新解釈 関ヶ原合戦の真実 脚色された天下分け目の戦い
白峰 旬 (著)
http://www.miyaobi.com/publishing/products/detail.php?product_id=839
関ヶ原合戦にはよく知られたおなじみのエピソードが多い。
しかしそれを歴史的に検証するとどうなのか?
本書では一次史料を用い、小早川秀秋への「問鉄砲」はフィクションであり、
小早川秀秋は開戦と同時に裏切り石田三成方は瞬時に敗北したこと、
家康の小山評定は歴史的事実とは言えないことなどが、次々に検証されていく。
生駒利豊書状の真に迫る白兵戦のすさまじい描写、細川忠隆の首注文史料の数字が語る実戦の具体性も
本書の見どころである。
【序章】関ヶ原合戦はどう語られてきたのか―江戸時代に誕生した関ヶ原合戦像?
【第一章】関ヶ原合戦当日の虚像を剥ぐ?
【第二章】関ヶ原合戦以前の通説を正す
【第三章】小早川秀秋を裏切らせた「問鉄砲」はフィクションである
【第四章】『日本戦史』の布陣図に歴史的根拠はない?
【終 章】すりかえられた天下取りの戦い 新視点 関ヶ原合戦: 天下分け目の戦いの通説を覆す
白峰 旬(著)
https://www.heibonsha.co.jp/book/b457713.html
昨今、日本歴史界隈では関ヶ原合戦の実態を巡る議論が激しさを増している。
その中心的存在である著者がさまざまな“通説”を覆す。
プロローグ 関ヶ原合戦をどのようにとらえるか
第一章 豊臣七将襲撃事件はフィクションである
《補論》大谷吉継書状の分析
第二章 関ヶ原前夜−イエズス会宣教師の透徹した政治分析
第三章 関ヶ原合戦−イエズス会宣教師の明晰な戦争分析
《補論》慶長五年、九州における黒田如水の動き
第四章 大垣城攻防戦に関する保科正光の戦局シミュレーション
第五章 関ヶ原合戦に関する一次史料を読み解く
第六章 「関ヶ原」で戦った藤堂高虎隊と大谷吉継隊
エピローグ 関ヶ原合戦から大坂の陣へ
おわりに
主要参考文献 >>11
そう、東北の関ヶ原もまぁまぁ面白かったし、白峰氏のよりは期待できるかなって >>10
今日届いたので、さっそく半分くらいまで読んだ
今までの他者の研究成果を整理しつつ、自分の意見と淡々と述べている
文章だけで、図表がまったく出てこないw 渡邊氏のは先行研究のまとめってだけで自分が研究してるわけじゃないかならなぁ
また分かりやすく整理してくれてるだろうからそういうのが必要な人にはいいと思うけど
ぶっちゃけ渡邊氏は中央に手を出し始めてからつまんなくなった。またマイナー大名やってほしい
史学研究の関ケ原に取っつく最初の本によさげよね、渡邊氏
一次史料から考えると言っても、所詮人が書いたものだしなぁ
媚びっているものも多いし
その辺りどうなの
一次とか二次とかではなく、ちゃんと史料批判された上で信頼されてる史料を用いてるの?
