87年夏の両国のジュニアトーナメントの顔触れは豪華だったな
IWGPのころ、カールゴッチ杯を復活させるとかいう話が出たらしいけど、
83年だと「若手」枠は五人だけだったんだよな。高田、新倉、山崎、小杉、後藤。
ここに出戻りの仲野、デビュー前の佐野、山田、畑を加えて9人か。
85年には若手の底上げの必要からヤングライオン杯が出来たけど、
大量離脱や高田大抜擢以前の若手勢だったらどんなリーグ戦になったか。
まあ高田が優勝だったことは間違いない。
>>3
>>6
翌年の新春シリーズでやったトップ・オブ・ザ・スーパージュニアのが豪華じゃない?
越中、高田、山崎、小林、ヒロ、山田、保永、後藤、船木、馳、Oハート、セントクレアー。 >>6
88年の第1回TOSJは更に豪華だったな
越中、馳、オーエンハート、セントクレアーが追加された >>6
いや、越中が返上したから、この王座争奪トーナメントが
開催されたわけだが、、
第一戦は生観戦した。
小林と、まだ前座の船木の試合を印象に残っている。 >>10
> 越中が返上したから、この王座争奪トーナメントが
それくらい知ってるよ
そのトーナメントに越中も参加予定だったけど怪我が直らず直前で後藤に代わったんだよ
パンフレット見ればギリギリなのが分かるだろ
>>8>>9
1秒差で同じ内容の書き込みが。凄いw >>8
保永が負傷で参加できなかったのは残念だった… 現在から見れば豪華だけど、当時は地味でがっかりリーグ戦という印象だった
>>15
タイガーがいなくなってから、ライガー佐野時代までの谷間は
数の多さで補ってたような面があったな。 BOSJはシリーズ名になったが、TOSJはシリーズ名にならなかったな。
山田はマスクマン志望で実際になって大成功したけど、あの苦しそうなマスクと全身コスでよく30年やりきったな
>>15
四年前のWWFジュニアリーグ戦が既に伝説だってたからな
あれと比べたらやはりどうしてもって 初代タイガーがいた頃にジュニアのリーグ戦見たかったな。タイガーの全勝優勝だったかもしれないけど。
>>20
1984年に佐山が全日に行ってたら
馬場はジュニアでリーグ戦かトーナメントを企画してたらしいよね
ただし、参加メンバーは
大仁田・井上・越中・園田・チャボ・セブン・隼人・三沢・川田…あたりか?
うーん…微妙なメンツだ。 放送日です
<BSフジサタデースペシャル>『クイズ!脳ベルSHOW特別編 脳ベルプロレスリング』
豪華レジェンドレスラー大集結
2021年2月27日(土) 19:00〜20:55
>>16
ジュニア版名勝負数え歌が谷間でライガー佐野が山という評価が分からん >>23
IWGPのタッグもジュニアもUWFとの抗争で最初の権威を作ったんだよな 佐山タイガー離脱後、ジョージがコブラでコケて、キッドとスミスが人気が出た事で
ブラックタイガーを踏み台にして二人を売り出そうとしたらミスターヒトに掻っ攫われた
コブラ、ブラック、ヒロ斎藤で人気が出る訳ない
>>25
その前にようやく人気が出てきた高田にUWFに走られてるし 高田は残ってたらエース級になってたんじゃないかな
Uでも成功はしたけど
>>27
まずは札幌でのキッド戦が流れたのが惜しい 高田はタイガーマスク引退で抜擢が早まったと思うけど、もしタイガーマスクが続けてたら
若手としてもっとじっくり前座が続いたのだろうか
>>29
タイガーがいたころ、かなり末期だけど
最後の寺西戦の前後、外国でフィッシュマンとの試合が放映された時
若手の高田が番組内で特別に扱われたような記憶がある
他にもヒロ斎藤とかの試合も中継してたけど、高田はちょっと扱いが違ったような…
1983年夏の時点では少なくとも1若手という段階から脱却しつつあった気がするけど?
まあ、ギリでタイガーがいたころだけどね。 タイガー引退後すぐの新日カルガリー遠征に高田も連れて行ってなかったっけ?
高田がカルガリーでアーサーフォーリーとやったのは83年末だったかな?
確か高田vs山アの前座試合がTV放送されたような…。それとインパクト的には週プロで掲載された試合中に猪木が入ってきてビンタをされた写真は記憶に残ってますね。
>>24
相変わらず新日が捏造したベルトで藤波・木村組で試合内容も相手もぱっとしなかった
WWFインタータッグに比べIWGPタッグは前田・高田対越中・武藤組のベルト争奪戦は
連日の激しい好試合が権威を高めていった。
>>20>>23
高田に次ぎにくらいに女性人気も高かった。
試合寸前に猪木のパートナーにアクシデントがあってセコンドから突然、猪木に
タッグパートナーに任命されて緊張で顔面蒼白に高田を試合前に猪木が張り手を
入れた試合があった。TV放送もあったカルガリーだったかな? クーデターなかったら正規軍前田高田と維新軍平田ヒロの抗争あったのだろうか?
>>31
せっかくそこまでやったのにリーグ公式戦は全てノーテレビだったんだよな
せめて柳川でのタッグマッチでコブラと組ませて欲しかった >>33
初防衛戦の相手がエリック兄弟でまさにWWFインタータッグからの引き継ぎという感じだったな
そして最初のトピックはやはり木戸の初戴冠か
そうか、木戸は孤高の格闘者≠セったのか
高田は若・・・何て呼ばれてたんだろう 高田山崎戦がテレビに出たのはタイガー引退後のブラディ開幕戦。
そのシリーズでは前田の代役に藤波のパートナーとして長州カーン組と対決している。
>>33
>試合前に猪木が張り手を
それが>>41に書かれてる試合だと思うが、もとは藤波・前田vs長州・カーンだったのを、
前田が試合前に維新軍に襲撃され戦闘不能に、そこで高田が代わって藤波のパートナーになったというヤツ。
もちろん高田がいくら頑張ってもカーンは余裕の表情で受け切って、
最後は長州のラリアットであえなく高田が沈むわけだが。 >>42
そしてその後に唐突に、木村・藤原対マードック・アレン。
殺伐とした空気が健吾のビューティフルフライトでほんわかムードに。
加えて、突然の藤原の登場に違和感も、石頭で試合を組み立て沸かせる沸かせる。
この試合だけ異次元空間だったな。 >>43
第七試合 藤波・前田vs長州・カーン
第八試合 木村・藤原vsマードック・アレン
普通に考えると逆だよなw >>39
スミルノフが新日へきてたのか、、、
国際がまだ潰れる前だよな 昭和の新日のポスター作ったヤツ
最低限の技術持ってないヤツだな….
とにかく微妙にレスラーの大きさが違うの何でなんだよ
揃えたいならちゃんと揃えろや!
迫力出したいならもっと極端に大きさ変えるのが鉄則なのに
中卒で印刷屋入ったんか?今更だけどww
>>46
は?国際が潰れる前に第一次UWFが崩壊したの? >>43
今晩 ベイダー登場の
両国事件のやつ
テレビでやるの? >>44
普通に考えて違和感しかないカードだな。健悟がメッチャ浮いてるのが目に浮かぶようだ。
健悟マードックvs組長アレンのほうが違和感ない。 >>50
今だからそう思えるだけで
当時は藤原がめっちゃ浮いてると思えたカードだぞ。 なんかケビン・フォン・エリックの扱いが不思議な感じのシリーズ
猪木が武藤ボコボコにした試合で組んでたり
>>50は若い人かな。
まさに>>52のとおり、当時の藤原は前座の人だよ。
坂口・木村が普通にあるカードで、藤原がセミファイナルって83年ならあり得ない。
当時の中堅勢でテレビマッチの第七試合以降に出るのは星野と木戸くらいのもの。
旗揚げ初期の頃はセミかセミ前が定位置、日程によってはメイン抜擢もあった木戸修が
77年の時点ではもう前座に追いやられている。
日プロ出戻りの坂口や星野、元国際のエースストロング小林の移籍で
必要なくなったとはいえ… >>56
第1試合が素晴らしいな。前座からの信頼関係があるからこそ、名勝負になったんだろうな。 >>39
ホールとブルックスが入ってないね
写真が間に合わなかったのかな… >>53
ケビンは途中参戦で、
木戸・高田対ケビン・セントクレアー
木戸対ケビン(生中継)
木村・蝶野対ケビン・セントクレアー
で毎週テレビに登場。
但し、藤波、前田の欠場と、長州軍団テレビNGのタナボタによるもの。 87年のIWGPの外人はホントに酷すぎる。
通常のシリーズ以下。
>>44
テレビ放送の頭で、視聴者をつかむためだよ。
それまではオープニングはタイガー、メインは猪木。
タイガーがいなくなってからは、藤波や長州などなるべくインパクトのある試合が最初。
札幌テロリストも、当日になって試合順が変わってる。 87年IWGPは武藤を公式戦に出してたら
一味違ってたかもなあ
猪木の被害妄想だよ映画当たってないだろ
ムタがベビーターンしてアメリカ人に受けてメイン張る方がよっぽど人生変わると思う
あらためて見たが
酷いもんんだ 海賊男の意味不明な行動
チケット買った客が 可愛そう
>>43
あの試合、日本人対外国人によるお手本のようなタッグマッチだったよ >>53
猪木・ケビンvs武藤・木村は前年の11月で、このシリーズじゃないよ。 >>64
最初は前田に話しが来た。ただ監督が凝り性で何度もダメ出しを出された武藤が
「前田さんだったブチ切れていた!」と前田とのトークで話していた。 (武藤敬司)いや、この監督もクレイジーだったっすよ。
まだ覚えているんですけど、「俺の嫁になってくれねえか?」っていうセリフがあるんだけど。
「お前、それなっていない!」っていうことで。
街の普通に歩いている人に、俺、こうやって肩を叩いて。
「俺の嫁になってくれねえか?」って、いろんな人に何十人も(声をかける)。
それを知らない人にやらされたんですよ。
(室井佑月)ええーっ!
