、永々可抽忠貞之旨、灵社上巻之誓帋度々上置候、
其旨於無相違者、今度應御下知可致出陣之旨、御奉公衆ゟ以御墨付条々被仰付候間、 君臣之道難背ニ付て、不及力、御人数一分ニ罷出候、
尤大坂ニ致堪忍、此等之通雖可申上候、御取次之仕合難斗候条、国元ゟ可申上と存罷下候、
併我等儀、當分逼塞仕候之条、於様子者、竜伯、少将可申上候、被聞食届、可然之様、御取成所希候、恐惶謹言、
十一月四日 惟新(花押)
黒田甲州
人々御中
島津龍伯、同忠恒連署書狀
依遠邦其以來無音打過候、本慮之外候、然者今度御弓箭之成立、維新罷下、巨細致承知候、維新事、㝡前御談合之御企、
曾不被仰聞由候、殊内苻樣御厚恩之儀、雖無忘却候、内苻樣如御存知、奉對 秀ョ樣、永〻可抽忠節爲證跡、
度〻 靈社上卷上置候、其筋於無相違者、可同心仕旨、御奉行衆承に付、君臣之道難默止、任其意候由申候、勿論我〻事、
御懇之儀聊不存忘候、弥心底不可有別儀候、此等之段、被聞食分候樣、御取合憑存候、委曲者彼使可申達候、恐惶謹言、
十月十六日 忠恒(花押)
龍伯(花押)
寺澤志摩守殿
人〻御中
會津転封に関する豐臣秀吉朱印狀
今度會津え國替に付而、其方家中侍之事者不及申、中間小者に至る迄、奉公人たるもの一人も不殘可召連候、自然不罷越族於在之者、
速可被加成敗候、但、當時田畠を相拘、年貢令沙汰檢地帳面之百姓に相究ものは、一切召連間敷候也、
正月十日
虫ト越後中納言とのへ
京極高知宛家康書状
十二日之御狀、昨十九日令披見候、仍三表江御出之由尤候、乍去、濃ъ之儀付而申遣旨候間、注カ太被仰合、
先彼口江御出尤候、自是以使者可申候、將又證人給候、祝着之至候、恐〻謹言、
八月廿日 御名乘
御判
伊那侍從殿
福島高晴宛家康書状
御使札令披見候、今九日至參чェ着陣候、其許敵程近之義萬事無油斷仕置等尤に候、一兩日中大柿表可罷出候、
猶自彼地可申候間不能具候、恐々謹言、
九月九日 御名乘御判
s掃郶頭殿
福島高晴宛家康書状
茂助かた迄之書狀令披見候、殊屋なか島へ押籠放火、首四つ被討捕由誠感恱申候、其表彌無油斷樣專一候、恐々謹言、
九月十一日
s掃郶頭殿
豐臣氏大老連署契狀案
(端裏書)
「ひかへ」
条々
一 丄樣長々御煩付而、御失念も在之樣に御座候間、御知行方其外御仕置等之事、㝡前被 仰定ことくたるへき事、
一 自今以後之儀者、如何樣之気被 仰出候共、御請は先申上、以御本復之上、慥得御諚、可隨其之事、
一 御知行方幷御仕置等之事、今度重疊被 仰出、以誓帋相定候通、不可有相違候事、
以上
慶長三
八月十日 輝元
秀家
利家
家康
毛利輝元起請文前書案
敬白 起請文前書之事
一 奉對 秀ョ樣、御奉公之義、太閤樣御同前、不可存疎略事、
付、表裏別心毛頭存間敷事、
一 御法度御置目之儀、今迄如被 仰付、弥不可相背事、
一 公儀御ためを存候上者、諸傍輩にたいし、私之遺恨を企、存分に及へからさる事、
一 傍輩中不可立其徒黨、公事篇喧嘩口論之儀、自然雖在之、親子兄弟奏者知音たりとも、えてひいきを不存、如御法度可致覺悟事、
一 御暇之儀不申上、私として下國仕間敷事、
右条々、若於相背者、此靈社起請文、深重可罷蒙御罸者也、
虫ト安藝中納言
慶長三年七月十五日 輝元
内大臣殿
大納言殿
此おくに又七枚之牛王起請文あり、
右は加賀使にての事、
敬白 起請文前書之事
太閤樣御他界以後、 秀ョ樣へ吾等事無二に可致御奉公覺悟候、自然世上爲何動乱之儀▢共秀ョ樣御取立之衆と▢胸を合、