自分にとっては、「関ヶ原の合戦はなかった」の乃至氏、高橋氏共著がとても良かった
それが頭にある前提で、渡辺さんの最新の本をひと通り読んだ。
白峰さんの引用が多かった
少し違いを紹介すると、関ヶ原前日の吉川による東軍との和睦
乃至氏、高橋氏では吉川の独断といい、渡辺さんの本では輝元の意志による書いてあった
また小早川秀秋の松尾山入城は、乃至氏、高橋氏では家康の赤坂着陣とあわせたものととらえ、
渡辺さんの本では、白峰さんの説を採用し、三成からの攻撃をさけるための緊急措置としている
渡辺さんの本では、輝元の参戦目的として、西国での支配の拡大が第一目的で
東軍との戦いは希薄だったと書かれている
さすがにこれを読んだときには、首をかしげた
東軍に負けたのであれば、私戦で切り取りした領地など簡単に召し上げられるのに
最後に、渡辺さんのあとがきでの「おまゆう」
近年、トンデモ本が横行していると批判している
補足
渡辺さんの本の参考資料の本の中に、乃至氏、高橋氏の本が書かれていなかった
つまり、トンデモ本扱いなのでしょう
確かに、本の題名は「関ヶ原の合戦はなかった」は、誤解を与えかねない
そもそもの関ヶ原の戦いそのものが、実在しなかったように思えてします
販促のためにインパクトのある題名を選んだのだろうけど、これは誤解与えるわ
よくよく読むと、戦った場所が、関ヶ原に近い「山中」という場所が、一次史料で多く見え
通説のような「関ヶ原の合戦」はなかった、という意味だろうね、本の題名の意味は
まああのタイトルはミスリードを露骨に誘っているけど、正しくは『天下分け目の関ヶ原の合戦はなかった』だからね。
「慶長五年九月十五日の、いわゆる関ヶ原合戦は天下分け目という性質のものではなかった」という意味では
あの本の内容的には正しい。
白峰氏は西軍より高橋氏、乃至氏は上杉は別として東軍よりな印象を
読んでて受けるな
渡邊氏はまだ読んでないから分らない
西軍における毛利がどの程度打倒徳川を考えていたのだろうか
高橋氏はトンデモに片足突っ込んでるわな
無視してる一次史料が多くてそこだけ切り取ればそういう風に解釈することは確かに可能だよねってだけ
飛ばし題名付けることだけはある
正直、謀略自体はどっちもやってたんじゃないかと思うがね
さすがに、高橋氏と乃至氏、渡辺氏と白峰氏も、関ケ原前日に吉川が和議を結んでいたので
それが関ケ原を含む一連の戦いに勝利した大きな要因とは認めている
まあ、その文章がもろ残っているからね
関ケ原前々日、西軍陣営では大垣、南宮山の戦力を集めて
一気に決戦に出ることを決めていたらしい
それが実現していたら、どうなっていたか・・・
しかし、関ケ原前日、家康が赤坂着陣、小早川が松尾山占拠
こうして、大垣の石田、大谷、島津、小西が小早川討伐のために出陣・・・
>>25
トンデモと言えばここ最近は井沢だろう。今度出す新書、なんだよあれは 井沢はここで名前を出すのはさすがに場違い。小説家に文句いってもしょんないやろ
>>31
歴史学者に喧嘩売っている人間が、関ヶ原が一年伸びたら政宗が天下を取ったはさすがにどうだろう
そもそも政宗とか、へつらいとか多いし、過大評価傾向の人物だと思うけど 正宗が天下を取る可能性は少なからずあると思うが、断定はできん
本能寺のあとだって、秀吉の戦いが長くなっていれば
毛利が天下とる可能性だってあるだろうに
可能性なんてないよ
一年伸びた程度じゃ東北平定も出来ずに時間切れだろ
もし天下を取ったとして政宗の天下を支えられる家臣はいるのか?
>>40
媚びているかは分りませんが、「伊達家文書」より関ヶ原の勝利を祝う
宗薫宛政宗書状 今井宗薫宛伊達政宗書狀
○この文書、紙繼目裏ごとに政宗K印あり、
去月七日之飛脚貴老[ ]間合不申候て、村茂へ書狀共はたし申之由候、以上、
内府樣去月廿七日大坂御入城之由及承、先以飛脚言上候、重而一兩日中以使者可申上候、扨も扨も扨も目出珎重共、中々に不被申候、
天下始り候て、如此早速に日本國中相濟候事、不及承事候、
一 石治、安國、小西、長大被生捕候事、今度無筋謀叛之仕候故、惣蒙~罰、如此及繩之端候事、天道難有存候、