(宇多丸)アハハハハッ!
(阿部哲子)演技指導(笑)。
(宇多丸)もうパワハラ(笑)。
あの時武藤と共演したのが後のマンディ満ちるだっけ?
光る女メイキング映像
演技とはなんですかと聞かれた武藤が段取りでしょとつまらなそうに答えていた
マラソン日本最高記録 鈴木健吾 愛媛県出身
名前、絶対に地元のヒーロー、木村健吾にちなんで健吾って名付けただろ
武藤は光る女の宣伝でいいともに出たが新宿・銀座を何回も連呼してタモリが半ば呆れて
いた。
1995年生まれの男子に、木村健吾にちなんで名付けるわけがないだろw
わからんぞ
父親が高校生時代に健吾最盛期(85年)で大ファンだったかもしれん
スポーツもプロレスも強い奴ばかりが人気出る世界ではない
白鵬よりキセブタのほうが人気あったしSBより虚塵のほうが客入るだろ
いくらなんでも木村健吾や谷津嘉章とかはないだろ。
まだ木戸修ならわかる気がする。
そうはいっても健吾って意外とファン多かったぞ
無様な負け方が一種の判官びいきになってたんだよ
ジョニーデファジオが亡くなったそうだが、藤波やタイガーマスクのWWFジュニア戦で必ず古舘アナが
「デファジオ・メモリアル」って言ってたから嫌でも名前を覚えたなあ。
って名前だけやたら聞いて、試合はおろか顔すらいまだに見たことない選手ですわw
>>86
インター王座はロッカメモリアルだったんだよな >>86
ググったらデファジオからエストラーダの王座遍歴が不明で苦笑い
新日の政治力でドラゴンをスターに仕立て上げるためのでっち上げベルトだったのか
健吾兄さんはそんな権力とは無縁でNWA世界ライトヘビー級王者になったのに
新日はまったくプッシュしてくれなくて可哀想 >>11
初日の両国のセミは、田vs山田だと思ってたが
こんな糞カードをセミにしてたんだなwww
けど、何故このカードをセミに持って来たんだ?
86年12月の両国のタッグリーグ決勝戦のセミが
藤波武藤vsナガサキポーゴだった事があったけど
この時はセミ前に前田組とマードック組の決勝進出チーム決定戦が組まれてたから
セミに決勝進出チームを休ませる為の試合で藤波組とナザサキ組の
試合を組んだのは理解出来るけど、
初日の両国のセミにこのカードを組んだ意味が分からん >>73
映画初出演の当時19歳の斉藤由貴に対して
斉藤の泣く演技が気に入らなかった相米監督は
撮影を中断して斉藤に相撲のシコを踏めと指示
戸惑いながらもシコを踏む斉藤
次に、ここでパンツ脱いで小便しろと指示
斉藤は泣き出して「そんな事出来ません」と号泣しながら抗議
それを見た相米監督は「ちゃと泣けるじゃないか」と言って
「よし、撮影再開するぞ」と言ってカメラを回した ジョー・ディファジオは、野球のジョー・ディマジオと間違えやすい。
>>78
日本記録出した時の第一声が「やったぁ〜っ!!」でも「イナズマ!」でもないので可能性は低いが、次のレースで鉄の棒を仕込んだイナズマ入りリストバンドとかしてくるかも知れないのでまだ分からないな。 >>85
勝つ人はほんの一握りで、大半は負け組だからな。でも負け組の大半は健悟を馬鹿にする事が多い >>95
缶詰めは「缶に詰める」だから【づ】だけど、稲妻の場合はどっちもありだったかと。 >>97
稲妻なんだから、ツマだろ?妻をスマなんて読むか? 80年代の中頃、会場で選手のポスター買えば、その場でサインしてくれる時があった。
前田なんかは、やっつけ仕事丸出しで愛想もクソもなかったが
キムケンはサインの後、一人一人に声掛けて握手してくれた。
オレも大半のファンと同じくキムケン馬鹿にしてたが、
ポスター買った時には不覚にも感激してしまった。
それ以来オレはキムケンのファンだ。
>>88
新間が全日を「いたずらにベルトを粗製濫造して・・・」と批判すると馬場が自著で
「WWFインターコンチネンタルがあるのにインターを作って粗製濫造はどっちなんだ!」
と激怒していた。全日は創立以来、誕生させたのはPWFシングルとタッグくらいであと
日プロ時代からの歴史あるベルトだけど粗製濫造は新日は方がかなり多いね。 もうだめなんだろうな。
自身であの状態を公開するのは凄い。
スレチかも知れんけど、猪木の娘(母は倍賞美津子)と義息子(サイモン)と
最近亡くなった嫁との間に出来た息子(三十路過ぎ)って、今何してるの?
猪木はマスターズに上がった時も辛そうだったのに1年であんなにも変わるとわね
今の映像見るとマスターズの時がすげー元気そうにみえちゃうもんな
>>104
息子って最近亡くなった人の子供じゃなくて、その前の元ホステスの人の子供のはず IWGPの統一、このスレにいる人にとっては一番キツい…かも
全日の三冠と一見同じようだが、三冠は称号だけで実質は三本のベルトを王者が携えて入場してきた
今回のはどうなんだろう、新ベルトにしか思えないんだけど…
まあ三冠も馬場家に数年前に変換されたけど、なんか今回の新日のは全日の時と違和感を感じる
>>106
1990年12月1日の「平和の祭典」でバグダッド入りするときの空港でその奥さんと赤ちゃん3人で写真に収まっていた。
22歳年下の容姿端麗な人だった記憶がある。そうか、あの時の赤ちゃんがもう三十路過ぎか・・・ >>107
今までもグレーテスト18や復活NWFを統一戦の後封印してるから、またか…といった感じ >>107
IWGPヘビー級選手権の初代王者をアントニオ猪木にした時点で権威も何もあるかって感じ。
初代王者はハルク・ホーガンだろ。 >>104
アメリカ人女性→女の子(その後直ぐ死亡)
倍賞美律子→寛子
尚美夫人→男の子
橋本ズッコ→子供無し
上記見てもズッコだけは違和感持ってしまう >>101
あと「世界ジュニア」も全日が作ったと思うがな。
もとが「インタージュニア」だというなら
PWFも、もとは「力道山のインターベルト」だし。
まぁ、とにかく新日がタイトルを多く作ったことには異存はないよ。(苦笑) >>88
>デファジオからエストラーダの王座遍歴が不明
1960年代後半、ジョニーデファジオという選手を
売り出すためにWWWFジュニア王者に認定し
彼がフェードアウトしたら、そのタイトルに見合う
ジュニアの選手がいないので自然消滅していたんだろ?
IWGP、U-30みたいなものだな。 >>110
あ、あくまでリーグ戦の初代優勝者であって
タイトル化したときの初代王者はモゴモゴ 現時点での最高権威のベルトの決定戦が外様の飯伏とジュニアの冷や飯喰らいデスペの間で行われるのは不穏
>>113
デ=ファジオは地元ピッツバーグ周辺で試合していたローカルレスラー
ピッツバーグ周辺ではご当地レスラーで人気があったのでジュニアヘビー級チャンピオンとしていた
すげぇや、こんな認定証が存在していたなんて 認定証で思い出したがMSGタッグとかの優勝賞金の額って
どうやって決めてたんだろうな
全日の最強タッグと同額みたいな取り決めが密かに両団体間で交わされてたりして
>>119
全日本のアンコ型揃いとの対比が凄い
新間は柔道とボディビルの経験があるって
田中ケロも若い時は結構な体格だったね
しょっぱい体のイメージの藤原ですらいい体だから猪木が橋本を認めなかったのは納得がいく 闘魂スペシャルにケロがトレーニングしてる写真が掲載されたことがあったな
やはりレスラーの乱闘に巻き込まれるから体は相当鍛えてないと務まらんだろう
外人控室でベンチプレスやってたらアドニスに絡まれてチョップされたとかケロ自身も書いてたっけ
>>112
作るのは結構だが短期間で消えるのも多いし
まあアジアタッグは本家復活を促してくれたから感謝だが >>117
タイガーマスクが負けるわけないじゃん!と思いつつ当時はハラハラしたもんだw 新日版アジアってシングルもタッグもいつも坂口が酷い目にあってたイメージしかない
>>120
いくらでも高額にできるだろうけど、それなり相場はあるだろ
一億とかだと不自然だろうしやはり一千万あたりか シンのやられ役と言えば坂口だよな。北米ヘビーなんかシンのコブラクローでフォール負けし
王座陥落したのに、リターンマッチすら組まれず他の北米ヘビーをパターソンから取って、
シンが奪った方のベルトは防衛戦すら行われずに、なきものにされてしまった。
まあ坂口がシンを破ってベルトを奪い返す、なんて想像すらできないから仕方ないが。
大塚営業部長の「シンかアンドレが出ないシリーズは興行の買い手が付きやすい」という証言からも
シンの集客力は相当なモノだったことがわかる、間違っても坂口にシングルでは負けさせられないだろう
シンのやられ役と言ったら
かませ犬時代の長州だろ!