表裏無別心可遂馳走候、 太閤樣被 仰置候辻、自今以後不可有忘却候、
(而、もし今度被成 御定候五人之奉行之内、何も 秀ョ樣へ逆心にはあらす候共、心心に候て、揄E、石治、コ善、
長大と心ちかい申やからあらは、於吾等者、右四人衆と申談、 秀ョ樣へ御奉公之事、
各半、於于時惡やうに申成候共、無隔心、㸦に申あらはし、幾重も半よきやうに可申合候、若於此旨僞者、
安藝中納言
慶長三年八月廿八日 輝元
揄E
石治 右けしたる分、はしめの
長大 案、かた付は治少より也、
コ善 使安國寺
起請文前書二つあり、
▢から忘却候までが最初の案で(から秀ョ樣へ御奉公之事までが三成が加筆した文と言われてるみたいです。
森忠政宛秀忠書状
遠路被入御念御懇書、本望存知候、如仰今度爲御見廻、被差越林長兵衞、祝着之至に候、将又、會津之事、先書にも如申入候、
伊那圖書頭被差遣候處、景勝上洛に被相定之由候間、右之吏者罷上候、乍去、京都の樣子いまた不相聞候付、不能細筆候、
替儀候はゝ、從是可申伸候、恐々謹言、
江戶中納言
五月十八日 秀忠御判
虫ト右近殿
御報
雖無差義候、一書令啓達候、仍今月上旬内府可爲下國与申來候、爲御心得如此候、替儀も候はは、重而可申入候、恐々謹言、
江戶中納言
六月朔日 秀忠御判
虫ト右近殿
御宿所
御懇札本望之至候、仍而今度會津表へ出陣に付而、委細蒙仰之通令其意候、内府近日下國之由候条、御内意之通可爲申聞候、
先書には六月上旬与申入候き、重而申來分は、中旬之由に候、猶替義に候はは、從是可申伸候、恐々謹言、
江戶中納言
六月六日 秀忠御判
虫ト右近殿
御返報
態以飛脚申入候、仍内府今月十六日に大坂江被罷登候由申來、近々可爲下着候、猶其節可申述候間、令省畧候、恐々謹言、
江戶中納言
六月二十一日 秀忠御判
虫ト右近殿
御宿所
真田信幸宛秀忠書状
(折封うは書)
「眞田伊豆守殿」
被入御念、大久保治部少輔所迄御狀之通、令披見候、然者、今度奧表就出陣、其元御下可然由依被申、御下着之由尤候、
猶治部少輔所より可申入候条、不能詳候、恐々謹言、
江戶中納言
六月十七日 秀忠(花押)
眞田伊豆守殿
屋代秀正勝永宛家康書状
御下知狀
一 加賀中納言殿北國筋を米澤へ打出會津へ亂入候者、案内者に候之間、先手者山形出虫迺納言殿可爲簱本事、
一 置目以下之儀、中納言殿可被仰付候、御隔意有間舗候事、
一 越後侍從津川筋出陣之義、無越度樣可然段口上に可申候、兼又村上周防、溝口伯耆兩人之内、向寄次第、
中納言殿爲案内者、北國筋へ可有參陣候事、
以上
七月七日 御朱印
屋代左衞門とのへ
広家宛如水自筆書狀
廣家樣
貴報 如水
尚々、たしかなる人御越候へと御留守中申遣候間、御參次第追々可申入候、
去月廿三日御狀、昨日拜見申候、
一 天下成行不及是非候、かやうあるへきと仰程候、分別仕候間、おとろき不申候、
一 甲州事、御氣遣なされ候よし忝存候、
一 豐前儀、少御氣遣なさけましく候、加藤主計申談候間、いつみより被進候て、一かせんにて可相澄候、
一 京之使書狀進之候、可相着候、
一 今度弓矢成立候ましきと存候、殘多候、又弓矢御なけ候衆、貴殿まてさし申候、
一 口上にて申候間不委候、
一 日本何樣替候共、貴殿我等半替申ましく候条、其御心得候へく候、尚追々可申入候、恐惶謹言、
八月廿日 如水(花押)
廣家樣
貴報
家臣宛廣家自筆書狀
尚々、其元万々仕置事、以口上申候、○不及具候、又家康は先へ被取出之候、可有如何哉と申事候、以上、