諸國を爲御引候はん由、尤に候尤に候、乍去時刻延候事、危候間、五畿内、洛中、洛外、大坂、堺爲御引被成候者、
早々、五條河原邊に而御成敗候而、首被掛獄門候樣に可然候歟、如何樣身命之有之間、番以下無油斷被仰付候樣、
專一に候倂當座迯候而も、何方へ可參候哉と存候へは、不及御番候歟、
一 此表之義、㝡上中已可相敗候處、此方より、無二に加勢仕、無何事、結句敵陣敗軍剩庄内之者共、悉所々に討果、
やちと申所に殘候庄内物主之分に候下垣右衞門尉と申者も、懇望仕候て罷出、其身は出虫邇闡Oに居申候て、
人衆遣、庄内取可申由申之由候、吉左右追々可申候、
一 去六日よりsへ動仕、得大利申候、樣軆先達具に條々申入候き、㝡上へ人衆遣、又動、其外に人衆悉草臥申候へ共、
内府樣無御下向以前、何とそ支度候、日本之~そ~そ、努々不存油斷候、
一 唯今より申入候、如此天下如思召候上者、世見何之御用心も不入事に候へ共、 内府樣御下向候者、佐竹隱居を江戶へ被引越、
御心安會津へ御調義候樣に、必可被仰上候、うら切なとは、多勢不勢も不入物にて候、御鹽味候樣に可然候、此上者、
佐竹なとへ如何樣之事被仰出候共、勿論不可被背御意候、御下向も候者、宗吞を以可申入候、
一 寒天に候へは、年中も是非一人仕候而も、仙道筋迄申付度候、かゝる御目出度く上に、千万一不慮之凶事候ては、
如何に存、遠慮仕事も候へ共、少々手前之者五百三百討死仕候とも、年中に一途相着度存候存候、
一 今度大坂留守へも、節々人を被指越、ちからを被相付候由、具に申越候、辱なとゝ申事は、世に類多事候、絕言語候、
一兩日中鈴七右爲相上可申候間、其刻萬事可申入候申入候、各へ書狀も、其時可進候進候、
一 去月七日之日付に而、飛脚進候時、貴老へ之書狀屆不申候由、村茂被請取候由、飛脚申候、そもそも貴老へ書狀不進候て、
誰へ可進候哉、非如在候、恐惶謹言、
十月十四日 政宗(花押)
宗椈V
人々御中
個人的には佐竹義重を江戶に引っ越させるよう提案しているのが気になる所です
>>4
直江状に九月十二日石田三成書状だと、どちらがより疑わしいのだろう
>>42
「御鹽味候樣」これ、なんて読むの? >>44
鹽味→塩味(えんみ):いろいろな事情を考慮して物事を処理すること。手加減
裏切りなど出ないようにうまく処理する、ってこと ありがとう、この史料の人、なんでこんなに旧字体に拘るんだろう
当時だと塩が旧字で書かれてるからじゃないの
わからない字があったらその字だけコピペして検索すら出てくるんだしさ
>>44
白峰さんは直江状は容認派で三成書状は否認派だっけ? >>48
白峰氏がどう言う根拠で直江状を容認し、三成書状を否認しているのか
書いてくれないと、考察のしようがないな 上杉を総大将にかつげばよかったのにな毛利とか担いだばっかりにw
交渉ルートの確保すら出来ていない相手を総大将には担げないだろう
>>50
関ヶ原のタイミングだとそれは無理だ
上杉征伐は豊臣政権の指示に従わぬ上杉を政権の名のもとに
家康が代表して諸侯で討伐するって形式を取ってるから(要は政権事業)
上杉に味方するってただの謀反になるぞ
大体毛利が上杉の下につくことを納得するわけがない、立場的にもほぼ同格だし
下手すると毛利が反乱鎮圧と称して宇喜多領に攻め込みかねんぞ 史料スレの方に確かその書状が乗ってたはずだけど、真田に頼むから沼田越しに会津と連絡とらせてくれって頼みこんでましたよね
完全に上杉の問題に乗っかって乱起こしただけで、上杉も寝耳に水でしょうね
東国関連だと佐竹、両軍の書状にちょくちょく名前が出てくるけど、全くどちらの役にも立っていないな
佐竹以外でも毛利、吉川、増田、玄以など西軍は日和見の奴が多いのがなぁ
島津もそんな感じがしないでもないし
>>54
信幸がこちらについてくれると思ってたんだな >>58
信幸が徳川についてるのを昌幸が一切書状で明かさないあたり
表裏比興の面目躍如といった所ですかね まぁ、しかし
かなり行き当たりばったりの挙兵で
上杉的には巻き込まれ事故みたいな扱いだな
>>56
三成失脚後の奉行連中は家康の下で基本仕事こなしているが、