まっ かませ犬卒業しても全日でピン取れなかったけど
>>112
NWA反主流派のエディグラハムと新日が組んで作ったジュニアのベルトが、
その後は全日の看板タイトルになるなんて不思議な感じがするよね。
批判していたはずのNWA本家ジュニアのベルトはソントンが新日に持ち込んで、
絶頂期のタイガーマスクが巻いて新日黄金時代に貢献したりとか。 >>131
その後グラハムが全日本寄りになったのと関係ありそう >>129
長州はハンセンのやられ役や、ラリアットくらいまくったな シンにやられまくったのはS小林って思い出がある
北米タッグも小林がシン上田にボコボコにされフォール負け、その後小林は長期欠場に追い込まれた。
のちの長州、吉田光雄凱旋帰国はその次のシリーズだった。
長州が坂口のパートナーに抜擢されてタッグ王者になったのは、浜口が草津のパートナーに抜擢され
タッグ王者になったのと似ているな。草津は年がら年中坂口に間違われていたのもあるし。
>>134
タッグはいつも小林がやられ役だよ。シンの強さを見せつけるためには猪木以外相手の
シングル戦が有効で、そこで坂口がフォール負けしてしまうことにインパクトがあった。 >>133
同じハンセンのやられ役でも、長州と阿修羅原では受け方の豪快さが違うよね
原は食らった後に後頭部から倒れる感じ、長州も確かにぶっとばされたが背中から倒れてたし
あくまで見た目だけど、原の方がやられ方に迫力がある
新日ファンの友達は「全日系は弱いから、あんな手酷いやられ方をする」とか言ってたけど… 長州は全日でもハンセンにオドオドしたが
原は龍原砲でハンセンと堂々たる闘い
とくにデビアスをボコボコにした
>>136
子供時代に観ていた三本柱のイメージでは
猪木坂口のタッグだと技とスピードの猪木に
パワーとデカくて頑丈な坂口の組み合わせには坂口に頼りがいを感じてたけど
猪木小林や坂口小林だと
小林がパワーはあっても脆くて打たれ弱くて
おまけに相手コーナーに向かって助走してのアトミックドロップとかで
せっかくのチャンスを逃げられたりととにかく歯痒かった印象
これがTV点けると猪木のパートナーが星野とかだと
「あーあ、こんなん絶対星野がやられるやん
なんでいつも坂口と組んでやらないんだよ…」
と真剣に思っていたガキの頃 中堅時代のころの長州がアンドレにブレーンバスターで叩きつけられてたのが印象深い。
正に古舘の言うところの二階からのブレーンバスターだった。
この頃はアンドレも投げ技よくやってたんだよな。MSGでカーンにかんぬきスープレックスやってたし。
もっと昔はダブルアームスープレックスもやってた。
アンドレはとにかく巧いからな
ロープに両腕絡ませるムーヴとか絶品
ハンセンのラリアート喰らって場外吹っ飛んでみたり
>>121
橋本の体ってそんなに駄目かな?
それこそ鶴田なんかと違って、もっさりしてないで動けるし。
と、釣り針をおろしておく。 >>120
そーいや最強タッグなんかで優勝賞金1000万とかあるが、あれ、結局は山分けなんだろうか。
普通にギャラ配分とか考えればどうせブック通りの優勝なんだし。 >>143
山分けも何もそもそも用意なんかしてないような気もするけど
アンドレが人格者で、恩威ある国際プロレスに破格の安いギャラで試合してたなんて事実を知らず
傲慢で乱暴なイメージのアンドレしか知らなかった頃は、優勝賞金を山分けなんてあり得ない
レネグレイの分まで総獲りしたに違いないと当時は思ってたものだ 最強タッグは、あのデカい小切手パネルが優勝賞品で
現金1000万て訳じゃない。
橋本がG1の優勝賞金のデカい小切手を銀行で換金する為、自分の車に積もうと四苦八苦したってエピソードがあるね
他の選手は廻りで笑いを我慢してたらしい
>>137
いくら何でも原だけ取り上げて全日新日比較にもっていくのは
ムリありすぎだろ
新日は本尊の猪木が凄い勢いで突っ込んでラリアートを食らうと
脚を上空に振り上げて後頭部から落ちていたものだけど、馬場は
スピードを殺しながら喰らって尻から座り込むといわれていたし、
ハンセンが乗り込んだシリーズでは大熊がラリアートを怖がって
手を上げてしまって脇の下に食らっていた
またデラプロとかはその写真を堂々と誌面に上げていたからなあ >>146
グレイよりも前年組んだハングマンの方が断然強そうに見えたんだがな。 実際にグレイとハングマンが対戦したらハングマンが勝つだろうな
あのアンドレ優勝はグレイの頭脳プレーでアンドレが本領を200%発揮したと解釈した
第四回の“タッグの魔手”スウェード・ハンセンもその手腕でアンドレ組を一位に押し上げたということに
80年第1回の時もグレイがおまけで来ていて(アンドレ組のマネージャー扱いか?)、
試合もこなしてたっけ。ちらっと映ってた記憶があって当時は「誰?このオッサン」状態だった。
ニワカだけど長州さんのマイクパフォーマンスは1982年11月4日蔵前が初めて?
>>153
なにいってんだお前?
「強そう」だし「勝つブック」だって前提で話してんだけど?
俺はグレイやハンセンが頭脳プレーでアンドレを動かして躍進したと思ってた、って言ってんの。 レネ・グレイvsハングマンvsスゥェード・ハンセンの巴戦
誰が得する試合か分からんけど、ネタとしては面白い
レネ・グレイは「アンドレの頭脳」と称されてて
いくら何でもアンドレに失礼だと思ったわ
相手が ハンセン ホーガンでも
ハングマンやられなかったけど
いよいよ
ハングマンの正体はハングマンだろ?質問がおかしい、本名はネイルグアイだが。
スーパーデストロイヤーの正体は誰?って聞くのならわかるが。
>>155
その一か月前の10月8日後楽園ホールでのかませ犬発言が初めてだけど、
中継が終わってからだったから、テレビで映ったのは11月4日が初めてと
言えるかもしれない。 >>162
77年にハンセンとよくタッグ組んでた覆面レスラーと混同しているのでは? カネック・マキナもカネック・アグアヨもグレイを狙えばもしかして勝機あるかな?とか当時期待したなあ
>>131
グラハムは反主流派どころか
当時もっとも多くNWA世界戦を開催してたプロモーターだぞ
マクマホンシニアもNWA世界王座管理委員長だったし
新日よりのプロモーターで本当に反主流派だったのはマソニックとの
権力争いに負けて副会長を罷免されたラベールくらい >>164
偽スーパーデストやタワーリングインフェルノだけでなく
77年にハンセンやマリガンと来た時はハングマン名義で覆面かぶってたから
ややこしいんだよw
161はその後に素顔で来てるのを知らんかったのでは(まずありえんがw) >>151
一度、引退しているはず・・・
WWFではゴッチパートナーにタッグ王者になっている。
リング上でアンドレとグレイがお互いに指示を出し合うとフランス語なので全く
わからないと小鉄が解説でコメントしていた。 >>165
リング上でのマイクでかませ犬発言はしてないのでは? >>171
主流派、反主流派と分けて報道してたのは日本のプロレスマスコミだけ
NWA内やレスラー間でそんな分け方をしてなかった >>176
ただ王者の派遣回数絞られたり交流ではぶられたりと疎外され気味の
メンバーはいた
筆頭は王者を派遣すらしてもらえなかった新日だが、逆に一番大手の
マクマホンと提携してたので一時は全日にも勝る外人陣容を誇れた >>171
前号のGスピのNWA特集はとても刺激的だった
ラリー・マティシックが著書で書いてるそうだけど、79〜81年にレイスが
ローデス、馬場、リッチに「その地区のサーキット初期に負けて最終日頃に
取り返すNWA王座のキャッチボール」を連発したことについて
「75年に世界王者の管理がバーネットに移管された時点でチャンピオンの
存在意義がガラッと変わった。
自分の管轄であるアトランタ、エディ・グラハムが牛耳っていたフロリダ、
それと馬場の全日本、この3か所がNWAの中で金を生むテリトリー
ベスト3だったので、手っ取り早いボーナスとしてキャッチボールを
実行させたに過ぎない。あれはバーネットにとってもレイスにとっても
ハッピーだった。ももちろんグラハムも馬場もハッピーだったし、
ローデスにもリッチにも箔が付いた。
ただし他のNWAメンバーは白けた思いでキャッチボールを眺めていた。
もはやNWA王座の権威、信頼度が大きくチップ(減少・削除)されたことは
事実だった。すでにNWAがカルテル組織としての機能を喪失していた
ことの証明だった。」 Gスピより
「トミー・リッチのワンウィーク・チャンピオンは単純にアトランタのビジネスを
アップさせるための便法だった。事実、立地が王者になった後のアトランタ
(オムニ)は翌年春頃まで最後のブームと呼べる超満員の連続記録を
打ち立てている。」
「王座獲得の時点でリッチは24歳、キャリア5年。ジョージア地区を
中心とする南部一帯ではヤング層の圧倒的な人気を得ていたものの、
実力的には中堅の域を出ておらず、NWA内部で大いに不満が出た。