P田普請相調候て、伊勢へ相越、陣取先々見合候へとの事に付而、元次、元政、熊豐、平賀方同道候て相越申候、
當月中之逗留由候て、如此御書候、可有如何候哉、東國も眞田、宇都宮、日光山其外色立候て、家康氣遣之由申候、
追々可有到來候間申可候、北國は肥前殿家康一味にて候、母なと人質に被置候故に、不及是非候ての事たるへく候、
是も珎敷事無之候、猶九兵可申候、恐々かしく、
八月四日 (花押)
土州
大信
左馬助
祖九右
井喜兵
有 少
吉川廣家、宍戸元次、熊谷元直、u田元連署起請文
今度東へ申遣候一儀に付而、四人申合せ候、』倂 殿樣御爲を存、如此候上者、万一以來』此条に付而、御當家之さゝはりに、
罷成事候はゝ、』四人身上におゐ申候て、御家之御氣遣に懸』申間敷候、然上者、此条礑他言仕間敷候、』
惣別今度御留守中於四人「無」二心申』合、 殿樣御爲之氣遣、身を捨可致短息候、』若此旨於僞申者、
日本國中大小~、殊嚴嶋大明~・』广利支尊天・天滿大自在天~、御罰』可罷蒙者也、仍「起請如件、」
慶長五
七月十五日 玄蕃頭(花押)
豐前守(花押)
備前守(花押)
藏人 (花押)
7月16日付堅田元慶宛蜂須賀家政書状(毛利博物館所蔵文書)
猶々、両人御同意之儀、初者雑説と存、不実候処、安国寺ゟ承候旨ハ、今度東国へ之御人数被指留之由、蒙仰ニ付而驚入候、以上、
態啓上候、仍今度石治、大刑逆意、無是非存候、就夫輝元様も御同意之様ニ爰元申成候、無心元奉存候、
若於事実者、さりとてハ世間之批判、無御勿躰存候、勿論近年内府無御届儀共、可有御座候、雖然、被奉對 秀頼公、余相違之題目、拙者式不承候、
於然者、以御覚悟天下之乱可有出来儀、歎敷御事、不可過御分別候、か様之儀推参、其恐如何御座候へ共、年来別而御懇ニ付而申上候、此旨御披露所仰候、恐々謹言、
七月十六日 家政(花押)
蜂須賀阿波守
堅田兵部少輔殿 家政
長政宛家康書状
從吉川殿之書狀、具令披見候、御斷之段、一々令得其意候、輝元如兄弟申合候間、不審存候處、無御存知儀共之由承、
致滿足候、此節候之間、能樣被仰遣尤候、恐々謹言、
八月八日 家康(花押)
K田甲斐守殿
(押紙)
此 御内書使者關所を通候付而、帶之内え縫込取歸候に付、にしみ有之候故、後年に至洗候而損申候、使者服部治兵衞、
広家宛長政書状
K田長政自筆書狀
○この文書は、に四片に切斷して用ゐられたるものなり、
已上
拙者爲御見舞、態御使札忝存候、とても遠方是迄御返かたく候間、御内意之通、 内府公へ申上候へは、拙者所へ被成御書候間、
則御使に懸御目候、本書此方にとゝめ申候、隨而今度之一義、輝元義は被成御存知間敷候、安國寺一人之才覺と内府公も被思召候、
然上者、輝元へ御内儀能々被仰入、内府公御入魂に成候樣に、御才覺專用に存候、貴樣次第、此方之義は拙者相調可申候、
御弓矢此方勝手に罷成候ては、さ樣之儀も調かね可申候条、まへかと無御油斷御分別尤に存候、是は連々㸦不存如在義候条申入候、
猶此使者口上に申添候間、能々可被聞召候、恐惶謹言、
八月十七日 長政(花押)
貞U様
參御報
(押紙)
此書狀、使者關所を通候に付、濃々に切さき笠の緒にゑり込取歸候申候故損申候、使者服部治兵衞、
*貞U様參御報と(押紙)の間に>>203の家康の書狀が入るのですが煩わしいので省略 広家宛長政自筆書狀
貞U人様參 K甲斐守
人々御中
猶以内府も、早駿川府中迄出馬之由、夜前申來候、已上、
先書に申入候、相屆候哉、菟角輝元御家相續申候樣に、御分別尤に候、御返事に委可被仰越候、恐惶謹言、