全てにおいて唯々諾々なわけではなく、言うべき事は言っているらしいけどね
その際引用される史料 長府毛利家文書より
宛名欠損毛利輝元書状
猶々、此段者御沙汰有ましく候哉、儀定之趣談合可申候、已上、
爰元之趣、昨日委細申候、其後安國寺大刑少へ被罷越候之處、揄E被羆居、會津への儀、當年者先被指上候やうに、
生雅、中式、長大、コ善、なと談合候て、内府へ○申候由被申通、長老物語候、然者吾々事、先々内證を以、
榊式迄右之趣申候由、揄E、大刑少指圖に候、左候者、我等事も無人之儀候て、遠方之儀候之間不苦候、
一分供可仕之通申候へとの事候、兩人被申儀候条、其上何かと申候儀にては無之候へ共、則榊式迄安國寺、nョ遣候て申候、
式太も煩候て居候へ者、罷出次第慥可申候、いつれも重々吾々へ可有談合なとゝ申たる由候、右之趣乍御存先々申候、
何も○承合追々可申候、恐々謹言、
右馬
卯月廿一日 輝元(花押)
「毛利家文書」から毛利家の戦後処理に関して気になった史料を二つ
井伊直政外二名連署覺書
覺
一 薩摩へ之行付而、廣嶋迄中納言可被致出勢候条、如 太閤樣御置目、路次筋ゥ城へ番手可被入置事、
一 御家中年寄衆、質物可被出事、
一 輝元御内儀、如前々當地上之御屋敷へ可有御移事、
一 薩摩御陳御先へ、輝元御自身可有御出陳事、
一 今度上衆質物、急可被返上事、
右之旨相濟候上、藤七郎殿へ對面可被申由候、以上、
榊原式部太輔
九月晦日 康政(花押)
本多中務太輔
忠勝(花押)
虫ト左衞門大夫殿 井伊兵部少輔
K田甲斐守殿 直政○(墨印)
毛利宗瑞起請文案
○この文書、~文以下は紙背に書せり、
敬白天罸起請文前書之事
一 今度之儀、以御取成身上相澄候段、過分至極に候、殊 内府樣御誓紙被下候儀、身に餘忝候、於子々孫々忘間敷事、
一 以來之儀。諸事ョ存外無他候之条、無御隔心可預御指南事、
一 向後拔公事表裏別心不可在之候、自然虛說等於在之者、可預御尋事、
一 對拙者、向後 内府樣弥無御氣遣御座候之樣に何分にも貴所御指圖次第に可仕候間、御差引ョ存候事、
一 隱密子細被 仰聞儀、少も不可致他言候事、
右條々於僞者、
毛利右馬頭入道
梵天、帝釈釋、四大天王、嚴嶋兩社大明~、杵築大明~、熊野三所權現、住吉大明~、賀茂大明~、春日大明~、
八幡大井、天滿大自在天~可蒙羆御罸者也、仍而起請文如件、
毛利右馬頭入道
慶五十一月五日 宗瑞
井伊侍從殿
生き残りの為にここまで媚びれる輝元は、ある意味強かだな
ある意味というか、輝元はなんやかんや強かさが服着て歩いてるレベルかと、腐っても祖父の影響下にあったというか
まぁ祖父と違って勝てる謀ができないタイプのようですが、生き残るための謀はなかなか
やっちゃダメな事に欲をかいて手を出して、ダメだったら媚び媚びスピード土下座で次の機会を狙うのは東の伊達政宗にも遅れを取らない
>>64
九月の三十日で秀忠に広島行きの提案が出てくるあたり
やはり叱責されたって事は無さそうだな >>67
スライディング土下座だよねw
あそこまでやったならお前も戦わんかいと。 >>71
あそこまでやっておきながら手のひら返して土下座できることが強さだと思いますよ
木っ端武者なら死に華もあるでしょうが
組織の長として、ダメだったら破滅する前に手を引くができるのは才かと
ダメになっても手を引けなくてにっちもさっちも行かずに六条河原に家族と一緒に首が並んだ大名、いっぱいいますから 伊達もそうだけど下手に討伐軍送るよりも土下座に乗じて力を削ぐほうが権力者側は楽だからな
政宗はその後も豊臣徳川に対しての反骨的なエピソードがあるけど輝元は平身低頭になっちゃうから
政宗は家光に気に入られたもの大きいが
>>73
輝元はもんのすごくグレーゾーンな佐野道可事件があるんで、平身低頭どころかまだなんかやる気だった可能性がある
政宗の場合可愛げのあるエピソードで反骨心も微笑ましく見れるけど、輝元の場合可愛げがないんでただただ陰湿なんですよね
最後口封じに家臣が死ぬのが多すぎる 堀の研究で佐野道可事件は白ということに今はなってる
光成準治だと「やっぱなんかやってたらしい」に成ってなかったっけ?>佐野道可事件