しかも会長のクロケットJrは全日本に来日中で王座交代の件をまったく
知らされておらず、この後のバーネットとの関係に大いにしこりを残した」
そうなんだな、ローデス、リッチ、馬場って「稼げるテリトリーである
フロリダ・アトランタ・日本の三地区それぞれのエース」だったんだな
そもそも黄金期のNWA自体がS・マソニックが
最も強大なテリを納める大権力者だったかというと
必ずしもそういうことでも無くて
ようは手ゴマにテーズを持っていたことに始まる
NWA王者のブッキング権を持っていたことと
交通や情報・通信がまだ発達していなかった時代に
米の東西南北各テリとつながりやすい中部セントルイスにいたせいで
広大な全米の各地区間を仕切る調整役として
最適なポジションにいたことが大きかったりする
新間が猪木死去の情報を耳にしたとのこと
ターザンTwitterより
新間のアングルwww
ターザン山本!@tarzany
昨日、リアルジャパンの後楽園ホール大会に行って来た。
マイクを取った新間さんはアントニオ猪木が亡くなったという情報を耳にしたと発言。
そのあと猪木さんのYouTubeが公開されベッドでリハビリをしている動画。
その再生回数は現在、136万回。
週刊新潮で猪木を誹謗しているのは格闘技バブルの頃に
極真を持ち上げていた小島一志というライター
新潮社から梶原一騎の本を出しているので週刊新潮はそのPR記事
その中で猪木が梶原たちに監禁された際に震えながら命乞いした、
というシーンをまるで見てきたように書きながら、まともな証言も
証拠もないのが一読歴然、しかもプロレスに無知なための凡ミス・
事実誤認だらけではやくも各方面からツッコミが入っている模様
「昨日、警視庁の方から『アントニオ猪木さんが亡くなったのでは』との電話がありました。私が確認いたしましたところ、噂が立っているが元気でいるとのことでした。数々の名勝負を繰り広げたアントニオ猪木は絶対に死ぬことはないと確信しております」
>>179
同じ月一の定期戦を比較すると
アトランタはニューヨークの一割の人口しかいないのに
オムニセンターはMSGの半分近い客を集めていたからな
もっとすごいのはNYの5%の人口しかいないのにMSGの半分強の客を集めてた
セントルイスのキールオーデトリアムだけど
ただしアトランタ以外にめぼしい都市のないジョージアと違いマクマホンは他にも
ボストンやフィラデルフィア、ボルチモア等でもビッグマッチができたからこの差は
大きかった
マソニックに至ってはキールと定期戦とチェッカードームの年二回イヴェント以外
はテレビマッチだけで地方興行なし >>185
セントルイスはまさにプロレス界のワシントン特別区だったんだよな 試合中にレスラーが脚を押さえて、小鉄の「カラ脚を踏んだかもしれませんね!」は、大体怪しい。
>>189
五対五の大将戦で、猪木の卍にやられた長州見に行った小鉄が
「血の泡吹いてますね」と報告してた。
当時は、どういう効き方で血の泡吹いたかわからないが、
小鉄が言うから納得してたな。 ワンウィーク・チャンピオンという悪しきシステムを作ったのは馬場
剛竜馬はツーデイズチャンピオンという訳か。一週間ぐらい持たせたれよと
剛竜馬はなぜタイツ・シューズを白から黒に変えたのか
>>195
ジュニアの高田に合わせてジュニアの小林にする律儀さが良い >>179
テリーはリッチを「なぜ?あんな下品な奴がNWAチャンプなんだ!」と大酷評していた。
ブリスコは激務で神経を使うNWAチャンプ再々登板の打診を断り副業の自動車修理工場も
好調なので「黄金テリトリーのみの出場」に絞った活動をしたらしい。
新日参戦時もかなりのギャラが出たのかな?テレ朝の松岡Pは猪木の印象的な試合に
ブリスコ戦を上げて「猪木ってレスリングできるんだ!」とコメントしていた。 トミー・リッチを酷評したのはテリーじゃなくてドリーの方じゃなかったっけ?
短期王者を何人も作ったレイスが最後にニュージーランドで三日天下
>>191
’60年代、アメリカの4大世界王座で言えば
イゴール・ボディックがAWA王座を1週間だけ
保持していた(65年5月15日〜22日)
これも、ボディックの地元、オマハでのキャッチボール。
62年7月25日、力道山からWWA選手権を取り戻したF・ブラッシーは
わずか2日後、デストロイヤーに奪われた。 WWF(旧WWWF)も数日とは言わないが、ベビーの長期政権の交代のクッションに
コロフ、スタージャック、アイアンシークら主にヒールをワンポイントリリーフで起用していたな。
その後、無冠になっても人気者のサンマルチノ、モラレス、バックランドらと遺恨マッチ、
興行の目玉として継続していった。
ローデスのNWAタイトル、猪木のWWFタイトルもハク付けの短期王者だね
猪木にとってWWFタイトルはどうでも良かったようで
ほとんど語る事がない
>>203
> 猪木にとってWWFタイトルはどうでも良かったようで
> ほとんど語る事がない
それ以前にマスコミに聞かれることも全くないような気がする。 WWF歴代王者としてもアメリカのメディアでは猪木の名前は公式にはアナウンスされていない。
猪木は向こうではWWF認定マーシャルアーツ王者という肩書で通っていたな。
79年は新間もWWF会長のポストだったからビンス父との何らかの確約があったのかもしれない。
徳島で戴冠、一週間後の蔵前では不透明決着で預かり、しかしそのまま年内のシリーズは終了。
王座の決定戦は年末MSG定期戦でバックランドとなぜかボビーダンカンという不可解な顛末(日本のファンにとっては)。
WWE自体が猪木の戴冠を認定してないんだから。殿堂入りの際も触れられてないから
なかった事で確定済
>>206
アリと戦った猪木はタイトルの箔にならないのかな 中邑真輔がWWEでUSとICの王座を獲ったがWWE王者にはなってない
だからいまだに猪木が唯一の日本人王者なんだな、WWEは認めてないけど
>>205
奪取も返上もシンの乱入が絡んでるからな
とても名誉とは言えまい >>205
本国ではダンカン戦はバックランドの防衛戦。
決定戦としたのは日本向けの方便だっ。 >>210
WWF会長の新間がベルトを持って上がって映像的に決定戦ぽく見せてたんだよな
翌年にはダンカンが猪木のNWFに挑戦するなど一応の配慮を見せている 猪木対ボビーダンカンで思い出すのは後楽園で猪木がダンカンを血祭りに上げた試合
あの試合の猪木はキラーだった…
このシリーズで猪木対エンフォーサーのシングルは組まれなかったな
猪木のWWF戴冠が公式に認められたって以前にあったと思ったけど、結局は認められてないのか
猪木がWWF奪取したのが徳島で大会場じゃなかったから嫌な予感したけど案の定蔵前で不可解判定→返上はそれまで批判してた馬場のNWA奪取→即陥落と同じで失望させた
馬場のNWA王者は認められてるから全然同じじゃないですから。
>>208
一回オフィシャルになった時期あったよね? 何のタイトル挑戦の予定もないシンを、唐突に年末シリーズに呼んだのは、
バックランドとのリターンマッチで乱入させるためだったとしか考えられないよな。
ボビー・ダンカンって83タッグリーグの時の覇気のなさしか見てないんだけど、
実際にはエース外人として来日して猪木と戦ってもおかしくない人材だよな。
やっぱ維新軍の過剰優遇は目玉商品となるべき外人勢を潰してしまった。
84年のデビッド・シュルツだって本当は最終戦で猪木と一騎打ちなのに、
長州に椅子を奪われたばかりか藤波にまでクイック負け。
かつてbQの坂口が負けて外人の強さを引き出したところで猪木登場だったように、
長州を沈めたシュルツと猪木の一騎打ちという構図のほうが絶対良かったわ。
1960年代までは、NWA王座は、王者が負けても、安易に移動は認めなかった。
55年レオ・ノメリーニが、57年にエドワード・カーペンティアが
テーズを破っても。それだけ権威があったとも言える。
また62年はバディ・ロジャーズが、ボボ・ブラジルや、キラーコワルスキーに
負けて、王座移動が告げられ、ブラジル、コワルスキーは王者として防衛戦を
行ったが、後に「なかったこと」にされた。ブラジルは、後に
「あれはUS王者としての防衛だ」にされた。
ブリスコが74年に日本で1週間、王座を貸し出した、ってことは、
それだけNWA王座の権威が落ちたんだよな。
よくNWA王者で風格があったのは、はブリスコまで、といわれるが、
実際はドリーまで。あのチャンピオンベルトまでだよ。
73年レイスになり、日本のNWA加盟団体が全日になり、馬場がテリトリー内
キャッチボールをしたり、地方の小さな公民館でNWA戦を行うようになって、
権威が地に堕ちた。
アメリカでも田舎町でNWA戦はおこなわれている。
アマリロ修行中の鶴田がドリーに挑戦できたり敷居の高い王座ではないだろ。
>>220
バカはキサマだ。
俺は事実を書いただけ。
この程度で熱くなる
馬場オタは消えろ!