八月廿五日 長政(花押)
貞U様
人々御中
(押紙)
此書狀帶之内え縫込取歸候 、
千村重照宛長安書状
猶々今度御忠節我等式迄大慶仕候、近々其表へ可參候間、萬事可申展候、已上、
急度申入候、先日も以狀申入候間、相屆申候哉、今度於其元樣々御忠節之由山村甚兵衞殿、千村平右衞門殿ゟ仰給候、
卽其通内府樣へ申上候處、不成大形御祝着被成候、彌其元之儀兩人御相談候而可然樣に御才覺肝要に候、
來廿六日濃пA尾爲御手立御出馬候、彌其表之儀可御心易候、恐々謹言、
八月廿三日 大十兵衞判
千村次郎右衞門様
田丸直昌宛家康領地宛行状
濃州惠奈郡壹万九千六百八拾七石五斗、同土岐郡内壹万六千参百六石四斗二舛、同可兒郡内四千六石八舛、都合四万石之事、
信州川中嶋爲替地被宛行訖、目錄、別帋に有之、全可有領知、m此内五千石無伇、殘参万五千石軍伇可被相勤之狀如件、
慶長五
二月朔日 家康(花押)
田丸中務太輔殿
森忠政宛家康領地宛行状
信州川中嶋更科郡参万四千七百六拾八石三斗、同水内郡五万千弐拾壱石壱斗七舛、同埴科郡壱万四千六百三拾八石七舛、
同高井郡参万七千五拾三石四斗五舛、都合拾三万七千五百石之事目錄別帋に有之、被阿知行畢、全可有領知之狀如件、
慶長五 家康
二月朔日
虫ト右近殿
豐臣氏大老連署契約狀寫
御禁制條々
一 はくちゥ勝負之事、
一 鉄炮をはなし候事、
一 かほをつゝみ路次を通り候ものゝ事、
一 道路におゐてかまつかひ之事、
一 道路辻におゐてすまふ取事、
右、從先年御法度之条數之内に候之處、此ヶ条猥輩在之付而、今度被相改、弥御停止之旨、存知仕候、自身之儀者不及申、
家來之者共下々に至る迄、御法度之旨、念を入可申付候、若相背族於在之は、則其者可有御成敗候、其時少も存分申ましく候、
仍爲後日狀如件、
慶長四年五月十一日 利長
輝元
景勝
秀家
家康
コ善院
淺野彈正少弼殿
搏c右衞門尉殿
長束大藏大輔殿
コ川秀忠書狀
態令啓上候、仍御移國之御祝義、早〻可申入候之處、在洛故何角延引、所存外候、隨而爲御祝詞、御太刀一腰・馬一疋・
幷小袖三十・虎皮五枚令進覽之候、猶朝比奈弥太郎可令申候、恐〻謹言、
江戶中納言
九月廿日 秀忠(花押)
會津中納言殿
人〻御中
相良頼房宛井伊直政書状
尚々、御使者如披見申候、少々手を負申候間、判形不仕候、以上、
尚々、秋月殿へも以狀も可申進候得共、未申通候間、無其儀候、御心得ョ入候、此御身上之儀も、貴所御指圖次第、
少も御無沙汰申しましくそうろう、以上、
御使者口上之通、具に承候、其城に御座候儀、一圓不存候き、前々より内府へ御入魂之儀に付而、急度御忠節、
城之儀早々可被相渡之旨承候、頓子細共御座候而相濟儀に御座候間、一刻もはやく御忠節尤存候、高橋殿へ以別紙可申候得共、
未申通候間、無其儀候、是又御身上之儀、内府前之儀、貴所御指圖次第、何樣にも馳走可申候、少も如在申間敷候、
一人之儀被仰越候、尤存候、委細御使者口上に可被申候、恐々謹言、
井伊兵部少輔
九月十六日 直政(K印)
相良左兵衞殿
御陣所
相良頼房宛水野勝成書狀
以上
如申談候、三之丸西の於門口、熊谷内藏丞、垣見和泉、木村宗左衞門頸、御手前に被討取、此頸三を慥請取申候、恐々謹言、
水野六左衞門
九月十七日 勝成(花押)
相良左兵衞樣
人々御中
相良頼房宛井伊直政書状
十八日之御狀、昨日於大津致披見候、
一、熊谷内藏丞、垣見和泉守、木村惣左衞門尉頸被討捕候、先度被仰達候首尾合申候而、尤存候、卽 内府へみせ申候、被入御精、