二の丸殿寝取り事件の時もそうだけど
輝元は記憶にございません、全ては家臣がまたは奉行が勝手にやった事
を地でやる奴
輝元だけじゃなく後の毛利家もそういう筋立てでこの時期の歴史を編纂したしな。
輝元が馬鹿という事になったものそういう事だし、「馬鹿じゃ毛利家運営できんやろ」という
矛盾をこなすために小早川隆景が超有能にされた。
>>64
もしこの覚書通り薩摩行きを命じられていたら、輝元どうしただろうなぁ? >>72
まあ確かにあんなことになるくらいなら現実的には頭を下げた方がいいわな。当時は本当にクビになるからね。 そういう小細工ができるるなら輝元をはじめ、西軍の連中は、寝返り工作とかそういった方面にもっと力を入れたら良かったのに
西軍は会津征伐に向かう小早川鍋島長宗我部脇坂前田玄以息子をごっそり取り込んだじゃないか
西国にいた会津征伐に向かう諸将の殆ど取り込めたっての割とすごい謀略だよね、負けたからか凄さの印象あんまりないけど
強引に取り込んだものの当然従わない輩も早々に出てくるわな
脇坂淡路守安元宛徳川家康書状(脇坂家文書)
山岡道阿弥所へ之書状披見、懇意之趣祝着候、
就上方忩劇、従路次被罷帰之由尤候、弥父子有相談、堅固之手置肝要候、
近日令上洛之条、於拙子者可御心安候、猶城織部佑可申候条、令省略候、恐々謹言、
八月朔日 家康(花押)
脇坂淡路守殿
>>84
序盤はめっちゃ順調なのよね。瀬田で決戦とかいってたのにあれよあれよという間に尾張伊勢まで戦線拡大出来てる >>86
そこまで順調に推移したのを見せつけて
それでもすでに徳川と合流した諸将が殆ど離反しなかったの
完全に普段の信用の積み重ねの差だなーと
お手紙攻勢みたいに言われるけど、徳川って別段勧誘してる書状ないんですよね つか結局、状況がどうなってるか解らずとりあえず西軍指導部に従うしかない状況の時は順調に見えて、
徐々に諸大名にも状況が見え始めると表向きだけ従うようになってる。西軍の正当性はみんな疑問に思っていたって
事だ、
>>87
残ってる書状は返書が多いから家康が働きかけてるというより諸将が家康に相談しにいってる感じよね ついこの間まで秀吉の権威をかさに傍若無人な振る舞いをしていた奉行たちが
「家康の行いは傍若無人で許せない!」
て騒いでも、さすがに聞いてる方は冷めるでしょうね
言う方は自分たちは秀吉の命令に従っていただけだって自己正当化してるだろうけど
>>87
コ川ではないけど黒田が北政所の名前を使ってまで
小早川を勧誘しているね 出雲桑原文書より
小早川秀秋宛浅野幸長黒田長政書状
尚々急ぎ御忠節尤に候、以上、
先書に雖申入候、重而山道阿彌所ゟ兩人遣之候條、到啓上候、貴樣何方に御座候とも、此度御忠節肝要候、
二三日中に内府公御著に候條、その以前に御分別此處候、政所樣へ相つゝき御馳走不申候ては、不叶兩人に候間、
子此候、早々返事示待候、委敷は口上に可得御意候、恐惶謹言
八月廿八日
淺野左京太夫(花押)
K田甲斐守 (花押)
筑前中納言様
人々御中
>>91
それ以前に豊臣政権の所謂「際限なき軍役」にかなりの大名が
かなり嫌気が差していたんじゃないかな >>92
黒田浅野が思いついての勧誘なのか、指示があったのか
どっちなんでしょうね >>94
あれをやった時点で秀吉そのものが緒大名に嫌われてしまった。
石田三成はいわばボウズのけさだった。 軍役の負担に相応の見返りがあるなら求心力は落ちないでしょ
本心はどうであれそれをやろうとしていた家康を咎めれば反感を買うのも無理はない
しかも奉行の派閥仲間は唐入りで加増してもらってるとなれば
堀からの上杉やべーよって訴えを受けての行動だしね
実際越後に上杉家臣残していくわ城作り出すわでお前攻める気満々やろみたいな状態だったわけで
これで会津征伐批判するってのは、我々は諸侯を守る気ないですっていう宣言だし、そりゃ諸侯も寝言は寝て言えでしかないわ
既に庄内の乱という前例があるし、春まで待つ気は無い
>>89
毛利勢は岐阜城が落ちて家康が赤坂に着陣したことで怖じけづいたんだよな。 西軍の士気向上を狙った杭瀬川の戦いって本当にあったのかな?