ここは新日のスレだ。 >>207
「アリと戦った」のは米における猪木の知名度アップにある程度役立ったけど
基本的にボクサー×レスラーのミクストマッチ(当然フィックスマッチ前提)が昔からある米においては
アリにとっても猪木にとってもシリアスな経歴とは思われてないからたいした箔にはならないし
その箔も格闘家として云々ではなく「あのアリと同じリングに立った有名人」みたいなかんじだから >長州を沈めたシュルツと猪木の一騎打ちという構図のほうが絶対良かったわ。
精々蔵前に実数6千人も入ればまだマシという構図だなw
やらなくてよかったわ
猪木WWF戴冠は結局なかったことになってて、翌日取り消しみたいになってた藤波のNWAの方は今認められてるんだから分からんもんで
でも両者WWE殿堂入り出来てるんだから良かったよな
しかし、猪木逝去みたいなガセ話本当に心配しなきゃいけない状況ってのも厳しいな
なんだかんだ結局元気に出てきてくれりゃいいんだが
猪木「馬場よ、俺と戦え」
馬場「戦いたいがNWAが認めない」
誰だって信頼関係ない相手となんか試合したくないよな、プロレスはブックなんだから。
猪木もあの頃の前田とは、試合なんか絶対にしたくないと思うのは当然の話。
>>225
アンダーカードしだいで蔵前なら満員にはなったと思うよ
84年は猪木-アレンのメインで埋まったんだから…
キッドスミスコブラの巴戦
長州-ホーガンのタッグ対決
藤波vsラッシャー
時の人になった藤原vs浜口
シュルツならアレンより猪木の相手としたら未知数だし… >>229
この蔵前は巴戦の印象しかないな。
猪木対アレンはともかく、藤波が
何故ラッシャーとやる必要があるのか
全く意味不明だった。 長州を勘違いさせたのがのちの新日の暗黒時代につながるんだけどね。
>>230
>藤波が何故ラッシャーとやる必要があるのか
この月の上旬の札幌の長州戦を壊された直後
「こんな会社やめてやる発言」がなぜかファンの反感を買い
さらにその試合を壊した黒幕の猪木の逆鱗に触れ
また、時期的にラッシャーとタッグ構想を推し進める途上という事もあり
藤波と木村のべビーとヒールを逆転させるための、前置きみたいな試合だったとか?
でもUWFも同時進行中だろうし、あんまり札幌との流れは関係ないかなあ…
そもそも藤波の「こんな会社…」もガチの発言かわからんし…適当な妄想すまん。 あの日のメインはどうせ1、2週間前には猪木の対戦相手変更になるだろうと思って見てたら
まさかのアレンとそのままだったのが逆に驚きだった
ブッチャーとの仲間割れからのシングルとかやって、一応格上げする気あったんかな
ラッシャーはベビーターンみたいな流れで当時言われてたけど、UWFなかったらどういう扱いだったかねえ
後の対U上田馬之助みたいな形で正規軍助っ人みたいな感じか
>>225
実際翌年横浜文体でやったときは散々な入りだったからな、
新日人気が大暴落したのもあるけど。 >>229
アレンの蔵前メイン登場は長年の功労賞という感じもあったな
後の武道館でのエースの三冠挑戦みたいに 84年のIWGPの横浜文化体育館はみっちり入ってたけど、暮れのMSGタッグの横浜文化体育館はガラガラだった
>>221
テリトリー次第みたいだったらしいがアマリロは新人を上で使うなどかなり柔軟な土地柄だったとか
王座をドリーからレイスに移したのはシニアのフライングだったらしいが >>233
ラッシャーのベビーターンは後の全日での
馬場と抗争→タッグ結成
と同じ流れ、すなわちなんらかのマイクアピールで猪木とタッグ結成となったんではと妄想。
さすがに「アニキ〜」はないだろうが「コンバンワ」を絡めてのマイクとか。 >>205
このタイトルも新日が粗製濫造したベルトのひとつ。
シニアの来日時に新間のもてなしに感謝して無給ながらWWF会長にしてもらった。
>>209
この試合の動画を見た海外のファンがレフェリーの高速カウントへの批判の嵐に
なっていた。 >>234
新日本プロレスは、1984年10月〜1985年3月辺りの会場ガラガラが堪らなく好き >>221
あくまで日本での話で大金払って呼んだ世界王者を大会場で選手権やらず地方でやって王座奪取は何か裏があると思えた 馬場猪木から気に入られているラッシャーは人格者なんだな。
>>242
そもそもレイスの王者時代なんて、全日はシリーズの中で大会場なんてなかっただろ?
ブリスコ王者時代とは全然違うし、地方会場しかない日程で呼んでるだけなんだから。 >>244
都内の大会場ではな
馬場に奪われた愛知県体だけでなく大阪府立や札幌中島でもやっている NWAのタイトルマッチはチャンピオンに観客数のナンバーセントを
ギャラで払わなければいけなかったから、小さい会場が多かったのてわは?
>>237
シニアはドリーからブリスコへの流れに絶対に納得しなかったらしいね
当時全米屈指の名勝負とされていたらしいのに何がそんなに気に入らんかったんだろうか? >>247
むしろそれだけにブリスコに負けて王者から降りる形ではドリーのイメージダウンになると考えたらしい >>246
日本での興行は客入りに関係なくあらかじめ決まった週給+タイトルマッチなど別建ての特別ギャラ
マソニック時代のNWA本部へはそこからマージン払う形だった
バーネットになってからはこの本部のマージンは無し
なので日本の場合会場の小ささは単に興行のスケジュールとNWA王者のスケジュールの問題 >>249
あとテレビの全国中継があったし外人レスラーのギャラは日本テレビの負担だというのもあった
あと地方プロモーターに高く売れるというのもあったろうし IWGP提唱で81年春で一旦、手持ちの王座は封印となったが、
結局翌年にはWWFインターヘビー、85年にタッグを新設、ジュニアヘビーはIWGPとは全く別路線で
継続してタイトルマッチは行われていた。その後IWGPも年度制から普通にタイトル化。
まあ興行の柱としてタイトル戦は重要との認識だろうかw それならNWFや北米タッグとか残してほしかったなア。
NWFは復活しなかったっけ?一時期高山が防衛戦やっていたような気が?
まあ復活したけど、時代がねえ。猪木、ブッチャー、ホーガン・・。
この辺で争奪戦とかあったらなあとかそんな妄想を抱いたのさ。
ブッチャーも元NWF王者なんだよな。
まあ王座返上という行為で、IWGPの箔付けをしたんだから仕方ないだろう。
あの時代にまた復活なんてしていたら、それこそファンにソッポ向かれていたよ。
>>251
IWGP優勝戦と同じ日にNWAジュニアの決定戦をやってたのも面白かったな
まさにヘビーではNWA戦が出来ないからのIWGPって感じで >>248
日本とアメリカの温度差とかはあるかも知れないけど
そこまでドリーのイメージダウンになったのかなぁ?単純に大きさ?
シニア死後にも馬場とテリーに奪取されブリスコは苦汁の飲まされた訳だし
NWA上層部からの評判どうだったのだろうか?
関係ないかも知れんけどブリスコの流血試合は観た事ないね... 連投ゴメンまた新日スレにマジレスしてしまった申し訳ないです
坂口の北米ヘビーはNWF版はともかくWWF版の挑戦者がラリー・シャープとか
ジ・エンフォーサーといった挑戦者のB級感とか、最後の防衛戦のムラコ戦も両リン
なのが坂口らしい微妙な感じが堪らなくいい
85秋はテレビマッチで一番面白いのが若手だったな
開始早々小杉対山田だった時は驚いた。
>>240
新間のWWF会長について猪木も何でお前なんかがと言ったらしいし
レスラーの中には背広組の癖に出過ぎだと嫌ってる連中も多かったらしいし
但し本人に言わせれば自分は縁の下の力持ちでなく猪木を売る事で自分も売ってるんだという事らしい >>256
ブリスコが馬場に獲られた時は転落決定は日本に来てからじゃないの?
(馬場の意を受けたテリーから電話密談でオファー?)