早速如此之議、祝着被申候、被明御隙、此方へ御越之節、以面上万々可申承候、
一、lエ右馬助可有御成敗之旨尤候、可有御才覺候、
一、秋月殿高橋殿え別紙に可申入候得共、御心得所仰候、何も面談之節可申承候、恐々謹言、
井兵部
九月廿一日 直政(K印)
相良左兵樣
御報
相良頼房宛井伊直政書状
爲改年之御祝義、御使者被差上候、拙者儀相煩、江州佐和山へ參候条、西尾隱岐守所へ書狀指渡申候、然者、爲御祝義、
拙者へ御太刀馬代銀拾枚被懸御意、本望之至候、委曲御使者へ申渡候、恐々謹言、
井伊兵部少輔
三月十八日 直政(K印)
相良左兵衞佐殿
御報
相良ョ兄覺書狀
大柿より左兵衞、井伊兵部少輔殿、K田甲斐守殿へ使者を遣候、日限九月十五日未明に指出候へ共、御人數に相とゝこほり、
翌日十六日さめがいにて兵部少輔殿へ懸御目候處、兵部少輔殿ゟ御使勝五兵衞と申人、大柿へ被成御越候、秋月高橋にも致内談、
同十七日に垣見和泉、熊谷内藏丞、木村宗左衞門尉父子討果し、右之首もたせ進上申候、同廿日、於於大津内府樣へ上申候、
幷大柿本丸同廿三日に相渡、同廿八日大坂にて 内府樣へ左兵衞御礼申上候、以上、
相良C兵衞尉
六月三日 (花押)
K田甲州樣
今井宗薫宛政宗書狀
宗棍驕@ 人々御中 政宗
以上
追而爲飛脚申入候、仍庄内之義、旧冬㝡上へ加勢仕候時、庄内衆も打出候を、やちと申所に庄内城主取籠、命計之躰に而懇望候而罷出候故、
庄之城も渡し候、然處に、川北に東禪寺と申城持あはせ、此中迄抱候を、近來㝡ゟ人衆少々被遣候へは、不及合戰明渡し、庄内悉澄申之由、
一昨日從山形修理殿預飛札候、修理殿此中被入情候事、不大形候き、御次に御取成可然候、又如此庄内之澄申事も、去冬㝡上へ加勢仕、
庄内城主しもと申者おさへ置候故よ、又修理殿かせきの驗にて候、懇には各へ不被申候間、貴老皆々へ御語而可被下候下候、
出虫迹續V時者、中中かやうにはか行申間敷候、きとくに存候、
一 伏見へ皆々御越之由候、珍重候、此上大坂の御用心に相究之由、我等者存候、直には如何に思召候者、本佐なとに、
能節々可被仰候仰候、
一 惣別我等が願に者、
秀ョ樣御幼少之間は、江戶かさ○ず○伏見○成共、 内府樣御そばにしかと置申候て、おとなしく御成人候者、其時は、
何やう○○ 内府樣御分別次第に、御取立も御申○事か、又いかに 大閤樣御子に候共、日本の御置目等可被取行御人に無御座由、
内樣御覽屆候者、御國之二三ヶ國も、又は其内も被進候而、なかなかの御進退○御申候て能候はんに、
唯今大坂のかたにふらりとして置被成候者、時分を以、世のいたつら者出來候て、秀ョ樣をぬしなとに仕、謀叛も仕候者、
其者共の故に、何も無御存
秀ョ樣腹を御切候へは、大閤樣亡魂迄之御爲も惡御座候かと存候、
一 我等が人之樣にも候者、さしあてゝ此御意見計者申上度事に候、第一 秀ョ樣之御爲にて候かと存候、本佐なとには、
され事のやうにも是非御語有へく候、
一 大納言様御下向、待申事にて候、
一 伏見へ女房共早々越候へと、兩人所へ申遣候、萬々御意見候て可給候、
一 五月五日之御帷子共御上候而可給候、各へも進候樣にと申遣候、
折節馬をせめ候て、一切てふるい、文のわけ見えかね可申候、尤他見有間敷候、恐惶謹言、
卯月廿一日 政宗(花押)
宗椈V
人々御中
(慶長7年)1月15日付井伊直政書状
相良頼房宛
十一月廿三日之御使札、旧冬参着申候、有馬江致湯治、一昨日罷帰ニ付而、御報遅々、所存之外候、