>>101
高橋陽介氏は杭瀬川の戦いに該当する一次史料はなかったとしてたかな 白峰氏は山田晏斎覚書にある9月14日に石田方が赤坂の敵軍に掛かって30人を討ち取った
って記述が杭瀬川の戦いに関する事なのかもって言ってるね
断定はしてないけど
>>84
順調だった所為か逆に戦線を広げ過ぎた感じがある
しかも短期落城を狙ったんだろうけど、田辺や大津などの城に
兵を割きすぎたしなぁ 東軍の幽斎は朝廷を動かしたけど、西軍は朝廷も豊臣家も動かせなかったからな
>>104
主要なところで北陸、伊勢、美濃か、その他毛利が西国に手を出しているし、加えて大津、田辺と兵がいくら居ても足らんね >>105
どういった経由で島津が書状を手に入れたかは分りませんが
島津家文書より田辺城攻めの際の幽斎の書状 長岡玄旨書狀案
去廿七日之御折帋、今日二日令披見候、世上之事、不慮共不存、今更申談も事旧候へ共、 信長御代、 大閤樣御時、
似相之致忠節候、至近年御懇之事、既奉對 秀ョ樣、何以可致疎略候哉、今度越中關東出陣之段、内府世間爲御後見之条、
是又奉公に罷出候處、案外體に候、一兩日已前、從八条殿御使節、則コ善院案内者相添下候刻、古今集相傳之箱、
證明狀幷一首、
いにしへも今も替らぬ世中に心の程をのこすことのは
此短册幷源氏抄箱一、廿一代集、
禁裏樣進上候、此外知音之衆へ草帋一二帖上候、存殘事無之、令滿足候、只今手前之儀候間、兔角難申候、連〻被懸御目候、
御殘多候、御奉行衆へも此通被仰上候て可給候、恐〻謹言、
九月二日 玄旨判
東条紀伊守殿
山田勘左衞門尉殿
三好助兵衞尉殿
御返報
>>109
まぁ時々何故この書状がこの家にっていうのはあるなぁ そういうのがあるから史料探しは楽しんですけど
と言うわけで気になった史料を三点程
上杉家御年譜より
利家奉行宛家康書状
家康書狀寫
一 家康異心有之歟之由已前預御斷候承屆於其證人急度可遂僉議事、
一 去年七月十六日之夜半下騷動之儀其濫觴者石田治部少輔大野修理亮此兩人取入武具於居宅依被集
家人奉行人幷近臣之家々集兵被取入兵具之条何樣謀叛人有之哉之由疑之騷動其證拠分明候得者
於僉議者尤可出證人是等者有何用調兵具集兵世上被令騷動候哉可哉其子細事、
一 今度大名屋敷替之事太閤之御遺言不承之又天下大小事家康承之成敗可仕之旨御遺言之處
一言無其屆屋敷改替之事誰人之御差圖候哉自由之仂秀ョ卿到蔑如之罪科不輕候其張夲人可承事、
慶長四年正月廿五日 家康
加賀大納言殿
淺野彈正少弼殿
搏c右衞門尉殿
石田治部少輔殿
大谷刑部少輔殿
長束大藏大輔殿
長府毛利家文書より
返々、太閤樣被仰置と候ても、敕諚を御違背之段者、非御夲意之由、家康被申之由候、何もかやうの妨を申人在之由候条、
此節可相究之由、堅被申候て相聞之候、爲御心得候、火中、
急度申候、今月七日、内府大坂へ被罷下候、其題目者、
一 中納言殿女中江戶へ指下、一所に候やうに在度之通言上候、自然別腹に子供出來候へは氣のさゝはりに已來罷成儀候条、
是非右之女中御下候やうにとの家康被申事候つる、夛分秀ョ様御袋様、此中者御分別候つる、何と共候哉、
此節御下有間敷之由 御意之段、於家康外實無曲次苐候、内々申妨仁在之由、承及候条、
是非申○被仰聞候やうにと○御存分被申之由候、