なんか馬場本でブリスコが日本から本部に連絡して「一度は落とすけど帰国する時は持って帰る」
そんな描写があった記憶があるが…ちなみにその帰国時には特別ボーナスのドル札を、体にグルグル巻きにして帰ったとかw
NWA上層部の評価はわからんけど、少なくとも日本遠征前に
「お前はババに負けろ、ベルトを渡してこい」という指示は出さないレベルの評価ぐらいはあったとは思うが…
まあ、その文献が何だったか忘れたし、信憑性も含めて自信はないけど。 >>261
そういう非常手段を使わなければならないくらいあの年の猪木の快進撃は馬場にとって脅威だったという事なんだろうな ブリスコ兄弟が2人がかりでラッドに勝てなかったんだろ、ガチで。
同じくらいの体格の馬場さんにブリスコが勝てる訳ないわ。
>>263
ブリスコ兄弟は日本では一度した組んでないんたよな
一度は最強タッグに出て欲しかった 東スポ「ザ・プロレス」の海外熱戦譜で、全日本海外遠征の結果が載っており、
ブリスコ兄弟と馬場・鶴田組が勝ったり負けたりとほぼ互角の戦績だった記憶。
>>265
テレビではトーナメントで負けた試合をやってた記憶が >>267
文句あるなら自分で新日本ネタを引っ張って流れを変えてくれ ブリスコといえば・・・
杉本哲太があんな大俳優になるなんて想像できなかったな
>>269
新日本でのブリスコとなればやはり岡山でハンセンと組んで黄金コンビとやった試合が気になる >>263
元アメフトスターとデクの棒を一緒にしたらダメ 元柔道日本一でもデクのデックサカがいるんだが、、、、
デクの棒って馬場さんの事?過去のスポーツ歴を言うなら
馬場さんは元読売巨人軍のプロ野球選手ですよ
ブリスコのアマレス歴は勿論、ラッドのアメフトの方が
プロレスの下地には適しているけどさ
>>266
80年ごろの馬場鶴田長期遠征でシーク主催のデトロイトのタッグトーナメントに参加してたな。
馬場はこの後AWAに入りスーパーデスト2(サージャントスローター)とPWF戦なんかもやってた。 >>274
WWFベルトにそっくりなのを巻いてたな 猪木VSブリスコだとやはり賞金マッチだね。勝利後札束を客席に投げ捨てる猪木は会心の笑顔だった。オカダのオモチャのお金とはエライ違い!
>>276
試合開始直後のテイクダウンが一番インパクトがあった ブリスコ、MSGシリーズ緒戦(横浜文体)で藤波を両者もつれ合う中、首固めで降した。
鶴田は勝ったのに藤波は弱いなと思ったよw
この日はハンセンが上田をラリアートで撃沈、シリーズ台風の目の序曲となった。
というか、ハンセンの80年代に向けての記念すべきブレイク第一歩だろうな。
猪木はラッドの18文キックでフォールされたな。
ラッドの靴のサイズ size 18D shoes らしいけど馬場より大きい足だったのか。
ハンセンがブレイクした79年以降でのタッグで、ハンセンより後にコールされたのって、ブリスコとアンドレとブロディだけかな?
馬場はハンセンを立てて自分を先にコールさせていた。
>>280
1982年4月21日グランドチャンピオンカーニバル大阪大会でタッグを組んだハーリーレイス
レイスは自分が先にコールされて苦笑いしていた >>247
マイクジョージはこの黄金カードを見てプロレス入りを決意したらしい。ドリーの
王者時代の4年数ヶ月にどのくらい行われて戦績が気になる。ジェリーはアニメ・タイガー
マスクに出てきた。アメリカのWWEハウスショーの時に出待ちしていた当時、
ロードマネジャーをしていたジェリーが出てきてサインをしていた。人が良さそうだった。
>>276
テレ朝・松岡Pは数ある猪木の試合から「猪木ってレスリングできるんだ!」
とこの試合が印象深い好試合と上げていた。舟橋アナは最初のドリー戦を上げていて
初代・闘魂の語り部として小林、大木、シン戦の実況をするもスピード。パワー、
体の艶と張り等と猪木の全盛期をこの頃と言明していた。 >>208
あれも、WW「F」が日本ツアーをした頃はWWF公式ページの
歴代王者に猪木の名前もあったりで、ほぼ公認していた時期も
あったんだよ
それがWWEが巨大になり殿堂を世界規模に巨大化させた頃に
正式に「なかったこと」になり、見返りみたいに猪木を殿堂入り
させて機嫌を取ってたような流れに見えた
何しろWWFは一時期ホーガン以前の王座を全部なかったことに
していたり、あちらの「伝統」って「その時点のビジネスとしてPR
するためのもの」っていう割り切り方が凄いからな
だから昔から日本のマニアやマスコミが向こうのベルトの歴史を
探ろうとしてもろくに記録が残ってないわ行き当たりばったりの
王座移動や「あの移動はなかったこと」が横行しているわで
「第○代王者」なんて考え方がまったくないし、「○回防衛」なんて
調べようもない、と巻末でボヤく羽目になってた
今でもWWEの防衛記録は「王座在位○日」という言い方だし バックランドに勝って一時的にWWF王座を獲得したアイアン・シーク。
その全盛期に近い83〜85あたりに日本に来てほしかったよ。
>>261
ブリスコから王座をレンタルするために馬場がそれはそれは
凄まじい土下座外交をしてバーネットに媚びへつらっていた
経緯はGスピあたりでも詳述されてるね
そのバーネットがNWA王座を管理するようになって>>178-179の
「ワン・ウィーク・チャンピオン」システムが定着した
レイスから「三度目の王座奪取」をやった時には事前にNWA本部の
了承すらとっておらず、NWA総会で新間がビデオを持ち込んで
「総会の認可も取っていないのに勝手に王座を移動させた!」と
糾弾したけれど、「試合中にレイスが頭を打ってうっかり3カウント
入ってしまったアクシデント」と言い張って、総会も「まあいいじゃん」
で追認してしまったという話を聞くと、もうこの頃にはNWAっていう
システムそのものが瓦解していたんだなあと思わざるを得ない
Gスピの記事だとNWAの崩壊は1981年に始まっていたというけど、
それってまさにIWGP構想スタート、タイガーデビュー、引き抜き合戦の
頃なんだな
日本国内で一番「NWA神話」が振りかざされていた時には、本場では
もう崩壊が始まっていたという、いろんな分野でよくあった話だった 74年第1回ワールドリーグにコシローバジリとボロモンゴル(モンゴルズとして)が参加してるが
8年後の82年第5回MSGシリーズでアイアンシークとマスクドスーパースターとして
奇しくもまた同時参戦となった。
>>280
天龍がいるけど外国人ではそうだね。ブロディとはほとんどハンセンが後だった印象。 >>288
え、スーパースターがモンゴルずの片割れやったんか 2代目だな。最初はジートモンゴルとべポモンゴルという2人だったが
べポがニコリボルコフに改名してシングルプレイヤーになったので替わってボロが加入した。
これも奇しくもというか、77年第4回ワールドではボルコフとマスクドという新旧モンゴルズが顔を合わせている。
ビル・イーディーはペイントレスラーが流行すると
NY版ウォリアーズのアックス・デモリッションになっているし
時代の流れに合わせてギミックを変える
デモリッションになったのは知ってた、これがスーパースターかと見ていたな
猪木に覆面剥がされて素顔のビリークラッシャーで来日したが、すぐスーパースターに戻ったよな。
>>286
82年は扱いが悪くて本領発揮にはいたらなかった。 猪木にmsgシリーズで1分で負けたシークが王者になってビックリしたよ!
アイアン・シークってアマレスでオリンピック出てたし、
Uインターにも呼ばれたことはレスリングは出来る人なんだろうと思う。
>>280
80年末の追撃戦でバックランド・ハンセン組でコールが先だったよ。福井大会。 >>296
このシリーズでアイアンシークがまともに勝ったのはタッグで剛にキャメルクラッチで勝った1試合だけだった気がする アイアンシークもそうだがボビー・ダンカンやサージェントスローターといった
アメリカ本国でシンやハンセンより稼いでる格上レスラーを新日マットで酷い扱いをする
外人至上主義の国際や全日本では考えられない非常識な事するよね猪木
日本で使えないと思ったなら最初から呼ぶなよって
今日はCS無料の日
ワールドプロレスリングクラシックス
テレ朝ch2
3/7(日) 深夜3:00-深夜4:00
▽藤波辰巳vsダイナマイト・キッド(テレビ朝日放送日:1980年2月15日)
▽藤波辰巳vsマイク・グラハム(テレビ朝日放送日:1980年4月4日)
>>298
バックランド・ハンセン組て実現してたん?? >>302
いくらアメリカでスターでも日本で受けなければ仕方がない。
全日だって「テネシーの帝王、ジェリーローラー」や
スティングの初来日時の扱いは酷かったぞ! 外国の強豪呼んでおきながら負けブック飲ませて「やっぱアイツ使えねー」はないわw
ヘラクレスローンホークみたいに塩だったらまだしも、
勝ちブックやっとけば人気出そうな選手をはじめから負けさせてりゃ人気出るはずがない
そこいらの選手だっていきなり藤波や長州を撃破したら「すげーヤツ来た!」ってなるんやで。
>>304
55年の追撃戦は5大会くらいあって、R木村vsS小林などもあったから、バックランド・ハンセン組の可能性はある。 >>298は福井大会って書いてるから怪しいのでは? 年末のタッグリーグかいな、調べたけどハンセンとバックランド組はないな。
福井大会自体ないだろ。
そもそも追撃戦って、猪木&ローデスvsハンセン&シンとかやっていたんじゃ?