其表之儀、様子具ニ被仰越候、委細得其意申候、嶋津方定近々可為上洛候条、春中ニ御上洛奉待候、
何も其節可申承候、次為御音信、熊皮四枚被懸御意候、本望存候、此方御用等候者可承候、
将亦犬童又右衛門尉殿ニ被差上候御状、是又令披見候、様子得其意申候、
又右帰国之時分、委可申達候、何篇如在を存間敷候、恐々謹言、
井伊兵部
手不自由故不能判形候
正月十五日 直政
相良左兵衛殿
御報
島津家宛立花親成書狀案
將又、加主計所より至拙者の捻、入御披見候、返〻、先手之衆今月中に肥後表へ被押出候、日向口兩口に御人數可被出之由候、
上方之儀令靜謐、東國迄無殘所仕合候、貴家御一分に相極候条、一刻も早〻御使者可被指出候、此中別而得御意候辻に候間、
せめて御使を申度と存申入候、委細口上に申候、我等事者八代迄罷出候条、彼地へ早〻御使者可被指出候、以上、
近日者不申入候、通路不自由に付而申後候、
一、前十四、龍造寺國中之人數相催、久留米領分より河を渡候、豐前如水人數も罷出申談、駐。四郎居城留主居之者共へ、
人數をたてかけ、人質を取下城させ、同十五日、愚領中はしはし相動候、少之人數差出、得勝利候、
一、大勢之儀に候間、此方少人数、手ひろく相拘候事不事成、はしはし出城共、從此方引拂申候、然処に程近仕寄候、
左候へは、加藤主計方も宇土落去候へは、則此方へ相動候、筑紫主水事加主同心候、有馬其外方〻之衆、
勿論如水何も被押寄候、籠城に罷成候事、
一、餘程近押詰候間、人數を出、鍋嶋陣所へ仕懸候、數刻相戰、互勝負無之候、雖然敵大勢味方は無人故、手負戰死歴〻に付而、
居城きはまて諸勢押寄、詰陣候、然處、京都殘置候使罷下、先以御赦免之通被仰出候間、加主、如水へ理を申、和談に罷成候事、
一、御家之儀も、此節何とそ歎息仕度通、如水、加主へ申候処に、爲拙者承合肝要之由候間、幸に存、以使者申入候、
於御侘事者各馳走可申旨候条、早〻八代表へ御使者被指出候はは、可申談候、
一、江戶中納言樣、薩州爲御改、近日御出馬之由候、諸勢被打下候、拙者式事も、御赦免之上者、其地可罷立候間、遂御侘事如此候、
天下悉御靜謐候て、はや御國割に罷成分候間、此節之儀、被遂御分別、急度中納言樣御出馬無之以前、御使者被差出、
御侘事尤存候、拙者一命にかけ候て、隨分御使を申度候、委細口上に相含候、恐惶謹言、
十月廿七日 親成
龍伯樣
惟新樣
少將樣
人〻御中
島津宛立花尚政書狀
以上、
重て御兩使被差越候、口上之趣、銘〻如水、加主へ申達候、返事之樣子、御使申達候、上方之儀、井兵部殿迄御使者被差上之由候条、
其段御兩所へも申達、先〻人數被打入上洛候、然者圖書殿なと被差上、如水、加主も」井兵同前に被申上候樣に候者、御爲も可然存候、
但御分別之外不及申候、委細口上に申入候間、不及口能候、恐惶謹言
注カ近
十一月廿二日 尚政(花押)
○○樣
薩广少將樣
御報
島津宛K田如水軒書狀
以上、
此表罷出に付而、從注カ近殿依被申入、兩使被差出、口上之趣得貴意存候、㝡前加主計可相動と被申候へ共、
井伊侍從、山口勘兵衞を以御理可被仰上之由候条、動を相留、致同道上洛仕候間、於上方相應之儀、」不可有疎意候、
於樣子者御使口上に相含候間、不能細書候、恐〻謹言、
如水軒
十一月廿二日 圓C(花押)
薩广少將樣
龍伯樣
人〻御中
忠恒宛惟新書狀
以上
今度山口勘兵衞殿上洛に付而、入來院又六、善載坊爲御使令上洛候、口上之段、具に承届、我等も大坂へ罷下、
被仰上通、 内府樣へ言上候、樣子被 聞食、別而忝 御意候、委曲善載坊へ申含候条、可申達候、