一 當今樣當春御隱居被成、近衛殿御腹王子に御代を御相續有度之由敕諚候所に、中山殿御腹王子に御相續之通
太閤樣被仰置候之条無御分別之通被仰切候事、更無曲次苐之由、家康達而被申之由候、
一 東國衆之儀者在大坂、西國衆之儀者在伏見と太閤樣御置目候之處、備前中納言殿在大坂之段、更不及分別之由、
家康堅被申上之由候、備前中納言之儀者、在伏見に大かた澄候由候、其外之儀者未相聞之候、
家康人數追々大坂へ被指下候、家康事者、石杢丸に一昨日より被羆居之由候、右三ヶ条之辻、如何可相澄候哉、
いつれも趣追々可申候、其元之儀御隙も可入候へ共、少々之儀者被閣、御上可然候、かやう申候とても、
事々敷御上りは在ましく候、爲御心得候、恐々謹言、
九月十三日 右馬頭
輝元(花押)
秀元 進之候、
坂田家文書より
年次不明浅野幸長書状
五月十八日之御書、同廿二日至伏見到來忝拜見仕候、竝町野左近書中被下。具致披見候、
一 會津より伊奈圖書江罷上樣子聞江、内府樣彌御機嫌惡御出陣に相定、六月十六日大坂可被成御立旨、被仰候事、
一 奉行衆に被仰付、圖書罷上者早道候はゝ、去廿三日會津被遣候樣子之儀、景勝七月中に伏見迄罷上、
八月朔日に 秀ョ樣へ御禮可申上、竝直江妻子六月廿日江戶へ可相越候、尤於相違者急度可有御仂との帋面見御座候、
此御返事に者無御構、有無に江戶迄は被成御下國、景勝於罷上者武藏樣被召連御上洛與、
内府樣者於江戶御年とられ來春可有御上洛由候事、
一 昨今之軆は御出陣に相究申候、何も兵粮用立に與遣候間、可被成其御心得候、竹腰新藏おふす山之御筭用之儀被仰下候、
新藏只今は江州に居申候間、召寄八嶋に申付筭用相聞、米何程御座候與書付、急度可致進上候事、
一 濃州御代官所殘米千石御座候間、川舩へ出し江戶へ相廻申候事、
一 秀ョ樣御袋様より、内府樣御下候儀御留有度と御奉行衆爲御使就被仰付候、
内府樣へ奉行衆被參候へは御機嫌惡被成于今不被申出候○○○政所樣明廿七日○○○ 秀ョ樣爲御見廻大坂へ被成御下候はゝ、
是も御内儀者内府樣御留有度由にとの御下と申候事、
一 石治少子息隼人出陣に候へき者、此間爲何儀に候哉ん、佐和山騷申に付、治少者罷立候樣にと此程被仰出之由候事、
一 北國之儀彌相濟、御袋竝山大膳、前野對馬、山崎七衞門、土方但馬人貭江戶へはや御下し候、肥前殿御内加賀殿、
孫四郎殿は北國へ御下候、有之しまつも相濟申爲御禮五三日已前山大膳、土方但馬罷上候事、
一 中式少御煩未然共、無之候へは爰元候は萬事氣つまりに候之条下國候也、可有御養生候て御暇して、
去廿四日御下し御座候事、
一 我等儀一昨日内府樣へ罷出候處、手先之儀候之条、急度罷下用立可仕旨被仰出候間、來月十日頃に大坂を罷立可申と存候間、
頓而不着仕可申と何分可令得御意候、恐惶謹言、
淺左京
彈正様
そう言えば史料の人が出典書くようになった為か、文句つける人来なくなったな
訳張れってのは意味不明だったけど
出典書けは実際に書かれれば要望叶ったんだし文句もつかないでしょ
出典は本から書き写しているなら、その本の名前を書くべきだけどね。
本というのは現代の刊行本か?
もしそうなら難癖というより馬鹿じゃないか
>>11
意訳だと研究者の間でも同じ書状で解釈が違ったりする場合があったりするからなぁ