自分で断言しておいて、可能性はあるってなんだよw
298 名前:お前名無しだろ (ワッチョイ 8b10-xAWZ) :2021/03/07(日) 13:40:59.53 ID:ABgOP/h/0
>>280
80年末の追撃戦でバックランド・ハンセン組でコールが先だったよ。福井大会。
308 名前:お前名無しだろ (ワッチョイ 8b10-xAWZ) :2021/03/07(日) 18:46:00.00 ID:ABgOP/h/0
>>304
55年の追撃戦は5大会くらいあって、R木村vsS小林などもあったから、バックランド・ハンセン組の可能性はある。 >>305
> スティングの初来日時の扱いは酷かったぞ!
アメリカでは格下のスパイビーに負けさせられただけで
酷いというほどの扱いは受けてない。 今日のが最後のダーになるかもしれんが
やっぱり猪木は最後まですごいな
>>313
>アメリカでは格下のスパイビーに負けさせられただけで
>酷いというほどの扱いは受けてない
酷いだろ!
武道館という大会場で、恥をかかせて!
クイックと言いながらも、フォール負けだ。
まだ、リングアウトならともかく!
その試合以外は、田上、高木といった勝って当たり前の
選手と対戦しただけ、なんのための特別参加か分からん! >>316
本格参戦させる前の顔見世だから
大物の片鱗を見せるだけで良かったんだよ。
負けたけど弱いから負けたようには見えなかったし。
本格的にシリーズ参戦でさせたらパイビーにはリベンジさせただろうな。
結局、その後の来日は流れちゃったからあれで良かった。 >>316
スティングは、あの当時で未来日の大物だったから、スパイビー勝利は少し衝撃走ってたもんな。
結局レギュラー参戦のスパイビーを格上げするために、大物スティング寝かすんだから、馬場も非情だよ。 あの段階のスバイビーはまだ大化けする可能性があったというのがなんとも
コロンがプエルトリコでブロディに勝ちブック与えようとするほどに…
まさかその後コンディション崩してWCWお払い箱になって
ハンセンゴディウィリアムスの三強に限りなく遠い第四の男に成り下がるとは
>>318
> 結局レギュラー参戦のスパイビーを格上げするために、大物スティング寝かすんだから、馬場も非情だよ。
いやその後のことを考えたら賢明な判断だろ。
その後のシリーズ参戦が決まってたら話は別だが。 全日にスティング来てたっけ?
新日でスベりまくってた記憶しか無い
まあスティングはNWA、WCW世界王者になった後でさえ越中、馳クラスにしか勝たせてもらえなかったからな
ライバルのはずの武藤(ムタ)にはいつも負けてたし
95年には佐々木、96年には越中にフォール負けしたし
第一回MSGシリーズに参加したストロンポーなんか
WWWFエリアではアンドレらに次ぐ大関の格でMSGで
メインを張る大物だったのに、リーグ戦全敗だものなあ
現地では人気者のトニー・ガレアも第一回は予選落ち、
第二回はリーグ戦全敗
藤波にジュニアベルトを渡す役だったエストラーダは
ガレアとの決定戦に勝ったっていう設定だったけれど、
タッグ王者にもなっていた関脇格のガレアに対して
TVマッチの噛ませ犬だったエストラーダが勝つなんて
日本で言えばスコット・マギーがヘビー級転向後の
藤波に勝ってベルト巻くみたいな無茶な話なんだけど
辺境日本ではそれも通じてしまうという
まあ新日も中東遠征ではアレンが坂口をシングル戦で
フォールしたりしているからなあ
そういえばフィラデルフィアの「格闘技大戦争」では、
地元の英雄でプロ転向したばかりのアレンが
田吾作スタイルのストロング小林に負けていたけど
あれはWWFエリアでは小林は名の通ったヒールの
トップ格だったから、現地ではある意味猪木よりも
大切な扱いをされていたんだな
小林はAWA、WWWF、メキシコとどこへ行っても
ヒールとしてトップを張っていたのに、日本では
その悪役としての巧さを活用できなかったと言うか
猪木「俺が誰だかわかるかい」
ジョージ「ストロング小林!」
WWFで一流のスタッドやパテラが長州藤波にも負けるんではマクマホンだって怒るだろ
WCWでのスティングvsベイダーなんてみるとスティングは普通にカリスマ溢れる
良いレスラーだな。日本では今ひとつだったけど。
>>324
基本的にその頃から80年代にかけては猪木、藤波、佐山と対峙する外人以外は員数なんだよな。
坂口や小林もそういう意味で、特に藤波が台頭し始めた70年代後半は好敵手的な外人はいなかった。 保永だったっけか、
長州達が離脱して新日がもうやばいっていう時に、
坂口に「お前らもういいからいつでも辞めていいぞ」
と言われてキレたのは
要するに新日本は猪木から木村健吾あたりまでの
役員待遇の人間だけの会社で、その他の若手たちは
非正規・派遣のようなアルバイトに毛の生えたような
存在としか思ってなかったんだろうな、上の人間は
そりゃ真面目にプッシュすらしないよなあ
最近、80年代頃のアメプロの歴史を知りたかったから、勉強になるわ。で、質問なんだけど、
残念ながら、若くして亡くなったデビッド・フォン・エリックは、時期NWA王者として非常に評価が高かったみたいだけど、何故、評価が高かったのかその理由を、どなたか教えて欲しい。NWA王者が短命に終わったケリー・フォン・エリックと何が違ったの?
というかケリーはともかくド塩のケビンを立てなければならなかった新日も情けない
11・3で猪木は武藤ではなくケビンを血だるまにすればよかったのに
>何故、評価が高かったのかその理由
外見がかっこええからじゃん
>何故、評価が高かったのかその理由
親父が大物だから
>>308
バックランドはリーグ戦が終わったら帰ったんじゃないの?
代わって追撃戦にローデスが来たんだろうな。 息子たちも みな素晴らしかったけど
昭和40年代の 親父ほどの怖さはないな
手を大きく開いただけで
アレを喰らったらヤバい こめかみが流血
みたいな
>>339
>息子たちも みな素晴らしかったけど
エリックのことだよね?
素晴らしいのは、デビッドと、せいぜいケリーくらいじゃないか?
ケビンは塩だし、
下の方のマイクとかクリスは、どうにもならなかった。 >>312
何だよ…メチャクチャやな、ビックリして損したわw >>331
フレアーの評価はそんなに高くなかった
>「 私はNWA王者だった頃、よく“自分にとって変われる存在は誰か”という自問自答をしていた。
>多くの人は故デビット・フォン・エリックの名前を挙げ、彼が生きていれば私の王座はもっと短かっただろうと言う。
>しかし、それは間違いだ。もし彼が生きていても、私は絶対に彼に負けて王座を失うことがなかったと、
>断言できる。
>逆に”どうして負けずに済んだのだろう”と不思議に思うのがテッド・デビアスだ。
>彼はいろいろな面で私以上に才能があり、実力があった」
> (リック・フレアー) >>331
単純にフリッツとダラスがNWAの中で力があったから
もっともこの時に「デビット次期王者最有力」も
デビットの技量やベビーしかやれないことやダラス外での知名度考えたら
結局各地のテリを王者として渡り歩き
各地のエースの挑戦を受けて回るフレアーやレイスのような役割ではなく
あくまでローデスやリッチのような意味での「次期王者」でしかなかったろうね
ちなみに自分はデビットはケビンとたいして変わらない
エリックランド限定王子様の単なる塩だと思う >>331
G‐SPIRITSのNWA特集の号によると、レイスがNWA王者の時にデビッドが挑戦した際の
キールオーデトリアムの観客動員数が歴代でも1,2を争う程の入りだったらしい。
デビッドはNWA主要テリトリーでの集客力がなかなかのもので、なんでも、父親であるフリッツと
遜色なくビジネスの対話や交渉が出来るのは、兄弟の中でも抜きんでていたとか。 ハンセン&ローデスは実現しているが、ローデスの方がコールは先だったんだよね、たしか。
カタカナの字面って視覚的にもずっとイメージとして残るものがある。
自分だとデイヴィッドシュルツだと一瞬誰?となるがダビッドショルツと書いてると一目瞭然なのだw
>>330
いやいや逆だよ!坂口からは「新日本が潰れるまではいてくれよ。潰れてからなら、どこに行こうとかまわないからさ。」って言われて離脱決意したとインタビューで答えてる >>344
プロレスラーの評価って言うのはあんまり当てにならないよ!
別のインタビューでは、フレアーはデビッドの事をかなり評価してたのもあったし。
特にテーズなんかは、一方では大絶賛して、片方ではボロクソにこき下ろすなんてしてるからね。 バックランドは83年、髪をスポーツ刈りにしたら体もしぼんじゃってオーラが無くなったよね
急に何があったの?