一 庄内之事、屬御案利、都鄙之外聞不可過之候、愚老之満足可有御察候事、
一 源二郎事被召出、知行貳万石被遣之由、 内府樣御意与申、尤之御分別候事、
一 無御失念茶埦送給候、祝着之至候、涯分」秘藏可申候事、
一 奧州へ於 御出張者、伏見御城番可被仰付由、内府樣御面談に被仰聞候、然者、御留守番之儀、
心遣大方にては相調ましく候、其上人数等丈夫に無御座候ては、諸口之御番致首備間敷候、樣子細〻善載坊へ申聞候間、
被聞食、納得專一候、恐〻謹言、
五月五日 維新(花押)
少將殿
義弘宛近衛龍山書狀
其後不申承○、仍從輝元先日預使者、音信共候而、御暇給候間、及歸國候由候き、又昨夕人之申候は、西國衆悉下國之沙汰承候由候、
貴所之儀者伏見之城御預之由候き、弥其趣候欤、承度候、何篇に此比御透次第光臨候者、可爲祝着候、拙者も内〻以參可申与存、
何ヶ度打過、相似疎意、所存之外候、家康は十六日至其地被越候事」治定候哉、延引候哉、是又承度候、今明之中に、
石田弥介當所へ可給候、申度事共候、猶期其節候、恐〻謹言、
六月十三日 (花押)
○○○庫入道殿
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ああ、俺のたくましい黒いバナナよ
コ川家康書起請狀寫
敬起請文前書之事
一 今度周防長門兩國進之置候事、
一 御父子しんめい異儀有間敷事、
一 きよ說申懸者候はゝ、可遂糺明事、
右於 僞申、ほんてん、大尺、四たい天王、惣而日本國中六十餘я蜿ャ之~祇、八幡大菩薩、富士箱根幷三嶋大明~、
天滿大自在天~可蒙罷御罸者也、仍起請文如件、
慶長五年
十月十日 家康御判
安藝中納言殿
毛利藤七郎殿
右御~文之所牛王
(裏書)
「此寫大かた如此」
現地に逝けwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
オナニーしてるか?wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
カルピス、まだ生きてたの?
はーい(-o-)/してま〜す。
シコシコシコシコシコシコシコシコ
シコシコシコシコシコシコシコシコ
シコシコシコシコシコシコシコシコ
シコシコシコシコシコシコシコシコ
ドピュ〜。ハァハァ。カルピスさんの
顔にぶっかけました。
現地に逝けwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
さもなくば、このスレもカルピスまみれになるぞwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
刑部の墓石にぶっかける根性があったら大したもんだwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
カルピス、お前が先祖の墓にぶっかけて
来いよw
先祖は半島か大陸だから今は無理か?
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志茂田歌劇団wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
あーなんか練乳崖イチゴ食べたくなってきたー
洗脳されたか
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