>>356
そうだっけ?相変わらずお尻の出っ張りは健在だったから気にしてなかったw
体格の変化といえば全日時代になるけど
キッドがWWFから日本マット復帰した89年1月シリーズ
マレンコ兄弟とのベストバウトや、ヘビーの天龍ともガンガンやりあってたのに
5月に再来日した時、別人みたいに体が小さくなってたのは驚いた
同シリーズ参戦してたカンナム・エクスプレスのクロファットより細かった
最終戦でハンセン・ゴデイとやってたけど、痛々しかった…
ステロイド云々の話は聞いてはいたけど、目の当たりにしたのは初めてだったから… >>349
>ディヴィッドやろ
それが正しいとは言えない。
V音をヴ行にしなくても良い。しても良いのだが。
普通にデビッドでも正解。
なら、キミはテレビをテレヴィと書くんだな? >>346
> デビットの技量やベビーしかやれない
デビッドはヒールだってできたぞ これWWWFのプレジデントのところが新間寿になってるのあるけど、他の人の時も
同様に書かれているから新間寿が特別に出たがりで目立つ様にした訳ではないんだな。
>>360
78年頃かな。WWWF(ワールド・ワイド・レスリング・フェデレーション)時代だと
新間はまだ会長職に就いていなんじゃない? この年はボブ、藤波と新顔が王者になり、
タッグはユーコンランバージャックス(スコットアーウィン&バッファローザリノフ)という布陣。
翌年からワイドが取れてWWFになった。新間が会長になったのはそれ以降だと思う。
でも正直このポストはよく分らんなw 名誉職みたいなもんかも。 >>361
> でも正直このポストはよく分らんなw 名誉職みたいなもんかも。
AWAも会長はいたが実質仕切ってたのはバーン・ガニアだったし
PWFも会長はロード・ブレアースだったが
本当は馬場が仕切ってたんだろうし、同じようなものだったんじゃないの。 新間の話だと元々WWFヘビーをバックランドから小林(ストロング)へ移動の太平洋を挟んだ抗争の話がビンス親父からあった
それを新間は猪木に相談
猪木は激昂(自分が巻いてないのに小林がっ!)
それで猪木のWWFヘビー級王座奪取へ繫がるけど、ビンスとしてはヒールとして猪木よりも小林を評価していた
新間は猪木のエゴで小林が最後にひと花咲かせられるチャンスを潰したと言っていた
バックランドvsダンカン戦、動画のコメント欄みてるとバックランドが王者として
紹介されてないのは何故?ってのがあるな。該当部分を自分は面倒でみてないんだけど
単なる王座防衛戦ではなかったみたいだな。
>>363
> それで猪木のWWFヘビー級王座奪取へ繫がるけど、ビンスとしてはヒールとして猪木よりも小林を評価していた
猪木はアメリカで受けるヒールはできないでしょ。
猪木は馬場と違ってベビーフェイスしかできない。
カブキが猪木を評価してない理由はそういうところにあると思う。 そういや猪木って古今、国内外通して変わりのないキャラというかファイトスタイルだな。
しいて言えば最初の武者修行時代がどんな感じだったのだろう。
マツダとタッグ王者になったりしたが、日系の悪党って感じじゃなかったと思うが。
>>360
“ウィリー・ギルゼンバーグ”って書いてあるじゃん、誤爆した? 猪木が引退カウントダウンとか言い出した時、プロレス雑誌で「キラー猪木」とか書いてた
てっきり海外武者修行時代ヒール演じてた時の事かと
>>368
いや、同じ様式でShinma Hisashi となってるのが別にあるのよ。
てっきり新間寿が目立ちたくてそうしてるのかと思ってたという話。 >>369
「キラー猪木」って日本国内で好き勝手やってた時のイメージ。 キラー猪木ってボック主催の欧州ツアーが最初じゃないの?
さすがに戦後間もないし猪木がヒールやってたことはあったんじゃないの?
徐々に変わりつつあった時代だったとは思うけど。
ヒロマツダみたいに悪党じゃない奴が出始めたのが猪木海外修行と被りそう。
>>372
その通り
ローランド・ボックが主催した興行に猪木が呼ばれてその時にポスターの宣伝文が
「モハメッド・アリと戦った男 キラー猪木」だったはず
>>363
ハンセンの自伝でも「小林はNY向きのレスラーだった」という記述があった
NYではああいうパワーファイター(実は小林は見せかけ倒しで非力だったらしいが)が
受けるらしい 日本でも悪役してるぜ
テネシーで猪木が田吾作スタイルで試合してる写真があるけど
あんまり様になっていない
若くて格好がいいから女子供に人気が高かったそうだから
ヒールでは使いにくいだろう
猪木はフロリダで海賊男としてヒールやった事はあるな。
331なんだけどたくさんのレス、サンクス
勉強になりました。
https://igapro24.com/2020/12/09/noah2020-42/#more-18598
↑の記事を見つけてから、何かエリック一家に対していろいろ感慨深くて、それで気になってさ。あの時、デビッドが亡くなっていなければ、呪われた一家と呼ばれるような悲劇もなかったかもしれないし、その後のアメリカンプロレスの歴史も変わったかもしれないと思ったりしてさ。デビッドの死とその後のマグナムTAの
早期リタイアがNWAの歴史の終焉を加速させたような気がしてる。あくまで個人の見解だけど。 >>379
リンクの記事にちょっと間違いがあるな。1979年1月にフリッツが最後の来日をして、
ケビンとデビッドはその年の5月に日本デビューしているんだよ。親子一緒ではなかった。
息子たちがプロレスデビューする前の子ども時代に、連れて来日したことはあったらしいが。 さぞ ダラスの女性ファンたちの人気を得たんだろうな
>>380
ご指摘ありがとう。
実は上記の記事って何を参考にというか、ネタ元はなんだろうと気にもなってたんだよね。
いろいろ辻褄が合うというか、腑に落ちるといか、ワルドーフォン・エリックの息子としてデビューさせたランスのあたりとかね。ただドラマティック過ぎるきらいもあるから、どこまで信用していいのかなとも思ってたんだ。好きな記事ではあるんだけど。後、余談だけど、フミ・サイトーのアメリカンプロレス講座という本も高いけど読み応えがあったな。WWEの視点から書かれてる80年代、90年代のアメリカンプロレスの歴史書なんだけど。長文失礼。 田吾作スタイルは 米国では「日本人は このスタイル」
とやらされちゃうんじゃないかな
マティ鈴木が「僕としては アレは最低のスタイルですね」
と言ってた
マサ斎藤とかの足跡をたどって驚いたのは、アメリカマットでの
最大の「悪役」は、日本人やドイツ人のキャラなんかじゃなく、
金髪碧眼、身体が大きく尊大な白人レスラーだったということ
プロレスは庶民の下級な娯楽だったから、会場に集まるのは
いわゆる下層階級の人間たちで、必然的に移民や有色人種が
上得意のお客様になるわけだから、天下のニューヨークですら
イタリア移民やプエルトリカンが観客の主役だった
当然のこととして、リング上のヒーローはそうした移民たちの
アイドル、イタリア系のロッカ・サンマルチノ、プエルトリカンの星
モラレス、黒人のアイドル、ベアキャット・ライトやアーニー・ラッド、
前に話題に出ていたフランス系レスラーたちになる
じゃあ敵は、といったら観客であるそうした移民たちをふだんから
小バカにし、理不尽な態度で悔しがらせているWASPを髣髴と
させる白人レスラーになるわけで、バディ・ロジャースがヒールの
頂点に君臨していたのも無理はないという
そんなわけで日本人だからと行ってヒールになれるかと言うと
そうとも限らないわけで、特に西海岸は身体の小さなメキシカンが
傲慢な巨漢白人を倒すのがメインストリームだったから、のちに
チャボ・ゲレロがNWA・AWA・WWF三大王者全員にタイトル戦で
勝つなんてことも起きていたわけで
マサ斎藤が初めて渡ったアメリカのテリトリーもロサンゼルス
だったのだけれど、有色人種の日本人はメキシカンの仲間扱い
されていたのでヒールをやらなくていい代わりにこれといった
個性も与えてもらえないのでくすぶっていたとか
(だからマサさんがブレイクしたのは、レスラー過剰になっていた
ロスからサンフランシスコに派遣されて、白人の多いシスコで
ヒールのトップだったキンジ渋谷に見いだされてからと御本人が
言っている)
ストロング小林はAWAでもWWWFでもトップヒールとして現地で
重宝され、最高位の王座にも何度も挑戦しているんだけど
たまに見られる動画でも、ヒールの小林は攻めは流れるよう、
日本では不器用でモタモタしているように見える態度もあちらでは
ふてぶてしいナチュラルヒール風味になるし、本当にこれを日本で
生かす事が出来なかったのは惜しいなあと思う
国際軍団が新日に上がる前、メキシコから帰国した頃にどうも
団体内ヒールにする計画もあったみたいなんだけど
ナガサキとポーゴはメイク落とすと地味な顔だから
グラサンで威厳保ってほしかった >>386
これは、前夜祭はわざと普通の風貌で登場しておいて、
開幕戦当日に突然メイクとザンバラ髪で登場してアッと驚かすのが狙いだったんでしょ。 >>380
新幹線での移動時の写真が残ってるね。子供達に見聞を広めさせるために日本遠征に
同行させたらしい。 谷津はこの頃はまだ期待出来そうな身体してる。
貧相な体付きで後に損したと思う、田吾作みたいなリングギアも良くなかった。
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